考題索引

近代きんだい文学ぶんがく

章扉しょうとびら

近代きんだい文学ぶんがく概観がいかん

年代ねんだいひょう明治めいじ時代じだい

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一八六八(明治めいじ1)明治維新めいじいしん文明開化ぶんめいかいか
一八七一仮名垣魯文かながきろぶん安愚楽鍋あぐらなべ
一八七四頃自由民権運動じゆうみんけんうんどうはじまる。政治小説せいじしょうせつ盛行せいこう
一八八五坪内逍遥つぼうちしょうよう小説神髄しょうせつしんずい」「当世書生気質とうせいしょせいかたぎ」。写実主義しゃじつしゅぎ
一八八七二葉亭四迷ふたばていしめい浮雲うきぐも」。落合直文おちあいなおぶみ
一八八八浅香社あさかしゃ結成けっせい落合直文おちあいなおぶみ
一八八九大日本帝国憲法だいにほんていこくけんぽう布告ふこく森鷗外もりおうがい於母影おもかげ」「舞姫まいひめ
一八九一北村透谷きたむらとうこく楚囚之詩そしゅうのし」。「文学界ぶんがくかい創刊そうかん
一八九四〜九五日清戦争にっしんせんそう幸田露伴こうだろはん五重塔ごじゅうのとう」。*紅露こうろ時代じだい
一八九六樋口一葉ひぐちいちよう「たけくらべ」。島崎藤村しまざきとうそん若菜集わかなしゅう
一八九七尾崎紅葉おざきこうよう金色夜叉こんじきやしゃ」。徳富蘆花とくとみろか不如帰ほととぎす」。「ホトトギス」創刊そうかん正岡子規まさおかしき

近世きんせいから近代きんだい

明治めいじ新政府しんせいふ誕生たんじょうした明治めいじ元年がんねん(一八六八)から現在げんざいまでを、近代きんだいとしてあつかう。列強諸国れっきょうしょこくすることのできるだけのちからそなえた資本主義国しほんしゅぎこく発展はってんしたという世界史せかいしにおける近代きんだいむかえることができた日本史にほんしおける近代おけるきんだいである。しかしここには、あまりにも性急せいきゅう西洋化せいようか矛盾むじゅん付随ふずいしており、文学ぶんがくつねにその影響えいきょう制約せいやくをさまざまなかたちけている。

現代げんだい」とぶこともある。その起点きてんは、第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん後の社会運動しゃかいうんどうて、プロレタリア文学ぶんがく台頭たいとうしてきた時期じきもとめるかんがかたもある。

近代きんだい出発しゅっぱつ

明治めいじ前半ぜんはんの二十年間ねんかんは、近世きんせいから近代きんだいへの過渡期かときにあたる。開国かいこく以来洪水こうずいのように流入りゅうにゅうしてきた西洋せいよう思想しそう文化ぶんかつよ影響えいきょうのもとで、文学ぶんがく意味いみ概念がいねんおおきく変化へんかした。そのおも内容ないようは、(1)「文学ぶんがく」という言葉ことば近世的概念きんせいてきがいねん儒学じゅがく中心ちゅうしんとする教養きょうよう全般ぜんぱん)から言語芸術げんごげいじゅつ概念がいねんへと移行いこうし、小説しょうせつ文学ぶんがく首座しゅざめるようになったこと、(2)文学ぶんがく知識人ちしきじん自由じゆうみとめられるようになり、政治小説せいじしょうせつ流行りゅうこうとおじて坪内逍遥つぼうちしょうようらによってその理論化りろんか拡大かくだいされたこと、(3)学校教育がっこうきょういく活版印刷かっぱんいんさつおよびマスコミの発達はったつによって読者層どくしゃそう飛躍的ひやくてき拡大かくだいしたこと、などである。伝統的でんとうてき漢詩かんし和歌わかわるあたらしい韻文いんぶん表現形式ひょうげんけいしき模索もさくした新体詩しんたいしこころみがはじまった。

日本文学にほんぶんがく近代的きんだいてき実質じっしつをもたらしたのは、ロシア文学ぶんがくとおじて水準すいじゅんたかいリアリズムろん体得たいとくしていた二葉亭四迷ふたばていしめいであり、

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年代ねんだいひょう明治めいじ35〜大正たいしょう時代じだい

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一九〇一(明治めいじ34)与謝野晶子よさのあきこ「みだれがみ」。泉鏡花いずみきょうか高野聖こうやひじり
一九〇二(明治めいじ35)国木田独歩くにきだどっぽ武蔵野むさしの
一九〇四〜〇五(明治めいじ37-38)日露戦争にちろせんそう
一九〇五(明治めいじ38)上田敏うえだびん海潮音かいちょうおん」。自然主義しぜんしゅぎ台頭たいとう
一九〇六(明治めいじ39)島崎藤村しまざきとうそん破戒はかい」。文芸協会ぶんげいきょうかい坪内逍遥つぼうちしょうよう
一九〇七(明治めいじ40)田山花袋たやまかたい蒲団ふとん
一九〇九(明治めいじ42)夏目漱石なつめそうせき「それから」。第一次だいいちじ新思潮しんしちょう
一九一三(大正たいしょう2)斎藤茂吉さいとうもきち赤光しゃっこう」。森鷗外もりおうがい阿部一族あべいちぞく」。第三次だいさんじ新思潮しんしちょう
一九一四(大正たいしょう3)夏目漱石なつめそうせき「こゝろ」。高村光太郎たかむらこうたろう道程どうてい
一九一五(大正たいしょう4)森鷗外もりおうがい山椒大夫さんしょうだゆう」。芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ羅生門らしょうもん

つづいてドイツから帰国きこくした森鷗外もりおうがいが、評論ひょうろん翻訳詩ほんやくしなどの各分野かくぶんや浪漫的ろうまんてき傾向けいこうびた啓蒙活動けいもうかつどう精力的せいりょくてき展開てんかいした。しかし、その期間きかんみじかく、やがて帝国憲法ていこくけんぽうもとづく国家体制こっかたいせい成立せいりつする前後ぜんごから顕著けんちょになってきた国粋主義こくすいしゅぎ的な気運きうん背景はいけいにして、尾崎紅葉おざきこうようらの硯友社けんゆうしゃちからち、その元禄風げんろくふう技巧文学ぎこうぶんがく日清戦争にっしんせんそう前後ぜんごまでつづいた。また、北村透谷きたむらとうこく中心ちゅうしんとした同人誌どうじんし文学界ぶんがくかい」では浪漫主義的ろうまんしゅぎてき青年せいねん詩人しじんたちの活動かつどうがあった。

近代きんだい成立せいりつ

分野ぶんやでは自我じが解放かいほう官能かんのう肯定こうていじくにした浪漫主義ろうまんしゅぎ興隆こうりゅうし、島崎藤村しまざきとうそん活躍かつやく雑誌ざっし明星みょうじょう」(与謝野晶子よさのあきこら)の大胆だいたんうた活動かつどう目立めだった。

日清戦争にっしんせんそうから日露戦争にちろせんそうさかいに、文学ぶんがくにも浪漫主義ろうまんしゅぎわる自然主義しぜんしゅぎ潮流ちょうりゅうこった。自然主義しぜんしゅぎばれたこのあたらしい文学運動ぶんがくうんどうは、藤村とうそん田山花袋たやまかたいによってそのとびらひらかれ、島村抱月しまむらほうげつらから有力ゆうりょく批評家ひひょうか参加さんかて、またたく文壇ぶんだん最大さいだい流派りゅうはとしての勢力せいりょくた。

自然主義しぜんしゅぎ功績こうせきは、二葉亭四迷ふたばていしめいたちの言文一致げんぶんいっちによる口語文体こうごぶんたい近代小説きんだいしょうせつ唯一ゆいいつ文体ぶんたいとして確立かくりつさせたことであり、また口語自由詩こうごじゆうししたことである。しかし、自然主義しぜんしゅぎ現実げんじつ諸矛盾しょむじゅん直視ちょくしすることをざさず、観照かんしょうのリアリズムとして定着ていちゃくし、やがて私小説わたくししょうせつばれる日本独特にほんどくとく小説形式しょうせつけいしきた。文学運動ぶんがくうんどうとしては衰退すいたいかっていった。

大正たいしょう昭和しょうわ時代じだい
西暦せいれき時代じだいおもなできごと
一九一六大正たいしょう5第四次だいよじ新思潮しんしちょう」(芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ久米正雄くめまさお)。夏目漱石なつめそうせき没。「高瀬舟たかせぶね」「渋江抽斎しぶえちゅうさい」(森鷗外もりおうがい
一九一七大正たいしょう6さきにて」(志賀直哉しがなおや)。「つきえる」(萩原朔太郎はぎわらさくたろう)。「父帰ちちかえる」(菊池寛きくちかん
一九一九大正たいしょう8暗夜行路あんやこうろ」(志賀直哉しがなおや)。「おんな」(有島武郎ありしまたけお
一九二一大正たいしょう10*「種蒔たねまひと」(プロレタリア文学ぶんがく
一九二四大正たいしょう13新感覚派しんかんかくは。「文芸時代ぶんげいじだい
一九二五大正たいしょう14築地小劇場つきじしょうげきじょう小山内薫おさないかおるら)
一九二六大正たいしょう15伊豆いず踊子おどりこ」(川端康成かわばたやすなり
一九二七昭和しょうわ2河童かっぱ」(芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ)。芥川あくたがわ没(自殺じさつ
一九二九昭和しょうわ4蟹工船かにこうせん」(小林多喜二こばやしたきじ)。「太陽たいようのないまち」(徳永直とくながすなお
一九三〇昭和しょうわ5機械きかい」(横光利一よこみつりいち)。「測量船そくりょうせん」(三好達治みよしたつじ
一九三二昭和しょうわ7四季しき創刊そうかん
一九三三昭和しょうわ8*「文芸復興ぶんげいふっこう」(小林秀雄こばやしひでおら)。「歴程れきてい」(草野心平くさのしんぺいら)

大正たいしょう文学ぶんがく

こうした自然主義しぜんしゅぎ事実偏重主義じじつへんちょうしゅぎにくみせず、国家こっか官僚かんりょうたいしては対照的たいしょうてき態度たいどまもった独自どくじ作家さっか境地きょうちったのが夏目漱石なつめそうせき森鷗外もりおうがいであった。この二人ふたりは、文明批評ぶんめいひひょう的な視野しやひろさとゆたかな教養きょうよう裏付うらづけられたしつたか作品さくひん次々つぎつぎ発表はっぴょうした。

また、鷗外おうがい創刊そうかん関与かんよした「スバル」は、「」の復権ふっけんもとめる耽美派たんびは拠点きょてんとなり、代表作家だいひょうさっかである谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう北原白秋きたはらはくしゅうらを詩人しじん活躍かつやくとあわせて文壇ぶんだんおくした。

自然主義しぜんしゅぎ耽美派たんびは対立たいりつしていた明治末めいじまつ文壇ぶんだん新風しんぷうきこんだのは、武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ志賀直哉しがなおやたちの白樺派しらかばはである。理想主義りそうしゅぎ的なヒューマニズムと強烈きょうれつ自我肯定じがこうてい特色とくしょくとする白樺派しらかばはは、上流階層じょうりゅうかいそうからてきたかれらの作品内容さくひんないよう、および文語ぶんごとした自由平明じゆうへいめい文体ぶんたいとによって、大正前期たいしょうぜんき文壇ぶんだん主流しゅりゅうとしての地位ちい獲得かくとくした。

耽美派たんびはから白樺派しらかばは接近せっきんした高村光太郎たかむらこうたろうは、萩原朔太郎はぎわらさくたろうとともに大正前期たいしょうぜんき文壇ぶんだん主流しゅりゅうとしての口語自由詩こうごじゆうし完成かんせいおおきな役割やくわりたした。

近代きんだいから現代げんだい

大正前期たいしょうぜんきには、耽美派たんびは白樺派しらかばはすごしてきた現実げんじつをもう一度いちどとらえなおそうとする傾向けいこうつよくなり、数多かずおおくの大正たいしょう作家さっかたちがいたのは、芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ菊池寛きくちかん、あるいは新早稲田派しんわせだはばれる一群いちぐん作家さっかなど、体験たいけん的な事実じじつ世界せかいでリアリズムをみがきあげてきた私小説わたくししょうせつ方向ほうこうであった。それは芸術家げいじゅつかとしての純粋性じゅんすいせい達成たっせい同時どうじに、深刻しんこくまりをもたらさずにはおかなかった。

第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん後、マルクス主義しゅぎ影響えいきょうけた労働運動ろうどううんどう社会運動しゃかいうんどう急速きゅうそく発展はってんしてきた。そのなかからまれてきたプロレタリア文学ぶんがくは、階級性かいきゅうせいというあたらしい主張しゅちょうかかげて大正たいしょう文壇ぶんだんおおきくゆるがした。このながれは「種蒔たねまひと」から「文芸戦線ぶんげいせんせん」へとすすむにつれて、しだいに革命的かくめいてき色彩しきさい濃厚のうこう

昭和しょうわ時代じだい戦前せんぜん戦中せんちゅう
西暦せいれき時代じだいおもなできごと
一九三六昭和しょうわ11日本浪曼派にほんろうまんは
一九三七昭和しょうわ12風立かぜたちぬ」(堀辰雄ほりたつお)。「雪国ゆきぐに」(川端康成かわばたやすなり)。*日中戦争にっちゅうせんそう
一九三八昭和しょうわ13むぎ兵隊へいたい」(火野葦平ひのあしへい)。*国策文学こくさくぶんがく
一九四一昭和しょうわ16太平洋戦争たいへいようせんそうはじまる
一九四二昭和しょうわ17山月記さんげつき」(中島敦なかじまあつし
一九四五昭和しょうわ20終戦しゅうせん
昭和しょうわ時代じだい戦後せんご)〜平成へいせい
西暦せいれき時代じだいおもなできごと
一九四七昭和しょうわ22ヴィヨンゔぃよんつま」「斜陽しゃよう」(太宰治だざいおさむ
一九四八昭和しょうわ23人間失格にんげんしっかく」(太宰治だざいおさむ)。「荒地あれち」(詩誌ししし
一九四九昭和しょうわ24真空地帯しんくうちたい」(野間宏のまひろし
一九五三昭和しょうわ28第三だいさん新人しんじん安岡章太郎やすおかしょうたろうら)
一九五五昭和しょうわ30太陽たいよう季節きせつ」(石原慎太郎いしはらしんたろう)。「しろひと」(遠藤周作えんどうしゅうさく
一九五七昭和しょうわ32金閣寺きんかくじ」(三島由紀夫みしまゆきお
一九六八昭和しょうわ43川端康成かわばたやすなりノーベル賞受賞しょうじゅしょう
一九七〇昭和しょうわ45三島由紀夫みしまゆきお
一九九四平成へいせい6大江健三郎おおえけんざぶろうノーベル賞受賞しょうじゅしょう

戦争せんそう文学ぶんがく

していった。一ほう私小説わたくししょうせつ伝統でんとう打破だはざすもう一つのながれとして、横光利一よこみつりいち川端康成かわばたやすなりらの新感覚派しんかんかくは勢力せいりょくがあり、有島武郎ありしまたけお芥川あくたがわという「既成作家きせいさっか」を挟撃きょうげきするかたちで、文学史ぶんがくしにおける昭和しょうわまくひらかれたのである。

プロレタリア文学ぶんがくは、昭和三年しょうわさんねん(一九二八)のナップ(全日本無産者芸術連盟ぜんにほんむさんしゃげいじゅつれんめい結成けっせいこうますますいきおいをし、小林多喜二こばやしたきじらのつよ影響力えいきょうりょくをもった。しかし、満州事変まんしゅうじへんらい中国大陸ちゅうごくたいりくたいする政治優先せいじゆうせんうごきが急速きゅうそく発展はってんしてきた。政府せいふ国内こくない弾圧体制だんあつたいせい一段いちだん強化きょうかするなかで、文学運動ぶんがくうんどう壊滅かいめついこまれていった。その既成作家きせいさっか復活ふっかつや、転向作家てんこうさっかプロレタリア文学ぶんがくけいとの協同きょうどう小林秀雄こばやしひでお活躍かつやくをあわせて、「文芸復興ぶんげいふっこう」とばれる一時的いちじてき活気かっき文壇ぶんだんまれた。

日中戦争にっちゅうせんそうから太平洋戦争たいへいようせんそうへといたなかで、知識人ちしきじん読者層どくしゃそうにもつよ影響力えいきょうりょくをもつプロレタリア文学ぶんがく壊滅かいめついこまれ、ファシズムの進行しんこう表現ひょうげん自由じゆううばい、国策文学こくさくぶんがく戦意高揚せんいこうよう文学ぶんがく強制きょうせいされた。この暗黒状況あんこくじょうきょう日本にほん敗戦はいせんまでつづいた。

戦後せんご文学ぶんがく

敗戦はいせん後、戦争せんそう傷跡きずあとこころなかのこしながらも、文学ぶんがく再生さいせいかってのあたらしい息吹いぶききがまれた。そのおもなものは、志賀直哉しがなおや谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうらいわゆる老大家ろうたいか復活ふっかつきゅうプロレタリア作家さっか中心ちゅうしんにした批評家ひひょうかたちの理論活動りろんかつどうと「近代文学きんだいぶんがく活動かつどう野間宏のまひろし大岡昇平おおおかしょうへいはじめとする戦後派せんごはばれる新人作家しんじんさっかたちの登場とうじょう太宰治だざいおさむ坂口安吾さかぐちあんごら「無頼派ぶらいは」の活躍かつやく宮本百合子みやもとゆりこきゅうプロレタリア作家さっか活動かつどう、「荒地あれち」をはじめとする戦後詩派せんごしは出発しゅっぱつなどである。

その戦後文学せんごぶんがくは、出版しゅっぱんジャーナリズムの巨大化きょだいかというあたらしい条件じょうけん出現しゅつげんとも問題もんだいふくみこみながら、次々つぎつぎあたらしい作家さっかして今日こんにちいたっている。

小説しょうせつ評論ひょうろん

近世きんせいから近代きんだい

明治めいじ初年しょねん十年代じゅうねんだい

明治めいじ政府せいふ誕生たんじょう同時どうじ文学ぶんがく史上しじょう近代きんだいはじまったわけではない。近世きんせいでは儒学じゅがく中心ちゅうしんとする武士階級ぶしかいきゅう教養きょうよう全般ぜんぱん意味いみする言葉ことばであった「文学ぶんがく」が、芸術げいじゅつひとジャンルをしめ用語ようごわり、しかも小説しょうせつがその首座しゅざめるという概念がいねん定着ていちゃくするまでだけでも、なお二十年にじゅうねんほどの歳月さいげつ必要ひつようだったのである。

移行期いこうき文学ぶんがく

この、近世きんせい文学観ぶんがくかんから近代きんだい文学観ぶんがくかんへの移行期いこうきには、まず江戸末期えどまっきからの伝統でんとう文法ぶんぽうによって明治めいじ新風俗しんふうぞくえがいた戯作げさくながれがあり、これに文明開化ぶんめいかいか洪水こうずいなかからまれてきた翻訳小説ほんやくしょうせつや、自由民権運動じゆうみんけんうんどう隆盛りゅうせい母胎ぼたいにした政治小説せいじしょうせつ系列けいれつくわわることによって、小説しょうせつあたらしい可能性かのうせいひらかれていった。また、活版印刷かっぱんいんさつによる識字人口しきじじんこう増加ぞうか読者層どくしゃそう全国ぜんこく拡大かくだいをもたらし、学校教育がっこうきょういくによる識字人口しきじじんこう増加ぞうかが、近代文学きんだいぶんがく出発しゅっぱつ外的条件がいてきじょうけんをしだいにととのえつつあった。

戯作げさく戯作者げさくしゃ
戯作げさく」とは、たわむれにつくること、またはその作品さくひんで、文学史ぶんがくしじょうでは近世後期きんせいこうき読本よみほん洒落本しゃれぼん黄表紙きびょうしなどの作者さくしゃを「戯作者げさくしゃ」としょうした。こうした小説観しょうせつかん明治初期めいじしょきにまでがれ、戯作げさく文学ぶんがくながれとしてとらえられる。
翻訳小説ほんやくしょうせつ
西洋文学せいようぶんがく自覚的じかくてき翻訳ほんやくはじまったのは明治めいじ年代ねんだいはいってからである。明治めいじ十一・十二ねん原作者げんさくしゃリットンの作品さくひんをなした丹羽純一郎にわじゅんいちろう訳「花柳春話かりゅうしゅんわ」は、西洋人せいようじん感情生活かんじょうせいかつえがいた翻訳小説ほんやくしょうせつ先駆さきがけとなった。
仮名垣魯文かながきろぶん

幕末ばくまつからの戯作者げさくしゃたちのなかで、「西洋道中膝栗毛せいようどうちゅうひざくりげ」(明治めいじ3〜9)や「安愚楽鍋あぐらなべ」(明治めいじ4〜5)によっていちはや文明開化ぶんめいかいか時流じりゅうった仮名垣魯文かながきろぶんは、そのとき小説しょうせつふでっていたが、やがて新聞しんぶんの「つづきもの」の作者さくしゃとして復活ふっかつし、「高橋阿伝夜叉譚たかはしおでんやしゃたん」(明治めいじ12)などは庶民しょみんあいだおおきな人気にんきはくした。

政治小説せいじしょうせつ

趣向しゅこうたくした寓意小説ぐういしょうせつや、外国がいこく革命文学かくめいぶんがく翻訳ほんやく翻案ほんあんはじまった政治小説せいじしょうせつは、自由民権運動じゆうみんけんうんどう宣伝せんでん啓蒙けいもう手段しゅだんとして、作者さくしゃ政治せいじ主張しゅちょう戯作的げさくてき寓意ぐうい表現ひょうげんし、やがて小説しょうせつたいとしての魅力みりょくすようになった。代名だいめい主人公しゅじんこう登場とうじょうさせ、世界せかい弱小諸民族じゃくしょうしょみんぞく悲劇ひげき題材だいざいにした矢野龍渓やのりゅうけいの「経国美談けいこくびだん」(明治めいじ16〜)は古代こだいギリシアの歴史れきし背景はいけいにした作品さくひんであった。東海散士とうかいさんしの「佳人之奇遇かじんのきぐう」(明治めいじ18〜30)は、雄大ゆうだいなロマンせいとモチーフの鮮烈せんれつさによって、当時とうじ青年せいねんたちから熱烈ねつれつ支持しじけた。

つづいて末広鉄腸すえひろてっちょうの「雪中梅せっちゅうばい」(明治めいじ19)・「花間鶯かかんうぐいす」などが写実性しゃじつせいというてんでさらに前進ぜんしんし、政治せいじ庶民しょみん文化ぶんか的レベルにまで後退こうたいさせられていく実情じつじょうえがかれていた。

▶「つづきもの」
明治めいじねん(一八七二)ごろ、実学じつがく実際じっさいやく学問がくもん重視じゅうしする明治政府めいじせいふが、新聞しんぶん小説しょうせつをほとんど排除はいじょしていた時期じき新聞しんぶん連載れんさい読物よみものとしてはじまった。やがてジャーナリズムが読者どくしゃこえにこたえるため連載化れんさいかすすめ、長編ちょうへん小説しょうせつ出発しゅっぱつ先駆さきがけとなった。
翻訳政治小説ほんやくせいじしょうせつ
フランスふらんす革命かくめい題材だいざいにした原作げんさく桜田百衛さくらだひゃくえい自由じゆう翻訳ほんやくした「西洋血潮小説風せいようちしおしょうせつふう」(明治めいじ18)、ロシアの革命かくめい運動うんどうえがいた宮崎夢柳みやざきむりゅう作品さくひんが、この分野ぶんやでの最高さいこう達成たっせいしめした。
小説しょうせつ主眼しゅがん人情にんじょうなり。人情にんじょうとはいかなるものをいふや。いわく、人情にんじょうとは人間にんげん情欲じょうよくにて、所謂いわゆる世態せたい風俗ふうぞくこれにぐ。善悪正邪ぜんあくせいじゃこころ内幕うちまく所謂いわゆる百八煩悩ひゃくはちぼんのうこれなり。(中略ちゅうりゃく此人情このにんじょうおく穿うがちて周密精到しゅうみつせいとうおよび、その骨体こったい穿うがつにあらざれば、其皮相そのひそうのみをうつしたる、人情にんじょう灼然しゃくぜんとしてえしむるのみにて、よしや人情にんじょううつすとも、小説しょうせつとはいふべからず。」 (「小説神髄しょうせつしんずい上巻じょうかん小説しょうせつ主眼しゅがん」)

近代きんだい出発しゅっぱつ

明治めいじ二十年代ねんだい

明治めいじ二十ねん(一八八七)は、「浮雲うきぐも」の第一編だいいちへん発表はっぴょうされたねんである。ロシア文学ぶんがく最高傑作群さいこうけっさくぐんせられたわか二葉亭四迷ふたばていしめい全力ぜんりょく投入とうにゅうしていたこの小説しょうせつ出現しゅつげんによって、日本にほん文学史ぶんがくしは、ようやく近代小説きんだいしょうせつあたいする作品さくひんたのである。言文一致げんぶんいっちという文体ぶんたいじょうこころみの画期性かっきせいとあわせて、その歴史的意義れきしてきいぎはきわめてたかい。

山田美妙やまだびみょう
明治元年めいじがんねん(一八六八)〜明治めいじ四十ねん(一九〇七)。尾崎紅葉おざきこうようらとともに日本にほん最初さいしょ文芸雑誌ぶんげいざっし我楽多文庫がらくたぶんこ」(硯友社けんゆうしゃ)の結成同人けっせいどうじん一人ひとりであった。言文一致体げんぶんいっちたいによる歴史小説れきししょうせつ武蔵野むさしの」(明治めいじ20)や「蝴蝶こちょう」(明治めいじ22)で時代じだいかくしたが、のちに文壇ぶんだん主流しゅりゅうからはずれ、さらにゴシップにまれていった。
小説改良しょうせつかいりょう
鹿鳴館ろくめいかん明治めいじ16落成らくせい)に象徴しょうちょうされる欧化最盛期おうかさいせいき明治めいじ年代ねんだい後半こうはんは、西洋せいよう近代きんだいたいする「小説改良しょうせつかいりょうろんがさまざまなかたちしょうじた。この気運きうんなかから「新体詩抄しんたいししょう」の編集者へんしゅうしゃまれ、外山正一とやままさかず社会進化論しゃかいしんかろん主導しゅどうする学者がくしゃたちがろんじた。
坪内逍遥つぼうちしょうよう
安政あんせい六(一八五九)〜昭和しょうわ十四(一九三九)ねん大学だいがく在学中ざいがくちゅう外山正一とやままさかず講義こうぎけて社会進化論しゃかいしんかろんもとづく改良主義者かいりょうしゅぎしゃとなった。尾崎紅葉おざきこうようらとともに硯友社けんゆうしゃ結成けっせいかかわり、明治めいじ文壇ぶんだん中心ちゅうしんとなった。

だが、明治めいじ二十二ねん(一八八九)、二葉亭ふたばてい先駆者せんくしゃとしての苦悩くのうてに、ついに「浮雲うきぐも」の完成かんせい断念だんねんしたまま文壇ぶんだんから姿すがたした。帝国憲法ていこくけんぽう制定せいていされたのも同年どうねんであり、また言文一致体げんぶんいっちたい創始者そうししゃ栄誉えいよ二葉亭ふたばていかちあった山田美妙やまだびみょうも、ほぼおなじころ、国粋主義こくすいしゅぎ的な風潮ふうちょうたかまりのなか精彩せいさいうしないはじめていった。

みずからのドイツ留学りゅうがく体験たいけんもとづく清新せいしんなロマンチシズムを文壇ぶんだんきこんだ森鷗外もりおうがいも、その舞姫まいひめ」などをつぎはや発表はっぴょうしただけで、小説制作しょうせつせいさくからとおざかった。そして、以後いご明治めいじ二十年代ねんだい中後半ちゅうこうはん文壇ぶんだんは、尾崎紅葉おざきこうよう総帥そうすいとする硯友社けんゆうしゃ風俗写実主義ふうぞくしゃじつしゅぎが、幸田露伴こうだろはんとのあいだ東洋とうよう浪漫性ろうまんせいおぎないながら、小説しょうせつ分野ぶんやでの強大きょうだい勢力せいりょく確立かくりつしていた。

文芸批評ぶんげいひひょう成立せいりつ

明治めいじ二十年代ねんだいは、文芸批評ぶんげいひひょうはじめて文学ぶんがくひとジャンルとして成立せいりつはじまりの時期じきである。文学批評家ぶんがくひひょうか次々つぎつぎ登場とうじょうし、石橋忍月いしばしにんげつ内田不知庵うちだふちあん斎藤緑雨さいとうりょくうらも活躍かつやくした。評論ひょうろん専門せんもん雑誌「しがらみ草紙そうし」の主宰者しゅさいしゃ森鷗外もりおうがいと、「早稲田文学わせだぶんがく」にった坪内逍遥つぼうちしょうようとのあいだおこなわれた「没理想論争ぼつりそうろんそう」(明治めいじ24〜25)は、この時期じき最大さいだい事件じけんとしてあげることができる。

硯友社けんゆうしゃ
明治めいじ十八ねん東京大学とうきょうだいがく予備門よびもんのちの「一高いっこう」)の学生がくせいたちを中心ちゅうしん成立せいりつした文学ぶんがく結社けっしゃ尾崎紅葉おざきこうようらが主宰しゅさいし、日本にほん最初さいしょ文学雑誌ぶんがくざっし我楽多文庫がらくたぶんこ」を創刊そうかんした。初期しょき同人どうじんには尾崎紅葉おざきこうよう山田美妙やまだびみょうのほか、川上眉山かわかみびざん泉鏡花いずみきょうからがいた。
石橋忍月いしばしにんげつ
慶応けいおうねん(一八六五)〜大正たいしょう十五ねん(一九二六)。明治めいじ文壇ぶんだん代表だいひょうする批評家ひひょうか一人ひとり
内田不知庵うちだふちあん
慶応けいおうねん(一八六八)〜昭和しょうわねん(一九二九)。明治めいじ文芸批評家ぶんげいひひょうか
斎藤緑雨さいとうりょくう
慶応けいおうねん(一八六七)〜明治めいじ三十七ねん(一九〇四)。明治めいじ欧化文明おうかぶんめい辛辣しんらつ批判ひはんつづけた個性的こせいてき批評家ひひょうか
没理想論争ぼつりそうろんそう
明治めいじ二十四〜二十五ねん(一八九一〜九二)に坪内逍遥つぼうちしょうよう森鷗外もりおうがいおこなった論争ろんそう絶対的ぜったいてき批評基準ひひょうきじゅん確立かくりつ主張しゅちょうする鷗外おうがいと、「没理想ぼつりそう」の立場たちば逍遥しょうよう対立たいりつした。論争ろんそう実質的じっしつてき成果せいかなくわった。

