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浜島書店 — pilot v2 OCR + ruby 版(PDF 5–168 ページ)

p.150 与謝蕪村よさ ぶそん小林一茶こばやし いっさ

与謝蕪村よさ ぶそん

江戸時代中期(1716–1783)— 画家にして俳人

摂津国せっつのくに毛馬村けまむら現在げんざい大阪市おおさかし)のまれ。江戸えど俳諧はいかいまなび、のち京都きょうとうつり、画家がか俳人はいじんとして活動かつどうした。画名がめい与謝蕪村よさ ぶそん俳号はいごう蕪村ぶそん漢詩かんし絵画かいが素養そよう背景はいけいに、絵画的かいがてき視覚美しかくびんだ俳風はいふう確立かくりつし、「蕉風中興しょうふう ちゅうこう」の中心ちゅうしん人物じんぶつとなった。

蕉風の復古しょうふうの ふっこ

芭蕉ばしょう没後ぼつご俳諧はいかい卑俗ひぞく月並つきなみにしていた。蕪村ぶそん炭太祇たん たいぎ大島蓼太おおしま りょうたらとともに「芭蕉ばしょうかえれ」を標榜ひょうぼうし、蕉風しょうふう精神せいしんもどそうとした。これを「蕉風しょうふう中興ちゅうこう」とぶ。代表句だいひょうくに「はなつきひがし西にしに」「はるうみひねもすのたりのたりかな」など、視覚的しかくてき絵画的かいがてき景情けいじょうおおい。

天明調確立とその後てんめいちょう かくりつと そのご

蕪村ぶそん門人もんじんたち(高井几董たかい きとうら)は天明てんめい年間ねんかん(1781–89)に「天明調てんめいちょう」とばれる清雅せいが絵画的かいがてき俳風はいふう確立かくりつした。蕪村ぶそん没後ぼつご俳諧はいかいふたた平俗化へいぞくかし、19世紀せいきには小林一茶こばやし いっさ独自どくじ俳風はいふうあらわれ、また明治期めいじき正岡子規まさおか しき新風しんぷうひらくまで、俳諧史はいかいし曲折きょくせつる。

夜半亭・『新花摘』やはんてい・しんはなつみ

蕪村ぶそん夜半亭やはんてい二世にせいいで主宰しゅさいとなった。著作ちょさく新花摘しんはなつみ』(1797ねん成立せいりつ)は蕪村ぶそんははしのんでいた追悼録ついとうろくで、ははへの思慕しぼとその時々ときどき俳論はいろんまじえた俳文集はいぶんしゅう

小林一茶こばやし いっさ

江戸時代後期(1763–1827)— 庶民の俳人

信濃国しなののくに柏原かしわばら現在げんざい長野県ながのけん信濃町しなのまち)のまれ。三歳さんさいははうしない、継母ままはは不和ふわなか江戸えど俳諧はいかいまなぶ。各地かくち遍歴へんれきしたのち信濃しなのもどって生涯しょうがいえる。家庭かてい不幸ふこう妻子さいしとの死別しべつおお経験けいけんした一茶いっさは、みずからの境涯きょうがい率直そっちょく俳句はいくみ、庶民的しょみんてき口語的こうごてきあたたかみのある俳風はいふうつくげた。

『おらが春』おらがはる

一茶いっさ57さいねん文政ぶんせい2ねん、1819ねん)の身辺しんぺん記録きろく俳句はいくつづった俳文集はいぶんしゅう。「おらがはる」(わたしはる)のだいには、一茶いっさ率直そっちょく素朴そぼく自己愛じこあいがにじむ。まれてまもなくむすめさとをうしなったかなしみが「つゆつゆながらさりながら」の結晶けっしょうする。

蕪村画・一茶肖像(口絵)ぶそんが・いっさ しょうぞう

ページ上部じょうぶ蕪村ぶそん自画像じがぞう下部かぶ小林一茶こばやし いっさ肖像しょうぞうあいだ蕪村ぶそん絵画かいが花鳥かちょう山水さんすい)の写真しゃしんえられる。蕪村ぶそん画家がかとしてもすぐれた業績ぎょうせきのこしたことを視覚的しかくてきしめす。