後宮の女性は懐妊三か月頃に宮中から退出し、里(実家)で①出産した。産室の調度は、白で統一され、衣服も白い御帳・几帳などを用いた。出産に伴う危険が大きかったため、『源氏物語』にも『六条御息所の生霊が夕霧を産んだ葵上をとり殺す話がある。』として加持祈祷(→ P.34)が行われた。
子供が誕生すると、吉方の水を口に含ませる「御湯殿」の儀が行われ、孔明経の博士が出てきて漢籍を三回読み、弓の弦を手で引き鳴らす儀式「読書始の儀」が行われた。三、五、七、九日の夜には祝宴が催され、また「産養」といい、親しい人々が衣類や食物を贈る儀があり、❷五十日(いか)に「妻問」となった。
卿の子弟は、「殿上童」として作法の見習いのため昇殿を許されて出仕した。12歳から16歳になると❸元服の儀式があり、成人としての加冠が行われた。平安前期の結婚は、「妻問」といい夫が妻の邸に通うもので、一夫多妻であった。結婚までの過程は、男性が女房などから女性の噂を聞いたり、歌(返し返しごと)を贈る。これを機会に二人の贈答となるが、手紙は女房・兄弟・⓹文使いなどが運ぶのが普通だった。何度かのやりとりで、恋の歌は本人同士しかわからないように詠むのが礼儀であった。最初、男性は簾子の女性の邸を訪れる。三日目には正式に結婚し、両親が許して男性を通わせる披露の宴を行った。それ以後は、昼も女性の邸にいることが多くなり、儀式の方や女性の母などが、邸の方で待つようになる。⓺所(露・顕)という披露の儀式となった。次第に夫婦同居の「婿取」となった。「妻問」が正婚とされた。
P.395 仏教の影響を受け火葬として鳥辺野付近に霊屋を設け、霊を祀り柴祀にする広く流布した。火葬の地とされ、霊を祀り柴祀にとされた。死後、四九日間は「中陰(中有)」と呼び、死者の後生を念じ七日ごとに供養をし、一定期間⓼服喪として、喪服を着て慎んだ。喪の終わりを、「はて」「四十九日」「一周忌」といった。「四九日」は、近世より還暦・古稀・喜寿・米寿などを祝うようになり、これらも算賀(→ P.395)の影響を受けたものである。
平安時代中期以後、政治の場が大内裏から天皇の住居の内裏に移ったため、夕方や夜間の公事が多くなった。長(摂関政治全盛期)は、一〇日の参内、その三回は宿泊した。
時刻ベース(十二支):丑(2)-寅(3,4)-卯(5,6,7)-辰(8,9)-巳(10,11)-午(12,13)-未(14,15)-申(16,17)-酉(18,19)-戌(20,21)-亥(22,23)-子(0,1)