二葉亭四迷ふたばていしめい

二葉亭四迷ふたばていしめいは、ロシア文学ぶんがくはんあおぎながら、ひろ社会性しゃかいせいきとした形象性けいしょうせいとの統一とういつ実現じつげんざして、処女作しょじょさく浮雲うきぐも」(明治めいじ20〜22)に着手ちゃくしゅした。さん内面ないめんだけにしぼられていくという展開てんかいじょうなやみに、言文一致体げんぶんいっちたい文章ぶんしょうじょうくるしみがくわわり、かれはついに第三編だいさんへん中途ちゅうとでこの小説しょうせつ放棄ほうきし、作家さっかたることを断念だんねんしてしまった。二葉亭ふたばてい小説しょうせつ世界せかい復活ふっかつしてくるのは、十年近じゅうねんちかくの、「其面影そのおもかげ」(明治めいじ39)の発表はっぴょうによってである。

なお、「浮雲うきぐも」の制作せいさく並行へいこうして二葉亭ふたばていはツルゲーネフの翻訳ほんやくめぐりあひめぐりあい」(明治めいじ21)を発表はっぴょうした。原文げんぶんたいする徹底的てっていてき忠実ちゅうじつさと自然しぜん口語文体こうごぶんたいしさによって、翻訳文学史上ほんやくぶんがくしじょう新時代しんじだいかくすると同時どうじに、わか読者どくしゃおおきな影響えいきょうあたえた。

「サッパリとはしてるれど、おもしろもおかしもなく、心細こころぼそッてた……さえぎ物象ぶっしょうはどうやらさびれはてたうちにも、間近まぢかになったふゆのすさまじさが見透みすかされるようにおもはれて。小心しょうしんかぜおもさうにはねばたいてる……」 (「あひき」末尾まつび
二葉亭四迷ふたばていしめい
元治げんじねん(一八六四)〜明治めいじ四十二ねん(一九〇九)。東京外国語学校とうきょうがいこくごがっこうでロシアまなび、ベリンスキーの理論りろんをもとにした「模写もしゃ事実じじつ」という概念がいねんおもんじ、ツルゲーネフやドストエフスキーどすとえふすきー文学ぶんがくたかさを逍遥しょうようつたえて刺激しげきあたえた。
写実主義しゃじつしゅぎ
リアリズム。現実げんじつをありのままにあらわすことをざした創作態度そうさくたいどじくにした創作方法そうさくほうほう
言文一致げんぶんいっち
小説しょうせつ口語体こうごたい文章ぶんしょう表現ひょうげんもちいるこころみは明治初年めいじしょねんからあったが、一般的いっぱんてき文章表現ぶんしょうひょうげん口語化こうごかする運動うんどうおおきく前進ぜんしんさせたのは二葉亭ふたばていであった。山田美妙やまだびみょうも「です」「だ」調ちょう言文一致体げんぶんいっちたいこころみたが、二十年代中期にじゅうねんだいちゅうきには二葉亭ふたばてい「だ」調だちょう主流しゅりゅうとなった。
「たきをして、はげしくかぜりながら、頭上ずじょうたかぎたが、フトくびまわらせて、横目よこめ自分じぶんをにらめッて、きゅうッて、こえをちぎるやうにわめきたりながら、はと幾羽いくわともなくをなして、殻倉からくらほうからはやしこうへくれてしまった。……さてパッといきおんで野面のづらッた……ア、秋だあきだだれだかくるまおと虚空こくうひびきわたッた……」 原作げんさく・ツルゲーネフ「猟人日記りょうじんにっき」の一節いっせつ

初期しょき鷗外おうがい

ドイツ留学りゅうがくから帰国きこくした森鷗外もりおうがいは、ヨーロッパの近代性きんだいせい日本にほん前近代性ぜんきんだいせいとの距離きょり自覚じかくって、精力的せいりょくてき文筆活動ぶんぴつかつどう開始かいしした。小説しょうせつ分野ぶんやでは、ベルリンを舞台ぶたいにして日本人留学生にほんじんりゅうがくせい太田豊太郎おおたとよたろうおどりエリスとの悲恋ひれん雅文体がぶんたい手記形式しゅきけいしきでつづった「舞姫まいひめ」(明治めいじ23)にはじまって、「うたかたの」(明治めいじ23)・「ふみづかひ」(明治めいじ24)とつづく、浪漫ろうまん的な情感じょうかんつつまれた近代的自我きんだいてきじが問題もんだい提出ていしゅつしたドイツ三部作さんぶさくのこされている。しかし、この時期じき鷗外おうがい仕事しごと中心ちゅうしんは、むしろ「戦闘的啓蒙せんとうてきけいもう活動かつどうにあった。

かれ議論ぎろん多方面たほうめんにわたったが、文学ぶんがくめんでは、日本にほん最初さいしょ本格的ほんかくてき文芸評論雑誌ぶんげいひひょうざっし「しがらみ草紙そうし」を創刊そうかん明治めいじ22)して活発かっぱつ小説論しょうせつろん展開てんかいし、また西欧せいおう名作めいさく翻訳紹介ほんやくしょうかい積極的せっきょくてきおこなった。

▶しがらみ草紙そうし
鷗外おうがいとそのおとうと森篤次郎もりとくじろう中心ちゅうしんに、「消々しょうしょうたる文壇ぶんだんながれにくさびをかける」という目的もくてき創刊そうかんされた月刊雑誌げっかんざっし文学ぶんがく芸術げいじゅつ方面ほうめんでの鷗外おうがい啓蒙活動けいもうかつどう拠点きょてんとなった。明治めいじ二十七ねん(一八九四)、日清戦争にっしんせんそう出征しゅっせい廃刊はいかん鷗外おうがい訳業やくぎょうなかもっと人気にんきあつめた「即興詩人そっきょうしじん」(明治めいじ35、原作者げんさくしゃアンデルセン)も、前半部ぜんはんぶは「しがらみ草紙そうし」に連載れんさいされたものである。
紅露こうろ時代じだい

山田美妙やまだびみょうけたあとの硯友社けんゆうしゃのリーダー尾崎おざきは、井原西鶴いはらさいかく影響えいきょうけて元禄文学げんろくぶんがく色調しきちょうい「比丘尼色懺悔びくにいろざんげ」(明治めいじ22)によってみとめられ、おりからの国粋主義こくすいしゅぎ的な気運きうんって、またたく一門いちもんひきいて文壇ぶんだん主導権しゅどうけんにぎった。おなじころ、やはり西鶴さいかく影響えいきょうふかけながら、文壇ぶんだんとは対照的たいしょうてき東洋とうよう風なみやび作風さくふう特色とくしょくとする新人しんじん幸田露伴こうだろはんがあらわれ、遊逝ゆうせい四迷しめい鷗外おうがい相次あいついで小説制作しょうせつせいさくからとおざかったあとの文壇ぶんだんに、「紅露こうろ時代じだい」とばれる一時期いちじき形成けいせいした。

伽羅枕きゃらまくら」(明治めいじ23)・「三人妻さんにんづま」(明治めいじ25)などで女性じょせい主人公しゅじんこう小説しょうせつ得意とくいとし、物語ものがたり的な構成こうせい工巧こうこうちこむ職人しょくにんかたぎられた紅葉こうよう写実主義しゃじつしゅぎは、風俗小説ふうぞくしょうせつ的な皮相ひそうさをまぬれていないが、展開てんかい発揮はっきされた才能さいのうには非凡ひぼんなものがある。また露伴ろはんは、「風流仏ふうりゅうぶつ」(明治めいじ22)や「五重塔ごじゅうのとう」(明治めいじ24)などで、男性的だんせいてき筆致ひっち明治型近代めいじがたきんだいたいする批判ひはん一視点いっしてんしめした。

北村透谷きたむらとうこくと「文学界ぶんがくかい

評論家ひょうろんかとして注目ちゅうもくされた北村透谷きたむらとうこくらが、明治めいじ二十六ねん(一八九三)「文学界ぶんがくかい」を創刊そうかんした。眠世詩家めんせいしか女性じょせいかんする批判ひはん一視点いっしてんしめし、「人生じんせい相渉あいわたるとはなんぞや」などで浪漫主義ろうまんしゅぎ的な恋愛賛美れんあいさんび個人こじん内面ないめん解放かいほう主張しゅちょうした。島崎藤村しまざきとうそん上田敏うえだびんらとともに、「文学界ぶんがくかい」は明治浪漫主義めいじろうまんしゅぎ拠点きょてんとなった。

尾崎紅葉おざきこうよう
慶応けいおうねん(一八六七)〜明治めいじ三十六ねん(一九〇三)。紅露時代こうろじだい形成けいせいしたのち、「てんうつなみ」(明治めいじ36〜38)の中絶ちゅうぜつによりしまれた。
文学界ぶんがくかい
キリストきょう女子啓蒙じょしけいもう雑誌「女学雑誌じょがくざっし」(明治めいじ18創刊そうかん)から独立どくりつした雑誌ざっし同人どうじんには馬場孤蝶ばばこちょう戸川秋骨とがわしゅうこつ平田禿木ひらたとくぼくらのほか、島崎藤村しまざきとうそん上田敏うえだびんらがくわわった。明治めいじ二十六〜三十一ねん(一八九三〜九八)。
北村透谷きたむらとうこく
明治めいじねん(一八六八)〜明治めいじ二十七ねん(一八九四)。明治めいじ二十六ねんで「眠世詩家めんせいしか女性じょせい」で斬新ざんしん恋愛賛美れんあいさんび思想しそう大胆だいたん主張しゅちょうし、「人生じんせい相渉あいわたるとはなんぞや」などで活躍かつやくした。
浪漫主義ろうまんしゅぎ
ロマンティシズムのやく日本にほんでは、個性こせい自我じが解放かいほう感性かんせい方向ほうこうもとめた文学ぶんがく二十年代にじゅうねんだいから三十年代さんじゅうねんだい隆盛りゅうせいし、「文学界ぶんがくかい」と「明星みょうじょう」を中心ちゅうしんに、泉鏡花いずみきょうか森鷗外もりおうがい初期作品しょきさくひん高山樗牛たかやまちょぎゅう批評ひひょうなどが代表だいひょうとされる。
広津柳浪ひろつりゅうろう
文久ぶんきゅうねん(一八六一)〜昭和しょうわ四十ねん(一九六五)。悲惨小説ひさんしょうせつ代表作家だいひょうさっかとしてられた。代表作だいひょうさくに「今戸心中いまどしんじゅう」(明治めいじ22)・「変目伝へんめでん」(明治めいじ29)・「あめ」(明治めいじ35)などがある。

内部生命論ないぶせいめいろん」などの力作評論りきさくひょうろん次々つぎつぎ発表はっぴょうして同人全体どうじんぜんたいをリードし、浪漫主義ろうまんしゅぎ文学運動ぶんがくうんどう拠点きょてんきずいた。またこれと並行へいこうして、透谷とうこくはキリストきょう系の平和運動へいわうんどう方面ほうめんでも精力的せいりょくてき活動かつどうつづけたが、理想りそうもとめるはげしい情熱じょうねつのために、翌年よくねんわずか二十五さいわかさで自殺じさつした。

社会しゃかい」と「自然しぜん

日清にっしん日露戦争にちろせんそう時代じだい 明治めいじ27〜38)

資本主義しほんしゅぎ本格的ほんかくてき発展期はってんきはいると同時どうじに、はやくもその矛盾むじゅん露呈ろていした時期じきである。

社会矛盾しゃかいむじゅん追求ついきゅう

その文学的ぶんがくてき反映はんえいとして、広津柳浪ひろつりゅうろうらの「悲惨小説ひさんしょうせつ」が日清戦争にっしんせんそう文壇ぶんだんにブームをび、また「社会小説しゃかいしょうせつ」をのぞこえたかまった。こうした傾向けいこうつづいて、尾崎紅葉おざきこうようの「金色夜叉こんじきやしゃ」や徳富蘆花とくとみろかの「不如帰ほととぎす」が記録的きろくてきなベストセラーとなった。こうした気運きうん無関係むかんけいではなく、小杉天外こすぎてんがい永井荷風ながいかふう作品さくひん注目ちゅうもくあつめ、社会しゃかい矛盾むじゅん肉薄にくはくする「観念小説かんねんしょうせつ」の系譜けいふまれた。

自然描写しぜんびょうしゃ系譜けいふ

この時代じだいは、徳富蘆花とくとみろかの「自然しぜん人生じんせい」(明治めいじ33)や、二葉亭四迷ふたばていしめい翻訳ほんやく先鞭せんべんをつけた近代的きんだいてきな「自然しぜん」にたいする文学的ぶんがくてき関心かんしんつよまった。詩風しふう自然文学しぜんぶんがくまれ、国木田独歩くにきだどっぽは「武蔵野むさしの」(明治めいじ34)などの散文さんぶん社会しゃかい適合てきごうできないよわ人間にんげんたちにけ、叙情性じょじょうせいけずって否定的ひていてき意味いみでの「ありのままにく」という自然主義しぜんしゅぎ接近せっきんしていった。

観念小説かんねんしょうせつ
社会しゃかい矛盾むじゅん心理しんり観念的かんねんてきえがいた小説しょうせつ明治めいじ20〜30年代ねんだい流行りゅうこうした一類型いちるいけいで、「深刻小説しんこくしょうせつ」ともばれた。
高山樗牛たかやまちょぎゅう
明治めいじねん(一八七一)〜明治めいじ三十五ねん(一九〇二)。評論ひょうろん文学ぶんがく活躍かつやくした「日本主義にほんしゅぎ」を提唱ていしょうし、層層社そうそうしゃ人々ひとびとけたヒューマニティーを展開てんかいした。
▶ゾライズム
フランス自然主義しぜんしゅぎ代表作家だいひょうさっかエミール・ゾラが主張しゅちょうした「遺伝いでん環境かんきょう」によって人間にんげん性格せいかく形成けいせいをとく理論りろん日本にほん自然主義しぜんしゅぎおおきな影響えいきょうあたえた。
国木田独歩くにきだどっぽ
明治めいじねん(一八七一)〜明治めいじ四十一ねん(一九〇八)。「武蔵野むさしの」(明治めいじ34)のほか、「わす人々ひとびと」「源叔父げんじんじ」「牛肉ぎゅうにく馬鈴薯じゃがいも」「運命うんめい」などの短編小説たんぺんしょうせつのこした。前期自然主義ぜんきしぜんしゅぎ代表だいひょうする作家さっか

「たけくらべ」(十二)

るにどくなるは……美登利みどり障子しょうじなかながら……たるばかりはし、りめんをつかみし、かあさんれをこしらってっ御座ござんすとたずねて、針箱はりばこしから友仙ゆうぜんちの洋傘ようがささしてでて、途中とちゅう鼻緒はなおり、あれだれかか鼻緒はなおり……よりもはやく、庭下駄にわげたはくもかまはず、庭石にわいしうえつたわっていそあしに……それと美登利みどりは……どきはやくうつを、ひとるかと背後はいご見回みまわされて、振返ふりかえりて、れも無言むごんむねながる、冷汗ひやあせ跣足はだしになりてしたきおもいなり。

樋口一葉ひぐちいちよう明治めいじ6〜明治めいじ29)
上記じょうき作品さくひんのほか、「十三夜じゅうさんや」〔明治めいじ28〕・「わかれみち」〔明治めいじ29〕などがある。
いずみ鏡花きょうか

紅葉こうよう門人もんじんとして出発しゅっぱつしたいずみ鏡花きょうか初期しょき作品さくひんには、あくにく正義せいぎと、わかうつくしいははへの思慕しぼというふたつの基本きほんモチーフがみとめられる。前者ぜんしゃ系列けいれつぞくする「夜行巡査やこうじゅんさ」「外科室げかしつ」〔明治めいじ28〕で人気にんき作家さっかとなって以来いらい

いずみ鏡花きょうか明治めいじ6〜昭和しょうわ14)
上記じょうき作品さくひんのほか、明治めいじ40年代ねんだい以降いこう代表だいひょうさくに「婦系図おんなけいず」〔明治めいじ40〕・「歌行燈うたあんどん」〔明治めいじ43〕などがある。

海城発電かいじょうはつでん」〔明治めいじ27〕などの観念小説かんねんしょうせついていたかれは、もなく後者こうしゃのモチーフを主軸しゅじくとする幻想美げんそうび世界せかい創造そうぞう華麗かれい才能さいのう発揮はっきしはじめ、「照葉狂言てりはきょうげん」〔明治めいじ29〕から「高野聖こうやひじり」〔明治めいじ33〕にいたってひとつの頂点ちょうてんたっした。

観念小説かんねんしょうせつ
作者さくしゃ抗議こうぎ主張しゅちょうのあらわれた作品さくひんぐんたいしてつけられた名称めいしょうで、代表作だいひょうさくとして鏡花きょうか上記じょうき作品さくひんのほか、川上眉山かわかみびざんの「書記官しょきかん」「うらおもて」〔明治めいじ28〕などがあげられる。
社会小説しゃかいしょうせつ

悲惨ひさん小説しょうせつ観念小説かんねんしょうせつ不自然ふしぜんさを脱却だっきゃくして社会しゃかい本質ほんしつせまあたらしい小説しょうせつ出現しゅつげん要求ようきゅうした明治めいじ三十さんじゅう前後ぜんごの「社会小説しゃかいしょうせつろんは、直接的ちょくせつてきにはるべき成果せいかのこさなかった。しかし、いえのエゴイズムの犠牲ぎせいとなっていく女性じょせい主人公しゅじんこう造型ぞうけいし、ヒロインの「あ、つらい!つらい!」という嘆声たんせい凝縮ぎょうしゅくしてまれたのが徳冨蘆花とくとみろかの「不如帰ほととぎす」〔明治めいじ31〜32〕であり、恋人こいびとうばったかねちから復讐ふくしゅうするために帝国大学ていこくだいがくへの進学しんがく放棄ほうきして高利貸こうりがししに転身てんしんしていくというあたらしいタイプの主人公しゅじんこう造型ぞうけいした尾崎紅葉おざきこうようの「金色夜叉こんじきやしゃ」〔明治めいじ31〜35、未完みかん〕が空前くうぜんれゆきをしめしたのは、たんにストーリーの通俗性つうぞくせいによるのみならず、当時とうじ社会矛盾しゃかいむじゅんつよ反映はんえいされてひろ読者どくしゃ共感きょうかんんだからにほかならなかった。

蘆花ろかには、「黒潮くろしお」〔明治めいじ31、未完みかん〕など鹿鳴館ろくめいかん時代じだい政界せいかい内幕うちまくえがしたこころみもあって、スケールのおおきな社会しゃかい意欲的いよくてき方向ほうこう模索もさくしていた。明治めいじ三十さんじゅうだい後半こうはんには、木下尚江きのしたなおえ登場とうじょうし、「はしら」〔明治めいじ37〕と「良人おっと自白じはく」〔明治めいじ37〜39〕を発表はっぴょうして社会主義小説しゃかいしゅぎしょうせつ先駆せんくをなした。

徳冨蘆花とくとみろか明治めいじ元〜昭和しょうわ2)
明治めいじ社会主義文学ぶんがく黎明期れいめいきには、幸徳秋水こうとくしゅうすいらの「平民新聞へいみんしんぶん」〔明治めいじ36かん〕「直言ちょくげん」、白柳秀湖しらやなぎしゅうこらの「火鞭ひむち」〔明治めいじ38かん〕などがあらわれた。
語注 * 鹿鳴館時代ろくめいかんじだい
鹿鳴館ろくめいかん」は明治めいじ16ねん(1883)東京とうきょう日比谷ひびやてられた社交場しゃこうじょう条約改正じょうやくかいせいすすめるためにここで仮装舞踏会かそうぶとうかいおこなわれ、欧化主義おうかしゅぎ象徴しょうちょうとされた。やがてこれに反対はんたいする国粋主義こくすいしゅぎ風潮ふうちょうたかまっていった。

自然主義しぜんしゅぎ近代きんだい成立せいりつ

明治めいじから大正たいしょうへ(1)─

日露戦争にちろせんそう翌年よくねん明治めいじ39〕から大正たいしょう初年しょねんにかけての数年間すうねんかんで、日本にほん近代文学きんだいぶんがくはようやく成立期せいりつきむかえた。その先駆せんくとなったのが自然主義しぜんしゅぎである。

日本自然主義にほんしぜんしゅぎ出発しゅっぱつ

青年せいねん時代じだい浪漫的ろうまんてきいていたことのある三十代さんじゅうだい作家さっかたちを中心ちゅうしんにしてこったこのあたらしい文学運動ぶんがくうんどうは、硯友社けんゆうしゃてき小説観しょうせつかん否定ひていした「封建的ほうけんてき諸伝習しょでんしゅうたいする違和感いわかん」を基礎きそにしながら、はげしい客観描写きゃっかんびょうしゃ主張しゅちょうと、はげしい自己告白じこくはくへの欲求よっきゅうというふたつの要素ようそ内在ないざいさせていたところに特色とくしょくをもっている。しかも当時とうじは、天皇制てんのうせい国家権力こっかけんりょくがますます強大きょうだいさをしていた時期じきで、その批判ひはん社会しゃかいとの対立たいりつという情熱じょうねつんだが、そのリアリズムリアリズム短期間たんきかんうしなわれて、作家さっか身辺みまわにのみ視野しやしぼった「観照かんしょう」(ありのままに)のリアリズムが主流しゅりゅうとなっていった。

日本自然主義にほんしぜんしゅぎ性格せいかく

自然主義しぜんしゅぎ時代じだい到来とうらい決定けっていづけた作品さくひんは、島崎藤村しまざきとうそんの「破戒はかい」〔明治めいじ39〕と田山花袋たやまかたいの「蒲団ふとん」〔明治めいじ40〕である。その、「事実じじつ偏重へんちょう方法ほうほうろんとがあいまって、やがてこの文学運動ぶんがくうんどうは「私小説わたくししょうせつ」にみちひらいていくという経過けいかをたどるのである。

自然主義しぜんしゅぎ作家さっか前列ぜんれつ一番左いちばんひだり正宗白鳥まさむねはくちょう中列なかれつ中央ちゅうおう国木田独歩くにきだどっぽみぎ田山花袋たやまかたい後列こうれつみぎから三人さんにん岩野泡鳴いわのほうめい
小説しょうせつ展開てんかい
明治めいじ40〜大正たいしょう昭和しょうわ私小説わたくししょうせつ
自然主義しぜんしゅぎ田山花袋たやまかたい島崎藤村しまざきとうそん正宗白鳥まさむねはくちょう徳田秋声とくだしゅうせい国木田独歩くにきだどっぽ
耽美派たんびは佐藤春夫さとうはるお永井荷風ながいかふう
新現実主義しんげんじつしゅぎ芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう久米正雄くめまさお菊池寛きくちかん
余裕派よゆうは高踏派こうとうは):森鷗外もりおうがい夏目漱石なつめそうせき
白樺派しらかばは有島武郎ありしまたけお志賀直哉しがなおや武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ
私小説わたくししょうせつ
「しじょうせつ」ともむ。主人公しゅじんこう造型ぞうけいするさい、そこに作者さくしゃ自身じしん事実じじつ直接ちょくせつかさねることによって、作品世界さくひんせかい成立せいりつさせるという直接的ちょくせつてき方法ほうほうってかれた小説しょうせつのことである。自然主義しぜんしゅぎスタイルの虚偽きょぎ否定ひていした日本にほん独特どくとく小説しょうせつスタイルである。この私小説わたくししょうせつ本格的ほんかくてき出発しゅっぱつ大正たいしょう2ねん(1913)あたりにもとめられ、まもなく文壇ぶんだんにおける純文学じゅんぶんがく主流しゅりゅうなされるようになった。
正宗白鳥まさむねはくちょう明治めいじ12〜昭和しょうわ37)
明治めいじ40年代ねんだいにおける自然主義しぜんしゅぎ文学ぶんがく代表だいひょうする作家さっか。「何処どこへ」〔明治めいじ41〕・「一廃処いちはいしょ」などがある。

島崎藤村しまざきとうそん

藤村とうそんは、「はる」〔明治めいじ41〕から「いえ」〔明治めいじ43〜44〕において自身じしんげにかう方向ほうこうみちてんじた。以下いか三部作さんぶさくでやはり自身じしん周辺しゅうへんえがつづけ、花袋かたいもまた「せい」〔明治めいじ41〕ほかのコースをすすんだ。また、主義しゅぎ主張しゅちょうというものをまったくたない徳田秋声とくだしゅうせい地味じみ作品さくひん脚光きゃっこうびた段階だんかいいたって、日本自然主義にほんしぜんしゅぎ基本的きほんてき性格せいかくはほぼさだまったということができる。白鳥はくちょうは「えぬきの自然主義しぜんしゅぎ作家さっか」とばれながら主観性しゅかんせいつよ作品さくひんいた異色いしょく存在そんざいいきにとどまった。「芸術即実行げいじゅつそくじっこう」の「新自然主義しんしぜんしゅぎ」をかかげた岩野泡鳴いわのほうめいのような個性こせいも、自然主義しぜんしゅぎ観察かんさつのリアリズムに転化てんかしていくなか独特どくとくのニヒリズムをあらわにするところがある。

島崎藤村しまざきとうそん明治めいじ5〜昭和しょうわ18)
本陣ほんじん江戸えど時代じだいから庄屋しょうやねたいえ末子ばっしで、幼少ようしょう時代じだいから東京とうきょうそだった。「文学界ぶんがくかい」にくわわって評論ひょうろんいたが、北村透谷きたむらとうこく自殺じさつによってつよ衝撃しょうげきけ、「せる理想家りそうか」にたいして「きたく」みずからの事業じぎょうとして藤村とうそん独特どくとく文学ぶんがく世界せかいはじまった。小諸こもろ時代じだいつづけた「千曲川ちくまがわのスケッチ」が「緑葉集りょくようしゅう」〔明治めいじ40〕にまとめられた。
岩野泡鳴いわのほうめい明治めいじ6〜大正たいしょう9)
芸術即実行げいじゅつそくじっこう」をとなえ「新自然主義しんしぜんしゅぎ」をかかげた。自然主義しぜんしゅぎ四大家しだいか一人ひとりにもかぞえられる。「放浪ほうろう」〔明治めいじ43〕からはじまる五部作ごぶさくいた。

告白こくはくするまでの過程かてい清新せいしん文体ぶんたいえがいた作品さくひんであり、部落差別ぶらくさべつというおも現実げんじつをとらえた社会小説しゃかいしょうせつてき要素ようそと、「若菜集わかなしゅう以来いらいのテーマである自己告白じこくはく内面ないめんへのおそれと欲求よっきゅう主人公しゅじんこう仮託かたくした内面小説ないめんしょうせつとしての要素ようそ並存へいそんしており、今日きょういたるまで評価ひょうかかれている。

破戒はかい以後いご

文学界ぶんがくかい時代じだい青春せいしゅん苦悩くのう題材だいざいにした作品さくひんとして「はる」〔明治めいじ41〕をき、藤村とうそんつぎ自身じしんふくめた島崎しまざき一族いちぞく事実じじつそくして「いえ」〔明治めいじ43〜44〕で宿命しゅくめい追求ついきゅうするという方向ほうこうでリアリズムを深化しんかさせていった。しかし、その代償だいしょうとして、「破戒はかい」のもっていた社会小説しゃかいしょうせつへの可能性かのうせい放棄ほうきされたことはたしかである。

破戒はかい」(初版しょはん 第十章だいじっしょう

成程なるほど成程なるほど自分じぶんかわった、いちにもにも成程なるほど、それを器械的きかいてき遵奉じゅんぽうするような、其様そのよう児童じどうではくなってた。成程なるほどちちばかり世界せかいではくなってしまって、ちちきびしい性格せいかくかんがえてみても、それを反対方はんたいがたかってって、自由自在じゆうじざいれたとはえない。あ、ちちなさけないわらかた無情むじょうを、おこいた先輩せんぱい心地ここちと、にはとてもくことの出来できない二人ふたり相違そうい奈何いかんなるであろう。かんがえて、丑松うしまつ自分じぶんみちまよった。

田山花袋たやまかたい

ゾライズム(→p.149)への傾倒けいとう叙情詩人的じょじょうしじんてき資質ししつあわちながら明治めいじ三十さんじゅうだいおくってきた花袋かたいが、藤村とうそんなら自然主義しぜんしゅぎ旗手きしゅとしての地位ちい獲得かくとくしたのは、年作家ねんさっかのひそかな恋情れんじょうえがいた短編小説たんぺんしょうせつ蒲団ふとん」〔明治めいじ40〕の発表はっぴょうによってである。じつはその創作実践そうさくじっせんとしてかれた「描写びょうしゃろん当時とうじ読者どくしゃが、これをおおきな反響はんきょうんだ。

影響えいきょうするかたちで、花袋かたいはその作家的さっかてき進路しんろを「平面描写へいめんびょうしゃ」でつづけていくという方向ほうこういだし、「せい」〔明治めいじ41〕・「つま」〔明治めいじ41〜42〕・「えん」〔明治めいじ43〕の三部作さんぶさく完成かんせいした。

田山花袋たやまかたい明治めいじ5〜昭和しょうわ5)
主要作品しゅようさくひんには上記じょうきのほか、「重右衛門じゅうえもん最後さいご」〔明治めいじ35〕・「田舎教師いなかきょうし」〔明治めいじ42〕・「兵卒へいそつ銃殺じゅうさつ」〔大正たいしょう6〕などがある。
平面描写論へいめんびょうしゃろん
明治めいじ三十さんじゅうだい花袋かたい主張しゅちょうした客観的きゃっかんてき描写論びょうしゃろんたん作者さくしゃ主観しゅかんくわえないのみならず、客観きゃっかん事象じしょうたいしてすこしもその内部ないぶらず、ただたままいたままれたままの現象げんしょうをさながらにえがくというもので、自然主義しぜんしゅぎ代表だいひょうする小説手法しょうせつしゅほうなされた。「新自然主義しんしぜんしゅぎ」の岩野泡鳴いわのほうめいはこれを批判ひはんし「一元描写いちげんびょうしゃろんとなえた。

