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近代の文学
(章扉)
近代の文学【概観】
年代表(明治時代)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一八六八(明治1) | 明治維新。文明開化 |
| 一八七一 | 仮名垣魯文「安愚楽鍋」 |
| 一八七四頃 | *自由民権運動始まる。政治小説の盛行 |
| 一八八五 | *坪内逍遥「小説神髄」「当世書生気質」。写実主義 |
| 一八八七 | *二葉亭四迷「浮雲」。落合直文 |
| 一八八八 | 浅香社結成(落合直文) |
| 一八八九 | *大日本帝国憲法布告。森鷗外「於母影」「舞姫」 |
| 一八九一 | *北村透谷「楚囚之詩」。「文学界」創刊 |
| 一八九四〜九五 | *日清戦争。幸田露伴「五重塔」。*紅露の時代 |
| 一八九六 | *樋口一葉「たけくらべ」。島崎藤村「若菜集」 |
| 一八九七 | *尾崎紅葉「金色夜叉」。徳富蘆花「不如帰」。「ホトトギス」創刊(正岡子規) |
近世から近代へ
明治の新政府が誕生した明治元年(一八六八)から現在までを、近代として扱う。列強諸国に伍することのできるだけの力を備えた資本主義国に発展したという世界史における近代を迎えることができた日本史における近代である。しかしここには、あまりにも性急な西洋化と矛盾が付随しており、文学も常にその影響や制約をさまざまな形で受けている。
「現代」と呼ぶこともある。その起点は、第一次世界大戦後の社会運動を経て、プロレタリア文学が台頭してきた時期に求める考え方もある。
近代の出発
明治前半の二十年間は、近世から近代への過渡期にあたる。開国以来洪水のように流入してきた西洋の思想や文化の強い影響のもとで、文学の意味や概念が大きく変化した。その主な内容は、(1)「文学」という言葉が近世的概念(儒学を中心とする教養全般)から言語芸術の概念へと移行し、小説が文学の首座を占めるようになったこと、(2)文学に知識人の自由な手が認められるようになり、政治小説の流行を通じて坪内逍遥らによってその理論化が拡大されたこと、(3)学校教育と活版印刷およびマスコミの発達によって読者層が飛躍的に拡大したこと、などである。伝統的な漢詩・和歌に代わる新しい韻文表現形式を模索した新体詩の試みが始まった。
日本文学に近代的な実質をもたらしたのは、ロシア文学を通じて水準の高いリアリズム論を体得していた二葉亭四迷であり、
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年代表(明治35〜大正時代)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一九〇一(明治34) | *与謝野晶子「みだれ髪」。泉鏡花「高野聖」 |
| 一九〇二(明治35) | 国木田独歩「武蔵野」 |
| 一九〇四〜〇五(明治37-38) | *日露戦争 |
| 一九〇五(明治38) | *上田敏「海潮音」。自然主義の台頭 |
| 一九〇六(明治39) | *島崎藤村「破戒」。文芸協会(坪内逍遥) |
| 一九〇七(明治40) | *田山花袋「蒲団」 |
| 一九〇九(明治42) | 夏目漱石「それから」。第一次「新思潮」 |
| 一九一三(大正2) | *斎藤茂吉「赤光」。森鷗外「阿部一族」。第三次「新思潮」 |
| 一九一四(大正3) | *夏目漱石「こゝろ」。高村光太郎「道程」 |
| 一九一五(大正4) | 森鷗外「山椒大夫」。芥川龍之介「羅生門」 |
続いてドイツから帰国した森鷗外が、評論・詩・翻訳詩などの各分野で浪漫的傾向を帯びた啓蒙活動を精力的に展開した。しかし、その期間は短く、やがて帝国憲法に基づく国家体制が成立する前後から顕著になってきた国粋主義的な気運を背景にして、尾崎紅葉らの硯友社が力を持ち、その元禄風の技巧文学が日清戦争の前後まで続いた。また、北村透谷を中心とした同人誌「文学界」では浪漫主義的な青年詩人たちの活動があった。
近代の成立
詩の分野では自我の解放と官能の肯定を軸にした浪漫主義が興隆し、島崎藤村の活躍や雑誌「明星」(与謝野晶子ら)の大胆な歌の活動が目立った。
日清戦争から日露戦争を境に、文学にも浪漫主義に代わる自然主義の潮流が起こった。自然主義と呼ばれたこの新しい文学運動は、藤村と田山花袋によってその扉を開かれ、島村抱月らから有力な批評家の参加を得て、またたく間に文壇最大の流派としての勢力を得た。
自然主義の功績は、二葉亭四迷たちの言文一致による口語文体を近代小説唯一の文体として確立させたことであり、また口語自由詩を生み出したことである。しかし、自然主義は現実の諸矛盾を直視することを目ざさず、観照のリアリズムとして定着し、やがて私小説と呼ばれる日本独特の小説形式が出て来た。文学運動としては衰退に向かっていった。
大正・昭和時代
| 西暦 | 時代 | おもなできごと |
| 一九一六 | 大正5 | 第四次「新思潮」(芥川龍之介・久米正雄)。夏目漱石没。「高瀬舟」「渋江抽斎」(森鷗外) |
| 一九一七 | 大正6 | 「城の崎にて」(志賀直哉)。「月に吠える」(萩原朔太郎)。「父帰る」(菊池寛) |
| 一九一九 | 大正8 | 「暗夜行路」(志賀直哉)。「或る女」(有島武郎) |
| 一九二一 | 大正10 | *「種蒔く人」(プロレタリア文学) |
| 一九二四 | 大正13 | *新感覚派。「文芸時代」 |
| 一九二五 | 大正14 | *築地小劇場(小山内薫ら) |
| 一九二六 | 大正15 | 「伊豆の踊子」(川端康成) |
| 一九二七 | 昭和2 | 「河童」(芥川龍之介)。芥川没(自殺) |
| 一九二九 | 昭和4 | 「蟹工船」(小林多喜二)。「太陽のない街」(徳永直) |
| 一九三〇 | 昭和5 | 「機械」(横光利一)。「測量船」(三好達治) |
| 一九三二 | 昭和7 | 「四季」創刊 |
| 一九三三 | 昭和8 | *「文芸復興」(小林秀雄ら)。「歴程」(草野心平ら) |
大正の文学
こうした自然主義の事実偏重主義にくみせず、国家や官僚に対しては対照的な態度を守った独自の作家的境地を持ったのが夏目漱石と森鷗外であった。この二人は、文明批評的な視野の広さと豊かな教養に裏付けられた質の高い作品を次々に発表した。
また、鷗外が創刊に関与した「スバル」は、「美」の復権を求める耽美派の拠点となり、代表作家である谷崎潤一郎・北原白秋らを詩人の活躍とあわせて文壇に送り出した。
自然主義や耽美派と対立していた明治末の文壇に新風を吹きこんだのは、武者小路実篤や志賀直哉たちの白樺派である。理想主義的なヒューマニズムと強烈な自我肯定を特色とする白樺派は、上流階層から出てきた彼らの作品内容、および文語を落とした自由平明な文体とによって、大正前期の文壇の主流としての地位を獲得した。
耽美派から出て白樺派に接近した高村光太郎は、萩原朔太郎とともに大正前期の文壇の主流としての口語自由詩の完成に大きな役割を果たした。
近代から現代へ
大正前期には、耽美派や白樺派が見すごしてきた現実をもう一度とらえ直そうとする傾向が強くなり、数多くの大正の作家たちが行き着いたのは、芥川龍之介や菊池寛、あるいは新早稲田派と呼ばれる一群の作家など、体験的な事実の世界でリアリズムをみがきあげてきた私小説の方向であった。それは芸術家としての純粋性の達成と同時に、深刻な行き詰まりをもたらさずにはおかなかった。
第一次世界大戦後、マルクス主義の影響を受けた労働運動・社会運動が急速に発展してきた。その中から生まれてきたプロレタリア文学は、階級性という新しい主張を掲げて大正文壇を大きくゆるがした。この流れは「種蒔く人」から「文芸戦線」へと進むにつれて、しだいに革命的な色彩を濃厚に
昭和時代(戦前・戦中)
| 西暦 | 時代 | おもなできごと |
| 一九三六 | 昭和11 | *日本浪曼派 |
| 一九三七 | 昭和12 | 「風立ちぬ」(堀辰雄)。「雪国」(川端康成)。*日中戦争 |
| 一九三八 | 昭和13 | 「麦と兵隊」(火野葦平)。*国策文学 |
| 一九四一 | 昭和16 | *太平洋戦争始まる |
| 一九四二 | 昭和17 | 「山月記」(中島敦) |
| 一九四五 | 昭和20 | *終戦 |
昭和時代(戦後)〜平成
| 西暦 | 時代 | おもなできごと |
| 一九四七 | 昭和22 | 「ヴィヨンの妻」「斜陽」(太宰治) |
| 一九四八 | 昭和23 | 「人間失格」(太宰治)。「荒地」(詩誌) |
| 一九四九 | 昭和24 | 「真空地帯」(野間宏) |
| 一九五三 | 昭和28 | *第三の新人(安岡章太郎ら) |
| 一九五五 | 昭和30 | 「太陽の季節」(石原慎太郎)。「白い人」(遠藤周作) |
| 一九五七 | 昭和32 | 「金閣寺」(三島由紀夫) |
| 一九六八 | 昭和43 | *川端康成ノーベル賞受賞 |
| 一九七〇 | 昭和45 | *三島由紀夫没 |
| 一九九四 | 平成6 | *大江健三郎ノーベル賞受賞 |
戦争と文学
していった。一方、私小説的伝統の打破を目ざすもう一つの流れとして、横光利一・川端康成らの新感覚派の勢力があり、有島武郎と芥川という「既成作家」を挟撃する形で、文学史における昭和の幕が開かれたのである。
プロレタリア文学は、昭和三年(一九二八)のナップ(全日本無産者芸術連盟)結成以降ますます勢いを増し、小林多喜二らの強い影響力をもった。しかし、満州事変以来中国大陸に対する政治優先の動きが急速に発展してきた。政府が国内の弾圧体制を一段と強化する中で、文学運動は壊滅に追いこまれていった。その後、既成作家の復活や、転向作家と非プロレタリア文学系作家との協同、小林秀雄の活躍をあわせて、「文芸復興」と呼ばれる一時的な活気が文壇に生まれた。
日中戦争から太平洋戦争へと至る中で、知識人読者層にも強い影響力をもつプロレタリア文学は壊滅に追いこまれ、ファシズムの進行が表現の自由を奪い、国策文学・戦意高揚の文学が強制された。この暗黒状況は日本の敗戦まで続いた。
戦後の文学
敗戦後、戦争の傷跡を心の中に残しながらも、文学再生に向かっての新しい息吹きが生まれた。その主なものは、志賀直哉・谷崎潤一郎らいわゆる老大家の復活、旧プロレタリア作家を中心にした批評家たちの理論活動と「近代文学」誌の活動、野間宏・大岡昇平を初めとする戦後派と呼ばれる新人作家たちの登場、太宰治・坂口安吾ら「無頼派」の活躍、宮本百合子ら旧プロレタリア作家の活動、「荒地」を初めとする戦後詩派の出発などである。
その後の戦後文学は、出版ジャーナリズムの巨大化という新しい条件の出現に伴う問題を含みこみながら、次々に新しい作家を生み出して今日に至っている。
小説・評論
近世から近代へ
(明治初年〜十年代)
明治政府の誕生と同時に文学史上の近代が始まったわけではない。近世では儒学を中心とする武士階級の教養全般を意味する言葉であった「文学」が、芸術の一ジャンルを示す用語に変わり、しかも小説がその首座を占めるという概念が定着するまでだけでも、なお二十年ほどの歳月が必要だったのである。
●移行期の文学
この、近世的文学観から近代的文学観への移行期には、まず江戸末期からの伝統的文法によって明治の新風俗を描いた戯作の流れがあり、これに文明開化の洪水の中から生まれてきた翻訳小説や、自由民権運動の隆盛を母胎にした政治小説の系列が加わることによって、小説に新しい可能性が切り開かれていった。また、活版印刷による識字人口の増加が読者層の全国的拡大をもたらし、学校教育による識字人口の増加が、近代文学出発の外的条件をしだいに整えつつあった。
- ▶戯作・戯作者
- 「戯作」とは、戯れに作ること、またはその作品の意で、文学史上では近世後期の読本・洒落本・黄表紙などの作者を「戯作者」と称した。こうした小説観は明治初期にまで受け継がれ、戯作文学の流れとしてとらえられる。
- ▶翻訳小説
- 西洋文学の自覚的な翻訳が始まったのは明治十年代に入ってからである。明治十一・十二年、原作者リットンの作品をなした丹羽純一郎訳「花柳春話」は、西洋人の感情生活を描いた翻訳小説の先駆となった。
●仮名垣魯文
幕末からの戯作者たちの中で、「西洋道中膝栗毛」(明治3〜9)や「安愚楽鍋」(明治4〜5)によっていち早く文明開化の時流に乗った仮名垣魯文は、その後一時小説の筆を絶っていたが、やがて新聞の「つづきもの」の作者として復活し、「高橋阿伝夜叉譚」(明治12)などは庶民の間で大きな人気を博した。
●政治小説
趣向に託した寓意小説や、外国の革命文学の翻訳・翻案で始まった政治小説は、自由民権運動の宣伝・啓蒙手段として、作者の政治主張を戯作的な寓意で表現し、やがて小説自体としての魅力を生み出すようになった。代名の主人公を登場させ、世界の弱小諸民族の悲劇を題材にした矢野龍渓の「経国美談」(明治16〜)は古代ギリシアの歴史を背景にした作品であった。東海散士の「佳人之奇遇」(明治18〜30)は、雄大なロマン性とモチーフの鮮烈さによって、当時の青年たちから熱烈な支持を受けた。
続いて出た末広鉄腸の「雪中梅」(明治19)・「花間鶯」などが写実性という点でさらに前進し、政治が庶民の文化的レベルにまで後退させられていく実情が描かれていた。
- ▶「つづきもの」
- 明治五年(一八七二)ごろ、実学・実際の役に立つ学問を重視する明治政府が、新聞小説をほとんど排除していた時期、新聞の連載読物として始まった。やがてジャーナリズムが読者の声にこたえるため連載化を進め、長編小説の出発の先駆となった。
- ▶翻訳政治小説
- フランス革命を題材にした原作を桜田百衛が自由に翻訳した「西洋血潮小説風」(明治18)、ロシアの革命運動を描いた宮崎夢柳の作品が、この分野での最高の達成を示した。
「小説の主眼は人情なり。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にて、所謂世態風俗これに次ぐ。善悪正邪の心の内幕、所謂百八煩悩これなり。(中略)此人情の奥を穿ちて周密精到に及び、その骨体を穿つにあらざれば、其皮相のみを写したる、人情を灼然として見えしむるのみにて、よしや人情を写すとも、小説とはいふべからず。」
(「小説神髄」上巻「小説の主眼」)
近代の出発
(明治二十年代)
明治二十年(一八八七)は、「浮雲」の第一編が発表された年である。ロシア文学の最高傑作群に魅せられた若き二葉亭四迷が全力を投入して書いたこの小説の出現によって、日本の文学史は、ようやく近代小説の名に値する作品を得たのである。言文一致という文体上の試みの画期性とあわせて、その歴史的意義はきわめて高い。
- ▶山田美妙
- 明治元年(一八六八)〜明治四十年(一九〇七)。尾崎紅葉らとともに日本最初の文芸雑誌「我楽多文庫」(硯友社)の結成同人の一人であった。言文一致体による歴史小説「武蔵野」(明治20)や「蝴蝶」(明治22)で時代を画したが、のちに文壇の主流からはずれ、さらにゴシップに巻き込まれていった。
- ▶小説改良
- 鹿鳴館(明治16落成)に象徴される欧化最盛期。明治十年代後半は、西洋の近代に対する「小説改良」論がさまざまな形で生じた。この気運の中から「新体詩抄」の編集者も生まれ、外山正一ら社会進化論を主導する学者たちが論じた。
- ▶坪内逍遥
- 安政六(一八五九)〜昭和十四(一九三九)年。大学在学中、外山正一の講義を受けて社会進化論に基づく改良主義者となった。尾崎紅葉らとともに硯友社の結成に関わり、明治文壇の中心となった。
だが、明治二十二年(一八八九)、二葉亭は先駆者としての苦悩の果てに、ついに「浮雲」の完成を断念したまま文壇から姿を消した。帝国憲法が制定されたのも同年であり、また言文一致体創始者の栄誉を二葉亭と分かちあった山田美妙も、ほぼ同じころ、国粋主義的な風潮の高まりの中で精彩を失いはじめていった。
みずからのドイツ留学の体験に基づく清新なロマンチシズムを文壇に吹きこんだ森鷗外も、その後「舞姫」などを矢つぎ早に発表しただけで、小説制作から遠ざかった。そして、以後明治二十年代の中後半の文壇は、尾崎紅葉を総帥とする硯友社の風俗写実主義が、幸田露伴との間で東洋的浪漫性と補い合いながら、小説の分野での強大な勢力を確立していた。
●文芸批評の成立
明治二十年代は、文芸批評が初めて文学の一ジャンルとして成立し始まりの時期である。文学批評家が次々に登場し、石橋忍月・内田不知庵・斎藤緑雨らも活躍した。評論専門雑誌「しがらみ草紙」の主宰者森鷗外と、「早稲田文学」に拠った坪内逍遥との間で行われた「没理想論争」(明治24〜25)は、この時期の最大の事件としてあげることができる。
- ▶硯友社
- 明治十八年に東京大学予備門(後の「一高」)の学生たちを中心に成立した文学結社。尾崎紅葉らが主宰し、日本最初の文学雑誌「我楽多文庫」を創刊した。初期の同人には尾崎紅葉・山田美妙のほか、川上眉山・泉鏡花らがいた。
- ▶石橋忍月
- 慶応元年(一八六五)〜大正十五年(一九二六)。明治文壇を代表する批評家の一人。
- ▶内田不知庵
- 慶応四年(一八六八)〜昭和四年(一九二九)。明治の文芸批評家。
- ▶斎藤緑雨
- 慶応元年(一八六七)〜明治三十七年(一九〇四)。明治の欧化文明を辛辣に批判し続けた個性的な批評家。
- ▶没理想論争
- 明治二十四〜二十五年(一八九一〜九二)に坪内逍遥と森鷗外が行った論争。絶対的な批評基準の確立を主張する鷗外と、「没理想」の立場に立つ逍遥が対立した。論争は実質的な成果なく終わった。
二葉亭四迷
二葉亭四迷は、ロシア文学に範を仰ぎながら、広い社会性と生き生きとした形象性との統一の実現を目ざして、処女作「浮雲」(明治20〜22)に着手した。三の内面だけに絞られていくという展開上の悩みに、言文一致体の文章上の苦しみが加わり、彼はついに第三編の中途でこの小説を放棄し、作家たることを断念してしまった。二葉亭が小説の世界に復活してくるのは、十年近くの後、「其面影」(明治39)の発表によってである。
なお、「浮雲」の制作と並行して二葉亭はツルゲーネフの翻訳「めぐりあひ」(明治21)を発表した。原文に対する徹底的な忠実さと自然な口語文体の美しさによって、翻訳文学史上に新時代を画すると同時に、若い読者に大きな影響を与えた。
「サッパリとはしてるれど、おもしろ気もおかし気もなく、心細く成ッて来た……眼に遮る物象はどうやらさびれはてたうちにも、間近になった冬のすさまじさが見透かされるように思はれて。小心な風が重さうに羽ばたいてる……」
(「あひき」末尾)
- ▶二葉亭四迷
- 元治元年(一八六四)〜明治四十二年(一九〇九)。東京外国語学校でロシア語を学び、ベリンスキーの理論をもとにした「模写・事実」という概念を重んじ、ツルゲーネフやドストエフスキーの文学の高さを逍遥に伝えて刺激を与えた。
- ▶写実主義
- リアリズム。現実をありのままに表すことを目ざした創作態度を軸にした創作方法。
- ▶言文一致
