この虚偽きょぎ麻痺まひには、破廉恥はれんち危険きけんにおっていて、島村しまむらはじっとそれをあじわいながら、按摩あんまかえってからも寝転ねころんでいると、むねそこまでえるようにおもわれたが、がつけばまどはなしたままなのであった。

山峡さんきょう日陰ひかげとなるのがはやく、もう寒々さむざむ夕暮色ゆうぐれいろれていた。そのほのくらさのために、まだ西日にしびゆきとおくの山々やまやまはすうっとちかづいてたようであった。

やがてやまそれぞれの遠近えんきん高低こうていにつれて、さまざまのひだかげふかめてき、みねにだけあわ日向ひなたのこころになると、いただきゆきうえ夕焼空ゆうやけぞらであった。

むら川岸かわぎし、スキイじょうやしろなど、ところどころにらばる杉木立すぎこだち黒々くろぐろ目立めだした。

島村しまむらむなしいせつなさにさらされているところへ、あたたかいあかりのついたように駒子こまこはいってた。

スキイきゃくむかえる準備じゅんび相談会そうだんかいがこの宿やどにある。そののち宴会えんかいばれたとった。火燵こたつはいると、いきなり島村しまむらほおまわしながら、

今夜こんやしろいわ。へんだわ」

そしてみつぶすようにやわらかいほおにくつかんで、

「あんたは馬鹿ばかだ」

もうすこっているらしかったが、宴会えんかいえてときは、

らん。もうらん。あたまいたい。あたまいたい。ああ、難儀なんぎだわ、難儀なんぎ」と、鏡台きょうだいまえくずれると、おかしいほど一時いちじいがかおた。

みずみたい、みずちょうだい」

かお両手りょうておさえて、かみこわれるのもかまわずにたおれていたが、やがてすわなおしてクリイムで白粉おしろいおとすと、あまりに真赤まっかかおしになったので、駒子こまこ自分じぶんながらたのしげにわらつづけた。面白おもしろいほどはやさけめてた。さむそうにかたふるわせた。

そしてしずかなこえで、八月はちがついっぱい神経衰弱しんけいすいじゃくでぶらぶらしていたなどとはなした。

ちがいになるのかと心配しんぱいだったわ。なにか一生懸命いっしょうけんめいおもいつめてるんだけれど、なにをおもいつめてるか、自分じぶんによくわからないの。こわいでしょう。ちっともねむれないし、それでお座敷ざしきときだけしゃんとするのよ。いろんなゆめたわ。御飯ごはんもろくにべられないものね。たたみへね、縫針ぬいばりしたりいたり、そんなこといつまでもしてるのよ、あつ日中にっちゅうにさ」

芸者げいしゃたのは何月なんがつ

六月ろくがつ。もしかしたらわたし今頃いまごろ浜松はままつってたかしれないのよ」

世帯しょたいって?」

駒子こまこはうなずいた。浜松はままつおとこ結婚けっこんしてくれとまわされたが、どうしてもおとこきになれないで、ずいぶんまよったとった。

きでないものを、なにもまようことないじゃないか」

「そうはいかないわ」

結婚けっこんて、そんなちからがあるかな」

「いやらしい。そうじゃないけれど、わたしのまわりがきちんとかたづいてないと、いられないの」

「あんた、いい加減かげんひとね」

「だけど、その浜松はままつひととなにかあったのかい」

「あればまようことないじゃないの」と、駒子こまこはなって、

「でも、おまえがこの土地とちにいるあいだは、だれとも結婚けっこんさせない。どんなことしても邪魔じゃましてやるってったわよ」

浜松はままつのようなとおくにいてね。きみはそんなことをにしてるの」

駒子こまこはしばらくだまって、自分じぶんからだあたたかさをあじうようなふうにじっとよこたわっていたが、ふいとなにげなく、

わたし妊娠にんしんしているとおもってたのよ。ふふ、いまかんがえるとおかしくって、ふふふ」と、ふくわらいしながら、くっとをすくめると、りょうにぎこぶし島村しまむらえり子供こどもみたいにつかんだ。

