いのうたうたうのである。

ちょうどそのころゆき一番いちばんふかときであろうから、島村しまむら鳥追とりおいのまつりると約束やくそくしておいたのだった。

わたし二月にがつ実家じっかったのよ。商売しょうばいやすんでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日じゅうよっかかえってたんだわ。もっとゆっくり看病かんびょうしてればよかった」

だれ病気びょうき

「お師匠ししょうさんがみなとってて、肺炎はいえんになったんですの。わたしがちょうど実家じっかにいたところへ電報でんぽうて、看病かんびょうしたんですわ」

「よくなったの?」

「いいえ」

「それはわるかったね」と、島村しまむら約束やくそくまもらなかったのをびるように、また師匠ししょうくやむようにうと、

「ううん」と、駒子こまこきゅうにおとなしくかぶりをって、ハンカチでつくえはらいながら、

「ひどいむし

ちゃぶだいからたたみうえまでこまかい羽虫はむし一面いちめんちてた。ちいさいいくつも電燈でんとうまわっていた。

網戸あみどにも外側そとがわから幾種類いくしゅるいともれぬ点々てんてんととまって、わたった月明つきあかりにんでいた。

いたい、いたい」と、駒子こまこ両手りょうておびあいだへぐっとれると、島村しまむらひざした。

えりをすかした白粉おしろいいそのくびへも、よりちいさいむしがたちまちむらがりちた。んで、そこでうごかなくなるのもあった。

くびのつけ去年きょねんよりふとって脂肪しぼうっていた。二十一にじゅういちになったのだと、島村しまむらおもった。

かれひざ生温なまあたたかい湿しめりけがとおってた。

こまちゃん、椿つばきってごらんて、帳場ちょうばでにやにやわらってるのよ。かないわ。ねえさんを汽車きしゃおくってて、かえって楽々らくらくようとおもってると、ここからかかっててるってうんでしょう。大儀たいぎだからよっぽどそうとおもったわ。昨夜ゆうべぎた。ねえさんの送別会そうべつかいだったの。お帳場ちょうばわらってばかりいて、あんただった。一年いちねんぶりねえ。一年いちねん一度いちどひとなの?」

「あの饅頭まんじゅうぼくったよ」

「そう?」と、駒子こまこむねした。島村しまむらひざしつけていたところだけがあからんで、きゅうおさななじみたかおえた。

つぎつぎ停車場ていしゃじょうまちまで、あの年増としま芸者げいしゃ見送みおくってたのだとった。

「つまらないわ。まえはなんでもすぐまとまったけれど、だんだん個人こじん主義しゅぎになって銘々めいめいがばらばらなの。ここもずいぶんったわ。気性きしょうわないひとえるばかりなの。菊勇きくゆうねえさんがいなくなると、わたしさびしいんです。なんでもあのひと中心ちゅうしんだったから。れることも一番いちばん六百本ろっぴゃっぽんかすことはないから、うちでも大事だいじにされてたんだけれど」

その菊勇きくゆう年期ねんきがあけてれたまちかえるというが、結婚けっこんするのか、なにか水商売みずしょうばいつづけるのかと島村しまむらうと、

「ねえさんも可哀想かわいそうひとなの。お嫁入よめいりはまえ一度いちど失敗しっぱいして、ここへたのよ」と、駒子こまこはそのあと口籠くちごもって、とかくためらってから、月明つきあかりの段々畑だんだんばたけしたながめて、

「あすこのさか途中とちゅうに、ったばかりのいえがあるでしょう」

菊村きくむらって小料理屋こりょうりや?」

「ええ。あのみせはいるはずだったのを、ねえさんの心柄こころがらでふいにしちゃったんだわ。さわぎだったわね、せっかく自分じぶんのためにいえてさせておいて、いざはいるばかりになったときに、っちゃったんですもの。きなひと出来できて、そのひと結婚けっこんするつもりだったんだけれど、だまされてたのね。夢中むちゅうになると、あんなかしらね。その相手あいてげられたからって、いまからもとさやにおさまって、みせもらいますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地とちにはいられないし、またよそでかせなおすんですわ。可哀想かわいそうなんだわ。私達わたしたちもよくらなかったけれど、いろんなひとがあったのね」

