考題索引

中世ちゅうせい文学ぶんがく

平家物語絵巻へいけものがたりえまきだん浦合戦うらかっせん

中世ちゅうせい文学ぶんがく概観がいかん

年代ねんだいひょう鎌倉時代かまくらじだい 一一九二〜一三三三)

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一一九二源頼朝みなもとのよりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなる(鎌倉幕府成立かまくらばくふせいりつ
一二〇〇ごろ建礼門院右京大夫集けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう(このころ)
一二〇一〜道元どうげん曹洞宗そうとうしゅうひろめる
一二一二方丈記ほうじょうき鴨長明かものちょうめい
一二三五ごろ百人一首ひゃくにんいっしゅ新勅撰集しんちょくせんしゅう藤原定家ふじわらのていか
十三世紀じゅうさんせいき前半ぜんはん平治物語へいじものがたり平家物語へいけものがたり十三世紀半じゅうさんせいきなかばころまでに成立せいりつ
一二五三日蓮にちれん法華宗ほっけしゅうひら
一二五四ごろ古今著聞集ここんちょもんじゅう構成こうせい)このころ
一二七四文永ぶんえいえき元寇げんこう開始かいし
一二七六ごろ一遍いっぺん時宗じしゅうひら
一二七七ごろ十六夜日記いざよいにっき阿仏尼あぶつに)このころ
一二八一弘安こうあんえき元寇げんこう終了しゅうりょう
一二八三ごろ沙石集しゃせきしゅう無住むじゅう)このころ
一三三一〜徒然草つれづれぐさ兼好法師けんこうほうし、このころ)
一三三三鎌倉幕府滅亡かまくらばくふめつぼう

時代区分じだいくぶん背景はいけい

源頼朝みなもとのよりとも鎌倉かまくら幕府ばくふ開設かいせつし、征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなった建久けんきゅうねん(一一九二)あたりから、徳川家康とくがわいえやす天下てんか統一とういつし、江戸えど幕府ばくふひらいた慶長けいちょうねん(一六〇三)あたりまで、およそ四百年間およそよんひゃくねんかん中世ちゅうせいぶ。鎌倉かまくら南北朝なんぼくちょう室町むろまち安土桃山あづちももやま各時代かくじだいふくまれる。

文化史的ぶんかしてきにいえば、鎌倉時代かまくらじだい貴族階級きぞくかいきゅう没落ぼつらくと、それにかわる武士階級ぶしかいきゅう台頭たいとうというおおきなながれとしてとらえられる。社会しゃかい成長せいちょう指摘してきすることができ、地方的ちほうてき民衆的みんしゅうてきなものとの対立たいりつ融合ゆうごうがさまざまなかたち如実にょじつしめされている。

思想しそう美意識びいしき深化しんか

源平げんぺいあらそいから戦国時代せんごくじだいまで、うちつづ内乱ないらん下克上げこくじょう世相よそうは、人々ひとびと現実社会げんじつしゃかいへの批判ひはん過去かこ歴史れきしへの関心かんしんたかめさせた。戦乱せんらんげた「平家物語へいけものがたり」や「太平記たいへいき」など多数たすう軍記物語ぐんきものがたりつくられた。「愚管抄ぐかんしょう」など歴史論れきしろんにふれる文学ぶんがく登場とうじょうしてきた。

また、王朝文化おうちょうぶんかへの憧憬しょうけいとして、和歌わか伝統でんとう中世ちゅうせいとおじてほぼまもつづけられ、「建礼門院右京大夫集けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう」や「とはずがたり」のように宮廷きゅうてい舞台ぶたいとした女房日記にょうぼうにっきかれ、「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」は王朝和歌おうちょうわか掉尾とうびかざった。平安へいあん物語ものがたり模倣もほうした擬古物語ぎこものがたりおおつくられた。世阿弥ぜあみ代表だいひょうされる幽玄ゆうげん世界せかい中世ちゅうせい美意識びいしきひとつといえる。

また、不安ふあん日常生活にちじょうせいかつ背景はいけいあたらしい仏教ぶっきょう誕生たんじょうをうながし、法語ほうごという宗教文学しゅうきょうぶんがく成立せいりつと、求道ぐどう主題しゅだいとした仏教説話集ぶっきょうせつわしゅうくり返くりかえ著述ちょじゅつされた。出家遁世しゅっけとんせいというかたち現実社会げんじつしゃかい拒否きょひし、離脱りだつした人々ひとびとおおく、「方丈記ほうじょうき」や「徒然草つれづれぐさ」のような優れたすぐれた随筆ずいひつした。

年代ねんだいひょう南北朝なんぼくちょう安土桃山時代あづちももやまじだい 一三三三〜一六〇三)

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一三三三鎌倉幕府滅亡かまくらばくふめつぼう
一三三四建武けんむ新政しんせい
一三三六〜室町幕府むろまちばくふ時代じだい開始かいし
一三三九神皇正統記じんのうしょうとうき北畠親房きたばたけちかふさ
一三四〇ごろ〜太平記たいへいき(このころ成立せいりつ
一三四六〜菟玖波集つくばしゅう二条良基にじょうよしもと
一三七五ごろ観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみのう大成たいせい
一三九〇ごろ風雅集ふうがしゅう(このころ)
一四〇〇ごろ御伽草子おとぎぞうし(このころ)
一四六七応仁おうにんらんはじまる
一四七二ごろ金閣寺造営きんかくじぞうえい北山文化きたやまぶんか
一四八八水無瀬三吟百韻みなせさんぎんひゃくいん宗祇そうぎら)
一四八九ごろ銀閣寺造営ぎんかくじぞうえい東山文化ひがしやまぶんか
一四九五新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう宗祇そうぎ
一五一八閑吟集かんぎんしゅう
一五三九ごろ守武千句もりたけせんく荒木田守武あらきだもりたけ)このころ
一五四九*キリスト教伝来きょうでんらい(フランシスコ・ザビエル)
一五九二伊曽保物語いそほものがたり天草版あまくさばん)このころ
一六〇〇関ヶ原せきがはらたたかい
一六〇三徳川家康とくがわいえやす江戸えど幕府ばくふひら

文芸ぶんげい地方化ちほうか庶民化しょみんか

和歌わか余技よぎとしてはじまった連歌れんがは、この時期じき庶民しょみんあいだでも流行りゅうこうし、田楽でんがく猿楽さるがく狂言きょうげん見物みものができるおおきなひろがりをせた。連歌師れんがしたちが戦乱せんらんけて地方ちほう下向げこうし、地方ちほう文化水準ぶんかすいじゅん向上こうじょうおおきな役割やくわりたした。また、各地かくち戦国大名せんごくだいみょうまねかれるようになった。文学ぶんがく題材だいざい制作せいさく享受きょうじゅがすべてのめん庶民しょみんからみやこ京都きょうと)をふくおおきなひろがりをもった。

宇治拾遺物語うじしゅういものがたり・「海道記かいどうき」・「東関紀行とうかんきこう」などの説話文学せつわぶんがく世界せかいに、地方社会ちほうしゃかい民衆社会みんしゅうしゃかい様相ようそうは、新鮮しんせん印象いんしょうをもってまれた。庶民社会しょみんしゃかい成長せいちょうおおきな影響力えいきょうりょくをもって発展はってんしつつあった地方社会ちほうしゃかい様相ようそうは、庶民文芸しょみんぶんげい隆盛りゅうせいへとつながっていく。

かたり〉の影響えいきょう

平家物語へいけものがたり」は琵琶びわわせてかたられていた。「曽我物語そがものがたり」「義経記ぎけいき」などかたられることは、この時期じき特色とくしょくで、詞章ししょうめんでもちろんのこと、文字もじが〈かたり〉へとむかっていた。幸若舞こうわかまい説経節せっきょうぶしの「かたり」は、近世きんせい浄瑠璃じょうるり源流げんりゅうとなった。庶民しょみんなか愛好あいこうされていた小歌こうたも、庶民文芸しょみんぶんげい成立せいりつ受容じゅようとして重要じゅうようであった。庶民階級しょみんかいきゅうにまでひろがった読者層どくしゃそうおおきな影響力えいきょうりょくをもって貴族きぞく武将ぶしょうたちのあいだ愛好あいこうされていた幸若舞こうわかまい説経節せっきょうぶしの「かたり」は、近世きんせい浄瑠璃じょうるり源流げんりゅうとなった。

隠遁生活いんとんせいかつ感慨かんがいをしるしたすぐれた隠者文学いんじゃぶんがくかれた。それらは、無常むじょう無常むじょうとしての美意識びいしき基調きちょうとして、うつりゆくもの、めつびゆくもののうつくしさ—中世文学ちゅうせいぶんがくおおきな特色とくしょくといえる。歌論かろん能楽論のうがくろんなど理論りろん的な色彩しきさいつよ著述ちょじゅつがなされるようになっていることも、注目ちゅうもくすべきことで、これらの風潮ふうちょう無関係むかんけいではない。

和歌わか連歌れんが

和歌わか

平安時代へいあんじだい末に藤原俊成ふじわらとしなり(→p.42)によって主導しゅどうされたあたらしい和歌わかへのうごきは、その藤原定家ふじわらのさだいえ、あるいは藤原家隆ふじわらのいえたか新進歌人しんしんかじん継承けいしょうされ、発展はってんしていく。京都朝廷きょうとちょうてい武家政権ぶけせいけんである鎌倉幕府かまくらばくふつよ対抗意識たいこういしきをもっていた後鳥羽院ごとばいんは、伝統的でんとうてき和歌わか積極的せっきょくてき推進すいしんした。「十五百番歌合せんごひゃくばんうたあわせ」などを開催かいさいし、みずからも有力ゆうりょく歌人かじん一人ひとりとして活躍かつやくした。

歌風かふう

初句切しょっくぎれ・三句切さんくぎれ・体言止たいげんどめなどの手法しゅほう多用たようし、言葉ことばこすうつくしいイメージや余情よじょう最大限さいだいげん発揮はっきさせようとした。また「伊勢物語いせものがたり」や「源氏物語げんじものがたり」の世界せかいをふまえたうたなどがおおく、象徴的しょうちょうてき物語的ものがたりてき傾向けいこうつよい。それは、複雑ふくざつ現実社会げんじつしゃかい拒否きょひし、社会しゃかいへのつよ思慕しぼもとづくものであった。また、本歌取ほんかどりとか、象徴的しょうちょうてき情趣じょうしゅ的な傾向けいこうつよい。

藤原定家ふじわらのさだいえなかでも藤原定家ふじわらのさだいえは、ちち俊成としなりとなえた「幽玄ゆうげん」をさらにすすめ、妖艶ようえん有心うしん詩境しきょうざし、夢幻むげん的・唯美ゆいび的な和歌わか数多かずおおのこした。今調いまちょうともばれるこの歌風かふうは、「古今集こきんしゅう以来いらい王朝おうちょう極致きわみともいえるもので、以後いご文学ぶんがくおおきな影響えいきょうあたえた。

語注ごちゅう
本歌取ほんかどり=有名ゆうめい古歌ふるうた物語ものがたり言葉ことば表現ひょうげんれて、重層的じゅうそうてき構造こうぞうをもたせる趣向しゅこう手法しゅほう
妖艶ようえん=こののものとはおもえないようなあやしいうつくしさ。
有心うしん艶美えんび情趣じょうしゅこころふかくこらすこと。また、それによってかもしされるうつくしさ。

鎌倉かまくら第三代だいさんだい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともは、北条氏ほうじょうし執権しっけんによって政治せいじからはとおざけられていたが、藤原定家ふじわらのさだいえから歌論書かろんしょ近代秀歌きんだいしゅうか」をおくられるなどして京文化きょうぶんかつよ関心かんしんをもっていた。ひがし土地とちにあって、新古今調しんこきんちょうから力強ちからづよ万葉調まんようちょううたのこした。短命たんめい悲劇的ひげきてき生涯しょうがいなかですぐれたうたのこした。その家集かしゅう金槐和歌集きんかいわかしゅう」は、正岡子規まさおかしき斎藤茂吉さいとうもきちなどにたか評価ひょうかされた。