徳田秋声とくだしゅうせい

秋声しゅうせいは、自然主義しぜんしゅぎ作家さっかなかではめずらしく硯友社けんゆうしゃ紅葉こうよう門人もんじんとしての経歴けいれきをもっているが、「まれたる自然派しぜんは」とばれたその作家的さっかてき資質ししつ開花かいかしたのは、「はる」(藤村とうそん)・「せい」(花袋かたい以後いご自然しぜん定着ていちゃく時代じだいはいってからである。平凡へいぼん庶民夫婦しょみんふうふ味気あじけない日常生活にちじょうせいかつえがいた「足迹そくせき」〔明治めいじ41〕で好評こうひょうたあと、つま前半生ぜんはんせい素材そざいにした「かび」〔明治めいじ44〕で作家的さっかてき地位ちい確立かくりつし、「あらくれ」〔大正たいしょう4〕などの傑作けっさくつづけた。自然主義しぜんしゅぎとしての結論けつろんもなく、気負きおいもなく、ただ「りのまま」に無色彩むしきさいえがかれていく秋声しゅうせい文学ぶんがく独特どくとくのリアリティは、庶民しょみん現実げんじつを、劇的げきてき構成こうせいいた作品さくひんでも成立せいりつさせてたものである。

島村抱月しまむらほうげつ

ゾライズム(→p.149)から移行いこうしてきた批評家ひひょうかとして、「幻滅時代げんめつじだい」「現実暴露げんじつばくろ悲哀ひあい」といった理論性りろんせいけるジャーナリスティックな表現ひょうげん自然主義しぜんしゅぎ意義いぎ特質とくしつ説明せつめいしたあたらしい批評家ひひょうかとして登場とうじょうし、「早稲田文学わせだぶんがく」〔明治めいじ39再刊さいかん〕を理論的りろんてきにリードした抱月ほうげつは、ヨーロッパ留学りゅうがくから帰国きこくした直後ちょくご西洋せいよう文芸思潮史ぶんげいしちょうしもとづいて自然主義しぜんしゅぎ過去かこのものとみなしていたが、「破戒はかい」と「蒲団ふとん」の出現しゅつげんるにおよんで自然主義しぜんしゅぎ積極的せっきょくてき推進者すいしんしゃてんじ、当時とうじの「文芸上ぶんげいじょう自然主義しぜんしゅぎ」「自然主義しぜんしゅぎ価値かち」〔明治めいじ41〕の論文ろんぶんはじめとする活発かっぱつ評論活動ひょうろんかつどう展開てんかいした。

徳田秋声とくだしゅうせい明治めいじ5〜昭和しょうわ18)
約半世紀やくはんせいきにわたって第一線だいいっせん小説しょうせつつづけた作家さっか上記じょうき作品さくひんのほか、「仮装人物かそうじんぶつ」〔昭和しょうわ10〜13〕・「縮図しゅくず」〔昭和しょうわ16、未完みかん〕などがある。
島村抱月しまむらほうげつ明治めいじ4〜大正たいしょう7)
抱月ほうげつ理論的りろんてき到達点とうたつてんは、そのちょ近代文芸きんだいぶんげい研究けんきゅう」〔明治めいじ42〕にしるされた「らすがままの現実げんじつそくして全的ぜんてき存在そんざい意義いぎ彷彿ほうふつする」という一節いっせつ集約しゅうやくされるとわれている。なお抱月ほうげつ演劇えんげき方面ほうめんにも女優じょゆう松井須磨子まついすまことともに「芸術座げいじゅつざ」を組織そしきして上演活動じょうえんかつどうちからそそいだ。

漱石そうせき鷗外おうがい—近代の成立②

─明治から大正へ(2)─

文学の成立期は、俳句や写生文しゃせいぶんから出て小説の世界に登場してきた新人作家夏目漱石なつめそうせきが、間もなく帝大教授への道を捨てて創作に打ちこむようになり、また、「成熟の時代」と呼ばれる作家的最盛期に入った時代でもある。久々に文壇に復帰してきた森鷗外もりおうがいが、いずれも自然主義とはっきりした距離を保ちながら、文明批評的な視野の広さと、洋の東西を問わない豊かな教養に裏づけられた質の高い創作活動を展開した。また、後続の文学世代に与えた影響も大きかった。

特質とくしつと共通点

少年期を過ごした漱石が、望まれぬ末子として江戸の町方名主まちかたなぬしの家系に生まれ、薄幸な家庭の人間として反官的な気質を集めて育ったのに対し、津和野つわの藩典医はんてんいの長男として藩閥はんばつ官僚の要職を歴任し、死ぬまで官職を保持し続けた鷗外おうがいとは、はっきりした対照がある。だがその一方で、この二人は、いずれも自然主義とはっきりした距離を保ちながら、文明批評的な視野の広さと、洋の東西を問わない豊かな教養に裏づけられた自我の苦悩を、日本の性急な近代化のゆがみの中に認識していった点で共通していた。その作風は自然主義者から当初「余裕派よゆうは」「低徊派ていかいは」などと呼ばれていた。

夏目漱石なつめそうせき

〈初期の作品〉

一人称でナレーターをつとめる奇抜な風刺小説「吾輩わがはいは猫である」〔明治38〜39〕でデビューし、猫が「吾輩わがはい」という名もない飼い猫として語り手となる莫大な長編である。久々に文壇に復帰してきた鷗外おうがいと同じく、自然主義の作風とは趣向を異にするため、当初「余裕派」「低徊派」などと呼ばれていた。

写生文しゃせいぶん
明治33年ごろ正岡子規まさおかしきが提唱し、高浜虚子たかはまきょしらが中心になって推進した文章革新運動。「世の中に現れてくる事物(天然)をありのままに写して面白き文章を作る」というのが写生文の法。「吾輩わがはいは猫である」はもとは写生文を基本にとして書かれた。伊藤左千夫いとうさちおの「野菊のぎくの墓」〔明治39〕・長塚節ながつかたかしの「土」〔明治43〕なども写生文の流れをむ。
余裕派よゆうは
漱石は高浜虚子たかはまきょしの文章を「余裕の文章」と称した。「余裕派」は自然主義批評家の天谷宗一郎あまたにそういちろうらが命名。現実密着的な文章を重んじてきた自然主義者の目には「冷笑」的余裕と映ったのである。
夏目漱石なつめそうせき
慶応3(1867)〜大正5年(1916)。

だが、漱石の内面は厭世えんせい的であり、そこからの脱却を小説に求めて、彼は「非人情」の超俗的な美へ押し出した系列の作品(「草枕くさまくら」〔明治39〕・「野分のわき」〔明治40〕など)や、社会的正義感を前面にした系列の作品「坊っちゃんぼっちゃん」〔明治39〕などをまくら(序)として盛んに書き続けた。職業作家として立つ決意をした漱石は、初職を辞して朝日新聞社あさひしんぶんしゃに入り、入社第二作の「虞美人草ぐびじんそう」〔明治40〕で自らの初期作品をしめくくった。

〈前期三部作〉

明治の代表的な青春小説である「三四郎さんしろう」〔明治41〕で「偽善」と「露悪ろあく」という問題を取りあげた漱石は、次の作の「それから」〔明治42〕では、二十世紀の中で腹の底から堕落だらく侮辱ぶじょくする事なしに「高等遊民こうとうゆうみん」と自らを貶び、その主人公が、かつての友人にたたえられてきた哲学をもった新しい知識人であった。「もん」〔明治43〕は、「それから」の後日たんとして、父から勘当かんどうされ「遊民」の生活基盤を失うまでの愛を貫いた、その主人公が、かつての友人との間に不倫の恋が再燃したとき、背徳的な形で結ばれてひっそりと暮らす夫婦が、「尋常の夫婦」に見出しがたい親性格をもつ作品であり、貫くことを決意した人公が描かれている。

「坊っちゃん」の舞台、松山・道後温泉
漱石そうせきの少年時代
漱石は、生後間もなく古道具屋に里子さとごに出され、二歳のとき塩原しおばら家の養子となり、十歳で塩原しおばら性のまま実家にもどり、夏目性に復したのは二十一歳のときで、両親から愛がなかったという。
漱石と朝日新聞あさひしんぶん
漱石は池辺三山いけべさんざんの招きに応じて東京朝日新聞の正社員として入社し、以後の小説はすべて「朝日」にしか発表しない条件を守った。明治40年ごろから朝日文芸欄あさひぶんげいらんを高める作家を登場させ、評論家としての多くの作家のレベルを高めるとともに、非自然主義文学の牙城がじょうを築いた。

和と飽満ほうまんはあっても、本当の充足を得ることができない様が描かれている。虚構きょこうの設定の中に作中人物を生かすことによって、偽善ぎぜん誠実せいじつのテーマを鋭く追求したこの三部作は、方法の点でも、自然主義作品との間にはっきりとした相違が認められる。

野が茶器ちゃきを取り片付けに来た時、兄の去った後、代助はしばらく元のままじっとすわっていて、急に立ち上がって、「門野さん。僕は一寸職業を探しに来る」と云ふや否や、鳥打帽とりうちぼうを被って、かさも指さずに目盛めもりりの表へ飛び出した。(中略)乾いたやきがねは代助の頭の上から真直に射下した。彼の頭は電車の速力を以て半日乗り続けたら焼き尽す事(中略)飯田橋いいだばしへ来て電車から走り出し、かたわらの人に聞こえる様に「あ、動く」と云った。

(「それから」最終章)

映画「それから」写真提供:東映

〈後期三部作〉

「門」を完成したあと、いわゆる「修善寺しゅうぜんじ大患たいかん」で危うく一命をとりとめるという経験を通して死生観を深めた漱石は、彼岸過迄ひがんすぎまで〔明治44〜45〕で創作活動を再開した。ここで漱石が取り組んだのはエゴイズムや孤独といった「人間存在にんげんそんざい深所しんしょ」に迫るテーマであり、以後「行人こうじん」〔大正1〜2〕へと向かった。

「漱石先生」(岡本一平筆)
漱石の評論
漱石は、長年の英文学研究の成果をまとめた「文学論ぶんがくろん」〔明治40〕・「文学評論」〔明治44〕のほか、「現代日本げんだいにほん開化かいか」・「わたくし個人主義こじんしゅぎ」〔大正3〕のように、「外来的がいらいてき」立場による日本の近代化への苦悩の内容をもった貴重な演説記録がある。
漱石の「則天去私そくてんきょし
漱石の晩年の境地として説明される「則天去私」は、自然の理法に従って大きな自然のなかに自我を去ってゆくというものとされる。ただし、この境地を一語で割り切ってしまうことを疑問視する見方も強い。

こゝろこころ」〔大正3〕と続く展開の中で、その徹底的な掘り下げが行われた。妻への不信から人間存在の全体に対する懐疑に進んだ「行人」の主人公は、死か宗教か発狂しかないという地点まで追いつめられた。また、結婚に際して親友に策略を用いたことによって、自分に対する精神に殉死じゅんしする「こゝろ」の主人公は、「明治の精神に殉死する」という形での自殺に長年ながねんの罪の意識の決算を求めた。後期三部作を完成した漱石は、そのあと初めての自伝小説といえる「道草みちくさ」〔大正4〕によって新たな展開をはかり、さらに「明暗めいあん」〔大正5〕で夫婦間のすさまじいまでの心理葛藤かっとうを描き出しながら、救済の道をまさぐろうとしたが、未完のまま病没した。

夏目漱石「こゝろ」
漱石の門人たち
漱石は、門人たちとの間に尾崎紅葉おざきこうようのような師弟関係を作ることはなかったが、彼のような人柄と教養をしたって多くの青年が集まった。その中心は東大系の青年で、作家の森田草平もりたそうへい久米正雄くめまさお鈴木三重吉すずきみえきち阿部次郎あべじろうらとともに、大正文化を推進した知的リーダーの一角は漱石門人によって占められている。

森鷗外もりおうがい

豊熟ほうじゅくの時代〉

明治二十年代の創作活動(p.147)のち、小説の筆を絶っていた鷗外おうがいは、軍医の最高位である陸軍医務局長りくぐんいむきょくちょうに昇進した翌々年、口語体小説「半日はんにち」〔明治42〕を書いて文壇に復帰し、以後精力的に作品を発表し続けた。自然主義的な性欲史を中心とする人生観に対抗する意図をこめて主人公の性欲史を淡々たんたんと描いた「ヰタ・セクスアリスヰタセクスアリス」〔明治42〕、作者自身の身辺の事を取材した「半七捕物帳はんしちとりものちょう」的な短編群、来日してきた留学時代の愛人女性と再会した主人公をめぐる作品群など、淡々とした「キタ」(傍観者的態度)の人生観に対抗する意図をこめた。

鷗外おうがいの小説観
およて世の中の物は変ずるという観から見れば、刹那せつな々々に変じている。万古不易ばんこふえきを語る観から見れば、刹那々々に変じていない。一体小説はかういうものをかういうふうに書くべきであるというのは、ひとつの困った風である。」

初めて自我に目覚めかけた女主人公お玉の挫折を叙情的に描きあげた「がん」〔明治43〜大正2〕、漱石の「三四郎」を意識した作者の思いがこもる長編青春小説「青年せいねん」〔明治43〜44〕など、多彩をきわめる創作活動が展開した。しかし、家の面影はなく、「あそび」や「レジグナチオンレジグナチオンあきらめ)」といった静的な世界観が色濃く流れ、事件などで自身がその中枢部に身を置く国家権力の専横せんおうさを改めて痛感したあと、いっそう深まっていった。当時の鷗外おうがいの苦悩と諦観ていかんは、「かのやうに」〔明治45〕から至る連作が端的に物語っている。

「雁」

〈歴史小説から史伝へ〉

このような姿勢で現代小説を書き続けることはあまりにも困難であった。明治天皇めいじてんのうの病死と乃木のぎ大将の殉死じゅんしに刺激されて鷗外おうがいは、もっぱら歴史小説の分野に転じ、「興津弥五右衛門おきつやごえもん遺書いしょ」〔大正1〕・「阿部一族あべいちぞく」〔大正2〕・「山椒大夫さんしょうだゆう」〔大正2〕・「高瀬舟たかせぶね」〔大正5〕などの名作を発表した。「歴史其儘そのまま」的志向と「歴史離れ」的志向とを併存へいそんさせていた鷗外おうがいは、やがて「渋江抽斎しぶえちゅうさい」〔大正5〕の発表を機として、「歴史其儘」を徹底させて史実をそのまま描く史伝の方向に進み入った。そして「伊沢蘭軒いざわらんけん」〔大正5〕・「北条霞亭ほうじょうかてい」〔大正10〕へと向かった。

「かのやうに」の哲学てつがく
洋行で身につけた科学的合理性と日本の非合理的な事柄に悩んだ板挟みに由来して、学問でも芸術でも、すべて実在しないものが「実在するかのように」考えることで解消しようという姿勢。「かのやうに」の哲学として鷗外おうがいの晩年の心性を示す。
大逆事件たいぎゃくじけん
明治44年(1911)、国家権力による社会主義者に対する弾圧事件。幸徳秋水こうとくしゅうすいら12名が死刑になった。
越後えちご春日かすがを経てへ出る道を、めずららしい旅人の一群が歩いている。母は三十さいえたばかりの女で、二人の子供を連れている。あねはもうすぐ十四、おとうとは十二である。(中略)「もうちっと足をひきずって御宿やどにお入り」とぶって励まして、それに四十くらいの女中が一人いている。

(「山椒大夫さんしょうだゆう」冒頭)

鷗外おうがいの墓
鷗外おうがいの遺言
鷗外おうがいは、軍医総監退任後も帝室博物館総長など官人として歴任したが、最後まで官人としてではなく、島根県しまねけん人の「森林太郎もりりんたろう」として死ぬことを遺言に残した。「森林太郎」が鷗外の本名である。

耽美派たんびは—近代の成立③

─明治から大正へ(3)─

「真」のみを強調する自然主義の隆盛は、その反動として芸術の「美」に重きを置く作家たちを登場させた。雑誌「スバルスバル」〔明治42創刊〕や「パンの会パンのかい」に集まった文学者たちの一群が、「耽美派」と総称されるグループを形成した。このグループを代表する小説家は、ゾライスムの洗礼を受けた青年詩人たちとあわせて、「耽美派」と総称される。

永井荷風ながいかふう

五年間にわたる米・仏留学を終えた荷風の帰国後、明確な反自然主義者として華やかにデビューし、その推挙すいきょによって谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうを文壇に送り出した。アメリカ留学体験を基に、当時の批評家から高く評価された長編「あめりか物語」〔明治41〕は、荷風の西洋体験を描き、「ぷらんす物語」〔明治42〕とともに帰国後の自然主義作品としてデビューした。

永井荷風ながいかふう
明治2(1879)〜昭和34年(1959)。昭和期の代表作に、「つゆのあとさき」〔昭和6〕・「濹東綺譚ぼくとうきだん」〔昭和12〕がある。また、四十年間にわたって書き続けられた日記「断腸亭日乗だんちょうていにちじょう」も高く評価されている。

ぷらんす物語ぷらんすものがたり」〔明治42〕・「歓楽かんらく」〔明治42〕など、次々と発表するなかでこれらはいずれも発禁となり、この経験を通してますます明治の偽文明に対する嫌悪と絶望の念を強めた。短編集「すみだ川すみだがわ」〔明治42〕などを経て、「三田文学」〔明治43〕の主宰者となったあといっそう、反時代的な美学を築きあげていった。

〈江戸賛美の美学〉

大逆事件(p.161)の衝撃も加わって、荷風はみずからを江戸の戯作者げさくしゃにやつすまでに至り、大正期に入ってからは花柳界かりゅうかいを舞台にした独自の力作「腕くらべうでくらべ」〔大正5〜〕・「おかめ笹おかめざさ」〔大正7〕などを発表した。森鷗外おうがいの周旋で慶応大学教授に迎えられ、「江戸」の賛美さんびという反時代的な美学をいっそう進めていった。

「ぷらんす物語」挿絵
大逆事件を報じる新聞

谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう

雑誌「新思潮」〔第二次・明治43〕同人時代に「少年しょうねん」「刺青しせい」〔明治43〕・「麒麟きりん」〔明治43〕などの異色作を書いていた谷崎は、荷風の激賞を受けて華やかな脚光を浴びながら作家生活に入った。そして、精神病理学の知識をも踏まえながら変態的快楽の問題を大胆に取り込み、独自の作家的成熟を遂げた。

谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう
明治39年(1886)〜昭和40年(1965)。大正期の代表作として「痴人ちじんの愛」〔大正13〕がある。その後古典回帰し「春琴抄しゅんきんしょう」〔昭和8〕・「蓼食たでくう虫」〔昭和3〜4〕など。戦後を代表する大作「細雪ささめゆき」〔昭和18〜23〕が書き続けられた。また「源氏物語げんじものがたり」全巻口語訳の仕事もある。

悪魔あくま」〔明治45〕を発表して以来、日本における「悪魔主義あくましゅぎ」の代表作として見なされるようになった。女性の美しさは、男性をその前にひざまずひざまずかせずにはおかないというのが谷崎文学のメーンテーマであり、処女作以来の肉体への肯定と賛美に立って、特異な耽美的世界がくり広げられている。

悪魔主義あくましゅぎ(デカダンス)
十九世紀末のヨーロッパ文芸思潮の一つとして起こったもので、醜悪しゅうあくや怪異の中に美を見いだそうとする傾向。ボードレール(仏)やワイルド(英)が主要作家である。

白樺派しらかばは

─大正前期─

自然主義は停滞・退潮期に入ったが、それに代わる新しい文学勢力として台頭たいとうしてきたのが、武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ志賀直哉しがなおや有島武郎ありしまたけお長与善郎ながよよしろう里見弴さとみとんら雑誌「白樺しらかば」〔明治43創刊〕のグループである。メンバーのほとんどが特権・上流階級の家庭に育った学習院がくしゅういん出身者であり、自身の出自と社会正義との矛盾に悩んだ青春の中から「自己を生かす」方向に進んできた者が多い。こうした特徴をもつこの同人組織は、主観を排する自然主義とは大きく異なった自己主張の強烈さによって、大正前半の文壇の最主流となった。だが第一次世界大戦〔大正3〜8〕後、

「白樺」同人 前列右から武者小路実篤・志賀直哉・木下利玄・里見弴、後列右から三人め柳宗悦
「白樺」(雑誌)
白樺しらかば
明治43年(1910)創刊。同人には木下利玄きのしたりげん里見弴さとみとん・民芸研究家柳宗悦やなぎむねよしらも加わっていた。文芸誌であるとともに美術誌も兼備し、ロダンや後期印象派画家の紹介など近代美術上の功績も残している。
長与善郎ながよよしろう
明治21年(1888)〜昭和36年(1961)。「青銅せいどう基督キリスト」〔大正12〕などを書いた。
里見弴さとみとん
明治21年(1888)〜昭和58年(1983)。代表作に「善心悪心ぜんしんあくしん」〔大正5〕・「多情仏心たじょうぶっしん」〔大正11〜12〕などがある。

労働運動と結びついた社会主義の影響が文学にも及んでくるにつれ、グループとしての力を失い始めた。そして、思想家として絶望の果てに自殺の道を選んだ有島武郎ありしまたけおが大正12年(1923)に死去し、「白樺」の廃刊が決定された。白樺派の思想的特徴を最もよく表しているのが武者小路実篤である。

武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ

公卿華族くげかぞくの家系に生まれた彼は、二十歳前後にトルストイに傾倒し、やがてその禁欲的なヒューマニズムの「重荷」から脱出する方向に転じ、「私にとって『自己』以上に権威のあるものはありません」という徹底的な自我肯定思想を獲得した。「お目出たき人おめでたきひと」〔明治44〕は、片思いの相手の少女が結婚してしまったあとも少女が自分を愛していたはずだと信じて疑わない、この時期の型破りな失恋小説の代表作である。

〈新しき村〉の運動

第一次世界大戦の開始後、楽天的な自我肯定を保ちながら熱心な人道主義者となった武者小路は、反戦気分の濃厚な戯曲「或る青年の夢あるせいねんのゆめ」〔大正5〕・「その妹」〔大正4〕などを発表した。そして小さなユートピアの建設を目指して進み、大正7年に宮崎県に共生農場「新しき村」を建設した。

武者小路実篤自筆の「新しき村」風景
武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ
明治18年(1885)〜昭和51年(1976)。晩年の主要作に「愛と死」・「一人の男」〔昭和46〕などがある。
新しき村
「皆が働ける時に一定の時間だけ働く」かわりに衣食住の心配から解かれ、天命を全うするような自然な生活を確立しようという武者小路の提唱に共鳴した人々でつくる社会。大正7年(1918)宮崎県に共生農場「新しき村」が建設された。しかし現実は理想どおりに進まず、昭和14年(1939)には埼玉県に「東の新しき村」が建設された。

「新しき村」運動の実践に集中する中で書かれた「幸福者こうふくしゃ」〔大正8〕・「友情ゆうじょう」〔大正9〕・「或る男あるおとこ」〔大正10〜12〕・「人間万歳にんげんばんざい」などは、いずれもこの時期の「生命賛美」の思想を主張した力作である。その後の彼は、しだいに人道主義からも離れていった。

志賀直哉しがなおや

士族出の有名な実業家の家庭に生まれた彼は、祖父との接近と離反、足尾銅山あしおどうざん鉱毒事件をめぐる父との衝突など、主体的体験を通して社会的な視野の広がりや思想的な深さを青春時代に体験している。だが、そうした「絶対的な自信に支えられた強靱きょうじんなエゴイズムの世界」を、むしろそれを一切捨て去り、清潔に築き上げていくことから、志賀文学は出発した。善悪の判断が好悪の判断に直結するという特性をもった彼は、白樺派のリアリズムを代表する作家である。

〈前期短編群〉

網走まであばしりまで」〔明治43〕・「大津順吉おおつじゅんきち」・「正義派せいぎは」〔大正1〕・「清兵衛せいべえ瓢箪ひょうたん」〔大正1〕などの前期短編群の緻密なリアリズムを支えていたのは、長年にわたる父との精神的緊張であった。父との不和が「和解わかい」〔大正6〕で描かれてからのち、彼の作家姿勢は東洋的な調和へと転回していった。

志賀直哉しがなおや
明治16年(1883)〜昭和46年(1971)。主要作品のほかに「小僧こぞうの神様」・「さきにて」・「灰色はいいろの月」などがある。
志賀直哉の「好悪」と「善悪」
好悪の感情が善悪の判断に直結するという彼の特性からすると、「何が善で何が悪かということが問題なんだ」という言葉に示されるように、好悪から始まった判断がそのまま善悪の判断となる。

暗夜行路あんやこうろ

直哉の代表作として定評のある「暗夜行路あんやこうろ」〔大正10〜昭和12〕は、彼が早くから着手していた私小説の構想(「時任謙作」のモチーフ)に、父との和解の成立という実生活上の変化を経て新たに起稿されたものである。完結までに二十年近い年月を費やした長編小説である。

〈内容〉

父との不和を題材にした小説への意欲から着想された後、主人公時任謙作ときとうけんさくに出生の秘密(母と祖父の不義)を付与した。前編では、その暗い宿命を背負って彷徨ほうこうする主人公が、やがて大山登山を決行し、妻の真操上の過失という設定に基づく夫婦間の葛藤から、単身大山だいせん登山を決行した謙作けんさくが、自然との融合を感得するまでを描いた。

〈意義・文体〉

虚構の主人公であるにもかかわらず作者自身の現実との混同も認められるが、簡潔かんけつをきわめた文体による描写の的確さに支えられながら、志賀直哉という作家の個性が全編にあふれた作品となっている。

行くのを感じた。(中略)大きな自然に溶込とけこむ精神も肉体も、今、此大きな自然に溶込んで、此陶酔感とうすいかんは初めての経験で、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、これまでの場合として必ずしも溶込む意志よりも、自然に起くるような性質のものだった。今は全くそれとは別な、自然の中に溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。

(「暗夜行路」後編十九)

「暗夜行路」の舞台となった大山だいせん(鳥取県)
内村鑑三うちむらかんぞう
明治の代表的な無教会派キリスト教家。直哉は、日露戦争に際して「非戦論」の立場をとっていた内村鑑三に師事した。
足尾銅山鉱毒事件あしおどうざんこうどくじけん
足尾銅山が渡良瀬川わたらせがわを汚染して多数の被害者を出した明治最大の公害事件。この事件に義憤を燃やした田中正造たなかしょうぞうが激しく直訴しており、鉱山側を全面的に支持する父との長い不和の直接の原因となった。

有島武郎ありしまたけお

自我を肯定することができず、自殺に至る思想的遍歴を続けた作家が有島武郎である。米国留学中にキリスト教を離れて社会主義的な思想の持ち主となって帰国した有島は、文学で生きる決心をして「白樺」の創刊に加わった。

〈全盛期—「或る女あるおんな」〉

中央文壇への登場は他の同人よりも遅く、「カインの末裔カインのまつえい」〔大正6〕・「迷路めいろ」などの発表によって作家的全盛期を迎えた。「或る女あるおんな」〔大正3〜8〕は、十年近い制作期間を費やした大作であり、このヒロイン早月葉子さつきようこは、自我に目覚めた強い個性をもちながら封建的な旧習から脱しきれない世間の壁に当たって苦しみ、閉鎖的な愛欲生活の中に作者自身の自滅を投影したリアルな描述で知られる。

九月くがつの朝の、けぶった空気に包まれて、新橋しんばしを渡る時、発車を知らせる一番目の鈴が鳴り出した。葉子は二番目の鈴でそれを聞いたが、車夫は「きりとまではいへない」(中略)停車場の入口の大戸を閉めようとする驛夫えきふあらそひながら、同じようにしている青年の姿を見た。

(「或る女」冒頭)

〈晩年—自殺に至る過程〉

第一次世界大戦後の社会運動の高まりは、社会矛盾のなかで自己の立場に深刻な疑問を抱かせた。

有島武郎ありしまたけお
明治23年(1878)〜大正12年(1923)。薩摩藩さつまはん出身の高級官僚を父に実業家の長男として生まれた。有島生馬ありしまいくま里見弴さとみとんはいずれも実弟。評論「星座せいざ」〔大正1〕・未完の長編「まま終わったなく」・「愛は惜しみなく奪う」〔大正3〕などがある。

エッセイ「宣言二せんげんふたつ」〔大正11〕で「第四階級」との決定的距離を表明した有島は、父から受け継いだ農場を解放して「共生農園」の建設を試みるなどの曲折の末に、大正12年(1923)、心中の形で生涯をみずから閉じた。

新現実主義

─大正後期─

耽美派たんびはと白樺派が見過ごした現実を、明晰な知性をもってとらえ直そうとすることがそれぞれの共通の傾向であった。

● 新思潮派

新思潮派は、東京帝国大学の学生たちが出していた同人雑誌「新思潮しんしちょう」〔第三次=大正3創刊、第四次=大正5創刊〕によって文壇に出た人々である。芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ菊池寛きくちかん久米正雄くめまさお山本有三やまもとゆうぞう豊島与志雄とよしまよしおらがその代表であり、彼らは社会の新しい解釈を加え、繊細な技巧によって人間の姿をつぶして観察し、理知による新しい描写を試みた。

第四次「新思潮」同人 左から成瀬正一、芥川龍之介、松岡謙、久米正雄
「新思潮」(雑誌)

芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ

〈前期の作品〉

芥川は、新思潮派を代表する作家である。第四次「新思潮」〔大正5年2月創刊〕に発表した「羅生門らしょうもん」は題材を「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」や「宇治拾遺物語うじしゅういものがたり」に求めた短編であり、「はな」が夏目漱石に激賞された。

芋粥いもがゆ」〔大正5〕・「地獄変じごくへん」〔大正7〕・「奉教人ほうきょうにんの死」〔大正6〕・「枯野抄かれのしょう」・「藪の中やぶのなか」・「戯作三昧げさくざんまい」〔大正2〕などのほか、インドや中国に取材した作品もある。

〈後期の作品〉

さらに「蜘蛛くもの糸」〔大正7〕・切支丹物きりしたんもの・「舞踏会ぶとうかい」〔大正9〕・「杜子春とししゅん」〔大正9〕などの江戸物・切支丹物きりしたんものも書いた。大正9年を契機に芸術至上主義の立場から離れ、説を経て自伝小説「大導寺信輔だいどうじしんすけの半生」〔大正14〕に到達した。プロレタリア階級の台頭に伴う社会変動と自身の健康を損ねたことによって、自己存在の不安に神経をすりらしていった芥川は、「朦朧ぼんやりとした不安」を感じながら「河童かっぱ」〔昭和2〕を書き、ついには自己の生命を絶つに至った。芥川の自殺は知識人の命運を示すものとして同時代の人々に大きな衝撃を与えた。遺稿に「歯車はぐるま」・「或阿呆あるあほうの一生」がある。

芥川龍之介
芥川の死を報じる新聞
芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ
明治25年(1892)〜昭和2年(1927)。東京生まれ。母の実家の芥川家の養子となる。東京帝大在学中に第三次「新思潮」を創刊し、久米正雄・菊池寛らとともに文壇への道を開いた。
侏儒じゅじゅの言葉」
大正12〜昭和2年〔1927〕に発表された社会・文化への鋭い短文の断章集。人間の痛切な悩みを短い文章で刻んでおり、エゴイズムを人間存在の根源として見つめる芥川の視点が凝縮されている。