- 小説に口語体の文章表現を用いる試みは明治初年からあったが、一般的な文章表現を口語化する運動を大きく前進させたのは二葉亭であった。山田美妙も「です」「だ」調の言文一致体を試みたが、二十年代中期には二葉亭の「だ」調が主流となった。
「たきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回らせて、横目で自分をにらめッて、急に飛び上ッて、声をちぎるやうに喚きたりながら、鳩が幾羽ともなく群をなして、殻倉の方から林の向こうへくれてしまった。……さてパッと勢い込んで野面に散ッた……ア、秋だ!誰だか車の音が虚空に響きわたッた……」
(原作・ツルゲーネフ「猟人日記」の一節)
初期の鷗外
ドイツ留学から帰国した森鷗外は、ヨーロッパの近代性と日本の前近代性との距離の自覚に立って、精力的な文筆活動を開始した。小説の分野では、ベルリンを舞台にして日本人留学生太田豊太郎と踊り子エリスとの悲恋を雅文体の手記形式でつづった「舞姫」(明治23)に始まって、「うたかたの記」(明治23)・「文づかひ」(明治24)と続く、浪漫的な情感に包まれた近代的自我の問題を提出したドイツ三部作が残されている。しかし、この時期の鷗外の仕事の中心は、むしろ「戦闘的啓蒙」活動にあった。
彼の議論は多方面にわたったが、文学の面では、日本で最初の本格的文芸評論雑誌「しがらみ草紙」を創刊(明治22)して活発な小説論を展開し、また西欧の名作の翻訳紹介を積極的に行った。
- ▶しがらみ草紙
- 鷗外とその弟森篤次郎を中心に、「消々たる文壇の流れに楔をかける」という目的で創刊された月刊雑誌。文学・芸術方面での鷗外の啓蒙活動の拠点となった。明治二十七年(一八九四)、日清戦争出征を機に廃刊。鷗外の訳業の中で最も人気を集めた「即興詩人」(明治35、原作者アンデルセン)も、前半部は「しがらみ草紙」に連載されたものである。
●紅露の時代
山田美妙が抜けたあとの硯友社のリーダー尾崎は、井原西鶴の影響を受けて元禄文学的色調の濃い「比丘尼色懺悔」(明治22)によって認められ、折からの国粋主義的な気運に乗って、またたく間に一門を率いて文壇の主導権を握った。同じころ、やはり西鶴の影響を深く受けながら、文壇とは対照的に東洋風な雅な作風を特色とする新人作家幸田露伴があらわれ、遊逝・四迷・鷗外が相次いで小説制作から遠ざかったあとの文壇に、「紅露の時代」と呼ばれる一時期を形成した。
「伽羅枕」(明治23)・「三人妻」(明治25)などで女性が主人公の小説を得意とし、物語的な構成と工巧に打ちこむ職人気質で知られた紅葉の写実主義は、風俗小説的な皮相さを免れていないが、展開に発揮された才能には非凡なものがある。また露伴は、「風流仏」(明治22)や「五重塔」(明治24)などで、男性的な筆致で明治型近代に対する批判の一視点を示した。
●北村透谷と「文学界」
評論家として注目された北村透谷らが、明治二十六年(一八九三)「文学界」を創刊した。眠世詩家と女性に関する批判の一視点を示し、「人生に相渉るとは何ぞや」などで浪漫主義的な恋愛賛美と個人の内面解放を主張した。島崎藤村や上田敏らとともに、「文学界」は明治浪漫主義の拠点となった。
- ▶尾崎紅葉
- 慶応三年(一八六七)〜明治三十六年(一九〇三)。紅露時代を形成したのち、「天うつ浪」(明治36〜38)の中絶により惜しまれた。
- ▶文学界
- キリスト教的女子啓蒙雑誌「女学雑誌」(明治18創刊)から独立した雑誌。同人には馬場孤蝶・戸川秋骨・平田禿木らのほか、島崎藤村や上田敏らが加わった。明治二十六〜三十一年(一八九三〜九八)。
- ▶北村透谷
- 明治元年(一八六八)〜明治二十七年(一八九四)。明治二十六年で「眠世詩家と女性」で斬新な恋愛賛美の思想を大胆に主張し、「人生に相渉るとは何ぞや」などで活躍した。
- ▶浪漫主義
- ロマンティシズムの訳。日本では、個性と自我の解放を感性的方向に求めた文学。二十年代から三十年代に隆盛し、「文学界」と「明星」を中心に、泉鏡花・森鷗外の初期作品・高山樗牛の批評などが代表とされる。
- ▶広津柳浪
- 文久元年(一八六一)〜昭和四十年(一九六五)。悲惨小説の代表作家として知られた。代表作に「今戸心中」(明治22)・「変目伝」(明治29)・「雨」(明治35)などがある。
「内部生命論」などの力作評論を次々に発表して同人全体をリードし、浪漫主義文学運動の拠点を築いた。またこれと並行して、透谷はキリスト教系の平和運動の方面でも精力的な活動を続けたが、理想を求める激しい情熱のために、翌年わずか二十五歳の若さで自殺した。
「社会」と「自然」
(日清〜日露戦争の時代 明治27〜38)
資本主義が本格的な発展期に入ると同時に、早くもその矛盾を露呈した時期である。
●社会矛盾の追求
その文学的反映として、広津柳浪らの「悲惨小説」が日清戦争直後の文壇にブームを呼び、また「社会小説」を望む声が高まった。こうした傾向に続いて、尾崎紅葉の「金色夜叉」や徳富蘆花の「不如帰」が記録的なベストセラーとなった。こうした気運と無関係ではなく、小杉天外や永井荷風の作品が注目を集め、社会の矛盾に肉薄する「観念小説」の系譜も生まれた。
●自然描写の系譜
この時代は、徳富蘆花の「自然と人生」(明治33)や、二葉亭四迷の翻訳が先鞭をつけた近代的な「自然」に対する文学的な関心が強まった。詩風自然文学が生まれ、国木田独歩は「武蔵野」(明治34)などの散文で社会に適合できない弱い人間たちに目を向け、叙情性を削って否定的な意味での「ありのままに書く」という自然主義に接近していった。
- ▶観念小説
- 社会の矛盾や心理を観念的に描いた小説。明治20〜30年代に流行した一類型で、「深刻小説」とも呼ばれた。
- ▶高山樗牛
- 明治六年(一八七一)〜明治三十五年(一九〇二)。評論と文学に活躍した「日本主義」を提唱し、層層社の人々に目を向けたヒューマニティーを展開した。
- ▶ゾライズム
- フランス自然主義の代表作家エミール・ゾラが主張した「遺伝と環境」によって人間の性格形成をとく理論。日本の自然主義に大きな影響を与えた。
- ▶国木田独歩
- 明治四年(一八七一)〜明治四十一年(一九〇八)。「武蔵野」(明治34)のほか、「忘れ得ぬ人々」「源叔父」「牛肉と馬鈴薯」「運命」などの短編小説を残した。前期自然主義を代表する作家。
「たけくらべ」(十二)
見るに気の毒なるは……美登利は障子の中ながら……たるばかりは無し、りめん切れ端をつかみ出し、母さん切れを造ってっ御座んすと尋ねて、針箱の引き出しから友仙ちの洋傘さして聴せ出でて、途中に鼻緒を踏み切り、あれ誰かか鼻緒を切り……よりも早く、庭下駄はくもかまはず、庭石の上を伝わって急ぎ足に……それと見て美登利は……悸の早くうつを、人の見るかと背後を見回されて、振返りて、此れも無言に胸を流る、冷汗。跣足になりて逃げ出したき思いなり。
- ▶ 樋口一葉(明治6〜明治29)
- 上記の作品のほか、「十三夜」〔明治28〕・「わかれ道」〔明治29〕などがある。
● 泉鏡花
紅葉の門人として出発した泉鏡花の初期作品には、悪を憎む正義と、若く美しい母への思慕という二つの基本モチーフが認められる。前者の系列に属する「夜行巡査」「外科室」〔明治28〕で人気作家となって以来、
- ▶ 泉鏡花(明治6〜昭和14)
- 上記の作品のほか、明治40年代以降の代表作に「婦系図」〔明治40〕・「歌行燈」〔明治43〕などがある。
「海城発電」〔明治27〕などの観念小説を書いていた彼は、間もなく後者のモチーフを主軸とする幻想美の世界の創造に華麗な才能を発揮しはじめ、「照葉狂言」〔明治29〕から「高野聖」〔明治33〕に至って一つの頂点に達した。
- ▶ 観念小説
- 作者の抗議や主張のあらわれた作品群に対してつけられた名称で、代表作として鏡花の上記作品のほか、川上眉山の「書記官」「うらおもて」〔明治28〕などがあげられる。
● 社会小説
悲惨小説や観念小説の不自然さを脱却して社会の本質に迫る新しい小説の出現を要求した明治三十年前後の「社会小説」論は、直接的には見るべき成果を残さなかった。しかし、家のエゴイズムの犠牲となっていく女性を主人公に造型し、ヒロインの「あ、辛い!辛い!」という嘆声を凝縮して生まれたのが徳冨蘆花の「不如帰」〔明治31〜32〕であり、恋人を奪った金の力に復讐するために帝国大学への進学を放棄して高利貸しに転身していくという新しいタイプの主人公を造型した尾崎紅葉の「金色夜叉」〔明治31〜35、未完〕が空前の売れゆきを示したのは、単にストーリーの通俗性によるのみならず、当時の社会矛盾が強く反映されて広く読者の共感を呼んだからにほかならなかった。
蘆花には、「黒潮」〔明治31、未完〕など鹿鳴館時代の政界の内幕を描き出した試みもあって、スケールの大きな社会意欲的な方向を模索していた。明治三十年代後半には、木下尚江が登場し、「火の柱」〔明治37〕と「良人の自白」〔明治37〜39〕を発表して社会主義小説の先駆をなした。
- ▶ 徳冨蘆花(明治元〜昭和2)
- 明治社会主義文学の黎明期には、幸徳秋水らの「平民新聞」〔明治36刊〕「直言」、白柳秀湖らの「火鞭」〔明治38刊〕などがあらわれた。
- 語注 * 鹿鳴館時代
- 「鹿鳴館」は明治16年(1883)東京日比谷に建てられた社交場。条約改正を進めるためにここで仮装舞踏会が行われ、欧化主義の象徴とされた。やがてこれに反対する国粋主義の風潮も高まっていった。
自然主義─近代の成立
─明治から大正へ(1)─
日露戦争の翌年〔明治39〕から大正初年にかけての数年間で、日本の近代文学はようやく成立期を迎えた。その先駆となったのが自然主義である。
● 日本自然主義の出発
青年時代に浪漫的な詩を書いていたことのある三十代の作家たちを中心にして起こったこの新しい文学運動は、硯友社的な小説観を否定した「封建的な諸伝習に対する違和感」を基礎にしながら、激しい客観描写の主張と、激しい自己告白への欲求という二つの要素を内在させていたところに特色をもっている。しかも当時は、天皇制国家権力がますます強大さを増していた時期で、その批判が社会との対立という情熱を生んだが、そのリアリズムが短期間で失われて、作家の身辺にのみ視野を絞った「観照」(ありのままに)のリアリズムが主流となっていった。
● 日本自然主義の性格
自然主義時代の到来を決定づけた作品は、島崎藤村の「破戒」〔明治39〕と田山花袋の「蒲団」〔明治40〕である。その後、「事実」偏重の方法と論とが相まって、やがてこの文学運動は「私小説」に道を開いていくという経過をたどるのである。
自然主義作家(前列一番左正宗白鳥、中列中央国木田独歩、右田山花袋、後列右から三人め岩野泡鳴)
小説の展開2
| 明治40〜 | 大正 | 昭和(私小説) |
| 自然主義:田山花袋・島崎藤村・正宗白鳥・徳田秋声・国木田独歩 |
| 耽美派:佐藤春夫・永井荷風 |
| 新現実主義:芥川龍之介・谷崎潤一郎・久米正雄・菊池寛 |
| 余裕派(高踏派):森鷗外・夏目漱石 |
| 白樺派:有島武郎・志賀直哉・武者小路実篤 |
- ▶ 私小説
- 「しじょうせつ」とも読む。主人公を造型する際、そこに作者自身の事実を直接重ねることによって、作品世界を成立させるという直接的な方法に立って書かれた小説のことである。自然主義スタイルの虚偽否定が生み出した日本独特の小説スタイルである。この私小説の本格的な出発は大正2年(1913)あたりに求められ、まもなく文壇における純文学の主流と見なされるようになった。
- ▶ 正宗白鳥(明治12〜昭和37)
- 明治40年代における自然主義文学を代表する作家。「何処へ」〔明治41〕・「一廃処」などがある。
島崎藤村
藤村は、「春」〔明治41〕から「家」〔明治43〜44〕において自身の掘り下げに向かう方向に道を転じた。以下の三部作でやはり自身の周辺を描き続け、花袋もまた「生」〔明治41〕ほかのコースを進んだ。また、主義・主張というものをまったく持たない徳田秋声の地味な作品が脚光を浴びた段階に至って、日本自然主義の基本的な性格はほぼ定まったということができる。白鳥は「生えぬきの自然主義作家」と呼ばれながら主観性の強い作品を書いた異色の存在の域にとどまった。「芸術即実行」の「新自然主義」を掲げた岩野泡鳴のような個性も、自然主義の観察のリアリズムに転化していく中に独特のニヒリズムをあらわにするところがある。
- ▶ 島崎藤村(明治5〜昭和18)
- 本陣は江戸時代から庄屋を兼ねた家の末子で、幼少時代から東京で育った。「文学界」に加わって詩や評論を書いたが、北村透谷の自殺によって強い衝撃を受け、「死せる理想家」に対して「生きたく」みずからの事業として藤村独特の文学世界が始まった。小諸時代に書き続けた「千曲川のスケッチ」が「緑葉集」〔明治40〕にまとめられた。
- ▶ 岩野泡鳴(明治6〜大正9)
- 「芸術即実行」を唱え「新自然主義」を掲げた。自然主義四大家の一人にも数えられる。「放浪」〔明治43〕から始まる五部作を書いた。
告白するまでの過程を清新な文体で描いた作品であり、部落差別という重い現実をとらえた社会小説的な要素と、「若菜集」以来のテーマである自己告白の内面への恐れと欲求を主人公に仮託した内面小説としての要素が並存しており、今日に至るまで評価が分かれている。
「破戒」以後
「文学界」時代の青春の苦悩を題材にした作品として「春」〔明治41〕を書き、藤村は次に自身を含めた島崎一族の事実に即して「家」〔明治43〜44〕で宿命を追求するという方向でリアリズムを深化させていった。しかし、その代償として、「破戒」のもっていた社会小説への可能性が放棄されたことは確かである。
「破戒」(初版 第十章)
成程、成程、自分は変った、一にも二にも成程、それを器械的に遵奉するような、其様な児童では無くなって来た。成程、父ばかり住む世界では無くなってしまって、父の厳しい性格を考えてみても、それを反対方へ向かって行って、自由自在に成れたとは言えない。あ、父の情けない笑い方、世の無情を、怒り泣いた先輩の心地と、世にはとても行くことの出来ない二人の相違は奈何なるであろう。斯う考えて、丑松は自分の行く道に迷った。
田山花袋
ゾライズム(→p.149)への傾倒と叙情詩人的資質を併せ持ちながら明治三十年代を送ってきた花袋が、藤村と並ぶ自然主義の旗手としての地位を獲得したのは、年作家のひそかな恋情を描いた短編小説「蒲団」〔明治40〕の発表によってである。実はその創作実践として書かれた「描写」論の当時の読者が、これを大きな反響を呼んだ。
影響する形で、花袋はその後の作家的進路を「平面描写」で書き続けていくという方向に見いだし、「生」〔明治41〕・「妻」〔明治41〜42〕・「縁」〔明治43〕の三部作を完成した。
- ▶ 田山花袋(明治5〜昭和5)
- 主要作品には上記のほか、「重右衛門の最後」〔明治35〕・「田舎教師」〔明治42〕・「兵卒の銃殺」〔大正6〕などがある。
- ▶ 平面描写論
- 明治三十年代に花袋が主張した客観的描写論。単に作者の主観を加えないのみならず、客観の事象に対して少しもその内部に立ち入らず、ただ見たまま聞いたまま触れたままの現象をさながらに描くというもので、自然主義を代表する小説手法と見なされた。「新自然主義」の岩野泡鳴はこれを批判し「一元描写」論を唱えた。
徳田秋声
秋声は、自然主義作家の中では珍しく硯友社・紅葉門人としての経歴をもっているが、「生まれたる自然派」と呼ばれたその作家的資質が開花したのは、「春」(藤村)・「生」(花袋)以後の自然定着時代に入ってからである。平凡な庶民夫婦の味気ない日常生活を描いた「足迹」〔明治41〕で好評を得たあと、妻の前半生を素材にした「黴」〔明治44〕で作家的地位を確立し、「あらくれ」〔大正4〕などの傑作を書き続けた。自然主義としての結論もなく、気負いもなく、ただ「在りのまま」に無色彩に描かれていく秋声文学独特のリアリティは、庶民の現実を、劇的な構成を欠いた作品でも成立させて得たものである。
● 島村抱月
ゾライズム(→p.149)から移行してきた批評家として、「幻滅時代」「現実暴露の悲哀」といった理論性に欠けるジャーナリスティックな表現で自然主義の意義と特質を説明した新しい批評家として登場し、「早稲田文学」〔明治39再刊〕を理論的にリードした抱月は、ヨーロッパ留学から帰国した直後は西洋文芸思潮史に基づいて自然主義を過去のものとみなしていたが、「破戒」と「蒲団」の出現を見るに及んで自然主義の積極的な推進者に転じ、当時の「文芸上の自然主義」「自然主義の価値」〔明治41〕の二論文を初めとする活発な評論活動を展開した。
- ▶ 徳田秋声(明治5〜昭和18)
- 約半世紀にわたって第一線で小説を書き続けた作家。上記の作品のほか、「仮装人物」〔昭和10〜13〕・「縮図」〔昭和16、未完〕などがある。
- ▶ 島村抱月(明治4〜大正7)
- 抱月の理論的到達点は、その著「近代文芸の研究」〔明治42〕に記された「照らすがままの現実に即して在る全的な存在の意義を彷彿する」という一節に集約されると言われている。なお抱月は演劇方面にも女優松井須磨子とともに「芸術座」を組織して上演活動に力を注いだ。
漱石と鷗外—近代の成立②
─明治から大正へ(2)─
文学の成立期は、俳句や写生文から出て小説の世界に登場してきた新人作家夏目漱石が、間もなく帝大教授への道を捨てて創作に打ちこむようになり、また、「成熟の時代」と呼ばれる作家的最盛期に入った時代でもある。久々に文壇に復帰してきた森鷗外が、いずれも自然主義とはっきりした距離を保ちながら、文明批評的な視野の広さと、洋の東西を問わない豊かな教養に裏づけられた質の高い創作活動を展開した。また、後続の文学世代に与えた影響も大きかった。
● 特質と共通点
少年期を過ごした漱石が、望まれぬ末子として江戸の町方名主の家系に生まれ、薄幸な家庭の人間として反官的な気質を集めて育ったのに対し、津和野藩典医の長男として藩閥官僚の要職を歴任し、死ぬまで官職を保持し続けた鷗外とは、はっきりした対照がある。だがその一方で、この二人は、いずれも自然主義とはっきりした距離を保ちながら、文明批評的な視野の広さと、洋の東西を問わない豊かな教養に裏づけられた自我の苦悩を、日本の性急な近代化のゆがみの中に認識していった点で共通していた。その作風は自然主義者から当初「余裕派」「低徊派」などと呼ばれていた。
夏目漱石
〈初期の作品〉
一人称でナレーターをつとめる奇抜な風刺小説「吾輩は猫である」〔明治38〜39〕でデビューし、猫が「吾輩」という名もない飼い猫として語り手となる莫大な長編である。久々に文壇に復帰してきた鷗外と同じく、自然主義の作風とは趣向を異にするため、当初「余裕派」「低徊派」などと呼ばれていた。
- 写生文
- 明治33年ごろ正岡子規が提唱し、高浜虚子らが中心になって推進した文章革新運動。「世の中に現れてくる事物(天然)をありのままに写して面白き文章を作る」というのが写生文の法。「吾輩は猫である」はもとは写生文を基本にとして書かれた。伊藤左千夫の「野菊の墓」〔明治39〕・長塚節の「土」〔明治43〕なども写生文の流れを汲む。
