橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。
この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高い山が白くなる。これを岳廻りという。また海のあるところは海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りという。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。
島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴りが耳の底を通るようだった。
「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの」
「さあ。大勢でしょうよ」
「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうかな」
物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。
島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。足が冷えた。
なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が二、四人立話していた。
駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。
車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はなんとなく徐行したらしい。
ふと島村は駒子との逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、星明りに思いがけなく遠くまで見えた。
車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、ぽっと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。
飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温かいものに寄り添われたようで、駒子のしていることに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が近って長襦袢の色が厚いガラス越しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。
駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。
「危いじゃないか。むちゃをするね」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。
駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車はもう止まっているのだった。山の裾に来ていた。
「ねえ、どこへいらしたの?」
「うん、まあ」
「どこ?」
「どこってこともないが」
駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村にふと珍らしいもののように見えたりした。
運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、
「おりましょう」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、
「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れて行かなかったの?」
「そうだったね」
「なによ? おかしなひと」
駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。
「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時だったわね?」
「うん」
「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」
「ええ?」
「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」
島村はおどろいた。
「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」
「知らなかったね」
「そうごらんなさい」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。