追いの歌を歌うのである。
ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村は鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。
「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日に帰って来たんだわ。もっとゆっくり看病して来ればよかった」
「誰か病気」
「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんですわ」
「よくなったの?」
「いいえ」
「それは悪かったね」と、島村は約束を守らなかったのを詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、
「ううん」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、ハンカチで机を払いながら、
「ひどい虫」
ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。
網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまって、澄み渡った月明りに浮んでいた。
「胃が痛い、胃が痛い」と、駒子は両手を帯の間へぐっと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。
襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫がたちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなくなるのもあった。
首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。二十一になったのだと、島村は思った。
彼の膝に生温かい湿りけが通って来た。
「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、帰って楽々寝ようと思ってると、ここからかかって来てるって言うんでしょう。大儀だからよっぽど止そうと思ったわ。昨夜飲み過ぎた。ねえさんの送別会だったの。お帳場で笑ってばかりいて、あんただった。一年ぶりねえ。一年に一度来る人なの?」
「あの饅頭を僕も食ったよ」
「そう?」と、駒子は胸を起した。島村の膝に押しつけていたところだけが赤らんで、急に幼なじみた顔に見えた。
次の次の停車場の町まで、あの年増芸者を見送って来たのだと言った。
「つまらないわ。前はなんでもすぐ纏まったけれど、だんだん個人主義になって銘々がばらばらなの。ここもずいぶん変ったわ。気性の合わない人が殖えるばかりなの。菊勇ねえさんがいなくなると、私は寂しいんです。なんでもあの人が中心だったから。売れることも一番で六百本を欠かすことはないから、うちでも大事にされてたんだけれど」
その菊勇は年期があけて生れた町へ帰るというが、結婚するのか、なにか水商売を続けるのかと島村が問うと、
「ねえさんも可哀想な人なの。お嫁入りは前に一度失敗して、ここへ来たのよ」と、駒子はその後を口籠って、とかくためらってから、月明りの段々畑の下を眺めて、
「あすこの坂の途中に、建ったばかりの家があるでしょう」
「菊村って小料理屋?」
「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分のために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、今から元の鞘におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよそで稼ぎ直すんですわ。可哀想なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね」
「男がね。五人もあったのかい」
「そうね」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。
「ねえさんも弱い人だったんだわ。弱虫だ」
「しかたがないさ」
「だってそうじゃないの。好かれたって、なんですか」
うつ向いたまま簪で頭を掻いた。
「今日送って行って、せつなかったわ」
「それでせっかくの店はどうしたの」
「本妻が来てやってるわ」
「本妻が来てやってるとは面白い」
「だって、開業の支度もすっかり出来てたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供もみんなつれて、本妻が移って来たわ」
