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中古の文学
『源氏物語絵巻』東屋一
中古の文学【概観】
年代表(平安時代 七九四〜一〇〇〇)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 七九四 | *平安京に遷都 |
| 八一四ごろ | 凌雲集(小野岑守ら) |
| 八一八ごろ | 文華秀麗集(藤原冬嗣ら) |
| 八二七ごろ | 経国集 |
| 八六六 | *藤原良房、摂政となる |
| 八六三ごろ | *在原業平(以後歌合盛んとなる)/こころから六歌仙活躍 |
| 八八七ごろ | *藤原基経(関白) |
| 八九四 | *遣唐使廃止/菅家文草(菅原道真) |
| 〔国風暗黒時代〕 |
| 九〇〇ごろ | 竹取物語(このころ) |
| 九〇五 | 古今集(このころ) |
| 九三五ごろ | 土佐日記(紀貫之、このころ) |
| 九五〇ごろ | 後撰集・大和物語・平中物語(このころ) |
| 九七四ごろ | 蜻蛉日記(道綱の母、このころ) |
| 九九五ごろ | 枕草子(このころ)/三宝絵(源為憲) |
| 一〇〇一ごろ | 和泉式部日記(このころ)/落窪物語(このころ) |
時代区分
平安遷都(延暦十三年〔七九四〕)から鎌倉幕府の成立(建久三年〔一一九二〕)のころまで約四百年間を中古とする。主として、権勢を確立した藤原氏を中心とした平安京の貴族たちを担い手とする文学である。
平安京と漢文学の隆盛
平安遷都は、奈良朝末期の政治的混迷を克服し、律令体制を立て直そうとする意欲をもっていた。中国文化の摂取・模倣への意欲は一段と強められた。宮廷の風儀は中国唐風一色に塗りつぶされた。こうした中で、漢詩文は公的な文学として宮廷社会の正統的な位置を占めるようになり、和歌はもっぱら私的な場に衰微することとなった。漢詩文の隆盛のため「国風暗黒時代」と呼んでいる。
かな文字の発明と和歌
九世紀の後半になると、貴族社会にも唐風の規範を脱しようとする気運が起こり始めた。一方、かな文字が発明され普及するようになった。和歌が発達し、かな文字で表記されるようになった。貴族の間で独自な展開を遂げ、言葉の連想を働かせた縁語や掛詞などの技法が発達した。十世紀の初めに勅撰集(古今和歌集)が成立した。
かな散文の展開
かな文字の普及は、日常語による多様で自由な表現を可能にした。かな文字による散文表現も、多様な文学としてあらわれるようになった。民間の古い伝承の歌語りを母胎として独自な叙事世界を実現した虚構の物語は、そうした新しい散文表現の所産であった。作り物語の系列には『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』などが、歌物語の系列には『伊勢物語』『大和物語』などがある。
年代表(平安時代 一〇〇〇〜一二〇〇)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一〇〇八ごろ | 源氏物語(紫式部、このころ) |
| 一〇一〇ごろ | 紫式部日記(このころ) |
| 一〇一六 | *藤原道長、摂政となる |
| 一〇三七ごろ | 和漢朗詠集(藤原公任) |
| 一〇五〇ごろ | 更級日記(菅原孝標女、このころ) |
| 一〇六〇ごろ | 今昔物語集(このころ以前)/大鏡(このころ) |
| 一〇七五ごろ | 今鏡(このころ以後) |
| 一〇八六 | *白河法皇、院政開始 |
| 一一五六 | *保元の乱 |
| 一一五九 | *平治の乱 |
| 一一六九ごろ | 梁塵秘抄(後白河院) |
| 一一八八ごろ | 千載集(藤原俊成) |
| 一一九〇ごろ | 山家集(西行、このころ) |
| 一一九二 | *鎌倉幕府成立 |
女流文学の開花
本来は漢文体による公的な記録であった日記も、『土佐日記』が初めてかな文字を用いたことで、内省的な表現がもたらされるようになった。かな文字の散文の方法は、のちの女流日記に大きな影響を与えることとなった。十世紀末から十一世紀にかけて摂関政治が全盛期を迎えるころ、藤原道綱の母の『蜻蛉日記』の中に、自己の感慨を自由につづろうとする女流文学独自の方法が模索されていた。こうして日記・和歌文学を統合し、壮大な虚構の世界を実現したのが『源氏物語』である。『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』などの中に女性たちの手によって女流文学は大きく進展し、女流文学の最大の達成が実現した。
平安末期の文学
『源氏物語』の出現は、虚構が人間の実相に迫りうる可能性の極致を示すものであった。一方では華やかな宮廷世界を背景に独自の文学世界を形象化したのが『枕草子』である。
『源氏物語』の出現後、物語はしだいに衰退の道をたどるようになった。『夜の寝覚』『浜松中納言物語』『狭衣物語』などの長編や、『堤中納言物語』などの短編が書かれたが、これを超えるものは生み出されなかった。
院政期に入ると、さまざまな歴史物語が生み出された。歴史物語の発生は、物語文学の行き詰まりを反映している。貴族社会だけでなく新興の武士階級や庶民の説話を収めた『今昔物語集』などの説話集がまとめられ、『梁塵秘抄』などの歌謡集の編纂も、次代への文学の胎動を示している。
第一章 詩歌
漢詩文
近江朝以来の漢詩文に対する積極的な関心は、すでに奈良朝において『懐風藻』を生み出したが、平安朝に入って中国文化の摂取への意欲は一段と高まり、九世紀の唐風謳歌の時代が出現した。律令国家体制が唐のそれを範型として整備されたものである以上、こうした中で漢詩文は宮廷社会の中で公的な文学としての地位を占めるようになっていった。その要因は、官僚貴族の立身にとって必須条件とされたところにあるが、儒教の王道・善政の文との調和の中に理想世界を現出しようとする、いわゆる文章経国思想に基づくものでもあった。
初期—公的地位の確立
唐風謳歌の時代は、一般に「国風暗黒時代」と称されている。その頂点ともいえるのは弘仁・天長年間(八一〇〜八三〇ごろ)で、凌雲集・文華秀麗集・経国集の三つの勅撰漢詩集が相ついで編集された。これらの漢詩集は、中唐期の華麗な詩風の影響が著しく、同時にそれは詩の華やかな宮廷世界を背景に詩文と宮廷貴族の調和の中に儒教的王道の立身を示している。
- ●凌雲集
- 弘仁五年(八一四)成立。一巻。嵯峨天皇の勅命で小野岑守らが撰進した、わが国最初の勅撰詩集。作者別に収録。七言詩が多い。正しくは「凌雲新集」という。
- ●文華秀麗集
- 弘仁九年(八一八)成立。三巻。嵯峨天皇の勅命で藤原冬嗣・仲雄王・菅原清公・滋野貞主らが撰。二十八人の詩百四十八首を収める。
- ●経国集
- 天長四年(八二七)成立。二十巻。嵯峨天皇の勅命で良岑安世らが撰。三勅撰漢詩集の最後。
平安京豊楽院跡緑釉瓦
また前代に優勢であった五言詩が減少して、七言詩が多くなっている。作者としては、嵯峨天皇・小野篁・空海、やや遅れて都良香・紀長谷雄らがいる。とくに空海の詩文集〔性霊集〕、詩論書〔文鏡秘府論〕、道真の詩文集〔菅家文草〕〔菅家後集〕は、後世にも大きな影響を与えた。
中期以降―衰退
