考題索引

近世きんせい文学ぶんがく

歌川国芳うたがわくによし筆「八犬伝芳流閣之図はっけんでんほうりゅうかくのず

近世きんせい文学ぶんがく概観がいかん

年代ねんだいひょう江戸えど時代じだい 一六〇〇〜一七三〇)

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一六〇〇せきはらたたか
一六〇三江戸幕府えどばくふ成立せいりつ阿国歌舞伎おくにかぶきはじまる(出雲いずも阿国おくに
このころ醒睡笑せいすいしょう』(仮名草子かなぞうし)。『竹斎ちくさい』『可笑記かしょうき』など
一六六〇頃松永貞徳まつながていとく俳諧師はいかいし)。仮名草子かなぞうしさか
一六六八西山宗因にしやまそういん談林俳諧だんりんはいかい
一六八二*『好色一代男こうしょくいちだいおとこ』(西鶴さいかく)。浮世草子うきよぞうし草双紙くさぞうし
一六八四ふゆ』(芭蕉七部集ばしょうしちぶしゅう)。*蕉風俳諧しょうふうはいかい松尾芭蕉まつおばしょう
一六八六近松門左衛門ちかまつもんざえもん出世景清しゅっせかげきよ』。*西鶴さいかく芭蕉ばしょう活躍かつやく
一六八八〜一七〇四(元禄げんろく西鶴さいかく日本永代蔵にほんえいたいぐら』『世間胸算用せけんむねさんよう』。芭蕉ばしょうおく細道ほそみちたび(一六八九)。『猿蓑さるみの』(一六九一)
一六九四芭蕉ばしょうぼつ西鶴さいかく武家義理物語ぶけぎりものがたり
一七〇三近松ちかまつ曾根崎心中そねざきしんじゅう』。八文字屋本はちもんじやぼん
一七一五近松ちかまつ国性爺合戦こくせんやかっせん
一七一六新井白石あらいはくせきりたくしば
一七二一近松ちかまつ心中天網島しんじゅうてんのあみじま
一七三〇頃近松ちかまつ女殺油地獄おんなごろしあぶらのじごく

時代区分じだいくぶん背景はいけい

せきはらたたかいに勝利しょうりした徳川家康とくがわいえやすが、慶長けいちょうねん(一六〇三)江戸えど幕府ばくふひらいてから、十五だい将軍しょうぐん慶喜よしのぶ慶応けいおうねん(一八六七)に大政奉還たいせいほうかんするまでの二百六十五年間ねんかんが、近世きんせい江戸時代えどじだい)という時代じだいである。この時代じだいには、中央ちゅうおう統一政権とういつせいけんとして江戸幕府えどばくふと、その地方ちほう独立どくりつはんかれて統治とうちするという幕藩体制ばくはんたいせい確立かくりつされ、のうこうしょうというきびし身分制度みぶんせいど人々ひとびとしばった。対外たいがい的には鎖国政策さこくせいさくがとられ、なか太平たいへい謳歌おうかした。庶民しょみん教育きょういく水準すいじゅんたかまり、文化ぶんか芸術げいじゅつかたちづくられた。

文学ぶんがく大衆化たいしゅうか

とく文学ぶんがくにおいては、印刷術いんさつじゅつ木版印刷もくはんいんさつ)の進歩しんぽ発展はってんにより大量たいりょう版本はんぽん供給きょうきゅうされるようになり、これ以前いぜん写本しゃほん時代じだいでは一部いちぶ特権層とっけんそう専有物せんゆうぶつにすぎなかった文学ぶんがくが、はじめて庶民しょみんのものになったからである。

町人ちょうにん文学ぶんがく武士ぶし文学ぶんがく

この時代じだい文学ぶんがく特徴とくちょうは、「町人文学ちょうにんぶんがく」あるいは「庶民文学しょみんぶんがく」という言葉ことば表現ひょうげんされることがおおい。武士ぶし農民のうみんよりも一段いちだんひく位置いちかれた町人ちょうにんたちが、しだいにつよ経済力けいざいりょくをもつようになった。その結果けっか自分じぶんたちのかたかんがかた趣味しゅみ反映はんえいした文学ぶんがく要求ようきゅうし、仮名草子かなぞうし浮世草子うきよぞうし俳諧はいかい浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきなど、卑近ひきん現実げんじつ世界せかいをこんだ文学ぶんがくしょジャンルがおこった。これらの作品さくひんられる町人ちょうにん性・庶民しょみん性こそ、近世文学きんせいぶんがく隣接りんせつする中世文学ちゅうせいぶんがく近代文学きんだいぶんがくことなるものとして特徴とくちょうづけている。

年代ねんだいひょう江戸えど時代じだい 一七三〇〜一八六八)

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一七三〇頃近松門左衛門ちかまつもんざえもんぼつ竹田出雲たけだいずも活躍かつやく
一七四六*『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』(竹田出雲たけだいずも並木千柳なみきせんりゅう
一七六五柄井川柳からいせんりゅう・『柳多留やなぎだる初版しょはん
一七七五恋川春町こいかわはるまち金々先生栄花夢きんきんせいえいがのゆめ』(黄表紙きびょうし
一七七六上田秋成うえだあきなり雨月物語うげつものがたり』(前期読本ぜんきよみほん
一七八一〜一七八九(天明てんめい天明文学てんめいぶんがく全盛ぜんせい黄表紙きびょうし洒落本しゃれぼん狂歌きょうかさか
一八〇二十返舎一九じっぺんしゃいっく東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』(滑稽本こっけいぼん
一八〇四〜一八三〇(文化ぶんか文政ぶんせい化政文学かせいぶんがく全盛ぜんせい。*曲亭馬琴きょくていばきん南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(一八一四〜)。為永春水ためながしゅんすい春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ』(人情本にんじょうぼん
一八二三頃本居宣長もとおりのりなが玉勝間たまかつま
一八六七大政奉還たいせいほうかん江戸幕府えどばくふ滅亡めつぼう

時期区分じきくぶん

二百六十五ねんという長期ちょうきにわたる近世文学きんせいぶんがくながれは、十八世紀せいきなかばごろを境目さかいめとして、上方かみがた京都きょうと大阪おおさか)を中心ちゅうしんとする前期ぜんきと、江戸えど中心ちゅうしんとする後期こうきとに大別たいべつされる。前期ぜんきはその最盛期さいせいき年号ねんごうをつけて元禄文学げんろくぶんがくばれ、後期こうきはさらにふたつの特色とくしょくある時期じきけられ、天明文学てんめいぶんがく化政文学かせいぶんがくばれる。

元禄文学げんろくぶんがく

元禄げんろく年間ねんかん(一六八八〜一七〇四)を中心ちゅうしんとする時期じき文学ぶんがく俳諧はいかいでは井原西鶴いはらさいかく人間にんげん欲望よくぼう肯定こうていした浮世草子うきよぞうし創始そうしし、浄瑠璃じょうるりでは近松門左衛門ちかまつもんざえもん義理ぎり人情にんじょうたくみにえがいた。松尾芭蕉まつおばしょう俳諧はいかい文学性ぶんがくせいたかめ、近世文学きんせいぶんがく黄金時代おうごんじだいきずいた。

天明文学てんめいぶんがく

田沼意次たぬまおきつぐ権勢けんせいをふるった安永あんえい天明てんめい年間ねんかん(一七七二〜一七八九)は財政ざいせい積極策せっきょくさく商業しょうぎょう繁栄はんえいさせ、余技よぎとして遊戯的ゆうぎてき雰囲気ふんいき江戸えどまちつつんだ。そうしたなかで、おも武士階級ぶしかいきゅう余技よぎとして洗練せんれんされた観察かんさつ表現ひょうげん特色とくしょくとする文学ぶんがくまれ、黄表紙きびょうし洒落本しゃれぼん戯作文学げさくぶんがく花開はなひらいた。

化政文学かせいぶんがく

松平定信まつだいらさだのぶ寛政かんせい改革かいかく弾圧だんあつ戯作文学げさくぶんがくはいったん衰退すいたいしたが、文化ぶんか文政ぶんせい年間ねんかん(一八〇四〜一八三〇)には回復かいふくした。この時期じきおも町人階級ちょうにんかいきゅう文学ぶんがくになとなり、滑稽本こっけいぼん人情本にんじょうぼん合巻ごうかんなどわかりやすいわかりやすいものが主流しゅりゅうとなった。理知的りちてき面白味おもしろみはなくなったが、文学ぶんがく享受きょうじゅ人口じんこう拡大かくだい意味いみしており、近世文学きんせいぶんがく本当ほんとう大衆化たいしゅうかはこの時期じきたといえる。


小説しょうせつ

仮名草子かなぞうし

仮名草子かなぞうしとは、近世きんせい初期しょきおも仮名かなもちいてかれたもので、啓蒙けいもう教訓きょうくん娯楽ごらくなどを目的もくてきとしてつくられ、出版しゅっぱんされた。小説しょうせつ歴史れきしうえでは、中世ちゅうせい御伽草子おとぎぞうし(→p.87)のあとをけ、本格的ほんかくてき近世小説きんせいしょうせつへとつづ橋渡はしわたしの役割やくわりたしており、さまざまな要素ようそのまじった過渡的かとてき性格せいかくをもっている。