「うちはどうしたんだね」
「お婆さんを一人残してあるんですって。百姓なんですけれど、主人がこんなこと好きなのね。それは面白い人」
「道楽者だね。もういい年なんだろう」
「若いのよ。三十二、三かしら」
「へええ。それじゃ本妻よりお妾さんのが年上になるところだったね」
「おない年の二十七ね」
「菊村というのは、菊勇の菊だろう。それを本妻がやってるのかね」
「一度出した看板を変えるわけにもいかないからでしょう」
島村が襟を掻き合わせると、駒子は立って行って窓をしめながら、
「ねえさんはあんたのこともよく知ってた。いらしたわねって、今日も言ってくれた」
「挨拶に来てたのを帳場で見かけたよ」
「なんか言った」
「言やしないよ」
「あんた私の気持ち分る?」と、駒子は今しめたばかりの障子をさっとあけて、窓に体を投げつけるように腰かけた。島村はしばらくしてから、
「星の光が東京とまるでちがうね。いかにも宙に浮いてるね」
「月夜だからそうでもないわ。今年の雪はひどかったわ」
「汽車がたびたび不通だったらしいね」
「ええ、こわいくらい。自動車の通うのが、例年より一月も後れて、五月だったわ。スキイ場に売店があるでしょう、あの二階を雪崩が突き抜けて、下にいた人はそんなこと知らなくて、変な音がするから、台所で鼠が騒いだんだろうと行ってみてなんともないから、二階へあがると雪だらけじゃないの。雨戸もなにも雪に持って行かれちゃってるのよ。表層雪崩なんだけれど、それをラジオで大きく放送したものよ。恐ろしがってスキイ客が来やしないの。今年はもう乗らないつもりで、去年の暮にスキイも人にくれちゃったのよ。それでも二、三度辷ったかしら。私変ってない?」
「お師匠さんが死んで、どうしてたんだ」
「ひとのことなんか、ほっときなさい。二月にはちゃんとここへ来て待ってたわ」
「港へ帰ったんなら、そうと手紙をよこせばいいじゃないか」
「いやよ。そんなみじめな、いやよ。奥さんに見られてもいいような手紙なんか書かないわ。みじめだわ。気兼ねして嘘つくことないわ」
駒子は早口に叩きつけるような激しさだった。島村はうなずいた。
「あんたそんな虫のなかに坐ってないで、電燈を消すといいわ」
女の耳の凹凸もはっきり影をつくるほど月は明るかった。深く射しこんで畳が冷たく青むようであった。
駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった。
「いや、帰して」
「相変らずだね」と、島村は首を反って、どこかおかしいようで少し中高な円顔を、真近に眺めた。
「十七でここへ来た時とちっとも変らないって、みんなそう言うわ。生活だって、それはおんなじなんですもの」
北国の少女の赤みがまだ濃く残っている。芸者風な肌理に月光が貝殻じみたつやを出した。
「でも、うちは変ったの御存じ?」
「お師匠さんが死んでね? もうあのお蚕さんの部屋にはいないんだね。今度のうちほんとうの置屋かい?」
「ほんとうの置屋って? そうね、店で駄菓子や煙草を売ってますわ。やっぱり私一人しかいないの。今度はほんとうの奉公だから、夜晩くなると、蠟燭をともして本を読むわ」
島村が肩を抱いて笑うと、
「そうかね」
「メエトルだから、電気を無駄づかいしちゃ悪いわ」
「でも、これが奉公かしらと思うことがあるくらい、うちの人はずいぶん大事にしてくれるのよ。子供が泣いたりすると、おかみさんが遠慮して表へ負ぶって出て行くわ。なんの不足もないけれど、寝床の曲ってるのだけはいやね。帰りがおそいと敷いといてくれるのよ。敷蒲団がきちんと重なってなかったり、敷布がゆがんでたりでしょう。そんなのを見ると、情なくなって来るのよ。そうかって、自分で敷き直すのは悪いわ。親切がありがたいから」
「君が家を持ったら苦労だね」
「皆そう言うわ。性分ね。うちに小さい子供が四人あるから散らかって大変なのよ。私はそれを一日かたづけて歩いてるわ。かたづける後から、どうせ散らかすのは分ってるんだけれど、気になってほっとけないんです。境遇の許す範囲で、これでも私、きれいに暮したいとは思ってるんですよ」
「そうだね」
「あんた私の気持ち分る?」
「分るよ」
「分るなら言ってごらんなさい。さあ、言ってごらんなさい」と、駒子は突然思い迫った声で突っかかって来た。
「それごらんなさい。言えやしないじゃないの。嘘ばっかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りゃしない」
そうして声を沈ますと、
「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい」