文章の学問は、菅原・大江の門閥が重視され、詩文の才がそのまま栄達につながるとはいいながら、文章経国の理念そのものが形骸化されるようになった。平安中期以降、摂関政治体制が確立され、漢詩文そのものが衰退の傾向を強めた。かな文字の発達や遣唐使の廃止(八九三)に象徴されるように、国風文化に対する自覚が高められたことで、衰退の大きな要因であった。けれども、〔文選〕〔白氏文集〕などは、平安時代を通じて王朝人必須の教養として受容されたのであり、漢詩文も、たてまえとしては公的な文学としての立場を失うことはなかった。中期の作者としては、源順・慶滋保胤・大江匡房らがいる。藤原明衡編の〔本朝文粋〕は、平安前期以来の主要な作者の詩文を集めている。
和歌
平安初期のいわゆる国風暗黒時代には、公的な文学として衰微していた。漢詩文が公的な世界での晴れの場を確立していく中で、和歌はまったく衰微していたわけではなく、男女の恋愛生活の場や民謡の世界で、命脈を保っていたのである。その流伝のさまは、〔万葉集〕の作者未詳の歌、〔古今集〕の読み人しらずの歌などに見ることができる。
〔古今和歌六帖〕の中にたどることができる。
和歌の復興
国風文化再認識の風潮の中で、中国文化の表面的模倣から抜け出そうとする自覚が強まる中で、和歌は、やがて漢詩文と肩を並べる宮廷文学として興隆してくる。和歌の復興は、かな文字の普及と深いかかわりをもってくるのである。
かな文字の普及
国語を漢字で表記する一つの方法であった万葉がな(→p.25)のような複雑な漢字そのものを用いた表記に対して、かな文字は漢字の草書体をさらに簡略化したり(平がな)、点画を省略したりして(片かな)、音節ごとに文字を崩すことができるようにしたものである。ことに平がなは、漢詩文の教養の圏外にあった女性たちをまったく自由に表現させようとするねらいをもっていた。漢字表記の拘束からまったく自由であっただけに広く使われた。
公的地位の復活
こうした平がなの普及が、社会にも私的な場を中心に広がり、六歌仙といわれる人々の活躍を経て、〔在民部卿家歌合〕・〔寛平御時后宮歌合〕などの宮廷の歌合が催されて、和歌の公的な文学としての地位を再び確立していくのであった。
〔古今和歌集〕
<成立・内容>
醍醐天皇の勅命で、延喜五年(九〇五)成立。紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑撰。当時の代表的歌人である紀貫之ら四人によって撰ばれた、わが国最初の勅撰和歌集である。
〔古今集〕 関係年表
| 年代 | 事項 | 時期 |
| 延暦十三(七九四) | 平安京に遷都。〔万葉集〕最後の歌のころ | 第一期 |
| 弘仁五(八一四) | 〔凌雲集〕成立 |
| 天安二(八五八) | 藤原良房、摂政となる | 第二期 六歌仙の活躍 |
| 昌泰三(九〇〇) | 六歌仙活躍 |
| 仁和元(八八五) | このころから紀貫之ら撰者の活躍時代 | 第三期 撰者の活躍 |
| 寛平元(八八九) | 〔在民部卿家歌合〕 |
| 寛平(八九〇ごろ) | 〔寛平御時后宮歌合〕 |
| 延喜五(九〇五) | 〔古今和歌集〕成立 |
撰進された。最初の勅撰和歌集として、以後の勅撰集の範型となった。二十巻、約千百余首を収める。かな文で書かれた〔仮名序〕(紀貫之作)、漢文で書かれた〔真名序〕(紀淑望作)が付されている。とくに〔仮名序〕は、心と詞の調和が説かれ、和歌の歴史をふり返りながら、和歌が漢詩と対等の文学であることを主張しており、撰者たちの自覚のあることを見いだすことができる。
《歌風の変遷》
宮廷社会が作歌の舞台である。表現は繊細で洗練されており、対象を即物的に詠じるのではなく、作者の観念世界の中で知的・技巧的に再構成している。時間の流れの中に、こまやかな言葉の連想を働かせていることが大きな特色である。
《第一期》詠み人しらずの時代
こうした歌風は一時期に形成されたわけではなく、大別して三期の展開が見られる。所収歌の制作年代は約百五十年間にわたっており、〔古今集〕全体の約四割を占める詠み人しらずの歌は、〔万葉集〕への過渡的な歌風で、平安初頭(八五〇年ごろ)までの素朴な五七調の歌が多い。
春日野はけふはな焼きそ若草の 妻もこもれり我もこもれり
(読み人しらず・巻一)
(春日野は今日は野焼きをしないでください。若草の=枕詞。妻もこの野に隠れているし、私もいっしょにこもっているのだから。)
▼六歌仙
〔仮名序〕に「近き世にその名聞えたる人」として挙げられた六人の歌人。いずれも九世紀末の人。
- ●僧正遍昭
- 俗名、良岑宗貞。弘仁七年(八一六)〜寛平二年(八九〇)。仁明天皇の崩御にあい出家した。歌風は軽妙洒脱。〔仮名序〕に「たとえば、絵にかける女を見て、いたずらに心を動かすがごとし」と評されている。
- ●在原業平
- 天長二年(八二五)〜元慶四年(八八〇)。阿保親王の子。在五中将ともよばれる。〔伊勢物語〕(→p.46)の主人公とも称される。歌風は主情的。〔仮名序〕に「その心あまりてことばたらず。しぼめる花の色なくして匂ひ残れるがごとし」と評されている。
- ●喜撰法師
- 生没年・伝記ともに未詳。
- ●大友黒主
- 生没年・伝記ともに未詳。
- ●文屋康秀
- 生没年未詳。六歌仙の一人。
- ●小野小町
- 生没年未詳。六歌仙の中で唯一の女流歌人。技巧を駆使した恋の歌が多い。後世にさまざまな伝説が残る。〔仮名序〕に「そのさまを得て、まこと少なし」と評されている。
《第二期》六歌仙の時代
嘉祥三年(八五〇)から寛平二年(八九〇)ごろまでの六歌仙の活躍時期。七五調が優勢になり、縁語・掛詞などの表現技巧を駆使して、豊かな情感が詠みこまれるようになった。〔古今集〕の歌風がほぼ確立した。
〔古今集〕の歌人たち その2
①花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに
(小野小町・巻二)
(桜の花の色は、すっかり色あせてしまった。長雨のし降り続く中で、わけもなく物思いにふけっているうちに。)
②月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
(在原業平・巻十五)
(月は昔のままの月ではないのか。春は昔のままの春でないのか。私の身だけはもとのままであるのに、恋しい人には逢えず、昔と変わってしまった。)
《第三期》撰者の時代
寛平五年(九〇五)ごろまでの撰者たちの活躍時期。縁語・掛詞・比喩などの修辞が多用され、表現技法は一段と洗練された。〔古今集〕歌風の完成期。見立てや擬人法が駆使され、言葉の機知を尊ぶ観念的・理知的傾向が著しくなった。そのため、ときとして言葉の遊戯におちいる場合もある。リズムはなだらかな七五調で、三句切れの歌が多い。
〔古今集〕の歌人たち その3
①袖ひちてむすびし水の凍れるを 春立つ今日の風やとかむ
(紀貫之・巻一)
(夏のころ袖もぬれて手ですくって遊んだ水が、冬の寒さで凍っていたのを、立春の今日の風がとかすことだろうか。)
②ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
(紀友則・巻一)
(ひさかたの=枕詞。光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく花が散るのだろうか。)