万葉集まんようしゅう古今集こきんしゅう新古今集しんこきんしゅう比較ひかく

万葉集まんようしゅう 古今集こきんしゅう 新古今集しんこきんしゅう
巻数かんすう 二十かん 二十かん 二十かん
歌数かずかず やくせん五百しゅ やく千百余しゅ やくせんしゅ
成立せいりつ 奈良時代ならじだい 延喜えんぎねん(九〇五) 元久げんきゅうねん(一二〇五)
撰者せんじゃ 大伴家持おおとものやかもち中心ちゅうしん 紀友則きのとものり紀貫之きのつらゆき凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみね 源通具みなもとのみちとも藤原有家ふじわらのありいえ藤原定家ふじわらのさだいえ藤原家隆ふじわらのいえたか藤原雅経ふじわらのまさつね寂蓮じゃくれん
おも歌人かじん 額田王ぬかたのおおきみ柿本人麻呂かきのもとのひとまろ山上憶良やまのうえのおくら山部赤人やまべのあかひと 六歌仙ろっかせん在原業平ありわらのなりひら小野小町おののこまち僧正遍昭そうじょうへんじょうら) 後鳥羽院ごとばいん西行さいぎょう藤原定家ふじわらのさだいえ式子内親王しきしないしんのう宮内卿くないきょう
語調ごちょう 五七調ごしちちょう 七五調しちごちょう 三句切さんくぎれ・初句切しょっくぎ
修辞しゅうじ 枕詞まくらことば序詞じょことば縁語えんご 掛詞かけことば縁語えんご本歌取ほんかど 体言止たいげんどめ・本歌取ほんかどり・縁語えんご

十三代集じゅうさんだいしゅう

新古今集しんこきんしゅう」の成立せいりつ後、歌壇かだん活動かつどう低下ていかしていく。藤原定家ふじわらのさだいえによって「新勅撰和歌集しんちょくせんわかしゅう」がえらばれるが、「新古今集しんこきんしゅう」の唯美的ゆいびてき妖艶ようえん歌風かふうとはちがって、平淡へいたん典雅てんが歌風かふうしめし、これが以後いご勅撰集ちょくせんしゅう基本的きほんてき方向ほうこうとなった。

定家さだいえあとは、その為家ためいえ為氏ためうじ二条家にじょうけ)・為教ためのり京極家きょうごくけ)・為相ためすけ冷泉家れいぜいけ)が対立たいりつ三家さんけわかかれた。おりしも皇室こうしつ持明院統じみょういんとう大覚寺統だいかくじとうとの対立たいりつからうことになった。「新勅撰集しんちょくせんしゅう」の歌風かふう主流しゅりゅうとする二条派にじょうは歌壇かだん主流しゅりゅうとなったが、革新的かくしんてき歌風かふう追求ついきゅうした京極為兼きょうごくためかね京極派きょうごくは)は「玉葉和歌集ぎょくようわかしゅう」と「風雅和歌集ふうがわかしゅう」をえらぶ。自然観照しぜんかんしょうてっした京極派きょうごくは歌風かふうは、南北朝時代なんぼくちょうじだい室町時代むろまちじだい前期ぜんきいたるまで影響えいきょうあたつづけた。こうして、八代集はちだいしゅう(→p.41)のあとにつづ十三代集じゅうさんだいしゅう成立せいりつした。

語注ごちゅう
持明院統じみょういんとう大覚寺統だいかくじとう後深草天皇ごふかくさてんのう皇統こうとう亀山天皇かめやまてんのう皇統こうとう十三世紀じゅうさんせいき後半こうはんから両統りょうとう交互こうご天皇てんのう地位ちいにつくようになり、この対立たいりつ以後いご南北朝なんぼくちょう内乱ないらんにまでちこされた。

十三代集じゅうさんだいしゅう一覧(巻数かんすうはすべて二十かん

集名しゅうめい成立せいりつ撰者せんじゃ
新勅撰集しんちょくせんしゅう文暦ぶんりゃく二(一二三五)藤原定家ふじわらのさだいえ
続後撰集ぞくごせんしゅう建長けんちょう三(一二五一)藤原為家ふじわらのためいえほか
続古今集ぞくこきんしゅう文永ぶんえい二(一二六五)藤原基家ふじわらのもといえほか
続拾遺集ぞくしゅういしゅう弘安こうあん六(一二八三)藤原為氏ふじわらのためうじほか
新後撰集しんごせんしゅう嘉元かげん元(一三〇三)二条為世にじょうためよほか
玉葉集ぎょくようしゅう嘉暦かりゃく元(一三二六)京極為兼きょうごくためかね
続千載集ぞくせんざいしゅう正和しょうわ五(一三一六)二条為世にじょうためよほか
続後拾遺集ぞくごじゅいしゅう嘉暦かりゃく元(一三二六)→延文えんぶん三(一三五八)二条為定にじょうためさだほか
風雅集ふうがしゅう貞和じょうわ五(一三四九)光厳院こうごんいん
新千載集しんせんざいしゅう貞治じょうじ三(一三六四)二条為定にじょうためさだほか
新拾遺集しんしゅういしゅう応安おうあん四(一三七一)二条為明にじょうためあきほか
新後拾遺集しんごじゅいしゅう明徳めいとく三(一三九二)二条良基にじょうよしもと堯孝ぎょうこうほか
新続古今集しんぞくこきんしゅう永享えいきょう三(一四三一)飛鳥井雅世あすかいまさよ

南北朝なんぼくちょう室町時代むろまちじだい和歌わか

室町時代むろまちじだいになると、南朝なんちょう人々ひとびと悲哀ひあい実感じっかんをこめてうたわれるようになった。また、宗良親王むねながしんのうえらによる「新葉和歌集しんようわかしゅう」がまれる。貴族きぞくよりも武家ぶけ僧侣そうりょのものとなり、冷泉派れいぜいは武将歌人ぶしょうかじん今川了俊いまがわりょうしゅんとその門下もんか正徹しょうてつ活躍かつやくした。

正徹しょうてつ藤原定家ふじわらのさだいえつよ意識いしきし、余情よじょう妖艶ようえん新古今調しんこきんちょうへと復帰ふっき主張しゅちょうした。しかし、古今伝授こきんでんじゅのように和歌わかはしだいに形式けいしき偏重へんちょうするようになり、政治的せいじてき陰謀いんぼうによって持明院統じみょういんとう伏見院ふしみいん花園院はなぞのいん配流はいる左遷させんされるなど、歌壇かだん最後さいご勅撰集ちょくせんしゅう新続古今和歌集しんぞくこきんわかしゅう」の編纂へんさんまくじた。

歌論かろん

和歌わか隆盛りゅうせいは、歌人かじん和歌わかへの批評意識ひひょういしきたかめるようになり、詩作しさく上の心得こころえ技法ぎほうなどについて歌論書かろんしょというかたちでまとめられるようになった。後鳥羽院ごとばいんの「後鳥羽院御口伝ごとばいんごくちでん」、鴨長明かものちょうめいの「無名抄むみょうしょう」、藤原定家ふじわらのさだいえの「近代秀歌きんだいしゅうか」「毎月抄まいつきしょう」などが注目ちゅうもくされる。

連歌れんが

連歌れんがは、和歌わかかみ五七五としも七七を唱和しょうわのしかた(い)をたのしむ文芸ぶんげいである。「万葉集まんようしゅう」にそのれいがあり、「金葉集きんようしゅう」(→p.41)においてはじめて勅撰集ちょくせんしゅうもうけられるようになった。これは五七五・七七の二から短連歌たんれんがであったが、平安時代へいあんじだい末期まっきになって五七五・七七・五七五・七七と数句すうく以上いじょうくさりのようにつづける長連歌ちょうれんが鎖連歌くさりれんが)がつくられるようになった。

無心連歌むしんれんが有心連歌うしんれんが

鎌倉時代かまくらじだいになると、和歌わか余技よぎ余興よきょうとして藤原定家ふじわらのさだいえなどが連歌れんが愛好あいこうし、連歌会れんがかい後鳥羽院ごとばいん御所ごしょなどでひらかれるようになった。滑稽こっけいしゅとする*無心連歌むしんれんが和歌的わかてき情趣じょうしゅむ*有心連歌うしんれんがかれていたが、有心連歌うしんれんが中心ちゅうしんになった。

鎌倉かまくら後期こうきには*地下じげ武士ぶし僧侶そうりょ一般庶民いっぱんしょみんあいだにもひろまり、さくらはなした連歌れんがおこなうのが庶民しょみん遊楽ゆうらく娯楽ごらくひとつとしておおいに発展はってんした。田楽でんがく猿楽さるがく(→p.97)をたのしみ、さくらはなしたい、連歌れんがおこなうというのが庶民しょみん娯楽ごらくひとつとしておおきく発展はってんした。

語注ごちゅう
無心連歌むしんれんが滑稽こっけいしゅとする軽妙けいみょう連歌れんが。*有心連歌うしんれんが和歌的わかてき情趣じょうしゅ優美ゆうび格調かくちょうある連歌れんが
地下じげ堂上とうしょうたいして、昇殿しょうでんゆるされない身分みぶんもの一般庶民いっぱんしょみんのこと。
菟玖波つくば=「古事記こじき」のなかで、倭建命やまとたけるのみこと御火焼翁みひたきのおきないかけて唱和しょうわした場所ばしょ地名ちめい。ここから連歌れんがを「つくばの道みち」とぶようになった。

連歌れんが完成かんせい

室町時代むろまちじだいはいると、梵灯庵主ぼんとうあんじゅ、その弟子でし宗砌そうぜい、さらには心敬しんけいなどすぐれた連歌れんが作家さっかがあらわれた。「えん」「ひょえ」「さび」「ひとりごと」「おいのくりごと」などの理念りねん追求ついきゅうし、その著書ちょしょさざめごと」のなかですぐれた芸術論げいじゅつろんべている。

五山文学ごさんぶんがく

漢詩文かんしぶん影響えいきょうけた和漢聯句わかんれんくなどもおこなわれるようになり、連歌れんがからはなれる傾向けいこうてきた。鎌倉時代かまくらじだい末から室町時代むろまちじだいにかけて、五山ごさん禅寺ぜんじ中心ちゅうしん漢詩かんし漢文かんぶんさかえた。京都きょうと鎌倉かまくら五山ごさん禅僧ぜんそう主要しゅようになとなり、義堂周信ぎどうしゅうしん絶海中津ぜっかいちゅうしん大成たいせいした。義堂ぎどうの「空華集くうげしゅう」、絶海ぜっかいの「蕉堅稿しょうけんこう」が代表的だいひょうてき詩文集しぶんしゅうである。

心敬しんけいのあとをうけて、連歌れんが完成かんせいさせたのが宗祇そうぎである。高弟こうてい肖柏しょうはく宗長そうちょうおこなった『水無瀬みなせぎん百韻ひゃくいん』が連歌百韻れんがひゃくいん(百句から成る連歌)の最高の傑作けっさくとされる。有心うしん理想りそうとし、東常縁とうのつねよりから古今伝授こきんでんじゅをうける。明応めいおう四年(一四九三)連歌撰集れんがせんしゅう新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう』をへんじる。諸国を漂泊ひょうはくし、西行さいぎょうかがみとした。「古今集こきんしゅう」「源氏物語げんじものがたり」などの古典こてん越後えちご上杉氏うえすぎし山口やまぐち大内氏おおうちしなどに講義こうぎし、連歌文化れんがぶんか地方ちほうひろめた。箱根はこねに没した。

水無瀬みなせぎん百韻ひゃくいん」から(ひょう八句)

  1. ゆきながらやまもとかすむゆうべかな  宗祇そうぎ発句ほっく
  2. みずとほくうめにおいにほふ  肖柏しょうはく脇句わきく
  3. 川風かわかぜに一むら柳むらやなぎはるみえて  宗長そうちょう第三句だいさんく
  4. ふねさすおともしるきあけかた  宗祇そうぎ第四句だいよんく
  5. つきやなほきりわたるのこるらん  肖柏しょうはく第五句だいごく
  6. しもおく野辺のべあきれけり  宗長そうちょう第六句だいろっく
  7. なくむしこころともなくくさかれて  宗祇そうぎ第七句だいしちく
  8. 垣根かきねをとへばあらはなるみち  肖柏しょうはく第八句だいはっく