おとこがね。五人ごにんもあったのかい」

「そうね」と、駒子こまこふくわらいをしたが、ふっとよこいた。

「ねえさんもよわひとだったんだわ。弱虫よわむしだ」

「しかたがないさ」

「だってそうじゃないの。かれたって、なんですか」

うついたままかんざしあたまいた。

今日きょうおくってって、せつなかったわ」

「それでせっかくのみせはどうしたの」

本妻ほんさいてやってるわ」

本妻ほんさいてやってるとは面白おもしろい」

「だって、開業かいぎょう支度したくもすっかり出来できてたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供こどももみんなつれて、本妻ほんさいうつってたわ」

「うちはどうしたんだね」

「おばあさんを一人ひとりのこしてあるんですって。百姓ひゃくしょうなんですけれど、主人しゅじんがこんなこときなのね。それは面白おもしろひと

道楽者どうらくものだね。もういいとしなんだろう」

わかいのよ。三十二、三さんじゅうにさんかしら」

「へええ。それじゃ本妻ほんさいよりおめかけさんのが年上としうえになるところだったね」

「おないどし二十七にじゅうしちね」

菊村きくむらというのは、菊勇きくゆうきくだろう。それを本妻ほんさいがやってるのかね」

一度いちどした看板かんばんえるわけにもいかないからでしょう」

島村しまむらえりわせると、駒子こまこってってまどをしめながら、

「ねえさんはあんたのこともよくってた。いらしたわねって、今日きょうってくれた」

挨拶あいさつてたのを帳場ちょうばかけたよ」

「なんかった」

やしないよ」

「あんたわたし気持きもわかる?」と、駒子こまこいましめたばかりの障子しょうじをさっとあけて、まどからだげつけるようにこしかけた。島村しまむらはしばらくしてから、

ほしひかり東京とうきょうとまるでちがうね。いかにもちゅういてるね」

月夜つきよだからそうでもないわ。今年ことしゆきはひどかったわ」

汽車きしゃがたびたび不通ふつうだったらしいね」

「ええ、こわいくらい。自動車じどうしゃかようのが、例年れいねんより一月ひとつきおくれて、五月ごがつだったわ。スキイじょう売店ばいてんがあるでしょう、あの二階にかい雪崩なだれけて、したにいたひとはそんなことらなくて、へんおとがするから、台所だいどころねずみさわいだんだろうとってみてなんともないから、二階にかいへあがるとゆきだらけじゃないの。雨戸あまどもなにもゆきってかれちゃってるのよ。表層雪崩ひょうそうなだれなんだけれど、それをラジオでおおきく放送ほうそうしたものよ。おそろしがってスキイきゃくやしないの。今年ことしはもうらないつもりで、去年きょねんにスキイもひとにくれちゃったのよ。それでも二、三度にさんどすべったかしら。わたしってない?」

