スキイの季節前の温泉宿は最も客の少い時で、島村が内湯から上って来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊下は彼の踏むたびにガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲り角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ拡げて、女が高く立っていた。
とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いで行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、かえって泣き面になったので、なにも言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、まず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼はなおさら、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
「これが覚えていてくれたの?」
「右じゃない、こっちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はすました顔で、
「ええ、分ってるわ」
ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
「これが覚えていてくれたの?」
「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛初めてだ」
「東京はまだ雪が降らないの?」
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか」
あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入った頃だった。あけびの新芽も間もなく食膳に見られなくなる。
無為徒食の島村は自然と自身に対する真面目さも失いがちなので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをするが、その夜も国境の山々から七日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと言った。ところがその日は道路普請の落成祝いで、村の繭倉兼芝居小屋を宴会場に使ったほどの賑かさだから、十二、三人の芸者では手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、師匠の家の娘なら宴会を手伝いに行ったにしろ、踊を二つ三つ見せただけで帰るから、もしかしたら来てくれるかも知れないとのことだった。島村が聞き返すと、三味線と踊の師匠の家にいる娘は芸者というわけではないが、大きい宴会などには時たま頼まれて行くこともある、半玉がなく、立って踊りたがらない年増が多いから、娘は重宝がられている、宿屋の客の座敷へなどめったに一人で出ないけれども、全くの素人とも言えない、ざっとこんな風な女中の説明だった。
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住いを直した。すぐ立ち上って行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに坐らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
着つけにどこか芸者風なところがあったが、むろん裾はひきずっていないし、やわらかい単衣をむしろきちんと着ている方であった。帯だけは不似合に高価なものらしく、それがかえってなにかいたましく見えた。
山の話などはじめたのをしおに、女中が立って行ったけれども、女はこの村から眺められる山々の名もろくに知らず、島村は酒を飲む気にもなれないでいると、女はやはり生れはこの雪国、東京でお酌をしているうちに受け出され、ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらうつもりでいたところ、一年半ばかりで旦那が死んだと、思いのほか素直に話した。しかしその人に死別れてから今日までのことが、おそらく彼女のほんとうの身の上話かもしれないが、それは急に打ち明けそうもなかった。十九だと言った。嘘でないなら、この十九が二十一、二に見えることに島村ははじめてくつろぎを見つけ出して、歌舞伎の話などしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていてか、夢中でしゃべっているうち、根が花柳界出の女らしいうちとけようを示して来た。男の気心を一通り知っているようでもあった。それにしても彼は頭から相手を素人ときめているし、一週間ばかり人間とろくに口をきいたこともない後だから、人なつかしさが温かく溢れて、女にまず友情のようなものを感じた。山の感傷が女の上にまで尾をひいて来た。
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋へ遊びに寄った。
彼女が坐るか坐らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。
「世話するって?」
「分ってるじゃないか」
「いやあねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、
「ここにはそんな人ありませんわよ」
「嘘をつけ」
「ほんとうよ」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰か呼んで直接話してごらんになるといいわ」
「君から頼んでみてくれよ」
「私がどうしてそんなことをしなければならないの?」
「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ」
「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、
「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ」
「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない」
女は瞼を落して黙った。島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに、それを物分りよくうなずく習わしが女の身にしみているのだろう。その伏目は濃い睫毛のせいか、ほうっと温かくなまめくと島村が眺めているうちに、女の顔はほんの少し左右に揺れて、また薄赤らんだ。
「お好きなのをお呼びなさい」
「それを君に聞いてるじゃないか。初めての土地だから、誰がきれいだか分らんさ」
「きれいって言ったって」
「若いのがいいね。若い方がなにかにつけてまちがいが少いだろう。うるさくしゃべらんのがいい。ぼんやりしていて、よごれてないのが。しゃべりたい時は君としゃべるよ」
「私はもう来ませんわ」
「馬鹿言え」
「あきれるわ」
「あら、来ないわよ。なにしに来るの?」