おも作品さくひん

代表的だいひょうてき作品さくひんとしては、教訓性きょうくんせいのあらわな鈴木正三すずきしょうさん著作ちょさく随筆ずいひつのスタイルで世相せそう批判ひはんした『如儡子じょらいし』『清水物語しみずものがたり』(朝山意林庵あさやまいりんあん)、著名ちょめい古典こてん伊勢物語いせものがたり』をパロディした『仁勢物語にせものがたり』、御伽草子おとぎぞうしふう恋物語こいものがたり『うらみのすけ』、笑話集しょうわしゅう醒睡笑せいすいしょう』(安楽庵策伝あんらくあんさくでん)、イソップ物語いそっぷものがたり翻訳ほんやくである『伊曾保物語いそほものがたり』、藪医者やぶいしゃ竹斎ちくさいという滑稽こっけい人物じんぶつ主人公しゅじんこうとする『可笑記かしょうき』(如儡子じょらいし)、浮世房うきよぼうという人物じんぶつとおして世相せそうえがく『浮世物語うきよものがたり』(浅井了意あさいりょうい)などがある。

近世小説きんせいしょうせつなが

時代じだい 室町むろまち末〜17世紀せいき 18世紀せいき 19世紀せいき
草子ぞうし読本よみほん 仮名草子かなぞうし浅井了意あさいりょうい 浮世草子うきよぞうし井原西鶴いはらさいかく江島其磧えじまきせき)→前期読本ぜんきよみほん上田秋成うえだあきなり 後期読本こうきよみほん曲亭馬琴きょくていばきん
草双紙くさぞうし 赤本あかほん草双紙くさぞうし 黒本くろほん青本あおほん黄表紙きびょうし恋川春町こいかわはるまち山東京伝さんとうきょうでん 合巻ごうかん柳亭種彦りゅうていたねひこ
洒落本しゃれぼん人情本にんじょうぼん 洒落本しゃれぼん山東京伝さんとうきょうでん 人情本にんじょうぼん為永春水ためながしゅんすい
滑稽本こっけいぼん 滑稽本こっけいぼん十返舎一九じっぺんしゃいっく式亭三馬しきていさんば

●『浮世物語うきよものがたり』(浅井了意あさいりょうい

にすみては、なにはにつけてもしなり。面白おもしろく、一寸いっすんさきはやみなり。なにはにつけても、当座当座とうざとうざらして、つきゆきはな紅葉もみじにうちむかひ、うたみてなぐさみ、手前てまえのすりれもにならず、しずらず(=ふかおもまず)、これをづくるなり。

きていれば、なにごとにつけてもいこともわるいこともある。しかし面白おもしろおかしくごし、さきのことはあまりかんがえず、そのつど気楽きらくつきゆきはな紅葉もみじたのしみ、うたんで気晴きばらしをし、家計かけいくるしくなってもにせず、ふかおもまないでいること—これを「」とづける。

作者さくしゃ

これらの作品さくひん作者さくしゃには、古典的こてんてき教養きょうようゆたかであった公家くげはじめとして、武士ぶし医師いし僧侶そうりょなど幅広はばひろそう人々ひとびとふくまれる。


仮名草子かなぞうし民衆教化みんしゅうきょうか手段しゅだんとして利用りようした僧侶そうりょ儒者じゅしゃ大名だいみょうつかえて話題提供わだいていきょう役目やくめとした御伽衆おとぎしゅう関ヶ原せきがはらたたかいいなどでろくうしなった浪人ろうにん作品さくひん職業しょくぎょうとした俳諧師はいかいしなどがいた。なかでも、作品さくひんしつりょう両面りょうめんにおいて第一人者だいいちにんしゃされるのは浅井了意あさいりょういで、怪異小説集かいいしょうせつしゅう伽婢子とぎぼうこ』や東海道とうかいどう名所案内めいしょあんない東海道名所記とうかいどうめいしょき』などをのこした。

浮世草子うきよぞうし

中世ちゅうせいには仏教的ぶっきょうてき無常観むじょうかん(→p.81)や厭世えんせい思想しそう影響えいきょうけ、現世げんせつらとみる「憂世うきよ」(→p.81)という言葉ことばがあった。しかし近世きんせいになって人々ひとびと太平たいへい謳歌おうかしはじめると、現世げんせは「浮世うきよ」と表現ひょうげんされるような当代とうだい享楽生活きょうらくせいかつ好色こうしょく風俗ふうぞくなどを積極的せっきょくてきげる写実的しゃじつてき風俗小説ふうぞくしょうせつとして登場とうじょうした。

中世ちゅうせいのものを完全かんぜんには払拭ふっしょくしきれなかった過渡的かとてき仮名草子かなぞうしのあとをうけて、しん近世的きんせいてき小説しょうせつがここにはじめて成立せいりつしたことになる。浮世草子うきよぞうし天和てんなねん(一六八二)ごろから天明てんめい年間ねんかんごろまでの百年ひゃくねんちかくのあいだ京都きょうと中心ちゅうしん刊行かんこうされた。

西鶴さいかく作品さくひん

大阪おおさか富裕ふゆう町人まちにんであったといわれる井原西鶴いはらさいかくは、大阪おおさか談林だんりん俳諧師はいかいしとして活躍かつやくし、放奇抜ほうきばつ俳風はいふうをもってらした。宗因そういん西山宗因にしやまそういん没後ぼつごはじめて小説しょうせつをそめ、転合書てんごうしょとして発表はっぴょうしたのが『好色一代男こうしょくいちだいおとこ』(→p.118)である。

好色一代男こうしょくいちだいおとこ』は、世之介よのすけという主人公しゅじんこう一代いちだい好色こうしょく生活せいかつを、五十ごじゅうあまりの年齢ねんれいにわたってえがいた作品さくひんで、出版しゅっぱんされるとつづけて大阪おおさか京都きょうとはんかさねた。以後いご西鶴さいかく好色物こうしょくもの中心ちゅうしん多数たすう作品さくひん発表はっぴょうした。


好色一代男こうしょくいちだいおとこ』は『源氏物語げんじものがたり』や『伊勢物語いせものがたり』などの古典こてんをパロディしながら、当時とうじ好色こうしょく風俗ふうぞくするど観察かんさつもとづいて大胆だいたんかつ清新せいしんえがいた長編小説ちょうへんしょうせつで、好評こうひょうはくした。好色物こうしょくものとしてはほかに、実在じつざい恋愛事件れんあいじけん取材しゅざいしたいつつの短編集たんぺんしゅう好色五人女こうしょくごにんおんな』や、一人ひとりおんな好色こうしょく生活せいかつ転落てんらくあとえがく『好色一代女こうしょくいちだいおんな』などがある。

町人物ちょうにんもの

西鶴さいかく町人まちにん経済生活けいざいせいかつにもつよ関心かんしんせた。どうすれば分限者ぶんげんしゃ金持かねもち)になれるかをあつかったモデル小説しょうせつ日本永代蔵にっぽんえいたいぐら』や、一年いちねん最終日さいしゅうびである大晦日おおみそか悪戦苦闘あくせんくとうするちゅう下層かそうまち人々ひとびとをリアルなつめた『世間胸算用せけんむなさんよう』などがある。

武家義理物語ぶけぎりものがたり雑話物ざつわもの

武家義理物語ぶけぎりものがたり』という武家物ぶけもの諸国しょこく珍談ちんだん奇談きだんあつめた『西鶴諸国ばなしさいかくしょこくばなし』などの雑話物ざつわもの続々ぞくぞく出版しゅっぱんされた。また、没後ぼつご遺稿いこうとして出版しゅっぱんされた作品さくひんなかにも、放蕩ほうとうてに零落れいらくしていく町人まちにん姿すがた淡々たんたんえがいた『西鶴置土産さいかくおきみやげ』、用済ようずみの手紙てがみとおじて人間にんげんこころ真実しんじつるという趣向しゅこうをもつ『万の文反古よろずのふみほぐ』などの傑作けっさくがある。

表現ひょうげん文体ぶんたい

口語文脈こうごぶんみゃく基本きほんにしながら、そのなかに『源氏物語げんじものがたり』『伊勢物語いせものがたり』などの古典こてん謡曲ようきょく表現ひょうげん積極的せっきょくてきみ、俗語ぞくご雅語がごのいりまじった一種いっしゅ独特どくとく詩的してき散文体さんぶんたいとなっているのが西鶴さいかく文章ぶんしょう特徴とくちょうである。


これらは俳諧はいかい連句的れんくてき自由じゆう連想れんそうもとづくものといわれ、難解なんかいめんもあるが、次々つぎつぎ飛躍ひやく展開てんかいしていく自由闊達じゆうかったつ文体ぶんたいは、人間性にんげんせい解放かいほうをうたいげる内容ないよう照応しょうおうして、みごとな効果こうかおさめている。

【『好色一代男こうしょくいちだいおとこ巻一かんいち冒頭ぼうとう
さくらるにひとなげき、つきかぎりありて入佐山いりさやま夢介ゆめのすけにも佐馬さまくにかねほるさとほとりに、浮世うきよことほかになして、色道しきどうふかく名古屋三左なごやさんざ加賀かがはち夢介ゆめのすけななもんひししるしとしてさけにひたり、などいひて、一条通いちじょうどおりり、夜更よふけにはし、あるとき若衆わかしゅ出立いでたち姿すがたをかかへてもどりぬ。またたてかみか。

さくらもすぐにってしまうのにひとなげき、つきやまってしまう、はかないこのあそ仲間なかまたちはななもんひし目印めじるしとしてれ、色道しきどうにふけりさけおぼれ、ごとに一条いちじょうきょう遊廓ゆうかく)へとし、あるとき若衆わかしゅ姿すがたに、またあるとき成人男性せいじんだんせいたてかみえてかけていく姿すがたえがく。