「お師匠ししょうさんがんで、どうしてたんだ」

「ひとのことなんか、ほっときなさい。二月にがつにはちゃんとここへってたわ」

みなとかえったんなら、そうと手紙てがみをよこせばいいじゃないか」

「いやよ。そんなみじめな、いやよ。おくさんにられてもいいような手紙てがみなんかかないわ。みじめだわ。気兼きがねしてうそつくことないわ」

駒子こまこ早口はやくちたたきつけるようなはげしさだった。島村しまむらはうなずいた。

「あんたそんなむしのなかにすわってないで、電燈でんとうすといいわ」

おんなみみ凹凸おうとつもはっきりかげをつくるほどつきあかるかった。ふかしこんでたたみつめたくあおむようであった。

駒子こまこくちびるうつくしいひるのようになめらかであった。

「いや、かえして」

相変あいかわらずだね」と、島村しまむらくびって、どこかおかしいようですこ中高なかだか円顔まるがおを、真近まぢかながめた。

十七じゅうしちでここへときとちっともらないって、みんなそううわ。生活せいかつだって、それはおんなじなんですもの」

北国きたぐに少女しょうじょあかみがまだのこっている。芸者げいしゃふう肌理きめ月光げっこう貝殻かいがらじみたつやをした。

「でも、うちはったの御存ごぞんじ?」

「お師匠ししょうさんがんでね? もうあのお蚕かいこさんの部屋へやにはいないんだね。今度こんどのうちほんとうの置屋おきやかい?」

「ほんとうの置屋おきやって? そうね、みせ駄菓子だがし煙草たばこってますわ。やっぱりわたし一人ひとりしかいないの。今度こんどはほんとうの奉公ほうこうだから、よるおそくなると、蠟燭ろうそくをともしてほんむわ」

島村しまむらかたいてわらうと、

「そうかね」

「メエトルだから、電気でんき無駄むだづかいしちゃわるいわ」

「でも、これが奉公ほうこうかしらとおもうことがあるくらい、うちのひとはずいぶん大事だいじにしてくれるのよ。子供こどもいたりすると、おかみさんが遠慮えんりょしておもてぶってくわ。なんの不足ふそくもないけれど、寝床ねどこまがってるのだけはいやね。かえりがおそいといといてくれるのよ。敷蒲団しきぶとんがきちんとかさなってなかったり、敷布しきふがゆがんでたりでしょう。そんなのをると、なさけなくなってるのよ。そうかって、自分じぶんなおすのはわるいわ。親切しんせつがありがたいから」

きみいえったら苦労くろうだね」

みなそううわ。性分しょうぶんね。うちにちいさい子供こども四人よにんあるかららかって大変たいへんなのよ。わたしはそれを一日いちにちかたづけてあるいてるわ。かたづけるあとから、どうせらかすのはわかってるんだけれど、になってほっとけないんです。境遇きょうぐうゆる範囲はんいで、これでもわたし、きれいにしたいとはおもってるんですよ」

「そうだね」

「あんたわたし気持きもわかる?」

わかるよ」

わかるならってごらんなさい。さあ、ってごらんなさい」と、駒子こまこ突然とつぜんおもせまったこえっかかってた。

「それごらんなさい。えやしないじゃないの。うそばっかり。あんたは贅沢ぜいたくして、いい加減かげんひとだわ。わかりゃしない」

そうしてこえしずますと、

かなしいわ。わたし馬鹿ばか。あんたもう明日あすかえんなさい」

「そうきみのようにいつめたって、はっきりえるもんじゃない」

「なにがえないの。あんたそれがいけないのよ」と、駒子こまこはまだじゅつなげにこえをつまらせたが、じっとをつぶると自分じぶんというものを島村しまむらがなんとなくかんじていてくれるのだろうかと、それはわかったらしい素振そぶりをせて、

一年いちねん一度いちどでいいからいらっしゃいね。わたしのここにいるあいだは、一年いちねん一度いちど、きっといらっしゃいね」

年期ねんき四年よねんだとった。

実家じっかときは、また商売しょうばいるなんてゆめにもおもわなくて、スキイもひとにくれてっちゃったのに、出来できたこととえば、煙草たばこめただけだわ」

「そうそう、まえにはずいぶんかしてたね」

「ええ。お座敷ざしきでおきゃくさんのくれるのを、そっとたもとれるから、かえると何本なんぼんることがあるわ」

四年よねんはしかしながいね」

「すぐってしまいますわ」

あたたかい」と、島村しまむら駒子こまこちかづいてるままにげた。

あたたかいのはれつきよ」

「もう朝晩あさばんさむくなっているんだね」

わたしがここへてから五年ごねんだもの。はじめは心細こころぼそくて、こんなところにむのかとおもったわ。汽車きしゃ開通かいつうまえさびしかったなあ。あんたがはじめてからだって、もう三年さんねんだわ」