- 余裕派
- 漱石は高浜虚子の文章を「余裕の文章」と称した。「余裕派」は自然主義批評家の天谷宗一郎らが命名。現実密着的な文章を重んじてきた自然主義者の目には「冷笑」的余裕と映ったのである。
- 夏目漱石
- 慶応3(1867)〜大正5年(1916)。
だが、漱石の内面は厭世的であり、そこからの脱却を小説に求めて、彼は「非人情」の超俗的な美へ押し出した系列の作品(「草枕」〔明治39〕・「野分」〔明治40〕など)や、社会的正義感を前面にした系列の作品「坊っちゃん」〔明治39〕などを枕(序)として盛んに書き続けた。職業作家として立つ決意をした漱石は、初職を辞して朝日新聞社に入り、入社第二作の「虞美人草」〔明治40〕で自らの初期作品をしめくくった。
〈前期三部作〉
明治の代表的な青春小説である「三四郎」〔明治41〕で「偽善」と「露悪」という問題を取りあげた漱石は、次の作の「それから」〔明治42〕では、二十世紀の中で腹の底から堕落と侮辱する事なしに「高等遊民」と自らを貶び、その主人公が、かつての友人に讃えられてきた哲学をもった新しい知識人であった。「門」〔明治43〕は、「それから」の後日譚として、父から勘当され「遊民」の生活基盤を失うまでの愛を貫いた、その主人公が、かつての友人との間に不倫の恋が再燃したとき、背徳的な形で結ばれてひっそりと暮らす夫婦が、「尋常の夫婦」に見出しがたい親性格をもつ作品であり、貫くことを決意した人公が描かれている。
「坊っちゃん」の舞台、松山・道後温泉
- 漱石の少年時代
- 漱石は、生後間もなく古道具屋に里子に出され、二歳のとき塩原家の養子となり、十歳で塩原性のまま実家にもどり、夏目性に復したのは二十一歳のときで、両親から愛がなかったという。
- 漱石と朝日新聞
- 漱石は池辺三山の招きに応じて東京朝日新聞の正社員として入社し、以後の小説はすべて「朝日」にしか発表しない条件を守った。明治40年ごろから朝日文芸欄を高める作家を登場させ、評論家としての多くの作家のレベルを高めるとともに、非自然主義文学の牙城を築いた。
和と飽満はあっても、本当の充足を得ることができない様が描かれている。虚構の設定の中に作中人物を生かすことによって、偽善と誠実のテーマを鋭く追求したこの三部作は、方法の点でも、自然主義作品との間にはっきりとした相違が認められる。
野が茶器を取り片付けに来た時、兄の去った後、代助はしばらく元の儘じっと坐っていて、急に立ち上がって、「門野さん。僕は一寸職業を探しに来る」と云ふや否や、鳥打帽を被って、傘も指さずに目盛りの表へ飛び出した。(中略)乾いた烙は代助の頭の上から真直に射下した。彼の頭は電車の速力を以て半日乗り続けたら焼き尽す事(中略)飯田橋へ来て電車から走り出し、傍の人に聞こえる様に「あ、動く」と云った。
(「それから」最終章)
映画「それから」写真提供:東映
〈後期三部作〉
「門」を完成したあと、いわゆる「修善寺の大患」で危うく一命をとりとめるという経験を通して死生観を深めた漱石は、彼岸過迄〔明治44〜45〕で創作活動を再開した。ここで漱石が取り組んだのはエゴイズムや孤独といった「人間存在の深所」に迫るテーマであり、以後「行人」〔大正1〜2〕へと向かった。
「漱石先生」(岡本一平筆)
- 漱石の評論
- 漱石は、長年の英文学研究の成果をまとめた「文学論」〔明治40〕・「文学評論」〔明治44〕のほか、「現代日本の開化」・「私の個人主義」〔大正3〕のように、「外来的」立場による日本の近代化への苦悩の内容をもった貴重な演説記録がある。
- 漱石の「則天去私」
- 漱石の晩年の境地として説明される「則天去私」は、自然の理法に従って大きな自然のなかに自我を去ってゆくというものとされる。ただし、この境地を一語で割り切ってしまうことを疑問視する見方も強い。
「こゝろ」〔大正3〕と続く展開の中で、その徹底的な掘り下げが行われた。妻への不信から人間存在の全体に対する懐疑に進んだ「行人」の主人公は、死か宗教か発狂しかないという地点まで追いつめられた。また、結婚に際して親友に策略を用いたことによって、自分に対する精神に殉死する「こゝろ」の主人公は、「明治の精神に殉死する」という形での自殺に長年の罪の意識の決算を求めた。後期三部作を完成した漱石は、そのあと初めての自伝小説といえる「道草」〔大正4〕によって新たな展開をはかり、さらに「明暗」〔大正5〕で夫婦間のすさまじいまでの心理葛藤を描き出しながら、救済の道をまさぐろうとしたが、未完のまま病没した。
夏目漱石「こゝろ」
- 漱石の門人たち
- 漱石は、門人たちとの間に尾崎紅葉のような師弟関係を作ることはなかったが、彼のような人柄と教養を慕って多くの青年が集まった。その中心は東大系の青年で、作家の森田草平・久米正雄・鈴木三重吉・阿部次郎らとともに、大正文化を推進した知的リーダーの一角は漱石門人によって占められている。
森鷗外
〈豊熟の時代〉
明治二十年代の創作活動(p.147)のち、小説の筆を絶っていた鷗外は、軍医の最高位である陸軍医務局長に昇進した翌々年、口語体小説「半日」〔明治42〕を書いて文壇に復帰し、以後精力的に作品を発表し続けた。自然主義的な性欲史を中心とする人生観に対抗する意図をこめて主人公の性欲史を淡々と描いた「ヰタ・セクスアリス」〔明治42〕、作者自身の身辺の事を取材した「半七捕物帳」的な短編群、来日してきた留学時代の愛人女性と再会した主人公をめぐる作品群など、淡々とした「キタ」(傍観者的態度)の人生観に対抗する意図をこめた。
- 鷗外の小説観
- 「凡て世の中の物は変ずるという観から見れば、刹那々々に変じている。万古不易を語る観から見れば、刹那々々に変じていない。一体小説はかういうものをかういうふうに書くべきであるというのは、ひとつの困った風である。」
初めて自我に目覚めかけた女主人公お玉の挫折を叙情的に描きあげた「雁」〔明治43〜大正2〕、漱石の「三四郎」を意識した作者の思いがこもる長編青春小説「青年」〔明治43〜44〕など、多彩をきわめる創作活動が展開した。しかし、家の面影はなく、「あそび」や「レジグナチオン(諦め)」といった静的な世界観が色濃く流れ、事件などで自身がその中枢部に身を置く国家権力の専横さを改めて痛感したあと、いっそう深まっていった。当時の鷗外の苦悩と諦観は、「かのやうに」〔明治45〕から至る連作が端的に物語っている。
「雁」
〈歴史小説から史伝へ〉
このような姿勢で現代小説を書き続けることはあまりにも困難であった。明治天皇の病死と乃木大将の殉死に刺激されて鷗外は、もっぱら歴史小説の分野に転じ、「興津弥五右衛門の遺書」〔大正1〕・「阿部一族」〔大正2〕・「山椒大夫」〔大正2〕・「高瀬舟」〔大正5〕などの名作を発表した。「歴史其儘」的志向と「歴史離れ」的志向とを併存させていた鷗外は、やがて「渋江抽斎」〔大正5〕の発表を機として、「歴史其儘」を徹底させて史実をそのまま描く史伝の方向に進み入った。そして「伊沢蘭軒」〔大正5〕・「北条霞亭」〔大正10〕へと向かった。
- 「かのやうに」の哲学
- 洋行で身につけた科学的合理性と日本の非合理的な事柄に悩んだ板挟みに由来して、学問でも芸術でも、すべて実在しないものが「実在するかのように」考えることで解消しようという姿勢。「かのやうに」の哲学として鷗外の晩年の心性を示す。
- 大逆事件
- 明治44年(1911)、国家権力による社会主義者に対する弾圧事件。幸徳秋水ら12名が死刑になった。
越後の春日を経て津へ出る道を、珍らしい旅人の一群が歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉はもうすぐ十四、弟は十二である。(中略)「もうちっと足をひきずって御宿にお入り」とぶって励まして、それに四十位の女中が一人附いている。
(「山椒大夫」冒頭)
森鷗外の墓
- 鷗外の遺言
- 鷗外は、軍医総監退任後も帝室博物館総長など官人として歴任したが、最後まで官人としてではなく、島根県人の「森林太郎」として死ぬことを遺言に残した。「森林太郎」が鷗外の本名である。
耽美派—近代の成立③
─明治から大正へ(3)─
「真」のみを強調する自然主義の隆盛は、その反動として芸術の「美」に重きを置く作家たちを登場させた。雑誌「スバル」〔明治42創刊〕や「パンの会」に集まった文学者たちの一群が、「耽美派」と総称されるグループを形成した。このグループを代表する小説家は、ゾライスムの洗礼を受けた青年詩人たちとあわせて、「耽美派」と総称される。
永井荷風
五年間にわたる米・仏留学を終えた荷風の帰国後、明確な反自然主義者として華やかにデビューし、その推挙によって谷崎潤一郎を文壇に送り出した。アメリカ留学体験を基に、当時の批評家から高く評価された長編「あめりか物語」〔明治41〕は、荷風の西洋体験を描き、「ぷらんす物語」〔明治42〕とともに帰国後の自然主義作品としてデビューした。
- 永井荷風
- 明治2(1879)〜昭和34年(1959)。昭和期の代表作に、「つゆのあとさき」〔昭和6〕・「濹東綺譚」〔昭和12〕がある。また、四十年間にわたって書き続けられた日記「断腸亭日乗」も高く評価されている。
「ぷらんす物語」〔明治42〕・「歓楽」〔明治42〕など、次々と発表するなかでこれらはいずれも発禁となり、この経験を通してますます明治の偽文明に対する嫌悪と絶望の念を強めた。短編集「すみだ川」〔明治42〕などを経て、「三田文学」〔明治43〕の主宰者となったあといっそう、反時代的な美学を築きあげていった。
〈江戸賛美の美学〉
大逆事件(p.161)の衝撃も加わって、荷風はみずからを江戸の戯作者にやつすまでに至り、大正期に入ってからは花柳界を舞台にした独自の力作「腕くらべ」〔大正5〜〕・「おかめ笹」〔大正7〕などを発表した。森鷗外の周旋で慶応大学教授に迎えられ、「江戸」の賛美という反時代的な美学をいっそう進めていった。
「ぷらんす物語」挿絵
大逆事件を報じる新聞
谷崎潤一郎
雑誌「新思潮」〔第二次・明治43〕同人時代に「少年」「刺青」〔明治43〕・「麒麟」〔明治43〕などの異色作を書いていた谷崎は、荷風の激賞を受けて華やかな脚光を浴びながら作家生活に入った。そして、精神病理学の知識をも踏まえながら変態的快楽の問題を大胆に取り込み、独自の作家的成熟を遂げた。
- 谷崎潤一郎
- 明治39年(1886)〜昭和40年(1965)。大正期の代表作として「痴人の愛」〔大正13〕がある。その後古典回帰し「春琴抄」〔昭和8〕・「蓼食う虫」〔昭和3〜4〕など。戦後を代表する大作「細雪」〔昭和18〜23〕が書き続けられた。また「源氏物語」全巻口語訳の仕事もある。
「悪魔」〔明治45〕を発表して以来、日本における「悪魔主義」の代表作として見なされるようになった。女性の美しさは、男性をその前にひざまずかせずにはおかないというのが谷崎文学のメーンテーマであり、処女作以来の肉体への肯定と賛美に立って、特異な耽美的世界がくり広げられている。
- 悪魔主義(デカダンス)
- 十九世紀末のヨーロッパ文芸思潮の一つとして起こったもので、醜悪や怪異の中に美を見いだそうとする傾向。ボードレール(仏)やワイルド(英)が主要作家である。
白樺派
─大正前期─
自然主義は停滞・退潮期に入ったが、それに代わる新しい文学勢力として台頭してきたのが、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎・長与善郎・里見弴ら雑誌「白樺」〔明治43創刊〕のグループである。メンバーのほとんどが特権・上流階級の家庭に育った学習院出身者であり、自身の出自と社会正義との矛盾に悩んだ青春の中から「自己を生かす」方向に進んできた者が多い。こうした特徴をもつこの同人組織は、主観を排する自然主義とは大きく異なった自己主張の強烈さによって、大正前半の文壇の最主流となった。だが第一次世界大戦〔大正3〜8〕後、
「白樺」同人 前列右から武者小路実篤・志賀直哉・木下利玄・里見弴、後列右から三人め柳宗悦
「白樺」(雑誌)
- 「白樺」
- 明治43年(1910)創刊。同人には木下利玄・里見弴・民芸研究家柳宗悦らも加わっていた。文芸誌であるとともに美術誌も兼備し、ロダンや後期印象派画家の紹介など近代美術上の功績も残している。
- 長与善郎
- 明治21年(1888)〜昭和36年(1961)。「青銅の基督」〔大正12〕などを書いた。
- 里見弴
- 明治21年(1888)〜昭和58年(1983)。代表作に「善心悪心」〔大正5〕・「多情仏心」〔大正11〜12〕などがある。
労働運動と結びついた社会主義の影響が文学にも及んでくるにつれ、グループとしての力を失い始めた。そして、思想家として絶望の果てに自殺の道を選んだ有島武郎が大正12年(1923)に死去し、「白樺」の廃刊が決定された。白樺派の思想的特徴を最もよく表しているのが武者小路実篤である。
武者小路実篤
公卿華族の家系に生まれた彼は、二十歳前後にトルストイに傾倒し、やがてその禁欲的なヒューマニズムの「重荷」から脱出する方向に転じ、「私にとって『自己』以上に権威のあるものはありません」という徹底的な自我肯定思想を獲得した。「お目出たき人」〔明治44〕は、片思いの相手の少女が結婚してしまったあとも少女が自分を愛していたはずだと信じて疑わない、この時期の型破りな失恋小説の代表作である。
〈新しき村〉の運動
第一次世界大戦の開始後、楽天的な自我肯定を保ちながら熱心な人道主義者となった武者小路は、反戦気分の濃厚な戯曲「或る青年の夢」〔大正5〕・「その妹」〔大正4〕などを発表した。そして小さなユートピアの建設を目指して進み、大正7年に宮崎県に共生農場「新しき村」を建設した。
武者小路実篤自筆の「新しき村」風景
- 武者小路実篤
- 明治18年(1885)〜昭和51年(1976)。晩年の主要作に「愛と死」・「一人の男」〔昭和46〕などがある。
- 新しき村
- 「皆が働ける時に一定の時間だけ働く」かわりに衣食住の心配から解かれ、天命を全うするような自然な生活を確立しようという武者小路の提唱に共鳴した人々でつくる社会。大正7年(1918)宮崎県に共生農場「新しき村」が建設された。しかし現実は理想どおりに進まず、昭和14年(1939)には埼玉県に「東の新しき村」が建設された。
「新しき村」運動の実践に集中する中で書かれた「幸福者」〔大正8〕・「友情」〔大正9〕・「或る男」〔大正10〜12〕・「人間万歳」などは、いずれもこの時期の「生命賛美」の思想を主張した力作である。その後の彼は、しだいに人道主義からも離れていった。
志賀直哉
士族出の有名な実業家の家庭に生まれた彼は、祖父との接近と離反、足尾銅山鉱毒事件をめぐる父との衝突など、主体的体験を通して社会的な視野の広がりや思想的な深さを青春時代に体験している。だが、そうした「絶対的な自信に支えられた強靱なエゴイズムの世界」を、むしろそれを一切捨て去り、清潔に築き上げていくことから、志賀文学は出発した。善悪の判断が好悪の判断に直結するという特性をもった彼は、白樺派のリアリズムを代表する作家である。
〈前期短編群〉
「網走まで」〔明治43〕・「大津順吉」・「正義派」〔大正1〕・「清兵衛と瓢箪」〔大正1〕などの前期短編群の緻密なリアリズムを支えていたのは、長年にわたる父との精神的緊張であった。父との不和が「和解」〔大正6〕で描かれてからのち、彼の作家姿勢は東洋的な調和へと転回していった。
- 志賀直哉
- 明治16年(1883)〜昭和46年(1971)。主要作品のほかに「小僧の神様」・「城の崎にて」・「灰色の月」などがある。
- 志賀直哉の「好悪」と「善悪」
- 好悪の感情が善悪の判断に直結するという彼の特性からすると、「何が善で何が悪かということが問題なんだ」という言葉に示されるように、好悪から始まった判断がそのまま善悪の判断となる。
〈暗夜行路〉
直哉の代表作として定評のある「暗夜行路」〔大正10〜昭和12〕は、彼が早くから着手していた私小説の構想(「時任謙作」のモチーフ)に、父との和解の成立という実生活上の変化を経て新たに起稿されたものである。完結までに二十年近い年月を費やした長編小説である。
〈内容〉
父との不和を題材にした小説への意欲から着想された後、主人公時任謙作に出生の秘密(母と祖父の不義)を付与した。前編では、その暗い宿命を背負って彷徨する主人公が、やがて大山登山を決行し、妻の真操上の過失という設定に基づく夫婦間の葛藤から、単身大山登山を決行した謙作が、自然との融合を感得するまでを描いた。
〈意義・文体〉
虚構の主人公であるにもかかわらず作者自身の現実との混同も認められるが、簡潔をきわめた文体による描写の的確さに支えられながら、志賀直哉という作家の個性が全編にあふれた作品となっている。
行くのを感じた。(中略)大きな自然に溶込む精神も肉体も、今、此大きな自然に溶込んで、此陶酔感は初めての経験で、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、これまでの場合として必ずしも溶込む意志よりも、自然に起くるような性質のものだった。今は全くそれとは別な、自然の中に溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
(「暗夜行路」後編十九)
「暗夜行路」の舞台となった大山(鳥取県)
- 内村鑑三
- 明治の代表的な無教会派キリスト教家。直哉は、日露戦争に際して「非戦論」の立場をとっていた内村鑑三に師事した。
- 足尾銅山鉱毒事件
- 足尾銅山が渡良瀬川を汚染して多数の被害者を出した明治最大の公害事件。この事件に義憤を燃やした田中正造が激しく直訴しており、鉱山側を全面的に支持する父との長い不和の直接の原因となった。
有島武郎
自我を肯定することができず、自殺に至る思想的遍歴を続けた作家が有島武郎である。米国留学中にキリスト教を離れて社会主義的な思想の持ち主となって帰国した有島は、文学で生きる決心をして「白樺」の創刊に加わった。
〈全盛期—「或る女」〉
中央文壇への登場は他の同人よりも遅く、「カインの末裔」〔大正6〕・「迷路」などの発表によって作家的全盛期を迎えた。「或る女」〔大正3〜8〕は、十年近い制作期間を費やした大作であり、このヒロイン早月葉子は、自我に目覚めた強い個性をもちながら封建的な旧習から脱しきれない世間の壁に当たって苦しみ、閉鎖的な愛欲生活の中に作者自身の自滅を投影したリアルな描述で知られる。
九月の朝の、煙った空気に包まれて、新橋を渡る時、発車を知らせる一番目の鈴が鳴り出した。葉子は二番目の鈴でそれを聞いたが、車夫は「霧とまではいへない」(中略)停車場の入口の大戸を閉めようとする驛夫と争ひながら、同じようにしている青年の姿を見た。
(「或る女」冒頭)
〈晩年—自殺に至る過程〉
第一次世界大戦後の社会運動の高まりは、社会矛盾のなかで自己の立場に深刻な疑問を抱かせた。
- 有島武郎