西鶴以後さいかくいご八文字屋本はちもんじやぼん

西鶴さいかく没後ぼつごは、しばらくのあいだ西鶴さいかく影響えいきょうけつつも新味しんみせた作者さくしゃ江島其磧えじまきせきがいた。そのひとつが人間にんげん時代物じだいものであり、ひとつが浮世草子うきよぞうしあたらしいジャンルをくわえた「気質物かたぎもの」であった。気質物かたぎものとは、各種かくしゅ人々ひとびと気質かたぎ性格せいかく・タイプ)をえがいたもので、正徳しょうとくねん(一七一五)かんの『浮世親仁形気うきよおやじかたぎ』をはじめとする「八文字屋形気はちもんじやかたぎものがその代表だいひょうである。

これらの作品さくひんは「八文字屋本はちもんじやぼん」とばれ、通俗的つうぞくてき娯楽小説ごらくしょうせつとしてながさかえたが、西鶴さいかくのような人間観察にんげんかんさつするどさやリアルな表現力ひょうげんりょくはなく、しだいにマンネリしていった。


ていった。ただし、その末期まっきに、のちの読本よみほん作者さくしゃとなる上田秋成うえだあきなり才気さいきせていたことも注目ちゅうもくされる。

読本よみほん

しゅとした草双紙くさぞうし浄瑠璃じょうるりなどのかたりものにたいして、ぶんむことをしゅとしたほん読本よみほんである。上方かみがた登場とうじょうし、のちに中心ちゅうしん江戸えどうつして出版しゅっぱんされた一群いちぐんほん読本よみほんという。上方かみがた中心ちゅうしんとした前期読本ぜんきよみほんと、江戸えど中心ちゅうしんとした後期読本こうきよみほん江戸読本えどよみほん)とにけられる。

前期読本ぜんきよみほん

読本よみほんはじめたとされるのは都賀庭鐘つがていしょうで、知識人ちしきじんあいだ流行りゅうこうしていた中国ちゅうごく白話小説はくわしょうせつ影響えいきょうされた。当時とうじ儒者じゅしゃ医者いしゃなどの知識人ちしきじんが、漢語かんご多用たようした力強ちからづよ文体ぶんたいをもつ短編たんぺん奇談小説集きだんしょうせつしゅう発表はっぴょうした。都賀庭鐘つがていしょうの『英草紙はなぞうし』『繁野話しげのはなし』がその代表だいひょうである。

国学者こくがくしゃになる読本よみほんもあらわれ、建部綾足たけべあやたり和文体わぶんたいの『西山物語にしやまものがたり』をあらわした。そして、賀茂真淵かものまぶち門人もんじんでもある上田秋成うえだあきなり登場とうじょうによって、前期読本ぜんきよみほん完成かんせいされたのである。


上田秋成うえだあきなり

大阪おおさか商家しょうか養子ようしとしてそだち、のちに町医者まちいしゃ転業てんぎょうした秋成あきなりは、明和めいわねん(一七六八)ごろに前期読本ぜんきよみほん代表作だいひょうさくとなる九編きゅうへん怪異小説かいいしょうせつからなる短編集たんぺんしゅう雨月物語うげつものがたり』をき、安永あんえいねん(一七七六)に出版しゅっぱんした。人間性にんげんせい真実しんじつを、怪異かいい出現しゅつげんとおじてみごとにえがしている。晩年ばんねん作品さくひんには秋成あきなり特異とくい歴史観れきしかんたくされた十編じゅっぺん短編たんぺんからなる『春雨物語はるさめものがたり』があるが、秋成あきなり生前せいぜんには出版しゅっぱんされなかった。

表記ひょうき文体ぶんたい和漢わかん古典こてん利用りようし、緊密きんみつげられた文章ぶんしょうである。和漢混交文わかんこんこうぶん基本きほんとして力強ちからづよくもものさびたおもむきをもつその文体ぶんたいは、『雨月物語うげつものがたり』のテーマてーまである怪異かいい出現しゅつげん効果的こうかてき準備じゅんびする役割やくわりたしている。

【『雨月物語うげつものがたり』「浅茅あさじ宿やど」より】
かべにはつたかつらひかかり、にわしののうづしげれば、あきにはならぬらとなりにけり。……(中略ちゅうりゃく)……つまはすでににたるものを、かくらなる宿やどとなりたれば、あやしきおにしてありしかたちせつるにてあるべき。

かべにはつたくずのぼり、にわ篠竹しのだけしげって、あきでもないのに野原のはらのようになってしまった。……(中略ちゅうりゃく)……つまはすでにんでいたものを、こんなにてた宿やどとなったゆえに、あやしいおにけて、その姿すがたせたのであろう。


後期読本こうきよみほん

十九世紀せいきにかかるころから、読本よみほん出版しゅっぱん中心ちゅうしん上方かみがたから江戸えどうつった。その後期読本こうきよみほん基礎きそきずいたのが山東京伝さんとうきょうでんである。京伝きょうでん洒落本しゃれぼん黄表紙きびょうしなどでもすでにれっ作者さくしゃであったが、寛政かんせい改革かいかく出版しゅっぱん取締とりしまり以後いご読本よみほん進出しんしゅつし、後期読本こうきよみほん先駆せんくけとなった。

曲亭馬琴きょくていばきん

京伝きょうでんのあとをい、ついには京伝きょうでんして後期読本こうきよみほん代表作者だいひょうさくしゃとなったのが曲亭馬琴きょくていばきんである。その馬琴ばきんが二十八ねんにわたって執筆しっぴつし、精力せいりょくかたむけて完成かんせいしたのが、九十六巻きゅうじゅうろっかん百六冊ひゃくろくさつから一大長編小説いちだいちょうへんしょうせつ南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』(文化ぶんか十一ねん天保てんぽう十三ねん)である。馬琴ばきんほか作品さくひんには、三大奇書さんだいきしょのひとつといわれる『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』などがある。

作風さくふう

馬琴ばきん読本よみほん特徴とくちょうは、その雄大緻密ゆうだいちみつ構想こうそうささえるために、勧善懲悪かんぜんちょうあく因果応報いんがおうほうという思想しそう駆使くししたところにある。また、作品さくひん合理的ごうりてきてようとした馬琴ばきんは、中国ちゅうごく小説しょうせつの「種史七法則たねしちほうそく」とばれる独自どくじ小説理論しょうせつりろんを『八犬伝はっけんでん』の創作過程そうさくかていなかから確立かくりつしていった。


【『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん二輯にしゅう巻二かんにより】
主従しゅじゅう今更いまさらに、ひめ自殺じさつめあへず、われにもあらで蒼天そうてんを、うちあおぎつつ黒白くろしろに、あれよあれよ、とほどに、さっおとやまおろしの、かぜのまに霊光れいこうは、八方はっぽうのぼる。まさこれ数年すうねんのちひがしやまに、夕月ゆうづきあらわれて、つい里見さとみいえあつまふ、萌芽ほうがはここに開示かいじされたというべき。

主従しゅじゅういまとなってはひめ自殺じさつめることもできず、われわすれてそらあおぎ、おどろきながらあれよあれよとているうちに、さっやまからろすかぜってきた霊光れいこう八方はっぽうのぼった。それが数年すうねんのち八犬士はっけんし夕月ゆうづきともあらわれて里見さとみいえあつまる物語ものがたり萌芽ほうががここに開示かいじされている。

洒落本しゃれぼん

洒落本しゃれぼんは、遊里ゆうり素材そざいに、きゃく遊女ゆうじょとのあそびのさまや、遊里風俗ゆうりふうぞく穿うがつのを主眼しゅがんとした文学ぶんがくである。宝暦ほうれき年間ねんかん(一七五一〜一七六四)ごろ、漢学かんがく知識人ちしきじんになる漢文体かんぶんたい狂文きょうぶんとして発生はっせいしたが、のちに会話体かいわたい洗練せんれんされた精緻せいち描写力びょうしゃりょくをもつ洒落本しゃれぼん定型ていけい確立かくりつされた。田舎老人多田爺いなかろうじんただじじの『遊子方言ゆうしほうげん』によって洒落本しゃれぼん形式けいしきととのい、山東京伝さんとうきょうでんの『通言総籬つうげんそうまがき』『傾城買四十八手けいせいかいしじゅうはって』などの傑作けっさくまれた。しかし、寛政かんせい改革かいかく作品さくひん処罰しょばつされたこともあり、以後いご洒落本しゃれぼんおとろえていった。

滑稽本こっけいぼん

滑稽本こっけいぼんとはわらいを目的もくてきとした小説しょうせつであるが、宝暦ほうれき年間ねんかん発生はっせいした談義本だんぎぼん系統けいとうのものを前期滑稽本ぜんきこっけいぼんといい、かんされた『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ以後いご後期滑稽本こうきこっけいぼんという。

前期滑稽本ぜんきこっけいぼん

下手談義へただんぎ』(宝暦ほうれきねんかん)が先駆さきがけとなった。風来山人ふうらいさんじんの『風流志道軒伝ふうりゅうしどうけんでん』は、奇抜きばつ構想こうそう奔放ほんぽう文体ぶんたいをもつ出色しゅっしょく作品さくひんで、教訓性きょうくんせい風刺ふうしともなった前期ぜんき作品さくひん典型てんけいである。また、静観房好阿じょうかんぼうこうあの『当世とうせい』なども前期ぜんき代表作だいひょうさくとされ、痛烈つうれつ世相せそう風刺ふうし展開てんかいした。

後期滑稽本こうきこっけいぼん

後期滑稽本こうきこっけいぼんは、十返舎一九じっぺんしゃいっくの『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』(享和きょうわねん・一八〇二かん)の出版しゅっぱんをもってはじまりとする。

▼『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ

享和きょうわねん(一八〇二)〜文政ぶんせいねん(一八二二)かん東海道とうかいどうたび十二編じゅうにへんあり(宮嶋参詣みやじまさんけい木曽街道きそかいどうなどのたび舞台ぶたいとなっている)。