その三年さんねんらずのあいだ三度さんどたが、そのたびごとに駒子こまこ境遇きょうぐうっていることを、島村しまむらおもっていた。

轡虫くつわむしきゅう幾匹いくひきした。

「いやねえ」と、駒子こまこかれひざからあがった。

北風きたかぜ網戸あみどがいっせいにんだ。

くろうすひらいているとえるのは睫毛まつげわせたのだと、島村しまむらはもうっていながら、やはり近々ちかぢかとのぞきこんでみた。

かえってる。

煙草たばこめて、ふとったわ」

はら脂肪しぼうあつくなっていた。

はなれていてはとらえがたいものも、こうしてみるとたちまちそのしたしみがかえってる。

駒子こまこはそっとてのひらむねへやって、

片方かたほうおおきくなったの」

馬鹿ばか。そのひとくせだね、一方いっぽうばかり」

「あら。いやだわ。うそ、いやなひと」と、駒子こまこきゅうった。これであったと島村しまむらおもした。

両方りょうほう平均へいきんにって、今度こんどからそうえ」

平均へいきんに? 平均へいきんにってうの?」と、駒子こまこやわらかにかおせた。

この部屋へや二階にかいであるが、いえのぐるりを蝦蟇がまいてまわった。一匹いっぴきではなく、二匹にひき三匹さんびきあるいているらしい。ながいこといていた。

内湯うちゆからあがってると、駒子こまこ安心あんしんしきったしずかなこえでまた身上しんじょうばなしをはじめた。

ここではじめての検査けんさときに、半玉はんぎょくころおなじだとおもって、むねだけぐとわらわれたこと、それからしてしまったこと、そんなことまでった。島村しまむらわれるままに、

わたしじつ正確せいかくなの、二日ふつかずつきちんとはやくなってくの」

「だけどさ、お座敷ざしきるのにこまるというようなことはないだろう」

「ええ、そんなことわかるの?」

あたたまるので名高なだか温泉おんせん毎日まいにちはいっているし、きゅう温泉おんせんしん温泉おんせんとのあいだをお座敷ざしきがよいすれば一里いちりあるくわけになるし、夜更よふかしもすくやまぐらしだから、健康けんこう固太かたぶとりだけれども、芸者げいしゃなどにありがちのすこうしこしつぼまりだった。

よこせまくてたてあつい。そのくせ島村しまむらとおかれてるようなおんなであることは、あわぶかいものがあった。

わたしのようなのは子供こども出来できないのかしらね」と、駒子こまこ生真面目きまじめにたずねた。一人ひとりひととつきあってれば、夫婦ふうふとおなじではないかとうのだった。

駒子こまこにそういうひとのあるのを島村しまむらはじめてった。十七じゅうしちとしから五年ごねんつづいているとう。島村しまむらまえからいぶかしくおもっていた、駒子こまこ無知むち無警戒むけいかいなのはそれでわかった。

半玉はんぎょくしてくれたひとわかれて、みなとかえるとすぐにそのはなしがあったためか、駒子こまこはじめから今日こんにちまでそのひといやで、いつまでもちとけられないとう。

五年ごねんつづけば、上等じょうとうほうじゃないか」

わかれる機会きかい二度にどもあったのよ。ここで芸者げいしゃときと、お師匠ししょうさんのうちからいまのうちへときと。でも、意志いしよわいんだわ。ほんとうに意志いしよわいんだわ」

そのひとみなとにいるとう。そのまちくのは都合つごうわるいので、師匠ししょうがこのむらるついでにあずけてよこしたのだとう。親切しんせつひとだのに、一度いちどをゆるすになれないのは、かなしいとう。としがちがうので、たまにしかないとう。