〈鼻〉

短編小説。「今昔物語集」の「池尾禅珍内供鼻語いけのおぜんちんないくびのこと」に取材した作品。異様に長いはなを短くしようとする禅智内供ぜんちないくの苦心を描いて、人間の自尊心のもろさと傍観者の利己主義を語っている。

〈羅生門〉

短編小説。「今昔物語集」に取材した作品。上層と下層の人間が羅城門らじょうもんの中で死人しにん盗人ぬすびととして対峙する設定のなかで、人間は生きるためには悪をかかえ込むことになり、その悪を許すのもやはり悪しかないのだ、という暗い人生観が描かれている。数え年二十四歳の芥川は、すでにこのような厭世えんせい的な人生観を抱いていたのである。

或日あるひ暮方くれがたの事である。一人の下人が、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もない。ただ、所々丹塗にぬりげた大きな円柱に、蜘蛛くもが一匹とまっている。

(「羅生門」冒頭)

「では、己が引剥ひきはぎをしようと恨むまいな。己もさうしなければ、餓死がしをするのぢゃて。」手荒く死骸の上の着物をぎとった。(中略)下人はぎとった着物を小脇にかかえて、またたく間に梯子はしごけ下りた。下人の行方は、誰も知らない。

(「羅生門」末尾)

映画「羅生門」写真協力:大映

こゝ半透明はんとうめい歯車はぐるまも、何ものかの僕をねらってみることは一あし毎に僕を不安にしした。これがるのをおそれながら、あたまをまっすぐなおにしてあるいてった。歯車はぐるまかずきゅうしはじめた。同時どうじまたいし松林まつばやしはぴったりとえだをかのねらいをかしてるやうになりはじめた。僕は動悸どうきたかまるのをかんじながら、けれどもだれかにさえられるやうにまることさえ容易よういではなかった。

— 僕はもうこのさききつづけることは出来できない。かうもちのなかきつづけてくれるものはないか。だれか僕のはいってないか。

菊池寛きくちかん

第四次だいよじ新思潮しんしちょう」に戯曲ぎきょく屋上おくじょう狂人きょうじん」(大正たいしょう5)・小説しょうせつ無名作家むめいさっか日記にっき」(大正たいしょう5)などを発表はっぴょうしたが、みとめられるにいたらず、「父帰ちちかえる」(大正たいしょう6)・「忠直ただなおきょう行状記ぎょうじょうき」(大正たいしょう7)によって文壇的ぶんだんてき地位ちいた。「恩讐おんしゅう彼方かなたに」(大正たいしょう8)のような、明朗めいろう主題しゅだいづめの構成こうせいにその特色とくしょくがある。

真珠夫人しんじゅふじん」(大正たいしょう9)以降いこう通俗小説つうぞくしょうせつふでったが、筋立てすじだてたくみさと、合理的ごうりてき健全けんぜん道徳感どうとくかんによってむかえられた。

▶「恩讐おんしゅう彼方かなたに」
主人しゅじんってした市九郎いちくろうは、みち殺人さつじんかさねて仏門ぶつもんる。豊前ぶぜんくに耶馬渓やばけい隧道ずいどう開削かいさくしようとするうちに、ちちかたきのった旧主きゅうしゅあらわれ、仇討かたきうちの無益むえきさをさとる。ヒューマニズムの勝利しょうり主題しゅだいとした作品さくひん
久米正雄くめまさお

久米くめも「新思潮しんしちょう」に戯曲ぎきょく発表はっぴょうして文学的ぶんがくてきスタートをったが、のちに「破船はせん」(大正たいしょう11)などで通俗小説作家つうぞくしょうせつさっかとしての人気にんきた。

久米正雄くめまさお
明治めいじ24ねん(1891)〜昭和しょうわ33ねん(1958)。
佐藤春夫さとうはるお室生犀星むろうさいせい

二人ふたりとも詩人しじんとして出発しゅっぱつした。佐藤春夫さとうはるおは「田園でんえん憂鬱ゆううつ」(大正たいしょう8)で繊細せんさい官能かんのう世界せかいえがき、「都会とかい憂鬱ゆううつ」(大正たいしょう11)によって現代げんだい人間にんげんの「憂鬱ゆううつ」な心情しんじょうえがいた。室生犀星むろうさいせいは「せい眼覚めざめるころ」(大正たいしょう7〜大正たいしょう8)によって内面ないめんの「憂鬱ゆううつ」な心情しんじょう繊細せんさい官能かんのうふでえがいた。

佐藤春夫さとうはるお
明治めいじ24ねん(1891)〜昭和しょうわ39ねん(1964)。
室生犀星むろうさいせい
明治めいじ22ねん(1889)〜昭和しょうわ37ねん(1962)。詩歌しいかについては101ページ参照さんしょう
新早稲田派しんわせだは

同人雑誌どうじんざっし奇蹟きせき」(大正たいしょう1創刊そうかん)にった広津和郎ひろつかずお葛西善蔵かさいぜんぞうらは、自然主義しぜんしゅぎけつぎ、日常生活にちじょうせいかつ密着みっちゃくした小説しょうせつによって「私小説わたくししょうせつ」を定着ていちゃくさせた。「奇蹟きせき廃刊はいかん後はおもとして「早稲田文学わせだぶんがく」に作品さくひん発表はっぴょうしたので、新早稲田派しんわせだはばれる。

広津和郎ひろつかずお

神経病時代しんけいびょうじだい」(大正たいしょう6)で若者わかもの自意識じいしき過剰かじょうを、「死児しじいだいて」(大正たいしょう7)であたらしいタイプの人間にんげん追求ついきゅうしている。

葛西善蔵かさいぜんぞう

をつれて」(大正たいしょう7)・「かなしきちち」など、極度きょくど貧困ひんこんなかでの自身じしん生活せいかつ冷静れいせいえがいた。私小説わたくししょうせつ作家さっか代表的だいひょうてき存在そんざいである。

宇野浩二うのこうじ

くらなか」(大正たいしょう7)・「世界せかい」(大正たいしょう8〜9)がある。自身じしん体験たいけんをそのままいた私小説作家わたくししょうせつさっか代表的存在だいひょうてきそんざいである。

広津和郎ひろつかずお
明治めいじ24ねん(1891)〜昭和しょうわ43ねん(1968)。広津柳浪ひろつりゅうろう次男じなん
葛西善蔵かさいぜんぞう
明治めいじ20ねん(1887)〜昭和しょうわ3ねん(1928)。
宇野浩二うのこうじ
明治めいじ24ねん(1891)〜昭和しょうわ36ねん(1961)。

プロレタリア文学ぷろれたりあぶんがく

大正末たいしょうまつ昭和初期しょうわしょき

大正たいしょうまつから昭和しょうわはじめにかけては、関東大震災かんとうだいしんさい世界恐慌せかいきょうこうによって社会不安しゃかいふあんした。恐慌きょうこうあいついでこり、このような社会的背景しゃかいてきはいけいからプロレタリア文学ぶんがくまれた。出発点しゅっぱつてんは「種蒔たねまひと」の創刊そうかん大正たいしょう10)・「文芸戦線ぶんげいせんせん」の創刊そうかん大正たいしょう13)・日本にほんプロレタリア文芸連盟ぶんげいれんめい結成けっせい大正たいしょう14)としだいに勢力せいりょくしていった。昭和しょうわはいってからは、社会革命しゃかいかくめいという政治的目標せいじてきもくひょう役立やくだたせることが文学ぶんがくもとめられるようになり、ナルプ(日本にほんプロレタリア作家同盟さっかどうめい)が組織そしきされた。しかし、官憲かんけん弾圧だんあつ政治優先せいじゆうせん創作理論そうさくりろんによって作家さっかたちがついていけなくなり、昭和しょうわ9ねん(1934)にはナルプが解散かいさんし、組織的そしきてきなプロレタリア文学運動ぶんがくうんどう終息しゅうそくした。

千葉ちば野田醤油のだしょうゆ労働争議ろうどうそうぎ
▶「種蒔たねまひと
大正たいしょう10ねん金子洋文かねこようぶん小牧近江こまきおうみらによって発刊はっかんされ、社会主義文学しゃかいしゅぎぶんがく方向ほうこう提示ていじされた。
▶「文芸戦線ぶんげいせんせん
大正たいしょう13ねん葉山嘉樹はやまよしき青野季吉あおのすえきちらによって、プロレタリア文学ぶんがくすすむべき理論的方向りろんてきほうこうろんぜられた。
葉山嘉樹はやまよしき

初期しょきプロレタリア文学ぶんがく代表だいひょうする作家さっかで、工場労働者こうじょうろうどうしゃ悲惨ひさんさをえがいた「セメント樽せめんとだるなか手紙てがみ」(大正たいしょう15)、下級船員かきゅうせんいんたちの階級的目覚かいきゅうてきめざめをえがいた「うみきる人々ひとびと」(大正たいしょう15)などの作品さくひんがある。

小林多喜二こばやしたきじ

政治せいじ優先ゆうせん文学理論ぶんがくりろん忠実ちゅうじつ実践じっせんしようとした小林多喜二こばやしたきじは、「蟹工船かにこうせん」(昭和しょうわ4)・「党生活者とうせいかつしゃ」(昭和しょうわ8)など、プロレタリア文学ぶんがくなかもっともすぐれた作品さくひんのこした。

葉山嘉樹はやまよしき
明治めいじ27ねん(1894)〜昭和しょうわ20ねん(1945)。
小林多喜二こばやしたきじ
明治めいじ36ねん(1903)〜昭和しょうわ8ねん(1933)。特高とっこう警察けいさつ逮捕たいほされ、拷問ごうもんにより獄中ごくちゅう死亡しぼう

蟹工船かにこうせん

中編小説ちゅうへんしょうせつ帝国海軍ていこくかいぐん保護ほごされてカムチャッカに出漁しゅつりょうする蟹工船かにこうせん労働者ろうどうしゃたちの悲惨ひさん労働条件ろうどうじょうけんと、かれらが組織的そしきてき闘争とうそうちあがっていくさまをえがいている。

いくら漁夫りょうふ達でも、今度こんどという今度こんどこ、だれてきであるか、そしておたがいつなつてるかが、半年はんとしれいで、漁期りょうきりさうになると、蟹缶詰かにかんづめの「献上品けんじょうひん」をつくることをつてしまつてから、みんなさうなつた。〔中略ちゅうりゃく〕「俺達おれたち本当ほんとうにくしぼげてつくるものだ。つてしまつてから、腹痛はらいたでもさねばい、さ。ッフン、さぞうめえこつたろ。みなでそんな気持きもちつくつた。いしころでもれておけ! 俺達おれたちには、俺達おれたちしか味方みかたえんだ。」

小林多喜二こばやしたきじ
明治めいじ36ねん(1903)〜昭和しょうわ8ねん(1933)。船員せんいん新聞記者しんぶんきしゃなどのしょく転々てんてんとしながら労働運動ろうどううんどう専心せんしんした。「文芸戦線ぶんげいせんせん」・「戦旗せんき」の有力作家ゆうりょくさっかとして活動かつどうした。
▶「戦旗せんき
昭和しょうわ3ねん(1928)創刊そうかん。プロレタリア文学運動ぶんがくうんどう機関誌きかんし小林多喜二こばやしたきじ徳永直とくながすなおらがここに作品さくひん発表はっぴょうした。
徳永直とくながすなお

労働者ろうどうしゃ出身しゅっしん作家さっかで、自分じぶん体験たいけんした共同印刷きょうどういんさつ争議そうぎ経過けいかえがく「太陽たいようのないまち」(昭和しょうわ4)を発表はっぴょうした。

徳永直とくながすなお
明治めいじ31ねん(1899)〜昭和しょうわ23ねん(1948)。「戦旗せんき」にって活動かつどう戦後せんご新日本文学会しんにほんぶんがくかい(⇒p.188)創立そうりつにも参加さんかした。

芸術派げいじゅつは

昭和初期しょうわしょき

昭和しょうわ初期しょきに、一方いっぽうでプロレタリア文学ぶんがく勢力せいりょくすとともに、他方たほうでプロレタリア文学ぶんがく対抗たいこうして政治せいじぬきの文学ぶんがくそのものに新進作家しんしんさっかたちがいた。

新感覚派しんかんかくは

同人雑誌どうじんざっし文芸時代ぶんげいじだい」(大正たいしょう13創刊そうかん)にった新感覚派しんかんかくはは、横光利一よこみつりいち川端康成かわばたやすなり片岡鉄兵かたおかてっぺいらで、知覚ちかくによって現実げんじつ知的ちてき再構成さいこうせいしようとした。

横光利一よこみつりいち

あたらたな文体ぶんたいこころみた。「日輪にちりん」(大正たいしょう12)によって新人作家しんじんさっかとして登場とうじょうし、「はえ」(大正たいしょう12)・「機械きかい」(昭和しょうわ5)などの実験的じっけんてき手法しゅほうによる作品さくひん次々つぎつぎ発表はっぴょうした。「紋章もんしょう」(昭和しょうわ9)では、自意識過剰じいしきかじょう知識人ちしきじん行動的こうどうてき発明家はつめいかとを対照たいしょうさせ、知識人動揺ちしきじんどうよう時期じきにおける心理しんりらしし、話題わだいとなった。のちには「旅愁りょしゅう」(昭和しょうわ12〜未完みかん)において、東洋精神とうようせいしん西洋精神せいようせいしんとの対立たいりつをテーマとした。

機械きかい

短編小説たんぺんしょうせつ。ネームプレート工場こうじょうはたらく「わたし」がほか二人ふたり工員こういんとともに心理的葛藤しんりてきかっとうかたっていく形式けいしきかれており、日本にほんにおける心理主義しんりしゅぎ実践じっせんとして注目ちゅうもくびた。個人こじん運命うんめい個人こじん意志いしとは関係かんけいなく、えざる「機械きかい」によって決定けっていされていく、という人間認識にんげんにんしきしめされている。

わたしはもうわたしがわからなくなつてた。先尖きっさきがじりじりわたしねらつてゐるのをかんじるだけだ。わたしなにをしてたか、そんなことをわたしうたとてわたしつてゐるわけがないのだから。だれわたしはつてわたしさばいてくれ。

新感覚派しんかんかくは菊池寛きくちかん みぎから横光利一よこみつりいち片岡鉄兵かたおかてっぺい川端康成かわばたやすなり左端ひだりはし菊池寛きくちかん
▶「文芸時代ぶんげいじだい
大正たいしょう13ねん(1924)創刊そうかん昭和しょうわ2ねん(1927)廃刊はいかん創刊号そうかんごう発表はっぴょうされた横光よこみつの「あたまならびにはら」の冒頭部分ぼうとうぶぶんが「新感覚しんかんかく」を代表だいひょうするものとされた。
横光利一よこみつりいち
明治めいじ31ねん(1898)〜昭和しょうわ22ねん(1947)。パリに留学りゅうがくし、東洋とうよう西洋せいようとの対立たいりつ実感じっかんした。
片岡鉄兵かたおかてっぺい
明治めいじ28ねん(1895)〜昭和しょうわ19ねん(1944)。のちにプロレタリア文学ぶんがくうつった。

真昼まひるである。特別急行列車とくべつきゅうこうれっしゃ満員まんいんのまま全速力ぜんそくりょくけてゐた。沿線えんせん小駅しょうえきいしのやうに黙殺もくさつされた。

川端康成かわばたやすなり

横光利一よこみつりいちとともに新感覚派しんかんかくは代表だいひょうする存在そんざい川端康成かわばたやすなりである。「伊豆いず踊子おどりこ」(大正たいしょう15)で青春せいしゅん感傷かんしょうをみずみずしくえがき、「禽獣きんじゅう」(昭和しょうわ8)では非情ひじょう透徹とうてつした感覚かんかくによって虚無きょむ世界せかいしている。

その延長線上えんちょうせんじょうに「雪国ゆきぐに」(昭和しょうわ10〜12)がかれた。戦後せんごも「千羽鶴せんばづる」(昭和しょうわ24)などでかなしくうつくしい叙情じょじょう世界せかい追求ついきゅうつづけた。1968年度ねんどノーベル文学賞ぶんがくしょう川端かわばたあたえられたのも、日本的にほんてき世界せかいえがつづけてきたことによる。

伊豆いず踊子おどりこ

短編小説たんぺんしょうせつ一高生いちこうせい二十歳はたちの「わたし」は孤児根性こじこんじょうち、旅芸人たびげいにん一行いっこう下田しもだまで道連みちづれになり、踊り子おどりこきよらかなこころれて「わたし」の孤児根性こじこんじょうあらながされた。青春せいしゅんあま感傷かんしょうをうたいあげた傑作けっさくである。

「いいえ、いまひとわかれてたんです。」わたし非常ひじょう素直すなおつた。いてゐるのをられても平気へいきだつた。ただ清々すがすがしい満足まんぞくなかしずかにながめてゐるやうだつた。網代あじろ熱海あたみにはがついた。うみはいつのにかくらくなつてゐた。少年しょうねんたけ皮包かわづつみをいてくれた。わたしはそれがひとものであることをわすれてしまつてゐた。海苔巻のりまきのすしをべた。少年しょうねんれたのかもらずにゐた。そして大変たいへん親切しんせつにされて、なにか上野駅うえのえきまでれてつてもらへるやうなうつくしい空虚くうきょ気持きもちだつた。わたしはどんな信号しんごうにも素直すなおしたがふやうな気持きもちだつた。よるけると船室せんしつんだ生魚なまざかなしおにおひがつよくなつた。船燈ふなとうがゆらゆらして、少年しょうねん体温たいおんがあたたまりながら、わたしなみだまかせにしてゐた。それがぼろぼろこぼれ、あとにはなにのこらないやうなあまこころよさだつた。

川端康成かわばたやすなり
伊豆いず踊子おどりこ」の舞台ぶたいとなった天城峠あまぎとうげ
川端康成かわばたやすなり
明治めいじ31ねん(1899)〜昭和しょうわ47ねん(1972)。この時期じき作品さくひんとして「浅草あさくさ」(昭和しょうわ4〜5)などもある。戦後せんご作品さくひんについては⇒p.184〜5参照さんしょう
▶「雪国ゆきぐに
長編小説ちょうへんしょうせつこし温泉地おんせんち出会であった芸者げいしゃ純粋じゅんすいさにこころうごかされる島村しまむら主人公しゅじんこうとし、その叙情性じょじょうせい手法しゅほう日本にほん近代小説きんだいしょうせつ名作めいさくかぞえられている。

国境こっきょうながいトンネルをけると雪国ゆきぐにであつた。よるそこしろくなつた。信号所しんごうじょ汽車きしゃまつた。

新興芸術派しんこうげいじゅつは

新感覚派しんかんかくはながれをけて、新潮社しんちょうしゃ系の作家さっかたちを中心ちゅうしん結成けっせいされた。プロレタリア文学ぶんがく対抗たいこうする目的もくてきあつまったのが新興芸術派しんこうげいじゅつはだが、都会生活とかいせいかつ表面的ひょうめんてきうつしとることを目的もくてきとするにとどまった。むしろ新人しんじんとして参加さんかしていた井伏鱒二いぶせますじ牧野信一まきのしんいち梶井基次郎かじいもとじろうらが個性的こせいてき文学ぶんがく開花かいかさせた。

井伏鱒二いぶせますじ

処女作しょじょさく山椒魚さんしょううお」(大正たいしょう12)・「夜ふけよふけうめはな」(大正たいしょう14)など初期しょき佳作かさくには、人生じんせい哀感あいかんとユーモアが一貫いっかんするトーンとなっており、これが井伏いぶせ作品さくひん一貫いっかんする特色とくしょくである。戦後せんごも「本日休診ほんじつきゅうしん」(昭和しょうわ29〜30)・「駅前旅館えきまえりょかん」(昭和しょうわ34)が好評こうひょう、「くろあめ」(昭和しょうわ40〜41)では原爆げんばくたいするいかりをえがいた。

山椒魚さんしょううお

大正たいしょう12ねんに「幽閉ゆうへい」のだい発表はっぴょうした短編小説たんぺんしょうせつ加筆かひつのち改題かいだいされて昭和しょうわ4ねん再発表さいはっぴょう一匹いっぴき山椒魚さんしょううお渓流けいりゅう岩屋いわやなか快適かいてきごすうちにあたまおおきくなってられなくなってしまう。作者さくしゃ自身じしんこころ屈折くっせつえがいた佳作かさく

山椒魚さんしょううおかなしんだ。かれかれ棲家すみかである岩屋いわやからそとてみようとしたのであるが、あたま出口でぐちにつかへてそとることができなかったのである。いま最早もはやかれにとっては永遠えいえんに、ひてかうとするところの出口でぐちのところがそんなにせまかった。

中村武羅夫なかむらむらお
明治めいじ19ねん(1886)〜昭和しょうわ40ねん(1965)。
牧野信一まきのしんいち
明治めいじ29ねん(1896)〜昭和しょうわ11ねん(1936)。「ゼーロン」(昭和しょうわ6)などがある。
井伏鱒二いぶせますじ
明治めいじ31ねん(1898)〜平成へいせい5ねん(1993)。「くろあめ」は戦後せんご傑作けっさくである。

梶井基次郎かじいもとじろう

檸檬れもん」(大正たいしょう14)・「ふゆはえ」(昭和しょうわ3)・「のんきな患者かんじゃ」(昭和しょうわ7)などで、するど感覚かんかくによって象徴的しょうちょうてき詩情しじょう豊かな世界せかいえがきあげている。

梶井基次郎かじいもとじろう
明治めいじ34ねん(1901)〜昭和しょうわ7ねん(1932)。第三高等学校だいさんこうとうがっこう時代じだい肺膜炎はいまくえんをわずらい、生涯しょうがいくるしんだ。東大とうだい英文科えいぶんかすすみ、同人誌どうじんし青空あおぞら」を創刊そうかん大正たいしょう14)し、「檸檬れもん」を発表はっぴょうした。伊豆湯いずゆしま療養りょうようした。
新心理主義しんしんりしゅぎ

ジョイスやプルーストの方法ほうほうまなんで、人間心理にんげんしんり深層しんそうながれを表現ひょうげんすることをめざざした伊藤整いとうせい堀辰雄ほりたつおは、新心理主義しんしんりしゅぎばれた。伊藤いとう自己じこ方法ほうほう模索もさくしながら、人間心理にんげんしんり深層しんそうせまった。

堀辰雄ほりたつお

東大とうだい在学中ざいがくちゅう同人誌どうじんし駒馬こまば」を発刊はっかんした。「聖家族せいかぞく」(昭和しょうわ5)で心理しんり解剖かいぼうこころみ、結核けっかく療養りょうよう体験たいけんとプルーストの手法しゅほうとによって「うつくしいむら」(昭和しょうわ8)・「風立かぜたちぬ」(昭和しょうわ11)などをいた。のちには日本にほん古典こてん傾倒けいとうし、「曠野こうや」(昭和しょうわ16)などをいた。

風立かぜたちぬ〉

ヴァレリの海辺うみべ墓地ぼちちゅう一句いっく風立かぜたちぬ、いざきめやも」から表題ひょうだいをとった中編小説ちゅうへんしょうせつ肺結核はいけっかく婚約者こんやくしゃとサナトリウム(療養院りょうよういん)で生活せいかつしている「わたし」は、えた永遠えいえんせい発見はっけんする。加筆かひつかさ昭和しょうわ13ねん完成かんせいした。

それらのなつ日々ひび一面いちめん薄生うすおいしげった草原くさはらなかで、おまえ仕事しごとをすませてくれるたびに、私達わたしたちかたをくっつけって仰向あおむけになり、みどりだけがあざやかにえていた白樺しらかばのそばによこになり、もくもくしたうずたかおおわれているその地平線ちへいせんから、反対はんたい何者なにものかがつつあるような夕暮ゆうぐれれだった。

▶ ジョイス(James Joyce)
(1882〜1941)。イギリスの小説家しょうせつか内的独白ないてきどくはく手法しゅほうによって意識いしきながれを描写びょうしゃした「ユリシーズ」などの作品さくひんがある。
▶ プルースト(Marcel Proust)
(1871〜1922)。フランスの小説家しょうせつか潜在意識せんざいいしき照明しょうめいてようとした大作たいさくうしなわれたときもとめて」がある。⇒p.85参照さんしょう
▶ ヴァレリ(Paul Valéry)
(1871〜1945)。フランスの詩人しじん批評家ひひょうか詩集ししゅう魅惑みわく」・詩論集しろんしゅう「ヴァリエテ」などがある。
堀辰雄ほりたつお
明治めいじ37ねん(1904)〜昭和しょうわ28ねん(1953)。芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ傾倒けいとうしていた後輩こうはいで、芥川あくたがわ自殺じさつにショックをけ、卒業論文そつぎょうろんぶんに「芥川龍之介論あくたがわりゅうのすけろん」をいた。
伊藤整いとうせい
明治めいじ38ねん(1905)〜昭和しょうわ44ねん(1969)。

昭和しょうわ年代ねんだい文学ぶんがく

昭和しょうわねん(一九三一)にはじまった満州事変まんしゅうじへん戦争せんそうふかめていき、民衆みんしゅう不安ふあん増大ぞうだいした。こうした社会しゃかいはげしい動揺どうよう混迷こんめいしめし、情勢じょうせい文学ぶんがく世界せかい敏感びんかん反応はんのうし、昭和しょうわ年代ねんだい文学ぶんがく激化げきかした。プロレタリア文学ぷろれたりあぶんがくからの転向てんこう作家さっかとしての良心りょうしん模索もさく、さまざまな現象げんしょう交錯こうさくした。そして、太平洋戦争たいへいようせんそう以後の時期じきには、文学ぶんがくそのものが否定ひていされるようになり、戦争せんそうへの協力きょうりょく強制きょうせいされ、作家さっか徴用ちょうようされたりして、日本にほん敗戦はいせんまでつづいた。

転向文学てんこうぶんがく

(→p.174)小林多喜二こばやしたきじ警察けいさつ虐殺ぎゃくさつされたこと(昭和しょうわねん)につづいて、日本共産党にほんきょうさんとう指導者しどうしゃ佐野学さのまなぶらが転向てんこうしたことが契機けいきとなって、プロレタリアぷろれたりあ作家さっかなか転向てんこうするもの相次あいついだ。転向文学てんこうぶんがくとは、転向者てんこうしゃいた文学ぶんがくで、その内容ないようおもとして、転向者てんこうしゃ苦悩くのう私小説ししょうせつふうに吐露とろするものであった。村山知義むらやまともよしの『白夜びゃくや』(昭和しょうわ9)、立野信之たてのぶゆきの『友情ゆうじょう』(昭和しょうわ9)がその代表的だいひょうてき作品さくひんである。なかには中野重治なかのしげはるむらいえ』(昭和しょうわ10)のように、自己じこ信念しんねん再確認さいかくにんするものや、島木健作しまきけんさく生活せいかつ探求たんきゅう』(昭和しょうわ9)のように自己じこ再生さいせいさせるみちもとめようとするものや、林房雄はやしふさおのように、しだいにファシズムにせていく作家さっかもいた。

小林多喜二こばやしたきじ
村山知義むらやまともよし
明治めいじ三四ねん(一九〇一)〜昭和しょうわ五二ねん(一九七七)。演劇えんげき分野ぶんやでも活躍かつやくした。
立野信之たてのぶゆき
明治めいじ三三ねん(一九〇〇)〜昭和しょうわ四四ねん(一九六九)。上記じょうきのほかに『叛乱はんらん』(昭和しょうわ27)など。
中野重治なかのしげはる
明治めいじ三五ねん(一九〇二)〜昭和しょうわ五四ねん(一九七九)。評論ひょうろんでも活躍かつやくした。
島木健作しまきけんさく
明治めいじ三六ねん(一九〇三)〜昭和しょうわ二〇ねん(一九四五)。『生活せいかつ探求たんきゅう』は昭和しょうわ10年代ねんだい初頭しょとう知識人ちしきじんもとめたかたの、一方向いちほうこうしめしている。
林房雄はやしふさお
明治めいじ三六ねん(一九〇三)〜昭和しょうわ五〇ねん(一九七五)。『青年せいねん』(昭和しょうわ12)のように自己じこ再生さいせいさせるみちもとめようとするものがある。
永井荷風ながいかふう
濹東綺譚ぼくとうきだん』(昭和しょうわ9)など(→一六六ページ)。文明ぶんめいどくされていない伝統的でんとうてき風俗ふうぞく人情にんじょうえがいた随筆体ずいひつたい小説しょうせつ
濹東綺譚ぼくとうきだん』の挿絵さしえ
既成作家きせいさっか活躍かつやく

プロレタリア文学ぷろれたりあぶんがく芸術派げいじゅつはいきおいをていたころ、既成作家きせいさっかはそのかげ目立めだたなかったが、それらが衰退すいたいすると、既成作家きせいさっか復活ふっかつという様相ようそうていした。昭和しょうわねん以降の〈文芸復興ぶんげいふっこう〉のひとつのあらわれとして、永井荷風ながいかふうの『濹東綺譚ぼくとうきだん』(昭和しょうわ12)、谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうの『春琴抄しゅんきんしょう』(昭和しょうわ8)、島崎藤村しまざきとうそんの『夜明よあまえ』(昭和しょうわ4〜10)、志賀直哉しがなおやの『仮装人物かそうじんぶつ』(昭和しょうわ10〜13)・『暗夜行路あんやこうろ』(大正たいしょう10〜昭和しょうわ12)、徳田秋声とくだしゅうせいの『縮図しゅくず』(昭和しょうわ12〜16)などが発表はっぴょうされた。

●『文学界ぶんがくかい』と日本浪漫派にほんろうまんは

文学界ぶんがくかい』(一九三三)に創刊そうかんされ、プロレタリア文学ぷろれたりあぶんがく系統けいとう作家さっかたちと芸術派げいじゅつは作家さっかたちとが日本にほん伝統でんとうへの回帰かいきなど純粋じゅんすいなものをもとめる姿勢しせいをうちし、〈文芸復興ぶんげいふっこう〉のあらわれとなされた。同人誌どうじんし日本浪漫派にほんろうまんは』は昭和しょうわねん(一九三五)に創刊そうかんされ、亀井勝一郎かめいかついちろうと、日本古典にほんこてんへの愛情あいじょうかたった保田与重郎やすだよじゅうろうとが中心ちゅうしんで、ともに純粋じゅんすい文学ぶんがくもとめる姿勢しせいをうちした集団しゅうだんであった。『日本浪漫派にほんろうまんは』は、のちに、戦時せんじ日本精神にほんせいしん鼓吹こすいするものたちをとなった。