- 明治23年(1878)〜大正12年(1923)。薩摩藩出身の高級官僚を父に実業家の長男として生まれた。有島生馬と里見弴はいずれも実弟。評論「星座」〔大正1〕・未完の長編「まま終わったなく」・「愛は惜しみなく奪う」〔大正3〕などがある。
エッセイ「宣言二つ」〔大正11〕で「第四階級」との決定的距離を表明した有島は、父から受け継いだ農場を解放して「共生農園」の建設を試みるなどの曲折の末に、大正12年(1923)、心中の形で生涯をみずから閉じた。
新現実主義
─大正後期─
耽美派と白樺派が見過ごした現実を、明晰な知性をもってとらえ直そうとすることがそれぞれの共通の傾向であった。
● 新思潮派
新思潮派は、東京帝国大学の学生たちが出していた同人雑誌「新思潮」〔第三次=大正3創刊、第四次=大正5創刊〕によって文壇に出た人々である。芥川龍之介・菊池寛・久米正雄・山本有三・豊島与志雄らがその代表であり、彼らは社会の新しい解釈を加え、繊細な技巧によって人間の姿をつぶして観察し、理知による新しい描写を試みた。
第四次「新思潮」同人 左から成瀬正一、芥川龍之介、松岡謙、久米正雄
「新思潮」(雑誌)
芥川龍之介
〈前期の作品〉
芥川は、新思潮派を代表する作家である。第四次「新思潮」〔大正5年2月創刊〕に発表した「羅生門」は題材を「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」に求めた短編であり、「鼻」が夏目漱石に激賞された。
「芋粥」〔大正5〕・「地獄変」〔大正7〕・「奉教人の死」〔大正6〕・「枯野抄」・「藪の中」・「戯作三昧」〔大正2〕などのほか、インドや中国に取材した作品もある。
〈後期の作品〉
さらに「蜘蛛の糸」〔大正7〕・切支丹物・「舞踏会」〔大正9〕・「杜子春」〔大正9〕などの江戸物・切支丹物も書いた。大正9年を契機に芸術至上主義の立場から離れ、説を経て自伝小説「大導寺信輔の半生」〔大正14〕に到達した。プロレタリア階級の台頭に伴う社会変動と自身の健康を損ねたことによって、自己存在の不安に神経をすり減らしていった芥川は、「朦朧とした不安」を感じながら「河童」〔昭和2〕を書き、ついには自己の生命を絶つに至った。芥川の自殺は知識人の命運を示すものとして同時代の人々に大きな衝撃を与えた。遺稿に「歯車」・「或阿呆の一生」がある。
芥川龍之介
芥川の死を報じる新聞
- 芥川龍之介
- 明治25年(1892)〜昭和2年(1927)。東京生まれ。母の実家の芥川家の養子となる。東京帝大在学中に第三次「新思潮」を創刊し、久米正雄・菊池寛らとともに文壇への道を開いた。
- 「侏儒の言葉」
- 大正12〜昭和2年〔1927〕に発表された社会・文化への鋭い短文の断章集。人間の痛切な悩みを短い文章で刻んでおり、エゴイズムを人間存在の根源として見つめる芥川の視点が凝縮されている。
〈鼻〉
短編小説。「今昔物語集」の「池尾禅珍内供鼻語」に取材した作品。異様に長い鼻を短くしようとする禅智内供の苦心を描いて、人間の自尊心のもろさと傍観者の利己主義を語っている。
〈羅生門〉
短編小説。「今昔物語集」に取材した作品。上層と下層の人間が羅城門の中で死人・盗人として対峙する設定のなかで、人間は生きるためには悪をかかえ込むことになり、その悪を許すのもやはり悪しかないのだ、という暗い人生観が描かれている。数え年二十四歳の芥川は、すでにこのような厭世的な人生観を抱いていたのである。
或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もない。ただ、所々丹塗の剥げた大きな円柱に、蜘蛛が一匹とまっている。
(「羅生門」冒頭)
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、餓死をするのぢゃて。」手荒く死骸の上の着物を剥ぎとった。(中略)下人は剥ぎとった着物を小脇にかかえて、またたく間に梯子を駆け下りた。下人の行方は、誰も知らない。
(「羅生門」末尾)
映画「羅生門」写真協力:大映
こゝ半透明な歯車も、何ものかの僕を狙ってみることは一足毎に僕を不安にし出した。これが来るのを恐れながら、頭をまっすぐ直にして歩いて行った。歯車は数も急に増しはじめた。同時に又石の松林はぴったりと枝をかの狙いを透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じながら、けれども誰かに押さえられるやうに立ち止まることさえ容易ではなかった。
— 僕はもうこの先を書きつづけることは出来ない。かう云ふ気もちの中に生きつづけてくれるものはないか。誰か僕の眼に入って来ないか。
菊池寛
第四次「新思潮」に戯曲「屋上の狂人」(大正5)・小説「無名作家の日記」(大正5)などを発表したが、認められるに至らず、「父帰る」(大正6)・「忠直卿行状記」(大正7)によって文壇的地位を得た。「恩讐の彼方に」(大正8)のような、明朗な主題と理づめの構成にその特色がある。
「真珠夫人」(大正9)以降は通俗小説の筆を執ったが、筋立ての巧みさと、合理的で健全な道徳感によって世に迎えられた。
- ▶「恩讐の彼方に」
- 主人を切って逃げ出した市九郎は、道々殺人を重ねて仏門に入る。豊前の国耶馬渓の隧道を開削しようとするうちに、父の仇と名のった旧主の子が現れ、仇討ちの無益さを悟る。ヒューマニズムの勝利を主題とした作品。
●久米正雄
久米も「新思潮」に戯曲を発表して文学的スタートを切ったが、のちに「破船」(大正11)などで通俗小説作家としての人気を得た。
- ▶ 久米正雄
- 明治24年(1891)〜昭和33年(1958)。
● 佐藤春夫・室生犀星
二人とも詩人として出発した。佐藤春夫は「田園の憂鬱」(大正8)で繊細な官能の世界を描き、「都会の憂鬱」(大正11)によって現代の人間の「憂鬱」な心情を描いた。室生犀星は「性に眼覚める頃」(大正7〜大正8)によって内面の「憂鬱」な心情を繊細な官能の筆で描いた。
- ▶ 佐藤春夫
- 明治24年(1891)〜昭和39年(1964)。
- ▶ 室生犀星
- 明治22年(1889)〜昭和37年(1962)。詩歌については101ページ参照。
● 新早稲田派
同人雑誌「奇蹟」(大正1創刊)に拠った広津和郎・葛西善蔵らは、自然主義を受けつぎ、日常生活に密着した小説によって「私小説」を定着させた。「奇蹟」廃刊後は主として「早稲田文学」に作品を発表したので、新早稲田派と呼ばれる。
● 広津和郎
「神経病時代」(大正6)で若者の自意識の過剰を、「死児を抱いて」(大正7)で新しいタイプの人間を追求している。
● 葛西善蔵
「子をつれて」(大正7)・「哀しき父」など、極度の貧困の中での自身の生活を冷静な目で描いた。私小説作家の代表的存在である。
● 宇野浩二
「蔵の中」(大正7)・「苦の世界」(大正8〜9)がある。自身の体験をそのまま書いた私小説作家の代表的存在である。
- ▶ 広津和郎
- 明治24年(1891)〜昭和43年(1968)。広津柳浪の次男。
- ▶ 葛西善蔵
- 明治20年(1887)〜昭和3年(1928)。
- ▶ 宇野浩二
- 明治24年(1891)〜昭和36年(1961)。
プロレタリア文学
─大正末〜昭和初期─
大正末から昭和の初めにかけては、関東大震災・世界恐慌によって社会不安が増した。恐慌が相ついで起こり、このような社会的背景からプロレタリア文学は生まれた。出発点は「種蒔く人」の創刊(大正10)・「文芸戦線」の創刊(大正13)・日本プロレタリア文芸連盟の結成(大正14)としだいに勢力を増していった。昭和に入ってからは、社会革命という政治的目標に役立たせることが文学に求められるようになり、ナルプ(日本プロレタリア作家同盟)が組織された。しかし、官憲の弾圧と政治優先の創作理論によって作家たちがついていけなくなり、昭和9年(1934)にはナルプが解散し、組織的なプロレタリア文学運動は終息した。
千葉・野田醤油の労働争議
- ▶「種蒔く人」
- 大正10年に金子洋文・小牧近江らによって発刊され、社会主義文学の方向が提示された。
- ▶「文芸戦線」
- 大正13年に葉山嘉樹や青野季吉らによって、プロレタリア文学の進むべき理論的方向が論ぜられた。
● 葉山嘉樹
初期プロレタリア文学を代表する作家で、工場労働者の悲惨さを描いた「セメント樽の中の手紙」(大正15)、下級船員たちの階級的目覚めを描いた「海に生きる人々」(大正15)などの作品がある。
● 小林多喜二
政治優先の文学理論を忠実に実践しようとした小林多喜二は、「蟹工船」(昭和4)・「党生活者」(昭和8)など、プロレタリア文学の中で最もすぐれた作品を残した。
- ▶ 葉山嘉樹
- 明治27年(1894)〜昭和20年(1945)。
- ▶ 小林多喜二
- 明治36年(1903)〜昭和8年(1933)。特高警察に逮捕され、拷問により獄中で死亡。
〈蟹工船〉
中編小説。帝国海軍に保護されてカムチャッカに出漁する蟹工船の労働者たちの悲惨な労働条件と、彼らが組織的な闘争に立ちあがっていくさまを描いている。
いくら漁夫達でも、今度という今度こ、誰が敵であるか、そしてお互が繋り合つてるかが、半年の例で、漁期が終りさうになると、蟹缶詰の「献上品」を作ることを知つてしまつてから、みんなさうなつた。〔中略〕「俺達の本当の血と肉を搾り上げて作るものだ。食つてしまつてから、腹痛でも起さねばい、さ。ッフン、さぞうめえこつたろ。皆でそんな気持で作つた。石ころでも入れておけ! 俺達には、俺達しか味方が無えんだ。」
- ▶ 小林多喜二
- 明治36年(1903)〜昭和8年(1933)。船員・新聞記者などの職を転々としながら労働運動に専心した。「文芸戦線」・「戦旗」の有力作家として活動した。
- ▶「戦旗」
- 昭和3年(1928)創刊。プロレタリア文学運動の機関誌。小林多喜二・徳永直らがここに作品を発表した。
● 徳永直
労働者出身の作家で、自分が体験した共同印刷争議の経過を描く「太陽のない街」(昭和4)を発表した。
- ▶ 徳永直
- 明治31年(1899)〜昭和23年(1948)。「戦旗」に拠って活動。戦後は新日本文学会(⇒p.188)創立にも参加した。
芸術派
─昭和初期─
昭和初期に、一方でプロレタリア文学が勢力を増すとともに、他方でプロレタリア文学に対抗して政治ぬきの文学そのものに取り組む新進作家たちがいた。
● 新感覚派
同人雑誌「文芸時代」(大正13創刊)に拠った新感覚派は、横光利一・川端康成・片岡鉄兵らで、知覚によって現実を知的に再構成しようとした。
横光利一
新たな文体を試みた。「日輪」(大正12)によって新人作家として登場し、「蠅」(大正12)・「機械」(昭和5)などの実験的手法による作品を次々に発表した。「紋章」(昭和9)では、自意識過剰の知識人と行動的な発明家とを対照させ、知識人動揺の時期における心理を照らし出し、話題となった。のちには「旅愁」(昭和12〜未完)において、東洋精神と西洋精神との対立をテーマとした。
〈機械〉
短編小説。ネームプレート工場に働く「私」が他の二人の工員とともに心理的葛藤を語っていく形式で書かれており、日本における心理主義の実践として注目を浴びた。個人の運命が個人の意志とは関係なく、見えざる「機械」によって決定されていく、という人間認識が示されている。
私はもう私がわからなくなつて来た。先尖がじりじり私を狙つてゐるのを感じるだけだ。私が何をして来たか、そんなことを私に問うたとて私の知つてゐるわけがないのだから。誰か私に代はつて私を裁いてくれ。
新感覚派と菊池寛 右から横光利一、片岡鉄兵、川端康成。左端が菊池寛。
- ▶「文芸時代」
- 大正13年(1924)創刊、昭和2年(1927)廃刊。創刊号に発表された横光の「頭ならびに腹」の冒頭部分が「新感覚」を代表するものとされた。
- ▶ 横光利一
- 明治31年(1898)〜昭和22年(1947)。パリに留学し、東洋と西洋との対立を実感した。
- ▶ 片岡鉄兵
- 明治28年(1895)〜昭和19年(1944)。のちにプロレタリア文学に移った。
真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
川端康成
横光利一とともに新感覚派を代表する存在は川端康成である。「伊豆の踊子」(大正15)で青春の感傷をみずみずしく描き、「禽獣」(昭和8)では非情な目と透徹した感覚によって虚無の世界を生み出している。
その延長線上に「雪国」(昭和10〜12)が書かれた。戦後も「千羽鶴」(昭和24)などで哀しく美しい叙情の世界を追求し続けた。1968年度ノーベル文学賞が川端に与えられたのも、日本的な美の世界を描き続けてきたことによる。
〈伊豆の踊子〉
短編小説。一高生で二十歳の「私」は孤児根性を持ち、旅芸人の一行と下田まで道連れになり、踊り子の清らかな心に触れて「私」の孤児根性も洗い流された。青春の甘い感傷をうたいあげた傑作である。
「いいえ、今人に別れて来たんです。」私は非常に素直に言つた。泣いてゐるのを見られても平気だつた。ただ清々しい満足の中に静かに眺めてゐるやうだつた。網代や熱海には灯がついた。海はいつの間にか暗くなつてゐた。少年が竹の皮包みを開いてくれた。私はそれが人の物であることを忘れてしまつてゐた。海苔巻のすしを食べた。少年に暮れたのかも知らずにゐた。そして大変親切にされて、なにか上野駅まで連れて行つて貰へるやうな美しい空虚な気持だつた。私はどんな信号にも素直に従ふやうな気持だつた。夜が更けると船室に積んだ生魚と潮の匂ひが強くなつた。船燈がゆらゆらして、少年の体温があたたまりながら、私は涙を出まかせにしてゐた。それがぼろぼろ零れ、後には何も残らないやうな甘い快さだつた。
川端康成
「伊豆の踊子」の舞台となった天城峠
- ▶ 川端康成
- 明治31年(1899)〜昭和47年(1972)。この時期の作品として「浅草」(昭和4〜5)などもある。戦後の作品については⇒p.184〜5参照。
- ▶「雪国」
- 長編小説。越の温泉地で出会った芸者の純粋さに心を動かされる島村を主人公とし、その叙情性と手法が日本の近代小説の名作に数えられている。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。
● 新興芸術派
新感覚派の流れを受けて、新潮社系の作家たちを中心に結成された。プロレタリア文学に対抗する目的で集まったのが新興芸術派だが、都会生活を表面的に写しとることを目的とするにとどまった。むしろ新人として参加していた井伏鱒二や牧野信一・梶井基次郎らが個性的な文学を開花させた。
井伏鱒二
処女作「山椒魚」(大正12)・「夜ふけと梅の花」(大正14)など初期の佳作には、人生の哀感とユーモアが一貫するトーンとなっており、これが井伏の作品に一貫する特色である。戦後も「本日休診」(昭和29〜30)・「駅前旅館」(昭和34)が好評を得、「黒い雨」(昭和40〜41)では原爆に対する怒りを描いた。
〈山椒魚〉
大正12年に「幽閉」の題で発表した短編小説。加筆のち改題されて昭和4年に再発表。一匹の山椒魚が渓流の岩屋の中で快適に過ごすうちに頭が大きくなって出られなくなってしまう。作者自身の心の屈折を描いた佳作。
山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかへて外へ出ることができなかったのである。今は最早、彼にとっては永遠に、強ひて出て行かうとするところの出口のところがそんなに狭かった。
- ▶ 中村武羅夫
- 明治19年(1886)〜昭和40年(1965)。
- ▶ 牧野信一
- 明治29年(1896)〜昭和11年(1936)。「ゼーロン」(昭和6)などがある。
- ▶ 井伏鱒二
- 明治31年(1898)〜平成5年(1993)。「黒い雨」は戦後の傑作である。
梶井基次郎
「檸檬」(大正14)・「冬の蝿」(昭和3)・「のんきな患者」(昭和7)などで、鋭い感覚によって象徴的な詩情豊かな世界を描きあげている。
- ▶ 梶井基次郎
- 明治34年(1901)〜昭和7年(1932)。第三高等学校時代に肺膜炎をわずらい、生涯苦しんだ。東大英文科に進み、同人誌「青空」を創刊(大正14)し、「檸檬」を発表した。伊豆湯ヶ島で療養した。
● 新心理主義
ジョイスやプルーストの方法に学んで、人間心理の深層の流れを表現することを目ざした伊藤整や堀辰雄は、新心理主義と呼ばれた。伊藤は自己の方法を模索しながら、人間心理の深層に迫った。
堀辰雄
東大在学中に同人誌「駒馬」を発刊した。「聖家族」(昭和5)で心理の解剖を試み、結核療養体験とプルーストの手法とによって「美しい村」(昭和8)・「風立ちぬ」(昭和11)などを書いた。のちには日本の古典に傾倒し、「曠野」(昭和16)などを書いた。
〈風立ちぬ〉
ヴァレリの詩「海辺の墓地」中の一句「風立ちぬ、いざ生きめやも」から表題をとった中編小説。肺結核の婚約者とサナトリウム(療養院)で生活している「私」は、死を超えた永遠の生を発見する。加筆を重ね昭和13年に完成した。
それらの夏の日々、一面に薄生茂った草原の中で、お前が仕事をすませてくれるたびに、私達は肩をくっつけ合って仰向けになり、緑だけが鮮やかに見えていた白樺のそばに横になり、もくもくした堆に被われているその地平線から、反対に何者かが生れ来つつあるような夕暮れだった。
- ▶ ジョイス(James Joyce)
- (1882〜1941)。イギリスの小説家。内的独白の手法によって意識の流れを描写した「ユリシーズ」などの作品がある。
- ▶ プルースト(Marcel Proust)
- (1871〜1922)。フランスの小説家。潜在意識に照明を当てようとした大作「失われた時を求めて」がある。⇒p.85参照。
- ▶ ヴァレリ(Paul Valéry)
- (1871〜1945)。フランスの詩人・批評家。詩集「魅惑」・詩論集「ヴァリエテ」などがある。
- ▶ 堀辰雄
- 明治37年(1904)〜昭和28年(1953)。芥川龍之介に傾倒していた後輩で、芥川の自殺にショックを受け、卒業論文に「芥川龍之介論」を書いた。
- ▶ 伊藤整
- 明治38年(1905)〜昭和44年(1969)。
昭和十年代の文学
昭和六年(一九三一)に始まった満州事変は戦争を深めていき、民衆の不安も増大した。こうした社会の激しい動揺と混迷を示し、情勢に文学の世界も敏感に反応し、昭和十年代の文学は激化した。プロレタリア文学からの転向、作家としての良心の模索、さまざまな現象が交錯した。そして、太平洋戦争以後の時期には、文学そのものが否定されるようになり、戦争への協力が強制され、作家は徴用されたりして、日本の敗戦の日まで続いた。
●転向文学
(→p.174)小林多喜二が警察の手で虐殺されたこと(昭和八年)に続いて、日本共産党の指導者佐野学らが転向したことが契機となって、プロレタリア作家の中で転向する者が相次いだ。転向文学とは、転向者が書いた文学で、その内容は主として、転向者の苦悩を私小説ふうに吐露するものであった。村山知義の『白夜』(昭和9)、立野信之の『友情』(昭和9)がその代表的作品である。中には中野重治『村の家』(昭和10)のように、自己の信念を再確認するものや、島木健作『生活の探求』(昭和9)のように自己を再生させる道を求めようとするものや、林房雄のように、しだいにファシズムに身を寄せていく作家もいた。
