「もう帰らないと思ってるんだ」
「ううん、あくのよ」
枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。
「寄って行って」
「だって今頃」
「もう家の人は寝ちゃってますわ」
島村はさすがにしりごみした。
「それじゃ私が送って行きます」
「いいよもう」
「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの」
勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固い蒲団を並べて、主人夫婦と十七、八の娘を頭に五、六人の子供が薄茶けた明りの下に、思い思いの方に顔を向けて眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠っていた。
島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたぴししめて、足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫えた。
「ここで待ってて。二階の明りをつけますから」
「いいよ」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。
百姓家らしい古畳の二階に四間で、
「私一人だから広いことは広いのよ」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家のようであった。
駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座蒲団を島村にすすめて、
「まあ、真赤」と、鏡を覗いた。
「こんなに酔ってたのかしら?」
そして箪笥の上の方を捜しながら、
「これ、日記」
「ずいぶんあるんだね」
その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。
「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。そのかわりたいていのものは揃ってるわ」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。
「あら、マッチがないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ」
「いいよ。裁縫してたの?」
「ええ。紅葉のお客さんで、ちっとも捗らないの」と、駒子は振り向いて、箪笥の前の縫物を片寄せた。
駒子の東京暮しの名残であろう、柾目のみごとな箪笥や朱塗りの贅沢な裁縫箱は、師匠の家の古い紙箱のような屋根裏にいた時と同じだけれども、この荒れた二階では無慚に見えた。
電燈から細い紐が枕の上へ下っていた。
「本を読んで寝る時に、これを引っぱって消すのよ」と、駒子はその紐を弄びながら、しかし家庭の女じみた風におとなしく坐って、なにか羞んでいた。
「狐のお嫁入りみたいだね」
「ほんとうですわ」
「この部屋で四年暮すのかい」
「でも、もう半年すんだわ。すぐよ」
下の人達の寝息が聞えて来るようだし、話の継穂がないので、島村はそそくさと立ち上った。
駒子は戸をしめながら、首を突き出して空を仰ぐと、
「雪催いね。もう紅葉もおしまいになるわ」と、また表に出て、
「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る」
「じゃあ、お休み」
「送って行くわ。宿の玄関までよ」
ところが島村といっしょに宿へ入って来て、
「お休みなさいね」と、どこかへ消えて行ったのに、しばらくするとコップに二杯なみなみと冷酒をついで、彼の部屋へ入って来るなり激しく言った。
「さあ、飲みなさい、飲むのよ」
「宿で寝ちゃってるのに、どこから持って来た」
「ううん、あるとこは分ってる」
駒子は樽から出す時にも飲んで来たとみえ、さっきの酔いが戻ったらしく眼を細めてコップから酒のこぼれるのを見据えながら、
「でも、暗がりでひっかけるとおいしくないわ」
突きつけられたコップの冷酒を島村は無造作に飲んだ。
こればかりの酒で酔うはずはないのに、表を歩いて体が冷えていたせいか、急に胸が悪くなって頭へ来た。顔の青ざめるのが自分に分るようで、目をつぶって横たわると、駒子はあわてて介抱し出したが、やがて島村は女の熱いからだにすっかり幼く安心してしまった。
駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。
島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね」
「どうして? どこがいいの」
「いい子だよ」
「そう? いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。
そして一人で含み笑いして、
「よくないわ。つらいから帰ってちょうだい。もう着る着物がないの。あんたのところへ来るたびに、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」
島村は言葉も出なかった。
「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、
「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやあな気がした」
島村はうなずいた。
「あら。それを私今まで黙ってたの。分る? 女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」
「いいよ」
「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。
「君はいい女だね」
「どういいの」
「いい女だよ」
「おかしなひと」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言ってちょうだい。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。
「くやしい、ああっ、くやしい」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。
島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。
「悲しいわ」
駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。
そうして泣きくたびれたか、ぷすりぷすりと銀の簪を畳に突き刺していたが、不意に部屋を出て行ってしまった。
島村は後を追うことが出来なかった。駒子に言われてみれば、十分に疚しいものがあった。
しかしすぐに駒子は足音を忍ばせて戻ったらしく、障子の外から上ずった声で呼んだ。
「ああ」
「ねえ、お湯にいらっしゃいません?」
「御免なさいね。私考え直して来たの」
廊下に隠れて立ったまま、部屋に入って来そうもないので、島村が手拭を持って出て行くと、駒子は目を合わせるのを避けて、少しうつ向きながら先きに立った。罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿であったが、湯で体が温まる頃から変にいたいたしいほどはしゃぎ出して、眠るどころではなかった。