●勅撰和歌集の展開(1)―三代集
村上天皇の天暦五年(九五一)、宮中の梨壺に和歌所が置かれ、寄人として源順・大中臣能宣・清原元輔・紀時文・坂上望城の五人が任てられ、〔万葉集〕の訓読にあたった。この五人を「梨壺の五人」という。また〔後撰和歌集〕を撰進した。古今集・後撰集・拾遺集の三集を「三代集」といい、後撰集の歌は「壺の五人」の時代のものが中心である。
●勅撰和歌集の展開(2)―八代集
三代集(古今・後撰・拾遺)から〔新古今和歌集〕までの八種の勅撰集を「八代集」という。平安中期に入ると〔拾遺和歌集〕が撰進され、〔古今集〕の歌風が重視されて後代に大きな影響を与えた。〔後拾遺和歌集〕は藤原通俊によって撰ばれ、和泉式部・相模・赤染衛門などの女流歌人の歌を多く収めている。〔金葉和歌集〕は源俊頼が撰び、当代の歌が多く、〔古今集〕風と異なる清新さが見られる。連歌(→p.75)も収められている。〔詞花和歌集〕は藤原顕輔が撰び、全体としては穏やかな傾向を保っている。
▼八代集一覧
| 集名 |
巻数 |
成立 |
撰進下命者 |
撰者 |
| 〔古今〕 | 20 |
延喜五年(九〇五) |
醍醐天皇 |
紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑 |
| 〔後撰〕 | 20 |
天暦五年(九五一) |
村上天皇 |
源順・大中臣能宣・清原元輔・紀時文・坂上望城 |
| 〔拾遺〕 | 20 |
寛弘年間(一〇〇五ごろ) |
花山院 |
花山院(説に藤原公任) |
| 〔後拾遺〕 | 20 |
応徳三年(一〇八六) |
白河天皇 |
藤原通俊 |
| 〔金葉〕 | 10 |
大治年間(一一二七ごろ) |
白河院 |
源俊頼 |
| 〔詞花〕 | 10 |
仁平年間(一一五一ごろ) |
崇徳院 |
藤原顕輔 |
| 〔千載〕 | 20 |
文治四年(一一八八) |
後白河院 |
藤原俊成 |
| 〔新古今〕 | 20 |
元久二年(一二〇五) |
後鳥羽院 |
藤原定家・藤原有家・藤原雅経・源通具・寂蓮(次) |
源平の争乱をはさんで、文治四年(一一八八)、藤原俊成によって撰ばれた〔千載〕は、〔新古今集〕(→p.70)を方向として反映して、余情・幽玄の世界を理想とする撰者の傾向を反映して、優美で情あふれる歌が多く収められている。
●〔古今集〕後の歌人と私家集
右に述べた〔古今集〕以下七つの勅撰集に、次代の〔新古今集〕(→p.70)を加えて〈八代集〉という。藤原公任・曾禰好忠・和泉式部らがいる。公任は歌壇の指導者として、心と詞の調和ある姿を重視した。好忠・和泉式部は個性ある詠みぶりで異彩を放っている。好忠の家集〔曾丹集〕・和泉式部の家集〔和泉式部集〕がある。〔後拾遺集〕時代の源経信、〔金葉集〕撰者の源俊頼もすぐれた歌人である。俊頼は経信の子で、題材・表現の自由な新風を樹立した。家集〔散木奇歌集〕がある。平安末期の歌人には、藤原俊成・西行らがいる。俊成の家集〔長秋詠藻〕、歌論〔古来風体抄〕がある。西行は出家して諸国を遍歴し、自然に親しむ中で独自の深い境地を開いた。家集〔山家集〕がある。
〔古今集〕後の歌人たち
①鳴けや鳴け 蓬むらしげき野のきりぎりす 秋はげにぞかなしき
(曾禰好忠)
(鳴けよ、鳴け。よもぎの草むらの中で鳴くこおろぎよ。秋はほんとうに悲しいものだ。)
②つれづれと空ぞ見らるる思ふ人 天くだり来むものならなくに
(和泉式部・後拾遺集)
(ぼんやりと空が眺められることだ。恋しい人が天から下ってきてくれるわけでもないのに。)
③うずら鳴く真野の入り江の浜風に 身よる秋の夕ぐれ
(源俊頼・〔金葉集〕)
(うずらが鳴く真野の入り江に吹く浜風に、身を寄せてくるような秋の夕暮れよ。)
④夕されば野辺の秋風身にしみて うずら鳴く深草の里
(藤原俊成・〔千載集〕)
(夕暮れになると、野辺の秋風が身にしみて、うずらの鳴くこの深草の里の悲しさよ。)
⑤心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
(西行・〔山家集〕)
(世の中のことに煩わされない出家の自分にも、鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れの景色は、しみじみと哀れに感じられることだ。)
●歌合と歌論
歌合は、九世紀の中ごろから始まったが、当初は社交遊戯的性格を主とするものであった。しかし、〔天徳内裏歌合〕(九六〇)のころから文学的色彩を強め、その判詞は歌論と結びつくようになっていった。歌論の先駆は、すでに〔古今集〕仮名序の中に見いだすことができるが、以後、歌合の隆盛に伴って、藤原公任の〔新撰髄脳〕、壬生忠岑の〔和歌体十種〕、源俊頼の〔俊頼髄脳〕、藤原俊成の〔古来風体抄〕などの歌論が書かれた。いずれも実作に即しながら、和歌の本質や理念に説き及んでいる。
《平安時代の主な歌合》
| 歌合 | 年代 | 備考 |
| 〔在民部卿家歌合〕 | 仁和元年(八八五)ごろ | 現存する最古のもの |
| 〔寛平御時后宮歌合〕 | 寛平五年(八八九)以前 | |
| 〔亭子院歌合〕 | 延喜十三年(九一三) | 宇多法皇の亭子院で行われた。現存最古の判詞 |
| 〔天徳内裏歌合〕 | 天徳四年(九六〇) | 宮中の清涼院で行われた。判詞が完成 |
●物語
物語の誕生
古代のさまざまな神話や伝説は、〔古事記〕に取りこまれ、公の伝承としての権威が与えられたが、多くの古伝承は、単なる神怪・怪異談として、そのまま民間に流布されていた。古伝承は漢文で筆録されるようになると、中国史書や小説類の影響を受けるようになった。一方、かな文字が発達・普及(→p.38)すると、日常語による自由な表現が可能となり、こうした古伝承の型に依拠した新たな文学形式が生み出された。こうして誕生したのが物語である。
●作り物語と歌物語
初期の物語は、形の上で〔作り物語〕と〔歌物語〕に大別することができる。作り物語は、きわめて伝奇性の強いもので、空想的な筋立てを中心とした、現実とは別次元の世界を描くものであった。現在最古の作り物語である〔竹取物語〕は、こうした伝奇性の著しい物語である。この物語の系譜を引き、しかも現実性・写実性を強めた作品に、〔宇津保物語〕がある。
一方、これと前後して生み出されたのが歌物語である。歌物語は、〈歌語り〉を母胎とするもので、作り物語に比べて虚構化の度合いは低く、歌を中心として独自の世界が表現されている。歌物語の代表作には、〔伊勢物語〕〔大和物語〕などがある。
▼物語文学の流れ
| 時代 | 作り物語 | 歌物語 |
| 9C末 | 〔竹取物語〕 | |
| 10C初 | | 〔伊勢物語〕 |
| 10C中 | | 〔大和物語〕・〔平中物語〕 |
| 10C後 | 〔宇津保物語〕 | |
| 10C末 | 〔落窪物語〕 | |
| 11C初 | 〔源氏物語〕 |
| 11C中 | 〔夜の寝覚〕 |
| 11C後 | 〔浜松中納言物語〕・〔堤中納言物語〕 |
| 11C末〜未詳 | 〔狭衣物語〕・〔とりかへばや物語〕 |
檜扇
〔竹取物語〕
【成立】作者未詳。九世紀末〜十世紀初め成立。〔竹取物語〕は現存最古の物語で、〔源氏物語〕にも「物語の出で来はじめの祖」と評されている。作者は未詳だが、漢詩文の教養の深い男子官人の手になるものであろう。