「君とさっぱりつきあいたいから、君を口説かないんじゃないか」
「そういうことがもしあったら、明日はもう君の顔を見るのもいやになるかもしれん。話に気乗りするなんてことがなくなるよ。山から里へ出て来て、せっかく人なつっこいんだからね、君は口説かないんだ。だって、僕は旅行者じゃないか」
「ええ。ほんとうね」
「そうだよ。君にしたって、君が厭だと思う女となら、後で会うのも胸が悪いだろうが、自分が選んでやった女ならまだましだろう」
「知らないっ」と、強く投げつけてそっぽを向いたものの、
「それはそうだけれど」
「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう」
「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生れは港なの。ここは温泉場でしょう」と、女は思いがけなく素直な調子で、
「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れられないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ」
女は窓から立ち上ると、今度は窓の下の畳に柔かく坐った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身近に坐ったという顔になった。女の声にあまり実感が溢れているので、島村は苦もなく女を騙したかと、かえってうしろめたいほどだった。
しかし彼は嘘を言ったわけではなかった。女はとにかく素人である。彼の女ほしさは、この女にそれを求めるまでもなく、罪のない手軽さですむことだった。彼女は清潔過ぎた。一目見た時から、これと彼女とは別にしていた。
それに彼は夏の避暑地を選び迷っている時だったので、この温泉村へ家族づれで来ようかと思った。そうすれば女はさいわい素人だから、細君にもいい遊び相手になってもらえて、退屈まぎれに踊の一つも習えるだろう。本気にそう考えていた。女に友情のようなものを感じたといっても、彼はその程度の浅瀬を渡っていたのだった。
むろんここにも島村の夕景色の鏡はあったであろう。今の身の上が曖昧な女の後腐れを嫌うばかりでなく、夕暮の汽車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方をしていたのかもしれない。
彼の西洋舞踊趣味にしてもそうだった。島村は東京の下町育ちなので、子供の時から歌舞伎芝居になじんでいたが、学生の頃は好みが踊や所作事に片寄って来て、そうなると一通りのことを究めぬと気のすまないたちゆえ、古い記録を漁ったり、家元を訪ね歩いたりして、やがては日本踊の新人とも知り合い、研究や批評めいた文章まで書くようになった。そうして日本踊の伝統の眠りにも新しい試みのひとりよがりにも、当然なまなましい不満を覚えて、もうこの上は自分が実際運動のなかへ身を投じて行くほかないという気持ちにかりたてられ、日本踊の若手からも誘いかけられた時に、彼はふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまった。日本踊は全く見ぬようになった。その代りに西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログラムのたぐいまで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないというところにあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることもあるのだった。
そういう彼の日本踊などの話が、女を彼に親しませる助けとなったのは、その知識が久しぶりで現実に役立ったともいうべきありさまだったけれども、やはり島村は知らず識らずのうちに、女を西洋舞踊扱いにしていたのかもしれない。
だから自分の淡い旅愁じみた言葉が、女の生活の急所に触れたらしいのを見ると、女を騙したかとうしろめたいぐらいだったが、
「そうしておけば、今度僕が家族を連れて来たって、君と気持ちよく遊べるさ」
「ええ、そのことはもうよく分りましたわ」と、女は声を沈めて微笑むと、少し芸者風にはしゃいで、
「だから呼んでくれよ」
「今?」
「うん」
「驚きますわ。こんな真昼間になんにもおっしゃれないでしょう?」
「屑が残るといやだよ」
「私もそんなのが大好き、あっさりしたのが長続きするわ」
「あんたそんなこと言うの、この土地を荒稼ぎの温泉場と考えちがいしてらっしゃるのよ。村の様子を見ただけでも分らないかしら」と、女はいかにも心外らしく真剣な口ぶりで、ここにはそういう女のいないことを繰り返して力説した。島村が疑うと、女はむきになって、しかし一歩譲って、それはどうしようと芸者の勝手だけれども、ただ、うちへことわらずに泊れば芸者の責任で、どうなろうとかまってはくれないが、うちへことわっとけば抱主の責任で、どこまでも後を見てくれる、それだけのちがいだと言う。
「責任てなんだ」
「子供が出来たり、体が悪くなったりすることですわ」
島村は自分の頓馬な質問に苦笑いしながら、そのようにのんきな話も、この村にはあるかも知れないと思った。
無為徒食の彼は自然と保護色を求める心があってか、旅先の土地の人気には本能的に敏感だが、山から下りて来るとすぐこの里のいかにもつましい眺めのうちに、のどかなものを受け取って、宿で聞いてみると、果してこの雪国でも最も暮しの楽な村の一つだとのことだった。つい近年鉄道の通じるまでは、主に農家の人々の湯治場だったという。芸者のいる家は料理屋とかしるこ屋とか色褪せた暖簾をかけているが、古風な障子のすすけたのを見ると、これで客があるのやら、そして日用雑貨の店や駄菓子屋にも、抱えをたった一人置いているのがあって、その主人達は店のほかに田畑で働くらしかった。師匠の家の娘だからではあろうが、鑑札のない娘がたまに宴会などの手伝いに出ても、咎め立てる芸者がないのだろう。
「それでどれくらいいるの」
「芸者さん? 十二、三人かしら」
「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、
「私は帰りますわね?」
「君が帰っちゃ駄目だよ」
「厭なの」と、女は屈辱を振り払うように、
「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ」
しかし女中を見ると、なにげなく坐り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。
ところが間もなく来た十七、八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ来た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。
肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、いっそう座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていたことを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。