小林多喜二の死
- 村山知義
- 明治三四年(一九〇一)〜昭和五二年(一九七七)。演劇の分野でも活躍した。
- 立野信之
- 明治三三年(一九〇〇)〜昭和四四年(一九六九)。上記のほかに『叛乱』(昭和27)など。
- 中野重治
- 明治三五年(一九〇二)〜昭和五四年(一九七九)。詩・評論でも活躍した。
- 島木健作
- 明治三六年(一九〇三)〜昭和二〇年(一九四五)。『生活の探求』は昭和10年代初頭の知識人が求めた生き方の、一方向を示している。
- 林房雄
- 明治三六年(一九〇三)〜昭和五〇年(一九七五)。『青年』(昭和12)のように自己を再生させる道を求めようとするものがある。
- 永井荷風
- 『濹東綺譚』(昭和9)など(→一六六ページ)。文明に毒されていない伝統的風俗や人情を描いた随筆体の小説。
『濹東綺譚』の挿絵
●既成作家の活躍
プロレタリア文学や芸術派が勢いを得ていたころ、既成作家はその陰で目立たなかったが、それらが衰退すると、既成作家の復活という様相を呈した。昭和八年以降の〈文芸復興〉の一つのあらわれとして、永井荷風の『濹東綺譚』(昭和12)、谷崎潤一郎の『春琴抄』(昭和8)、島崎藤村の『夜明け前』(昭和4〜10)、志賀直哉の『仮装人物』(昭和10〜13)・『暗夜行路』(大正10〜昭和12)、徳田秋声の『縮図』(昭和12〜16)などが発表された。
●『文学界』と日本浪漫派
『文学界』(一九三三)に創刊され、プロレタリア文学系統の作家たちと芸術派の作家たちとが日本の伝統への回帰など純粋なものを求める姿勢をうち出し、〈文芸復興〉のあらわれと見なされた。同人誌『日本浪漫派』は昭和十年(一九三五)に創刊され、亀井勝一郎と、日本古典の美への愛情を語った保田与重郎とが中心で、ともに純粋な文学を求める姿勢をうち出した集団であった。『日本浪漫派』は、のちに、戦時に日本精神を鼓吹する者たちを呼ぶ名となった。
●戦時下の文学
戦場での兵士の姿を描いた石川達三『生きてゐる兵隊』(昭和13)は発禁処分にされた。このように政府は、日中戦争を素材とする小説には厳しい制限を課すようになった。反面、火野葦平『麦と兵隊』(昭和13)が、戦場の実際の様子を知りたがっていた人々に広く読まれた。
- 谷崎潤一郎
- →一六三・一八四ページ。
- 『春琴抄』
- 音楽の天才で盲目の師匠・春琴に生涯をかけて仕える召使の愛情を描く。→一六三ページ。
- 『夜明け前』
- 一五三ページ。木曽馬籠の本陣という立場から幕末から明治維新にかけての激動期を描く。
- 島崎藤村
- →一五三ページ。
- 『縮図』
- 一五六ページ。芸妓屋の女主人の生活史を描いた自然主義文学の傑作。
- 徳田秋声
- 明治四年(一八七一)〜昭和一八年(一九四三)。
- 石川達三
- 明治三八年(一九〇五)〜昭和六〇年(一九八五)。『日本の橋』(昭和11)など。
- 武田麟太郎
- 明治三七年(一九〇四)〜昭和二一年(一九四六)。
- 保田与重郎
- 明治四三年(一九一〇)〜昭和五六年(一九八一)。批評の対象は文学のみならず本居宣長やモーツァルトなど多方面にわたった。
- 亀井勝一郎
- 明治四〇年(一九〇七)〜昭和四一年(一九六六)。
こうして爆発的な売れ行きを示したこともあって、政府は作家たちを戦争に従軍させた。作家たちは、戦場での見聞に基づいて、小説やルポルタージュを書いた。一部の作家は、戦争政策に合う内容の小説を進んで書くようになった。これが国策文学である。
●昭和十年代の作家
昭和十六年(一九四一)に太平洋戦争が開始され、以後は文学はしだいに窒息させられていった。ゆえに軍部に利用されなかった若い世代の人々が、戦争中も文学の領域を守った作家がいた。
中島敦
漢学者の家に生まれて中国古典の素養に厚く、中国古典に取材した『山月記』・『光と風と夢』・『弟子』(昭和17)を発表して認められ、まもなく病没した。戦後文学へのかけ橋の意味をもって発表されていなかった中編が、中島の遺作として残された。
〈李陵〉
初め題もついていなかった中編を、深田久弥によって「李陵」と命名された。中国前漢時代を舞台に、李陵・司馬遷・蘇武三人の生き方を通じて、人間の生きるよすがを追求した小説である。
中島敦
「山月記」『文学界』昭和17年2月号から
「麦と兵隊」
- 火野葦平
- 明治四〇年(一九〇七)〜昭和三五年(一九六〇)。戦場での体験を軍の報道部のルポルタージュふうにまとめた。『麦と兵隊』が好評を得たことにより、続いて『土と兵隊』・『花と兵隊』を発表した。
- 中島敦
- 明治四二年(一九〇九)〜昭和一七年(一九四二)。自分の原稿を深田久弥に託し、『文学界』に「山月記」など2編が「古譚」の総題で発表された。
- 『山月記』
- 詩人をめざしながら虎になってしまった男を描く中国の伝説を題材に、芸術家の悲痛な自意識のありようを描いた短編。
- 『名人伝』・『悟浄出世』
- 『西遊記』などに取材した短編。人間の生き方を探る哲学的主題をもつ。
「李陵」第三章
しかし結局それは、別れに臨んで李陵は友の為に涙を張った。いひかたき時の己の志が那辺にあったかといふ前に故国の一族が戮せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに、ば患痴になって了ふ。彼は一言もそれについてはいはなかった。ただ、舞い目つ歌った。
径万里兮度沙幕、
為君将兮奔匈奴。
路窮絶兮矢刃摧、
士衆滅兮名已隤。
老母已死、虽欲報恩将安帰。
歌っている中に、声が頬へ涙が伝はった。女々しいぞと自ら叱りながら、どうしやうもなかった。蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
●その他の作家と作品
戦時下に活動を開始した作家には、山本有三・阿部知二(『冬の宿』昭和11)・北条民雄(「いのちの初夜」昭和11)・岡本かの子・石川淳(「普賢」昭和11)・田中英光(「オリンポスの果実」昭和15)のほかに、石坂洋次郎・高見順・壇一雄・丹羽文雄・舟橋聖一らがいた。これらの人々の多くは、戦後にその活躍期を迎えた。
●評論
評論の分野でも、新進の評論家が輩出し、多くは戦後にその活躍期を迎えることになる。三木清(『人生論ノート』)・中村光夫(『二葉亭四迷論』昭和11)・武田泰淳のほかに、唐木順三・谷川徹三・林達夫・小田切秀雄・竹内好らがいる。
- 山本有三
- 明治二〇年(一八八七)〜昭和四九年(一九七四)。初め戯曲に専念し、大正末期から小説に転じた。『路傍の石』(昭和12)・『波』(昭和16)など。
- 高見順
- 明治四〇年(一九〇七)〜昭和四〇年(一九六五)。
- 壇一雄
- 明治四五年(一九一二)〜昭和五一年(一九七六)。『火宅の人』(昭和25〜55)など。
- 田中英光
- 大正二年(一九一三)〜昭和二四年(一九四九)。
- 三木清
- 明治三〇年(一八九七)〜昭和二〇年(一九四五)。
- 中村光夫
- 明治四四年(一九一一)〜昭和六三年(一九八八)。
- 唐木順三
- 明治三七年(一九〇四)〜昭和五五年(一九八〇)。
- 竹内好
- 明治四三年(一九一〇)〜昭和五二年(一九七七)。中国との関係が深く、『魯迅』(昭和19)などがある。
- 石川淳
- 明治三二年(一八九九)〜昭和六二年(一九八七)。燎原記(昭和13)・イエス(昭和22)など。
- 北条民雄
- 大正三年(一九一四)〜昭和一二年(一九三七)。ハンセン病(らい病)を患いながら文学を書いた。
戦後の文学
昭和二十年(一九四五)、日本は無条件降伏した。敗戦後まもなく復活したのは、戦争中に発表のあてもなく作品を書き続けていた老大家の文学者たちも多く、また旧プロレタリア系の文学者たちも運動を再出発させた。雑誌の復刊や創刊もあいつぎ、戦後派の新人が続々と登場して、戦争中に抑圧されていた文学的エネルギーが一挙に噴出したかのごとき様相を呈した。数年をへだてて、第三の新人らの登場があった。
原爆ドーム(広島市)
●老大家の復活
志賀直哉は『灰色の月』(昭和21)を書いた。谷崎潤一郎は戦争中も稿をつづいてきた。『細雪』(昭和23)・『浮沈』(昭和21)などを発表した。川端康成は日本の伝統的な美を追求する姿勢を見せ、『千羽鶴』(昭和24〜)・『山の音』(昭和24〜29)を書いた。武者小路実篤は『真理先生』(昭和24〜29)を書いた。井伏鱒二は『遙拝隊長』(昭和25)などを書いた。
『千羽鶴』
- 敗戦後に復刊・創刊された雑誌
- 復刊:文藝・新潮・中央公論・改造・日本評論など
- 創刊:世界・人間・展望・近代文学・新日本文学・群像など
『人間』(創刊号)
伊藤整は『鳴海仙吉』(昭和25)で戦後世相にほろ苦い思いを表現し、それぞれの方向へ進んだ。
〈細雪〉
昭和十八年(一九四三)、雑誌『中央公論』に発表されたが、上巻を局にふさわしくないとの理由で連載中止となった。谷崎は稿を書きつぎ、昭和十九年に刊行。中巻を戦後の雑誌『婦人公論』で連載し、昭和二十三年まで連載した。芦屋に住む老舗蒔岡家の四姉妹(長女鶴子・温和な次女幸子・婚期の遅れた三女雪子・奔放な四女妙子)を描いた、関西の旧家の歳時や日常風俗を中心に、優雅な絵巻物ふうの物語である。
『細雪』上巻
あの、神門を這入って大極殿を正面に見、西の廻廊をふまえて第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂が、今年はどんな風であらうか、もうおそくはないであらうか、と気がせいて、廻廊の門をくぐる近くは、あやしく胸をときめかすのだが、今年も気が合うたやうに彼女たちは、忽ち感嘆の声を放った。「あーっ」と、此の一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、去年の春が暮れて以来一年にわたって待ちつづけてきたものの日なのである。
映画「細雪」写真協力:東宝
連載中止の「お断り」
- 志賀直哉
- →一六六・一七八〜一ページ。
- 永井荷風
- →一六七ページ。
- 谷崎潤一郎
- →一五四〜一八八ページ。
- 正宗白鳥
- →一六四ページ。
- 武者小路実篤
- →一五三ページ。
- 川端康成
- →一七七ページ。
- 里見弴
- →一六四ページ。
- 伊藤整
- →一七九ページ。
〈山の音〉
長編小説。川端康成の戦後の代表作。主人公の信吾は平凡な会社員で六十二歳、息子の嫁菊子はしとやかな中に気魄をもった日本的女性である。信吾は菊子に心の慰めを感じ、老人と息子の嫁との、微妙な愛のゆらぎを描いている。
『山の音』第八章
「はい、お父さま。おそくなりました。」寝起きの信吾は、玉露も熱い湯で飲む。入れ方はかな。菊子の加減が一番いいやうだ。未婚の娘が入れてくれたら、もっといいだらうかと、信吾は思ふ。「酔っ払ひには迎へ酒、老いぼれには玉露で、菊子もいそがしいな。」信吾は軽口をたたいた。
『山の音』
川端康成は昭和四三年(一九六八)、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した。授賞式では、「美しい日本の私」と題する記念講演を行った。
「美しい日本の私ーその序説ー」
「山水」といふ言葉には、山と木、つまり自然の景色、山と水、つまり山水画・庭園などの意味から、「ものさびしさ」とか「さびしく、みすぼらしいことさま」とかいふ意味まであります。茶道の心が象る「わび・さび」、一輪の花を活けた床の間の茶室の簡素な美しさ。しかも日本を生けることが多いの一輪の花であり、しかもほんのみという美しい日本の私ーその序説ー
ノーベル文学賞授賞式 授賞式では、「美しい日本の私」と題する記念講演を行った。
●新戯作派(無頼派)
戦後のモラルや既成の文学観に反発し、自虐的・退廃的な態度の、無頼派とも呼ばれた。中から作品を生んだ作家たちは新戯作派と呼ばれた。織田作之助は評論「可能性の文学」(昭和21)を発表し、『土曜夫人』(昭和21)を書いた。坂口安吾は『白痴』(昭和21)を書き、評論「堕落論」(昭和21)で独自の反俗精神を語った。太宰治は青森県津軽の大地主の家に生まれ、そのことに道徳的な負い目を感じ、戦前からデカダンスの生活を送っていたが、『ヴィヨンの妻』(昭和22)・『斜陽』(昭和22)・『人間失格』(昭和23)を書いた。
戦後は再び反世間的な姿勢を強め、戯曲「冬の花火」(昭和21)・「ヴィヨンの妻」(昭和22)で戦後の便乗思想を批判し、「桜桃」(昭和23)を発表した。「斜陽」(昭和23)で没落する華族を描き、「人間失格」(昭和23)で人間に対する不信と恐怖とを語って、玉川上水に投身自殺した。
〈斜陽〉
長編小説。没落貴族の家を背景として語られる形式の小説で、姉かず子の日記と手紙とを通して語られる。姉・弟・小説家など四人の登場人物が、人間どうしが争わなければ生きていけない社会に絶望して自殺するが、姉は既成道徳を変革して生きていこうとする。作者太宰は、四人それぞれに自己を託し、戦後社会に対する絶望と偏りの理念とを語った作品である。
『斜陽』第八章
「私たちの身のまわりに於ては、革命は、いったい、どこで行はれてゐるのでせう。古い道徳の波はやっぱりそのまま、みちの行く手をさへぎってゐます。けれども私は、これまでの第一回戦では、生れる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかふつもりです。さうして、こひしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。第三回戦をたたかひながら押しのけ得たと思ふものも、その底の海水は革命そのものでございます。」
太宰の生家「斜陽館」
上記の作品のほかに、「津軽」(昭和19)・「お伽草紙」(昭和20)などがある。
●風俗小説
戦後の世相人心が一変した姿を描く風俗小説も、戦後文学の一特色である。田村泰次郎「肉体の門」(昭和22)、石坂洋次郎「青い山脈」(昭和22)、舟橋聖一「雪夫人絵図」(昭和23〜25)、丹羽文雄「いきがらせの年齢」(昭和24)などが書かれた。
●新日本文学会
戦後いち早く活動を開始したのは、戦争中に沈黙を余儀なくされていた宮本百合子・中野重治・蔵原惟人などが中心となって新日本文学会が結成された(昭和20)プロレタリア系の文学者たちだった。民主主義文学を目標とし、宮本百合子は「播州平野」(昭和21〜22)・「道標」などを発表した。中野重治の「妻よねむれ」(昭和21〜23)などが初期の成果であった。
●戦後派文学
昭和21〜23年に同人誌「近代文学」が本多秋五・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄らによって創刊された。評論を主として、政治よりも人間を優位におく文学を主張した。「近代文学」を中心に、新しい作家・評論家が生まれ、「戦後派」(アプレ・ゲール)と呼ばれる潮流が形成された。梅崎春生は「桜島」(昭和21)・「日の果て」(昭和21)で登場し、野間宏は重厚な文体の「暗い絵」(昭和22)で自己の戦争体験を描き、「真空地帯」(昭和27)や自伝的長編「青年の環」(昭和22〜)などを書いた。
戦後派 左から武田泰淳、野間宏、中村真一郎、椎名麟三、堀田善衛。
「近代文学」
「青年の環」(昭和22〜45)を完成させた。中村真一郎は「死の影の下に」(昭和21〜22)を発表し、以後旺盛な創作活動を続けた。椎名麟三は「深夜の酒宴」(昭和22)・「永遠なる序章」(昭和27)で実存主義的な作風を見せた。武田泰淳は「蝮のすゑ」(昭和22)などで新たな人間認識を示した。大岡昇平は、フィリピン従軍の体験を「俘虜記」(昭和23)・「野火」(昭和23〜26)にまとめ、大作「レイテ戦記」(昭和42〜45)で注目された。三島由紀夫は「仮面の告白」(昭和24)を書き、「金閣寺」(昭和31)・「豊饒の海」四部作(昭和40〜45)などを発表した。
〈真空地帯〉
長編小説。木谷上等兵は、無実の罪で陸軍刑務所に送られた。刑事法廷の本質、将校の腐敗ぶりや内務班の非人間的な実態をさぐり出そうとする過程で、軍の腐敗ぶりと内務班の非人間性があばき出されていく。人間の自然性を抑圧し、「真空」の状態にしてしまう兵営の実態を描いている。
『真空地帯』第四章
しかし曽田はそれを次のようにしか理解できなかった。「兵営ハ条文ト欄ニトリマカレタ一丁四方ノ空間ニシテ、強力ナ圧力ニヨリックラレタ象的社会分析デアル。人間ハコナキャニアッテ人間要素ヲ取リ去ラレ、強力な力によって取りさえあげられるところだ。これは真空地帯だ。むしろ真空管をここにさえあげているのだ。」そのなかで、ある一定の自然と社会とをさらえばいとられて、ついには兵管になる。
野間 宏
- 〈真空地帯〉の文体
- 野間宏は「真空地帯」で、小説を大衆のものとするためにストーリーを重視し、文章を平明なものにするように心がけた。
三島由紀夫
〈金閣寺〉
長編小説。現実の金閣寺放火事件(昭和25)に材を得て、放火犯である主人公が金閣寺の美にひきつけられ、疎外感に悩む。「金閣寺」を焼くことによって新たな人生に出発しようとする。三島由紀夫は主人公の心象を明晰な文体と緻密な構成で描いており、戦後文学の傑作である。
『金閣寺』第八章
あんなに唐突に生まれた想念であったとはいへ、私の身についた。仕立卸しの洋服か何かのように、つくづくぴったりと私の身についた。生まれたとともに育ち、日に世の常ならず美しく見えたといふそのことに、開花を待つてゐるのに日が備はってゐるなりつつあるのだ。だから、私はそれを志してゐたかのやうに、少くとも父に伴はれてはじめて金閣を見かへるその日から、私が放火者になるもろもろの理由が備はっていつたのだった。
映画「炎上(金閣寺)」 協力:大映
なお、戦後派の作家の中でも、井上靖は異彩を放ち、「楼蘭」(昭和33)・「蒼き狼」(昭和34)など中国に取材した歴史小説を多く書いている。
●第三の新人
昭和二十七年(一九五二)から三十年(一九五五)ころまでに文壇に登場した新人たちは、戦後派の作家たちとは違って、伝統的な私小説的な方法によって日常生活の空虚を描いた。第三の新人と呼ばれる。安岡章太郎は「悪い仲間」(昭和28)で自己の意識に固執する姿勢を見せた。吉行淳之介は「驟雨」(昭和29)で芥川賞を受けた。小島信夫は「抱擁家族」(昭和40)・「別れる理由」(昭和57)などを発表した。
(昭和29)で感覚的イメージを鮮やかに描いた。庄野潤三は「プールサイド小景」(昭和29)で、遠藤周作は「白い人」(昭和30)で、それぞれ独自の出発をした。ほかに阿川弘之・曾野綾子がいる。
第三の新人 左から遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三、小沼丹、安岡章太郎、三浦朱門、曾野綾子。
●昭和三十年代