「どうしたられるか、よっぽど不行跡ふぎょうせきはたらこうと時々ときどきおもうのよ。ほんとうにおもうんですよ」

不行跡ふぎょうせきはよくない」

不行跡ふぎょうせき出来できない。やっぱり性分しょうぶんでだめだわ。わたし自分じぶんきてるからだ可愛かわいいわ。しようとおもえば、四年よねん年期ねんき二年にねんになるんだけれど、無理むりをしないの。からだ大事だいじだから。無理むりすれば、ずいぶん線香せんこうるだろうな。年期ねんきだから、主人しゅじんそんをかけなければいいのよ。元金もときんつきっていくら、利子りしいくら、税金ぜいきんいくら、それに自分じぶん扶持ぶち勘定かんじょうれて、わかってるでしょう。それ以上いじょうあまり無理むりしてはたらくこともないわ。めんどくさい座敷ざしきでいやなら、さっさとかえっちまうし、おなじみの名指なざしでなければ、宿やどでもよるおそくかけてよこさないわ。自分じぶん贅沢ぜいたくするぶんにはきりがないけれども、気随きずいかせいでいて、それですむんですもの。もう元金もときん半分はんぶん以上いじょうかえしたわ。まだ一年いちねんにならないわ。それでもお小遣こづかいがなにやかやとつき三十円さんじゅうえんはかかるわね」

つき百円ひゃくえんかせげばいいのだとった。先月せんげつ一番いちばんすくひと三百本さんびゃっぽん六十円ろくじゅうえんだとった。駒子こまこ座敷ざしきすう九十きゅうじゅういくつで一番いちばんおおく、一座敷いちざしき一本いっぽん自分じぶんもらいになるので、主人しゅじんにはそんだが、どんどんまわるのだとった。借金しゃっきんやして年期ねんきびたひとは、この温泉おんせんには一人ひとりもないとった。

あくあさ駒子こまこはやはりはやくて、

「おはなのお師匠ししょうさんとこのお部屋へや掃除そうじしているゆめて、めちゃったの」

まどぎわへした鏡台きょうだいには紅葉もみじやまうつっていた。かがみのなかにもあきざしがあかるかった。

駄菓子だがしおんな駒子こまこ着替きがえをってた。

こまちゃん」と、かなしいほどとおこえふすまかげからぶ、あの葉子ようこではなかった。

「あのむすめさんはどうした」

駒子こまこはちらっと島村しまむらて、

「お墓参はかまいりばかりしてるわ。スキイじょうすそにほら、蕎麦そばはたけがあるでしょう、しろはないてる。そのひだりはかえるじゃないの?」

駒子こまこかえってから島村しまむらむら散歩さんぽってみた。

白壁しらかべ軒下のきした真新まあたらしい朱色しゅいろのネルの山袴さんぱくいて、おんながゴムまりいていた。

大名だいみょうとおったころからであろうとおもわれる、古風こふうつくりのいえおおい。ひさしふかい。二階にかい窓障子まどしょうじたか一尺いっしゃくぐらいしかなくて長細ながぼそい。軒端のきばかやすだれれている。

土坡どはうえ糸薄いとすすきえたかきがあった。糸薄いとすすき桑染色くわぞめいろ花盛はなざかりであった。そのほそ一株ひとかぶずつうつくしく噴水ふんすいのようなかたちひろがっていた。

そうして道端みちばた日向ひなた藁莚わらむしろいて小豆あずきっているのは葉子ようこだった。かわいた豆幹まめがらから小豆あずき小粒こつぶひかりのようにおどる。

手拭てぬぐいをかぶっているので島村しまむらえないのか、葉子ようこ山袴さんぱく膝頭ひざがしらひらいて小豆あずきたたきながら、あのかなしいほどとおって木魂こだましそうなこえうたっていた。

蝶々ちょうちょうとんぼやきりぎりす

やまでさえずる

松虫まつむし鈴虫すずむしくつわ虫くつわむし

すぎをつとはなれた、夕風ゆうかぜのなかのからすおおきい、といううたがあるが、このまどから見下みおろ杉林すぎばやしまえには、今日きょう蜻蛉とんぼむれながれている。ゆうべちかづくにつれ、彼等かれら游泳ゆうえいはあわただしく速力そくりょくはやめてるようだった。

島村しまむら出発しゅっぱつまええき売店ばいてんでここらあたりのやま案内書あんないしょ新刊しんかんつけてってた。それをとりとめなくんでいると、この部屋へやから見晴みはらす国境こっきょう山々やまやま、そのひとつのいただきちかくは、うつくしい池沼ちしょう小路こみちで、一帯いったい湿地しっちにいろんな高山植物こうざんしょくぶつはなみだれ、なつならば無心むしん赤蜻蛉あかとんぼび、帽子ぼうしひとや、またときには眼鏡めがねふちにさえとまるのどかさ、しいたげられた都会とかい蜻蛉とんぼとは雲泥うんでいであるといてあった。