わした睫毛まつげがまた、くろなかひらいているようにえた。

あくあさ島村しまむらますと、駒子こまこはもう火鉢ひばち片肘かたひじいて古雑誌ふるざっしうら落書らくがきしていたが、

「ねえ、かえれないわ。女中じょちゅうさんがれにて、みっともない、おどろいてきたら、もう障子しょうじがあたってるんですもの。昨夜ゆうべってたから、とろとろとねむっちゃったらしいわ」

幾時いくじ

「もう八時はちじ

「おこうか」と、島村しまむらあがった。

「いや、廊下ろうかひとうから」と、まるでおとなしいおんなになってしまって、島村しまむらからかえったときは、手拭てぬぐい器用きようにかぶって、かいがいしく部屋へや掃除そうじをしていた。

つくえあし火鉢ひばちふちまで癇性かんしょういて、はいきならすのがものれたさまであった。

島村しまむら火燵こたつあしれたままごろごろして煙草たばこはいおとすと、それを駒子こまこはハンカチでそっとっては、灰皿はいざらをもってた。島村しまむらあさらしくわらした。駒子こまこわらった。

きみいえったら、亭主ていしゅしかられどおしだね」

「なにもしかりゃしないじゃないの。洗濯せんたくするものまで、きちんとたたんでおくって、よくわらわれるけれど、性分しょうぶんね」

箪笥たんすのなかをれば、そのおんな性質せいしつわかるってうよ」

部屋へやいっぱいの朝日あさひあたたまってめしいながら、

「いいお天気てんきはやかえって、お稽古けいこをすればよかったわ。こんなおとがちがう」

駒子こまこふかまったそら見上みあげた。

とお山々やまやまゆきけむるとえるようなやわらかい乳色ちちいろにつつまれていた。

島村しまむら按摩あんま言葉ことばおもわせて、ここで稽古けいこをすればいいとうと、駒子こまこはすぐにあがって、着替きがえといっしょに長唄ながうたほんとどけるようにいえ電話でんわをかけた。

昨日きのう

昼間ひるまたあのいえ電話でんわがあるのかとおもうと、また島村しまむらあたまには葉子ようこんでて、

「あのむすめさんがってるの?」

「そうかもしれないわ」

きみはあの、息子むすこさんのいいなずけだって?」

「あら。いつそんなことをいたの」

「おかしなひといたらいたで、なぜ昨日きのうそうわなかったの」と、しかし今度こんど昨日きのう昼間ひるまとちがって、駒子こまこ清潔せいけつ微笑ほほえんでいた。

きみ軽蔑けいべつしてなければ、いにくいさ」

こころにもないこと。東京とうきょうひとうそつきだからきらい」

「それ、ぼくせば、はなしをそらすじゃないか」

「そらしゃしないわ。それで、あんたそれをほんとうにしたの?」

「ほんとうにした」

「またあんたうそうわ。ほんとうにしないくせして」

「そりゃ、のみこめないはしたさ。だけど、きみがいいなずけのために芸者げいしゃになって、療養費りょうようひかせいでいるとうんだからね」

「いやらしい、そんな新派芝居しんぱしばいみたいなこと。いいなずけはうそよ。そうおもってるひとおおいらしいわ。べつだれのために芸者げいしゃになったってわけじゃないけれど、するだけのことはしなければいけないわ」

なぞみたいなことばかりってる」

「はっきりいますわ。お師匠ししょうさんがね、息子むすこさんとわたしといっしょになればいいと、おもったときがあったかもしれないの。こころのなかだけのことで、くちには一度いちどしゃしませんけれどね。そういうお師匠ししょうさんのこころのうちは、息子むすこさんもわたし薄々うすうすってたの。だけど、二人ふたりべつになんでもなかった。ただそれだけ」

幼馴染おさななじみだね」

「ええ、でも、わかわかれにしてたのよ。東京とうきょうられてとき、あのひとがたった一人ひとり見送みおくってくれた。一番いちばんふる日記にっき一番いちばんはじめに、そのことがいてあるわ」