石原慎太郎の「太陽の季節」が昭和三十年(一九五五)下半期の芥川賞に選ばれたことは、昭和三十年代に描かれた既成道徳の無視、行動の盲目性に衝撃を与えた。そこに描かれた時代の転換を象徴するものであった。「太陽族」という流行語まで生み出した。深沢七郎の「楢山節考」(昭和31)は、民俗伝承を素材として、これまでの文学観に衝撃を与えた。政治性や社会性を含めて新たに人間の全体像をとらえようとする試みは、開高健や大江健三郎らによってなされた。開高には「パニック」(昭和32)・「裸の王様」(昭和32)などの作品があり、大江には「死者の奢り」(昭和32)・「飼育」(昭和33)などの作品がある。安部公房は「砂の女」(昭和37)・「地の群れ」(昭和38)のあり方を追求した井上光晴も、現代という状況下での人間存在のあり方を追求した。
『死者の奢り』
ノーベル文学賞受賞式 一九九四年度ノーベル文学賞受賞(大江健三郎)。
現代の文学
現代は、出版ジャーナリズムの盛況もあって、多くの作家が活躍している。その中には、戦前に出発した作家もあれば、さまざまな世代の作家もいる。昭和四十年前後に出発した若い世代の作家も、それぞれの境地を切り開いている。
●昭和四十年代の作家
作家には、「廻廊にて」(昭和37〜38)の辻邦生、「楡家の人々」(昭和37〜38)の北杜夫、「憂鬱なる党派」(昭和40)の高橋和巳、「スミヤキストQの冒険」(昭和40)の倉橋由美子らがいる。批評家に共通する特徴として、イデオロギーぬきの内向的な性格が指摘され、「時間」(昭和44)の黒井千次、「杳子」(昭和45)の古井由吉、「或る聖書」(昭和45)の小川国夫、「書かれない報告」(昭和46)の後藤明生、「司令の休暇」(昭和45)の阿部昭らを「内向の世代」と呼ぶことがある。
そのほか注目すべき作家としては、三浦哲郎・河野多恵子・田辺聖子・司馬遼太郎・柴田翔・津村節子・高井有一・丸山健二・五木寛之・丸谷才一・大庭みな子ほかにも多くいる。
内向の世代 左から黒井千次、後藤明生、古井由吉、阿部昭。
庄司薫・清岡卓行・古山高麗雄・三木卓・森敦・高橋たか子らがいる。在日朝鮮人作家には、金石範・李恢成・金鶴泳らがいる。
●評論
戦後の評論は、「新日本文学」や「近代文学」(→P.188)の人々を中心として出発した。戦後社会の国際化と多様化はさまざまな問題を提起し、平野謙「芸術と実生活」(昭和24)、唐木順三「現代史への試み」(昭和24)、中村光夫「風俗小説論」(昭和25)、高橋義孝「文学の芸術とは何か」(昭和25)、中野好夫「もはや"戦後"ではない」(昭和25)、加藤周一「日本のアウトサイダー」(昭和33)などがあった。
昭和三十五年(一九六〇)に安保条約批准をめぐって政治問題が大きくクローズアップされ、この時期以後の代表的な評論には、橋川文三「日本浪漫派批評序説」(昭和35)、吉本隆明「共同幻想論」(昭和43)、秋山駿「内部の人間」(昭和42)、江藤淳「漱石とその時代」(昭和45)、山崎正和「不機嫌の時代」(昭和49)などがある。
- 語注
- *安保条約批准 昭和三十五年六月五日、国会において改定批准は強行され、ついで当時の岸信介内閣は総辞職した。
●現代文学の動向
昭和五十年以降、女性の権利の伸張を求めるフェミニズム運動を背景に、女性作家の活躍が顕著になった。女性が母性を求める・母性を拒否するテーマは、河野多恵子「不意の声」(昭和43)、大庭みな子「梢の夢」(昭和46)にすでにあらわれていた。一人の人間が他者から孤絶して生きるさまを描き、「ウホッホ探険隊」(昭和58)でとりあげられたのは干刈あがた。増田みず子「シングル・セル」(昭和61)は、家族の崩壊と再構築の問題を扱う。
社会全体の工業化に伴い都市近郊農村の青年の生を描いた立松和平「遠雷」(昭和55)、都市における幻想空間を描く日野啓三「天窓のあるガレージ」(昭和56)などが書かれた。都市化現象はアメリカふうの都市文化を生み、小説にも定着された。野啓三の乾いた感性を生かし、村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(昭和55)、村上春樹「羊をめぐる冒険」(昭和58)・「ノルウェイの森」(昭和62)、高橋源一郎「優雅で感傷的な日本野球」(昭和63)などがある。また、軽くしなやかな感性を前面に押し出した作品に、島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」(昭和58)、吉本ばなな「キッチン」(昭和62)がある。
「キッチン」(吉本ばなな)・「ノルウェイの森」(村上春樹)書影
これらの動向とは別に、みずからの文学的テーマを深めていった作家たちもいた。大西巨人「神聖喜劇」(昭和55)、埴谷雄高「死霊」(昭和21〜未完)、「フーシェ革命暦」(昭和53〜平成1)などの大作が完成され、中上健次「枯木灘」(昭和51〜52)・三浦哲郎「白夜を旅する人々」(昭和52〜53)・清岡卓行「大連」(昭和59)では自分の血筋が追跡された。中野孝次・宮尾登美子らが歴史的な事件を素材に旺盛な作家活動を続けている。吉村昭「破獄」(昭和60)、池澤夏樹らがいる。
昭和五十年以降の注目すべき評論には、敗戦および戦後の意味を問う本多秋五「無条件降伏の意味」(昭和53)・加藤典洋「アメリカの影」(昭和60)や、磯田光一「鹿鳴館の系譜」(昭和56〜58)、川村湊「南洋・樺太の日本文学」(平成6)などがある。
現代の文学は、戦後文学が残した問題を引きつぎながら、次々に生み出す問題をかかえこんでいる。マスコミ中での作家存在という、これも文学の本質にかかわる問題である。このようなさまざまな問題に個々の作家・評論家が立ち向かい、現代の文学は、さらに多様な姿を示していくであろう。
詩歌
近代詩
—明治〜大正時代—
明治になったとき、詩歌のジャンルに漢詩・和歌(短歌)・俳句・狂歌・川柳があったが、いずれも新しい時代の精神を十分に表現しきれなかった。とくに漢詩は西洋の知識の高い教養を要するために衰え、江戸末期に盛んであった狂歌は新しい時代への要請にこたえようとしなかった。
●新体詩
東京大学教授外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎の三人が、西洋の詩を翻訳し、「新体詩抄」(明治15)を刊行した。新体詩は西洋の詩の形式を和歌の音数律で表現したもので、自分の思想・感覚を詩に歌いきることのできる形式である。
文語を用いて五音七音で表現していたのでは現代の思想や感覚をあらわせないという考えから、口語自由詩が盛んになっていった。川路柳虹の詩「廃墟」はその先駆けである。詩集「於母影」を経て、島崎藤村・土井晩翠時代から北原白秋・三木露風時代に至る詩の形式に影響を与えた。
高村光太郎「うそ鳥」
これらの実作は古い言葉を用いた七五調の作品になってしまい、ただ長詩を可能にしたにすぎず、詩人的才能に恵まれていたわけではなかった。しかし、この形式は明治の青年たちに歓迎され、刊行後に類書も出た。湯浅半月(明治21〜22)は長編叙事詩を刊行した力作である。
山々かすみいりあひの
徐に歩み帰りゆく
やうやく去りて余ひとり
鎌はなりつ、野の牛は
耕へす人もうちつかれ
たそがれ時に残りけり
(矢田部良吉訳・グレー「境上感懐」冒頭)
「新体詩抄」書影
●浪漫詩
ドイツ留学から帰って間もない森鷗外(→p.147)が、落合直文・金井喜美子らと新声社(S・S・S)を作り、西洋詩・漢詩・小家物語の一節などを、さまざまな工夫で翻訳した翻訳詩集「於母影」(明治22)を刊行した。透谷の作品は近代人の苦悩が表現され、指導的立場に立った。
北村透谷は「楚囚の詩」(明治22)、「蓬莱曲」(明治24)を発表し、のち雑誌「文学界」(→p.148)の指導的立場に立った。「内部生命論」(明治26)などの評論は、明治26以降の青年に多大の影響を与えた。(→p.148)
「文学界」で透谷の影響を受けた島崎藤村は、「若菜集」(明治31)・「夏草」(明治31)・「落梅集」(明治34)を書き、青春を喜びをうたい、壮年の意識に達したことを示した。同じころ、土井晩翠は漢学をはじめとする広い知識に基づいて、傾向の対照的ならびに称された。「星落秋風五丈原」は広く愛読された。与謝野鉄幹は「天地玄黄」(明治29)のち浪漫的文学雑誌「明星」(→p.210)を刊行して多くの後継を育てた。
「若菜集」「初恋」冒頭 —島崎藤村—
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
「落梅集」「千曲川旅情の歌」前半 —島崎藤村—
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齢なむ
明日のみ思ひわづらふ
「天地有情」「星落秋風五丈原」冒頭 —土井晩翠—
いくたびか栄枯の夢の
消えたる谷に見れば
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る
「若菜集」書影
「天地有情」「星落秋風五丈原」(続き) —土井晩翠—
きみぞ山悲秋の風吹けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
独角の旗光なく
鼓角の音も今しづか
丞相病篤かりき
●象徴詩(一)
「明星」の寄稿家であった薄田泣菫は「暮笛集」(明治32)に、蒲原有明は「草わかば」(明治35)に浪漫的な詩を収めたが、両者とも象徴詩を作ろうと苦心していた。上田敏が訳詩集「海潮音」(明治38)・「白羊宮」(明治39)に象徴詩を示すと、泣菫は「白羊宮」(明治39)を、有明は「有明集」(明治41)を刊行して象徴詩の達成を示した。
「海潮音」「山のあなた」(カアル・ブッセ) —上田敏・訳—
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ
われひと、尋めゆきて、
涙さしぐみかへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
「有明集」前半 —蒲原有明—
暗遠れよと、棚なびける草野の
この暗き黒髪の原波を
なほ柔かき君が帰りよ、
よぎゆく波を
判きたまふらむ。
「海潮音」書影
● 口語自由詩
口語自由詩の発想は近代詩の出発点からあったが、後半になって、自然主義の影響下に始まる。明治40年代に発表され、明治43年の詩集「路傍の花」(所収)が代表的で、その題名の詩を発表した川路柳虹の詩は、今までの詩とは異なる世界を示している。かつて浪漫的詩集「あこがれ」を刊行している石川啄木からも、今までの詩とは異なる世界が示されていた。啄木は日常の感情を口語自由詩にうつし、文語詩も書いたが、口語詩の重要さを切実に考えていた。その考えは評論―明治42年に示されている。
石川啄木「はてしなき議論の後」第一連
われらの日ごとに読み、かつ議論を聞かずこと、
しかも、その眼の輝けるごとく、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
されど、誰一人、握りしめたる拳をたたきて
vy「NARODi」と叫び出づるものなし
上に引用した啄木の詩は、人称代名詞・活用語とともに文語の形式を用いているが、当時の現代語を活用しようとした点で口語的内容であって、形式的な文語詩を用いたのであろう。
● 象徴詩(二)
泣菫・有明のあとを受けた象徴詩は、北原白秋と三木露風によって
- (注)NARODi
- ロシア語で「人民の中へ」の意。
て展開される。白秋は「邪宗門」(明治42年)に感覚的異国趣味をうたい、露風は思想的・叙情的な世界を沈潜した言葉で「廃園」(明治42年)・「白き手の猟人」(大正2年)などにつづった。露風は十六歳で処女詩歌集「夏姫」を刊行。「邪宗門」の白秋と並称されたが、詩風は異なる。「白き手の猟人」は象徴詩としての到達点である。
● 耽美派
「明星」終刊後まもなく、「スバル」(明治42年)が創刊され、芸術主義的方向をめざして森鷗外を指導者として実質的に中心とし、耽美的傾向で出発した。啄木は自然主義的傾向に向かって離れていった。その中心となったのは白秋・木下杢太郎らの芸術家の集まりで、「パンの会」であった。木下杢太郎には「食後の唄」(大正8年)がある。
● 理想主義の詩
白樺(→p.164)は詩の世界にも大きな影響を与えた。高村光太郎は、耽美的傾向から出発し、白樺派の影響と、のちに妻となる長沼智恵子との出会いにより、人道主義的内容の口語自由詩を作るようになった。彼の詩集「道程」(大正3年)は、前半が耽美的傾向の文語自由詩、後半が智恵子への思いを含めた人道的傾向の口語自由詩である。
千家元麿の「自分は見た」(大正7年)、尾崎喜八の「空と樹木」(大正11年)も白樺派の影響下にある。難解な象徴詩集「聖三稜玻璃」(大正4年)のキリスト教伝道師山村暮鳥の「風は草木にさやいた」(大正4年)も含まれよう。なお、宮沢賢治が農業指導と法華経の普及に生きながら書いた「春と修羅」(大正13年)も理想主義の詩の中に含めてよいだろう。
● 民衆詩
大正デモクラシーとホイットマンやカーペンターの影響下に白鳥省吾・富田砕花・福田正夫・百田宗治らが民衆詩を主張し、生活を詩にすることをめざした。平俗な言葉で書いたため冗長に流れやすく、詩壇からは「非詩」と非難された。
● 近代詩の達成
萩原朔太郎の「月に吠える」(大正6年)・「青猫」(大正12年)は、憂鬱の感情を口語自由詩で象徴詩風にあらわしたものとして近代詩の達成を体現し、その後の詩人たちにとっての一つの出発点であった。のちの詩人たちへの影響という点では、長い洋行から帰った堀口大学の訳詩集「月下の一群」(大正14年)も重要で、佐藤春夫の「殉情詩集」(大正10年)は文語定型詩の絶品であるし、日夏耿之介が自己の美意識をうたった「転身の頌」(大正6年)は象徴詩としてすぐれている。
現代詩
大正末期〜現代
大正後半に先行芸術の否定を高めた詩の運動がおこった時点に、現代詩が始まると言えよう。これは社会に目を向ける方向と、芸術に目を向ける方向に分かれた。詩人は戦争前夜に権力に抑圧され、権力は戦争肯定を強要し、詩人も試練に会った。
● 現代詩の始まり
高橋新吉は「ダダイスト新吉の詩」(大正12年)・「日本未来派宣言詩集」を刊行。萩原恭次郎・壺井繁治・岡本潤は「赤と黒」(大正12年)を創刊した。いずれも先行芸術の否定を行ったものであった。
● プロレタリア詩
「赤と黒」の同人達は文学活動にあきたらず、アナーキスト(無政府主義者)としての行動をとるに至った。その中から中野重治・小林多喜二(→p.174)・小野十三郎(→p.206)らがコミュニスト(共産主義)方向に分かれていった。勢力をうばわれ、プロレタリア詩は詩壇の表面から影をひそめた。小林多喜二が虐殺された昭和8年(一九三三)ごろから、プロレタリア詩は詩壇の表面から影をひそめた。
● モダニズム
詩雑誌「亜」に集まった安西冬衛や北川冬彦らは、民衆詩の冗長な詩に反発して短詩・新散文詩を主張した。また、イギリスから帰って超現実主義のグループを作っていた西脇順三郎と結びついて「詩と詩論」が創刊(昭和3年)された。しかし、北川冬彦・三好達治らは、西脇寄りの編集方針の春山行夫に不満をもって脱退し、「詩・現実」を創刊(昭和8年)した。超現実主義の詩集として三好達治の「測量船」(昭和5年)、新散文詩として安西冬衛の「Ambarvalia」(昭和4年)・北川冬彦の「戦争」(昭和8年)などがある。
新感覚派(→p.145)に始まり新興芸術派周辺に位置する芸術主義的な文学がモダニズム文学にあたる。
● 戦時体制下の詩
プロレタリア文学が圧殺されるころから、戦時体制下と見てよい。小林多喜二(→p.174)が拷問死をした昭和8年(一九三三)から翌年にかけて、詩誌「四季」が堀辰雄(→p.179)によって創刊され、三好達治が中心となって編集した。
【四季】派
三好達治が「帆・ランプ・鴎」(昭和8年)の丸山薫、「山羊の歌」(昭和9年)の中原中也、「わがひとに与ふる哀歌」(昭和10年)の伊東静雄を編集メンバーに加えた。後に「詩と詩論」のモダニズムを経過した立原道造らも同人となった。叙情を基調とした詩の雑誌である。
【歴程】派
昭和10年(一九三五)に創刊された詩誌「歴程」には、「第百階級」(昭和3年)・「蛙」(昭和13年)などの詩人草野心平や中原中也らが集まったが、各人の個性を重視し、特定の傾向に陥ることを避けた。宮沢賢治(→p.202)は、この雑誌の追悼号で紹介された。モダニズムの系統の詩誌「新領土」も創刊され、同人の村野四郎の「体操詩集」(昭和14年)は新即物主義の詩集として知られる。
● 戦時下の詩
詩人が戦争をどのようにとらえていたかという視点で見ることが重要である。高村光太郎・三好達治・伊東静雄ほか多くの詩人が戦争を賛美する戦争詩を書いたが、小野十三郎は叙景にカモフラージュした抵抗詩を書き、詩集「大阪」(昭和14年)などに収録した。金子光晴は弾圧のため発表できなかった抵抗詩を戦後「鬼の児の唄」(昭和24年)などの三部作にまとめた。
● 戦後の詩
戦前から活躍していた西脇順三郎・村野四郎・草野心平が衰えを見せなかったが、戦後詩の出発点は新たに始まったと見るべきだろう。一つは、詩人の戦争責任という問題であり、吉本隆明や鮎川信夫らによって代表された戦争詩人批判であり、もう一つは、戦争体験の確認によって戦後の現実に直面しようとすることであった。田村隆一の「四千の日と夜」(昭和24年)、鮎川信夫の「囚人」(昭和31年)、三好豊一郎・黒田三郎らと、昭和二十三年(一九四八)に詩誌「荒地」を創刊した。
その後、関根弘・長谷川龍生らの「列島」(昭和27年)、谷川俊太郎・大岡信らのマチネー・ポエチックグループが出発した。ほかに、会田綱雄の「鹹湖」(昭和32年)・石垣りんの「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」(昭和34年)も優れた詩集である。
● 現代の詩
昭和三十五年(一九六〇)は、日米安全保障条約をめぐる闘争のピークであるが、同時に経済的発展・世相の多様化とそれに対する反闘が詩の多様化をもたらした。一つには陥窟への逃走があり、鈴木志郎康らの詩誌「凶区」(昭和37年)、天沢退二郎の「朝の河」(昭和36年)、吉増剛造の「東京午前三時」(昭和41年)・雑誌「ドラムカン」(昭和45年)などがある。吉原幸子「幼年連禱」(昭和39年)、長田弘「われら新鮮な旅人」(昭和40年)・「汚れたる者はさらに汚れ」(昭和40年)、高橋睦郎(昭和41年)らのように独自の詩風を持つ詩人が続いた。また吉岡実「罐製同棲又は煑沸」(昭和39年)・「黄金詩篇」(昭和45年)なども活躍した。
近代短歌