【〈内容〉】竹取の翁によって竹の中から見いだされたかぐや姫が、五人の貴公子や帝の求婚を退け、再び月の世界に迎えられるという話。伝奇的性格が著しいが、求婚譚の場面では、貴公子たちの生態が、風刺をまじえてリアルに描き出されている。人間の営みの無力さと美の永遠性とが浪漫的に描かれている。こうした虚構を踏まえることで、かえって人間世界の実相が鮮やかにとらえられている。そこに古伝説から物語への再構成の意味があったといえよう。
〔竹取物語〕冒頭
今は昔、竹取の翁といふもの有りけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事に使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
(今では昔のことだが、竹取の翁という者がいた。野山に分け入っては竹を取り、さまざまなことに使っていた。名をばさぬきの造といった。その竹の中に根もとの光る竹が一本あった。不思議に思ってそばに近寄ってみると、竹の筒の中が光っていた。それを見ると、三寸ほどのたいそうかわいらしい様子の人がすわっていた。)
車持皇子が蓬莱の枝を持参する(竹取物語絵巻)
〔宇津保物語〕
十世紀後半ごろ成立。作者は未詳だが、源順に擬する説が有力。奇妙な素材によって、貴族社会の多彩な人間模様が細かに写し出されている。一方で現実性にも富んでおり、二十巻に及ぶ長編だが、物語の系譜を引く作品である。
〔落窪物語〕
作者未詳。十世紀末ごろ成立。伝奇性は影をひそめ、写実性がいちだんと強められている。継子いじめを主題とする作品で、男女間の純愛を中心に、後世の文学にも大きな影響を与えた。なお、同じ継子いじめを主題とする物語に〔住吉物語〕がある。はやく散佚し、現存するのは中世初期の改作本である。
〔伊勢物語〕
【成立】作者未詳。十世紀初め〜中ごろに成立した歌物語で、在原業平(→p.39)とおぼしき主人公「昔男」の一代記風の構成をもつ。百二十五段前後の章段から成り、そのそれぞれが、歌を中心としすぐれた叙情の世界を形作っている。
【〈内容〉】主人公の「昔男」は、名門の家柄ながら、時の権勢に圧倒され、風雅に生きる人物として、そのままに描かれている。こうした「昔男」のあり方は、物語の虚構の方法があらわれている。男女間の純愛を中心とする話が多く、他に肉親・友人間の交情を伝える話が記されている。後世の文学にも、大きな影響を与えた。
八橋(尾形光琳筆 伊勢物語図)
(参考続き)詞書が和歌に奉仕するものであるのに対して、歌物語の文章は、和歌と時には拮抗し、時に協調する形で、独自の表現世界を形成している。
〔伊勢物語〕第五段
昔、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に人を置きて守らせければ、行けども、えあはで帰りけり。さて、よめる。
人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ。
あるじ許してけり。
(昔、一人の男がいた。東の五条あたりに、ひどく人目を忍んで通っていた。ひそかな所なので、門からも入れず、子供たちが踏み開けた土塀の崩れから通っていた。人はそう多くもなかったけれど、何度も重なったので、家の主人は聞きつけて、その通い路に人を置いて見張らせたので、行っても逢うことができないで帰った。そして次の歌を詠んだ。「人には知られていない私の通い路の関守は、毎晩眠ってほしいものだ。」家の主人は男が通うのを許してしまった。)
●大和物語
作者未詳。〔伊勢物語〕に続いて十世紀中ごろに成立した歌物語。統一的な主人公はなく、当代歌人の贈歌を中心として集められている。後半には、生田川伝説・芦刈伝説など、古伝承に取材した世間話が集められている。なお、同じころ成立した歌物語に〔平中物語〕がある。平中(平貞文)を主人公とする恋愛談を中心とする奇放なものである。
〔源氏物語〕の世界
日記の伝統や歌物語の方法を吸収しながら、作り物語や歌物語の方法を受け継ぎ、壮麗な虚構の世界を作り上げたのが〔源氏物語〕である。その虚構も、これまでの物語のように単なる絵空事を描くのではなく、むしろ虚構を意識的に利用することで、人間の実を描く物語である。
相に鋭く迫るものとなっている。〔源氏物語〕の出現で、物語の質は飛躍的に高められ、現実を超える人生の真実がそこに表現されるようになったのである。
〔源氏物語〕
〈成立〉
作者紫式部は、藤原為時を父として、天禄元年(九七〇)ごろ生まれた。当代屈指の知識人として知られていた受領層の出身であったが、幼いころから教養を受け、後年の物語創作への下地をはぐくまれた。長じて藤原宣孝と結婚し、一女をもうけたが、三年目に夫と死別した。この不幸が、創造へと向かわせた一つの契機となった。その後、藤原道長の長女、中宮彰子のもとに出仕した。宮仕え以後も物語の執筆は続けられる。寛弘五年(一〇〇八)ごろには、宮廷内で、この物語の評判が高かったことが〔紫式部日記〕に記されており、かなりの部分が成立・流布していたと思われる。
▼紫式部関係年表(*は推定)
| 年代 | 出来事 |
| 天禄元(九七〇)ごろ | *作者誕生 |
| 長徳(九九五〜) | 父、越前守となり、父の下向に同行 |
| 長保元(九九九) | 藤原宣孝と結婚。このころ一女(大弐三位)を出産 |
| 長保三(一〇〇一) | 藤原宣孝没。このころ〔源氏物語〕創作に着手 |
| 寛弘(一〇〇四)ごろ | 中宮彰子のもとに出仕。〔源氏物語〕一部流布 |
| 寛弘五(一〇〇八) | 〔紫式部日記〕に〔源氏物語〕評判の記事 |
| 長和二(一〇一〇) | *宮仕えを辞す |
| 長和三(一〇一一) | *作者没 |
〈構成・内容〉
〔源氏物語〕は、五十四帖から成る長編で、光源氏の生涯を語る物語である。
薫を抱く光源氏(源氏物語絵巻)薫は実は柏木と女三の宮の間にできた子であった。
全体を三部構成に分けて考えるのが通例である。
【第一部】(桐壺〜藤裏葉)
主人公光源氏の誕生から、さまざまな恋の遍歴を経て、準太上天皇という栄華の極みに至るまでの過程が描かれる。桐壺帝の皇子として生まれ、比類のない資質に恵まれながら、母方の家柄が低く、臣籍に降下する。その後、亡き母に似た女性・紫の上との純愛、須磨流謫などを経て、栄華の頂点に至る。
【第二部】(若菜上〜幻)
栄華の頂点をきわめた光源氏の、暗い宿命的な交渉が描かれる。女三の宮の降嫁を契機として、許されぬ恋(柏木と女三の宮との密通)が起き、光源氏は紫の上の死を迎え、その崩壊がだいに露呈し、光源氏の晩年の悲劇が演じられる。罪の自覚に苦悩する晩年の光源氏の姿が描かれる。
【第三部】(匂宮〜夢浮橋)
光源氏の死後、その縁につながる薫・匂宮・宇治の姫君たちの、宇治を舞台とした物語。薫大将や匂宮の、愛の不毛と人間不信とがきびしく追求され、宿命的な世界を形作る。最後の十巻は「宇治十帖」と呼ばれる。
第三部・東屋(源氏物語絵巻)浮舟と、髪をといてもらう宇治八宮の中君。
〈創作の過程〉
〔源氏物語〕こうした主題の展開は、作品そのものが書きつがれていく中で、必然的に獲得されたものともいえる。初めは古い物語の伝統を背景とする仏教によってすら救われない宿命の存在への不条理、愛の不毛と人間不信とがきびしく描かれていく創作の過程が必然的に獲得されたものともいえる。
