菓子を落した二階桟敷から骨組の木が二、三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美しい目をつぶっていた。顎を突き出して、首の線が伸びていた。火明りが青白い顔の上を揺れ通った。
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照らし出されたようだった。
なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。
駒子が島村の傍から飛び出していた。駒子が叫んで眼をおさえたのと、ほとんど同じ瞬間のようだった。人垣があっと息を呑んだままの時だった。
水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。
人垣が口々に声をあげて崩れ出し、どっと二人を取りかこんだ。
「どいて。どいてちょうだい」
駒子の叫びが島村に聞えた。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」
そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げたとき、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。
*国境の長いトンネル 群馬県と新潟県の県境にある清水トンネル。「雪国」は新潟県の湯沢温泉が舞台になっている。
*内湯 温泉場で、旅館などの屋内に浴槽を設けた湯。
*半玉 まだ一人まえの芸妓でない、玉代(料金)が半額の妓。
*お酌 酌婦、または雛妓・半玉。ここでは後者。
*鑑札 営業を許可した証として警察署などが交付する証票。
*山袴 雪袴、カルサンとも呼ぶ。上部をゆるく、下部を詰めて縫ったモンペ。
*杵屋弥七 明治二十三年-昭和十七年(一八九〇-一九四二)。長唄三味線家。大正十一年に三味線の曲を譜面に表わし、翌年三味線学校塾を創設した。
*勧進帳 歌舞伎十八番のうち、最も新しくできた長唄による舞踊劇。三世並木五瓶作、四世杵屋六三郎作曲。天保十二年(一八四〇)初演、七世松本幸四郎の当たり芸となり流行曲となった。特に長唄曲のすぐれたものとして知られる。
*都鳥 二世杵屋勝三郎作曲の長唄曲。春から夏へかけての隅田川の風物に男女の情をからませたもの。
*新曲浦島 浦島伝説による舞踊劇。坪内逍遥作。長唄曲は、その序の部分を杵屋勘五郎と杵屋寒玉が作曲したもの。
*縹色 藍色。
*自在鍵 炉やかまどの上からつるし、自在に鉄瓶やなべ、かまなどを上下させる装置の鉤。竹筒に鉤をつけたもの。
*鉄道省 かつての内閣各省の一つ。鉄道行政に関する事務を管掌した中央官庁で、国有鉄道の経営にもあたったが、昭和二十四年に運輸省に改組された。
*鳥追い祭 旧暦の正月十四日夜から十五日の早朝にかけて、その年の豊作を祈念して行われる農村の行事。
*六百本 芸妓の揚代を計算する線香の数。もと線香一本の尽きる間を単位としたので、揚代のことを線香代という習慣が残った。
*置屋 芸妓をかかえておく家。
*メエトル 電気の使用量を計るメートル計器。当時は使用量をメートルで払う家が少なかったので、こうした心づかいをしたもの。
*撥胼胝 三味線や琵琶をひく人で、撥のあたる所にできるたこ。
*髷 婦人の髪に添え加える髪の毛。
*ヴァレリイ Paul Valery(一八七一-一九四五)。フランスの詩人・批評家。その「舞踊論」は「霊魂と舞踊」("L'ame et la Dance")、または「ドガ・ダンス・デッサン」("Degas, Dance, Dessin")のことか。
*アラン Alain(一八六八-一九五一)。フランスの思想家・文学者。特に舞踊論として書かれた論文はないが、さまざまな文章で舞踊に触れている。
*拳 じゃんけんのようにして勝負を争う遊戯。本拳、虫拳、狐拳などがある。
*「ここらあたりは山家ゆえ、……」 浄瑠璃「箱根霊験躄仇討」の中の、女主人公初花のせりふの一節。
*三都 東京・大阪・京都のこと。
*桛 かせぎ。紡いだ糸を掛けて巻く工の字型の道具。
*秦韜玉 生没年未詳。唐末の政治家で、詩人。
*算木 板屋根の上に横に並べて打たれている木。
*擦半鐘 スリバン。近所の火事を知らせる時、続けざまに鳴らす半鐘。