「二人ともその港町にいたら、今頃は一緒になってたかもしれないね」
「そんなことはないと思うわ」
「そうかねえ」
「人のこと心配しなくてもいいわよ。もうじき死ぬから」
「それによそへ泊るのなんかよくないね」
「あんた、そんなこと言うのがよくないのよ。私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」
島村は返す言葉がなかった。
しかし、駒子がやはり葉子のことに一言も触れないのは、なぜであろうか。
また葉子にしても、汽車の中でまで幼い母のように、我を忘れてあんなにいたわりながらつれて帰った男のなにかである駒子のところへ、朝になって着替えを持って来るのは、どういう思いであろうか。
島村が彼らしく遠い空想をしていると、
「駒ちゃん、駒ちゃん」と、低くても澄み通る、あの葉子の美しい呼び声が聞えた。
「はい、御苦労さま」と、駒子は次の間の三畳へ立って行って、
「葉子さんが来てくれたの? まあ、こんなにみんな、重かったのに」
葉子は黙って帰ったらしかった。
駒子は三の糸を指ではじき切って附け替えてから、調子を合わせた。その間にももう彼女の音の冴えは分ったが、火燵の上に嵩張った風呂敷包みを開いてみると、普通の稽古本の外に、杵屋弥七の文化三味線譜が二十冊ばかり入っていたので、島村は意外そうに手に取って、
「こんなもので稽古したの?」
「だって、ここにはお師匠さんがないんですもの。しかたがないわ」
「うちにいるじゃないか」
「中風ですわ」
「中風だって、口で」
「その口もきけなかったの。まだ踊は、動く方の左手で直せるけれど、三味線は耳がうるさくなるばっかり」
「これで分るのかね」
「よく分るわ」
「素人ならとにかく芸者が、遠い山のなかで、殊勝な稽古をしてるんだから、音譜屋さんも喜ぶだろう」
「お酌は踊が主だし、それから東京で稽古させてもらったのは、踊だったの。三味線はほんの少しうろ覚えですもの、忘れたらもう浚ってくれる人もなし、音譜が頼りですわ」
「唄は?」
「いや、唄は。そう、踊の稽古の時に聞き馴れたのは、どうにかいけれど、新しいのはラジオや、それからどこかで聞き覚えて、でもどうだか分からないわ。我流が入ってて、きっとおかしいでしょう。それに馴染みの人の前では、声が出ないの。知らない人だと、大きな声で歌えるけれど」
と、少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、島村の顔を見つめた。
島村ははっと気押された。
彼は東京の下町育ちで、幼い時から歌舞伎や日本踊になじむうちに長唄の文句くらいは覚え、自ずと耳慣れているが、自分で習いはしなかった。長唄といえばすぐ踊の舞台が思い浮び、芸者の座敷を思い出さぬという風である。
「いやだわ。一番肩の張るお客さま」と、駒子はちらっと下唇を噛んだが、三味線を膝に構えると、それでもう別の人になるのか、素直に稽古本を開いて、
「この秋、譜で稽古したのね」
勧進帳であった。
たちまち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかった。
十九や二十の田舎芸者の三味線なんか高が知れてるはずだ、お座敷だのにまるで舞台のように弾いてるじゃないか、おれ自身の山の感傷に過ぎんなどと、島村は思ってみようとしたし、駒子はわざと文句を棒読みしたり、ここはゆっくり、ここはめんどくさいと言って飛ばしたりしたが、だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。
勧進帳が終ると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。
「こんな日は音がちがう」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々まで真直ぐに響いて行った。
いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑な曲を音譜で独習し、譜を離れて弾きこなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。