俳諧連歌はいかいれんが

俳諧はいかいとは「おどけ」「たわむれ」を意味いみする言葉ことばで、鎌倉時代かまくらじだい庶民しょみん余興よきょうとして俳諧はいかい連歌れんがたのしまれていた。宗祇そうぎ以後の連歌れんが純正連歌じゅんせいれんが規則きそくにしばられて形式化けいしきかするにつれて、庶民しょみんわらいや機知きち反映はんえいした俳諧連歌はいかいれんが流行りゅうこうしてきた。

竹馬狂吟集ちくばきょうぎんしゅう』(一四九九年成立せいりつ)・山崎宗鑑やまざきそうかんの『犬筑波集いぬつくばしゅう』(一五三二〜)などが有名ゆうめいで、それらはやがて近世きんせい俳諧はいかいへとつながっていくことになる。

語注ごちゅう
和漢聯句わかんれんく連歌れんが前句まえく漢詩かんしの一句をとしてつらねていくもの。
純正連歌じゅんせいれんが俳諧はいかい連歌れんがたいする言葉ことばで、卑俗ひぞくをきらい、芸術げいじゅつ的な方向ほうこうをめざした連歌れんが

物語ものがたり説話せつわ

物語ものがたり

擬古物語ぎこものがたり

りつつあった王朝社会おうちょうしゃかいをあこがれ、なつかしむ気持きもちはつよく、鎌倉時代かまくらじだいはいってからも、宮廷社会きゅうていしゃかい模倣もほう題材だいざいとした物語ものがたり数多かずおおつくられた。が、そのほとんどが「源氏物語げんじものがたり」などの影響えいきょうをうけた擬古物語ぎこものがたりとよばれるものにとどまっていた。擬古物語ぎこものがたりとしてられる作品さくひんかずあるが、現存げんそんするものはわずかである。現存げんそんする作品さくひんには「住吉物語すみよしものがたり」「今とりかへばやいまとりかへばや」「石清水物語いわしみずものがたり」などがあり、宮廷物語きゅうていものがたり舞台ぶたい題材だいざい趣向しゅこう工夫くふうせている。宮廷社会きゅうていしゃかい恋愛れんあい題材だいざいとしたこれらの物語ものがたり和歌わかは「風葉和歌集ふうようわかしゅう」に多くおさめられている。

軍記物語ぐんきものがたり

平安時代へいあんじだい後半こうはんかれた「将門記しょうもんき」「陸奥話記むつわき」は、漢文体かんぶんたいで、記録性きろくせいつよいものであるが、鎌倉時代かまくらじだいはいると、素材そざい文体ぶんたいあたらしい魅力みりょくがあり、軍記物語ぐんきものがたりとしておおくの作品さくひんつくられた。

軍記物語ぐんきものがたりなが
平安へいあん鎌倉かまくら室町むろまち
将門記しょうもんき九四〇年きゅうひゃくよんじゅうねんごろ以後)
陸奥話記むつわき(一〇五八年ごろ)
軍記物語ぐんきものがたり先駆せんく
保元物語ほうげんものがたり(一二世紀せいきなかばごろ)
平治物語へいじものがたり(一二世紀せいきなかばごろ、原型げんけい
平家物語へいけものがたり(一三世紀せいきごろ)
源平盛衰記げんぺいせいすいき(一三世紀せいきまつ、「平家へいけ」の異本いほん
太平記たいへいき(一四世紀せいきなかばごろ)
義経記ぎけいき(一四世紀せいき後半こうはんごろ)
曾我物語そがものがたり
保元物語ほうげんものがたり平治物語へいじものがたり

保元ほうげん平治へいじらん取材しゅざいした「保元物語ほうげんものがたり」「平治物語へいじものがたり」がつくられた。平安末期へいあんまっきこったふたつのらんは、新興しんこう武士階級ぶしかいきゅう武力ぶりょく時代じだい勝敗しょうはい左右さゆうすることを意味いみし、あたらしい武士ぶし時代じだい到来とうらいげるものであった。

保元物語ほうげんものがたり」では、々しく奮戦ふんせんする敗軍はいぐん勇将ゆうしょう源為朝みなもとのためとも敗走はいそう逃避行とうひこうなどが、印象深いんしょうぶかえがかれている。「平治物語へいじものがたり」では、敗死はいしした源義朝みなもとのよしとも愛人あいじん常盤ときわとそのたちの苦難くなんちた逃避行とうひこうなどが、印象深いんしょうぶかえがかれている。

いずれも作者さくしゃ未詳みしょうだが、十三世紀せいきなかばごろには原型げんけい成立せいりつしている。文章ぶんしょう力強ちからづよ和漢混交文わかんこんこうぶん(→p.82)である。

保元物語ほうげんものがたり巻中かんちゅう白河殿攻しらかわどのせとすこと

為朝ためともれい先細さきほそにつきはなちたる射放いはなつに、さしあたる志保見五郎しほみごろうくびんとしけるに、志保見しほみきっとはんとくびをうちふりたれども、矢垣やがきこそすこしあがりたれど、かぶと鉢付はちつけあたりたるもをむかず。くびかぶとにていてうちかづき、をもってかたにうちかづきてぞちたる。

口語訳こうごやく為朝ためともさきすすんできた志保見五郎しほみごろうくびさだめ、志保見しほみをよけようとしてくびをかしげたが、矢垣やがきこそすこがっただけで、かぶと鉢付はちつけたったれず。くびかぶと通されたまま(志保見しほみは)をかぶってかたをうちかづき、よろよろとちていったのだ。

平家物語へいけものがたり

内容ないよう〉 作者さくしゃ未詳みしょう。十三世紀せいきなかばごろには原型げんけい成立せいりつか。

平家一門へいけいちもん栄華えいがきわめ、清盛きよもり太政大臣だいじょうだいじんにまで栄達えいたつするが、専横せんおうはげしく、清盛きよもり熱病ねつびょう病没びょうぼつ義仲よしなかをはじめとして諸国しょこく源氏げんじはやくも反平家はんへいけうごきがこる。源頼朝みなもとのよりとも木曾義仲きそよしなか決起けっきがつづき、義仲よしなか驚異的きょういてき進撃しんげきまえに、平家へいけ京都きょうとてて都落みやこおちする。

横暴おうぼう義仲よしなかぐん人心じんしんることができず、頼朝よりとも代官だいかん源義経みなもとのよしつねやぶれ、義仲よしなか討死うちじににする。平家へいけは、一ノ谷いちのたに屋島やしま義経よしつね天才的てんさいてき軍略ぐんりゃくによって大敗たいはいし、ついに壇ノ浦だんのうら滅亡めつぼうする。

このような平家一門へいけいちもん興亡こうぼう歴史れきしかたられるなかに、清盛きよもり寵愛ちょうあいうしなった祇王ぎおう高倉天皇たかくらてんのうちょうながら清盛きよもり圧迫あっぱくおそれて嵯峨野さがの隠棲いんせいした小督こごう一門いちもん滅亡後めつぼうご大原おおはら隠棲いんせいした建礼門院徳子けんれいもんいんとくこなどの、女性じょせいたちのかなしい物語ものがたりりこまれている。仏教的ぶっきょうてき無常観むじょうかんもとづきながらも、勇壮ゆうそう合戦かっせんうつくしくえがかれている。礼門院徳子れいもんいんとくこなど、女性じょせいたちのかなしみをまえにして、物語ものがたりりこまれている。

成立せいりつ文体ぶんたい〉 原型げんけいは十三世紀せいきなかばごろには成立せいりつしていたとかんがえられる。おおくのかたによってくりかえ改訂かいてい増補ぞうほがくりかえされ、鎌倉末期かまくらまっきごろ成立せいりつか。琵琶法師びわほうしかたとしてかたひろめ、読者どくしゃてさらに洗練せんれんされた。その異本いほんとして「源平盛衰記げんぺいせいすいき」がある。文章ぶんしょうは、漢語かんご和語わご仏教語ぶっきょうご俗語ぞくご自由じゆうりこんだ和漢混交文わかんこんこうぶん(→p.82)でつづられており、全体ぜんたいとしてうつくしく調和ちょうわし、壮大そうだい物語ものがたり世界せかいつくげている。軍記物語ぐんきものがたり白眉はくび

平家物語へいけものがたり関係年表かんけいねんぴょう
おも出来事できごと
保元ほうげん元(一一五六)保元ほうげんらん平清盛たいらのきよもり源義朝みなもとのよしとも
平治へいじ元(一一五九)平治へいじらん崇徳上皇すとくじょうこうやぶ
仁安にんあん三(一一六八)平清盛たいらのきよもり太政大臣だいじょうだいじんになる
安元あんげん三(一一七七)安元あんげん大火たいか
治承じしょう四(一一八〇)以仁王もちひとおうらん源頼朝みなもとのよりとも木曾義仲きそよしなか挙兵。後鳥羽院ごとばいん誕生
治承じしょう五(一一八一)清盛きよもりぼつ
寿永じゅえい三(一一八三)木曾義仲きそよしなか入京。平家へいけ都落みやこおち。福原ふくはらへの遷都せんと
元暦げんりゃく元(一一八四)宇治川うじがわたたかい。義仲よしなか敗死はいし一ノ谷いちのたにたたか
文治ぶんじ元(一一八五)壇ノ浦だんのうらたたかい。平家へいけ滅亡めつぼう
建久けんきゅう(一一九〇〜)後白河院ごしらかわいん崩御ほうぎょ大原御幸おおはらごこう建礼門院けんれいもんいん
建暦けんりゃく(一二一一〜)保元物語ほうげんものがたり」「平治物語へいじものがたり原型成立げんけいせいりつ
十三世紀せいきなか平家物語へいけものがたり原型成立げんけいせいりつ

中世文学ちゅうせいぶんがく代表的だいひょうてき作品さくひんで、後世こうせい謡曲ようきょく御伽草子おとぎぞうし浄瑠璃じょうるりなどにおおくの素材そざい提供ていきょうしている。

平家物語へいけものがたり巻一かんいち祇園精舎ぎおんしょうじゃ

祇園精舎ぎおんしょうじゃかねこえ諸行無常しょぎょうむじょうひびききあり。娑羅双樹さらそうじゅはないろ盛者必衰じょうしゃひっすいのことわりをあらはす。おごれるひとひさしからず、ただはるゆめのごとし。たけきものついにはほろびぬ、ひとえかぜまえちりおなじ。

口語訳こうごやく)インドの祇園精舎ぎおんしょうじゃかねおとは、すべてのものはつね変化へんかし、永久不変えいきゅうふへんのものはひとつもないという(諸行無常しょぎょうむじょうの)ひびききをっている。娑羅双樹さらそうじゅはないろは、さかえたものかならおとろえるという道理どうりあらわしている。おごりたかぶったひともそれがながくはつづかず、ただはるゆめのようにはかない。勇猛ゆうもうだったものついにはほろびてしまう、まったくかぜまえちりおなじ(はかなさである)。

平家物語へいけものがたり巻九かんく木曾きそ最期さいご

木曾殿きそどのただ粟津あわづ松原まつばらへかけたまふが、正月しょうがつ二十一日、入相いりあいばかりのことなるに、薄氷うすごおりのはりたりけり。深田ふかたありともらずして、うまをざっとうちいれたれば、うまかしらえざりけり。今井いまい行方ゆくえのおぼつかなさにりあふぎたまへるところに、三浦みうら石田いしだ次郎じろう為久ためひさつかけてよってびてひやうふとる。痛手いたでなれば、真向まむきうまかしらてて、うつぶしたまへるところに、石田いしだ郎等ろうどうにんひて、つひに木曾殿きそどのくびをとってんげり。

口語訳こうごやく木曾義仲きそよしなかただ粟津あわづ松原まつばらへかけられたが、正月しょうがつ二十一日の夕暮ゆうぐれどき入相いりあいのころ)のことで、薄氷うすごおりっていた。深田ふかたともらずにうまいきおいよくれたので、うまかしらえなくなってしまった。今井兼平いまいかねひら行方ゆくえになってかえられたところに、石田いしだ次郎じろう為久ためひさいかけてきてひょうとた。(それが)いたきずだったのでむきうまかしらにうなだれられたところに、石田いしだ郎等ろうどうにんって、ついに木曾殿きそどのくびをとってしまったのだった。