的な制約にとらわれていた物語のあり方も、きびしい現実に目ざめはじめた宮廷貴族社会の主体的な姿勢に応じて、しだいに物語の展開が日常生活の中に凝視し続ける作者の資質に深く根ざしたものであることは、疑うことのできない事実である。作者はその壮大な物語の創造を成し遂げた。
〈表現・文体〉
登場人物は三百名を超え、帝四代・七十四年に及ぶ長大な物語を支える構想は、周到かつ巧みである。心理分析・性格描写はきわめて精細で、内面描写にすぐれ、個々の登場人物の心理の融合も巧みである。古今の和歌や漢詩を引用した清新で優美な文章は、和文体の代表ともいえる。
〔源氏物語〕冒頭(桐壺の巻)
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ひけり。
(何帝の御代であったのか、女御や更衣が数多くお仕えしている中に、たいそう高い身分ではない方で、格別帝の寵愛を受けておいた方がいた。)
「源氏物語」(大島本)
〔源氏物語〕桐壺の巻(続き)
じめより、「われは」と思ひあがりたまへる御かたがた、めざましきものに眦め給ふ。同じ程、それより下臈の更衣たちはまして安からず。朝夕の宮仕えにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにや、ありけむ、いとあつしくなりゆきて、もの心細く里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人の謗りをも、え憚らせたまはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
(最初から「私こそは」と思い上がっておられる御方がたは、目ざましい者として睨んでいる。同じ程度またそれより低い身分の更衣たちはなおさら穏やかではなく、朝夕の宮仕えにつけても、人の心だけを動かし、恨みを積もりにやつれて、ひどく気力がなくなりゆき、もの心細く里がちになるのを、帝はいよいよやるせなくあわれに思われ、人の誹りをも遠慮されず、世間の語り草になりそうな御寵愛ぶりであった。)
中宮彰子に「白氏文集」を読み聞かせる紫式部(右)(紫式部日記絵詞)
〔源氏物語〕以後の物語
〔源氏物語〕以後、平安末期にかけてさまざまな物語が作られたが、質量ともに〔源氏物語〕に匹敵する作品はあらわれなかった。貴族社会の衰退を反映して、現存する作品には欠くものが多い。〔源氏物語〕の影響が著しく、〔浜松中納言物語〕〔狭衣物語〕〔夜の寝覚〕などがある。節の変化を求めたり、非現実的な題材を扱うなど、いずれも〔源氏物語〕の模倣にとどまっている。〔夜の寝覚〕は、その克明な心理描写に特色がある。
〔浜松中納言物語〕は、舞台を唐土にまで及ぼした点に特色があり、退廃的な官能描写や奇抜な趣向も末期的な特色である。また、この時期には〔とりかへばや物語〕のような短編がさかんに作られた傾向が著しい。
●〔堤中納言物語〕
〔虫めづる姫君〕〔はいずみ〕などと十編の短編作品を集めており、趣向を異にしながら人生の断面を鋭く描いており、新しい傾向がうかがわれる。
〔堤中納言物語〕〈蝶めづる姫君の巻〉
蝶めづる姫君の住み給ふかたはらに、按察使の大納言の御女、心にくくたちなまはしくおはするが、もの心細くて、この姫君のたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人はまことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の恐ろしげなるを取り集めて、これが成らむさまを見むとて、さまざまなる籠箱どもに入れさせ給ふ。
(蝶がお好きな姫君のお住まいのお隣に、按察使の大納言の御娘がいらっしゃる。格調が高く奥ゆかしくいらっしゃるが、この姫君がおっしゃることには、「人々が花や蝶を好むのは、はかなくおかしい。物事の本質を求めるのこそ趣があるというものだ」といって、あらゆる虫の恐ろしそうなものを集めて、これが成長するようすを見ようとして、さまざまな籠や箱に入れさせなさる。)
掃墨を顔に塗った女(掃墨物語絵巻)
歴史物語
平安時代の後期になると、物語の創作意欲が自覚される中で、華やかな過去の栄光が回顧されるようになり、新たに歴史物語が生み出された。一方、貴族社会の退潮とともに、創作意欲が衰え、華やかな過去への回顧が強まった。歴史物語は、歴史的事実に素材を求めているが、〔六国史〕(→p.17)などの純粋な記録とは異なり、かな文体で書かれた物語である。
歴史物語の諸作品
史書とは違って、かなで記され、物語仕立てであるところに大きな特色がある。主要作品には、「栄花物語」「大鏡」「今鏡」「増鏡」などがある。
栄花物語
正編三十巻、続編十巻から成る。赤染衛門(正編)・出羽弁(続編)作とする説がある。長元三年(一〇三〇)ごろ正編、寛治六年(一〇九二)ごろ続編成立。
六十代皇(六〇)から堀河天皇の寛治六年(一〇九二)まで約二百年間の歴史が、紀伝体(→p.17)で記されている。六国史のあとを継ぐ意図で編されており、全盛をたたえることが中心で、藤原道長の華やかな宮廷生活が感傷的に回顧されているが、歴史的事実に対する批判精神は乏しい。
大鏡
作者未詳。十二世紀初めごろに成立。道長の権勢とその由来を中心に描いた歴史物語で、史物語という新しい領域を開いた点に大きな意義がある。
- 内容・構成
文徳天皇(八五〇)から後一条天皇の万寿一年(一〇二五)までの歴史を、大宅世継と夏山繁樹という二老人に若い侍が加わって語るという戯曲的な構成が採用されており、叙述の真実性と客観性を保証しようとしている。次の五部から成る。
- 序—話の場所:雲林院、話し手の紹介
- 列紀—文徳天皇から後一条天皇の十四代の略伝
- 伝—花山院などの記事がくわしい。藤原道長に至るまでの詳細
- 雑々—藤原公任(三船の才)などの話
- 大宰府左遷から頼通までの物語
栄花物語とは違って、単なる道長賛美に終わらず、政争の歴史が紀伝体(→p.17)で描かれており、鋭い批判意識が見られる。
歴史物語を「鏡物」といい、いわゆる「四鏡」は本書に由来する。「大鏡」の書名にならって、以後「今鏡」「水鏡」「増鏡」が生み出された。
藤原道長(紫式部日記絵詞)
四鏡に描かれた時代
| 成立順 | 作品名 | 対象時代 |
| ① | 大鏡 | 文徳天皇(八五〇)〜後一条天皇(一〇二五) |
| ② | 今鏡 | 後一条天皇〜高倉天皇(一一七〇) |
| ③ | 水鏡 | 神武天皇〜仁明天皇(八五〇) |
| ④ | 増鏡 | 後鳥羽天皇(一一八〇)〜後醍醐天皇(一三三三) |
(丸数字は成立順)
表現・文体
作者は未詳だが、教養ある男子官人の手に成るものであろう。文章は、和文ではあるが、その内容にふさわしく簡潔で力強い。作者の周到な用意をうかがうことができる。
〔「大鏡」道長伝〕
四条大納言の、かく何事にもすぐれておはしますを、大入道殿、「いかでかおはしますを、うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏みますべくもあらぬこそ口惜しけれ」と申させ給ひければ、中関白殿・粟田殿なども御気色に、げにさやはと若うおほしたまへば踏まはぬか。御身にて影をば踏まで、まことにさおはいませられけれ。