戦時下せんじか文学ぶんがく

戦場せんじょうでの兵士へいし姿すがたえがいた石川達三いしかわたつぞうきてゐる兵隊へいたい』(昭和しょうわ13)は発禁処分はっきんしょぶんにされた。このように政府せいふは、日中戦争にっちゅうせんそう素材そざいとする小説しょうせつにはきびしい制限せいげんすようになった。反面はんめん火野葦平ひのあしへいむぎ兵隊へいたい』(昭和しょうわ13)が、戦場せんじょう実際じっさい様子ようすりたがっていた人々ひとびとひろまれた。

谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう
→一六三・一八四ページ。
春琴抄しゅんきんしょう
音楽おんがく天才てんさい盲目もうもく師匠ししょう春琴しゅんきん生涯しょうがいをかけてつかえる召使めしつかい愛情あいじょうえがく。→一六三ページ。
夜明よあまえ
一五三ページ。木曽きそ馬籠まごめ本陣ほんじんという立場たちばから幕末ばくまつから明治維新めいじいしんにかけての激動期げきどうきえがく。
島崎藤村しまざきとうそん
→一五三ページ。
縮図しゅくず
一五六ページ。芸妓屋げいぎや女主人おんなあるじ生活史せいかつしえがいた自然主義文学しぜんしゅぎぶんがく傑作けっさく
徳田秋声とくだしゅうせい
明治めいじねん(一八七一)〜昭和しょうわ一八ねん(一九四三)。
石川達三いしかわたつぞう
明治めいじ三八ねん(一九〇五)〜昭和しょうわ六〇ねん(一九八五)。『日本にほんはし』(昭和しょうわ11)など。
武田麟太郎たけだりんたろう
明治めいじ三七ねん(一九〇四)〜昭和しょうわ二一ねん(一九四六)。
保田与重郎やすだよじゅうろう
明治めいじ四三ねん(一九一〇)〜昭和しょうわ五六ねん(一九八一)。批評ひひょう対象たいしょう文学ぶんがくのみならず本居宣長もとおりのりながやモーツァルトなど多方面たほうめんにわたった。
亀井勝一郎かめいかついちろう
明治めいじ四〇ねん(一九〇七)〜昭和しょうわ四一ねん(一九六六)。

こうして爆発的ばくはつてききをしめしたこともあって、政府せいふ作家さっかたちを戦争せんそう従軍じゅうぐんさせた。作家さっかたちは、戦場せんじょうでの見聞けんぶんもとづいて、小説しょうせつやルポルタージュをいた。一部いちぶ作家さっかは、戦争政策せんそうせいさく内容ないよう小説しょうせつすすんでくようになった。これが国策文学こくさくぶんがくである。

昭和しょうわ年代ねんだい作家さっか

昭和しょうわ十六ねん(一九四一)に太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいしされ、以後いご文学ぶんがくはしだいに窒息ちっそくさせられていった。ゆえに軍部ぐんぶ利用りようされなかったわか世代せだい人々ひとびとが、戦争中せんそうちゅう文学ぶんがく領域りょういきまもった作家さっかがいた。

中島敦なかじまあつし

漢学者かんがくしゃいえまれて中国古典ちゅうごくこてん素養そようあつく、中国古典ちゅうごくこてん取材しゅざいした『山月記さんげつき』・『ひかりかぜゆめ』・『弟子でし』(昭和しょうわ17)を発表はっぴょうしてみとめられ、まもなく病没びょうぼつした。戦後文学せんごぶんがくへのかけはし意味いみをもって発表はっぴょうされていなかった中編ちゅうへんが、中島なかじま遺作いさくとしてのこされた。

李陵りりょう

はじだいもついていなかった中編ちゅうへんを、深田久弥ふかだきゅうやによって「李陵りりょう」と命名めいめいされた。中国ちゅうごく前漢ぜんかん時代じだい舞台ぶたいに、李陵りりょう司馬遷しばせん蘇武そぶにんかたとおじて、人間にんげんきるよすがを追求ついきゅうした小説しょうせつである。

中島敦なかじまあつし
山月記さんげつき」『文学界ぶんがくかい昭和しょうわ17ねん2月号がつごうから
むぎ兵隊へいたい
火野葦平ひのあしへい
明治めいじ四〇ねん(一九〇七)〜昭和しょうわ三五ねん(一九六〇)。戦場せんじょうでの体験たいけんぐん報道部ほうどうぶのルポルタージュふうにまとめた。『むぎ兵隊へいたい』が好評こうひょうたことにより、つづいて『つち兵隊へいたい』・『はな兵隊へいたい』を発表はっぴょうした。
中島敦なかじまあつし
明治めいじ四二ねん(一九〇九)〜昭和しょうわ一七ねん(一九四二)。自分じぶん原稿げんこう深田久弥ふかだきゅうやたくし、『文学界ぶんがくかい』に「山月記さんげつき」など2へんが「古譚こたん」の総題そうだい発表はっぴょうされた。
山月記さんげつき
詩人しじんをめざしながらとらになってしまったおとこえが中国ちゅうごく伝説でんせつ題材だいざいに、芸術家げいじゅつか悲痛ひつう自意識じいしきのありようをえがいた短編たんぺん
名人伝めいじんでん』・『悟浄出世ごじょうしゅっせ
西遊記さいゆうき』などに取材しゅざいした短編たんぺん人間にんげんかたさぐ哲学的てつがくてき主題しゅだいをもつ。

李陵りりょう第三章だいさんしょう

しかし結局けっきょくそれは、わかれにのぞんで李陵りりょうともためなみだった。いひかたきときおのれこころざし那辺なへんにあったかといふまえ故国こっこく一族いちぞくりくせられて、もはやかえるによしなくなった事情じじょうとに、ば患痴かんちになってしまふ。かれ一言いちごんもそれについてはいはなかった。ただ、うたった。

径万里兮度沙幕、
為君将兮奔匈奴。
路窮絶兮矢刃摧、
士衆滅兮名已隤。
老母已死、虽欲報恩将安帰。

うたっているなかに、こえほほなみだつたはった。女々めめしいぞとみずかしかりながら、どうしやうもなかった。蘇武そぶは十九ねんぶりで祖国そこくかえってった。

●その作家さっか作品さくひん

戦時下せんじか活動かつどう開始かいしした作家さっかには、山本有三やまもとゆうぞう阿部知二あべともじ(『ふゆ宿やど昭和しょうわ11)・北条民雄ほうじょうたみお(「いのちの初夜いのちのしょや昭和しょうわ11)・岡本かの子おかもとかのこ石川淳いしかわじゅん(「普賢ふげん昭和しょうわ11)・田中英光たなかひでみつ(「オリンポスの果実かじつ昭和しょうわ15)のほかに、石坂洋次郎いしざかようじろう高見順たかみじゅん壇一雄だんかずお丹羽文雄にわふみお舟橋聖一ふなはしせいいちらがいた。これらの人々ひとびとおおくは、戦後せんごにその活躍期かつやくきむかえた。

評論ひょうろん

評論ひょうろん分野ぶんやでも、新進しんしん評論家ひょうろんか輩出はいしゅつし、おおくは戦後せんごにその活躍期かつやくきむかえることになる。三木清みききよし(『人生論じんせいろんノート』)・中村光夫なかむらみつお(『二葉亭四迷論ふたばていしめいろん昭和しょうわ11)・武田泰淳たけだたいじゅんのほかに、唐木順三からきじゅんぞう谷川徹三たにかわてつぞう林達夫はやしたつお小田切秀雄おだぎりひでお竹内好たけうちよしみらがいる。

山本有三やまもとゆうぞう
明治めいじ二〇ねん(一八八七)〜昭和しょうわ四九ねん(一九七四)。はじ戯曲ぎきょく専念せんねんし、大正たいしょう末期まっきから小説しょうせつてんじた。『路傍ろぼういし』(昭和しょうわ12)・『なみ』(昭和しょうわ16)など。
高見順たかみじゅん
明治めいじ四〇ねん(一九〇七)〜昭和しょうわ四〇ねん(一九六五)。
壇一雄だんかずお
明治めいじ四五ねん(一九一二)〜昭和しょうわ五一ねん(一九七六)。『火宅かたくひと』(昭和しょうわ25〜55)など。
田中英光たなかひでみつ
大正たいしょうねん(一九一三)〜昭和しょうわ二四ねん(一九四九)。
三木清みききよし
明治めいじ三〇ねん(一八九七)〜昭和しょうわ二〇ねん(一九四五)。
中村光夫なかむらみつお
明治めいじ四四ねん(一九一一)〜昭和しょうわ六三ねん(一九八八)。
唐木順三からきじゅんぞう
明治めいじ三七ねん(一九〇四)〜昭和しょうわ五五ねん(一九八〇)。
竹内好たけうちよしみ
明治めいじ四三ねん(一九一〇)〜昭和しょうわ五二ねん(一九七七)。中国ちゅうごくとの関係かんけいふかく、『魯迅ろじん』(昭和しょうわ19)などがある。
石川淳いしかわじゅん
明治めいじ三二ねん(一八九九)〜昭和しょうわ六二ねん(一九八七)。燎原記りょうげんき昭和しょうわ13)・イエス(昭和しょうわ22)など。
北条民雄ほうじょうたみお
大正たいしょうねん(一九一四)〜昭和しょうわ一二ねん(一九三七)。ハンセン病はんせんびょう(らいびょう)をわずらいながら文学ぶんがくいた。

戦後せんご文学ぶんがく

昭和しょうわ二十ねん(一九四五)、日本にほん無条件降伏むじょうけんこうふくした。敗戦後はいせんごまもなく復活ふっかつしたのは、戦争中せんそうちゅう発表はっぴょうのあてもなく作品さくひんつづけていた老大家ろうたいか文学者ぶんがくしゃたちもおおく、またきゅうプロレタリアけい文学者ぶんがくしゃたちも運動うんどう再出発さいしゅっぱつさせた。雑誌ざっし復刊ふっかん創刊そうかんもあいつぎ、戦後派せんごは新人しんじん続々ぞくぞく登場とうじょうして、戦争中せんそうちゅう抑圧よくあつされていた文学的ぶんがくてきエネルギーが一挙いっきょ噴出ふんしゅつしたかのごとき様相ようそうていした。数年すうねんをへだてて、第三だいさん新人しんじんらの登場とうじょうがあった。

原爆げんばくドーム(広島市ひろしまし
老大家ろうたいか復活ふっかつ

志賀直哉しがなおやは『灰色はいいろつき』(昭和しょうわ21)をいた。谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう戦争中せんそうちゅう稿こうをつづいてきた。『細雪ささめゆき』(昭和しょうわ23)・『浮沈ふちん』(昭和しょうわ21)などを発表はっぴょうした。川端康成かわばたやすなり日本にほん伝統的でんとうてき追求ついきゅうする姿勢しせいせ、『千羽鶴せんばづる』(昭和しょうわ24〜)・『やまおと』(昭和しょうわ24〜29)をいた。武者小路実篤むしゃのこうじさねあつは『真理先生しんりせんせい』(昭和しょうわ24〜29)をいた。井伏鱒二いぶせますじは『遙拝隊長ようはいたいちょう』(昭和しょうわ25)などをいた。

千羽鶴せんばづる
敗戦後はいせんご復刊ふっかん創刊そうかんされた雑誌ざっし
復刊ふっかん文藝ぶんげい新潮しんちょう中央公論ちゅうおうこうろん改造かいぞう日本評論にほんひょうろんなど
創刊そうかん世界せかい人間にんげん展望てんぼう近代文学きんだいぶんがく新日本文学しんにほんぶんがく群像ぐんぞうなど
人間にんげん』(創刊号そうかんごう

伊藤整いとうせいは『鳴海仙吉なるみせんきち』(昭和しょうわ25)で戦後せんご世相せそうにほろにがおもいを表現ひょうげんし、それぞれの方向ほうこうすすんだ。

細雪ささめゆき

昭和しょうわ十八ねん(一九四三)、雑誌ざっし中央公論ちゅうおうこうろん』に発表はっぴょうされたが、上巻じょうかんきょくにふさわしくないとの理由りゆう連載中止れんさいちゅうしとなった。谷崎たにざき稿こうきつぎ、昭和しょうわ十九ねん刊行かんこう中巻ちゅうかん戦後せんご雑誌ざっし婦人公論ふじんこうろん』で連載れんさいし、昭和しょうわ二十三ねんまで連載れんさいした。芦屋あしや老舗しにせ蒔岡家まきおかけ四姉妹よんしまい長女鶴子ちょうじょつるこ温和おんわ次女幸子じじょさちこ婚期こんきおくれた三女雪子さんじょゆきこ奔放ほんぽう四女妙子しじょたえこ)をえがいた、関西かんさい旧家きゅうけ歳時さいじ日常風俗にちじょうふうぞく中心ちゅうしんに、優雅ゆうが絵巻物えまきものふうの物語ものがたりである。

細雪ささめゆき上巻じょうかん

あの、神門しんもん這入はいって大極殿だいごくでん正面しょうめん西にし廻廊かいろうをふまえて第一歩だいいっぽれたところにある数株すうかぶ紅枝垂べにしだれが、今年ことしはどんなふうであらうか、もうおそくはないであらうか、とがせいて、廻廊かいろうもんをくぐるちかくは、あやしくむねをときめかすのだが、今年ことしうたやうに彼女かのじょたちは、たちま感嘆かんたんこえはなった。「あーっ」と、この一瞬いっしゅんこそ、二日間ふつかかん行事ぎょうじ頂点ちょうてんであり、去年きょねんはるれて以来いらいねんにわたってちつづけてきたもののなのである。

映画えいが細雪ささめゆき写真協力しゃしんきょうりょく東宝とうほう
連載中止れんさいちゅうしの「おことわり」
志賀直哉しがなおや
→一六六・一七八〜一ページ。
永井荷風ながいかふう
→一六七ページ。
谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう
→一五四〜一八八ページ。
正宗白鳥まさむねはくちょう
→一六四ページ。
武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ
→一五三ページ。
川端康成かわばたやすなり
→一七七ページ。
里見弴さとみとん
→一六四ページ。
伊藤整いとうせい
→一七九ページ。

やまおと

長編小説ちょうへんしょうせつ川端康成かわばたやすなり戦後せんご代表作だいひょうさく主人公しゅじんこう信吾しんご平凡へいぼん会社員かいしゃいん六十二歳ろくじゅうにさい息子むすこよめ菊子きくこはしとやかななか気魄きはくをもった日本的にほんてき女性じょせいである。信吾しんご菊子きくここころなぐさめをかんじ、老人ろうじん息子むすこよめとの、微妙びみょうあいのゆらぎをえがいている。

やまおと第八章だいはっしょう

「はい、おとうさま。おそくなりました。」寝起ねおきの信吾しんごは、玉露ぎょくろあつむ。かたはかな。菊子きくこ加減かげん一番いちばんいいやうだ。未婚みこんむすめれてくれたら、もっといいだらうかと、信吾しんごおもふ。「はらひにはむかざけいぼれには玉露ぎょくろで、菊子きくこもいそがしいな。」信吾しんご軽口かるくちをたたいた。

やまおと

川端康成かわばたやすなり昭和しょうわ四三ねん(一九六八)、日本人にほんじんとしてはじめてノーベル文学賞ぶんがくしょう受賞じゅしょうした。授賞式じゅしょうしきでは、「うつくしい日本にほんわたくし」とだいする記念講演きねんこうえんおこなった。

うつくしい日本にほんわたくしーその序説じょせつー」

山水さんすい」といふ言葉ことばには、やま、つまり自然しぜん景色けしきやまみず、つまり山水画さんすいが庭園ていえんなどの意味いみから、「ものさびしさ」とか「さびしく、みすぼらしいことさま」とかいふ意味いみまであります。茶道さどうこころかたどる「わびわびさびさび」、一輪いちりんはなけたとこ茶室ちゃしつ簡素かんそうつくしさ。しかも日本にほんけることがおおいの一輪いちりんはなであり、しかもほんのみといううつくしい日本にほんわたくしーその序説じょせつ

ノーベル文学賞授賞式ぶんがくしょうじゅしょうしき 授賞式じゅしょうしきでは、「うつくしい日本にほんわたくし」とだいする記念講演きねんこうえんおこなった。
新戯作派しんげさくは無頼派ぶらいは

戦後せんごのモラルや既成きせい文学観ぶんがくかん反発はんぱつし、自虐的じぎゃくてき退廃的たいはいてき態度たいどの、無頼派ぶらいはともばれた。なかから作品さくひんんだ作家さっかたちは新戯作派しんげさくはばれた。織田作之助おださくのすけ評論ひょうろん可能性かのうせい文学ぶんがく」(昭和しょうわ21)を発表はっぴょうし、『土曜夫人どようふじん』(昭和しょうわ21)をいた。坂口安吾さかぐちあんごは『白痴はくち』(昭和しょうわ21)をき、評論ひょうろん堕落論だらくろん」(昭和しょうわ21)で独自どくじ反俗はんぞく精神せいしんかたった。太宰治だざいおさむ青森県あおもりけん津軽つがる大地主だいじぬしいえまれ、そのことに道徳的どうとくてきかんじ、戦前せんぜんからデカダンスの生活せいかつおくっていたが、『ヴィヨンヴィヨンつま』(昭和しょうわ22)・『斜陽しゃよう』(昭和しょうわ22)・『人間失格にんげんしっかく』(昭和しょうわ23)をいた。

戦後せんごふたた反世間的はんせけんてき姿勢しせいつよめ、戯曲ぎきょくふゆ花火はなび」(昭和しょうわ21)・「ヴィヨンヴィヨンつま」(昭和しょうわ22)で戦後せんご便乗びんじょう思想しそう批判ひはんし、「桜桃おうとう」(昭和しょうわ23)を発表はっぴょうした。「斜陽しゃよう」(昭和しょうわ23)で没落ぼつらくする華族かぞくえがき、「人間失格にんげんしっかく」(昭和しょうわ23)で人間にんげんたいする不信ふしん恐怖きょうふとをかたって、玉川上水たまがわじょうすい投身自殺とうしんじさつした。

斜陽しゃよう

長編小説ちょうへんしょうせつ没落ぼつらく貴族きぞくいえ背景はいけいとしてかたられる形式けいしき小説しょうせつで、あねかず日記にっき手紙てがみとをとおしてかたられる。あねおとうと小説家しょうせつかなど四人よにん登場人物とうじょうじんぶつが、人間にんげんどうしがあらそわなければきていけない社会しゃかい絶望ぜつぼうして自殺じさつするが、あね既成きせい道徳どうとく変革へんかくしてきていこうとする。作者さくしゃ太宰だざいは、四人よにんそれぞれに自己じこたくし、戦後せんご社会しゃかいたいする絶望ぜつぼうかたよりの理念りねんとをかたった作品さくひんである。

斜陽しゃよう第八章だいはっしょう

わたしたちののまわりにおいては、革命かくめいは、いったい、どこでおこなはれてゐるのでせう。ふる道徳どうとくなみはやっぱりそのまま、みちのをさへぎってゐます。けれどもわたしは、これまでの第一回戦だいいっかいせんでは、れるともに、第二回戦だいにかいせん第三回戦だいさんかいせんをたたかふつもりです。さうして、こひしいひとみ、そだてることが、わたし道徳革命どうとくかくめい完成かんせいなのでございます。第三回戦だいさんかいせんをたたかひながらしのけたとおもふものも、そのそこ海水かいすい革命かくめいそのものでございます。」

太宰だざい生家せいか斜陽館しゃようかん

上記じょうき作品さくひんのほかに、「津軽つがる」(昭和しょうわ19)・「お伽草紙おとぎぞうし」(昭和しょうわ20)などがある。

風俗小説ふうぞくしょうせつ

戦後せんご世相人心せそうじんしん一変いっぺんした姿すがたえが風俗小説ふうぞくしょうせつも、戦後せんご文学ぶんがく一特色いちとくしょくである。田村泰次郎たむらたいじろう肉体にくたいもん」(昭和しょうわ22)、石坂洋次郎いしざかようじろうあお山脈さんみゃく」(昭和しょうわ22)、舟橋聖一ふなはしせいいち雪夫人絵図ゆきふじんえず」(昭和しょうわ23〜25)、丹羽文雄にわふみお「いきがらせの年齢ねんれい」(昭和しょうわ24)などがかれた。

新日本文学会しんにほんぶんがくかい

戦後せんごいちはや活動かつどう開始かいししたのは、戦争中せんそうちゅう沈黙ちんもく余儀よぎなくされていた宮本百合子みやもとゆりこ中野重治なかのしげはる蔵原惟人くらはらこれひとなどが中心ちゅうしんとなって新日本文学会しんにほんぶんがくかい結成けっせいされた(昭和しょうわ20)プロレタリアプロレタリアけい文学者ぶんがくしゃたちだった。民主主義文学みんしゅしゅぎぶんがく目標もくひょうとし、宮本百合子みやもとゆりこは「播州平野ばんしゅうへいや」(昭和しょうわ21〜22)・「道標みちしるべ」などを発表はっぴょうした。中野重治なかのしげはるの「つまよねむれ」(昭和しょうわ21〜23)などが初期しょき成果せいかであった。

戦後派文学せんごはぶんがく

昭和しょうわ21〜23ねん同人誌どうじんし近代文学きんだいぶんがく」が本多秋五ほんだあきご埴谷雄高はにやゆたか荒正人あらまさひと佐々木基一ささきもといち小田切秀雄おだぎりひでおらによって創刊そうかんされた。評論ひょうろんしゅとして、政治せいじよりも人間にんげん優位ゆういにおく文学ぶんがく主張しゅちょうした。「近代文学きんだいぶんがく」を中心ちゅうしんに、あたらしい作家さっか評論家ひょうろんかまれ、「戦後派せんごは」(アプレ・ゲール)とばれる潮流ちょうりゅう形成けいせいされた。梅崎春生うめざきはるおは「桜島さくらじま」(昭和しょうわ21)・「て」(昭和しょうわ21)で登場とうじょうし、野間宏のまひろし重厚じゅうこう文体ぶんたいの「くら」(昭和しょうわ22)で自己じこ戦争せんそう体験たいけんえがき、「真空地帯しんくうちたい」(昭和しょうわ27)や自伝的じでんてき長編ちょうへん青年せいねん」(昭和しょうわ22〜)などをいた。

戦後派せんごは ひだりから武田泰淳たけだたいじゅん野間宏のまひろし中村真一郎なかむらしんいちろう椎名麟三しいなりんぞう堀田善衛ほったよしえ
近代文学きんだいぶんがく

青年せいねん」(昭和しょうわ22〜45)を完成かんせいさせた。中村真一郎なかむらしんいちろうは「かげしたに」(昭和しょうわ21〜22)を発表はっぴょうし、以後いご旺盛おうせい創作活動そうさくかつどうつづけた。椎名麟三しいなりんぞうは「深夜しんや酒宴しゅえん」(昭和しょうわ22)・「永遠えいえんなる序章じょしょう」(昭和しょうわ27)で実存主義的じつぞんしゅぎてき作風さくふうせた。武田泰淳たけだたいじゅんは「まむしのすゑ」(昭和しょうわ22)などであたらたな人間認識にんげんにんしきしめした。大岡昇平おおかしょうへいは、フィリピン従軍じゅうぐん体験たいけんを「俘虜記ふりょき」(昭和しょうわ23)・「野火のび」(昭和しょうわ23〜26)にまとめ、大作たいさくレイテ戦記レイテせんき」(昭和しょうわ42〜45)で注目ちゅうもくされた。三島由紀夫みしまゆきおは「仮面かめん告白こくはく」(昭和しょうわ24)をき、「金閣寺きんかくじ」(昭和しょうわ31)・「豊饒ほうじょううみ四部作しぶさく昭和しょうわ40〜45)などを発表はっぴょうした。

真空地帯しんくうちたい

長編小説ちょうへんしょうせつ木谷上等兵きやじょうとうへいは、無実むじつつみ陸軍刑務所りくぐんけいむしょおくられた。刑事法廷けいじほうてい本質ほんしつ将校しょうこう腐敗ふはいぶりや内務班ないむはん非人間的ひにんげんてき実態じったいをさぐりそうとする過程かていで、ぐん腐敗ふはいぶりと内務班ないむはん非人間性ひにんげんせいがあばきされていく。人間にんげん自然性しぜんせい抑圧よくあつし、「真空しんくう」の状態じょうたいにしてしまう兵営へいえい実態じったいえがいている。

真空地帯しんくうちたい第四章だいよんしょう

しかし曽田そだはそれをつぎのようにしか理解りかいできなかった。「兵営へいえい条文じょうぶんらんニトリマカレタ一丁四方いっちょうしほう空間くうかんニシテ、強力きょうりょく圧力あつりょくニヨリックラレタ象的社会分析しょうてきしゃかいぶんせきデアル。人間にんげんハコナキャニアッテ人間要素にんげんようそラレ、強力きょうりょくちからによってりさえあげられるところだ。これは真空地帯しんくうちたいだ。むしろ真空管しんくうかんをここにさえあげているのだ。」そのなかで、ある一定いってい自然しぜん社会しゃかいとをさらえばいとられて、ついには兵管へいかんになる。

野間のま ひろし
真空地帯しんくうちたい〉の文体ぶんたい
野間宏のまひろしは「真空地帯しんくうちたい」で、小説しょうせつ大衆たいしゅうのものとするためにストーリーを重視じゅうしし、文章ぶんしょう平明へいめいなものにするようにこころがけた。
三島由紀夫みしまゆきお

金閣寺きんかくじ

長編小説ちょうへんしょうせつ現実げんじつ金閣寺きんかくじ放火事件ほうかじけん昭和しょうわ25)にざいて、放火犯ほうかはんである主人公しゅじんこう金閣寺きんかくじにひきつけられ、疎外感そがいかんなやむ。「金閣寺きんかくじ」をくことによってあたらたな人生じんせい出発しゅっぱつしようとする。三島由紀夫みしまゆきお主人公しゅじんこう心象しんしょう明晰めいせき文体ぶんたい緻密ちみつ構成こうせいえがいており、戦後文学せんごぶんがく傑作けっさくである。

金閣寺きんかくじ第八章だいはっしょう

あんなに唐突とうとつまれた想念そうねんであったとはいへ、わたしについた。仕立卸したておろしの洋服ようふくなにかのように、つくづくぴったりとわたしについた。まれたとともにそだち、つねならずうつくしくえたといふそのことに、開花かいかつてゐるのにそなはってゐるなりつつあるのだ。だから、わたしはそれをこころざしてゐたかのやうに、すくなくともちちともなはれてはじめて金閣きんかくかへるそのから、わたし放火者ほうかしゃになるもろもろの理由りゆうそなはっていつたのだった。

映画えいが炎上えんじょう金閣寺きんかくじ)」 協力きょうりょく大映だいえい

なお、戦後派せんごは作家さっかなかでも、井上靖いのうえやすし異彩いさいはなち、「楼蘭ろうらん」(昭和しょうわ33)・「あおおおかみ」(昭和しょうわ34)など中国ちゅうごく取材しゅざいした歴史小説れきししょうせつおおいている。

第三だいさん新人しんじん

昭和しょうわ二十七ねん(一九五二)から三十ねん(一九五五)ころまでに文壇ぶんだん登場とうじょうした新人しんじんたちは、戦後派せんごは作家さっかたちとはちがって、伝統的でんとうてき私小説ししょうせつ的な方法ほうほうによって日常生活にちじょうせいかつ空虚くうきょえがいた。第三だいさん新人しんじんばれる。安岡章太郎やすおかしょうたろうは「わる仲間なかま」(昭和しょうわ28)で自己じこ意識いしき固執こしつする姿勢しせいせた。吉行淳之介よしゆきじゅんのすけは「驟雨しゅうう」(昭和しょうわ29)で芥川賞あくたがわしょうけた。小島信夫こじまのぶおは「抱擁家族ほうようかぞく」(昭和しょうわ40)・「わかれる理由りゆう」(昭和しょうわ57)などを発表はっぴょうした。

昭和しょうわ29)で感覚的かんかくてきイメージをあざやかにえがいた。庄野潤三しょうのじゅんぞうは「プールサイド小景しょうけい」(昭和しょうわ29)で、遠藤周作えんどうしゅうさくは「しろひと」(昭和しょうわ30)で、それぞれ独自どくじ出発しゅっぱつをした。ほかに阿川弘之あがわひろゆき曾野綾子そのあやこがいる。

第三だいさん新人しんじん ひだりから遠藤周作えんどうしゅうさく吉行淳之介よしゆきじゅんのすけ庄野潤三しょうのじゅんぞう小沼丹おぬまに安岡章太郎やすおかしょうたろう三浦朱門みうらしゅもん曾野綾子そのあやこ
昭和三十年代しょうわさんじゅうねんだい

石原慎太郎いしはらしんたろうの「太陽たいよう季節きせつ」が昭和しょうわ三十ねん(一九五五)下半期しもはんき芥川賞あくたがわしょうえらばれたことは、昭和しょうわ三十年代ねんだいえがかれた既成道徳きせいどうとく無視むし行動こうどう盲目性もうもくせい衝撃しょうげきあたえた。そこにえがかれた時代じだい転換てんかん象徴しょうちょうするものであった。「太陽族たいようぞく」という流行語りゅうこうごまでした。深沢七郎ふかざわしちろうの「楢山節考ならやまぶしこう」(昭和しょうわ31)は、民俗伝承みんぞくでんしょう素材そざいとして、これまでの文学観ぶんがくかん衝撃しょうげきあたえた。政治性せいじせい社会性しゃかいせいふくめてあたらたに人間にんげん全体像ぜんたいぞうをとらえようとするこころみは、開高健かいこうたけし大江健三郎おおえけんざぶろうらによってなされた。開高かいこうには「パニック」(昭和しょうわ32)・「はだか王様おうさま」(昭和しょうわ32)などの作品さくひんがあり、大江おおえには「死者ししゃおごり」(昭和しょうわ32)・「飼育しいく」(昭和しょうわ33)などの作品さくひんがある。安部公房あべこうぼうは「すなおんな」(昭和しょうわ37)・「れ」(昭和しょうわ38)のありかた追求ついきゅうした井上光晴いのうえみつはるも、現代げんだいという状況下じょうきょうかでの人間にんげん存在そんざいのありかた追求ついきゅうした。

死者ししゃおごり』
ノーベル文学賞ぶんがくしょう受賞式じゅしょうしき 一九九四年度いちきゅうきゅうよねんどノーベル文学賞ぶんがくしょう受賞じゅしょう大江健三郎おおえけんざぶろう)。