語注ごちゅう
無常観むじょうかん万物ばんぶつつね変化へんかし、永久不変えいきゅうふへんのものはひとつもないという仏教ぶっきょうかんがかた。とりわけ、ひと恋人こいびととの離別りべつ建物たてもの荒廃こうはいなどが人々ひとびと無常むじょうつよ意識いしきさせた。

太平記たいへいき

作者さくしゃ未詳。十四世紀せいきなかばごろには原型げんけい成立せいりつか。

内容ないよう

後醍醐ごだいご天皇てんのう北条ほうじょう討伐とうばつ陰謀いんぼうはじまり、建武けんむ新政しんせいとその破綻はたん新田にった義貞よしさだ足利あしかが尊氏たかうじ対立たいりつ抗争こうそうから足利あしかが幕府ばくふ成立せいりつ南北朝なんぼくちょう内乱ないらん中心ちゅうしん公家くげ大名だいみょう武士ぶしものなど複雑ふくざつ時代じだい相をえがき、足利あしかが義満よしみつのところでわる。「平家物語へいけものがたり」の「盛者必衰じょうしゃひっすい」のような統一とういつ的な視点してんられないが、政道せいどう世相せそうへの批判ひはんがなされていることは見落みおとせない。公家くげ武士ぶしなど複雑ふくざつ人間にんげん像をリアルにとらえている。

成立せいりつ文体ぶんたい

作者さくしゃとして小島こじま法師ほうしらのもあるが、多数たすう物語ものがたり僧にもかたられ、近世きんせいには太平記たいへいきみによって多数たすうひと修補しゅうほ現在げんざいかたちになったとかんがえられる。文体ぶんたい漢文かんぶん色の和漢混交文わかんこんこうぶんで、華麗かれい道行文みちゆきぶん有名ゆうめいである。

▶「太平記たいへいき巻十六かんじゅうろく正成まさしげ兄弟きょうだい討死うちじにこと

正成まさしげすわシテ二居にいッ、おのおのおとうと正季まさすえテ、「そもそも最期さいご一念いちねんテ、善悪ぜんあくしょうクトイヘリ。いまなに遺恨いこんラン。ただなんじ如何いかんナルねがいル」トフ。正季まさすえもうシケルハ、「九界くかいあいだなに御迷おんまよイノねがいナル。ただ七生しちしょうマデ人間にんげんマレテ、国賊こくぞくほろボサン」トもうシケレバ、判官はんがんうちわらッテ……

口語訳こうごやく正成まさしげ上座かみざすわったまま、おとうと正季まさすえかって、「そもそも最後さいご一念いちねんによって来世らいせい善悪ぜんあくしょうこすというが、いまなに遺恨いこんもない。ただなんじはいかなるねがいがあるか」とうた。正季まさすえが「九界くかいあいだにおまよいのねがいなどありましょうか。ただ七生しちしょうまで人間にんげんまれわって国賊こくぞくほろぼしたい」ともうしたところ、(正成まさしげも)うちわらって……(兄弟きょうだいよろいかさねてちがえててた)。

太平記たいへいき
太平記たいへいき」を曲節きょくせつをつけながら講釈こうしゃくすることで、中世ちゅうせいすえごろから近世きんせいにかけておこなわれ、講談こうだん(p.130)のとなった。
和漢混交文わかんこんこうぶん
かなでかれた和文体わぶんたいと、漢語かんご漢文かんぶん調ちょうたいあるいは俗語ぞくごなどのじったぶん鎌倉かまくら以後いご軍記物語ぐんきものがたり随筆ずいひつなどにおおもちいられた。
道行文みちゆきぶん
たび情景じょうけい旅情りょじょう漢文かんぶん調ちょう表現ひょうげんしたもの。縁語えんご序詞じょことば掛詞かけことばなどの技巧ぎこうをこらし、通常つうじょう七五調しちごちょうをとる。

▶「太平記たいへいき巻二かんに俊基朝臣としもとあそん再び関東かんとう下向げこうこと 〈道行文みちゆきぶん

落花らっかゆき踏迷ふみまよフ、片野かたのはるくれ紅葉もみじにしき衣手ころもでおぎなフ、あらしやまあきくれさくらガリ一夜いちや宿やどちぎリテ、今日きょう最後さいごおもキ、九重ここのえみやこデテ旅路たびじ茫々、つまわかレ……つまあさカラズ、しょうヲ……

口語訳こうごやくゆきのようにみだれたさくらはなみちまようような片野かたのはる夕暮ゆうぐれれ、紅葉もみじにしき衣手ころもでおぎなうような嵐山あらしやまあき夕暮ゆうぐれれ、花見はなみ一夜いちや宿やどちぎったような(じょうあるみやこを)、今日きょう最後さいごおもさだめて帝都ていと九重ここのえ)をで、つまともわかれて旅路たびじ茫々と旅立たびだった。つまへのおもいはあさからず、まことに名残惜なごりおしい旅立たびだちであった。

●「義経記ぎけいき」・「曾我物語そがものがたり

室町むろまち時代じだいには、源義経みなもとのよしつね悲劇的ひげきてき生涯しょうがいえがいた「義経記ぎけいき」と、曾我そが兄弟きょうだい仇討かたきうちをえがいた「曾我物語そがものがたり」がつくられた。横死おうしした死者ししゃたちへの鎮魂ちんこんおもいがそこにはこめられており、後世こうせいまでながかたりつがれていた。

▶「義経記ぎけいき
作者さくしゃ未詳。室町むろまち時代じだいはじめごろに成立せいりつ源義経みなもとのよしつね幼少期ようしょうきと、平家へいけ討滅とうめつ後の義経よしつね悲劇的ひげきてき逃亡とうぼう流浪りゅうろう生涯しょうがいえがく。別名べつめい判官物語はんがんものがたり」ともいわれる。
▶「曾我物語そがものがたり
原形げんけい鎌倉かまくらそうのかかわりがあるともいわれる。室町むろまち初期しょきごろにほぼおぎなわれ成立せいりつ曾我そが十郎じゅうろう五郎ごろう兄弟きょうだいが、ちちかたき工藤くどう祐経すけつねちその運命うんめい中心ちゅうしんえがく。
判官物語はんがんものがたり(はんがんもの)
源義経みなもとのよしつね検非違使けびいし判官はんがん)のしょくにあったことから、義経よしつねかんする物語ものがたりのことをいう。

歴史物語れきしものがたり

保元ほうげん平治へいじらん源平げんぺい動乱どうらん承久じょうきゅうらん元弘げんこうへん南北朝なんぼくちょう争乱そうらんつづ戦乱せんらんなか貴族きぞく階級かいきゅう没落ぼつらく武士ぶし政権せいけん樹立じゅりつという歴史れきしおおきな転換点てんかんてんは、軍記物語ぐんきものがたりとともに、いくつかの歴史物語れきしものがたり史論書しろんしょんだ。

●「増鏡ますかがみ

平安へいあん後期こうきの「大鏡おおかがみ」・「今鏡いまかがみ」のあとをうけて、鎌倉かまくら初期しょきに「水鏡みずかがみ」が、南北朝なんぼくちょうには「増鏡ますかがみ」がかれた。「増鏡ますかがみ」は、優美ゆうび擬古文ぎこぶんでつづられ、作者さくしゃ王朝おうちょう宮廷きゅうてい社会しゃかいへのあこがれがうかがえる作品さくひんで、四鏡しかがみ(→p.53)のうちでは、「大鏡おおかがみ」に佳作かさくである。

▶「増鏡ますかがみ第十六だいじゅうろく久米くめのさらやま

ゆめかとおぼゆ。みやこすえかくるるまで御覧ごらんおくるも、おんよそひあらため、鳥羽殿とばどのにおはしましつきつき気色けしきばかりにてまかづ。御子みこなどごまいらせければ……

口語訳こうごやくゆめのようにおもわれる。みやこの(屋根やねが)かくれてえなくなるまでかえってお送りになり、御衣装おんいしょうあらためて鳥羽殿とばどのにおいでになり、気色けしきばかり(ちょっとだけ御食事おんしょくじを)がってすぐにご出発しゅっぱつされた。御子みこたちなどが参上さんじょうされれば(なげかわしく)……御供おんともものもなく、御輦おんくるまきながらいてかえる(車夫しゃふの)様子ようすは、まことにあわれであった。

▶「水鏡みずかがみ
作者さくしゃ未詳。鎌倉かまくら初期しょき成立せいりつか。「大鏡おおかがみ」以前の神代じんだいからの歴史れきしあつかっている。
▶「六代勝事記ろくだいしょうじき
作者さくしゃ未詳。貞応じょうおうねん(一二二三)以後いご成立せいりつか。高倉たかくら天皇てんのうから後嵯峨ごさが天皇てんのうまで六だい歴史れきしげる。
▶「増鏡ますかがみ
二条良基にじょうよしもとか。天授てんじゅねん(一三七六)以前いぜん成立せいりつ後鳥羽ごとば天皇てんのうから後醍醐ごだいご天皇てんのう隠岐おき遷幸せんこうまでをえがく。四鏡しかがみ最後さいご

●「愚管抄ぐかんしょう」・「神皇正統記じんのうしょうとうき

史論書しろんしょとしては、鎌倉かまくら初期しょき慈円じえん愚管抄ぐかんしょう」と南北朝なんぼくちょう北畠親房きたばたけちかふさ神皇正統記じんのうしょうとうき」(一三三九)が有名ゆうめいである。慈円じえんの「愚管抄ぐかんしょう」は、神武じんむ天皇てんのうから承久じょうきゅうらん(一二二一)まで、「道理どうり」という概念がいねん歴史れきし解釈かいしゃくした。北畠親房きたばたけちかふさの「神皇正統記じんのうしょうとうき」は、神代じんだいから後村上ごむらかみ天皇てんのうまでの歴史れきしき、天皇てんのう摂関せっかん幕府ばくふ協調きょうちょうきながら南朝なんちょう正統性せいとうせいつよ主張しゅちょうしている。その独自どくじ史観しかん後代こうだいおおきな影響えいきょうあたえた。

慈円じえん
→p.17 参照さんしょう
北畠親房きたばたけちかふさ
一二九三〜一三五四ねん村上むらかみ源氏げんじ正二位しょうにい大納言だいなごんまでのぼった貴族きぞく博学はくがく学者がくしゃ歌人かじんでもあり、「神皇正統記じんのうしょうとうき」のほか「職原抄しょくげんしょう」・「古今こきんしゅう注」などがある。南朝なんちょう擁護ようごくした。

説話せつわ

前代ぜんだい安定あんていした政治せいじ文化ぶんか伝統でんとうへの関心かんしんはなおつよく、貴族きぞく社会しゃかいにまつわるはなし意欲的いよくてき記録きろくされた。一方いっぽう新時代しんじだい到来とうらいは、地方ちほう庶民しょみん世界せかいへの新鮮しんせん興味きょうみびおこした。仏教ぶっきょう信仰しんこうたかまりをせて、数々かずかず逸話いつわ霊験談れいげんだん遁世者とんせいしゃ高僧こうそう逸話いつわなどが熱心ねっしんきとめられ、数多かずおおくの仏教ぶっきょう説話集せつわしゅう誕生たんじょうした。こうして中世ちゅうせいは「説話せつわ時代じだい」ともいわれるほど多数たすう説話集せつわしゅうまれ、素材そざいとして軍記物語ぐんきものがたり歴史物語れきしものがたり御伽草子おとぎぞうしなどジャンルじゃんる文芸ぶんげいにもおおながれこんでいった。