しめすために、わざわざ工夫くふうしてかんがした表記法ひょうきほうである。こうした三馬さんば姿勢しせいには、落語らくご浮世物真似うきよものまねなどという当時とうじ話芸はなしげい影響えいきょうおおきいといわれる。

浮世風呂うきよぶろ二編にへん巻之上まきのうえ

〔トよぶ〕(風呂ふろうちよりきたり)(八歳はっさいばかりのおんな門口かどぐち障子しょうじけて)おとつさん、

うま なんだお? なにしに

たつ あのう、はやうおかえりとおいうせへ

うま おつかさんが、おきゃくがあるから、あのう、はやうおかえりと

たつ アイく、いまかえりますあのう

うま なんとぞいまかえりと。うるせへのう

たつ 何処どこへもみちよりをせずに、たたかいまじかにおむかえびおあがりと。うるせへのう

うま けふはね、お手習てならいったじゃあんへか。なんでおかえりだ

たつ 清書双紙せいしょそうしりに

人情本にんじょうぼん

人情本にんじょうぼんは、後期読本こうきよみほんから構成こうせい方法ほうほうを、洒落本しゃれぼんから写実的しゃじつてき風俗描写ふうぞくびょうしゃ会話表現かいわひょうげんれて成立せいりつしたとされる恋愛小説れんあいしょうせつである。おとこ数人すうにん女性じょせいとのあいだ恋愛関係れんあいかんけいを、遊里ゆうり限定げんていせず、情緒的じょうちょてき雰囲気ふんいきなかえがく。代表的だいひょうてき作者さくしゃとして為永春水ためながしゅんすいがいる。『春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ』などの作品さくひんがあるが、天保てんぽう改革かいかく春水しゅんすい風俗ふうぞくみだしたとして処罰しょばつされ、その翌年よくねんぼつしたため、以後いご人情本にんじょうぼん衰退すいたいした。しかし明治時代めいじじだい恋愛小説れんあいしょうせつおおきな影響えいきょうのこした。

▼『春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ

天保てんぽうねん(一八三二)〜天保てんぽうねん(一八三三)かん丹次郎たんじろう許嫁いいなずけ深川芸者ふかがわげいしゃ米八よねはち丹次郎たんじろう愛人あいじん深川芸者ふかがわげいしゃ仇吉あだきちなど三人さんにん女性じょせいが、お家騒動おいえそうどう枠組わくぐみのなかえがかれる。

草双紙くさぞうし

延宝えんぽう年間ねんかん(一六七三〜一六八一)ごろから登場とうじょうした絵本えほん草双紙くさぞうしぶ。時期じきによって装訂そうてい内容ないよう変化へんかした。赤本あかほん子供こどもむきの『舌切雀したきりすずめ』『猿蟹合戦さるかにがっせん』などの民話みんわ童話どうわおおく、黒本くろほん青本あおほん演劇えんげき粗筋あらすじ紹介しょうかいするなど、よりに大人向おとなむきに創作味そうさくみくわえたものへと変化へんかした。

黄表紙きびょうし

安永あんえいねん(一七七五)の恋川春町こいかわはるまちの『金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ以後いご黄表紙きびょうしという。当世とうせい風俗ふうぞく写実的しゃじつてきえがいたこの作品さくひんによって、草双紙くさぞうしまこと大人おとなのための絵本えほんへと変身へんしんしたのである。ぶん相補あいほいつつこうをこらすようになり、山東京伝さんとうきょうでんの『江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき』や芝全交しばぜんこうの『大悲千禄本だいひせんろくぼん』などがまれた。しかし寛政かんせい改革かいかく素材そざいにした黄表紙本きびょうしぼん干渉かんしょうけて後退こうたいし、道徳的どうとくてき心学物しんがくもの敵討物かたきうちものへとうつっていった。

合巻ごうかん

敵討物かたきうちもの流行りゅうこうによって長編化ちょうへんかしたため、何冊なんさつかを合冊がっさつした草双紙くさぞうし作品さくひんとされる。式亭三馬しきていさんばの『雷太郎強悪物語らいたろうごうあくものがたり』が、黄表紙きびょうしから合巻ごうかんへの橋渡はしわたしをしたとされる。代表だいひょう柳亭種彦りゅうていたねひこの『偐紫田舎源氏にせむらさきいなかげんじ』で、将軍しょうぐん家斉いえなり大奥おおおく生活せいかつをとりあつかったとされる。天保てんぽう改革かいかくにおいて処罰しょばつされたが、合巻ごうかんはいよいよ長編化ちょうへんかし、明治初期めいじしょきまで大衆たいしゅうむけのものとして量産りょうさんされた。

俳諧はいかい

俳諧はいかいとは「俳諧はいかい連歌れんが」の略称りゃくしょうであることからもわかるように、中世ちゅうせい連歌れんがなかでさかえた連歌れんがから派生はせいした。即興そっきょう機知きちをもとにした自由じゆう民衆的みんしゅうてき俳諧はいかい連歌れんがが、和歌わか情趣じょうしゅをもとにした貴族的きぞくてき連歌れんがから独立どくりつしたのである。「俳諧はいかい」という言葉ことばは、もともと滑稽こっけい意味いみするものであったように、室町時代むろまちじだいまつ山崎宗鑑やまざきそうかん荒木田守武あらきだもりたけなどによる当初とうしょ俳諧はいかいは、奔放ほんぽう荒削あらけずりな滑稽こっけいをその生命せいめいとしていた。そうしたながれをけて、近世きんせい初期しょき俳諧はいかいまくあけに位置いちし、以後いご俳諧はいかい流行りゅうこうならしをしたのが松永貞徳まつながていとくであった。

俳諧はいかいなが
室町むろまち 江戸初期えどしょき 中期ちゅうき 後期こうき 明治めいじ
俳諧はいかい連歌れんが俳諧はいかい 貞門派ていもんは
松永貞徳まつながていとく保守的ほしゅてき微温的びおんてき御傘おかさ
北村季吟きたむらきぎん
蕉風しょうふう正風しょうふう
松尾芭蕉まつおばしょう俳諧はいかい芸術げいじゅつとして完成かんせい
蕉門しょうもん向井去来むかいきょらい服部土芳はっとりどほう
談林派だんりんは西山宗因にしやまそういん
月並調つきなみちょう
天明てんめい俳諧はいかい与謝蕪村よさぶそん新花摘あらはなつみ』『蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
俳句はいく革新かくしん正岡子規まさおかしき
小林一茶こばやしいっさ『おらがはる

貞門ていもん

京都きょうとんだ貞徳ていとくは、はじめ連歌師れんがし古典的こてんてき教養きょうようゆたかであった。貞徳ていとく新興しんこう文学ぶんがくである俳諧はいかいきいられた一門いちもんを「貞門ていもん」といい、この様式ようしき整備せいび確立かくりつにつとめた。野々口立圃ののぐちりゅうほ松江重頼まつえしげより安原貞室やすはらていしつ北村季吟きたむらきぎんなどをようして全国的ぜんこくてきおおきな勢力せいりょくとなった。貞門ていもん俳諧はいかいをわかりやすく解説かいせつして普及ふきゅうにつとめ、俳諧式目書はいかいしきもくしょに『御傘おかさ』、俳諧集はいかいしゅうに『犬子集えのこしゅう』がある。

たが、俳諧はいかい和歌わか連歌れんがより一段いちだんしたのものとするかんがえからせなかったため、俳諧はいかいみぶりは奔放ほんぽうというよりは保守的ほしゅてき微温的びおんてきになりがちだった。

はなよりも団子だんごやありてかえかり 貞徳ていとく

順礼じゅんれいぼうばかり夏野なつのかな 重頼しげより

これはくとばかりはな吉野山よしのやま 貞室ていしつ

談林だんりん

貞門ていもん連歌れんが見倣みならうことによってはい文学ぶんがくとして認知にんちさせようとしたのにたいし、談林だんりんは「連歌れんがにそむくところをもって連歌れんが権威けんいから徹底てっていして自由じゆうであろうとした」とされるように、題材だいざい用語ようご付句つけくかためんにおいても連歌れんが権威けんいから自由じゆうであろうとした。西山宗因にしやまそういん中心ちゅうしんとする大坂おおさかびとたちの旺盛おうせい経済力けいざいりょく背景はいけいにした、軽妙闊達けいみょうかったつみぶりを特徴とくちょうとし、延宝えんぽう初年しょねん(一六七三)ごろにあらたな勢力せいりょくとして登場とうじょうした。宗因そういん門下もんか西鶴さいかく上島鬼貫うえじまおにつらなどが活躍かつやくした。放埓ほうらつ遊戯化ゆうぎかこころよおもわない人々ひとびともあり、西来山さいらいさん池西言水いけにしごんすい上島鬼貫うえじまおにつらなどはとしての純度じゅんどたか作品さくひんのこした。

しれぬしじみにかかる 宗因そういん

白魚しらうおやさなかのうごく死骸しがいいろ 西鶴さいかく

たこくそはありけり初夜しょやおと 言水ごんすい

ぎやうずみずのすてどころなきむしこゑ 鬼貫おにつら

芭蕉ばしょう

伊賀上野いがうえのまれた松尾芭蕉まつおばしょうは、藩主はんしゅ一族いちぞくである藤堂良忠とうどうよしただ俳号はいごう蝉吟せんぎん)につかえ、北村季吟きたむらきぎん門人もんじんとして貞門ていもんはいった。主君しゅくん没後ぼつご芭蕉ばしょう故郷こきょうはなれ、江戸えどでは談林だんりんつよ影響えいきょうけ、日本橋にほんばし俳諧宗匠はいかいそうしょうとして活動かつどうした。やがてはなやかな市中しちゅうでの生活せいかつきらい、江戸えど郊外こうがい深川ふかがわ芭蕉庵ばしょうあんをかまえ、風雅ふうが沈潜ちんせんするようになった。初期しょきには談林調だんりんちょう遊戯的ゆうぎてき漢詩文調かんしぶんちょう格調かくちょうあるよろこんだ時期じきもあり、晩年ばんねんには『炭俵すみだわら』にられるようなかる指向しこうした。