現代げんだい文学ぶんがく

現代げんだいは、出版しゅっぱんジャーナリズムの盛況せいきょうもあって、おおくの作家さっか活躍かつやくしている。そのなかには、戦前せんぜん出発しゅっぱつした作家さっかもあれば、さまざまな世代せだい作家さっかもいる。昭和しょうわ四十ねん前後ぜんご出発しゅっぱつしたわか世代せだい作家さっかも、それぞれの境地きょうちひらいている。

昭和しょうわ四十年代ねんだい作家さっか

作家さっかには、「廻廊かいろうにて」(昭和しょうわ37〜38)の辻邦生つじくにお、「楡家にれのけ人々ひとびと」(昭和しょうわ37〜38)の北杜夫きたもりお、「憂鬱ゆううつなる党派とうは」(昭和しょうわ40)の高橋和巳たかはしかずみ、「スミヤキストQの冒険ぼうけん」(昭和しょうわ40)の倉橋由美子くらはしゆみこらがいる。批評家ひひょうか共通きょうつうする特徴とくちょうとして、イデオロギーぬきの内向ないこう的な性格せいかく指摘してきされ、「時間じかん」(昭和しょうわ44)の黒井千次くろいせんじ、「杳子ようこ」(昭和しょうわ45)の古井由吉ふるいよしきち、「聖書せいしょ」(昭和しょうわ45)の小川国夫おがわくにお、「かれない報告ほうこく」(昭和しょうわ46)の後藤明生ごとうめいせい、「司令しれい休暇きゅうか」(昭和しょうわ45)の阿部昭あべあきららを「内向ないこう世代せだい」とぶことがある。

そのほか注目ちゅうもくすべき作家さっかとしては、三浦哲郎みうらてつお河野多恵子こうのたえこ田辺聖子たなべせいこ司馬遼太郎しばりょうたろう柴田翔しばたしょう津村節子つむらせつこ高井有一たかいゆういち丸山健二まるやまけんじ五木寛之いつきひろゆき丸谷才一まるやさいいち大庭おおばみなほかにもおおくいる。

内向ないこう世代せだい ひだりから黒井千次くろいせんじ後藤明生ごとうめいせい古井由吉ふるいよしきち阿部昭あべあきら

庄司薫しょうじかおる清岡卓行きよおかたかゆき古山高麗雄ふるやまこまお三木卓みきたく森敦もりあつし高橋たかはしたからがいる。在日朝鮮人ざいにちちょうせんじん作家さっかには、金石範キム・ソクポム李恢成リ・フェソン金鶴泳キム・ハクヨンらがいる。

評論ひょうろん

戦後せんご評論ひょうろんは、「新日本文学しんにほんぶんがく」や「近代文学きんだいぶんがく」(→P.188)の人々ひとびと中心ちゅうしんとして出発しゅっぱつした。戦後せんご社会しゃかい国際化こくさいか多様化たようかはさまざまな問題もんだい提起ていきし、平野謙ひらのけん芸術げいじゅつ実生活じっせいかつ」(昭和しょうわ24)、唐木順三からきじゅんぞう現代史げんだいしへのこころみ」(昭和しょうわ24)、中村光夫なかむらみつお風俗小説論ふうぞくしょうせつろん」(昭和しょうわ25)、高橋義孝たかはしよしたか文学ぶんがく芸術げいじゅつとはなにか」(昭和しょうわ25)、中野好夫なかのよしお「もはや"戦後せんご"ではない」(昭和しょうわ25)、加藤周一かとうしゅういち日本にほんのアウトサイダー」(昭和しょうわ33)などがあった。

昭和しょうわ三十五ねん(一九六〇)に安保条約批准あんぽじょうやくひじゅんをめぐって政治せいじ問題もんだいおおきくクローズアップされ、この時期じき以後いご代表的だいひょうてき評論ひょうろんには、橋川文三はしかわぶんぞう日本浪漫派批評序説にほんろうまんはひひょうじょせつ」(昭和しょうわ35)、吉本隆明よしもとたかあき共同幻想論きょうどうげんそうろん」(昭和しょうわ43)、秋山駿あきやましゅん内部ないぶ人間にんげん」(昭和しょうわ42)、江藤淳えとうじゅん漱石そうせきとその時代じだい」(昭和しょうわ45)、山崎正和やまざきまさかず不機嫌ふきげん時代じだい」(昭和しょうわ49)などがある。

語注
安保条約批准あんぽじょうやくひじゅん 昭和しょうわ三十五ねんがつ国会こっかいにおいて改定かいてい批准ひじゅん強行きょうこうされ、ついで当時とうじ岸信介きしのぶすけ内閣ないかく総辞職そうじしょくした。
現代文学げんだいぶんがく動向どうこう

昭和しょうわ五十ねん以降いこう女性じょせい権利けんり伸張しんちょうもとめるフェミニズム運動うんどう背景はいけいに、女性じょせい作家さっか活躍かつやく顕著けんちょになった。女性じょせい母性ぼせいもとめる・母性ぼせい拒否きょひするテーマは、河野多恵子こうのたえこ不意ふいこえ」(昭和しょうわ43)、大庭おおばみなこずえゆめ」(昭和しょうわ46)にすでにあらわれていた。一人ひとり人間にんげん他者たしゃから孤絶こぜつしてきるさまをえがき、「ウホッホ探険隊たんけんたい」(昭和しょうわ58)でとりあげられたのは干刈ひかりあがた。増田ますだみず「シングル・セル」(昭和しょうわ61)は、家族かぞく崩壊ほうかい再構築さいこうちく問題もんだいあつかう。

社会しゃかい全体ぜんたい工業化こうぎょうかともな都市とし近郊きんこう農村のうそん青年せいねんせいえがいた立松和平たてまつわへい遠雷えんらい」(昭和しょうわ55)、都市としにおける幻想空間げんそうくうかんえが日野啓三ひのけいぞう天窓てんまどのあるガレージ」(昭和しょうわ56)などがかれた。都市化としか現象げんしょうはアメリカふうの都市とし文化ぶんかみ、小説しょうせつにも定着ていちゃくされた。野啓三のけいぞうかわいた感性かんせいかし、村上龍むらかみりゅう「コインロッカー・ベイビーズ」(昭和しょうわ55)、村上春樹むらかみはるきひつじをめぐる冒険ぼうけん」(昭和しょうわ58)・「ノルウェイのもり」(昭和しょうわ62)、高橋源一郎たかはしげんいちろう優雅ゆうが感傷的かんしょうてき日本野球にほんやきゅう」(昭和しょうわ63)などがある。また、かるくしなやかな感性かんせい前面ぜんめんした作品さくひんに、島田雅彦しまだまさひこやさしいサヨクのための嬉遊曲きゆうきょく」(昭和しょうわ58)、吉本よしもとばなな「キッチン」(昭和しょうわ62)がある。

「キッチン」(吉本よしもとばなな)・「ノルウェイのもり」(村上春樹むらかみはるき書影しょえい

これらの動向どうこうとはべつに、みずからの文学的ぶんがくてきテーマをふかめていった作家さっかたちもいた。大西巨人おおにしきょじん神聖喜劇しんせいきげき」(昭和しょうわ55)、埴谷雄高はにやゆたか死霊しれい」(昭和しょうわ21〜未完みかん)、「フーシェ革命暦かくめいれき」(昭和しょうわ53〜平成へいせい1)などの大作たいさく完成かんせいされ、中上健次なかがみけんじ枯木灘かれきなだ」(昭和しょうわ51〜52)・三浦哲郎みうらてつお白夜びゃくやたびする人々ひとびと」(昭和しょうわ52〜53)・清岡卓行きよおかたかゆき大連だいれん」(昭和しょうわ59)では自分じぶん血筋ちすじ追跡ついせきされた。中野孝次なかのこうじ宮尾登美子みやおとみこらが歴史的れきしてき事件じけん素材そざい旺盛おうせい作家さっか活動かつどうつづけている。吉村昭よしむらあきら破獄はごく」(昭和しょうわ60)、池澤夏樹いけざわなつきらがいる。

昭和しょうわ五十ねん以降いこう注目ちゅうもくすべき評論ひょうろんには、敗戦はいせんおよび戦後せんご意味いみ本多秋五ほんだしゅうご無条件降伏むじょうけんこうふく意味いみ」(昭和しょうわ53)・加藤典洋かとうのりひろ「アメリカのかげ」(昭和しょうわ60)や、磯田光一いそだこういち鹿鳴館ろくめいかん系譜けいふ」(昭和しょうわ56〜58)、川村湊かわむらみなと南洋なんよう樺太からふと日本文学にほんぶんがく」(平成へいせい6)などがある。

現代げんだい文学ぶんがくは、戦後文学せんごぶんがくのこした問題もんだいきつぎながら、次々つぎつぎ問題もんだいをかかえこんでいる。マスコミなかでの作家さっか存在そんざいという、これも文学ぶんがく本質ほんしつにかかわる問題もんだいである。このようなさまざまな問題もんだい個々ここ作家さっか評論家ひょうろんかかい、現代げんだい文学ぶんがくは、さらに多様たよう姿すがたしめしていくであろう。

詩歌しいか

近代詩きんだいし

明治めいじ大正時代たいしょうじだい

明治めいじになったとき、詩歌しいかのジャンルに漢詩かんし和歌わか短歌たんか)・俳句はいく狂歌きょうか川柳せんりゅうがあったが、いずれもあたらしい時代じだい精神せいしんを十ぶん表現ひょうげんしきれなかった。とくに漢詩かんし西洋せいよう知識ちしきたか教養きょうようようするためにおとろえ、江戸えど末期まっきさかんであった狂歌きょうかあたらしい時代じだいへの要請ようせいにこたえようとしなかった。

新体詩しんたいし

東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ外山正一とやままさかず矢田部良吉やたべりょうきち井上哲次郎いのうえてつじろうの三にんが、西洋せいよう翻訳ほんやくし、「新体詩抄しんたいししょう」(明治めいじ15)を刊行かんこうした。新体詩しんたいし西洋せいよう形式けいしき和歌わか音数律おんすうりつ表現ひょうげんしたもので、自分じぶん思想しそう感覚かんかくうたいきることのできる形式けいしきである。

文語ぶんごもちいて五音七音ごおんしちおん表現ひょうげんしていたのでは現代げんだい思想しそう感覚かんかくをあらわせないというかんがえから、口語自由詩こうごじゆうしさかんになっていった。川路柳虹かわじりゅうこう廃墟はいきょ」はその先駆せんくけである。詩集ししゅう於母影おもかげ」をて、島崎藤村しまざきとうそん土井晩翠どいばんすい時代じだいから北原白秋きたはらはくしゅう三木露風みきろふう時代じだいいた形式けいしき影響えいきょうあたえた。

高村光太郎たかむらこうたろう「うそどり

これらの実作じっさくふる言葉ことばもちいた七五調しちごちょう作品さくひんになってしまい、ただ長詩ちょうし可能かのうにしたにすぎず、詩人的しじんてき才能さいのうめぐまれていたわけではなかった。しかし、この形式けいしき明治めいじ青年せいねんたちに歓迎かんげいされ、刊行かんこう後に類書るいしょた。湯浅半月ゆあさはんげつ明治めいじ21〜22)は長編叙事詩ちょうへんじょじし刊行かんこうした力作りきさくである。

山々やまやまかすみいりあひの
しずかあゆかえりゆく
やうやくりてわれひとり
かまはなりつ、うし
たがやへすひともうちつかれ
たそがれどきのこりけり
矢田部良吉やたべりょうきち訳・グレー「境上感懐きょうじょうかんかい冒頭ぼうとう
新体詩抄しんたいししょう書影しょえい
浪漫詩ろうまんし

ドイツ留学りゅうがくからかえってもない森鷗外もりおうがい(→p.147)が、落合直文おちあいなおぶみ金井喜美子かないきみこらと新声社しんせいしゃ(S・S・S)をつくり、西洋詩せいようし漢詩かんししょう家物語けものがたり一節いっせつなどを、さまざまな工夫くふう翻訳ほんやくした翻訳詩集ほんやくししゅう於母影おもかげ」(明治めいじ22)を刊行かんこうした。透谷とうこく作品さくひん近代人きんだいじん苦悩くのう表現ひょうげんされ、指導的しどうてき立場たちばった。

北村透谷きたむらとうこくは「楚囚そしゅう」(明治めいじ22)、「蓬莱曲ほうらいきょく」(明治めいじ24)を発表はっぴょうし、のち雑誌ざっし文学界ぶんがくかい」(→p.148)の指導的しどうてき立場たちばった。「内部生命論ないぶせいめいろん」(明治めいじ26)などの評論ひょうろんは、明治めいじ26以降いこう青年せいねん多大ただい影響えいきょうあたえた。(→p.148)

文学界ぶんがくかい」で透谷とうこく影響えいきょうけた島崎藤村しまざきとうそんは、「若菜集わかなしゅう」(明治めいじ31)・「夏草なつくさ」(明治めいじ31)・「落梅集らくばいしゅう」(明治めいじ34)をき、青春せいしゅんよろこびをうたい、壮年そうねん意識いしきたっしたことをしめした。おなじころ、土井晩翠どいばんすい漢学かんがくをはじめとするひろ知識ちしきもとづいて、傾向けいこう対照的たいしょうてきならびにしょうされた。「星落秋風五丈原ほしおちしゅうふうごじょうのはら」はひろ愛読あいどくされた。与謝野鉄幹よさのてっかんは「天地玄黄てんちげんこう」(明治めいじ29)のち浪漫的ろうまんてき文学ぶんがく雑誌ざっし明星みょうじょう」(→p.210)を刊行かんこうしておおくの後継こうけいそだてた。

若菜集わかなしゅう」「初恋はつこい冒頭ぼうとう —島崎藤村しまざきとうそん
まだあげめし前髪まえがみ
林檎りんごのもとにえしとき
まえにさしたる花櫛はなぐし
はなあるきみおもひけり

やさしくしろをのべて
林檎りんごをわれにあたへしは
薄紅うすべにあき
ひとこひめしはじめなり
落梅集らくばいしゅう」「千曲川旅情ちくまがわりょじょううた前半ぜんはん —島崎藤村しまざきとうそん
昨日きのうまたかくてありけり
今日きょうもまたかくてありなむ
このいのちなにをよわいなむ
明日あすのみおもひわづらふ
天地有情てんちゆうじょう」「星落秋風五丈原ほしおちしゅうふうごじょうのはら冒頭ぼうとう —土井晩翠どいばんすい
いくたびか栄枯えいこゆめ
えたるたにれば
河波かわなみのいざよふれば
すなまじりみずかえ
若菜集わかなしゅう書影しょえい
天地有情てんちゆうじょう」「星落秋風五丈原ほしおちしゅうふうごじょうのはら」(つづき) —土井晩翠どいばんすい
きみぞ山悲さんぴあきかぜけて
陣雲じんうんくら五丈原ごじょうのはら
零露れいろふみしげくして
くさうまゆれども
独角どっかくはたひかりなく
鼓角こかくいましづか
丞相じょうしょうやまいあつかりき
象徴詩しょうちょうし(一)

明星みょうじょう」の寄稿家きこうかであった薄田泣菫すすきだきゅうきんは「暮笛集ぼてきしゅう」(明治めいじ32)に、蒲原有明かわらありあけは「くさわかば」(明治めいじ35)に浪漫的ろうまんてきおさめたが、両者りょうしゃとも象徴詩しょうちょうしつくろうと苦心くしんしていた。上田敏うえだびん訳詩集やくししゅう海潮音かいちょうおん」(明治めいじ38)・「白羊宮はくようきゅう」(明治めいじ39)に象徴詩しょうちょうししめすと、泣菫きゅうきんは「白羊宮はくようきゅう」(明治めいじ39)を、有明ありあけは「有明集ありあけしゅう」(明治めいじ41)を刊行かんこうして象徴詩しょうちょうし達成たっせいしめした。

海潮音かいちょうおん」「やまのあなた」(カアル・ブッセ) —上田敏うえだびんやく
やまのあなたのそらとお
しあわせむとひとのいふ
われひと、たずめゆきて、
なみださしぐみかへりきぬ
やまのあなたになほとお
しあわせむとひとのいふ。
有明集ありあけしゅう前半ぜんはん —蒲原有明かわらありあけ
くら遠れよと、たななびける草野くさの
このくら黒髪くろかみはらなみ
なほやわかききみかえりよ、
よぎゆくなみ
さだきたまふらむ。
海潮音かいちょうおん書影しょえい
口語自由詩こうごじゆうし

口語自由詩こうごじゆうし発想はっそう近代詩きんだいし出発点しゅっぱつてんからあったが、後半こうはんになって、自然主義しぜんしゅぎ影響えいきょう下にはじまる。明治めいじ40年代ねんだい発表はっぴょうされ、明治めいじ43ねん詩集ししゅう路傍ろぼうはな」(所収しょしゅう)が代表的だいひょうてきで、その題名だいめい発表はっぴょうした川路柳虹かわじりゅうこうは、いままでのとはことなる世界せかいしめしている。かつて浪漫的ろうまんてき詩集ししゅう「あこがれ」を刊行かんこうしている石川啄木いしかわたくぼくからも、いままでのとはことなる世界せかいしめされていた。啄木たくぼく日常にちじょう感情かんじょう口語自由詩こうごじゆうしにうつし、文語詩ぶんごしいたが、口語詩こうごし重要じゅうようさを切実せつじつかんがえていた。そのかんがえは評論ひょうろん明治めいじ42ねんしめされている。

石川啄木いしかわたくぼく「はてしなき議論ぎろんのち第一連だいいちれん

われらのごとにみ、かつ議論ぎろんかずこと、
しかも、そのかがやけるごとく、
五十年前ごじゅうねんまえ露西亜ロシア青年せいねんおとらず。
されど、だれにぎりしめたるこぶしをたたきて
vy「NARODi」とさけづるものなし

うえ引用いんようした啄木たくぼくは、人称代名詞にんしょうだいめいし活用かつよう語とともに文語ぶんご形式けいしきもちいているが、当時とうじ現代語げんだいご活用かつようしようとしたてん口語こうご内容ないようであって、形式的けいしきてき文語詩ぶんごしもちいたのであろう。

象徴詩しょうちょうし(二)

泣菫きゅうきん有明ありあけのあとをけた象徴詩しょうちょうしは、北原白秋きたはらはくしゅう三木露風みきろふうによって

ちゅう)NARODi
ロシアで「人民じんみんなかへ」の

展開てんかいされる。白秋はくしゅうは「邪宗門じゃしゅうもん」(明治めいじ42ねん)に感覚かんかく異国趣味いこくしゅみをうたい、露風ろふう思想的しそうてき叙情的じょじょうてき世界せかい沈潜ちんせんした言葉ことばで「廃園はいえん」(明治めいじ42ねん)・「しろ猟人りょうじん」(大正たいしょう2ねん)などにつづった。露風ろふう十六歳じゅうろくさい処女詩歌集しょじょしかしゅう夏姫なつひめ」を刊行かんこう。「邪宗門じゃしゅうもん」の白秋はくしゅう並称へいしょうされたが、詩風しふうことなる。「しろ猟人りょうじん」は象徴詩しょうちょうしとしての到達点とうたつてんである。

耽美派たんびは

明星みょうじょう終刊しゅうかん後まもなく、「スバル」(明治めいじ42ねん)が創刊そうかんされ、芸術主義的げいじゅつしゅぎてき方向ほうこうをめざして森鷗外もりおうがい指導者しどうしゃとして実質的じっしつてき中心ちゅうしんとし、耽美たんび傾向けいこう出発しゅっぱつした。啄木たくぼく自然主義しぜんしゅぎ傾向けいこうかってはなれていった。その中心ちゅうしんとなったのは白秋はくしゅう木下杢太郎きのしたもくたろうらの芸術家げいじゅつかあつまりで、「パンのかい」であった。木下杢太郎きのしたもくたろうには「食後しょくごうた」(大正たいしょう8ねん)がある。

理想主義りそうしゅぎ

白樺しらかば(→p.164)は世界せかいにもおおきな影響えいきょうあたえた。高村光太郎たかむらこうたろうは、耽美たんび傾向けいこうから出発しゅっぱつし、白樺派しらかばは影響えいきょうと、のちにつまとなる長沼智恵子ながぬまちえことの出会であいにより、人道主義じんどうしゅぎ内容ないよう口語自由詩こうごじゆうしつくるようになった。かれ詩集ししゅう道程どうてい」(大正たいしょう3ねん)は、前半ぜんはん耽美たんび傾向けいこう文語自由詩ぶんごじゆうし後半こうはん智恵子ちえこへのおもいをふくめた人道じんどう傾向けいこう口語自由詩こうごじゆうしである。

千家元麿せんけもとまろの「自分じぶんた」(大正たいしょう7ねん)、尾崎喜八おざききはちの「そら樹木じゅもく」(大正たいしょう11ねん)も白樺しらかば派の影響えいきょう下にある。難解なんかい象徴詩集しょうちょうししゅう聖三稜玻璃せいさんりょうはり」(大正たいしょう4ねん)のキリスト教きりすときょう伝道師でんどうし山村暮鳥やまむらぼちょうの「かぜ草木くさきにさやいた」(大正たいしょう4ねん)もふくまれよう。なお、宮沢賢治みやざわけんじ農業指導のうぎょうしどう法華経ほけきょう普及ふきゅうきながらいた「はる修羅しゅら」(大正たいしょう13ねん)も理想主義りそうしゅぎなかふくめてよいだろう。

民衆詩みんしゅうし

大正たいしょうデモクラシーとホイットマンやカーペンターの影響えいきょう下に白鳥省吾しらとりしょうご富田砕花とみたさいか福田正夫ふくだまさお百田宗治ももたそうじらが民衆詩みんしゅうし主張しゅちょうし、生活せいかつにすることをめざした。平俗へいぞく言葉ことばいたため冗長じょうちょうながれやすく、詩壇しだんからは「非詩ひし」と非難ひなんされた。

近代詩きんだいし達成たっせい

萩原朔太郎はぎわらさくたろうの「つきえる」(大正たいしょう6ねん)・「青猫あおねこ」(大正たいしょう12ねん)は、憂鬱ゆううつ感情かんじょう口語自由詩こうごじゆうし象徴詩しょうちょうし風にあらわしたものとして近代詩きんだいし達成たっせい体現たいげんし、その後の詩人しじんたちにとってのひとつの出発点しゅっぱつてんであった。のちの詩人しじんたちへの影響えいきょうというてんでは、なが洋行ようこうからかえった堀口大学ほりぐちだいがく訳詩集やくししゅう月下つきした一群ひとむれ」(大正たいしょう14ねん)も重要じゅうようで、佐藤春夫さとうはるおの「殉情詩集じゅんじょうししゅう」(大正たいしょう10ねん)は文語ぶんご定型詩ていけいし絶品ぜっぴんであるし、日夏耿之介ひなつこうのすけ自己じこ美意識びいしきをうたった「転身てんしんしょう」(大正たいしょう6ねん)は象徴詩しょうちょうしとしてすぐれている。

現代詩げんだいし

大正たいしょう末期まっき現代げんだい

大正たいしょう後半こうはん先行芸術せんこうげいじゅつ否定ひていたかめた運動うんどうがおこった時点じてんに、現代詩げんだいしはじまるとえよう。これは社会しゃかいける方向ほうこうと、芸術げいじゅつける方向ほうこうかれた。詩人しじん戦争前夜せんそうぜんや権力けんりょく抑圧よくあつされ、権力けんりょく戦争せんそう肯定こうてい強要きょうようし、詩人しじん試練しれんった。

現代詩げんだいしはじまり

高橋新吉たかはししんきちは「ダダイスト新吉しんきち」(大正たいしょう12ねん)・「日本未来派にほんみらいは宣言詩集せんげんししゅう」を刊行かんこう萩原恭次郎はぎわらきょうじろう壺井繁治つぼいしげじ岡本潤おかもとじゅんは「あかくろ」(大正たいしょう12ねん)を創刊そうかんした。いずれも先行芸術せんこうげいじゅつ否定ひていおこなったものであった。

● プロレタリア

あかくろ」の同人どうじん達は文学活動ぶんがくかつどうにあきたらず、アナーキスト(無政府主義者むせいふしゅぎしゃ)としての行動こうどうをとるにいたった。そのなかから中野重治なかのしげはる小林多喜二こばやしたきじ(→p.174)・小野十三郎おのとうざぶろう(→p.206)らがコミュニスト(共産主義きょうさんしゅぎ方向ほうこうかれていった。勢力せいりょくをうばわれ、プロレタリア詩壇しだん表面ひょうめんからかげをひそめた。小林多喜二こばやしたきじ虐殺ぎゃくさつされた昭和しょうわ8ねん一九三三せんきゅうひゃくさんじゅうさん)ごろから、プロレタリア詩壇しだん表面ひょうめんからかげをひそめた。

● モダニズム

詩雑誌しざっし」にあつまった安西冬衛あんざいふゆえ北川冬彦きたがわふゆひこらは、民衆詩みんしゅうし冗長じょうちょう反発はんぱつして短詩たんし新散文詩しんさんぶんし主張しゅちょうした。また、イギリスからかえって超現実主義ちょうげんじつしゅぎのグループをつくっていた西脇順三郎にしわきじゅんさぶろうむすびついて「詩論しろん」が創刊そうかん昭和しょうわ3ねん)された。しかし、北川冬彦きたがわふゆひこ三好達治みよしたつじらは、西脇にしわきりの編集方針へんしゅうほうしん春山行夫はるやまゆきお不満ふまんをもって脱退だったいし、「現実げんじつ」を創刊そうかん昭和しょうわ8ねん)した。超現実主義ちょうげんじつしゅぎ詩集ししゅうとして三好達治みよしたつじの「測量船そくりょうせん」(昭和しょうわ5ねん)、新散文詩しんさんぶんしとして安西冬衛あんざいふゆえの「Ambarvalia」(昭和しょうわ4ねん)・北川冬彦きたがわふゆひこの「戦争せんそう」(昭和しょうわ8ねん)などがある。

新感覚派しんかんかくは(→p.145)にはじまり新興芸術派しんこうげいじゅつは周辺しゅうへん位置いちする芸術主義的げいじゅつしゅぎてき文学ぶんがくがモダニズム文学ぶんがくにあたる。

戦時体制下せんじたいせいか

プロレタリア文学ぶんがく圧殺あっさつされるころから、戦時体制下せんじたいせいかてよい。小林多喜二こばやしたきじ(→p.174)が拷問死ごうもんしをした昭和しょうわ8ねん(一九三三)から翌年よくねんにかけて、詩誌しし四季しき」が堀辰雄ほりたつお(→p.179)によって創刊そうかんされ、三好達治みよしたつじ中心ちゅうしんとなって編集へんしゅうした。

四季しき】派

三好達治みよしたつじが「・ランプ・かもめ」(昭和しょうわ8ねん)の丸山薫まるやまかおる、「山羊やぎうた」(昭和しょうわ9ねん)の中原中也なかはらちゅうや、「わがひとにあたふる哀歌あいか」(昭和しょうわ10ねん)の伊東静雄いとうしずお編集へんしゅうメンバーにくわえた。のちに「詩論しろん」のモダニズムを経過けいかした立原道造たちはらみちぞうらも同人どうじんとなった。叙情じょじょう基調きちょうとした雑誌ざっしである。

歴程れきてい】派

昭和しょうわ10ねん(一九三五)に創刊そうかんされた詩誌しし歴程れきてい」には、「第百階級だいひゃっかいきゅう」(昭和しょうわ3ねん)・「かえる」(昭和しょうわ13ねん)などの詩人しじん草野心平くさのしんぺい中原中也なかはらちゅうやらがあつまったが、各人かくじん個性こせい重視じゅうしし、特定とくてい傾向けいこうおちいることをけた。宮沢賢治みやざわけんじ(→p.202)は、この雑誌ざっし追悼号ついとうごう紹介しょうかいされた。モダニズムの系統けいとう詩誌しし新領土しんりょうど」も創刊そうかんされ、同人どうじん村野四郎むらのしろうの「体操詩集たいそうししゅう」(昭和しょうわ14ねん)は新即物主義しんそくぶつしゅぎ詩集ししゅうとしてられる。

戦時下せんじか

詩人しじん戦争せんそうをどのようにとらえていたかという視点しせんることが重要じゅうようである。高村光太郎たかむらこうたろう三好達治みよしたつじ伊東静雄いとうしずおほかおおくの詩人しじん戦争せんそう賛美さんびする戦争詩せんそうしいたが、小野十三郎おのとうざぶろう叙景じょけいにカモフラージュした抵抗詩ていこうしき、詩集ししゅう大阪おおさか」(昭和しょうわ14ねん)などに収録しゅうろくした。金子光晴かねこみつはる弾圧だんあつのため発表はっぴょうできなかった抵抗詩ていこうし戦後せんごおにうた」(昭和しょうわ24ねん)などの三部作さんぶさくまとめたまとめた

戦後せんご

戦前せんぜんから活躍かつやくしていた西脇順三郎にしわきじゅんさぶろう村野四郎むらのしろう草野心平くさのしんぺいおとろえをせなかったが、戦後詩せんごし出発点しゅっぱつてんあらたにはじまったとるべきだろう。ひとつは、詩人しじん戦争責任せんそうせきにんという問題もんだいであり、吉本隆明よしもとたかあき鮎川信夫あゆかわのぶおらによって代表だいひょうされた戦争詩人批判せんそうしじんひはんであり、もうひとつは、戦争体験せんそうたいけん確認かくにんによって戦後せんご現実げんじつ直面ちょくめんしようとすることであった。田村隆一たむらりゅういちの「四千よんせんよる」(昭和しょうわ24ねん)、鮎川信夫あゆかわのぶおの「囚人しゅうじん」(昭和しょうわ31ねん)、三好豊一郎みよしとよいちろう黒田三郎くろださぶろうらと、昭和しょうわ二十三ねん(一九四八)に詩誌しし荒地あれち」を創刊そうかんした。

その関根弘せきねひろし長谷川龍生はせがわりゅうせいらの「列島れっとう」(昭和しょうわ27ねん)、谷川俊太郎たにかわしゅんたろう大岡信おおおかまことらのマチネー・ポエチックグループが出発しゅっぱつした。ほかに、会田綱雄あいだつなおの「鹹湖かんこ」(昭和しょうわ32ねん)・石垣いしがきりんの「わたしまえにあるなべとおかまえると」(昭和しょうわ34ねん)もすぐれた詩集ししゅうである。