「そう君のように問いつめたって、はっきり言えるもんじゃない」
「なにが言えないの。あんたそれがいけないのよ」と、駒子はまだ術なげに声をつまらせたが、じっと目をつぶると自分というものを島村がなんとなく感じていてくれるのだろうかと、それは分ったらしい素振りを見せて、
「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね」
年期は四年だと言った。
「実家へ行く時は、また商売に出るなんて夢にも思わなくて、スキイも人にくれて行っちゃったのに、出来たことと言えば、煙草を止めただけだわ」
「そうそう、前にはずいぶん吹かしてたね」
「ええ。お座敷でお客さんのくれるのを、そっと袂へ入れるから、帰ると何本も出て来ることがあるわ」
「四年はしかし長いね」
「すぐ経ってしまいますわ」
「温かい」と、島村は駒子が近づいて来るままに抱き上げた。
「温かいのは生れつきよ」
「もう朝晩は寒くなっているんだね」
「私がここへ来てから五年だもの。初めは心細くて、こんなところに住むのかと思ったわ。汽車の開通前は寂しかったなあ。あんたが来はじめてからだって、もう三年だわ」
その三年足らずの間に三度来たが、そのたびごとに駒子の境遇の変っていることを、島村は思っていた。
轡虫が急に幾匹も鳴き出した。
「いやねえ」と、駒子は彼の膝から立ち上った。
北風が来て網戸の蛾がいっせいに飛んだ。
黒い眼を薄く開いていると見えるのは濃い睫毛を閉じ合わせたのだと、島村はもう知っていながら、やはり近々とのぞきこんでみた。
還って来る。
「煙草を止めて、太ったわ」
腹の脂肪が厚くなっていた。
離れていてはとらえ難いものも、こうしてみるとたちまちその親しみが返って来る。
駒子はそっと掌を胸へやって、
「片方が大きくなったの」
「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり」
「あら。いやだわ。嘘、いやな人」と、駒子は急に変った。これであったと島村は思い出した。
「両方平均にって、今度からそう言え」
「平均に? 平均にって言うの?」と、駒子は柔かに顔を寄せた。
この部屋は二階であるが、家のぐるりを蝦蟇が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長いこと鳴いていた。
内湯から上って来ると、駒子は安心しきった静かな声でまた身上話をはじめた。
ここで初めての検査の時に、半玉の頃と同じだと思って、胸だけ脱ぐと笑われたこと、それから泣き出してしまったこと、そんなことまで言った。島村に問われるままに、
「私は実に正確なの、二日ずつきちんと早くなって行くの」
「だけどさ、お座敷へ出るのに困るというようなことはないだろう」
「ええ、そんなこと分るの?」
温まるので名高い温泉に毎日入っているし、旧温泉と新温泉との間をお座敷通いすれば一里も歩くわけになるし、夜更しも少い山暮しだから、健康な固太りだけれども、芸者などにありがちの少うし腰つぼまりだった。
横に狭くて縦に厚い。そのくせ島村が遠く惹かれて来るような女であることは、哀れ深いものがあった。
「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と、駒子は生真面目にたずねた。一人の人とつきあってれば、夫婦とおなじではないかと言うのだった。
駒子にそういう人のあるのを島村は初めて知った。十七の年から五年続いていると言う。島村が前から訝しく思っていた、駒子の無知で無警戒なのはそれで分った。
半玉で受け出してくれた人に死に別れて、港へ帰るとすぐにその話があったためか、駒子は初めから今日までその人が厭で、いつまでも打ちとけられないと言う。
「五年も続けば、上等の方じゃないか」
「別れる機会は二度もあったのよ。ここで芸者に出る時と、お師匠さんのうちから今のうちへ変る時と。でも、意志が弱いんだわ。ほんとうに意志が弱いんだわ」
その人は港にいると言う。その町に置くのは都合が悪いので、師匠がこの村へ来るついでに預けてよこしたのだと言う。親切な人だのに、一度も生き身をゆるす気になれないのは、悲しいと言う。年がちがうので、たまにしか来ないと言う。
「どうしたら切れるか、よっぽど不行跡を働こうと時々思うのよ。ほんとうに思うんですよ」
「不行跡はよくない」