蕉風しょうふう

芭蕉ばしょう俳風はいふう蕉風しょうふう正風しょうふう)とばれ、門人もんじん去来きょらい凡兆ぼんちょう編集へんしゅうした『猿蓑さるみの』にもっと円熟えんじゅくしたかたちであらわれている。蕉風しょうふう代表だいひょうする美意識びいしきとして〈さびさび〉〈しをりしをり〉〈ほそみほそみ〉がある。さびさびいろとして、主観的しゅかんてき過剰かじょう技巧ぎこうけた境地きょうちす。しをりしをり繊細せんさい余情よじょうを、ほそみほそみはかそけき繊細せんさいさを意味いみし、軽みかるみ主観的しゅかんてき技巧ぎこうて、明確めいかく俳諧美はいかいび定義ていぎしようとした概念がいねんである。

あらなにともなやきのふはてふくとしる (江戸三吟えどさんぎん

さぎむし月下げっかはて穿うがつや (『虚栗みなしぐり』)

はつしぐれさる小蓑こみのをほしげなり (『猿蓑さるみの』)

むめがにのつとぞ山路やまみちかな (『炭俵すみだわら』)

たびんでゆめ枯野かれのをかけめぐ

漂泊ひょうはく紀行文きこうぶん

芭蕉ばしょう俳諧はいかいのありかた模索もさくするためたびき、そのたび途中とちゅう名古屋なごやでできた『ふゆ』は蕉風しょうふう展開てんかい基礎きそをつくった。以後いご風狂精神ふうきょうせいしんにあふれたたびかさねたが、もっと重要じゅうようたび元禄げんろくねん(一六八九)の奥羽おうう北陸ほくりく地方ちほうめぐったたびで、その成果せいか俳文はいぶん中の傑作けっさくとして名高なだかい『おく細道ほそみち』である。こののち江戸えどかえった芭蕉ばしょうは、帰省きせいをかねて上方かみがたふたたたびし、大坂おおさか滞在中たいざいちゅう五十一歳ごじゅういっさい病死びょうしした(元禄げんろくねん・一六九四)。

表現ひょうげん文体ぶんたい

西行さいぎょう宗祇そうぎ杜甫とほなど和漢わかんたび詩人しじん系譜けいふにつながろうとした芭蕉ばしょうは、かれらのさく文章ぶんしょうなかみこみ、独自どくじ詩嘆的していたんてき文章ぶんしょうつくりあげた。したがって紀行文きこうぶんといってもたび忠実ちゅうじつ記録きろくではなく、大幅おおはば虚構きょこうのあることが指摘してきされている。

おく細道ほそみち冒頭ぼうとう

月日つきひ百代はくたい過客かかくにして、きかふとしまた旅人たびびと也。ふねうえ生涯しょうがいをうかべ、うまくちとらへていをむかふるものは、日々ひにちたびにしてたびすみかとす。古人こじんおおたびせるあり。もいつのころか、片雲へんうんかぜにさそはれて、漂泊ひょうはくおもひやまず、……

月日つきひ永遠えいえん旅人たびびとであり、旧年きゅうねんって新年しんねんるというのもたびのようなものだ。ふねうえ一生いっしょうおく船頭せんどうや、毎日まいにちうま世話せわをしながらいていく馬方うまかたも、日々ひにちたびなかんでいる旅人たびびとだ。むかしひとにもたびなかんだひとおおい。わたしもいつのころから、一片いっぺんのちぎれくもかぜにさそわれるように、漂泊ひょうはくおもいがまなくなり……

蕉門しょうもん俳人はいじん

芭蕉ばしょう門下もんか蕉門しょうもんといい、芭蕉ばしょう没後ぼつご、それぞれの資質ししつおうじた活動かつどうをした。向井去来むかいきょらいは『去来抄きょらいしょう』を、服部土芳はっとりどほうは『三冊子さんぞうし』をあらわして蕉風しょうふう俳論はいろんつたえた。蕉門しょうもん最古参さいこさん宝井其角たからいきかく潤達洒脱じゅんたつしゃだつ句風くふうこのみ、都会的とかいてき洗練せんれんされた江戸座えどざ俳諧はいかい極致きょくちともひょうされた。美濃みのでは美濃派みのはばれた各地方かくちほう俳諧はいかいとなって俳諧はいかいひろめていった。

あき風あきかぜやしらゆみつるはらん 去来きょらい

歌書かしょよりも軍書ぐんしょにかなし芳野山よしのやま 其角きかく

天明てんめい俳諧はいかい

芭蕉ばしょう没後ぼつご俳諧はいかいは、大衆化たいしゅうか同時どうじ卑俗化ひぞくかみちあゆみ、文学ぶんがくとしてのせいうしなっていった。天明てんめい年間ねんかん(一七八一〜一七八九)、いわゆる俳諧中興はいかいちゅうこう時代じだいに、京都きょうと与謝蕪村よさぶそんがこの傾向けいこう歯止はどめをかけようとする離俗論りぞくろんとなえ、浪漫的ろうまんてき古典趣味こてんしゅみさくした。また、俳文はいぶん表現ひょうげん極致きょくちともひょうされる尾張おわり横井也有よこいやゆうの『鶴衣つるのきごろも』があらわされた。

また、『春風馬堤曲しゅんぷうばていきょく』や「北寿老仙ほくじゅろうせんをいたむ」は抒情じょじょうにあふれる一種いっしゅ長編自由詩ちょうへんじゆうしで、近代きんだい詩人しじんたちの評価ひょうかたかい。

鳥羽殿とばどの五六騎ごろっきいそぐ野分のわき哉 蕪村ぶそん

ほどみやことうあきそら 蕪村ぶそん

五月雨さみだれやあのよるひそかにまつつき 太祇たいぎ

はつしもやいいあつき朝日和あさびより 蓼太りょうた

幕末ばくまつ俳諧はいかい

中興ちゅうこう諸家しょか相次あいついで芭蕉ばしょう権威化けんいかされ、同時どうじ低俗化ていぞくか進行しんこうした。化政期かせいき(一八〇〇〜一八三〇)ごろから、懸賞けんしょう月並俳諧つきなみはいかい流行りゅうこうしはじめ、千編一律せんぺんいちりつ月並調つきなみちょうともなった遊戯的ゆうぎてき俳諧はいかい量産りょうさんされた。明治めいじになって正岡子規まさおかしきに「天保てんぽう以後のおおむ卑俗陳腐ひぞくちんぷにしてるにへず」と非難ひなんされるような状態じょうたいとなった。

小林一茶こばやしいっさ

家庭的かていてきめぐまれなかった一茶いっさは、わかくして江戸えど奉公ほうこうかたわ俳諧はいかいまなび、西国さいごく行脚あんぎゃしたのち、晩年ばんねん故郷こきょう信州しんしゅう長野ながの)に定住ていじゅうした。一茶いっさ作品さくひんには、生活せいかつ苦労くろう生涯しょうがいうしなうことのなかった農民性のうみんせいざした個性的こせいてきおおく、句集くしゅう『おらがはる』は名高なだかい。

なかくにひとまれてあきくれ

これがまあつひのすみかゆきしゃく

がえるけるな一茶いっさこれにあり

川柳せんりゅう狂歌きょうか

俳諧はいかい並行へいこうして、庶民しょみんあいだには、より遊戯的ゆうぎてき雑体ざったい俳諧はいかい流行りゅうこうした。雑俳ざっぱいにはさまざまな形式けいしきのものがあったが、もっとよろこばれたのが前句付まえくづけという形式けいしきであった。江戸えど柄井川柳からいせんりゅうは、前句付まえくづけ点者てんじゃとして宝暦ほうれき年間ねんかんにデビューし、優秀ゆうしゅう前句付まえくづけ付句つけくを『川柳評万句合せんりゅうひょうまんくあわせ』とだいして編集へんしゅう出版しゅっぱんした。前句まえくがなくても意味いみのわかる面白おもしろ付句つけくのみを本屋ほんやえらんで出版しゅっぱんしたのが『柳多留やなぎだる』である。これ以後いご点者てんじゃ名前なまえ川柳せんりゅうにちなんで、前句付まえくづけから独立どくりつした付句つけくを「川柳せんりゅう」とぶようになった。

川柳せんりゅうは、俳諧はいかい発句ほっくのような季語きご必要ひつようなく、江戸えど市民しみん風俗ふうぞく世相せそう人情にんじょう機微きびたくみに観察かんさつ皮肉ひにくした形式けいしきとして流行りゅうこうした。しかし寛政かんせい改革かいかく以後、しだいに観察かんさつ皮肉ひにくするどさがなくなりマンネリ化していった。

役人やくにんはにぎにぎをよくおぼ

居候いそうろういつもせんべいかしはもち

雨宿あまやどりちょっくとてはれてみる

狂歌きょうか

狂歌きょうかとは、狂体きょうたい和歌わかであり、和歌わか形式けいしき滑稽こっけい内容ないようみこんだものである。『万葉集まんようしゅう』に戯笑歌ぎしょうかがあり、『古今集こきんしゅう』にもこのしゅうた存在そんざいつづけてきたが、近世きんせいになってひとつの独立どくりつしたジャンルとして俳諧はいかいとともに流行りゅうこうした。