しかしまえ蜻蛉とんぼむれは、なにかいつめられたもののようにえる。れるに先立さきだってくろずむ杉林すぎばやしいろにその姿すがたされまいとあせっているもののようにえる。

とおやま西日にしびけると、みねから紅葉こうようしてているのがはっきりわかってた。

人間にんげんなんてもろいもんね。あたまからほねまで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。くまなんか、もっとたか岩棚いわだなからちたって、からだはちっともきずがつかないそうよ」と、今朝けさ駒子こまこったのを島村しまむらおもした。

岩場いわばでまた遭難そうなんがあったという、そのやまゆびざしながらであった。

くまのようにかたあつ毛皮けがわならば、人間にんげん官能かんのうはよほどちがったものであったにちがいない。人間にんげんうすなめらかな皮膚ひふあいっているのだ。そんなことをおもって夕日ゆうひやまながめていると島村しまむら感傷かんしょうてき人肌ひとはだがなつかしくなってた。

蝶々ちょうちょうとんぼやきりぎりす……」というあのうたを、はや夕飯ゆうはんどき下手へた三味線しゃみせんうたっている芸者げいしゃがあった。

やま案内書あんないしょには、登路とろ日程にってい宿泊所しゅくはくじょ費用ひようなどが、簡単かんたんいてあるだけで、かえって空想くうそう自由じゆうにしたし、島村しまむらはじめて駒子こまこったのも、残雪ざんせつはだ新緑しんりょくえるやまあるいて、この温泉おんせんむらりてときのことだったし、自分じぶん足跡あしあとのこっているやまを、こうしてながめていると、いまあき登山とざん季節きせつであるから、やまこころさそわれてくのだった。無為徒食むいとしょくかれには、ようもないのに難儀なんぎしてやまあるくなど徒労とろう見本みほんのようにおもわれるのだったが、それゆえにまた非現実ひげんじつてき魅力みりょくもあった。

とおはなれていると、駒子こまこのことがしきりにおもわれるにかかわらず、さてちかくにてみると、なにか安心あんしんしてしまうのか、いまはもう彼女かのじょ肉体にくたいしたぎるのか、人肌ひとはだがなつかしいおもいと、やまさそわれるおもいとは、おなゆめのようにかんじられるのだった。昨夜ゆうべ駒子こまことまってったばかりだからでもあろう。しかししずかななかに一人ひとりすわっていては、ばなくても駒子こまこそうなものだと、心待こころまちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生じょがくせいたち若々わかわかしくさわこええているうちにねむろうとおもって、島村しまむらはやくからた。

やがて時雨しぐれとおるらしかった。

あくあさをあくと、駒子こまこつくえまえにきちんとすわってほんんでいた。羽織はおり銘仙めいせん不断着ふだんぎだった。

めた?」と、彼女かのじょしずかにって、こちらをた。

「どうしたんだい」

めた?」

らぬとまっていたのかとうたがって、島村しまむら自分じぶん寝床ねどこ見廻みまわしながら、まくらもとの時計とけいひろうとまだ六時ろくじはんだった。

はやいんだね」

「だって、女中じょちゅうさんがもうれにたわよ」

鉄瓶てつびんあさらしい湯気ゆげてていた。

きなさいよ」と、駒子こまこってて、かれまくらもとにすわった。ひどく家庭かていおんなめいた素振そぶりであった。島村しまむらびをしたついでに、おんなひざうえをつかんでちいさいゆび撥胼胝ばちだこもてあそびながら、