説話文学せつわぶんがくながれ(数字すうじ世紀せいき
平安へいあん鎌倉かまくら
910111213
日本霊異記にほんりょういき 三宝絵さんぽうえ
日本往生極楽記にほんおうじょうごくらくき
法華験記ほっけげんき
江談抄ごうだんしょう
今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう
古本説話集こほんせつわしゅう
打聞集うちきかせしゅう
仏教ぶっきょう宝物集ほうぶつしゅう発心集ほっしんしゅう閑居友かんきょのとも沙石集しゃせきしゅう
世俗せぞく古事談こじだん宇治拾遺物語うじしゅういものがたり十訓抄じっきんしょう古今著聞集ここんちょもんじゅう

宇治拾遺物語うじしゅういものがたり

作者さくしゃ未詳。承久じょうきゅうねん(一二二一)ごろ成立せいりつか。やく二百へん長短ちょうたん説話せつわ平明へいめい和文わぶん調ちょうかたられている。大力だいりきおんなはなしなど世俗せぞく説話せつわ民話みんわがかかわるはなしおおく、「こぶとり」・破戒僧はかいそうはなし盗賊とうぞくはなし博打ばくちうちのはなしなど順不同じゅんふどうかたられる。その自由じゆう軽妙けいみょう、かつおだやかなかたくちふかあじわいと内容ないようをもつ。「宇治大納言物語うじだいなごんものがたり」・「古事談こじだん」などからおおきな影響えいきょうけており、平安へいあん末期の「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」とならんで、説話文学せつわぶんがく代表的だいひょうてき作品である。

破戒僧はかいそう
仏教ぶっきょう禁止きんしされている飲酒いんしゅ邪淫じゃいん殺生せっしょうなどをおこなったそう
▶「宇治大納言物語うじだいなごんものがたり
源隆国みなもとのたかくにへんになるといわれているが、現在げんざい散佚さんいつつたわらない。平安へいあん時代じだい成立せいりつ。「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」への素材そざいしゅうとして、「宇治拾遺物語うじしゅういものがたり」におおきな影響えいきょうあたえたとおもわれる。
▶「古事談こじだん
源顕兼みなもとのあきかね建保けんぽねん(一二一五)以前いぜん成立せいりつ貴族きぞく社会しゃかい秘話ひわ裏面りめんばなし特色とくしょくがある。

▶「宇治拾遺物語うじしゅういものがたり大二条殿だいにじょうどの小式部内侍こしきぶのないしうたをよみかけ、させたまひにけること

これもいまむかし大二条殿だいにじょうどの小式部内侍こしきぶのないしをおぼしけるが、えまがちになりにけるほどに、れいならぬことおはしまして、ひさしくまいらせたまはでよろしくなりおはして、上東門院じょうとうもんいんまいらせたまひたるに、小式部こしきぶ台盤所だいばんどころにゐたりけるにできさせたまひて、「なんとしけるあいだはさりしぞ」とおおせければ、御直衣おんのうしすそきとどめてもうしければ、ぬべきにもあらぬとおぼしけるにや、かきいだきてうちへおはして、させたまひにけり。

口語訳こうごやく)これもいまむかしのこと。大二条殿だいにじょうどの藤原教通ふじわらののりみち)は小式部内侍こしきぶのないしをおおもいになっていたが、ひさしくいがえがちになっていたころ、(小式部こしきぶに)病気びょうきご様子ごようすがあってながくお見舞みまいいにもなかったが、ようやく回復かいふくなさって上東門院じょうとうもんいん彰子しょうし)に参上さんじょうされるさいに、小式部こしきぶ台盤所だいばんどころからてきたので、「にそうになっているというのに、(見舞みまいいにもなかったのは)はかったものだ」とおっしゃったので、(小式部こしきぶは)御直衣おんのうしすそきとめてもうげると、(教通のりみちは)ぬべきでもないとおおもいになったのか、(小式部こしきぶを)かきいだいてうちへおはいりになり、そのままなさったということだ。

十訓抄じっきんしょう」・「古今著聞集ここんちょもんじゅう

十訓抄じっきんしょう」は、教訓的きょうくんてき目的もくてきをもってつくられた説話集せつわしゅうで、いち教訓きょうくん例話れいわ集大成しゅうたいせいしようとしたもの。「古今著聞集ここんちょもんじゅう」は、平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら初期しょきにかけての大部たいぶ説話集せつわしゅうで、今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう規模きぼほこる。

▶「十訓抄じっきんしょう
六波羅蜜蔵人入道ろくはらみつくろうどにゅうどう作者さくしゃ不明)へん建長けんちょうねん(一二五二)成立せいりつ
▶「古今著聞集ここんちょもんじゅう
橘成季たちばなのなりすえさく建長けんちょうねん(一二五四)成立せいりつ

仏教説話ぶっきょうせつわ

仏教ぶっきょう説話集せつわしゅうとしては、「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」にいで、平康頼たいらのやすよりの「宝物集ほうぶつしゅう」をはじめとして、鴨長明かものちょうめいの「発心集ほっしんしゅう」・慶政けいせいの「閑居友かんきょのとも」・無住むじゅうの「沙石集しゃせきしゅう」・西行さいぎょう仮託かたくされた「撰集抄せんじゅうしょう」などがあげられる。南北朝なんぼくちょうから室町むろまち時代じだいつくられた「神道集しんとうしゅう」・「三国伝記さんごくでんき」は、御伽草子おとぎぞうしとかかわりのふかはなしおさめている。

▶「宝物集ほうぶつしゅう
平康頼たいらのやすよりさく建久けんきゅうねん(一一九八)ごろまでに成立せいりつか。例話れいわとともに「仏法ぶっぽうこそたからである」ということをべている。
▶「発心集ほっしんしゅう
鴨長明かものちょうめいさく建保けんぽねん(一二一五)ごろ成立せいりつか。戦乱せんらん長期ちょうきてることのとうとさを、愛欲あいよくおそろしさとともにく。
▶「閑居友かんきょのとも
慶政けいせいさくか。女性じょせい発心ほっしんなどをおおしるす。
▶「撰集抄せんじゅうしょう
作者さくしゃ未詳(西行さいぎょう仮託かたく)。鎌倉かまくら中期ちゅうきごろ成立せいりつか。女性じょせい発心ほっしん談などをおおおさめる。
▶「沙石集しゃせきしゅう
無住むじゅうさく弘安こうあんねん(一二八三)成立せいりつ通俗つうぞく的な例話れいわをもとに、教理きょうりたくみにいている。

●「御伽草子おとぎぞうし

中世ちゅうせい後期こうきになると擬古物語ぎこものがたりおとろえ、わってひろがった読者どくしゃそうけてみやすい短編たんぺん物語ものがたりおおつくられるようになった。絵巻物えまきものや、冊子形式さっしけいしき奈良絵本ならえほんかたちをとるものもおおく、「一寸法師いっすんぼうし」・「文正草子ぶんしょうぞうし」など庶民しょみん立身出世りっしんしゅっせえがくもの、「浦島太郎うらしまたろう」など世俗せぞく的な物語ものがたり、「岩屋いわや草子ぞうし」・「福富草子ふくとみぞうし」などわらばなし、いじめをえがく「鉢かづきはちかづき」、本地物語ほんじものがたり異類物いるいものなど、前代ぜんだい物語ものがたり簡略かんりゃくあらためたもの、民間みんかん説話せつわ物語化ものがたりかしたものなどがあり、幅広はばひろ多様たよう物語ものがたりである。

▶「御伽草子おとぎぞうし
江戸えど時代じだい大坂おおさか本屋ほんやが二十三の短編物語たんぺんものがたりえらんで「御伽文庫おとぎぶんこ」とづけてしたことから、同種どうしゅ物語ものがたり名称めいしょうとなった。
▶「一寸法師いっすんぼうし
身長しんちょうすん小僧こぞうおに退治たいじし、小槌こづちによって立身出世りっしんしゅっせするはなし
▶「文正草子ぶんしょうぞうし
塩焼しおやききの文正ぶんしょう巨万きょまんとみきず立身出世りっしんしゅっせする物語ものがたり
▶「鉢かづきはちかづき
継母ままははによっていじめられはちをかぶせられたひめが、海士あま夫婦ふうふたすけられ、のち関白かんぱくよめとなる物語ものがたり
本地物語ほんじものがたり
仏菩薩ぶつぼさつかみとしてあらわれたという本地垂迹ほんじすいじゃく思想しそうからまれたはなし奈良絵本ならえほんえがかれた。
異類物いるいもの
動植物どうしょくぶつ擬人化ぎじんかされ、登場とうじょうしてくる物語ものがたり

キリシタン文学きりしたんぶんがく

室町むろまち時代じだい末期まっき渡来とらいした宣教師せんきょうしたちが、布教ふきょう日本語にほんご学習がくしゅうのためにローマ翻訳ほんやく著述ちょじゅつしたものを総称そうしょうする。庶民しょみん階級かいきゅう意識いしきつよ反映はんえいしており、「伊曾保物語いそほものがたり」・「日葡辞書にっぽじしょ」・天草版あまくさばん平家物語へいけものがたり」・「どちりなきりしたん」などがあり、当時とうじ口語こうごうえでの貴重きちょう資料しりょうとなっている。

▶「伊曾保物語いそほものがたり
文禄ぶんろくねん(一五九三)成立せいりつ。イソップ童話どうわのローマでの和訳本わやくほん近世きんせい仮名草子かなぞうし(→p.100)と区別くべつして「天草版あまくさばん伊曾保物語いそほものがたり」ともいう。

日記にっき随筆ずいひつ

日記にっき紀行きこう

王朝おうちょう時代じだい再来さいらいおもわせるような平家へいけ時代じだい文化ぶんかや、政治的せいじてきには無力化むりょくかしつつあったとはいえ、伝統的でんとうてき宮廷きゅうてい文化ぶんかへの思慕しぼ回顧かいこ気持きもちはつよく、いくつかの回想的かいそうてき日記にっきがつづられた。あたらしい政治せいじ都市とし鎌倉かまくら誕生たんじょうによって東海道とうかいどう整備せいびされ、きょう鎌倉かまくら往反おうへんたび素材そざいとした日記にっき紀行文学きこうぶんがく成立せいりつした。

●「建礼門院右京大夫集けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう宮廷生活きゅうていせいかつ回想かいそうする歌日記うたにっき

歌日記うたにっき的な作品さくひんで、天福てんぷくねん(一二三三)ごろに成立せいりつかんがえられる。作者さくしゃ建礼門院右京大夫けんれいもんいんうきょうのだいぶは、建礼門院けんれいもんいん徳子とくこつかえた宮廷きゅうてい女房にょうぼうで、藤原隆信ふじわらのたかのぶ恋愛れんあい関係かんけいにあったが離別りべつし、また平資盛たいらのすけもりとのあいだでも恋愛れんあい関係かんけいにあった。資盛すけもり平家へいけ一門いちもんとともに都落みやこおちし、やがてだんうらしずむ。戦乱せんらんにもてあそばれた女性じょせい悲哀ひあい切々せつせつかたられており、情感じょうかんあふれる作品さくひんとなっている。

▶「建礼門院右京大夫集けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう」より

おそろしきもののふどもいくらもあるなる。なにとなくひがしよりも西にしよりも、ゆめにだにたることなくおそろしき武士ぶしどもがかずもなくつどふとこゆるを……

口語訳こうごやくおそろしい武士ぶしどもが西国さいごくにたくさんいるとのうわさをくので、なにとなくひがしからも西にしからも、ゆめにもたことのないようなおそろしい武士ぶしどもが数知かずしれずつどまってくるとこえてくるので……