上方狂歌かみがたきょうか

真門しんもん俳諧師はいかいしなどによって俳諧はいかいとともに上方かみがた古今ここん俳歌はいかあつめた『古今夷曲集ここんいきょくしゅう』(寛文かんぶん年刊ねんかん)などで狂歌きょうかまれていたが、大坂おおさか永田貞柳ながたていりゅう登場とうじょうによって上方狂歌かみがたきょうか全盛期ぜんせいきむかえ、浪花なにわぶりを提唱ていしょうする専門せんもん狂歌師きょうかしまれた。

天明狂歌てんめいきょうか

江戸えどでの天明狂歌てんめいきょうかは、唐衣橘洲からころもきっしゅう四方赤良よもあから大田南畝おおたなんぽ)・朱楽菅江あけらかんこうなどを中心ちゅうしんに、するど機知きち軽妙洒脱けいみょうしゃだつ作風さくふう特徴とくちょうとした。天明てんめいねん(一七八三)に『万載狂歌集まんざいきょうかしゅう』が出版しゅっぱんされて全盛期ぜんせいきむかえた。文化ぶんか文政期ぶんせいきには都部真顔よしみまがお宿屋飯盛やどやめしもりなどが活躍かつやくしたが、天明てんめいおもむきうしなわれていった。

なかにたえておんなのなかりせばをとのこころのとけかからまし 四方赤良よもあから

うたよみは下手へたこそよけれあめつちのうごしてたまるものかは 四方赤良よもあから

芸能げいのう

浄瑠璃じょうるり

室町むろまち後期こうきに、牛若丸うしわかまる源義経みなもとのよしつね)と浄瑠璃姫じょうるりひめとの「物語ものがたり」が盲目もうもく法師ほうしなどによって、扇拍子おうぎびょうし琵琶びわ伴奏ばんそうかたられていたが、そのかたくちのち一般化いっぱんかして、浄瑠璃じょうるりばれるようになった。

古浄瑠璃こじょうるり かたものとしての浄瑠璃じょうるりに、琉球りゅうきゅう渡来とらい三味線しゃみせん結合けつごうして、近世きんせい初期しょき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり成立せいりつした。ふつう、義太夫節ぎだゆうぶし以前いぜんのものを古浄瑠璃こじょうるりとよび、以後いごのものを新浄瑠璃しんじょうるりとよぶ。古浄瑠璃こじょうるりにはさまざまな流派りゅうはがあったが、土地柄とちがらにより、江戸えどでは勇壮ゆうそう金平節きんぴらぶし流行りゅうこうし、京都きょうとでは優美ゆうびひめとのこいあつか浄瑠璃じょうるり流行りゅうこうし、大坂おおさかでは宇治加賀掾うじかがのじょう嘉太夫節かだゆうぶしがもてはやされた。

義太夫節ぎだゆうぶし 宇治加賀掾うじかがのじょう門人もんじんであった竹本義太夫たけもとぎだゆうは、貞享じょうきょうねん(一六八四)に道頓堀どうとんぼり竹本座たけもとざもうけて浄瑠璃界じょうるりかい制覇せいはし、作者さくしゃ近松門左衛門ちかまつもんざえもんむかえて人気にんきはくした。

近松門左衛門ちかまつもんざえもん

竹本座たけもとざ座付ざつき作者さくしゃとなった近松ちかまつは、貞享じょうきょうねん(一六八六)以後いご浄瑠璃じょうるり傑作けっさく数多かずおおんだ。近松ちかまつ作品さくひんは、〈時代物じだいもの〉と〈世話物せわもの〉のふたつにけることができる。時代物じだいもの演劇化えんげきかをおしすすめる作品さくひんで、歴史上れきしじょう事件じけん伝説でんせつ取材しゅざいした時代劇じだいげきであり、初演しょえん代表作だいひょうさくは『出世景清しゅっせかげきよ』である。

出世景清しゅっせかげきよ』のほか、『国性爺合戦こくせんやかっせん』などがある。

●〈世話物せわもの

世話物せわものとは、当時とうじ実際じっさいこった事件じけんなどを脚色きゃくしょくした現代物げんだいもので、元禄げんろく十六ねん(一七〇三)に『曾根崎心中そねざきしんじゅう』を上演じょうえんして以後いご、『冥途めいど飛脚ひきゃく』『心中天しんじゅうてん網島あみじま』『女殺油地獄おんなごろしあぶらのじごく』などをいた。これらは、義理ぎり人情にんじょう葛藤かっとうえがいてたか評価ひょうかされている。こうした近松ちかまつ浄瑠璃観じょうるりかんは、穗積以貫ほづみいかんの『難波土産なにわみやげ』に虚実皮膜論きょじつひにくろんとしてかれている。

●〈表現ひょうげん文体ぶんたい

つぎげるのは、『曾根崎心中そねざきしんじゅう』の「道行みちゆき」である。その主人公しゅじんこうお初おはつ徳兵衛とくべえこころかい道行みちゆき冒頭部ぼうとうぶで、ながれるような七五調しちごちょう美文びぶん叙景じょけい抒情じょじょう一体いったいとなってりこまれ、ものもの陶然とうぜんとさせる魅力みりょくそなえた名文めいぶんとなっている。

この名残なごり名残なごりをたとへば、あだしみちかすみ一足ひとあしづつにえてく、ゆめこそあはれなれ。あれかずふればあかつきの、ななつのときむつり、のこひとつが今生こんじょうの、かねひびききをさめ、寂滅為楽じゃくめつゐらくひびくなり。

口語訳こうごやく〕このわかれをげることになり、よるもまた名残なごりおしい。たとえていえば、あだしみちかすみのようなもの。一歩いっぽずつえてゆめのようで、ああ、なんとはかないことか。かずえてみればけようとするあかつきななどきかねり、のこひとつが今生こんじょうかねおさめ、「ねば安楽あんらく」とひびく鐘の

全盛ぜんせい不振ふしん

近松ちかまつ提携ていけいした竹本座たけもとざおくれて、おな道頓堀どうとんぼり豊竹座とよたけざひらかれた。以後いご、この竹本たけもと豊竹とよたけ二座にざきそって、近松ちかまつ座付ざつき作者さくしゃとなって活躍かつやくした。

享保きょうほう中期ちゅうきから宝暦ほうれきはじめにかけて人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり全盛期ぜんせいきむかえた。近松ちかまつ没後ぼつご竹本座たけもとざ座元ざもとであった二世竹田出雲にせいたけだいずも豊竹座とよたけざ並木宗輔なみきそうすけらが活躍かつやくした。かれらの合作がっさくによる『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』(延享えんきょうねん初演しょえん)・『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』(延享えんきょうねん初演しょえん)・『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』(寛延かんえんねん初演しょえん)などの名作めいさくまれた。しかし、十八世紀せいき後半こうはんには不振期ふしんきはいり、明和めいわ年間ねんかんには豊竹座とよたけざ廃座はいざとなった。

歌舞伎かぶき

歌舞伎かぶき」という言葉ことばは、異様いようなりをして常識じょうしきはずれの行動こうどうをするという意味いみの「かぶくかぶくかたむく)」という動詞どうし連用形れんようけい名詞化めいしかしたもので、自由奔放じゆうほんぽう時代精神じだいせいしん背景はいけいにして発生はっせいしたのである。

出雲いずも阿国おくに 慶長けいちょうはじめ、出雲大社いずもたいしゃ巫女みこという阿国おくにが、京都きょうとで「かぶきおどり」をおどったのが歌舞伎かぶきはじまりという。阿国おくにむね十字架じゅうじかこし瓢箪ひょうたんをつけて京都きょうとおどったとされる。

阿国歌舞伎おくにかぶき 幕府ばくふ禁止きんしにあい、つい各地かくち女歌舞伎おんなかぶきまれたが、承応じょうおうねん(一六五二)に幕府ばくふ禁止きんしした。その少年しょうねん役者やくしゃによる若衆歌舞伎わかしゅかぶきまれたが、これもおな理由りゆう禁止きんしされた。この成人せいじんおとこ役者やくしゃによる野郎歌舞伎やろうかぶきになり、容貌ようぼう魅力みりょくからげいちからによって観客かんきゃくをひきつけるというてんで、しだいに芸能げいのうとして成立せいりつしていった。

元禄歌舞伎げんろくかぶき 上方かみがたでは元禄げんろくになると歌舞伎かぶき急速きゅうそく発展はってんし、げきとして内実ないじつそなえるようになった。和事わごと坂田藤十郎さかたとうじゅうろう活躍かつやくし、近松門左衛門ちかまつもんざえもん藤十郎とうじゅうろうのために脚本きゃくほんいた。江戸えどでもまた、荒事あらごと初代市川団十郎しょだいいちかわだんじゅうろう活躍かつやくし、しだいに自由奔放じゆうほんぽう時代精神じだいせいしん反映はんえいした芸能げいのうとして確立かくりつしていった。

語注
和事わごと荒事あらごと 「和事わごと」は、歌舞伎かぶき男女だんじょ恋愛れんあい場面ばめんなどをえんじる演技えんぎ演出えんしゅつ。「荒事あらごと」は武人ぶじん鬼神きじんなどの豪快ごうかい場面ばめん演技えんぎ

団十郎だんじゅうろう和事わごと中村七三郎なかむらしちさぶろうなどの名優めいゆうがあらわれ、人気にんきはくした。しだいに脚本きゃくほん整備せいびされはじめ、歌舞伎かぶきにも演劇えんげき的な展開てんかいちこまれはじめた。複雑ふくざつすじ展開てんかい人間性にんげんせいえがくというてん注目ちゅうもくされはじめた。