「古今和歌集」(→p.133)などを手本とし、風雅中心で非個性的作風の旧派(桂園派)がごろまで残るが、その中から出発した落合直文は、浅香社を結成(明治26年)して、直文の門下から多くの同調者を得た。与謝野鉄幹は妻晶子と雑誌「明星」で浪漫的歌風を展開し、子規は「万葉集」を重視して写実的歌風を主張した。明治の末、自然主義の影響下に石川啄木や若山牧水が活躍した。「アララギ」の影響を通過して「明星」系は北原白秋・吉井勇らの耽美的傾向に向かい、「アララギ」派は斎藤茂吉らの主情的写生に進んだ。大正時代は「アララギ」が主流を占めたが、昭和に入ると既成歌壇への批判のものが多くなった。戦時下において短歌も統制を受け、愛国歌に陥るものが多かった。しかし戦後、短歌否定論のもとに短歌は活路を見出し、とくに昭和二十五年(一九五〇)ごろから多くの新人が登場した。
● 和歌の革新
明治二十六年(一八九三)、落合直文は浅香社を結成し、旧派和歌に批判的な現実主義的方向に踏み出した。しかし幼時から受けた国学などの影響もあって、革新というにはなまぬるかった。あるいは一時協力もした別系統の正岡子規・与謝野鉄幹・金子薫園・尾上柴舟らをまたねばならなかった。
●明星派
与謝野鉄幹は、「亡国の音」(明治27年)で旧派のたをやめぶり(女性的詠風)を否定し、ますらをぶり(男性的詠風)を提唱して「東西南北」(明治29年)・「新詩社」を結成、翌明治30年に実作を示した「天地玄黄」を刊行した。後に鉄幹の妻となった与謝野晶子は、浪漫的な官能的恋愛賛美の歌を作り、鉄幹との恋愛は鉄幹の「紫」(明治34年)に示され、晶子の「みだれ髪」(明治34年)は古い道徳からの脱皮を果たして、近代短歌の成立を意味しよう。「明星」には北原白秋・吉井勇・窪田空穂・石川啄木らすぐれた歌人が集まり、浪漫派歌人の中心となった。
根岸短歌会
正岡子規は、明治三十一年(一八九八)に「万葉集」・源実朝を重視し、古今調を批判して「歌よみに与ふる書」で旧派の写実を退け、素朴な写生を主張した。その実践として開いた月例歌会が根岸短歌会である。明治三十五年(一九〇二)、若くして没するが、没後「竹の里歌」が刊行された。門下には伊藤左千夫らがいる。
のちに叫びの説を唱える伊藤左千夫、繊細な感覚で知られる連作「鉄の如く」(大正3〜4年)の長塚節、温厚な作風の岡麓らが集まった。子規の継承に最も熱心だった左千夫は、会の機関誌「馬酔木」(明治36年創刊)の編集にあたった。
● 自然主義短歌
明治三十五年(一九〇二)、尾上柴舟と金子薫園は「明星」の恋愛偏重を批判する意図をもった叙景詩集「叙景詩」を刊行した。ともに後進の指導に熱心で、柴舟は車前草社を結成した。若山牧水は感傷的な自己告白の歌を育てた。土岐哀果・前田夕暮・窪田空穂・石川啄木らも「明星」に属していたが、いずれも自然主義の影響下の作風である。啄木は哀果とともに自然主義から社会主義的思想にまで接近した。作品は日常の感情を重視したものであり、生活派とも呼ばれる。啄木の「一握の砂」(明治43年)・「悲しき玩具」(明治45年)は三行書きを愛用した。
●耽美派
芸術家集団「パンの会」や雑誌「スバル」(→p.201)に拠った歌人は吉井勇・北原白秋・高村光太郎である。勇は京都祇園を舞台にしたものなど悲哀を含んだ享楽的・都会情緒・江戸趣味の作品を「酒ほがひ」(明治43年)に示し、白秋はその鋭敏な官能で裏打ちされた作品を作り、「桐の花」(大正2年)にまとめた。
アラルギ派
正岡子規の歌風を受けついだ伊藤左千夫は、明治四十一年(一九〇八)に「アラルギ」を創刊した。ここに集まったのは島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・土屋文明・古泉千樫・石原純らである。
理想を守ろうとした左千夫は、自然主義や耽美主義の文芸思潮を知った若い同人たちに満足せず、衝突もあった。しかし、左千夫の死(大正2)後、アラルギ派は赤彦・茂吉を中心に発展、現代にまで続く系譜となった。作品集は、茂吉の『赤光』(大正2)、赤彦・憲吉の共著『馬鈴薯の花』(大正2)、赤彦の『柿蔭集』(大正13)、憲吉の『林泉集』(大正5)、純の『饗日』(大正11)、文明の『ふゆくさ』(大正14)、迢空の『海やまのあひだ』(大正14)、千樫の『屋上』(昭和2)など、すぐれたものが多かった。
アラルギ派 右から古泉千樫、石原純、二人おいて斎藤茂吉。左から三人め伊藤左千夫。
- ▼中村憲吉
- 明治22年(1889)〜昭和9年(1934)。共著『馬鈴薯の花』ほか、軽雷集』(昭和2)などがある。
- ▼古泉千樫
- 明治19年(1886)〜昭和2年(1927)。歌集『屋上の土』は死後、門人による刊行。
- ▼土屋文明
- 明治23年(1890)〜平成2年(1990)。『万葉集』研究に業績。
- ▼釈迢空
- 明治20年(1887)〜昭和28年(1953)。本名折口信夫。歌集『海やまのあひだ』、詩集『近代悲傷集』などがある。
- ▼石原純
- 明治14年(1881)〜昭和22年(1947)。相対性理論を日本に紹介した理論物理学者。『アラルギ』に参加し、非定型・口語短歌を作った。
「死に近き母に添寝のしんしんと 遠田のかはづ天に聞ゆる」
「みづうみの氷は解けてなほ寒し 三日月の影波にうつろふ」
「葛の花踏みしだかれて、色あたらし この山道を行きし人あり」
●反アラルギ短歌
大正期にアラルギ系以外で活躍した歌人として、佐佐木信綱刊行の「心の花」の同人として活躍した川田順・木下利玄がいた。利玄は描写を凝視した作風で「二路」(大正13)を発表した。また太田水穂は大正4年に「潮音」を創刊し、茂吉の写生説と争った。歌集に「雲鳥」(大正11)がある。その他、明星から出発し、この時期生活に目を向けた窪田空穂がいた。また尾上柴果・金子薫園も活動した。
大正13年(1924)に反アラルギの「日光」が創刊された。木下利玄・前田夕暮・北原白秋・アラルギを脱退した古泉千樫らが集まった。しかし統一がとれず長続きしなかったが、アラルギには刺激になり、歌史の原点とまで考えられるほどの意味をもった。
明治・大正期の歌人 前列左から尾山篤二郎、西村陽吉、土岐哀果、若山牧水。後列中村憲吉、斎藤茂吉、前田夕暮、古泉千樫。
- ▼佐佐木信綱
- 明治5年(1872)〜昭和38年(1963)。「心の花」主宰。万葉集研究にも業績。
- ▼川田順
- 明治11年(1878)〜昭和41年(1966)。「心の花」同人として活躍。
- ▼木下利玄
- 明治19年(1886)〜大正14年(1925)。自然描写を凝視した独自の歌風。「日光」創刊に参加。歌集「二路」(大正13)。
- ▼太田水穂
- 明治9年(1876)〜昭和30年(1955)。「潮音」(大正4)創刊。古典和歌から近代詩まで研究に業績。歌集「雲鳥」(大正11)・「螺鈿」(昭和15)ほか。
「牡丹花は咲き定まりて静かなり 花の占めたる位置のたしかさ」
●昭和の短歌
「日光」創刊が口火をきったかのように、昭和期は既成歌壇に対する批判が強まった。しかし、口語短歌も定型・自由律の対立や、新興短歌運動と呼ばれる口語短歌を中心にする集団で、生活派・無産派との対立などで分裂をくり返した。芸術派では石原純・「緑の旗」(昭和14)の西村陽吉、散文化の傾向をも有する「烈風の街」(昭和14)の渡辺順三らが活躍した。この影響は歌壇に大きく作用し、アラルギまでもが揺らぐほどであった。
こうした傾向を批判して、白秋は「多磨」(昭和10)を創刊した。そのほか「高志」(昭和17)の木俣修、「群鶏」(昭和21)の宮柊二を育てた。また歌壇との接触を持たない会津八一が「鹿鳴集」(昭和8)に独特な歌風を示した。また明石海人が「白描」(昭和14)に独特な歌風を示した。
「かうもたやすく戦争といふ言葉が口にされる モップの心理をおそれ」
(注)モップ=群衆
「陸橋を渡り過ぐる夜の汽車幾つ 死したくもなく我の侘む」
- ▼西村陽吉
- 明治12年(1879)〜昭和52年(1977)。土岐哀果の影響を受けてアナーキズム短歌を作り、プロレタリア短歌へ。
- ▼渡辺順三
- 明治27年(1894)〜昭和47年(1972)。啄木に感動し、社会主義に傾く。「人民短歌集」(昭和21)に参加した。
- ▼木俣修
- 明治36年(1903)〜昭和63年(1988)。白秋への傾倒から、研究・批評に多くの業績を残した。短歌史・美術・書・俳句など広範囲に活動。
- ▼会津八一
- 明治14年(1881)〜昭和31年(1956)。万葉調の歌風でひらがな書きを特徴とする。書道・美術史にも業績。
- ▼明石海人
- 明治34年(1901)〜昭和14年(1939)。ハンセン病のため死亡まで七年間を療養所で過ごし、詩・短歌・俳句を作った。歌集「白描」(昭和14)。
●戦後の短歌
戦時下で権力に抵抗できなかったり、権力の側に立ったりという短歌の無力性・犯罪性は、戦後になって、臼井吉見「短歌論」・小野十三郎「短歌的抒情に抗して」(昭和22)などの短歌否定論を招いた。
この否定論の中で、批判を受けとめて出発したのが久保田正文・木俣修の「八雲」(昭和21創刊)であった。老大家の作品が多かった中で、近藤芳美「坡吹く街」(昭和23)が自分の歌風を築いた。
茂吉や迢空の死んだ昭和28年(1953)以後、この時期は、「乳房喪失」(昭和29)の中城ふみ子・「早笛」(昭和30)の生方たつゑら女流歌人と、「水葬物語」(昭和26)の塚本邦雄・「飛花抄」(昭和30)の馬場あき子らが活躍した。塚本・岡井は「黙契」(昭和30・31)、上田三四二「青年歌人会議」(昭和30・31)を作り、新しい短歌の方向を探った。昭和39年ごろの前登志夫らとともに、近代短歌の新しい潮流が生まれた。
「失ひし想念の中にまもり来て ひしわれの乳房に似し丘あり今冬枯れたる花が飾る」
「湖の夜明け、ピアノに水死者のゆびほぐれおちならすレクィエム」
- ▼久保田正文
- 大正元年(1912)〜平成11年(1999)。「八雲」編集。短歌批評にすぐれ、「近代短歌の構造」ほかがある。
- ▼近藤芳美
- 明治46年(1913)〜平成16年(2004)。歴史意識が確固としており、戦争体験を根とする歌風。歌誌「浅紅」を主宰。
- ▼塚本邦雄
- 大正9年(1920)〜平成17年(2005)。近代短歌の伝統である事実を無視した前衛短歌で、幻視の短歌に発展した。
- ▼岡井隆
- 昭和3年(1928)〜令和2年(2020)。「アラルギ」から出発し、寺山修司らと前衛短歌運動を起こす。「空には本」(昭和33)。
- ▼寺山修司
- 昭和10年(1935)〜昭和58年(1983)。「空には本」で前衛地位を確立。戯曲・小説・テレビドラマなど多数。劇団「天井桟敷」主宰。
(注)レクィエム=鎮魂歌
「一粒の向日葵の種まきしのみに 荒野をわれの処女地と呼びき
年代記死ぬるほどの恋しをひとつあり それの周辺はわずかに明し
丁丁と樹を伐るる音のたかぶりて 森にかへれる木霊のひとつ」
- 塚本邦雄「水葬物語」/岡井隆「空には本」/寺山修司「子午線」
- 上田三四二「黙契」/前登志夫「子午線の繭」
●現代の短歌
安保反対闘争は、「意志表示」(昭和36)の岸上大作、同世代で「未成年」(昭和35)の春日井健らの短歌に反映され、佐佐木幸綱なども注目された。「サラダ記念日」(昭和62)は史的位置づけにはまだ早いだろうが、日常語を多用した俵万智の爆発的な話題になった。
「この味がいいねと君が言ったから 七月六日はサラダ記念日」
近代俳句
俳句の革新は、正岡子規が旧派の俳句を批判した明治25年(1892)に始まる。写生を重視した子規のもとに、河東碧梧桐や高浜虚子が集まった。やがて碧梧桐が活躍し、新傾向俳句(→p.219)と呼ばれる自由律の句を作った。しかし明治の後継者を育てたのは高浜虚子で、虚子は写生を徹底させ、新傾向俳句をしのいで定型の句を作り主流の地位を占めた。昭和に入って水原秋桜子が批判して新興俳句運動(→p.220)を起こし、個性の表現を主張した。しかし戦時中の権力の弾圧によって俳句はすたれ、戦後の第二芸術論でさらにダメージを受けた。しかし前衛俳句に至るまで幅広い支持を受けた。
- ▼岸上大作
- 昭和14年(1939)〜昭和35年(1960)。安保闘争の年、大学在学中に割腹死。歌集「意志表示」(昭和36)。
- ▼春日井健
- 昭和13年(1938)〜平成16年(2004)。同世代の前衛歌人として活躍。歌集「未成年」ほか。
- ▼俵万智
- 昭和37年(1962)〜。口語を詩語に収めようとし、かたかな言葉も多用した。歌集「サラダ記念日」(昭和62)がある。
●俳句の革新
旧派の俳句は月並(月次八→p.122)と称する月例会で行われたもので、知識に基づく陳腐なだじゃれ的なものであった。正岡子規が新しい俳句を提唱したが、それは明治の社会・文化全般の一つのあらわれでもあった。
正岡子規
明治25年(1892)、子規は「獺祭書屋俳話」を発表して旧派の俳句を否定し、明治28年「俳諧大要」で、さらに新しい俳句のあるべき姿を明らかにした。そこでは、芭蕉以上に与謝蕪村(→p.121)を評価し、知識・理屈よりも感情を、空では芭蕉以上に与謝蕪村を評価し、知識・理屈よりも感情を重じた。子規の俳句は、明治になって入ってきた洋画の写生の影響が見られ、この「写実」を説いた(→p.157)。また「寒山落木」・「墨汁一滴」・「仰臥漫録」・「病牀六尺」などの随筆も、写生を旨として生活に目を向けたものである。明治30年(1897)に俳誌「ホトトギス」が創刊された。
子規の絶筆三句
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
〈子規の門人たち〉
子規門下には、のちに俳句界を二分する河東碧梧桐・高浜虚子がいた。「ホトトギス」が創刊されると、子規の指導のもと日本派と呼ばれ、生活に目を向けた写生の俳句を作った。
- ▼正岡子規
- 慶応3年(1867)〜明治35年(1902)。中学時代は自由民権運動の影響を受けた少年。大学中退後、肺結核にかかりながらも俳句・短歌両面の革新と後進の指導に専念した。
- ▼内藤鳴雪
- 弘化4年(1847)〜大正15年(1926)。子規に俳句を学び、子規らとの「愛媛俳句集」輪講で開眼。門人の指導に専念した。
- ▼河東碧梧桐
- 明治6年(1873)〜昭和12年(1937)。松山市出身で子規の後継、虚子と同級。子規没後に新傾向俳句を推進した。
- ▼夏目漱石
- 子規に俳句を学び、「愛媛俳句集」輪講に参加した。→p.157
虚子のほか、内藤鳴雪・夏目漱石・飯田蛇笏らすぐれた俳人が出た。後、新聞「日本」の俳欄を担当し、虚子との論争によって実景描写の態度を深めた。
「井戸の端や鍋も盥も雪の上」
●新傾向俳句
子規の没後、虚子は俳句から遠ざかった。碧梧桐と虚子は句風の違いから対立し、碧梧桐は子規の写生をさらに進め、象徴詩的な俳句を作るに至った。二度にわたる全国遍歴の旅の中で、自然主義的・生活的・社会的なものを詠もうとし、あるいは自由律・無季俳句をも作った。こうした碧梧桐の活躍を論理的に支えたのが大須賀乙字で、さらに彼は「無中心論」と称する中心点のない句を推称するに至った。碧梧桐の到達点は、あまりに古典的な俳句から遊離しすぎたため、乙字や荻原井泉水・中塚一碧楼ら有望な俳人も離れていった。自由律俳句からは荻原井泉水の指導のもと、種田山頭火らが出た。
「どうしようもないわたしが歩いている」
- ▼大須賀乙字
- 明治14年(1881)〜大正9年(1920)。初め碧梧桐の派から出発したが、論理面での功績も大きい。「三千里」(明治43)がある。
- ▼荻原井泉水
- 明治17年(1884)〜昭和51年(1976)。碧梧桐とともに俳誌「層雲」(明治44)を創刊し、のちに独自の自由律俳句に進んだ。
- ▼種田山頭火
- 明治15年(1882)〜昭和15年(1940)。禅僧として放浪の旅に出て、漂泊生活を題材にした句を作る。句集「草木塔」(昭和15)がある。
ホトトギス派
明治四十五年(一九一二)、高浜虚子が「ホトトギス」で俳句を再開する。虚子は、俳句定型の十七音と季題を重視し、新傾向俳句に対立した。虚子は碧梧桐よりも主観的であったが、容易な主観をさけるため客観の写生を主張、のちには花鳥諷詠の文学と位置づけた。飯田蛇笏・村上鬼城・前田普羅らは花鳥諷詠から主観的傾向の作家として活躍した。
遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子
芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城
オリランの真下立つ雪の宿 前田普羅
- 高浜虚子
- 明治七年(一八七四)〜昭和四十年(一九六五)。碧梧桐の紹介で子規を知り句友となったが、作風の違いから対立した。「ホトトギス」を主宰し、夏目漱石の「吾輩は猫である」を発表させた。
- 飯田蛇笏
- 明治十八年(一八八五)〜昭和三十八年(一九六三)。高浜虚子の指導を受け、俳誌「雲母」を創刊。句集に「山廬集」「霊芝」などがある。
- 水原秋桜子
- 明治二十五年(一八九二)〜昭和五十六年(一九八一)。ホトトギス派の有力な俳人であったが、のち同派を去り俳誌「馬酔木」を創刊した。句集に「葛飾」「秋苑」などがある。
●昭和の俳句
昭和に入ると、「ホトトギス」には主観的傾向をもつ水原秋桜子が台頭し、山口誓子・阿波野青畝・高野素十とともに四S時代を作った。秋桜子は叙情性を、誓子は都会や機械などの素材を詠み、花鳥諷詠の客観性から離れていった。一方、富沢赤黄男・西東三鬼・秋元不死男らは「ホトトギス」を離れて新興俳句運動を始め、人工の素材を重視したが、戦時体制下で弾圧を受けた。
▼人生(人間)探究派
俳句の伝統にとらわれず、人間性を追求する創作を行った中村草田男・加藤楸邨・石田波郷は「ホトトギス人間探究派」と呼ばれる。叙写は正岡子規の考えを人間・人生に発展させたものである。
- 中村草田男
- 明治三十四年(一九〇一)〜昭和五十八年(一九八三)。昭和二十一年、俳誌「万緑」を創刊した。句集に「長子」「火の島」などがある。
水澄みて金剛山を巓さにけり 水原秋桜子
万緑の中や吾子の歯生えそむる 中村草田男
金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷
機関車の身もだえ過ぐる寒き天 西東三鬼
秋桜子の「馬酔木」からは、プロレタリア俳句・石田波郷らが出て活躍したが、有季・無季俳句の対立や、プロレタリア俳句の盛行など、さまざまな動きがあった。
- 加藤楸邨
- 明治三十八年(一九〇五)〜平成五年(一九九三)。ホトトギス人間探究派の俳人。句集に「寒雷」(昭和14)「喜雨亭句集」などがある。
- 石田波郷
- 大正二年(一九一三)〜昭和四十四年(一九六九)。句集に「鶴の目」「惜命」などがある。
●戦後の俳句
昭和二十一年(一九四六)、評論家桑原武夫が発表した「第二芸術」は、俳句が社会的責任を果たさないものだとし、現代俳句について仲間内で楽しむ趣味的なものだと決めつけた。これに応じて山口誓子は「根源俳句」を主張した。また沢木欣一は俳誌「風」で社会性を主張した。鷹羽狩行・金子兜太・高柳重信らは前衛俳句を推進した。
塩田に百日筋目つけ通し 金子兜太
湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
身をそらす虹の
処刑台 高柳重信
- 鷹羽狩行