建礼門院右京大夫けんれいもんいんうきょうのだいぶ
平安へいあん末期まっき鎌倉かまくら初期しょきひと高倉たかくら天皇てんのう中宮ちゅうぐう建礼門院けんれいもんいん徳子とくこ平清盛たいらのきよもりむすめ安徳天皇あんとくてんのうはは)につかえた歌人かじん藤原伊行ふじわらのこれゆきむすめ。「新勅撰集しんちょくせんしゅう」などの勅撰集ちょくせんしゅう入集にゅうしゅうしている。
▶「たまきはる」
承久じょうきゅうねん(一二一九)ごろまでに成立せいりつか。藤原俊成ふじわらのとしなりむすめ藤原定家ふじわらのていか姉妹しまい)作。建春門院けんしゅんもんいんへの出仕しゅっし記録きろく
▶「平家公達草子へいけのきんだちぞうし
作者さくしゃ未詳。鎌倉かまくら初期しょき成立せいりつか。平重衡たいらのしげひらなど平家へいけ周辺しゅうへん逸話いつわおさめる。一部いちぶ絵巻えまきとしてのこっている。
▶「源家長日記みなもとのいえながにっき
源家長みなもとのいえなが作。鎌倉かまくら初期しょき成立せいりつ。「新勅撰集しんちょくせんしゅう」の編纂へんさん過程かてい撰者せんじゃたちの動向どうこうなどをしるす。
▶「弁内侍日記べんのないしにっき
弁内侍べんのないし藤原信実ふじわらののぶざねむすめか)作。後深草ごふかくさ天皇てんのう宮廷きゅうていへの出仕しゅっし記録きろく

▶「建礼門院右京大夫集けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう」より(つづき)

かとけば、いかなることをいつかんとかなしくこころく、たるゆめに、つねしままの直衣のうしにて、かぜのおびやかたたしくところに、いと物思ものおもはしげにうちながめてありとて、さわいでいま心地ここちふべきかたなし。ただいまもにさめたる心地ここちふべきかたなし。

波風なみかぜさわぎにただよひてさこそはやきそらなかるらめ

口語訳こうごやく)いつそのような(らせを)くことになるのかとかなしくおもいながらていると、ゆめにいつもていたままの直衣のうし姿で(資盛すけもりが)あらわれ、かぜはげしくきすさぶところでたいそう物思ものおもいにしずんだ様子ようすでいる姿すがたて、胸騒むなさわぎのあまり(めてみると)いま気持きもちはとても葉ではえない。(うた—)波風なみかぜさわぎにただよって、さぞ(あなたのたましいは)そら彼方かなたんでいることだろう。

その他そのほか日記にっき紀行きこう

源家長日記みなもとのいえながにっき」は「新古今集しんこきんしゅう成立せいりつ記録きろくとして重要じゅうよう。「中務内侍日記なかつかさないしにっき」・「とはずがたり」は宮仕みやづかえの回想かいそう主体しゅたいとし、「十六夜日記いざよいにっき」は紀行きこう部分ぶぶんをもつあたらしい特徴とくちょうがある。鎌倉かまくら時代じだい初期しょき和漢混交文わかんこんこうぶん(→p.82)でえがいた「海道記かいどうき」・「東関紀行とうかんきこう」は、東海道とうかいどう情景じょうけい旅情りょじょうつたえる代表的だいひょうてき紀行文学きこうぶんがくで、「平家物語へいけものがたり」などに影響えいきょうあたえた。

●「とはずがたり」

後深草院二条ごふかくさいんのにじょう久我雅忠くがまさただむすめ)作。正和しょうわねん(一三一三)までに成立せいりつか。十四さい後深草ごふかくさ院の寵愛ちょうあいけ、西園寺実兼さいおんじさねかね性助法親王しょうじょほうしんのう亀山院かめやまいんなどとも交渉こうしょうかさねられ、後年こうねん出家しゅっけして鎌倉かまくら厳島いつくしまなどへの修行しゅぎょうたびおもむく。赤裸々あからさま愛欲あいよく生活せいかつ告白こくはくと、修行遍歴しゅぎょうへんれきたび描写びょうしゃ特色とくしょくられる。

▶「中務内侍日記なかつかさないしにっき
中務内侍なかつかさないし藤原経子ふじわらのつねこ)作。正和しょうわねん(一三一六)以後いご成立せいりつか。伏見ふしみ天皇てんのう宮廷きゅうていへの出仕しゅっし記録きろく
▶「十六夜日記いざよいにっき
阿仏尼あぶつに作。弘安こうあんねん(一二八〇)ごろ成立せいりつか。藤原為家ふじわらのためいえ後妻ごさいで、息子むすこ領地りょうち相続そうぞくあらそいのため鎌倉かまくら下向げこうした道中どうちゅうしるす。鎌倉中期かまくらちゅうき女流じょりゅう歌人かじん
▶「海道記かいどうき
作者さくしゃ未詳。貞応じょうおうねん(一二二三)以後いご成立せいりつか。年老としおいて出家しゅっけした作者さくしゃきょうから鎌倉かまくら下向げこうしたたびしるす。道中どうちゅう感懐かんかいたびふかめた仏教観ぶっきょうかんなどをしるしている。
▶「東関紀行とうかんきこう
作者さくしゃ未詳。仁治にんじねん(一二四二)以後いご成立せいりつきょうから鎌倉かまくら下向げこうする道中どうちゅうと、鎌倉かまくら滞在中たいざいちゅう見聞けんぶんしるす。
「とはずがたり」かん

性助法親王せいじょほっしんのうは)暗道くらやみはいりても、〈ほとけしるべ、こはいかに〉とおもふほどに、「ほとけしるべ」などとおおせられて、いだきつきたまふも、こは何事なにごとぞなどふべけれども、ひとおんためしのびつつ、つるゆめおんのこりなどもうげれば、伴僧ばんそうともまいられてうしろのかたよりいそかえたまひて、「後夜ごやのほどに今一度いまいちど、かならず」とおおせありて……

性助法親王せいじょほっしんのう突然とつぜんはいっていらっしゃったので)こはいったいどうしたことかとおもいながら、「ほとけしるべ」などとおっしゃられて、きながら(わたしに)いだきつきもうされるものの、これは何事なにごとかとうべきではあったが、(後深草院ごふかくさいんの)お立場たちばおもってしのびつつ、「ゆめ御縁ごえん」などともうげると、(性助せいじょは)ともそうたちとともにまいられていて、うしろよりいそいでおかえりになって、「後夜ごやのころにもう一度いちど、必ず」とおっしゃって……

随筆ずいひつ法語ほうご

争乱そうらん天災てんさいなどと激動げきどうする時代じだいにあって、現実社会げんじつしゃかい不安ふあんいだき、あるいは不満ふまん批判ひはんをもって現実社会げんじつしゃかいから離脱りだつし、隠者いんじゃ隠遁者いんとんしゃ世捨よすびと)となった人々ひとびとが、出家しゅっけというかたち山里やまざといおりむすび、仏道修行ぶつどうしゅぎょうはげみ、この無常むじょうかんじ(→p.81語注ごちゅう無常観むじょうかん」)、また諸国しょこく遊行ゆぎょうしたりして、独自どくじ立場たちばからいくつかの文学作品ぶんがくさくひんのこした。これを隠者文学いんじゃぶんがくという。

随筆ずいひつ代表だいひょうとして、鎌倉時代かまくらじだい初期しょき鴨長明かものちょうめい(1155–1216)の『方丈記ほうじょうき』、鎌倉時代かまくらじだい末期まっき兼好けんこう吉田兼好よしだけんこう、1283–1352ごろ)の『徒然草つれづれぐさ』などが有名ゆうめいである。

また、この時代じだいには、厭離穢土えんりえど欣求浄土ごんぐじょうどこころからねがった宗教家しゅうきょうかたちがいた平明へいめい仮名かなきの法語ほうごもある。これを「仮名法語かなほうご」とぶ。感銘かんめいふかいものもおおく、おおくは平明へいめい仮名かなきである。

三大随筆さんだいずいひつ比較ひかく

枕草子まくらのそうし 方丈記ほうじょうき 徒然草つれづれぐさ
作者さくしゃ 清少納言せいしょうなごん 鴨長明かものちょうめい 兼好けんこう
成立せいりつ 平安へいあん中期ちゅうき(10世紀せいきごろ) 鎌倉かまくら初期しょき建暦けんりゃく二年・1212) 鎌倉かまくら末期まっき(1330年ごろ)
文体ぶんたい 散文さんぶん 和漢混交文わかんこんこうぶん 和漢混交文わかんこんこうぶんおよび散文さんぶん
内容ないよう 類聚るいじゅ章段しょうだん日記にっき章段しょうだん随想ずいそう章段しょうだん 大火たいか大風たいふう地震じしんなどの天変地異てんへんちい草庵そうあんでの生活せいかつ 有職故実ゆうそくこじつ多方面たほうめんにわたる
特色とくしょく 「をかし」の理念りねん王朝美おうちょうび賞讃しょうさん 無常むじょうへの詠嘆えいたん 人間にんげん観察かんさつ立脚りっきゃくした省察しょうさつ人生批評じんせいひひょう

方丈記ほうじょうき

鴨長明かものちょうめい作。建暦けんりゃく二年(1212)成立せいりつ

鴨長明かものちょうめい
歌人かじん随筆家ずいひつか説話集せつわしゅう編者へんしゃ久寿きゅうじゅ二年(1155)?〜建保けんぽ四年(1216)。下鴨神社しもがもじんじゃ神官しんかん鴨長継かものながつぐとしてまれたが、ちち早世そうせいのち、二十さいごろからは不遇ふぐうなやみ、和歌わか琵琶びわはげんだ。後鳥羽院ごとばいんみとめられ、いん歌所宿人うたどころやどりびととして活躍かつやくしたが、五十さいのころいん妨害ぼうがいにより氏神うじがみ神官しんかん着任ちゃくにんがかなわず、突然とつぜん出家しゅっけ遁世とんせいしてしまう。日野ひの外山とやま方丈ほうじょういおりうつみ、仏教説話集ぶっきょうせつわしゅう発心集ほっしんしゅう』や歌論書かろんしょ無名抄むみょうしょう』などもあらわした。
語注ごちゅう
方丈ほうじょう一丈いちじょうやく三メートル)四方しほうひろさの部屋へや書名しょめいはこれによる。
大原おおはら京都市きょうとし左京区さきょうく洛北らくほく隠者いんじゃたちの住処すみかとしてられる。
日野ひの京都市きょうとし伏見区ふしみく方丈ほうじょういおりがあった場所ばしょ
*『発心集ほっしんしゅう』:長明ちょうめいちょによる仏教説話集ぶっきょうせつわしゅうほか歌論書かろんしょ無名抄むみょうしょう』・家集かしゅうがある。

表現ひょうげん文体ぶんたい

前半ぜんはんいつつのおおきな災厄さいやくえがいて無常むじょう詠嘆えいたんし、後半こうはん閑居かんきょ生活せいかつ賞賛しょうさんし、終末しゅうまつ急激きゅうげき自己否定じこひていおこなうという、明確めいかく論理的ろんりてき構成こうせいをもっている。文章ぶんしょう明快めいかいであり、対句ついく多用たようした漢文訓読調かんぶんくんどくちょうをまじえた和漢混交文わかんこんこうぶん(→p.82)で、五大災厄ごだいさいやく描写びょうしゃはリアルで鮮烈せんれつ印象いんしょうのこすものとなっている。

【「方丈記ほうじょうき安元あんげん大火たいか
ヒロゲタルガゴトク末広すえひろニナリニケリ。とおいえけむりニムセビ、ちかキアタリハヒタスラほのおツケタリ。そらニハはいタテタレバ、ひかりジテ、アマネクくれないナルなかニ、かぜニタエズラレタルほのおブガゴトクシテ、一二ちょうエツツうつリユク。

おうぎを)ひろげたように末広すえひろがりになってしまった。とおいえけむりにむせび、ちかあたりではひたすらほのお地面じめんきつけていた。そらにははいがり、ひかりえて空一面そらいちめんえるなかかぜえられずられたほのおぶように一二町先ちょうさきへと次々つぎつぎうつっていく。

影響えいきょう

慶滋保胤よししげのやすたね平安期へいあんき漢文人かんぶんじん学者がくしゃ)の「池亭記ちていき」に構想こうそうをならって、中世文学全体ちゅうせいぶんがくぜんたいおおきな影響えいきょうあたえた。