浄瑠璃じょうるりとの交流こうりゅう

近松ちかまつ海音かいおん登場とうじょうによって、浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきよりも一歩いっぽさきんじていた。そのため、歌舞伎かぶき全盛期ぜんせいきむかえた浄瑠璃じょうるり圧倒あっとうされた。しかし、十八世紀せいき後半こうはん浄瑠璃じょうるり不振期ふしんきはいると、ふたた歌舞伎かぶき復興ふっこう時期じき到来とうらいした。大坂おおさか歌舞伎かぶき作者さくしゃ並木正三なみきしょうざは、浄瑠璃じょうるり作品さくひん影響えいきょうをうけて歌舞伎かぶき複雑ふくざつすじをもちこみ、大道具おおどうぐ舞台装置ぶたいそうち改良かいりょうし、観客かんきゃく期待きたいにこたえた。

江戸歌舞伎えどかぶき

並木正三なみきしょうざ門下もんか並木五瓶なみきごへいは、正三しょうざのあとをうけて上方かみがた歌舞伎かぶき作者さくしゃ第一人者だいいちにんしゃになったが、寛政かんせいねん(一七九四)に江戸えどくだり、上方かみがた写実的しゃじつてき作風さくふうちこんだ。石川五右衛門いしかわごえもん主役しゅやくとする『金門五山桐きんもんごさんのきり』などの傑作けっさくがある。江戸えど生粋きっすい作者さくしゃ桜田治助さくらだじすけ活躍かつやくした。

鶴屋南北つるやなんぼく

文化ぶんか文政期ぶんせいき(一八〇四〜一八三〇)は江戸えど歌舞伎かぶき爛熟期らんじゅくきで、この時期じき代表だいひょうする作者さくしゃ四世よんせい鶴屋南北つるやなんぼくである。上方かみがた写実的しゃじつてき作風さくふうをうけて、生世話物きぜわものばれ、封建社会ほうけんしゃかい底辺ていへんきる人々ひとびとえがいた奇抜きばつ趣向しゅこう作品さくひんられる。代表作だいひょうさくに『東海道四谷怪談とうかいどうよつやかいだん』がある。

退廃たいはいあく色彩しきさい濃厚のうこう作品さくひんは、文化ぶんか文政期ぶんせいき世相せそう反映はんえいして好評こうひょうをもってむかえられた。

河竹黙阿弥かわたけもくあみ

南北なんぼく没後ぼつご、あとにつづ作者さくしゃがなく、一とき江戸えど歌舞伎界かぶきかい沈滞ちんたいしたが、幕末ばくまつ安政あんせいごろから明治めいじにかけて、河竹黙阿弥かわたけもくあみ活躍かつやくし、江戸歌舞伎えどかぶき最後さいごはなかせた。盗賊とうぞく題材だいざいとした白浪物しらなみもの得意とくいとし、『青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえ』などの作品さくひんがよくられている。文体ぶんたいは、七五調しちごちょう流麗りゅうれいなせりふがリズミカルりずみかるながつらなる阿弥調あみちょうばれ、この音楽性おんがくせい観客かんきゃく魅了みりょうした。

三人吉三廓初買さんにんきちさくるわのはつがい二幕目にまくめ

お嬢おじょうつきおぼろ白魚しらうおかがりかすむはるそら、つめてえかぜもほろ心持こころもちかとか〔りゃく〕ほんに今夜こんや節分せつぶんか、西にしうみよりかわなかちた夜鷹よたか厄落やくおとし、まめ沢山たくさんに〔りゃく〕こいつあはるから縁起えんぎがいいわえ。」

歌謡かよう

近世きんせい初頭しょとうには、一節切ひとよぎり伴奏ばんそうにした隆達りゅうたつ流行りゅうこうしたが、近世歌謡きんせいかよう三味線しゃみせんむすびつくことで浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきふかくかかわりながら展開てんかいしてきた。近世きんせい前期ぜんきでは、『まつ』に集大成しゅうたいせいされているように隆達小歌りゅうたつこうた前代ぜんだいつづいて流行りゅうこうした。遊里ゆうり展開てんかいとともに上方かみがたでは豊後節ぶんごぶしまれ、その分派ぶんぱである常盤津節ときわずぶし清元節きよもとぶしなどが相次あいついで派生はせい隆盛りゅうせいほこった。

語注ごちゅう
白浪物しらなみもの 盗賊とうぞく主人公しゅじんこうとする歌舞伎かぶき狂言きょうげん総称そうしょうして白浪物しらなみものという。盗賊とうぞくを「白浪しらなみ」とぶことから。
生世話物きぜわもの 歌舞伎かぶき世話物せわもののうち、写実的しゃじつてき傾向けいこうつよいもの。

これらの遊里歌謡ゆうりかよう系統けいとう劇場歌謡げきじょうかよう系統けいとうとの交流こうりゅうがさかんになり、さまざまな曲節きょくぶしがあらわれて庶民しょみん愛唱あいしょうされた。また後期こうきには、民謡みんよう都会とかいひろがり、全国的ぜんこくてき流行歌りゅうこうかとなっていった。

話芸はなしげい

江戸えど時代じだいには、話芸はなしげいによって人々ひとびと娯楽ごらく提供ていきょうする文学ぶんがく舌耕文芸ぜっこうぶんげいぶ。話芸はなしげいにはおおきくけてふたつの系統けいとうがある。ひとつは、現在げんざい講談こうだんつうじる課釈かしゃく談義だんぎ系統けいとうで、もうひとつは、現在げんざい落語らくごつうじる笑話しょうわおとばなし系統けいとうである。

笑話しょうわ

近世きんせい初期しょきには貴人きじん徒然つれづれなぐさめるための談笑だんしょうであったが、町人まちびと階級かいきゅう台頭たいとうするにつれて出版しゅっぱんされるようになった。元禄げんろくになると鹿野武左衛門かのぶざえもんらが活躍かつやくし、江戸えどでは仕形咄しかたばなしまねで話術わじゅつみが話家はなしか輩出はいしゅつした。こうした笑話しょうわ軽口本かるくちぼんばれ、『鹿巻筆まきふで』や『つゆがはなし』などが出版しゅっぱんされた。明和めいわ安永あんえいごろになると、江戸えど狂歌師きょうかし中心ちゅうしん簡潔かんけつ洒脱しゃだつ軽口本かるくちぼん流行りゅうこうした。そのなかから職業的しょくぎょうてき落語家らくごか輩出はいしゅつし、烏亭焉馬うていえんば中心ちゅうしんはなしかいひらくようになった。幕末ばくまつには、この口演こうえんさかんになった。

講釈こうしゃく

近世きんせい以前いぜんからおこなわれていたというが、近世きんせいになって街頭がいとうでの民衆みんしゅう相手あいて辻講師つじこうし登場とうじょうし、はなし工夫くふうをこらして寄席よせえんずるようになった。素材そざい太平記たいへいき読み(p.82ぺーじはちじゅうに)をはじめとし、当時とうじ評判ひょうばん仇討あだうちやお家騒動おいえそうどうなど、いわゆる実録じつろく小説しょうせつげられるようになった。

語注ごちゅう
舌耕ぜっこう 僧侶そうりょ買経ばいきょう故事こじにより、した田畑たはたたがやして生活せいかつするのではなく、した生計せいけいるの

和歌わか漢詩文かんしぶん

和歌わか国学こくがく

近世きんせい初期しょき歌壇かだんは、中世ちゅうせい以来の伝統的でんとうてき歌学かがく継承けいしょうする、いわゆる堂上歌人どうじょうかじん公卿くぎょう歌人かじん)が中心ちゅうしんであった。中院通勝なかのいんみちかつ三条西実枝さんじょうにしさねき古今伝授こきんでんじゅをうけて歌壇かだんおもきをなした細川幽斎ほそかわゆうさいは、烏丸光広からすまるみつひろ松永貞徳まつながていとくなどおおくの歌人かじんそだてた。この歌人かじんとして異彩いさいはなつのは木下長嘯子きのしたちょうしょうしで、自由じゆう清新せいしんうたんだ。

さとれてつばめならびしうつばり古巣ふるすさやかにらす月影つきかげ 木下長嘯子きのしたちょうしょうし

元禄げんろく和歌革新わかかくしん古典研究こてんけんきゅう

元禄げんろくになると、地下じげ位階いかい官職かんしょくのないひと)の歌人かじんたちのあいだから、和歌わか伝統的でんとうてき権威けんいから解放かいほうしようとする和歌革新わかかくしんうごきが活発かっぱつになった。江戸えど戸田茂睡とだもすい堂上歌学どうじょうかがく痛烈つうれつ批判ひはんし、武士ぶしをやめ隠士いんしとして大坂おおさかんでいた下河辺長流しもこうべちょうりゅうは、『梨本集なしもとしゅう』をあらわ万葉集まんようしゅう研究の糸口いとぐちをひらいた。長流ちょうりゅう親友しんゆうであったそう契沖けいちゅうは、長流ちょうりゅう研究けんきゅうけつぎ、文献学的ぶんけんがくてき実証的じっしょうてき古典研究こてんけんきゅう方法ほうほう確立かくりつした。『万葉代匠記まんようだいしょうき』をあらわし、史的してきかなづかいの確立かくりつにおいてもだいきな功績こうせきのこした。また『和字正濫鈔わじしょうらんしょう』もその仕事しごととしてられる。

国学の流れ
契沖けいちゅう万葉代匠記まんようだいしょうき』『和字正濫鈔わじしょうらんしょう
荷田春満かだのあずままろ歌集かしゅう春満集はるみしゅう』、国学こくがく確立かくりつ
賀茂真淵かものまぶち万葉考まんようこう』、「まつらをぶりまつらをぶり」を提唱ていしょう
本居宣長もとおりのりなが古事記伝こじきでん』『源氏物語玉げんじものがたりたま小楠おぐし』、「もののあはれ」を提唱ていしょう
平田篤胤ひらたあつたね復古神道ふっこしんとう提唱ていしょう