〔口語訳〕四条大納言(藤原公任)が、このように何事においても立派でいらっしゃるのを、大入道殿(藤原道長)が「どのようにおなりでいらっしゃることか、うらやましいことよ。わが子どもが影さえ踏めないとは残念なことだ」とおっしゃったので、中関白殿・粟田殿なども御不満の様子で、なるほどそのとおりとお思いになって(影を)踏まないことがあろうか。ご自身で影をさえ踏まずに、まことにそのようでいらっしゃることよ。
「栄花物語」と「大鏡」の比較
| 栄花物語 | 大鏡 |
| 成立 | 十一世紀初め(一〇〇〇)から末(一〇九二)まで | 十二世紀初めごろまでに成立 |
| 作者 | 正編は赤染衛門説、続編は出羽弁説 | 作者未詳 |
| 記載 | 宇多天皇(六十代)〜堀河天皇・寛治六年(一〇九二)の十五代 | 文徳天皇・嘉祥三年(八五〇)〜後一条天皇・万寿一年(一〇二五)の十四代 |
| 年代 | 約二百年 | 百七十六年 |
| 形式 | 編年体 | 紀伝体 |
| 性格 | 道長の全盛を賛美。感傷的・叙情的。批判精神なし | 政争の真面を描く。鋭い批判精神が見られる |
| 意義・特色 | 歴史物語の端緒 | 鏡物の祖。批判精神による歴史叙述 |
●今鏡
承安四年(一一七四)以後に成立。作者は藤原為経(さださね)説などがある。「大鏡」のあとをうけて、万寿一年(一〇二五)から高倉天皇の嘉応二年(一一七〇)まで約百五十年間の歴史を紀伝体で記している。「大鏡」の文体を受けつぎながら、「栄花物語」風の優雅な文体で描かれている。
日記・随筆
日記
日記は、本来、公務の記録として、貴族社会で古くから記されていた。男子によって漢字で記され、また日常の備忘録として、実用性を第一の目的とするものであった。かなで記された日常の日記も、すでに十世紀の初めに歌合の日記などを含むものが存在しているが、これらの執筆も公的な立場からなされており、かなで記される文学としての日記は、「土佐日記」の出現を待たなければならなかった。
「土佐日記」
紀貫之作。承平五年(九三五)成立。
- 内容
- 土佐の任を終えた貫之が、国府から京に帰着するまでの五十五日間の体験を記した旅日記。土佐で失った愛児への追憶を中心に、帰京への期待と喜びなどが描かれている。
- 表現
- 作者は、自らを女性に仮託し、当時「女手」と呼ばれたかな文を用い、機知に富むユーモアを随所に用い、また世俗に対する風刺も示された。内省と批判意識があらわれており、鋭い批判の自在な表現が特色である。「土佐日記」によって開かれたかな散文の可能性は、これ以後、女流日記文学に受けつがれていく。
〔「土佐日記」冒頭〕
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年の、十二月の、二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。そのよし、いさかに書きつく。
〔口語訳〕男も書き記すという日記というものを、女も書いてみようと思って書くのである。某年の十二月二十一日の午後八時ごろ、出発する。その旅の様子を、少しばかり紙に書きつける。
「蜻蛉日記」
藤原道綱の母作。天延二年(九七四)以後成立。
- 内容
- 上・中・下の三巻から成る。天暦八年(九五四)から天延二年(九七四)に至る二十一年間の結婚生活を回想したもの。受領(→p.49語注)の娘として生まれた作者が、藤原兼家の求婚から筆を起こし、当時の権門の妻として生活を営みながら、一子道綱の成長を頼みとしながら、ついに夫との調和ある生活を得られないままに至るまでの過程が描かれる。
- 表現
- 「土佐日記」によって先鞭をつけられたかな散文の方法が、こうした内面への疑視を可能にしたのであり、陰影に富んだ内面描写によって、のちの「源氏物語」などの女流文学にも大きな影響を与えている。
物語のことを和歌の上手とも評された作者は、自己の序文において物語の虚偽を批判し、自己の体験に基づく真実を記そうという決意を述べている。初めは和歌・私家集的性格が強いものであったが、叙述するにしたがって散文的傾向を強め、日記文学の性格を深めていく。
「かげろふ日記」(桂宮本)
中流貴族の邸内(石山寺縁起絵巻) 当時、受領層として地方におもむいたのは、主にこれら中小貴族層であった。
「和泉式部日記」
和泉式部作(他作説もある)。寛弘四年(一〇〇七)ごろ成立。長保五年(一〇〇三)四月から約十か月にわたる、帥宮敦道親王との恋愛事件を、百四十余首の贈答歌を中心に物語風に描いた日記。「和泉式部物語」とも呼ばれる。日記中で式部が二人称的に描かれていることから他作説もあるが、他作を装った自作として解する説が有力である。
「紫式部日記」
紫式部作。寛弘七年(一〇一〇)ごろ成立。作者が一条天皇の中宮彰子に仕えていた折の宮廷生活の詳細な記録。子の出産場面を中心に、華麗な宮廷行事の様子が克明に描かれる。日記の後半は書簡体の消息文(手紙文)が混じり、清少納言・赤染衛門など同輩女房に対する辛辣な批評や、自己の内面に対する省察が記されている。
「更級日記」
菅原孝標女作。康平三年(一〇六〇)ごろ成立。幼いころ草深い東国ではぐくまれた物語世界への幻想が、成長してのち体験を通じて変わっていく様子を記す。自身の精神のあり方が鋭く疑視され、清少納言(→p.53)・赤染衛門(→p.53)など同輩女房への評も見られる。陰影に富んだ省察が特色である。
- 語注:藤原兼家
- 延長七年(九二九)〜正暦元年(九九〇)。師輔の子。子に道隆・道兼・道長など(→p.54系図)。藤原氏全盛の基礎を築いた(→p.54)。
幼いころ草深い東国ではぐくまれた物語世界への幻想も、成長してのち信仰の世界に魂の安住を求めようとするに至るまでの、約四十年間の精神遍歴を描いている。したたかな現実の中で挫折しながら、物語世界への幻想も仏への信仰も、ともに仮構された非現実の世界への憧れとして共通する境涯の中に、人生の晩年の孤独をかみしめる作者の諦観が示されている点が注目される。
「更級日記」冒頭
あづまちの道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひいでたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなるひるま、たゆみなどに、その物語、あの物語、光源氏のあるやうなど、姉、ままははなどやうの人々の、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまさりて、わが思ふままに、そらにいかでかをほへ語らむ。
〔口語訳〕東国への道の果てよりも、さらに奥のほう(上総)で育った私は、いかにも田舎びた育ち方をしたことか、どのようにして思い始めたことか、世の中に物語というものがあるということを聞いて、どうにか読みたいと思いながら、退屈な昼間などに、その物語・あの物語・光源氏の様子など、姉や継母などのような人々が、部分的に語るのを聞くにつけ、ますます読みたい気持ちが増して、わたしが思うままに、そらで覚えて語ってほしいと思うのだが。
「更級日記」の題名
