島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。
細かい手の器用なさばきは耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手なのであろう。
三曲目に都鳥を弾きはじめた頃は、その曲の艶な柔かさのせいもあって、島村はもう鳥肌立つような思いは消え、温かく安らいで、駒子の顔を見つめた。そうするとしみじみ肉体の親しみが感じられた。
細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように見えた。あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下り気味の眉の下に、目尻が上りもせず、下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼げだった。白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上っていて、なによりも清潔だった。
しゃんと坐り構えているのだが、いつになく娘じみて見えた。
最後に、今稽古中のをと言って、譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙って撥を糸の下に挟むと、体を崩した。
急に色気がこぼれて来た。
島村はなんとも言えなかったが、駒子も島村の批評を気にする風はさらになく、素直に楽しげだった。
「君はここの芸者の三味線を聞いただけで、誰だか皆分るかね」
「そりゃ分りますわ。二十人足らずですもの。都々逸がよく分るわね、一番その人の癖が出るから」
そしてまた三味線を拾い上げると、右足を折ったままずらせて、そのふくらはぎに三味線の胴を載せ、腰は左に崩しながら、体は右に傾けて、
「小さい時こうして習ったわ」と、棹を覗き込むと、
「く、ろ、か、み、の……」と、幼げに歌って、ぽつんぽつん鳴らした。
「黒髪を最初に習ったの?」
「ううん」と、駒子はその小さい時のように、かぶりを振った。
それからは泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。
「駒ちゃん」と、尻上りに廊下の遠くから呼ぶ、宿の女の子を火燵へ抱き入れて余念なく遊んでは、正午近くにその三つの子と湯殿へ行ったりした。
湯上りの髪に櫛を入れてやりながら、
「この子は芸者さえ見れば、駒子ちゃんって、尻上りに呼ぶの。写真でも、絵でも、日本髪だと、駒子ちゃん、だって。私子供好きだから、よく分るんだわ。きみちゃん、駒子ちゃんの家へ遊びに行こうね」と、立ち上ったが、また廊下の籐椅子へのどかに落ちついて、
「東京のあわて者だね。もう立ってるわ」
山麓のスキイ場を真横から南に見晴せる高みに、この部屋はあった。
島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑らなので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で跽っていた。その段々の畑の畦は、まだ雪に隠れぬし、あまり傾斜もないから一向たわいがなかった。
「学生らしいね。日曜かしら。あんなことで面白いかね」
「でも、あれはいい姿勢で立ってるんですわ」と、駒子はひとりごとのように、
「スキイ場で芸者に挨拶されると、おや、君かいって、お客さんは驚くんですって。真黒に雪焼けしてるから分らないの。夜はお化粧してるでしょう」
「やっぱりスキイ服を着て」
「山袴。ああ厭だ、厭だ。お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もうすぐなるのね。今年はふるの止そうかしら。さようなら。さあ、きみちゃん行こうよ。今夜は雪だわ。雪の降る前の晩は冷えるんですよ」
島村は駒子の立った後の籐椅子に坐っていると、スキイ場のはずれの坂道に、きみ子の手を引いて帰る駒子が見えた。
雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰日向がまた刻々に変って行くのは、薄寒い眺めであったが、やがてスキイ場もふうっと陰って来た。窓の下に目を落すと、枯れた菊の籬には寒天のような霜柱が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。
その夜は雪でなく、霰の後は雨になった。
帰る前の月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから島村はもう一度駒子を呼ぶと、十一時近くだのに彼女は散歩をしようと言ってきかなかった。なにか荒々しく彼を火燵から抱き上げて、無理に連れ出した。
道は凍っていた。村は寒気の底へ寝静まっていた。駒子は裾をからげて帯に挟んだ。月はまるで青い氷のなかの刃のように澄み出ていた。
「駅まで行くのよ」
「気ちがい。往復一里もある」
「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見に行くの」
島村は肩から腿まで寒さに痺れた。
部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。
火燵蒲団はそのままに、つまり掛け蒲団がそれと重なり、敷蒲団の裾が掘火燵の縁へ届くように、寝床が一つ敷いてあるのだが、駒子は横から火燵にあたって、じっとうなだれていた。
「どうしたんだ」
「帰るの」
「馬鹿言え」
「いいから、あんたお休みなさい。私はこうしていたいから」
「どうして帰るんだ」
「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ」
「つまらん、意地悪するなよ」