「不行跡は出来ない。やっぱり性分でだめだわ。私は自分の生きてる体が可愛いわ。しようとおもえば、四年の年期が二年になるんだけれど、無理をしないの。体が大事だから。無理すれば、ずいぶん線香が出るだろうな。年期だから、主人に損をかけなければいいのよ。元金が月に割って幾ら、利子が幾ら、税金が幾ら、それに自分の食い扶持を勘定に入れて、分ってるでしょう。それ以上あまり無理して働くこともないわ。めんどくさい座敷でいやなら、さっさと帰っちまうし、おなじみの名指しでなければ、宿でも夜おそくかけてよこさないわ。自分で贅沢する分にはきりがないけれども、気随に稼いでいて、それですむんですもの。もう元金を半分以上返したわ。まだ一年にならないわ。それでもお小遣がなにやかやと月三十円はかかるわね」
月に百円稼げばいいのだと言った。先月一番少い人で三百本の六十円だと言った。駒子は座敷数が九十幾つで一番多く、一座敷で一本が自分の貰いになるので、主人には損だが、どんどん廻るのだと言った。借金を殖やして年期の延びた人は、この温泉場には一人もないと言った。
翌る朝、駒子はやはり早くて、
「お花のお師匠さんとこのお部屋を掃除している夢を見て、目が覚めちゃったの」
窓ぎわへ持ち出した鏡台には紅葉の山が写っていた。鏡のなかにも秋の日ざしが明るかった。
駄菓子屋の女の子が駒子の着替えを持って来た。
「駒ちゃん」と、悲しいほど澄み通る声で襖の陰から呼ぶ、あの葉子ではなかった。
「あの娘さんはどうした」
駒子はちらっと島村を見て、
「お墓参りばかりしてるわ。スキイ場の裾にほら、蕎麦の畑があるでしょう、白い花の咲いてる。その左に墓が見えるじゃないの?」
駒子が帰ってから島村も村へ散歩に行ってみた。
白壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いて、女の子がゴム鞠を突いていた。
大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしかなくて長細い。軒端に萱の簾を垂れている。
土坡の上に糸薄を植えた垣があった。糸薄は桑染色の花盛りであった。その細い葉が一株ずつ美しく噴水のような形に拡がっていた。
そうして道端の日向に藁莚を敷いて小豆を打っているのは葉子だった。乾いた豆幹から小豆が小粒の光のように踊り出る。
手拭をかぶっているので島村が見えないのか、葉子は山袴の膝頭を開いて小豆を叩きながら、あの悲しいほど澄み通って木魂しそうな声で歌っていた。
蝶々とんぼやきりぎりす
お山でさえずる
松虫鈴虫くつわ虫
杉の樹をつと離れた、夕風のなかの鳥が大きい、という歌があるが、この窓から見下す杉林の前には、今日も蜻蛉の群が流れている。夕が近づくにつれ、彼等の游泳はあわただしく速力を早めて来るようだった。
島村は出発の前に駅の売店でここらあたりの山案内書の新刊を見つけて買って来た。それをとりとめなく読んでいると、この部屋から見晴らす国境の山々、その一つの頂近くは、美しい池沼を縫う小路で、一帯の湿地にいろんな高山植物が花咲き乱れ、夏ならば無心に赤蜻蛉が飛び、帽子や人の手や、また時には眼鏡の縁にさえとまるのどかさ、虐げられた都会の蜻蛉とは雲泥の差であると書いてあった。
しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にその姿を消されまいとあせっているもののように見える。
遠い山は西日を受けると、峰から紅葉して来ているのがはっきり分って来た。
「人間なんて脆いもんね。頭から骨まで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。熊なんか、もっと高い岩棚から落ちたって、体はちっとも傷がつかないそうよ」と、今朝駒子が言ったのを島村は思い出した。
岩場でまた遭難があったという、その山を指ざしながらであった。
熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ。そんなことを思って夕日の山を眺めていると島村は感傷的に人肌がなつかしくなって来た。
「蝶々とんぼやきりぎりす……」というあの歌を、早い夕飯時に下手な三味線で歌っている芸者があった。
山の案内書には、登路、日程、宿泊所、費用などが、簡単に書いてあるだけで、かえって空想を自由にしたし、島村が初めて駒子を知ったのも、残雪の肌に新緑の萌える山を歩いて、この温泉村へ下りて来た時のことだったし、自分の足跡も残っている山を、こうして眺めていると、今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘われて行くのだった。無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。
遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられるのだった。昨夜駒子が泊って行ったばかりだからでもあろう。しかし静かななかに一人坐っていては、呼ばなくても駒子も来そうなものだと、心待ちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生達の若々しく騒ぐ声が聞えているうちに眠ろうと思って、島村は早くから寝た。
やがて時雨が通るらしかった。
翌る朝目をあくと、駒子が机の前にきちんと坐って本を読んでいた。羽織も銘仙の不断着だった。
「目が覚めた?」と、彼女は静かに言って、こちらを見た。
「どうしたんだい」
「目が覚めた?」
知らぬ間に来て泊っていたのかと疑って、島村が自分の寝床を見廻しながら、枕もとの時計を拾うとまだ六時半だった。
「早いんだね」
「だって、女中さんがもう火を入れに来たわよ」
鉄瓶は朝らしい湯気を立てていた。
「起きなさいよ」と、駒子は立って来て、彼の枕もとに坐った。ひどく家庭の女めいた素振りであった。島村は伸びをしたついでに、女の膝の上の手をつかんで小さい指の撥胼胝を弄びながら、
「眠いよ。夜があけたばかりじゃないか」
「一人でよく眠れた?」
「ああ」
「あんた、やっぱり髭をお伸しにならなかったのね」
「そうそう、この前別れる時、そんなこと言ってたね。髭を生やせって」
「どうせ忘れてたって、いいわよ。いつも青々ときれいに剃ってらっしゃるのね」
「君だって、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だよ」
「頬っぺたが、またお太りになったんじゃないかしら。色が白くて、眠ってらっしゃるところは髭がないと変だわ。円いわ」
「柔和でいいだろう」
「頼りないわ」
「いやだね。じろじろ見てたんだね」
「そう」と、駒子はにっこりうなずいてその微笑から急に火がついたように笑い出すと、知らず識らず彼の指を握る手にまで力が入って、
「押入に、隠れたのよ。女中さんちっとも気がつかないで」
「いつさ。いつから隠れてたんだ」
「今じゃないの? 女中さんが火を持って来た時よ」
そして思い出し笑いが止まらぬ風だったが、ふと耳の根まで赤らめると、それを紛らわすように掛蒲団の端を持って煽ぎながら、
「起きなさい。起きてちょうだい」
「寒いよ」と、島村は蒲団を抱えこんで、
「宿じゃもう起きてるのかい」
「知らないわ。裏から上って来たのよ」
「裏から?」
「杉林のところから掻き登って来たのよ」
「そんな路があるの?」
「路はないけれど、近いわ」
島村は驚いて駒子を見た。
「私が来たのを誰も知らないわ。お勝手に音がしてたけれど、玄関はまだしまってるんでしょう」
「君はまた早起きなんだね」
「昨夜眠れなかったのよ」
「時雨があったの知ってる?」
「そう? あすこの熊笹が濡れてたの、それでなのね。帰るわね。もう一寝入り、お休みなさいね」
「起きるよ」と、島村は女の手を握ったまま、勢いよく寝床を出た。そのまま窓へ行って、女が掻き登って来たというあたりを見下すと、灌木類の茂りの裾が猛々しく拡がっていた。それは杉林に続く丘の中腹で、窓のすぐ下の畑には、大根、薩摩芋、葱、里芋など、平凡な野菜ながら朝の日を受けて、それぞれの葉の色のちがいが初めて見るような気持ちであった。
湯殿へ行く廊下から、番頭が泉水の緋鯉に餌を投げていた。
「寒くなったとみえて、食いが悪くなりました」と、番頭は島村に言って、蚕の蛹を干し砕いた餌が水に浮んでいるのを、しばらく眺めていた。
部屋は掃除したばかりで、少し古びた畳に秋の朝日が深く差しこんでいた。駒子が清潔に坐っていて、湯から上って来た島村に、
「こんな静かなところで、裁縫してたら」
「裁縫が出来るのか」
「失礼ね。きょうだいじゅうで、一番苦労したわ。考えてみると、私の大きくなる頃が、ちょうどうちの苦しい時だったらしいわ」と、ひとりごとのようだったが、急に声をはずませて、
「駒ちゃんいつ来たって、女中さんが変な顔してたわ。二度も三度も押入に隠れることは出来ないし、困っちゃった。帰るわね。いそがしいのよ。眠れなかったから、髪を洗おうと思ったの。朝早く洗っとかないと、乾くのを待って、髪結いさんへ行って、昼の宴会の間に合わないのよ。ここにも宴会があるけれど、昨夜になってしらせてよこすんだもの。よそを受けちゃった後で、来れやしない。土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来れないわ」
そんなことを言いながら、しかし駒子は立ち上りそうもなかった。
髪を洗うのは止めにして、島村を裏庭へ誘い出した。さっきそこから忍んで来たのか、渡廊下の下に駒子の濡れた下駄と足袋があった。