ねむいよ。よるがあけたばかりじゃないか」

一人ひとりでよくねむれた?」

「ああ」

「あんた、やっぱりひげをおしにならなかったのね」

「そうそう、このまえわかれるとき、そんなことってたね。ひげやせって」

「どうせわすれてたって、いいわよ。いつも青々あおあおときれいにってらっしゃるのね」

きみだって、いつでも白粉おしろいおとすと、いま剃刀かみそりをあてたばかりというかおだよ」

っぺたが、またおふとりになったんじゃないかしら。いろしろくて、ねむってらっしゃるところはひげがないとへんだわ。まるいわ」

柔和にゅうわでいいだろう」

たよりないわ」

「いやだね。じろじろてたんだね」

「そう」と、駒子こまこはにっこりうなずいてその微笑ほほえからきゅうがついたようにわらすと、らずらずかれゆびにぎにまでちからはいって、

押入おしいれに、かくれたのよ。女中じょちゅうさんちっともがつかないで」

「いつさ。いつからかくれてたんだ」

いまじゃないの? 女中じょちゅうさんがってときよ」

そしておもわらいがまらぬふうだったが、ふとみみまであからめると、それをまぎらわすように掛蒲団かけぶとんはしってあおぎながら、

きなさい。きてちょうだい」

さむいよ」と、島村しまむら蒲団ふとんかかえこんで、

宿やどじゃもうきてるのかい」

らないわ。うらからあがってたのよ」

うらから?」

杉林すぎばやしのところからのぼってたのよ」

「そんなみちがあるの?」

みちはないけれど、ちかいわ」

島村しまむらおどろいて駒子こまこた。

わたしたのをだれらないわ。お勝手かっておとがしてたけれど、玄関げんかんはまだしまってるんでしょう」

きみはまた早起はやおきなんだね」

昨夜ゆうべねむれなかったのよ」

時雨しぐれがあったのってる?」

「そう? あすこの熊笹くまざされてたの、それでなのね。かえるわね。もう一寝入ひとねいり、おやすみなさいね」

きるよ」と、島村しまむらおんなにぎったまま、いきおいよく寝床ねどこた。そのまままどって、おんなのぼってたというあたりを見下みおろすと、灌木類かんぼくるいしげりのすそ猛々たけだけしくひろがっていた。それは杉林すぎばやしつづおか中腹ちゅうふくで、まどのすぐしたはたけには、大根だいこん薩摩芋さつまいもねぎ里芋さといもなど、平凡へいぼん野菜やさいながらあさけて、それぞれのいろのちがいがはじめてるような気持きもちであった。

湯殿ゆどの廊下ろうかから、番頭ばんとう泉水せんすい緋鯉ひごいげていた。

さむくなったとみえて、いがわるくなりました」と、番頭ばんとう島村しまむらって、かいこさなぎくだいたみずんでいるのを、しばらくながめていた。

部屋へや掃除そうじしたばかりで、すこふるびたたたみあき朝日あさひふかしこんでいた。駒子こまこ清潔せいけつすわっていて、からあがって島村しまむらに、

「こんなしずかなところで、裁縫さいほうしてたら」

裁縫さいほう出来できるのか」

失礼しつれいね。きょうだいじゅうで、一番いちばん苦労くろうしたわ。かんがえてみると、わたしおおきくなるころが、ちょうどうちのくるしいときだったらしいわ」と、ひとりごとのようだったが、きゅうこえをはずませて、

こまちゃんいつたって、女中じょちゅうさんがへんかおしてたわ。二度にど三度さんど押入おしいれかくれることは出来できないし、こまっちゃった。かえるわね。いそがしいのよ。ねむれなかったから、かみあらおうとおもったの。あさはやあらっとかないと、かわくのをって、髪結かみゆいさんへって、ひる宴会えんかいわないのよ。ここにも宴会えんかいがあるけれど、昨夜ゆうべになってしらせてよこすんだもの。よそをけちゃったあとで、れやしない。土曜日どようびだから、とてもいそがしいのよ。あそびにれないわ」

そんなことをいながら、しかし駒子こまこあがりそうもなかった。

かみあらうのはめにして、島村しまむら裏庭うらにわさそした。さっきそこからしのんでたのか、渡廊下わたりろうかした駒子こまこれた下駄げた足袋たびがあった。