国学こくがく成立せいりつ

京都きょうと伏見稲荷ふしみいなり神官しんかん荷田春満かだのあずままろは、契沖けいちゅう学問がくもん精神せいしん影響えいきょうけ、古典研究こてんけんきゅうつうじて儒教じゅきょう仏教ぶっきょう渡来とらいする以前いぜん古代日本こだいにほん精神せいしんあきらかにしようとかんがえた。これが国学こくがくである。この国学こくがくは、春満あずままろ門人もんじん賀茂真淵かものまぶちによって確立かくりつされた。真淵まぶちはとくに「まつらをぶりまつらをぶり」という万葉調まんようちょう歌風かふう提唱ていしょうした。一門いちもんには伊勢松坂いせまつさか田安宗武たやすむねたけ加藤千蔭かとうちかげ村田春海むらたはるみなどの歌人かじんがいた。

本居宣長もとおりのりなが

宣長のりなが真淵まぶちもんり、真淵まぶち国学研究こくがくけんきゅう徹底てってい深化しんかさせた。とくに「古事記こじき研究けんきゅうちからくし、三十余年よねんをかけて『古事記伝こじきでん』を完成かんせいした。また王朝文学おうちょうぶんがくこのんだ宣長のりながは、『源氏物語玉げんじものがたりたま小楠おぐし』をあらわし、物語ものがたり本質ほんしつを「もの の あはれ」(→ p.50)ととらえた。一門いちもん鈴屋派すずのやはというが、古代精神こだいせいしん日本精神にほんせいしん追求ついきゅう実証研究じっしょうけんきゅう方向ほうこう平田篤胤ひらたあつたね継承けいしょう伴信友ともののぶともらにうけつがれていった。

あきのほがらくとあめはら月影つきかげかりなきわたる 賀茂真淵かものまぶち

p133

隅田川すみだがわつつみにたちてふねまでは水上みなかみ遠くくほとときす(加藤千蔭かとうちかげ

とまりふねこけのしずくのえて夜半よわのしぐれをやまざくらはな村田春海むらたはるみ

敷島しきしま大和心やまとごころひとはば朝日あさひにほやまざくらはな本居宣長もとおりのりなが

蘆庵ろあん景樹かげき

近世きんせい後期こうきになると、堂上派どうじょうは勢力せいりょくつよ京都きょうとでも、和歌わか革新かくしんうごきがこった。小沢蘆庵おざわろあんは、『古今集こきんしゅう』をもとに「ただごとうた」をとなえ、つづいて香川景樹かがわかげきは「しらべのせつ」を主張しゅちょうし、実情じつじょう天地てんち自明じめいもうとした。景樹かげき一門いちもん桂園派けいえんはといい、熊谷直好くまがいなおよしらが大勢力だいせいりょくとなった。

幕末ばくまつ歌人かじん

県門あがたもん桂園けいえんながれとはべつに、幕末ばくまつには各地かくち個性的こせいてき歌人かじん輩出はいしゅつした。天真爛漫てんしんらんまんうたんだ越後えちご良寛りょうかん奔放ほんぽうこいうた特色とくしょくある橘曙覧たちばなのあけみ、その時代じだい特色とくしょくをみせる備前びぜん平賀元義ひらがもとよしおっととの別離べつりののちは仏門ぶつもん陶器とうきをひさいで清純せいじゅんうたんだ大田垣蓮月おおたがきれんげつなど、各地かくち個性的こせいてきにすぐれた歌人かじんられる。

子供こどもらと手毬てまりつきつつこのさとあそ春日はるひれずともよし

たのしみはまれさかな児等こらがうましひてとき

いもでて若菜わかなつみにし岡崎おかざき垣根かきねこひしき春雨はるさめ

漢詩文かんしぶん儒学じゅがく

初期しょき漢詩文かんしぶん朱子学しゅしがく

江戸幕府えどばくふ封建制ほうけんせいささえる思想しそうとして、儒学じゅがくなかでも道徳どうとくおもんじる朱子学しゅしがく官学かんがく採用さいようし、家康いえやす朱子学者しゅしがくしゃ林羅山はやしらざんしかかえた。道徳どうとく実践じっせんおもんじる学風がくふうでは、漢詩文かんしぶん儒者じゅしゃ余技よぎにすぎなかったが、時代じだいすすむにつれて朱子学者しゅしがくしゃなかから文学ぶんがくをよくするものがあらわれ、木下順庵きのしたじゅんあん門下もんか新井白石あらいはくせき室鳩巣むろきゅうそうなどすぐれた文学ぶんがくのこした。とくに白石はくせきには「おりたくしば」という興味深きょうみぶか自伝じでんがある。また初期しょきにおいては、もと武士ぶしながら隠遁いんとんした石川丈山いしかわじょうざんや、僧侶そうりょとなった元政げんせいのような、儒者じゅしゃ以外の詩人しじん作品さくひん注目ちゅうもくされる。

古学こがく流行りゅうこう文人ぶんじん登場とうじょう

元禄げんろくになると、京都きょうとでは町人ちょうにん出身しゅっしん儒者じゅしゃ伊藤仁斎いとうじんさいが、人間にんげんへのあい古義学こぎがくとなえた。江戸えどではすこおくれて荻生徂徠おぎゅうそらいが、儒学じゅがく政治せいじ制度せいどがくとしてとらえなおし、「論語ろんご」など儒教じゅきょう書物しょもつ思想しそう根本こんぽんくことを主張しゅちょうした(古文辞学こぶんじがく)。これらは古学こがく総称そうしょうされ、一せい風靡ふうびし、国学こくがく成立せいりつにも刺激しげきあたえた。古学派こがくは人情にんじょうおもんじ、文学ぶんがく道徳どうとくとはべつ価値かちみとめた。

p135

徂徠そらいもん服部南郭はっとりなんかくはその代表者だいひょうしゃである。このような格調かくちょうおもんじる詩風しふう格調派かくちょうはんだ。

だいよる 黒水こくすい(=隅田川すみだがわ)をくだ

やまくら江口こうこうつきかぶ、金龍きんりゅうながらぐ
扇舟せんしゅうとどままらずみずごとく、両岸りょうがん秋風あきかぜ一洲いっしゅうくだ

清新せいしん大衆化たいしゅうか

十八世紀せいき後半こうはんになると、唐詩とうし模倣もほうにあきたりない傾向けいこう顕著けんちょになった。文化ぶんか文政ぶんせい(一八〇四〜一八三〇)には、自己じこ真情しんじょう率直そっちょく平易へいい表現ひょうげんしようとする性霊派せいれいはうごきが完全かんぜん定着ていちゃくし、漢詩人口かんしじんこう急激きゅうげき増加ぞうかした。都市としだけでなく地方ちほうにもおおきくひろがり、多数たすう漢詩集かんしゅう出版しゅっぱんされた。柏木如亭かしわぎじょてい大窪詩仏おおくぼしぶつ菊池五山きくちござんなどがおり、市河寛斎いちかわかんさいのひきいた江湖詩社こうこしさぞくした詩人しじん地方ちほう遊歴ゆうれきしてあたらしい詩風しふうひろめた。

個性的こせいてき詩人しじんたち

地方ちほうでは、備後びんご菅茶山かんちゃざん豊後ぶんご広瀬淡窓ひろせたんそうなどが、じゅくひらきながら田園生活でんえんせいかつんだすぐれたさくのこした。頼山陽らいさんよう広島藩ひろしまはん朱子学者しゅしがくしゃ頼春水らいしゅんすいだが、京都きょうと詩人しじん文人ぶんじんとして活躍かつやくし、歴史れきしきとえがいた「日本外史にほんがいし」(文政ぶんせい年間ねんかん成立せいりつ)をあらわした。幕末ばくまつ江戸えど玉池吟社ぎょくちぎんしゃひらいた梁川星巌やながわせいがんは、幕末ばくまつ維新いしん志士しし鼓舞こぶした詩人しじんで、星巌せいがんつま紅蘭こうらん優秀ゆうしゅう女流じょりゅう漢詩人かんしじんとして活躍かつやくした。

狂詩きょうし流行りゅうこう

和歌わかには狂歌きょうか俳諧はいかいには川柳せんりゅうがあるように、漢詩かんしには狂詩きょうしがある。滑稽こっけい内容ないようんだり皮肉ひにくをこんだりする狂詩きょうし漢詩かんし形式けいしきによって流行りゅうこうした。江戸えど寝惚先生ねぼけせんせいこと大田南畝おおたなんぽや、京都きょうと銅脈先生どうみゃくせんせいこと畠中観斎はたけなかかんさいの「太平楽府たいへいがくふ」が名高なだかい。

近世文学きんせいぶんがくのポイント・チェック

仮名草子かなぞうし

江戸えど初期しょき進歩しんぽした木版印刷もくはんいんさつによって普及ふきゅうした。

浮世草子うきよぞうし

西鶴さいかく描写びょうしゃしたのがはじまり。

読本よみほん

江戸えどちゅう後期こうき流行りゅうこうした小説しょうせつ

滑稽本こっけいぼん

遊里ゆうり風俗ふうぞくてた滑稽小説こっけいしょうせつ

草双紙くさぞうし

人情本にんじょうぼん

恋愛小説れんあいしょうせつ

俳諧はいかいなが

貞門ていもん松永貞徳まつながていとく)→ 談林だんりん西山宗因にしやまそういん)→ 蕉風しょうふう松尾芭蕉まつおばしょう)→ 天明俳諧てんめいはいかい与謝蕪村よさぶそん)→ 幕末ばくまつ小林一茶こばやしいっさ

芸能げいのう浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶき

和歌わか国学こくがく

漢詩文かんしぶん儒学じゅがく