日記の最末尾に「更級」という言葉が用いられており、信濃の国更級郡にある「をばすて山」(姨捨山)に基づくという説が有力。また、夫・橘俊通が信濃守であったからとする説もある。
菅原孝標女の石山詣(石山寺縁起絵巻)
●その他の日記
このほか、入宋したわが子との別離の悲しみを歌を中心に綴った「成尋阿闍梨母集」(延久五年・一〇七三成立)、堀河天皇の発病・崩御の場面を中心に即位までの記事を収めた「讃岐典侍日記」(天仁元年・一一〇八以後成立、讃岐典侍・藤原長子作)がある。とくに後者は、天皇の死後の記事も含み、天皇の発病から崩御後の様子を克明に描いた特色がある。
随筆
随筆には、本来、記録としての性格があり、時間の流れの中に表現されるのが常であった。こうした日記本来の自照性(→語注)を強く保ちながら、作者が自在に発揮するようにして、「枕草子」に代表される随筆文学が生み出された。
「枕草子」
清少納言作。長保三年(一〇〇一)ごろ成立。
- 成立
- 「枕草子」の成立については、その跋文の一節に、作者が中宮定子から「枕草紙」を下賜されたことが執筆のきっかけとなったという事情が記されている。作者の私的な作品ではなく、定子に仕える女房として立場から記された。
- 語注:自照性
- 自己の内面を深くかえりみようとする精神傾向。この時期の女性たちは、自分を深くかえりみ、内面の記録をつくった。女流の日記文学を「自照文学」ともいう。
本書には定子没後の記事がなく、したがって長保三年(一〇〇一)ごろの成立であろうと考えられている。しかし、その後も多少の補筆・修正があったと思われ、最終的な完成は寛弘の末年ごろと推測される。
- 内容・構成
- 長短三百余の章段から成り、宮廷生活の体験・見聞・感想などが記されている。作者の鋭い審美的感覚をうかがうことができる。各章段は、その内容によって分類される。
- 日記的章段(日記回想的章段):主として作者の宮仕え中の見聞を記したもの。「翁丸」や「香炉峰の雪」など。後宮生活の記録という性格が著しい。
〔「枕草子」「雪のいと高う降りたるを」〕
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭柩に火をおこして、あつまりさぶらふに、「少納言よ、香炉峰の雪はいかならん」とのたまはば、御格子上げさせて、御簾を高くかかげたれば、笑はせたまひぬ。
〔口語訳〕雪がたいへん高く降り積もっているのに、いつもと違って御格子をおろしてあって、炭柩に火をおこして女房が集まりお仕えしているところに、(定子様が)「少納言よ、香炉峰の雪はどのようであろうか」と仰せになったので、(私が)御格子を上げさせて、御簾を高くかかげたところ、(定子様が)笑われた。
清少納言関係年表(*は推定)
| 康保三(九五六) | *作者誕生 |
| 天禄元(九七〇) | *紫式部誕生 |
| 天元五(九八二) | 橘則光と結婚・子を出産 |
| 正暦元(九九〇) | 一条天皇中宮定子のもとに出仕 |
| 長徳元(九九五) | 道隆没。藤原道長が実権を握る |
| 長徳二(九九六) | 伊周・隆家左遷 |
| 長保元(九九九) | 道長の娘彰子・入内 |
| 長保三(一〇〇一) | 定子没。このころ「枕草子」成立 |
| 寛弘四(一〇〇七) | *「紫式部日記」成立 |
| 万寿元(一〇二四) | *作者没 |
- 類聚的章段:いわゆる「物尽くし」の章段で、本書の性格を特徴づける特異な形式をもつ。「山は」「川は」などの「〜は」式のものと、「すさまじき」のような事物の列挙の形式がある。前者はいわゆる「あてなるもの」「はかなるもの」など、後者は共通の心情語による事物の列挙。鋭利で微細な観察に基づく言葉の連想が、自在に駆使されている。
〔「枕草子」「ありがたきもの」〕
ありがたきもの。姑に思はるる婿。また、毛のよく抜くるしろがねの毛抜き。主そしらぬ従者。容貌、性質、心なにもにほへる人。
〔口語訳〕めったにないもの。姑にかわいがられる婿。また、毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人の悪口を言わない従者。容貌・性質・心のいずれもが優れた人。
- 随想的章段:たとえば冒頭の「春はあけぼの」の段のように、事に対する自由な感想を述べた章段で、自然や人の性格についての観察も交じる。もっとも随筆的性格が強い。
〔「枕草子」冒頭〕
春はあけぼの。やうやう白くなり行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲の、ほそくたなびきたる。
〔口語訳〕春は夜明けがよい。ゆっくりと白んでいく山際が、少し明るくなって、紫がかった雲が、細くたなびいている(のはすばらしい)。
清少納言と紫式部の比較
| 枕草子 | 源氏物語 |
| 内容 | 約三〇〇段、宮廷・自然・人事を美しく描いた随筆 | 五十四帖、人物の心理を深く掘り下げ、人間の真実を描いた長編物語 |
| 特色 | 「をかし」(機知的な感覚美) | 「あはれ」(調和的な情趣美) |
- 語注:歌枕
- 歌を作る際に用いる事柄を書き集めた本のこと。歌語を分類・列挙した「能因歌枕」が有名。なお、歌枕には、別に古歌に詠みこまれた名所という意味もある。
「枕草子」の美意識
「枕草子」のこうしたあり方は、作者の、外界に対する把握のしかたと分かちがたく結びついている。作者は、その鋭敏な感覚と観察力によって、自然や人事の断面をあざやかに描き出すことができた。もとよりこのような作者の感受性を支える美意識の基準は、定子を中心とする後宮世界の中にのみ存在したのであり、生活に対するひたすらな賞美の姿勢をも生み出すことになった。そのために、それは、華やかな宮廷的な見方になったのである。けれども、こうした美意識の基準は、ともすれば皮相な見方に傾きがちであり、現実をきびしく見つめることによってはぐくまれる深い内面性は、ついにもたらされることはなかった。
帝と中宮定子(枕草子絵詞)
〈表現・文体〉
簡潔さが最大の特色だが、その鋭い観察力によって、文章は短く区切られ、あざやかに描き出すすぐれた表現力を備えている。「もものあはれ」の語などの省略も著しい。感覚美の世界を、みごとに現出している。「源氏物語」の情趣に富む文体とは異なる、文化に富む自由な文体が、「をかし」ととらえる世界を形成している。
「枕草子」(前田家本)
説話・歌謡
説話
奈良時代中期以後、仏教が広く流布するようになると、信仰を勧めるための説話が起こり、説経の場で語られるようになった。こうした仏教説話を集めたものに、平安初期の「日本霊異記」(→p.18)があった。こうした仏教説話集は、つづいて中期以後に「三宝絵」(→p.18)があらわれた。一方、平安後期になると、貴族社会の衰退に伴って、「打聞集」があらわれた。伝統的な貴族社会の周辺に文学の基盤を求めようとする方向が、しだいに顕著になっていく。その具体的な現れが、貴族・武士・庶民の生活に根ざした世俗説話の集成であり、それは仏教説話にとどまらず、天竺(インド)・中国・日本にわたる広範な説話を含むものとなった。
十一世紀のころ、源隆国が編纂したとされる「宇治大納言物語」(現存しない→p.85)は、こうした方向性をもつ説話集であったらしい。院政期に入ると、この傾向は一段と推し進められ、十二世紀前半には仏教説話・世俗説話を集大成した「今昔物語集」が生み出された。