- 昭和五年(一九三〇)〜。山口誓子に師事し、前衛俳句を推進した。句集に「誕生」(昭和40)などがある。
- 金子兜太
- 大正八年(一九一九)〜平成三十年(二〇一八)。社会性俳句を主導し、俳誌「海程」(昭和37)を創刊した。
- 沢木欣一
- 大正九年(一九二〇)〜平成十三年(二〇〇一)。社会性俳句を主張し、俳誌「風」を創刊した。のちに沢木欣一は前衛俳句を進めた。
- 高柳重信
- 大正九年(一九二〇)〜昭和五十八年(一九八三)。前衛俳句の旗手として分かち書きを導入し、俳壇に新風を吹き込んだ。
●劇文学
演劇の改良と創始
江戸時代に大きく発展した歌舞伎は続いたが、明治時代の改良主義の波の中で、演者も改良に心がけた。新しい演劇は、自由民権運動の手段として生まれた新派として発展し、政治運動からは独立して発展した。もう一つの新しい演劇である新劇が、西洋演劇の影響を直接受けて始まったものである。
●歌舞伎の改良
明治十九年(一八八六)、末松謙澄らが演劇改良会を設立した。時の名優、団・菊・左がこれを支え、新富座から新しい歌舞伎座への時代を作った。この時代を作品で支えたのは河竹黙阿弥である。黙阿弥は散切もの・活歴ものを書き、明治の世相を写した。散切ものは面白みが少なかったが、改良運動の路線に沿うあまり、福地桜痴らに受けつがれた。
「散切もの」の錦絵
〔新歌舞伎〕
これらの作風に対して、坪内逍遙は歴史も人間も描かれていないと否定し、みずから新史劇と呼ばれる作品を発表した。「我が邦の史劇」(明治26)・「桐一葉」(明治27)などを発表した。また森鷗外も、劇評のほか「玉篋両浦嶋」(明治35)・「日蓮上人辻説法」などの作品を示した。これらを新歌舞伎という。
「桐一葉」の舞台看板
- 団・菊・左
- 九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左団次のこと。明治歌舞伎の三大名優として新富座を中心に活躍した。
- 河竹黙阿弥
- 文政十一年(一八一六)〜明治二十六年(一八九三)。幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者。散切もの・活歴ものを多数書き、明治の世相を写実的に描いた。
- 坪内逍遙
- → p.143
- 森鷗外
- → p.147・p.160
●新派
自由民権運動の中で国会開設が近づくと、明治二十一年(一八八八)に川上音二郎がオッペケペー節で時事・政治風刺を始めた。党壮士の角藤定憲は壮士芝居を始め、川上は書生芝居に転じた。これが川上から独立した「新派」と呼ばれる劇の始まりとされる。やがて最初の政治色から脱し、演劇として尾崎紅葉の「金色夜叉」・徳富蘆花の「不如帰」・泉鏡花の「高野聖」「婦系図」などを脚色上演して好評を博し、歌舞伎を圧倒した。
新劇運動
明治三十九年(一九〇六)、坪内逍遙と島村抱月らを中心に「文芸協会」が発足した。演劇研究所を設立して俳優を養成し、シェークスピア・イプセンの作品を上演した。大正二年(一九一三)に解散。同年に抱月と女優松井須磨子の恋愛事件により内訌が生じたが、二人は「芸術座」を結成した。芸術座ではイプセン・トルストイなどの作品も上演された。抱月が大正七年(一九一八)に没すると芸術座も解散した。
明治四十二年(一九〇九)、二代目市川左団次と小山内薫が「自由劇場」を創立した。シェークスピア・イプセン・ハウプトマンら西洋演劇の上演で好評を得たが、大正三年(一九一四)にはほぼ消滅した。
イプセン「人形の家」舞台 左が松井須磨子
- 島村抱月
- → p.156
- 松井須磨子
- 明治九年(一八八六)〜大正八年(一九一九)。文芸協会に参加し、「ハムレット」のオフェーリア役でデビュー。「人形の家」のノラ役などを演じた近代日本の先駆的な女優。
- イプセン(Henrik Ibsen)
- (一八二八〜一九〇六)。ノルウェーの劇作家。「人形の家」「幽霊」「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」など。女性解放の問題を扱い、日本の新劇に大きな影響を与えた。
- トルストイ(Lev N. Tolstoi)
- (一八二八〜一九一〇)。ロシアの小説家・思想家。「復活」「間の力」などが芸術座によって演じられた。
- ハウプトマン(Gerhart Hauptmann)
- (一八六二〜一九四六)。ドイツの劇作家・小説家。「沈鐘」「寂しき人々」などが自由劇場などで盛んに上演された。
なお沢田正二郎は、立ち回りに特色のある新国劇を作っている。
●戯曲作品
戯曲と演劇は密接な関係があるのはもちろんだが、近代に入ってからほとんどの場合、座付き作者ではなく独立した作家が戯曲を発表するようになる。明治四十年(一九〇七)、自然主義の作家真山青果が「一人者」を発表し、独立した戯曲作家の先駆となった。続いて岩野泡鳴・正宗白鳥らも戯曲を書き始め、久保田万太郎は「和泉屋染物店」(明治45)を発表した。秋田雨雀らも戯曲創作に加わった。
後期白樺派の作家では、武者小路実篤の「その妹」(大正4)・有島武郎の「ドモ又の死」・倉田百三の「出家とその弟子」(大正5)・長与善郎の「項羽と劉邦」(大正9)などが代表作である。「新思潮」の作者菊池寛の「父帰る」(大正6)・「死」(大正11)なども代表作である。谷崎潤一郎も初期には多くの戯曲を書いた。また中村吉蔵は社会派として認められた。
これらの作家の多くはイプセンの影響を受け、新劇の舞台を想定した作品を書いた。こうした中で岡本綺堂は、二代目市川左団次と組んで「修禅寺物語」(明治44)・「鳥辺山心中」(大正4)など新歌舞伎を書き続けた。新歌舞伎には他に岡鬼太郎・池田大伍らがいる。
「修禅寺物語」面作り師夜叉又王の芸術至上主義的態度を描く
- 倉田百三
- 明治二十四年(一八九一)〜昭和十八年(一九四三)。「出家とその弟子」は親鸞をテーマに描いた戯曲で、武者小路実篤に接近した。評論集「愛と認識との出発」(大正10)は青春の書として名高い。
発展と分裂
大正十三年(一九二四)「築地小劇場」ができて新劇運動が飛躍的に発展したが、昭和に入って芸術派とプロレタリア派に分裂した。新派は一時低調だったが、昭和四年(一九二九)の大合同で復活する。
●「築地小劇場」
小山内薫と土方与志が中心となって大正十三年に創立した。完備した舞台設備で多くの公演をし、友田恭助・田村秋子・山本安英らの俳優が育った。この演劇活動の意義は演出の重視にある。歌舞伎などに見られる役者の芸から演出家の作品への変化である。
「築地小劇場」(パンフレット)
●プロレタリア演劇
小山内薫が昭和三年に没すると、翌年土方与志を中心に新劇運動は左翼組織と接触し、急速に左傾した。築地劇団が分裂し、村山知義・久保栄を中心に昭和九年に左翼劇場が結成された。両者の対立はあったが、いずれもリアリズムを発展させる好結果を生んだ。しかし戦時体制下で昭和十五年に解散させられた。
●芸術派
昭和七年、友田恭助・田村秋子夫妻によって「築地座」が創立された。築地座は十一年に解散するが、雑誌「劇作」(昭和7〜15)に支えられ活動した。
●新派の動向
昭和四年、新派大合同により一時の低調から脱し、川口松太郎を中心に新生新派が結成された。本流新派とともに、昭和十一年に発足した文学座の活動は戦後にまで引きつがれた。
与ひょう 何百画でようなあ。前の二枚分も三枚分も……
つう あのな、今度はなあ、よひょう。
与ひょう (いぶかしげにつうを見まもる)
つう 金で売っていちゃうようでよ……声が聞こえるだけじゃ。だいたい……
(木下順二「夕鶴」)
- 岡本綺堂
- 明治五年(一八七二)〜昭和十四年(一九三九)。新歌舞伎の代表的作家。読み物として「半七捕物帳」(大正15)なども知られる。
- 小山内薫
- 明治十四年(一八八一)〜昭和三年(一九二八)。詩・小説にも作品があるが、演劇が主たる活躍分野であった。
- 土方与志
- 明治三十一年(一八九八)〜昭和三十四年(一九五九)。小山内薫に弟子入りし、巨額の私財を投じて「築地小劇場」建設に協力した。
●前進座の出発
昭和六年、歌舞伎界の古さに不満をもつ河原崎長十郎を中心に前進座を創立し、旧作品から新作品までレパートリーを広げた。これによって新派への人気も回復した。
●昭和の戯曲
小山内薫の「第一の世界」(大正10)の後を受けて、藤森成吉・岸田国士を中心に雑誌「劇作」(昭和7〜15)が多くの新人を紹介した。「何が彼女をそうさせたか」(昭和2)をはじめ、久保栄「火山灰地」(昭和12)・三好十郎「浮標」(昭和12)・森本薫「華々しき一族」(昭和15)「牛山ホテル」(昭和4)・長谷川伸・北条秀司・真船豊・田中千禾夫らが注目される。
戦後
●演劇界の動向
昭和二十年(一九四五)、弾圧の比較的小さかった歌舞伎・前進座・新劇が合同公演「桜の園」(チェーホフ作)で復活したのをはじめ、各演劇団体が活発な行動を開始した。生き残った文学座・新協劇団・前進座・新派が活動を拡大し、復活した山本安英の新協劇団なども加わった。また劇団民芸(昭和22)・劇団青俳・劇団四季など新しいグループの演劇活動も盛んになった。
●戦後の戯曲
新劇運動の活発化にともない、真船豊「中橋公館」(昭和21)・田中千禾夫「雲の涯」(昭和23)「マリアの首」(昭和34)・木下順二「夕鶴」(昭和22)など優れた戯曲が書かれた。
木下順二「夕鶴」舞台 「つう」は山本安英
- チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov)
- (一八六〇〜一九〇四)。ロシアの小説家・劇作家。「桜の園」「三姉妹」など。「築地小劇場」以来、日本でもたびたび上演されている。
- 山本安英
- 明治三十五年(一九〇二)〜平成六年(一九九四)。小山内薫・土方与志演出の「第一の世界」で初舞台を踏んだ。木下順二の「夕鶴」で国民的反響を呼んだ。
- 木下順二
- 大正三年(一九一四)〜平成十八年(二〇〇六)。民話劇と現代劇を結んだ劇作家。「夕鶴」(昭和22)ほか多数の作品がある。
- 唐十郎
- 昭和十五年(一九四〇)〜。劇作家・小説家・演出家。
- 佐藤信
- 昭和十八年(一九四三)〜。劇作家・演出家。
- 野田秀樹
- 昭和三十年(一九五五)〜。劇作家・俳優・演出家。抽象名詞を登場人物にするなど不思議な演劇空間を作っている。
加藤道夫「なよたけ」(昭和30)・福田恆存「キティ颱風」(昭和25)・「オットーと呼ばれる日本人」(昭和37)・矢代静一「絵姿女房」(昭和30)・三島由紀夫「鹿鳴館」(昭和32)・安部公房「幽霊はここにいる」(昭和33)など多くの作品が発表された。
●現代の演劇
一九六〇年代になると、既製の演劇に対して、鈴木忠志・別役実の「早稲田小劇場」(昭和43)・唐十郎の「状況劇場」(昭和41、後に「黒色テント」)・寺山修司の「天井桟敷」(昭和42)・佐藤信の「演劇センター68」(昭和43)など68・71の小劇場運動が起こった。アングラ(アンダー・グラウンド)演劇と呼ばれる。作家が演出を兼ねたり、時には主役を兼ねるという表現行動である。野田秀樹の「夢の遊眠社」(昭和51)・如月小春・渡辺えり子らもその延長上で新しい試みをした。
●現代の戯曲
それぞれの小劇場の主催者がほとんど戯曲作家でもある。寺山修司の「ジョン・シルバー」(昭和58)・別役実の「マッチ売りの少女」(昭和41)・つかこうへいの「熱海殺人事件」(昭和48)などきわめて個性的な作品が多い。
●テレビのシナリオ
新しいメディアであるテレビの発達は演劇界にも変化をもたらした。倉本聰・山田太一・橋田寿賀子・向田邦子らのシナリオ・ライターが登場し、二時間ドラマ・大河ドラマなどというテレビ用語を定着させた。
「北の国から'99—時代—」©フジテレビジョン
- 加藤道夫
- 大正七年(一九一八)〜昭和二十八年(一九五三)。劇作家。フランス文学の影響を受けた詩的な戯曲を書いた。
- 福田恆存
- 大正一年(一九一二)〜平成六年(一九九四)。劇作家・評論家・翻訳家。シェークスピアの翻訳でも知られる。
- 如月小春
- 昭和三十一年(一九五六)〜平成三年(一九九一)。劇作家・演出家。照明や音響に力を入れた演劇を作り上げた。
- 渡辺えり子
- 昭和三十年(一九五五)〜。劇作家・俳優・演出家。
- つかこうへい
- 昭和二十三年(一九四八)〜平成二十二年(二〇一〇)。劇作家・演出家。
- 倉本聰
- 昭和十年(一九三五)〜。昭和五十七年(一九八二)から始めたテレビドラマ「北の国から」は、シナリオとして出版され続けた。一年に一度、数時間番組を組み放映され続けた。俳優の成長に合わせた内容と作中人物で、見るべきものが多い。
- 橋田寿賀子
- 大正十四年(一九二五)〜。「おんな太閤記」(昭和56)・「おしん」(昭和58)などテレビドラマの脚本家。
- 向田邦子
- 昭和四年(一九二九)〜昭和五十六年(一九八一)。テレビドラマ脚本家・小説家。
近代文学のポイント・チェック
□ 【小説・評論】
明治初年〜十年代 ―近世から近代へ―
- 戯作文学
- 翻訳小説・政治小説〈啓蒙文学〉
- □ 坪内逍遙 ―近代の出発― 〈小説神髄〉〈写実主義理論〉
- 二葉亭四迷 二十年代 〈写実主義の実践、言文一致体〉
□ 初期の森鷗外
- 〈舞姫〉
- 紅露の時代 ― 尾崎紅葉・幸田露伴 〈五重塔〉〈金色夜叉〉
□ 日清・日露戦争の時代 ―社会矛盾の追求と自然描写―
- 「文学界」と北村透谷〈浪漫主義〉
- 樋口一葉「たけくらべ」
- 泉鏡花〈高野聖〉
- 正宗白鳥
□ 自然主義 I ―自然と人生― 国木田独歩〈武蔵野〉
- ゾライズムの文学
- 社会的な文学
□ 明治から大正へ I ―自然主義―
- 島崎藤村 〈春〉〈家〉〈破戒〉
- 田山花袋「蒲団」
- 徳田秋声
- 正宗白鳥 ほか
□ 明治から大正へ II ―漱石と鷗外―
夏目漱石の作品:
- 前期〈余裕派〉:「吾輩は猫である」〈草枕〉〈坊っちゃん〉
- 後期(三部作):〈三四郎〉〈それから〉〈門〉
- 晩年:〈彼岸過迄〉〈行人〉〈こころ〉
晩年の森鷗外:
- 小説:「セクスアリス」「青年」「雁」〈明暗〉
- 歴史小説・史伝:〈阿部一族〉〈山椒大夫〉〈高瀬舟〉
□ 明治から大正へ III ―耽美派―
- 永井荷風〈あめりか物語〉
- 谷崎潤一郎 刺青
□ 白樺派
- 武者小路実篤〈お目でたき人〉〈幸福者〉〈友情〉
- 志賀直哉 和解〈暗夜行路〉
- 有島武郎
□ 大正時代 II ―新現実主義―
- 新思潮派 → 新現実主義
- 芥川龍之介〈羅生門〉〈河童〉〈歯車〉
- 久米正雄・山本有三
- その他:菊池寛・久米正雄・山本有三ら
□ 大正時代 III ―私小説―
- 佐藤春夫・室生犀星・宇野浩二・葛西善蔵
□ プロレタリア文学(大正初期〜昭和初期)
- 雑誌「文芸戦線」
- 葉山嘉樹「海に生くる人々」
- 小林多喜二「蟹工船」
- 徳永直
□ 新感覚派
- 横光利一「日輪」「旅愁」〈機械〉〈紋章〉
- 川端康成「伊豆の踊り子」〈雪国〉〈山の音〉
□ 昭和十年代の文学
- 老大家の復活 ― 谷崎潤一郎「細雪」・永井荷風・正宗白鳥ほか
- 新心理主義 ― 堀辰雄「聖家族」「風立ちぬ」・伊藤整
- 無頼派 ― 太宰治「人間失格」「斜陽」「ヴィヨンの妻」
- 坂口安吾「白痴」「堕落論」
- 梶井基次郎「檸檬」
□ 戦後の文学
- 新日本文学会・雑誌「近代文学」
- 野間宏「暗い絵」「真空地帯」・椎名麟三・中村真一郎・武田泰淳・大岡昇平「レイテ戦記」
- □ 第三の新人 ― 安岡章太郎・吉行淳之介・小島信夫・庄野潤三
- 三島由紀夫・井上靖・遠藤周作
□ 現代の文学
- 昭和三十年代 ― 石原慎太郎「太陽の季節」・開高健・大江健三郎・深沢七郎「楢山節考」
- 評論 ― 桑原武夫・加藤周一・中村真一郎・福永武彦ほか
- 現代文学 ― 村上春樹・島田雅彦・吉本ばなな・中上健次ほか
□ 【詩】明治〜大正時代 ―近代詩―
新体詩
- 〈新体詩抄〉 ― 外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎
浪漫詩
- 島崎藤村〈若菜集・落梅集〉・北村透谷・土井晩翠「天地有情」
- 与謝野鉄幹〈雑誌「明星」の創刊〉・与謝野晶子「みだれ髪」
象徴詩
- 上田敏〈「海潮音」〉・薄田泣菫「白羊宮」・蒲原有明
象徴詩(二)
- 北原白秋〈邪宗門〉・三木露風
口語自由詩
- 川路柳虹〈廃塚〉・石川啄木・三木露風
耽美派の詩・「スバル」・パンの会
- 北原白秋・木下杢太郎ら
理想主義の詩
- 高村光太郎〈道程〉・千家元麿
民衆詩
- 宮沢賢治「春と修羅」・百田宗治・白鳥省吾ほか
近代詩の達成 ―萩原朔太郎〈月に吠える〉―
大正末期〜現代 ―現代詩―
- 現代詩の始まり ― 高橋新吉「ダダイスト新吉の詩」ほか
- プロレタリア詩 ― 雑誌「詩と詩論」・中野重治・小野十三郎ら
- モダニズム
- 「四季」派 ― 三好達治〈測量船〉・中原中也「山羊の歌」・草野心平〈蛙〉・村野四郎〈体操詩〉・丸山薫
- 戦時体制下 ― 北川冬彦ほか
- 戦後の詩 ― 「荒地」派・谷川俊太郎・大岡信・田村隆一・鈴木志郎康・吉増剛造ら
□ 近代短歌
明治時代 ―浪漫派短歌(明星派)―
- 落合直文・浅香社の結成
- 与謝野鉄幹・雑誌「明星」創刊・与謝野晶子「みだれ髪」
自然主義短歌 ―根岸短歌会―
- 正岡子規・伊藤左千夫・長塚節
- 吉井勇〈酒ほがひ〉
アラギ派
- 雑誌「アラギ」創刊・斎藤茂吉「赤光」・島木赤彦・古泉千樫
- 石川啄木〈一握の砂〉〈悲しき玩具〉(三行書き)
反アラギ派
- 木下利玄・北原白秋・窪田空穂・尾上柴舟・金子薫園ら
昭和・戦後の短歌
- 大木水穂・川田順・前田夕暮ら
- 新興短歌運動(口語短歌)
- 雑誌「多磨」 ― 木俣修・宮柊二
- 会津八一・近藤芳美・岡井隆ら
□ 現代の短歌
- 佐佐木幸綱・俵万智「サラダ記念日」ほか
□ 近代俳句
明治・大正期の俳句
- 俳句の革新 ― 正岡子規〈獺祭書屋俳話〉(蕪村を評価、写実を主)・雑誌「ホトトギス」
- 新傾向俳句・自由律 ― 河東碧梧桐・大須賀乙字・荻原井泉水・種田山頭火ほか
□ ホトトギス派 ―客観写生・花鳥諷詠―
- 飯田蛇笏・村上鬼城ほか ― 客観の写生を主張
□ 昭和・戦後〜現代の俳句
- 四S時代 ― 水原秋桜子・阿波野青畝・山口誓子・高野素十
- 新興俳句運動
- 人間探究派 ― 中村草田男・加藤楸邨・石田波郷ほか
- その他:俳誌「天狼」〈山口誓子〉・沢木欣一・金子兜太・高柳重信・鷹羽狩行ほか
□ 劇文学
明治〜大正期 ―演劇の改良と創始―
- 歌舞伎改良 ―新歌舞伎:坪内逍遙・森鷗外・岡本綺堂ら
- 文芸協会(坪内逍遙・島村抱月)→芸術座
- 自由劇場(小山内薫・市川左団次)→新劇運動
- 「築地小劇場」〈大正一三年〉
プロレタリア演劇
- 村山知義・久保栄・雑誌「劇作」
□ 昭和・戦後〜現代の劇文学
- 作品:「修禅寺物語」(岡本綺堂)・「父帰る」(菊池寛)・「夕鶴」(木下順二)ほか
- 木下順二・安部公房・唐十郎・野田秀樹ら