現代げんだい

昭和しょうわ三十五ねん(一九六〇)は、日米安全保障条約にちべいあんぜんほしょうじょうやくをめぐる闘争とうそうのピークであるが、同時どうじ経済的発展けいざいてきはってん世相せそう多様化たようかとそれにたいする反闘はんとう多様化たようかをもたらした。ひとつには陥窟かんくつへの逃走とうそうがあり、鈴木志郎康すずきしろうやすらの詩誌しし凶区きょうく」(昭和しょうわ37ねん)、天沢退二郎あまさわたいじろうの「あさかわ」(昭和しょうわ36ねん)、吉増剛造よしますごうぞうの「東京午前三時とうきょうごぜんさんじ」(昭和しょうわ41ねん)・雑誌ざっし「ドラムカン」(昭和しょうわ45ねん)などがある。吉原幸子よしはらさちこ幼年連禱ようねんれんとう」(昭和しょうわ39ねん)、長田弘ながたひろし「われら新鮮しんせん旅人たびびと」(昭和しょうわ40ねん)・「よごれたるものはさらによごれ」(昭和しょうわ40ねん)、高橋睦郎たかはしむつろ昭和しょうわ41ねん)らのように独自どくじ詩風しふう詩人しじんつづいた。また吉岡実よしおかみのる罐製同棲又は煑沸かんせいどうせいまたはにふつ」(昭和しょうわ39ねん)・「黄金詩篇おうごんしへん」(昭和しょうわ45ねん)なども活躍かつやくした。

近代短歌きんだいたんか

古今和歌集こきんわかしゅう」(→p.133)などを手本てほんとし、風雅ふうが中心ちゅうしん非個性的ひこせいてき作風さくふう旧派きゅうは桂園派けいえんは)がごろまでのこるが、そのなかから出発しゅっぱつした落合直文おちあいなおぶみは、浅香社あさかしゃ結成けっせい明治めいじ26ねん)して、直文なおぶみ門下もんかからおおくの同調者どうちょうしゃた。与謝野鉄幹よさのてっかんつま晶子あきこ雑誌ざっし明星みょうじょう」で浪漫的歌風ろうまんてきかふう展開てんかいし、子規しきは「万葉集まんようしゅう」を重視じゅうしして写実的歌風しゃじつてきかふう主張しゅちょうした。明治めいじすえ自然主義しぜんしゅぎ影響えいきょう下に石川啄木いしかわたくぼく若山牧水わかやままきすい活躍かつやくした。「アララギ」の影響えいきょう通過つうかして「明星みょうじょうけい北原白秋きたはらはくしゅう吉井勇よしいいさむらの耽美的傾向たんびてきけいこうかい、「アララギ」斎藤茂吉さいとうもきちらの主情的写生しゅじょうてきしゃせいすすんだ。大正時代たいしょうじだいは「アララギ」が主流しゅりゅうめたが、昭和しょうわはいると既成歌壇きせいかだんへの批判ひはんのものがおおくなった。戦時下せんじかにおいて短歌たんか統制とうせいけ、愛国歌あいこくかおちいるものがおおかった。しかし戦後せんご短歌否定論たんかひていろんのもとに短歌たんか活路かつろ出し、とくに昭和しょうわ二十五ねん(一九五〇)ごろからおおくの新人しんじん登場とうじょうした。

和歌わか革新かくしん

明治めいじ二十六ねん(一八九三)、落合直文おちあいなおぶみ浅香社あさかしゃ結成けっせいし、旧派和歌きゅうはわか批判的ひはんてき現実主義的方向げんじつしゅぎてきほうこうした。しかし幼時ようじからけた国学こくがくなどの影響えいきょうもあって、革新かくしんというにはなまぬるかった。あるいは一時いちじ協力きょうりょくもした別系統べつけいとう正岡子規まさおかしき与謝野鉄幹よさのてっかん金子薫園かねこくんえん尾上柴舟おのえさいしゅうらをまたねばならなかった。

明星みょうじょう

与謝野鉄幹よさのてっかんは、「亡国ぼうこく」(明治めいじ27ねん)で旧派きゅうはのたをやめぶり(女性的詠風じょせいてきえいふう)を否定ひていし、ますらをぶり(男性的詠風だんせいてきえいふう)を提唱ていしょうして「東西南北とうざいなんぼく」(明治めいじ29ねん)・「新詩社しんししゃ」を結成けっせいよく明治めいじ30ねん実作じっさくしめした「天地玄黄てんちげんこう」を刊行かんこうした。のち鉄幹てっかんつまとなった与謝野晶子よさのあきこは、浪漫的ろうまんてき官能的かんのうてき恋愛れんあい賛美さんびうたつくり、鉄幹てっかんとの恋愛れんあい鉄幹てっかんの「むらさき」(明治めいじ34ねん)にしめされ、晶子あきこの「みだれ髪みだれがみ」(明治めいじ34ねん)はふる道徳どうとくからの脱皮だっぴたして、近代短歌きんだいたんか成立せいりつ意味いみしよう。「明星みょうじょう」には北原白秋きたはらはくしゅう吉井勇よしいいさむ窪田空穂くぼたうつぼ石川啄木いしかわたくぼくらすぐれた歌人かじんあつまり、浪漫派歌人ろうまんはかじん中心ちゅうしんとなった。

根岸短歌会ねぎしたんかかい

正岡子規まさおかしきは、明治めいじ三十一ねん(一八九八)に「万葉集まんようしゅう」・源実朝みなもとのさねとも重視じゅうしし、古今調こきんちょう批判ひはんして「歌よみに与ふる書うたよみにあたうるしょ」で旧派きゅうは写実しゃじつ退しりぞけ、素朴そぼく写生しゃせい主張しゅちょうした。その実践じっせんとしてひらいた月例歌会げつれいかかい根岸短歌会ねぎしたんかかいである。明治めいじ三十五ねん(一九〇二)、わかくしてぼつするが、没後ぼつごたけ里歌さとうた」が刊行かんこうされた。門下もんかには伊藤左千夫いとうさちおらがいる。

のちのちさけびのせつとなえる伊藤左千夫いとうさちお繊細せんさい感覚かんかくられる連作れんさくくろがねごとく」(大正たいしょう3〜4ねん)の長塚節ながつかたかし温厚おんこう作風さくふう岡麓おかふもとらがあつまった。子規しき継承けいしょうもっと熱心ねっしんだった左千夫さちおは、かい機関誌きかんし馬酔木あしび」(明治めいじ36ねん創刊そうかん)の編集へんしゅうにあたった。

自然主義短歌しぜんしゅぎたんか

明治めいじ三十五ねん(一九〇二)、尾上柴舟おのえさいしゅう金子薫園かねこくんえんは「明星みょうじょう」の恋愛偏重れんあいへんちょう批判ひはんする意図いとをもった叙景詩集じょけいししゅう叙景詩じょけいし」を刊行かんこうした。ともに後進こうしん指導しどう熱心ねっしんで、柴舟さいしゅう車前草社おおばこしゃ結成けっせいした。若山牧水わかやままきすい感傷的かんしょうてき自己告白じここくはくうたそだてた。土岐哀果どきあいか前田夕暮まえだゆうぐれ窪田空穂くぼたうつぼ石川啄木いしかわたくぼくらも「明星みょうじょう」にぞくしていたが、いずれも自然主義しぜんしゅぎ影響下えいきょうか作風さくふうである。啄木たくぼく哀果あいかとともに自然主義しぜんしゅぎから社会主義的思想しゃかいしゅぎてきしそうにまで接近せっきんした。作品さくひん日常にちじょう感情かんじょう重視じゅうししたものであり、生活派せいかつはともばれる。啄木たくぼくの「一握いちあくすな」(明治めいじ43ねん)・「かなしき玩具がんぐ」(明治めいじ45ねん)は三行書さんぎょうがききを愛用あいようした。

耽美派たんびは

芸術家集団げいじゅつかしゅうだん「パンのかい」や雑誌ざっし「スバル」(→p.201)にった歌人かじん吉井勇よしいいさむ北原白秋きたはらはくしゅう高村光太郎たかむらこうたろうである。いさむ京都祇園きょうとぎおん舞台ぶたいにしたものなど悲哀ひあいふくんだ享楽的きょうらくてき都会情緒とかいじょうちょ江戸趣味えどしゅみ作品さくひんを「酒ほがひさかほがい」(明治めいじ43ねん)にしめし、白秋はくしゅうはその鋭敏えいびん官能かんのう裏打うらうちされた作品さくひんつくり、「きりはな」(大正たいしょう2ねん)にまとめた。

アラルギ

正岡子規まさおかしき歌風かふうけついだ伊藤左千夫いとうさちおは、明治めいじ四十一ねん(一九〇八)に「アラルギ」を創刊そうかんした。ここにあつまったのは島木赤彦しまきあかひこ斎藤茂吉さいとうもきち中村憲吉なかむらけんきち土屋文明つちやぶんめい古泉千樫こいずみちかし石原純いしはらじゅんらである。

理想りそうを守ろうとした左千夫さちおは、自然主義しぜんしゅぎ耽美主義たんびしゅぎ文芸ぶんげい思潮しちょうを知った若い同人どうじんたちに満足まんぞくせず、衝突しょうとつもあった。しかし、左千夫さちおの死(大正たいしょう2)後、アラルギ派は赤彦あかひこ茂吉もきち中心ちゅうしん発展はってん現代げんだいにまで続く系譜けいふとなった。作品集さくひんしゅうは、茂吉もきちの『赤光しゃっこう』(大正たいしょう2)、赤彦あかひこ憲吉けんきち共著きょうちょ馬鈴薯ばれいしょの花』(大正たいしょう2)、赤彦あかひこの『柿蔭集かきかげしゅう』(大正たいしょう13)、憲吉けんきちの『林泉集りんせんしゅう』(大正たいしょう5)、じゅんの『饗日』(大正たいしょう11)、文明ぶんめいの『ふゆくさ』(大正たいしょう14)、迢空ちょうくうの『海やまのあひだ』(大正たいしょう14)、千樫ちかしの『屋上おくじょう』(昭和しょうわ2)など、すぐれたものが多かった。

アラルギ派 右から古泉千樫こいずみちかし石原純いしはらじゅん、二人おいて斎藤茂吉さいとうもきち。左から三人め伊藤左千夫いとうさちお
中村憲吉なかむらけんきち
明治めいじ22年(1889)〜昭和しょうわ9年(1934)。共著きょうちょ馬鈴薯ばれいしょの花』ほか、軽雷集けいらいしゅう』(昭和しょうわ2)などがある。
古泉千樫こいずみちかし
明治めいじ19年(1886)〜昭和しょうわ2年(1927)。歌集かしゅう屋上おくじょうつち』は死後しご門人もんじんによる刊行かんこう
土屋文明つちやぶんめい
明治めいじ23年(1890)〜平成へいせい2年(1990)。『万葉集まんようしゅう研究けんきゅう業績ぎょうせき
釈迢空しゃくちょうくう
明治めいじ20年(1887)〜昭和しょうわ28年(1953)。本名ほんみょう折口信夫おりくちしのぶ歌集かしゅう『海やまのあひだ』、詩集ししゅう近代悲傷集きんだいひそうしゅう』などがある。
石原純いしはらじゅん
明治めいじ14年(1881)〜昭和しょうわ22年(1947)。相対性理論そうたいせいりろん日本にほん紹介しょうかいした理論物理学者りろんぶつりがくしゃ。『アラルギ』に参加さんかし、非定型ひていけい口語こうご短歌たんかを作った。

ちかはは添寝そいねのしんしんと 遠田とおたのかはづてんきこゆる」

斎藤茂吉さいとうもきち

「みづうみのこおりけてなほさむし 三日月みかづきかげなみにうつろふ」

島木赤彦しまぎあかひこ

くずはなみしだかれて、いろあたらし この山道やまみちきしひとあり」

釈迢空しゃくちょうくう
はんアラルギ短歌たんか

大正たいしょうにアラルギけい以外いがい活躍かつやくした歌人かじんとして、佐佐木信綱ささきのぶつな刊行かんこうの「こころはな」の同人どうじんとして活躍かつやくした川田順かわだじゅん木下利玄きのしたりげんがいた。利玄りげん描写びょうしゃ凝視ぎょうしした作風で「二路にろ」(大正たいしょう13)を発表はっぴょうした。また太田水穂おおたみずほ大正たいしょう4ねんに「潮音ちょうおん」を創刊そうかんし、茂吉もきち写生説しゃせいせつあらそった。歌集かしゅうに「雲鳥うんちょう」(大正たいしょう11)がある。そのほか明星みょうじょうから出発しゅっぱつし、この時期じき生活せいかつけた窪田空穂くぼたうつぼがいた。また尾上柴果おのえしばか金子薫園かねこくんえん活動かつどうした。

大正たいしょう13ねん(1924)にはんアラルギの「日光にっこう」が創刊そうかんされた。木下利玄きのしたりげん前田夕暮まえだゆうぐれ北原白秋きたはらはくしゅう・アラルギを脱退だったいした古泉千樫こいずみちかしらがあつまった。しかし統一とういつがとれず長続ながつづきしなかったが、アラルギには刺激しげきになり、歌史かし原点げんてんとまでかんがえられるほどの意味いみをもった。

明治めいじ大正期たいしょうき歌人かじん 前列ぜんれつひだりから尾山篤二郎おやまとくじろう西村陽吉にしむらようきち土岐哀果ときあいか若山牧水わかやまぼくすい後列こうれつ中村憲吉なかむらけんきち斎藤茂吉さいとうもきち前田夕暮まえだゆうぐれ古泉千樫こいずみちかし
佐佐木信綱ささきのぶつな
明治めいじ5年(1872)〜昭和しょうわ38年(1963)。「こころはな主宰しゅさい万葉集まんようしゅう研究けんきゅうにも業績ぎょうせき
川田順かわだじゅん
明治めいじ11年(1878)〜昭和しょうわ41年(1966)。「こころはな同人どうじんとして活躍かつやく
木下利玄きのしたりげん
明治めいじ19年(1886)〜大正たいしょう14年(1925)。自然しぜん描写びょうしゃ凝視ぎょうしした独自どくじ歌風かふう。「日光にっこう創刊そうかん参加さんか歌集かしゅう二路にろ」(大正たいしょう13)。
太田水穂おおたみずほ
明治めいじ9年(1876)〜昭和しょうわ30年(1955)。「潮音ちょうおん」(大正たいしょう4)創刊そうかん古典こてん和歌わかから近代詩きんだいしまで研究けんきゅう業績ぎょうせき歌集かしゅう雲鳥うんちょう」(大正たいしょう11)・「螺鈿らでん」(昭和しょうわ15)ほか。

牡丹花ぼたんはなさだまりてしずかなり はなめたる位置いちのたしかさ」

木下利玄きのしたりげん
昭和しょうわ短歌たんか

日光にっこう創刊そうかん口火くちびをきったかのように、昭和しょうわ既成きせい歌壇かだんたいする批判ひはんつよまった。しかし、口語こうご短歌たんか定型ていけい自由律じゆうりつ対立たいりつや、新興短歌運動しんこうたんかうんどうばれる口語こうご短歌たんか中心ちゅうしんにする集団しゅうだんで、生活せいかつ派・無産むさん派との対立たいりつなどで分裂ぶんれつをくりかえした。芸術げいじゅつ派では石原純いしはらじゅん・「みどりはた」(昭和しょうわ14)の西村陽吉にしむらようきち散文さんぶん化の傾向けいこうをもゆうする「烈風れっぷうまち」(昭和しょうわ14)の渡辺順三わたなべじゅんぞうらが活躍かつやくした。この影響えいきょう歌壇かだんおおきく作用さようし、アラルギまでもがらぐほどであった。

こうした傾向けいこう批判ひはんして、白秋はくしゅうは「多磨たま」(昭和しょうわ10)を創刊そうかんした。そのほか「高志こうし」(昭和しょうわ17)の木俣修きまたおさむ、「群鶏ぐんけい」(昭和しょうわ21)の宮柊二みやしゅうじそだてた。また歌壇かだんとの接触せっしょくたない会津八一あいづやいちが「鹿鳴集しかなきしゅう」(昭和しょうわ8)に独特どくとく歌風かふうしめした。また明石海人あかしかいじんが「白描はくびょう」(昭和しょうわ14)に独特どくとく歌風かふうしめした。

「かうもたやすく戦争せんそうといふ言葉ことばくちにされる モップの心理しんりをおそれ」

(注)モップ=群衆ぐんしゅう

陸橋りっきょうわたぐるよる汽車きしゃ したくもなくわれむ」

渡辺順三わたなべじゅんぞう
西村陽吉にしむらようきち
明治めいじ12年(1879)〜昭和しょうわ52年(1977)。土岐哀果ときあいか影響えいきょうけてアナーキズム短歌たんかつくり、プロレタリア短歌たんかへ。
渡辺順三わたなべじゅんぞう
明治めいじ27年(1894)〜昭和しょうわ47年(1972)。啄木たくぼく感動かんどうし、社会主義しゃかいしゅぎかたむく。「人民短歌集じんみんたんかしゅう」(昭和しょうわ21)に参加さんかした。
木俣修きまたおさむ
明治めいじ36年(1903)〜昭和しょうわ63年(1988)。白秋はくしゅうへの傾倒けいとうから、研究けんきゅう批評ひひょうおおくの業績ぎょうせきのこした。短歌たんか史・美術びじゅつしょ俳句はいくなど広範囲こうはんい活動かつどう
会津八一あいづやいち
明治めいじ14年(1881)〜昭和しょうわ31年(1956)。万葉まんよう調の歌風かふうでひらがなきを特徴とくちょうとする。書道しょどう美術史びじゅつしにも業績ぎょうせき
明石海人あかしかいじん
明治めいじ34年(1901)〜昭和しょうわ14年(1939)。ハンセンびょうのため死亡しぼうまで七年間ななねんかん療養所りょうようじょごし、短歌たんか俳句はいくつくった。歌集かしゅう白描はくびょう」(昭和しょうわ14)。
戦後せんご短歌たんか

戦時下せんじか権力けんりょく抵抗ていこうできなかったり、権力けんりょくがわったりという短歌たんか無力性むりょくせい犯罪性はんざいせいは、戦後せんごになって、臼井吉見うすいよしみ短歌論たんかろん」・小野十三郎おのとおじろう短歌的抒情たんかてきじょじょうこうして」(昭和しょうわ22)などの短歌たんか否定論ひていろんまねいた。

この否定論ひていろんなかで、批判ひはんけとめて出発しゅっぱつしたのが久保田正文くぼたまさふみ木俣修きまたおさむの「八雲やくも」(昭和しょうわ21創刊そうかん)であった。老大家ろうたいか作品さくひんおおかったなかで、近藤芳美こんどうよしみ坡吹はふまち」(昭和しょうわ23)が自分じぶん歌風かふうきずいた。

茂吉もきち迢空ちょうくうんだ昭和しょうわ28ねん(1953)以後いご、この時期じきは、「乳房喪失ちぶさそうしつ」(昭和しょうわ29)の中城なかじょうふみ子・「早笛はやぶえ」(昭和しょうわ30)の生方うぶかたたつゑら女流じょりゅう歌人かじんと、「水葬物語すいそうものがたり」(昭和しょうわ26)の塚本邦雄つかもとくにお・「飛花抄ひかしょう」(昭和しょうわ30)の馬場ばばあき子らが活躍かつやくした。塚本つかもと岡井おかいは「黙契もっけい」(昭和しょうわ30・31)、上田三四二うえだみよじ青年歌人会議せいねんかじんかいぎ」(昭和しょうわ30・31)をつくり、あたらしい短歌たんか方向ほうこうさぐった。昭和しょうわ39ねんごろの前登志夫まえとしおらとともに、近代短歌きんだいたんかあたらしい潮流ちょうりゅうまれた。

うしなひし想念そうねんなかにまもりて ひしわれの乳房ちぶさおかあり今冬こふゆれたるはなかざる」

中城なかじょうふみ子

みずうみ夜明よあけ、ピアノに水死者すいししゃのゆびほぐれおちならすレクィエム」

塚本邦雄つかもとくにお
久保田正文くぼたまさふみ
大正たいしょう元年(1912)〜平成へいせい11年(1999)。「八雲やくも編集へんしゅう短歌たんか批評ひひょうにすぐれ、「近代短歌きんだいたんか構造こうぞう」ほかがある。
近藤芳美こんどうよしみ
明治めいじ46年(1913)〜平成へいせい16年(2004)。歴史意識れきしいしき確固かっことしており、戦争せんそう体験たいけんとする歌風かふう歌誌かし浅紅あさくれない」を主宰しゅさい
塚本邦雄つかもとくにお
大正たいしょう9年(1920)〜平成へいせい17年(2005)。近代短歌きんだいたんか伝統でんとうである事実じじつ無視むしした前衛ぜんえい短歌たんかで、幻視げんし短歌たんか発展はってんした。
岡井隆おかいたかし
昭和しょうわ3年(1928)〜令和れいわ2年(2020)。「アラルギ」から出発しゅっぱつし、寺山修司てらやましゅうじらと前衛短歌運動ぜんえいたんかうんどうこす。「そらにはほん」(昭和しょうわ33)。
寺山修司てらやましゅうじ
昭和しょうわ10年(1935)〜昭和しょうわ58年(1983)。「そらにはほん」で前衛ぜんえい地位ちい確立かくりつ戯曲ぎきょく小説しょうせつ・テレビドラマなど多数たすう劇団げきだん天井桟敷てんじょうさじき主宰しゅさい

(注)レクィエム=鎮魂歌ちんこんか

一粒ひとつぶ向日葵ひまわりたねまきしのみに 荒野あらのをわれの処女地しょじょちびき 年代記ねんだいきぬるほどのこいしをひとつあり それの周辺しゅうへんはわずかにあか丁丁ちょうちょうるるおとのたかぶりて もりにかへれる木霊こだまのひとつ」

前登志夫まえとしお
現代げんだい短歌たんか

安保あんぽ反対はんたい闘争とうそうは、「意志表示いしひょうじ」(昭和しょうわ36)の岸上大作きしうえだいさく同世代どうせだいで「未成年みせいねん」(昭和しょうわ35)の春日井健かすがいけんらの短歌たんか反映はんえいされ、佐佐木幸綱ささきゆきつななども注目ちゅうもくされた。「サラダ記念日きねんび」(昭和しょうわ62)は史的してき位置いちづけにはまだはやいだろうが、日常語にちじょうご多用たようした俵万智たわらまち爆発的ばくはつてき話題わだいになった。

「このあじがいいねときみったから 七月六日しちがつむいかはサラダ記念日きねんび

俵万智たわらまち「サラダ記念日きねんび

近代俳句きんだいはいく

俳句はいく革新かくしんは、正岡子規まさおかしき旧派きゅうは俳句はいく批判ひはんした明治めいじ25ねん(1892)にはじまる。写生しゃせい重視じゅうしした子規しきのもとに、河東碧梧桐かわひがしへきごとう高浜虚子たかはまきよしあつまった。やがて碧梧桐へきごとう活躍かつやくし、新傾向俳句しんけいこうはいく(→p.219)とばれる自由律じゆうりつつくった。しかし明治めいじ後継者こうけいしゃそだてたのは高浜虚子たかはまきよしで、虚子きよし写生しゃせい徹底てっていさせ、新傾向俳句しんけいこうはいくをしのいで定型ていけいつく主流しゅりゅう地位ちいめた。昭和しょうわはいって水原秋桜子みずはらしゅうおうし批判ひはんして新興俳句運動しんこうはいくうんどう(→p.220)をこし、個性こせい表現ひょうげん主張しゅちょうした。しかし戦時中せんじちゅう権力けんりょく弾圧だんあつによって俳句はいくはすたれ、戦後せんご第二芸術論だいにげいじゅつろんでさらにダメージをけた。しかし前衛俳句ぜんえいはいくいたるまで幅広はばひろ支持しじけた。

岸上大作きしうえだいさく
昭和しょうわ14年(1939)〜昭和しょうわ35年(1960)。安保あんぽ闘争とうそうとし大学だいがく在学ざいがくちゅう割腹かっぷく死。歌集かしゅう意志表示いしひょうじ」(昭和しょうわ36)。
春日井健かすがいけん
昭和しょうわ13年(1938)〜平成へいせい16年(2004)。同世代どうせだい前衛ぜんえい歌人かじんとして活躍かつやく歌集かしゅう未成年みせいねん」ほか。
俵万智たわらまち
昭和しょうわ37年(1962)〜。口語こうご詩語しごおさめようとし、かたかな言葉ことば多用たようした。歌集かしゅう「サラダ記念日きねんび」(昭和しょうわ62)がある。
俳句はいく革新かくしん

旧派きゅうは俳句はいく月並つきなみ月次つきなみ八→p.122)としょうする月例会げつれいかいおこなわれたもので、知識ちしきもとづく陳腐ちんぷなだじゃれてきなものであった。正岡子規まさおかしきあたらしい俳句はいく提唱ていしょうしたが、それは明治めいじ社会しゃかい文化ぶんか全般ぜんぱんひとつのあらわれでもあった。

正岡子規まさおかしき

明治めいじ25ねん(1892)、子規しきは「獺祭書屋俳話だっさいしょおくはいわ」を発表はっぴょうして旧派きゅうは俳句はいく否定ひていし、明治めいじ28ねん俳諧大要はいかいたいよう」で、さらにあたらしい俳句はいくのあるべき姿すがたあきらかにした。そこでは、芭蕉ばしょう以上に与謝蕪村よさぶそん(→p.121)を評価ひょうかし、知識ちしき理屈りくつよりも感情かんじょうを、からでは芭蕉ばしょう以上に与謝蕪村よさぶそん評価ひょうかし、知識ちしき理屈りくつよりも感情かんじょうおもじた。子規しき俳句はいくは、明治めいじになってはいってきた洋画ようが写生しゃせい影響えいきょうられ、この「写実しゃじつ」をいた(→p.157)。またまた寒山落木かんざんらくぼく」・「墨汁一滴ぼくじゅういってき」・「仰臥漫録ぎょうがまんろく」・「病牀六尺びょうしょうろくしゃく」などの随筆ずいひつも、写生しゃせいむねとして生活せいかつけたものである。明治めいじ30ねん(1897)に俳誌はいしホトトギスほととぎす」が創刊そうかんされた。

子規しき絶筆三句ぜっぴつさんく

糸瓜へちま咲てたんのつまりしほとけかな」

「をとゝひのへちまへちまみずらざりき」

たん糸瓜へちまみずにあはず」

正岡子規まさおかしき絶筆ぜっぴつ
子規しき門人もんじんたち〉

子規しき門下もんかには、のちに俳句はいくかい二分にぶんする河東碧梧桐かわひがしへきごとう高浜虚子たかはまきよしがいた。「ホトトギスほととぎす」が創刊そうかんされると、子規しき指導しどうのもと日本派にほんはばれ、生活せいかつけた写生しゃせい俳句はいくつくった。

正岡子規まさおかしき
慶応けいおう3年(1867)〜明治めいじ35年(1902)。中学ちゅうがく時代じだい自由民権運動じゆうみんけんうんどう影響えいきょうけた少年しょうねん大学だいがく中退ちゅうたい後、肺結核はいけっかくにかかりながらも俳句はいく短歌たんか両面りょうめん革新かくしん後進こうしん指導しどう専念せんねんした。
内藤鳴雪ないとうめいせつ
弘化こうか4年(1847)〜大正たいしょう15年(1926)。子規しき俳句はいくまなび、子規しきらとの「愛媛俳句集えひめはいくしゅう輪講りんこう開眼かいがん門人もんじん指導しどう専念せんねんした。
河東碧梧桐かわひがしへきごとう
明治めいじ6年(1873)〜昭和しょうわ12年(1937)。松山まつやま出身しゅっしん子規しき後継こうけい虚子きよし同級どうきゅう子規しき没後ぼつご新傾向俳句しんけいこうはいく推進すいしんした。
夏目漱石なつめそうせき
子規しき俳句はいくまなび、「愛媛俳句集えひめはいくしゅう輪講りんこう参加さんかした。→p.157

虚子きよしのほか、内藤鳴雪ないとうめいせつ夏目漱石なつめそうせき飯田蛇笏いいだだこつらすぐれた俳人はいじんた。のち新聞しんぶん日本にっぽん」の俳欄はいらん担当たんとうし、虚子きよしとの論争ろんそうによって実景じっけい描写びょうしゃ態度たいどふかめた。

井戸いどはたなべたらいゆきうえ

正岡子規まさおかしき
新傾向俳句しんけいこうはいく

子規しき没後ぼつご虚子きよし俳句はいくからとおざかった。碧梧桐へきごとう虚子きよし句風くふうちがいから対立たいりつし、碧梧桐へきごとう子規しき写生しゃせいをさらにすすめ、象徴詩しょうちょうし的な俳句はいくつくるにいたった。二度にどにわたる全国遍歴ぜんこくへんれきたびなかで、自然主義的しぜんしゅぎてき生活的せいかつてき社会的しゃかいてきなものをもうとし、あるいは自由律じゆうりつ無季俳句むきはいくをもつくった。こうした碧梧桐へきごとう活躍かつやく論理的ろんりてきえたのが大須賀乙字おおすがおつじで、さらにかれは「無中心論むちゅうしんろん」としょうする中心点ちゅうしんてんのない推称すいしょうするにいたった。碧梧桐へきごとう到達点とうたつてんは、あまりに古典的こてんてき俳句はいくから遊離ゆうりしすぎたため、乙字おつじ荻原井泉水おぎわらせいせんすい中塚一碧楼なかつかいっぺきろう有望ゆうぼう俳人はいじんはなれていった。自由律俳句じゆうりつはいくからは荻原井泉水おぎわらせいせんすい指導しどうのもと、種田山頭火たねださんとうからがた。

「どうしようもないわたしがあるいている」

種田山頭火たねださんとうか
大須賀乙字おおすがおつじ
明治めいじ14年(1881)〜大正たいしょう9年(1920)。はじ碧梧桐へきごとうから出発しゅっぱつしたが、論理面ろんりめんでの功績こうせきおおきい。「三千里さんぜんり」(明治めいじ43)がある。
荻原井泉水おぎわらせいせんすい
明治めいじ17年(1884)〜昭和しょうわ51年(1976)。碧梧桐へきごとうとともに俳誌はいし層雲そううん」(明治めいじ44)を創刊そうかんし、のちに独自どくじ自由律俳句じゆうりつはいくすすんだ。
種田山頭火たねださんとうか
明治めいじ15年(1882)〜昭和しょうわ15年(1940)。禅僧ぜんそうとして放浪ほうろうたびて、漂泊ひょうはく生活せいかつ題材だいざいにしたつくる。句集くしゅう草木塔そうもくとう」(昭和しょうわ15)がある。
ホトトギス

明治めいじ四十五ねん(一九一二)、高浜虚子たかはまきょしが「ホトトギス」で俳句はいく再開さいかいする。虚子きょしは、俳句はいく定型ていけいの十七おん季題きだい重視じゅうしし、新傾向俳句しんけいこうはいく対立たいりつした。虚子きょし碧梧桐へきごとうよりも主観しゅかん的であったが、容易ようい主観しゅかんをさけるため客観きゃっかん写生しゃせい主張しゅちょう、のちには花鳥諷詠かちょうふうえい文学ぶんがく位置いちづけた。飯田蛇笏いいだだこつ村上鬼城むらかみきじょう前田普羅まえだふららは花鳥諷詠かちょうふうえいから主観しゅかん傾向けいこう作家さっかとして活躍かつやくした。