鴨長明かものちょうめい関係かんけい年表ねんぴょう

年号ねんごう西暦せいれき事項じこう
久寿きゅうじゅ二年1155鴨長明かものちょうめいまれる?
保元ほうげん元年1156保元ほうげんらんおこる
平治へいじ元年1159平治へいじらんおこる;ちち長継ながつぐぼつするか
安元あんげん三年1177安元あんげん大火たいか
治承じしょう四年1180治承じしょう旋風せんぷう福原ふくはら遷都せんと源頼朝みなもとのよりとも挙兵きょへい
養和ようわ元年1181養和ようわ大飢饉だいききん
元暦げんりゃく元年1184元暦げんりゃく大地震だいじしん
元久げんきゅう二年1205長明ちょうめい歌所宿人うたどころやどりびととなる(五十歳ごじっさい
建暦けんりゃく二年1212方丈記ほうじょうき成立せいりつ
建暦けんりゃく三年1213新古今集しんこきんしゅう選進せんしん
建保けんぽ四年1216長明ちょうめいぼつ

徒然草つれづれぐさ

兼好けんこう作。元弘げんこう元年(1331)ごろほぼ成立せいりつか。

徒然草つれづれぐさには尚古しょうこ態度たいどられるが、同時どうじに、「折節をりふしうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ」(第19段)のように自然しぜん事物じぶつがたえず変化へんかする「変化へんか過程かてい」をも注視ちゅうしするのである。さらには、「はなはさかりに、つきはくまなきをのみるものかは」(第137段)—うつろいゆく自然しぜん姿すがたにこそ無常むじょうともいうべきうつくしさをかんじる—「さだめなきこそいみじけれ」(第7段)とまでるのである。

無常むじょう人事じんじにもおよぶ。「まえよりしもきたらず、かねてうしろにせまれり」(第155段)であるのだから、「ひとにくまば、せいあいすべし」(第193段)と無常観むじょうかん立脚りっきゃくした人生じんせいへのふか省察しょうさつ力説りきせつする。

人間観察にんげんかんさつについてもふかするど洞察どうさつをもち、自然しぜん社会しゃかい人間にんげん複雑ふくざつ微妙びみょう心理しんり的確てきかくにとらえている。柔軟じゅうなん思考しこうはたらき、多方面たほうめんにわたってふか内容ないようをもっている。

兼好けんこう吉田兼好よしだけんこう
弘安こうあん六年(1283)ごろ〜観応かんのう三年(1352)以後。俗名ぞくみょう卜部兼好うらべのけんこう吉田神社よしだじんじゃ神官しんかん家系かけいまれたが、祖父そふのころから関東かんとう関係かんけいふかく、二十代にじゅうだい後半から三十さい前後にかけて六位蔵人ろくいくろうどとしてつかえた。のち出家しゅっけ遁世とんせいしてぜんおさめた。四十だいわりごろには「和歌四天王わかしてんのう」といわれ、二条良基にじょうよしもととも交流こうりゅうした。有職故実ゆうそくこじつ古典こてん学者がくしゃでもあり、晩年ばんねん仁和寺にんなじ近辺きんぺんんだともつたえられる。家集かしゅうに「兼好法師集けんこうほうしのしゅう」がある。

表現ひょうげん文体ぶんたい〉〈比較ひかく影響えいきょう

全般ぜんぱんにわたって平易へいい簡明かんめいで、均整きんせいのとれた和文わぶんでつづられており、ふか情趣じょうしゅ思索しさくかんじとらせる。むだのない抑制よくせいのきいた文体ぶんたいは、隠者文学いんじゃぶんがく随筆文学ずいひつぶんがく代表的作品だいひょうてきさくひんである。「枕草子まくらのそうし」(→p.59)とくらべると、「枕草子まくらのそうし」は王朝美おうちょうび賞讃しょうさん主調しゅちょうであり、「方丈記ほうじょうき」が無常むじょうへの詠嘆えいたんわりがちなのにたいして、「徒然草つれづれぐさ」の場合ばあい思索しさく的なふかまりをもち、美意識びいしき確立かくりつしているとされるてんたか評価ひょうかされるべきである。のちの正徹しょうてつ(→p.74)や心敬しんけい(→p.76)などにおおきな影響えいきょうあたえ、また、近世きんせいにおいても処世訓しょせいくん人生訓じんせいくん教訓書きょうくんしょとして受容じゅようされていった。

徒然草つれづれぐさ」から

のなかに、なにがしとかやいし世捨よすびとの、「こののほどにかよひしに、ただそら名残なごりのみしき」とひしこそ、まことにさもおぼえぬべけれ。(百段ひゃくだん

(ある世捨よすびとが、)「このきてきたにとって、ただそら名残なごりだけがしい」とったのが、まことにそうだとおもわれる。

きたたりてはじめてみちぎょうぜんとつことなかれ。いにしへより、おおくはこれ少年しょうねんひとなり。はからざるにやまいけて、たちまちこのらんとするときにこそ、はじめてあやまりにがつくのである。

いになってからはじめて仏道ぶつどうおこなおうとしてつことはやめよ。むかしから、おおくの場合ばあいわかうちくなるのだから。おもいがけずやまいけて、たちまちこのろうとするときになってはじめてあやまりにがつくのである。

兼好けんこう関係かんけい年表ねんぴょう

年号ねんごう西暦せいれき事項じこう
弘安こうあん六年1283兼好けんこう、このころまれる
正安しょうあん三年1301これ以前に兼好けんこう蔵人くろうどとして出仕しゅっし
元弘げんこう元年1331元弘げんこうへん;「玉葉集ぎょくようしゅう成立せいりつ;「徒然草つれづれぐさ成立せいりつ
元弘げんこう三年1333鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう
建武けんむ元年1334建武けんむ新政しんせいはじまる
暦応りゃくおう二年1339神皇正統記じんのうしょうとうき成立せいりつ南北朝時代なんぼくちょうじだいはじまる
貞和じょうわ五年1349風雅集ふうがしゅう成立せいりつ
観応かんのう三年1352兼好けんこう、このころぼつ

ぎぬるかたのあやまれることらるなれ。あやまりといふはことにあらず、すみやかにすべきことゆるくし、ゆるくすべきことをいそぎて、ともかくにしてぎにけることもわするまじきなり。(第四十九段)

はなはさかりに、つきはくまなきをのみるものかは。あめにむかひてつきひ、たれこめてはるくへらぬも、なほあはれになさふかし。きぬべきこずえりしをれたるにわなどこそどころおおけれ。(第一三七段)

はな満開まんかいのときに、つきくもひとつないときだけをるものではない。あめなかつきこいしくおもい、部屋へやきこもってはるらぬのも、しみじみと情趣じょうしゅふかい。きそうなこずえくずれたにわなどこそどころがおおいのだ。

法語ほうご

新仏教しんぶっきょう開祖かいそたちの教導きょうどう言葉ことばが、問答もんどう談話だんわ消息しょうそく手紙てがみ)などのかたちおおのこされている。それらのなかには、さとりのむずかしさ・苦悩くのうまよいなどについての率直そっちょく疑問ぎもんしめされ、また、これらの苦悩くのうまよいをきびしく凝視ぎょうしする真剣しんけんさにあふれている。その弁説べんぜつなかに、あたらしい人間観にんげんかん社会観しゃかいかん宗教観しゅうきょうかんのあらわれをることができる。

語注ごちゅう
新仏教しんぶっきょう鎌倉時代かまくらじだいあたらしくおこった浄土宗じょうどしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう法華宗ほっけしゅう日蓮宗にちれんしゅう)・時宗じしゅう臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅうなどの仏教宗派ぶっきょうしゅうは
法然ほうねん
長承ちょうしょう二年(1133)〜建暦けんりゃく二年(1212)。浄土宗じょうどしゅう開祖かいそ専修念仏せんじゅねんぶつによる極楽往生ごくらくおうじょうく。
親鸞しんらん
承安しょうあん三年(1173)〜弘長こうちょう二年(1263)。浄土真宗じょうどしんしゅう開祖かいそ法然ほうねん門下もんかとして、絶対他力ぜったいたりき悪人正機あくにんしょうきとなえた。
▶ 「歎異抄たんにしょう
鎌倉かまくら中期ちゅうき成立せいりつ悪人正機あくにんしょうきなど法然ほうねん親鸞しんらん思想しそうをさらにすすめ、親鸞しんらん談話だんわ弟子でし唯円ゆいえんがまとめたもの。

法然ほうねんの「選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう」・親鸞しんらんの「教行信証きょうぎょうしんしょう」・日蓮にちれんの「立正安国論りっしょうあんこくろん」・道元どうげんの「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」・「正法眼蔵随聞記しょうぼうげんぞうずいもんき」・一遍いっぺんの「一遍上人語録いっぺんしょうにんごろく」などが注目ちゅうもくされる。また、「一言芳談いちごほうだん」は、隠遁いんとんしたひじりたち(浄土宗じょうどしゅうけい念仏者ねんぶつしゃ)の名言めいげんあつめたもので、「徒然草つれづれぐさ」などに影響えいきょうあたえた。

歎異抄たんにしょう」から(悪人正機説あくにんしょうきせつ

善人ぜんにんなほもちて往生おうじょうをとぐ、いかにいはんや悪人あくにんをや。しかるを、のひとつねにいはく、「悪人あくにんなほ往生おうじょうす、いかにいはんや善人ぜんにんをや」と。このじょう一旦いったんそのいはれあるにたれども、本願他力ほんがんたりき意趣いしゅにそむけり。〔中略ちゅうりゃく煩悩具足ぼんのうぐそくのわれらは、いづれのぎょうにても生死しょうじをはなるることあるべからざるを、あはれみたまひてがんをおこしたまふ本意ほんい悪人成仏あくにんじょうぶつのためなれば、他力たりきをたのみたてまつる悪人あくにん、もっとも往生おうじょう正因しょういんなり。よりて善人ぜんにんだにこそ往生おうじょうすれ、まして悪人あくにんはとぞおおそうろひき。

善人ぜんにんでさえ往生おうじょうできる、まして悪人あくにんにおいてはなおさらである。ところがひとはいつも「悪人あくにんでさえ往生おうじょうできる、まして善人ぜんにんはなおさら」とう。これは一応いちおうもっともにえるが、本願他力ほんがんたりきおもむきそむいている。〔中略ちゅうりゃく煩悩ぼんのうちたわたしたちは、どのような修行しゅぎょうによっても生死しょうじはなれることができないのをあわれんで阿弥陀あみだてた本願ほんがんは、悪人あくにん成仏じょうぶつするためにこそあるのだから、他力たりきたのみとする悪人あくにんこそもっと往生おうじょう正因しょういんである。だから善人ぜんにんでさえ往生おうじょうできるのだから、まして悪人あくにんはなおさらだ(と親鸞しんらん聖人は)おっしゃった。

日蓮にちれん
貞応じょうおう元年(1222)〜弘安こうあん五年(1282)。法華宗ほっけしゅう日蓮宗にちれんしゅう)の開祖かいそ法華経ほけきょう仏法ぶっぽう根本こんぽんとし、「立正安国論りっしょうあんこくろん」をあらわした。
道元どうげん
正治しょうじ二年(1200)〜建長けんちょう五年(1253)。曹洞宗そうとうしゅう開祖かいそ栄西えいさいぜんまなび、越前えちぜん永平寺えいへいじ創建そうけんした。
▶ 「正法眼蔵随聞記しょうぼうげんぞうずいもんき
道元どうげん談話だんわ弟子でし懐奘えじょうがまとめたもの。延応えんのう元年(1239)ごろ成立せいりつか。
一遍いっぺん
正元しょうげん元年(1239)〜正応しょうおう二年(1289)。時宗じしゅう開祖かいそ諸国しょこく遍歴へんれきし、踊念仏おどりねんぶつひろ庶民しょみんすすめた。「踊行上人おどりぎょうにん」ともいわれる。
語注ごちゅう
悪人正機説あくにんしょうきせつ親鸞しんらんとなえた思想しそうで、罪深つみぶかいおろかな人間にんげんこそ、阿弥陀仏あみだぶつすくってくれるというかんがかた

芸能げいのう歌謡かよう

芸能げいのう

農村のうそん田植たうええなどのときに農耕のうこう儀礼ぎれいとしてえんじられていた田楽でんがくは、平安へいあん時代じだいすえになると貴族きぞくあいだにもひろまり、ものまねや曲芸きょくげいなどの猿楽さるがく散楽さんがく中楽ちゅうらく)も庶民しょみんあいだ流行りゅうこうした。鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい曲芸きょくげいなどは滑稽こっけいさをしゅとした歌舞かぶともなみじか対話劇たいわげきえんじるようになり、田楽でんがくのう猿楽さるがくのうばれるようになった。今日こんにちのう源流げんりゅうで、専門せんもん芸能者げいのうしゃたちもあらわれ、という集団しゅうだんつくり、有力ゆうりょく寺社じしゃ所属しょぞくした。

