貴族政治の陰りと末法思想 衰え疫病や天変地異が続く「末の世」に入ると信じられていた。
釈迦の死後二千年であるー〇五二年には、仏教はしたた京には盗賊が横行するように…なっていた。極楽往生を願う貴族たちは仏教に救いを求めるようになった。
藤原道長は出家して入道殿と呼ばれた。法成寺を建立。阿弥陀仏の手と自分の手を五色の糸で結び、念仏を唱える中、死を迎えたといわれる。子頼通は宇治の別荘を平等院とし極楽往生を願った。鳳凰が翼を広げた姿に似た鳳凰堂を平等院とし極楽往生を願った。鳳凰堂内部には阿弥陀来迎図が描かれ、極楽浄土の世界を出現させた。『源氏物語』の舞台として知られる宇治は、当時貴族の別荘地であり、長谷寺参詣の通りであった。
極楽往生を祈った貴族 ▲ 平等院鳳凰堂(宇治) 阿弥陀如来像(右下) 内部のCG復元(左下)
平安時代後期
出家した歌人西行が名高い。大寺院の僧兵による強訴、うち続く戦乱の中で仏教は次第に民衆に広まり、鎌倉新仏教を生む素地となる。隠者らによって編まれた説話集によって仏教が民衆に普及し、永久不変のものはないとする無常観を身近に感じる時代となっていった。
中国から伝来し、陰陽寮という役所が置かれた。陰陽五行(→ P.188)に基づき、各日の吉凶を記した具注暦(→ P.38)を、貴族はこれに従って生活した。陰陽寮は、男と女・日と月・天と地などを陰と陽として相対する陰と陽として、現象が、相反する陰と陽とすることで「相」を見て将来を占う。人の「相」を見て将来を占う。事故にあった謹慎すること。災いを避けるため謹慎すること。物忌は「相」に閉じこもり人に会わず手紙も受け取ってはいけない方角や、出産する際に向かい行きたい方角が外出する際に、向かいたい方角を陰陽道で判断し、行動を制限した。
寄り道をして避けなければならない方角であったとき(方塞)、前日に別の方角の場所に移り一泊して目的地に向かった(方違)。
(『大鏡』『花山天皇の出家』 → P.134)
「禊」や「祓」によって清められることを「かみ」に祈る。天皇の祖先をまつる伊勢神宮をはじめ、賀茂神社・春日神社・住吉神社・石清水八幡宮、(諏訪・遠江・上総・宇佐神宮)などが尊ばれた。天皇は、伊勢神宮に斎宮、賀茂神社に斎院を置き、未婚の皇女が斎宮・斎院は斎宮で身を清めの御禊にこもった伊勢神宮に移る。斎宮は祭事の前、次の天皇の世まで都を離れた。賀茂の祭(葵祭)→ P.47 でよく知られた。