p.236 森鷗外(1)軍医・小説家・ドイツ留学
近代知識人の極致 — 軍医・小説家・翻訳家
概観
森鷗外(本名・林太郎、1862–1922)は、石見国津和野(現在の島根県津和野町)の御典医の家に生まれた。10歳で家族と共に上京し、第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、19歳で卒業(当時の最年少卒業生)。陸軍軍医となり、ドイツ留学(1884–1888)を経て、軍医総監・陸軍省医務局長まで昇進。一方で文学・翻訳・評論にも卓越した業績を残し、日本近代知識人の頂点と評される。
軍人の道
鷗外は20歳で陸軍軍医となり、22歳でドイツに官費留学。ライプチヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンで衛生学を学んだ。帰国後は陸軍軍医学校教官、その後、日清・日露戦争に従軍。1907年(明治40年)に陸軍軍医のトップ・軍医総監に昇進した。鷗外の文学活動は、軍医としての公務の余暇に行われたが、近代文学の頂点を作る業績を残した。
ドイツ留学(1884–1888)
22〜26歳の4年間、ドイツに留学。衛生学のほか、西洋文学・哲学・歴史・芸術への深い造詣を培った。ベルリンでドイツ人女性エリス(Elise Wiegert)との恋愛経験は、後の代表作『舞姫』のモデルとなった。1888年帰国時、エリスが日本まで追いかけてきたが、家族の反対で別離した(『舞姫』の主題)。
翻訳と論争
帰国後すぐに、シェイクスピア『ハムレット』、アンデルセン『即興詩人』、ゲーテ『ファウスト』、シラー『ヴィリアム・テル』など、西洋古典を翻訳。1889年には森鷗外名義で『於母影』(共訳詩集)を発表、近代詩の出発点の一つとなった。翻訳と並行して、坪内逍遥との「没理想論争」(1892–1893)で、ハルトマン美学を基盤に、写実主義の限界を批判した。
歴史小説と伝記
1912年(明治45年)乃木希典の殉死を契機に、鷗外は歴史小説に転じた。『興津弥五右衛門の遺書』(1912)、『阿部一族』(1913)、『佐橋甚五郎』『山椒大夫』(1915)、『最後の一句』(1915)、『高瀬舟』(1916)など、武士道精神と人間の極限状況を描く名作を残した。さらに『渋江抽斎』(1916)『伊沢蘭軒』『北条霞亭』など、史実に基づく実証的な「伝記文学」を晩年に書いた。