〈内容〉「今昔物語集」
「今昔物語集」は、千余の説話を集大成した説話集で、天竺(インド)・本朝(日本)・震旦(中国)の三部から構成される。編者未詳。十二世紀前半の成立。
貧しい一家の祝宴(絵師草紙)
鳥獣戯画
- *三宝絵
- 永観(九八四)成立。仏・法・僧の三巻から成る。源為憲著。僧俗の事績、法会の由来などを記した仏教入門書。絵を伴ってつたわるのみが伝来する。「三宝絵図」とも呼ばれる。
- *打聞集
- 長承三年(一一三四)以前の成立。作者未詳。インド・中国・日本の仏教関係の説話二十七編を収録。説経のテキストであったらしく、口語資料としても貴重。
- *仏教の流布
- 五五二年(一説では五三八年)に伝えられ、平安中期に出た恵心僧都(源信)の「往生要集」は、以後の鎌倉仏教に影響した。
- *院政
- 天皇が譲位した後、上皇(法皇)として政治の実権を握る政治形態。白河上皇に始まり、平氏政権ができるまで国政の中核となった。
(内容続き)内容は、仏教説話と世俗説話に二分される。中心となるのは仏教説話で、仏教の成立から各国への伝来・流布の過程が、歴史的にたどられている。本書の目的は、こうした三国にわたる仏法の霊験の尊さへの賛布をはかろうとするものではなく、そこに行動する人間のあり方を見つめようとする姿勢にあった。この人間の行動を凝視しようとする姿勢が、ひいては世俗説話における、多彩な人間模様を描き出すことにつながるのである。
〈世俗説話〉
貴族だけでなく、新興の地方武士から庶民・盗賊に至るさまざまな人物が登場し、混沌とした時代をたくましく生きぬく彼らの姿が、文学的にもすぐれた達成を示している。
〈成立の背景〉
こうした膨大な説話が集成された背景には、院政期一般の時代風潮として、これらを回顧し、整理したいという強い興味があったということが指摘される。
〈表現・文体〉
「今昔物語集」の文章は、漢字に片かなを小書きした*和漢混交文によって書かれており、「今は昔」で始まり「とナム語り伝えたるとや」で終わるという表記形式の統一性をうかがうことができる。その朴な力強さは、説話の内容にふさわしいものをもっている。
【「今昔物語集」巻二十九・第十八話】
今昔、摂津ノ国ノ辺ヨリ盗セムガ二京ヘ上ケルニ、日ノ未ダ明カリケレバ、羅城門ニ上ケルニ……
【口語訳】今は昔、摂津の国の近くから盗みをしようと都に上った男が、日がまだ明るかったので、夕暮れを待って羅城門の下に隠れていた……
(今昔物語集引用続き)城門ノ下ニ立テリケルニ、朱雀ノ方ニ、人重ク行ケレバ、人ハ静マルマデト思テ、門ノ上層ニ掻ツリ登タリケルニ、見レバ、火縹ニ燃エシタリ。
(口語訳続き)人通りが静まるまでと思って、門の二階にそっと登っていくと、見れば、火が縹色に燃えていた。(芥川龍之介「羅生門」が取材した部分)
歌謡
平安前期からうたわれた歌謡に、神楽歌・東遊歌・催馬楽・風俗歌がある。これらは、朝廷の神事や儀式のための謡もの・舞に用いられ、整備されたもので、本来は古い民謡であった。神楽歌・東遊歌は神前の歌と儀式のための謡もので、催馬楽・風俗歌は貴族の遊宴に用いられた。
平安中期以後には、漢詩や和歌に曲節をつけた朗詠が盛んになった。
●「和漢朗詠集」
朗詠に適する漢詩や和歌を集めたもの。長和三年(一〇一三)ころ、藤原公任(→p.42)の撰で成立した。漢詩や和歌に曲節をつけ、長明永正がこれを朗詠する用いものとした。
●「梁塵秘抄」
平安後期には、今様をはじめとする各種の謡ものが流行した。これらを総称して雑芸という。治承三年(一一七九)〜文治元年(一一八五)ころの間に後白河法皇の撰で成立した。各種の謡ものの中でも今様が中心で、七五調四句のものを主とする。女・白拍子などの間に平安末期の歌舞として流行した。
【「梁塵秘抄」法文歌】
仏は常に在せども
現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
仄かに夢に見えたまふ
【口語訳】仏はいつもおいでになるのだが、目に見えないでいるのがいかにも懐かしい。人の気配のしない暁に、ほのかに夢の中に姿をお見せになるのである。
白拍子(徒然草画帖)
- *歌謡
- 多くは短歌形式。宮廷の神前舞に用いるものと、民間で伝わったものに大別される。催馬楽は主に近畿地方の民謡に由来し、貴族の遊宴歌謡として流行した。
- *和漢混交文
- 優美な和文体と力強い漢文体をまじえた文体。くわしくは→p.82
中古文学のポイント・チェック
- □ 漢詩文集(平安初期):「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」など勅撰三集。「性霊集」(空海)・菅原道真ら。上、和歌・物語などの発達を可能にした。
- □ かな文字の普及「古今和歌集」:延喜五年(九〇五)成立。紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑撰。勅撰和歌集の初め。八代集の第一。
- 第一期:読み人しらずの時代
- 第二期:六歌仙の時代。小野小町ら六歌仙が活躍。理知的な古今風の確立。
- 第三期:撰者の時代
- □ 八代集:「古今集」「後撰集」「拾遺集」(以上三代集)「後拾遺集」「金葉集」「詞花集」「千載集」(藤原俊成撰・幽玄体)「新古今集」の八つ。
- □ 歌物語:「伊勢物語」「大和物語」「平中物語」
- □ 作り物語:「竹取物語」「宇津保物語」「落窪物語」
- □ 私家集・歌合・歌論:和歌隆盛の中で歌合や歌論も行われるようになった。
- □ 「源氏物語」:
(構成)三部に分かれ、五十四帖(宇治十帖を含む)から成る。十一世紀初め(長保〜寛弘年間)に成立。紫式部作。
(特色)① 光源氏・薫・匂宮などを中心とする長篇。② 種々の恋愛物語を通じて、複雑な人生模様を描く。③ 虚構を用いて人間の実相に迫る。③ 文章は和文体の代表で、「もののあはれ」の精神。
- □ 「源氏物語」以後の物語:「夜の寝覚」「とりかへばや物語」「堤中納言物語」「浜松中納言物語」「狭衣物語」など。
- □ 歴史物語:平安後期に成立の歴史物語。前者(栄花物語)は編年体、後者(大鏡)は紀伝体。大鏡は鏡物(四鏡)の祖。藤原道長の全盛を描く。
- □ 日記:「土佐日記」(紀貫之)が日記文学の初め。「蜻蛉日記」(藤原道綱の母)・「和泉式部日記」・「紫式部日記」・「更級日記」(菅原孝標女)など。
- □ 「枕草子」:長保三年(一〇〇一)ごろ成立。清少納言作。
(構成)約三百余の章段から成り、(1)日記的章段、(2)類聚的章段、(3)随想的章段の三つに大別される。
(特色)① わが国最初の随筆集。中世の「方丈記」「徒然草」とともに三大随筆。② 鋭い感受性・審美眼に支えられた「をかし」の精神。③ 文章は和文体の代表で「源氏物語」と随筆の双璧。
- □ 「今昔物語集」:平安末期に成立の説話集。天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三部から成る。芥川龍之介らに影響。
- □ その他の説話集:「三宝絵」「打聞集」「江談抄」など。
- □ 歌謡:「和漢朗詠集」(藤原公任撰)、「梁塵秘抄」(後白河法皇撰)など。朗詠・今様などがある。