「旦那、あけびの実を御存じですか。召し上るなら取って参りますよ」と、散歩帰りの島村に言って、彼はその実を蔓のまま紅葉の枝に結びつけた。
紅葉は山から伐って来たらしく軒端につかえる高さ、玄関がぱっと明るむように色あざやかなくれないで、一つ一つの葉も驚くばかり大きかった。
島村はあけびの冷たい実を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、葉子が炉端に坐っていた。
おかみさんが銅壺で燗の番をしている。葉子はそれと向い合って、なにか言われるたびにはっきりうなずいていた。山袴も羽織もなしに、洗い張りしたばかりのような銘仙を着ていた。
「君と同じだね」
「手伝いの人?」と、島村がなにげなく番頭に訊くと、
「はあ、お蔭さまで、人手が足りないもんでございますから」
「へえ。しかし、村の娘で、なかなか一風変っておりますな」
葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。客がたてこむと、炊事場の女中達の声も大きくなるのだが、葉子のあの美しい声は聞えなかった。島村の部屋を受け持つ女中の話では、葉子は寝る前に湯槽のなかで歌を歌う癖があるということだったが、彼はそれも聞かなかった。
しかし葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの女にも惹かれるのだった。
島村が呼ばなくとも駒子はむろんしげしげと来た。
渓流の奥の紅葉を見に行くので、彼は駒子の家の前を通ったことがあったが、その時彼女は車の音を聞きつけて、今のは島村にちがいないと表へ飛び出てみたのに、彼はうしろを振り返りもしなかったのは薄情者だと言ったほどだから、彼女は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄らぬことはなかった。湯に行くにも道寄りした。宴会があると一時間も早く来て、女中が呼ぶまで彼のところで遊んでいた。座敷をよく抜け出して来ては、鏡台で顔を直して、
「これから働きに行くの、商売気があるから。さあ、商売、商売」と、立って行った。
撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。
「昨夜帰ったら、お湯が沸いてないの。お勝手をごそごそやって、朝の味噌汁の残りを掛けて、梅干で食べたのよ。冷たあい。今朝うちで起してくれないのよ。目が覚めてみたら十時半、七時に起きて来ようと思ってたのに、駄目になったわ」
そんなことや、どの宿からどの宿へ行ったという、座敷の模様をあれこれと報告するのだった。
「また来るわね」と、水を飲んで立ち上りながら、
「もう来んかもしれないわ。だって三十人のところへ三人だもの、忙しくて抜けられないの」
しかし、また間もなく来て、
「つらいわ。三十人の相手に三人しかいないの。それが一番年寄りと一番若い子だから、私がつらいわ。けちな客、きっとなんとか旅行会だわ。三十人なら少なくとも六人はいなければね。飲んでおどかして来るわね」
毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の趣きは、かえって風情をなまめかすばかりだった。
「廊下が鳴るので恥かしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった」
「土地が狭いから困るだろう」
「もうみんな知ってるわよ」
「そりゃいかんね」
「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね」と言ったが、すぐ顔を上げて微笑むと、
「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから」
その素直な実感の籠った調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。
しかし駒子は単純に、
「いつだってそうよ」
「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない」
なにげない口ぶりなのだが、島村は女の響きを聞いた。
「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。
襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだか悲しく盛り上って、毛織物じみて見え、また動物じみて冷っとした。
「今の世のなかではね」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのにそして顔を上げると、ぼんやり言い足した。
「あんたそれを知らないの?」
背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。
ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を、島村は翻訳しているのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本であることが、かえって彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた楽しみなのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生れるのかもしれぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらにない。
彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。
秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日ごとにあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触角を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。
窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。
その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。
国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。
「今日は来れないわよ、たぶん。地の人の宴会だから」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広間に太鼓が入って女の金切声も聞えて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、
「御免下さい、御免下さい」と、葉子が呼んでいた。