このなかで、大和やまと猿楽さるがく四座しざのうち、結崎座ゆうざきざ観阿弥かんあみ清次きよつぐは、田楽でんがく近江おうみ猿楽さるがく特色とくしょくれ、のう主流しゅりゅうとなった。その世阿弥ぜあみ元清もときよは、将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ寵愛ちょうあいされ、のうあらたしくつくりかえて、複式夢幻能ふくしきむげんのうなど優美ゆうび歌舞かぶ中心ちゅうしんのうつくりあげ、のう大成たいせいしたといわれる。

のう

シテシテ主役しゅやく)・ワキワキ脇役わきやく)・ツレツレ従者じゅうしゃ)といわれる能役者のうやくしゃが、地謡じうたい囃子はやしにともなってうたげきで、『伊勢物語いせものがたり』『源氏物語げんじものがたり』『平家物語へいけものがたり』などに題材だいざいをとったきょくおおい。

観阿弥清次かんあみきよつぐ
元弘げんこうねん(一三三三)〜至徳しとくねん(一三八四)。嵯峨さが大夫たいふで、室町むろまち幕府ばくふ三代さんだい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつみとめられ、能楽のうがく発展はってん基礎きそつくった観世流かんぜりゅう。『通小町かよいこまち』『卒都婆小町そとばこまち』などがある。
世阿弥元清ぜあみもときよ
貞治じょうじねん(一三六三)〜嘉吉かきつねん(一四四三)。少年しょうねん時代じだいから足利あしかが義満よしみつ寵愛ちょうあいされ、ちち観阿弥かんあみ没後ぼつごあといで結崎ゆうざきひきいた。きょくおおくは世阿弥ぜあみ作品さくひんによる。能楽論のうがくろん風姿花伝ふうしかでん』(花伝書かでんしょ)・『申楽談儀さるがくだんぎ』などがある。現行げんこうきょくに『高砂たかさご』『敦盛あつもり』『井筒いづつ』『班女はんじょ』『百万ひゃくまん』などがある。

謡曲ようきょく

謡曲ようきょく観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみさくになるものがおおく、古典こてん文学ぶんがく民間みんかん伝承でんしょうなどを素材そざいにしたものがおおい。その詞章ししょう謡曲ようきょくばれ、古歌こか名文めいぶんをふまえた縁語えんご掛詞かけことば駆使くしした七五調しちごちょう流麗りゅうれい文章ぶんしょうで、幻想げんそう的な王朝美おうちょうび世界せかいつくりあげる。世阿弥ぜあみのううつくしさ・面白おもしろさを「はな」として、ふか幽玄ゆうげん情趣じょうしゅ追求ついきゅうした。

演能えんのうは、一番目いちばんめ神事物じんじもの)・二番目にばんめ修羅物しゅらもの)・三番目さんばんめ鬘物かつらもの)・四番目よばんめ雑物ざつもの)・五番目ごばんめ鬼畜物きちくもの)と五番ごばん仕立てがおおかった。

謡曲ようきょく井筒いづつ

井筒いづつおんなれいが、在原業平ありわらのなりひらとのこいをしのぶ場面ばめん〔1〜10は下段げだん参照さんしょう〕)

ワキ けゆくや、在原寺ありわらでらつきゆめちそへて、こけむしろして仮枕かりまくら

シテ こけむしろしていにけり

シテ あたりとにこそてれ桜花さくらばな年年としどしおんなもあいだけり

地謡じうたい みしわれなれば、ひとおんなはれしな……はな年年としどしまれなるひとちけり

地謡じうたい 筒井筒つついづつむかしより、いまづかしき業平なりひらに、真弓まゆみ槻弓つきゆみとして、形見かたみころもみずからにれて

シテ ゆきさっらすはなそで

地謡じうたい むかしおとこになりて、むかしそのままにつきぞやけ、かえ在原ありわらの、寺井てらいめる、つきぞやけ

ワキ=たびそうれいかえそうとしてころもそで裏返うらがえす)。よるけて出逢であいを期待きたいしたが、かり宿やどったのにってしまったさくらはな……。真心まごころがないのはさくらはなだとおもっていたが、一年いちねんめったになかったのはひとのほうでした。(『伊勢物語いせものがたりだい十七だん

筒井筒つついづつ」は、つつのようにまるかこった井戸いどのこと。「筒井つついむかし」はわかいころのこいで、(『伊勢物語いせものがたり恋歌こいうた)の素材そざいとしてもちいている。真弓まゆみ槻弓つきゆみゆみ素材そざいとなる業平なりひら形見かたみころもまとったシテは業平なりひらそのひと姿すがたになりて、つきひかりなかえていく。生前せいぜんのはるかなむかしのことが、いま業平なりひらの「ごう」になってなってしまった、ということ。

謡曲ようきょく井筒いづつ」(つづき)

シテ つきやあらぬ、はるむかし

地謡じうたい とめしも、いつのころぞや、筒井筒つついづつつつ

地謡じうたい ひにけらしな

シテ いにけるぞや

地謡じうたい 筒井筒つついづつ井筒いづつにかけし昔男むかしおとこの、冠直衣かんむりのうしおんな

地謡じうたい さながらえし昔男むかしおとこの、業平なりひら面影おもかげおとこればなつかしや

地謡じうたい われながらなつかしや

業平なりひら形見かたみころもにまとったシテは、ゆきさっはら業平なりひら姿すがた再現さいげんさせようとしてう。在原寺ありわらでら井戸いどうつっているのは去年きょねん月影つきかげ。「つきやあらぬ……」は、「つきはるむかしのままでわらないのに、わがだけが去年きょねんよりいてしまった」(『伊勢物語いせものがたりだいだん)を素材そざいとしている。業平なりひら冠直衣かんむりのうしをつけたおんな(シテ)の姿すがた昔男むかしおとこ業平なりひらそのひと面影おもかげそのままにつきひかりなかえていく。

音阿弥元重おとあみもとしげ
応永おうえいねん(一三九八)〜応仁おうにんねん(一四六七)。将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ寵愛ちょうあいされた観世座かんぜざ大夫たいふで、能楽のうがく普及ふきゅう貢献こうけんした。
金春禅竹こんぱるぜんちく
応永おうえい十二ねん(一四〇五)〜応仁おうにんねん(一四六八)ごろ。世阿弥ぜあみ娘婿むすめむこで、金春座こんぱるざ大夫たいふ能楽論のうがくろん六輪一露ろくりんいちろ』などがある。作曲さっきょくに『定家ていか』『芭蕉ばしょう』などがある。

狂言きょうげん

世阿弥ぜあみ以後には、能役者のうやくしゃとして活躍かつやくした音阿弥元重おとあみもとしげ金春禅竹こんぱるぜんちくなどが注目ちゅうもくされる。

狂言きょうげんは、シテ(主役しゅやく)やアド(脇役わきやく)、従者役じゅうしゃやく太郎冠者たろうかじゃなどをはいし、口語こうごによる対話たいわものまねで演芸えんげいで、初期しょきには即興そっきょう的にえんじられる部分ぶぶんおおく、滑稽こっけい卑俗ひぞくわらいをおもなねらいとしている。やがてのうとのあいだ上演じょうえんされるようになり、民衆みんしゅうするど批判ひはん精神せいしん下剋上げこくじょう風潮ふうちょうつよ反映はんえいしていた。脇狂言わききょうげん大名狂言だいみょうきょうげん鬼山伏狂言おにやまぶしきょうげんなどの種類しゅるい固定化こていかしてきた。社会しゃかい権力けんりょくたいする痛烈つうれつ皮肉ひにく風刺ふうしがこめられている。

狂言きょうげん柿山伏かきやまぶし

(シテ=山伏やまぶし、アド=柿主かきぬし

アド これはいかなことかきへいかめしい

シテ 山伏やまぶしのぼりてかきう。なにとしてやらうぞ、イヤ山伏やまぶし荒立あらだてればかえってあだをなすともうほどに、散々さんざんになってかえさうとおもえば、ヤァく、あのかきかげかくれたをひとだとおもえば

アド く、山伏やまぶし荒立あらだてれば

シテ ハァ、からすじゃといふ。

アド とりといふものはなくものじゃな。

シテ とりひとらう。弓矢ゆみやをおこせ、射殺いころいてやらう。

アド さればこそかずはるまい。こかあくく。

シテ さてかくてはれば、あれはとりではい、さるじゃ。

アド さるといふものは、をせせりをしてかずはるまい。

シテ またさるじゃといふ。

アド かずはひとらう、鉄砲てっぽうってい、ころいてやらう。うごきをしてものじゃが、なかぬか。

幸若舞こうわかまい説経節せっきょうぶし

室町むろまち時代じだい後期こうきには、物語ものがたりわせてまいおこなわれた。『義経記ぎけいき』『曾我物語そがものがたり』(→p.83)など軍記物語ぐんきものがたり内容ないようをもとにした幸若舞こうわかまいのものがおおく、武将ぶしょうたちのあいだでも人気にんきたかかった。また、庶民しょみんあいだでは「説経節せっきょうぶし」とばれる民衆みんしゅう悲痛ひつう物語ものがたりかたられていた。残忍ざんにん場面ばめんもリアルにげられており、異彩いさいはなっていた。『山椒太夫さんしょうだゆう』や『小栗判官おぐりはんがん』などが有名ゆうめいである。

説経節せっきょうぶし山椒太夫さんしょうだゆう

あらいたはしやな御師おしさまは、づし王殿おうどの

いかにづし王丸おうまる、これは丹後たんごならひかや。さらば食事しょくじをもたもらず、ころすかや、六月ろくがつ晦日みそかに、夏越なごしはらひのに、おとうとあねきつきて、すがりつき、かなしやと、流涙るいだなみだながスコト)、あねおとうとにあれていておきある。

歌謡かよう

小歌こうた

室町むろまち時代じだいになると、七五調しちごちょうをもとにしながらも、自由じゆう詩型しけい小歌こうた流行りゅうこうした。男女だんじょあいだ恋情れんじょうをうたったものがおおく、はな言葉ことば対話たいわれられており、庶民しょみん情感じょうかんきとつたえている。『閑吟集かんぎんしゅう』(一五一八ねん成立せいりつ)や『宗安小歌集そうあんこうたしゅう』など小歌こうた歌集かしゅう編纂へんさんされた。謡曲ようきょく狂言きょうげん、『田植草子たうえぞうし』や中国ちゅうごく地方ちほう田植たうええのとき歌謡かようあつめたものもおおく、相互そうごふか影響えいきょう関係かんけいかんがえられる。

ひとはするとも うそひといやよ こころ くひて しょう無やなふ なか うそねかし うそ

(『閑吟集かんぎんしゅう』より)

たとえひとをすることになろうとも、うそをつくひといやよ。こころくして誠実せいじつにしても、かいがないかいがないこと。なかからうそつきがいなくなればいいのに。

中世文学ちゅうせいぶんがくのポイント・チェック

和歌わか

連歌れんが俳諧はいかい

歴史物語れきしものがたり歴史書れきししょ

軍記物語ぐんきものがたり

平家物語へいけものがたり』と『太平記たいへいき』の比較ひかく
平家物語へいけものがたり太平記たいへいき
かた平曲へいきょく琵琶法師びわほうし太平記読たいへいきよ
内容ないよう源平げんぺいあらそい・無常観むじょうかん南北朝なんぼくちょう争乱そうらん政道批判せいどうひはん
文体ぶんたい和漢混交文わかんこんこうぶん和漢混交文わかんこんこうぶん
成立せいりつ十三世紀せいきなか十四世紀せいきなか
作者さくしゃ未詳みしょう未詳みしょう

日記にっき紀行きこう随筆ずいひつ

説話せつわ御伽草子おとぎぞうし

芸能げいのう

歌謡かよう