遠山とおやまたりたる枯野かれのかな 高浜虚子たかはまきょし

いもつゆ連山れんざんかげただしうす 飯田蛇笏いいだだこつ

冬蜂ふゆばちにどころなくあるきけり 村上鬼城むらかみきじょう

オリランの真下ました立つゆき宿やど 前田普羅まえだふら

高浜虚子たかはまきょし
明治めいじねん(一八七四)〜昭和しょうわ四十ねん(一九六五)。碧梧桐へきごとう紹介しょうかい子規しき句友くゆうとなったが、作風さくふうちがいから対立たいりつした。「ホトトギス」を主宰しゅさいし、夏目漱石なつめそうせきの「吾輩わがはいねこである」を発表はっぴょうさせた。
飯田蛇笏いいだだこつ
明治めいじ十八ねん(一八八五)〜昭和しょうわ三十八ねん(一九六三)。高浜虚子たかはまきょし指導しどうけ、俳誌はいし雲母うんも」を創刊そうかん句集くしゅうに「山廬集さんろしゅう」「霊芝れいし」などがある。
水原秋桜子みずはらしゅうおうし
明治めいじ二十五ねん(一八九二)〜昭和しょうわ五十六ねん(一九八一)。ホトトギス有力ゆうりょく俳人はいじんであったが、のち同派どうは俳誌はいし馬酔木あしび」を創刊そうかんした。句集くしゅうに「葛飾かつしか」「秋苑しゅうえん」などがある。
昭和しょうわ俳句はいく

昭和しょうわはいると、「ホトトギス」には主観しゅかん傾向けいこうをもつ水原秋桜子みずはらしゅうおうし台頭たいとうし、山口誓子やまぐちせいし阿波野青畝あわのせいほ高野素十たかのすじゅうとともに時代じだいつくった。秋桜子しゅうおうし叙情性じょじょうせいを、誓子せいし都会とかい機械きかいなどの素材そざいみ、花鳥諷詠かちょうふうえい客観きゃっかん性からはなれていった。一方いっぽう富沢赤黄男とみざわかきお西東三鬼さいとうさんき秋元不死男あきもとふじおらは「ホトトギス」をはなれて新興俳句運動しんこうはいくうんどうはじめ、人工じんこう素材そざい重視じゅうししたが、戦時せんじ体制たいせい下で弾圧だんあつけた。

人生じんせい人間にんげん探究たんきゅう

俳句はいく伝統でんとうにとらわれず、人間にんげん性を追求ついきゅうする創作そうさくおこなった中村草田男なかむらくさたお加藤楸邨かとうしゅうそん石田波郷いしだはきょうは「ホトトギス人間にんげん探究たんきゅう派」とばれる。叙写じょしゃ正岡子規まさおかしきかんがえを人間にんげん人生じんせい発展はってんさせたものである。

中村草田男なかむらくさたお
明治めいじ三十四ねん(一九〇一)〜昭和しょうわ五十八ねん(一九八三)。昭和しょうわ二十一ねん俳誌はいし万緑ばんりょく」を創刊そうかんした。句集くしゅうに「長子ちょうし」「しま」などがある。

みず澄みて金剛山こんごうさんいただきさにけり 水原秋桜子みずはらしゅうおうし

万緑ばんりょくなか吾子わがこえそむる 中村草田男なかむらくさたお

金剛こんごうつゆひとつぶやいしうえ 川端茅舎かわばたぼうしゃ

バスを大路おおじはるをうたがはず 石田波郷いしだはきょう

機関車きかんしゃもだえぐるさむてん 西東三鬼さいとうさんき

秋桜子しゅうおうしの「馬酔木あしび」からは、プロレタリア俳句はいく石田波郷いしだはきょうらが活躍かつやくしたが、有季ゆうき無季俳句むきはいく対立たいりつや、プロレタリア俳句はいく盛行せいこうなど、さまざまなうごきがあった。

加藤楸邨かとうしゅうそん
明治めいじ三十八ねん(一九〇五)〜平成へいせいねん(一九九三)。ホトトギス人間にんげん探究たんきゅう派の俳人はいじん句集くしゅうに「寒雷かんらい」(昭和しょうわ14)「喜雨亭句集きうていくしゅう」などがある。
石田波郷いしだはきょう
大正たいしょうねん(一九一三)〜昭和しょうわ四十四ねん(一九六九)。句集くしゅうに「つる」「惜命せきめい」などがある。
戦後せんご俳句はいく

昭和しょうわ二十一ねん(一九四六)、評論家ひょうろんか桑原武夫くわばらたけお発表はっぴょうした「第二芸術だいにげいじゅつ」は、俳句はいく社会的しゃかいてき責任せきにんたさないものだとし、現代げんだい俳句はいくについて仲間内なかまうちたのしむ趣味的しゅみてきなものだとめつけた。これにおうじて山口誓子やまぐちせいしは「根源俳句こんげんはいく」を主張しゅちょうした。また沢木欣一さわききんいち俳誌はいしかぜ」で社会性しゃかいせい主張しゅちょうした。鷹羽狩行たかははかりゆき金子兜太かねことうた高柳重信たかやなぎじゅうしんらは前衛俳句ぜんえいはいく推進すいしんした。

塩田えんでん百日ひゃくにち筋目すじめつけとおし 金子兜太かねことうた

湾曲わんきょく火傷かしょう爆心地ばくしんちのマラソン 金子兜太かねことうた

をそらすにじ
 処刑台しょけいだい 高柳重信たかやなぎじゅうしん

鷹羽狩行たかははかりゆき
昭和しょうわねん(一九三〇)〜。山口誓子やまぐちせいし師事しじし、前衛俳句ぜんえいはいく推進すいしんした。句集くしゅうに「誕生たんじょう」(昭和しょうわ40)などがある。
金子兜太かねことうた
大正たいしょうねん(一九一九)〜平成へいせい三十ねん(二〇一八)。社会性俳句しゃかいせいはいく主導しゅどうし、俳誌はいし海程かいてい」(昭和しょうわ37)を創刊そうかんした。
沢木欣一さわききんいち
大正たいしょうねん(一九二〇)〜平成へいせい十三ねん(二〇〇一)。社会性俳句しゃかいせいはいく主張しゅちょうし、俳誌はいしかぜ」を創刊そうかんした。のちに沢木欣一さわききんいち前衛俳句ぜんえいはいくすすめた。
高柳重信たかやなぎじゅうしん
大正たいしょうねん(一九二〇)〜昭和しょうわ五十八ねん(一九八三)。前衛俳句ぜんえいはいく旗手きしゅとしてぶんかちきを導入どうにゅうし、俳壇はいだん新風しんぷうんだ。

劇文学げきぶんがく

演劇えんげき改良かいりょう創始そうし

江戸えど時代じだいおおきく発展はってんした歌舞伎かぶきつづいたが、明治めいじ時代じだい改良かいりょう主義しゅぎなみなかで、演者えんじゃ改良かいりょうこころがけた。あたらしい演劇えんげきは、自由民権運動じゆうみんけんうんどう手段しゅだんとしてまれた新派しんぱとして発展はってんし、政治運動せいじうんどうからは独立どくりつして発展はってんした。もうひとつのあたらしい演劇えんげきである新劇しんげきが、西洋演劇せいようえんげき影響えいきょう直接ちょくせつけてはじまったものである。

歌舞伎かぶき改良かいりょう

明治めいじ十九ねん(一八八六)、末松謙澄すえまつけんちょうらが演劇改良会えんげきかいりょうかい設立せつりつした。とき名優めいゆうだんきくがこれをささえ、新富座しんとみざからあたらしい歌舞伎座かぶきざへの時代じだいつくった。この時代じだい作品さくひんささえたのは河竹黙阿弥かわたけもくあみである。黙阿弥もくあみ散切さんぎりもの・活歴かつれきものをき、明治めいじ世相せそううつした。散切さんぎりものは面白おもしろみがすくなかったが、改良かいりょう運動うんどう路線ろせん沿うあまり、福地桜痴ふくちおうちらにけつがれた。

散切さんぎりもの」の錦絵にしきえ
新歌舞伎しんかぶき

これらの作風さくふうたいして、坪内逍遙つぼうちしょうよう歴史れきし人間にんげんえがかれていないと否定ひていし、みずから新史劇しんしげきばれる作品さくひん発表はっぴょうした。「くに史劇しげき」(明治めいじ26)・「桐一葉きりひとは」(明治めいじ27)などを発表はっぴょうした。また森鷗外もりおうがいも、劇評げきひょうのほか「玉篋両浦嶋たまくしげふたりうらしま」(明治めいじ35)・「日蓮上人辻説法にちれんしょうにんつじせっぽう」などの作品さくひんしめした。これらを新歌舞伎しんかぶきという。

桐一葉きりひとは」の舞台看板ぶたいかんばん
だんきく
九代目くだいめ市川団十郎いちかわだんじゅうろう五代目ごだいめ尾上菊五郎おのえきくごろう初代しょだい市川左団次いちかわさだんじのこと。明治めいじ歌舞伎かぶき三大名優さんだいめいゆうとして新富座しんとみざ中心ちゅうしん活躍かつやくした。
河竹黙阿弥かわたけもくあみ
文政ぶんせい十一ねん(一八一六)〜明治めいじ二十六ねん(一八九三)。幕末ばくまつから明治めいじにかけて活躍かつやくした歌舞伎作者かぶきさくしゃ散切さんぎりもの・活歴かつれきものを多数たすうき、明治めいじ世相せそう写実的しゃじつてきえがいた。
坪内逍遙つぼうちしょうよう
→ p.143
森鷗外もりおうがい
→ p.147・p.160
新派しんぱ

自由民権運動じゆうみんけんうんどうなか国会開設こっかいかいせつちかづくと、明治めいじ二十一ねん(一八八八)に川上音二郎かわかみおとじろうがオッペケペーぶし時事じじ政治風刺せいじふうしはじめた。党壮士とうそうし角藤定憲かどうさだのり壮士芝居そうしばいはじめ、川上かわかみ書生芝居しょせいしばいてんじた。これが川上かわかみから独立どくりつした「新派しんぱ」とばれるげきはじまりとされる。やがて最初さいしょ政治色せいじしょくからだっし、演劇えんげきとして尾崎紅葉おざきこうようの「金色夜叉こんじきやしゃ」・徳富蘆花とくとみろかの「不如帰ほととぎす」・泉鏡花いずみきょうかの「高野聖こうやひじり」「婦系図おんなけいず」などを脚色上演きゃくしょくじょうえんして好評こうひょうはくし、歌舞伎かぶき圧倒あっとうした。

新劇しんげき運動

明治めいじ三十九ねん(一九〇六)、坪内逍遙つぼうちしょうよう島村抱月しまむらほうげつらを中心ちゅうしんに「文芸協会ぶんげいきょうかい」が発足ほっそくした。演劇研究所えんげきけんきゅうじょ設立せつりつして俳優はいゆう養成ようせいし、シェークスピア・イプセンの作品さくひん上演じょうえんした。大正たいしょうねん(一九一三)に解散かいさん同年どうねん抱月ほうげつ女優じょゆう松井須磨子まついすまこ恋愛事件れんあいじけんにより内訌ないこうしょうじたが、二人ふたりは「芸術座げいじゅつざ」を結成けっせいした。芸術座げいじゅつざではイプセン・トルストイなどの作品さくひん上演じょうえんされた。抱月ほうげつ大正たいしょうねん(一九一八)にぼつすると芸術座げいじゅつざ解散かいさんした。

明治めいじ四十二ねん(一九〇九)、二代目市川左団次にだいめいちかわさだんじ小山内薫おさないかおるが「自由劇場じゆうげきじょう」を創立そうりつした。シェークスピア・イプセン・ハウプトマンら西洋演劇せいようえんげき上演じょうえん好評こうひょうたが、大正たいしょうねん(一九一四)にはほぼ消滅しょうめつした。

イプセン「人形にんぎょういえ舞台ぶたい ひだり松井須磨子まついすまこ
島村抱月しまむらほうげつ
→ p.156
松井須磨子まついすまこ
明治めいじねん(一八八六)〜大正たいしょうねん(一九一九)。文芸協会ぶんげいきょうかい参加さんかし、「ハムレット」のオフェーリアやくでデビュー。「人形にんぎょういえ」のノラやくなどをえんじた近代きんだい日本にほん先駆的せんくてき女優じょゆう
イプセン(Henrik Ibsen)
(一八二八〜一九〇六)。ノルウェーの劇作家げきさっか。「人形にんぎょういえ」「幽霊ゆうれい」「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」など。女性じょせい解放かいほう問題もんだいあつかい、日本にほん新劇しんげきおおきな影響えいきょうあたえた。
トルストイ(Lev N. Tolstoi)
(一八二八〜一九一〇)。ロシアの小説家しょうせつか思想家しそうか。「復活ふっかつ」「ちから」などが芸術座げいじゅつざによってえんじられた。
ハウプトマン(Gerhart Hauptmann)
(一八六二〜一九四六)。ドイツの劇作家げきさっか小説家しょうせつか。「沈鐘ちんしょう」「さびしきひと々」などが自由劇場じゆうげきじょうなどでさかんに上演じょうえんされた。

なお沢田正二郎さわだしょうじろうは、まわりに特色とくしょくのある新国劇しんこくげきつくっている。

戯曲ぎきょく作品

戯曲ぎきょく演劇えんげき密接みっせつ関係かんけいがあるのはもちろんだが、近代きんだいはいってからほとんどの場合ばあい座付ざつき作者さくしゃではなく独立どくりつした作家さっか戯曲ぎきょく発表はっぴょうするようになる。明治めいじ四十ねん(一九〇七)、自然主義しぜんしゅぎ作家さっか真山青果まやませいかが「一人者ひとりもの」を発表はっぴょうし、独立どくりつした戯曲作家ぎきょくさっか先駆せんくとなった。つづいて岩野泡鳴いわのほうめい正宗白鳥まさむねはくちょうらも戯曲ぎきょくはじめ、久保田万太郎くぼたまんたろうは「和泉屋染物店いずみやそめものてん」(明治めいじ45)を発表はっぴょうした。秋田雨雀あきたうじゃくらも戯曲ぎきょく創作そうさくくわわった。

後期白樺派こうきしらかばは作家さっかでは、武者小路実篤むしゃのこうじさねあつの「そのいもうと」(大正たいしょう4)・有島武郎ありしまたけおの「ドモまた」・倉田百三くらたひゃくぞうの「出家しゅっけとその弟子でし」(大正たいしょう5)・長与善郎ながよよしろうの「項羽こうう劉邦りゅうほう」(大正たいしょう9)などが代表作だいひょうさくである。「新思潮しんしちょう」の作者さくしゃ菊池寛きくちかんの「父帰ちちかえる」(大正たいしょう6)・「」(大正たいしょう11)なども代表作だいひょうさくである。谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう初期しょきにはおおくの戯曲ぎきょくいた。また中村吉蔵なかむらきちぞう社会派しゃかいはとしてみとめられた。

これらの作家さっかおおくはイプセンの影響えいきょうけ、新劇しんげき舞台ぶたい想定そうていした作品さくひんいた。こうしたなか岡本綺堂おかもときどうは、二代目市川左団次にだいめいちかわさだんじんで「修禅寺物語しゅぜんじものがたり」(明治めいじ44)・「鳥辺山心中とりべやましんじゅう」(大正たいしょう4)など新歌舞伎しんかぶきつづけた。新歌舞伎しんかぶきにはほか岡鬼太郎おかおにたろう池田大伍いけだだいごらがいる。

修禅寺物語しゅぜんじものがたり面作めんつく夜叉又王またおう芸術至上主義的げいじゅつしじょうしゅぎてき態度たいどえが
倉田百三くらたひゃくぞう
明治めいじ二十四ねん(一八九一)〜昭和しょうわ十八ねん(一九四三)。「出家しゅっけとその弟子でし」は親鸞しんらんをテーマにえがいた戯曲ぎきょくで、武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ接近せっきんした。評論集ひょうろんしゅうあい認識にんしきとの出発しゅっぱつ」(大正たいしょう10)は青春せいしゅんしょとして名高なだかい。

発展はってん分裂ぶんれつ

大正たいしょう十三ねん(一九二四)「築地小劇場つきじしょうげきじょう」ができて新劇しんげき運動うんどう飛躍的ひやくてき発展はってんしたが、昭和しょうわはいって芸術派げいじゅつはプロレタリア派ぷろれたりあは分裂ぶんれつした。新派しんぱ一時いちじ低調ていちょうだったが、昭和しょうわねん(一九二九)の大合同だいごうどう復活ふっかつする。

●「築地小劇場つきじしょうげきじょう

小山内薫おさないかおる土方与志ひじかたよし中心ちゅうしんとなって大正たいしょう十三ねん創立そうりつした。完備かんびした舞台設備ぶたいせつびおおくの公演こうえんをし、友田恭助ともだきょうすけ田村秋子たむらあきこ山本安英やまもとやすえらの俳優はいゆうそだった。この演劇活動えんげきかつどう意義いぎ演出えんしゅつ重視じゅうしにある。歌舞伎かぶきなどにられる役者やくしゃげいから演出家えんしゅつか作品さくひんへの変化へんかである。

築地小劇場つきじしょうげきじょう」(パンフレット)
●プロレタリア演劇えんげき

小山内薫おさないかおる昭和しょうわねんぼつすると、翌年よくねん土方与志ひじかたよし中心ちゅうしん新劇しんげき運動うんどう左翼組織さよくそしき接触せっしょくし、急速きゅうそく左傾させいした。築地つきじ劇団げきだん分裂ぶんれつし、村山知義むらやまともよし久保栄くぼさかえ中心ちゅうしん昭和しょうわねん左翼劇場さよくげきじょう結成けっせいされた。両者りょうしゃ対立たいりつはあったが、いずれもリアリズムを発展はってんさせる好結果こうけっかんだ。しかし戦時せんじ体制たいせい下で昭和しょうわ十五ねん解散かいさんさせられた。

芸術派げいじゅつは

昭和しょうわねん友田恭助ともだきょうすけ田村秋子たむらあきこ夫妻ふさいによって「築地座つきじざ」が創立そうりつされた。築地座つきじざ十一じゅういちねん解散かいさんするが、雑誌ざっし劇作げきさく」(昭和しょうわ7〜15)にささえられ活動かつどうした。

新派しんぱ動向どうこう

昭和しょうわねん新派大合同しんぱだいごうどうにより一時いちじ低調ていちょうからだっし、川口松太郎かわぐちまつたろう中心ちゅうしん新生新派しんせいしんぱ結成けっせいされた。本流新派ほんりゅうしんぱとともに、昭和しょうわ十一ねん発足ほっそくした文学座ぶんがくざ活動かつどう戦後せんごにまできつがれた。

与ひょう 何百でようなあ。まえの二枚分まいぶんも三枚分まいぶんも……

つう あのな、今度はなあ、よひょう。

与ひょう (いぶかしげにつうつうまもる)

つう かねっていちゃうようでよ……こえこえるだけじゃ。だいたい……

木下順二きのしたじゅんじ夕鶴ゆうづる」)

岡本綺堂おかもときどう
明治めいじねん(一八七二)〜昭和しょうわ十四ねん(一九三九)。新歌舞伎しんかぶき代表的だいひょうてき作家さっかものとして「半七捕物帳はんしちとりものちょう」(大正たいしょう15)などもられる。
小山内薫おさないかおる
明治めいじ十四ねん(一八八一)〜昭和しょうわねん(一九二八)。小説しょうせつにも作品さくひんがあるが、演劇えんげきしゅたる活躍かつやく分野ぶんやであった。
土方与志ひじかたよし
明治めいじ三十一ねん(一八九八)〜昭和しょうわ三十四ねん(一九五九)。小山内薫おさないかおる弟子入でしいりし、巨額きょがく私財しざいじて「築地小劇場つきじしょうげきじょう建設けんせつ協力きょうりょくした。
前進座ぜんしんざ出発しゅっぱつ

昭和しょうわねん歌舞伎界かぶきかいふるさに不満ふまんをもつ河原崎長十郎かわらさきちょうじゅうろう中心ちゅうしん前進座ぜんしんざ創立そうりつし、旧作品きゅうさくひんから新作品しんさくひんまでレパートリーをひろげた。これによって新派しんぱへの人気にんき回復かいふくした。

昭和しょうわ戯曲ぎきょく

小山内薫おさないかおるの「第一だいいち世界せかい」(大正たいしょう10)のあとけて、藤森成吉ふじもりせいきち岸田国士きしだくにお中心ちゅうしん雑誌ざっし劇作げきさく」(昭和しょうわ7〜15)がおおくの新人しんじん紹介しょうかいした。「なに彼女かのじょをそうさせたか」(昭和しょうわ2)をはじめ、久保栄くぼさかえ火山灰地かざんばいち」(昭和しょうわ12)・三好十郎みよしじゅうろう浮標ブイ」(昭和しょうわ12)・森本薫もりもとかおる華々はなばなしき一族いちぞく」(昭和しょうわ15)「牛山うしやまホテル」(昭和しょうわ4)・長谷川伸はせがわしん北条秀司ほうじょうひでし真船豊まぶねゆたか田中千禾夫たなかちかおらが注目ちゅうもくされる。

戦後せんご

演劇界えんげきかい動向どうこう

昭和しょうわ二十ねん(一九四五)、弾圧だんあつ比較的ひかくてきちいさかった歌舞伎かぶき前進座ぜんしんざ新劇しんげき合同ごうどう公演こうえんさくらその」(チェーホフさく)で復活ふっかつしたのをはじめ、かく演劇えんげき団体だんたい活発かっぱつ行動こうどう開始かいしした。のこった文学座ぶんがくざ新協劇団しんきょうげきだん前進座ぜんしんざ新派しんぱ活動かつどう拡大かくだいし、復活ふっかつした山本安英やまもとやすえ新協劇団しんきょうげきだんなどもくわわった。また劇団民芸げきだんみんげい昭和しょうわ22)・劇団青俳げきだんせいはい劇団四季げきだんしきなどあたらしいグループの演劇えんげき活動かつどうさかんになった。

戦後せんご戯曲ぎきょく

新劇しんげき運動うんどう活発化かっぱつかにともない、真船豊まぶねゆたか中橋公館なかばしこうかん」(昭和しょうわ21)・田中千禾夫たなかちかおくもはて」(昭和しょうわ23)「マリアの首まりあのくび」(昭和しょうわ34)・木下順二きのしたじゅんじ夕鶴ゆうづる」(昭和しょうわ22)などすぐれた戯曲ぎきょくかれた。

木下順二きのしたじゅんじ夕鶴ゆうづる舞台ぶたい 「つう」は山本安英やまもとやすえ
チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov)
(一八六〇〜一九〇四)。ロシアの小説家しょうせつか劇作家げきさっか。「さくらその」「三姉妹さんしまい」など。「築地小劇場つきじしょうげきじょう以来いらい日本にほんでもたびたび上演じょうえんされている。
山本安英やまもとやすえ
明治めいじ三十五ねん(一九〇二)〜平成へいせいねん(一九九四)。小山内薫おさないかおる土方与志ひじかたよし演出えんしゅつの「第一だいいち世界せかい」で初舞台はつぶたいんだ。木下順二きのしたじゅんじの「夕鶴ゆうづる」で国民的こくみんてき反響はんきょうんだ。
木下順二きのしたじゅんじ
大正たいしょうねん(一九一四)〜平成へいせい十八ねん(二〇〇六)。民話みんわげき現代劇げんだいげきむすんだ劇作家げきさっか。「夕鶴ゆうづる」(昭和しょうわ22)ほか多数たすう作品さくひんがある。
唐十郎からじゅうろう
昭和しょうわ十五ねん(一九四〇)〜。劇作家げきさっか小説家しょうせつか演出家えんしゅつか
佐藤信さとうまこと
昭和しょうわ十八ねん(一九四三)〜。劇作家げきさっか演出家えんしゅつか
野田秀樹のだひでき
昭和しょうわ三十ねん(一九五五)〜。劇作家げきさっか俳優はいゆう演出家えんしゅつか抽象ちゅうしょう名詞めいし登場人物とうじょうじんぶつにするなど不思議ふしぎ演劇えんげき空間くうかんつくっている。

加藤道夫かとうみちお「なよたけ」(昭和しょうわ30)・福田恆存ふくだつねあり「キティ颱風たいふう」(昭和しょうわ25)・「オットーと呼ばれる日本人にほんじん」(昭和しょうわ37)・矢代静一やしろせいいち絵姿女房えすがたにょうぼう」(昭和しょうわ30)・三島由紀夫みしまゆきお鹿鳴館ろくめいかん」(昭和しょうわ32)・安部公房あべこうぼう幽霊ゆうれいはここにいる」(昭和しょうわ33)などおおくの作品さくひん発表はっぴょうされた。

現代げんだい演劇えんげき

一九六〇年代ねんだいになると、既製きせい演劇えんげきたいして、鈴木忠志すずきただし別役実べつやくみのるの「早稲田小劇場わせだしょうげきじょう」(昭和しょうわ43)・唐十郎からじゅうろうの「状況劇場じょうきょうげきじょう」(昭和しょうわ41、のちに「黒色テントこくしょくてんと」)・寺山修司てらやましゅうじの「天井桟敷てんじょうさじき」(昭和しょうわ42)・佐藤信さとうまことの「演劇えんげきセンター68」(昭和しょうわ43)など68・71の小劇場運動しょうげきじょううんどうこった。アングラ(アンダー・グラウンド)演劇えんげきばれる。作家さっか演出えんしゅつねたり、ときには主役しゅやくねるという表現行動ひょうげんこうどうである。野田秀樹のだひできの「ゆめ遊眠社ゆうみんしゃ」(昭和しょうわ51)・如月小春きさらぎこはる渡辺えり子わたなべえりこらもその延長上えんちょうじょうあたらしいこころみをした。

現代げんだい戯曲ぎきょく

それぞれの小劇場しょうげきじょう主催者しゅさいしゃがほとんど戯曲ぎきょく作家さっかでもある。寺山修司てらやましゅうじの「ジョン・シルバー」(昭和しょうわ58)・別役実べつやくみのるの「マッチりの少女しょうじょ」(昭和しょうわ41)・つかこうへいの「熱海殺人事件あたみさつじんじけん」(昭和しょうわ48)などきわめて個性的こせいてき作品さくひんおおい。

●テレビのシナリオしなりお

あたらしいメディアであるテレビの発達はったつ演劇界えんげきかいにも変化へんかをもたらした。倉本聰くらもとそう山田太一やまだたいち橋田寿賀子はしだすがこ向田邦子むこうだくにこらのシナリオ・ライターが登場とうじょうし、二時間にじかんドラマ・大河たいがドラマなどというテレビ用語ようご定着ていちゃくさせた。

きたくにから'99—時代じだい—」©フジテレビジョン
加藤道夫かとうみちお
大正たいしょうねん(一九一八)〜昭和しょうわ二十八ねん(一九五三)。劇作家げきさっか。フランス文学ぶんがく影響えいきょうけた詩的してき戯曲ぎきょくいた。
福田恆存ふくだつねあり
大正たいしょうねん(一九一二)〜平成へいせいねん(一九九四)。劇作家げきさっか評論家ひょうろんか翻訳家ほんやくか。シェークスピアの翻訳ほんやくでもられる。
如月小春きさらぎこはる
昭和しょうわ三十一ねん(一九五六)〜平成へいせいねん(一九九一)。劇作家げきさっか演出家えんしゅつか照明しょうめい音響おんきょうちかられた演劇えんげきつくげた。
渡辺えり子わたなべえりこ
昭和しょうわ三十ねん(一九五五)〜。劇作家げきさっか俳優はいゆう演出家えんしゅつか
つかこうへい
昭和しょうわ二十三ねん(一九四八)〜平成へいせい二十二ねん(二〇一〇)。劇作家げきさっか演出家えんしゅつか
倉本聰くらもとそう
昭和しょうわねん(一九三五)〜。昭和しょうわ五十七ねん(一九八二)からはじめたテレビドラマ「きたくにから」は、シナリオとして出版しゅっぱんされつづけた。一年いちねん一度いちど数時間すうじかん番組ばんぐみ放映ほうえいされつづけた。俳優はいゆう成長せいちょうわせた内容ないよう作中人物さくちゅうじんぶつで、るべきものがおおい。
橋田寿賀子はしだすがこ
大正たいしょう十四ねん(一九二五)〜。「おんな太閤記おんなたいこうき」(昭和しょうわ56)・「おしん」(昭和しょうわ58)などテレビドラマの脚本家きゃくほんか
向田邦子むこうだくにこ
昭和しょうわねん(一九二九)〜昭和しょうわ五十六ねん(一九八一)。テレビドラマ脚本家きゃくほんか小説家しょうせつか

近代文学きんだいぶんがくのポイント・チェック

□ 【小説しょうせつ評論ひょうろん

明治初年めいじしょねん十年代じゅうねんだい近世きんせいから近代きんだいへ―
初期しょき森鷗外もりおうがい
日清にっしん日露戦争にちろせんそう時代じだい社会矛盾しゃかいむじゅん追求ついきゅう自然描写しぜんびょうしゃ
自然主義しぜんしゅぎ I ―自然しぜん人生じんせい国木田独歩くにきだどっぽ武蔵野むさしの
明治めいじから大正たいしょうへ I ―自然主義しぜんしゅぎ
明治めいじから大正たいしょうへ II ―漱石そうせき鷗外おうがい

夏目漱石なつめそうせき作品さくひん

晩年ばんねん森鷗外もりおうがい

明治めいじから大正たいしょうへ III ―耽美派たんびは
白樺派しらかばは
大正時代たいしょうじだい II ―新現実主義しんげんじつしゅぎ
大正時代たいしょうじだい III ―私小説ししょうせつ
□ プロレタリア文学ぶんがく大正初期たいしょうしょき昭和初期しょうわしょき
新感覚派しんかんかくは
昭和しょうわ年代ねんだい文学ぶんがく
戦後せんご文学ぶんがく
現代げんだい文学ぶんがく

□ 【明治めいじ大正時代たいしょうじだい近代詩きんだいし

新体詩しんたいし
浪漫詩ろうまんし
象徴詩しょうちょうし
象徴詩しょうちょうし(二)
口語自由詩こうごじゆうし
耽美派たんびは・「スバル」・パンのかい
理想主義りそうしゅぎ
民衆詩みんしゅうし
近代詩きんだいし達成たっせい萩原朔太郎はぎわらさくたろうつきえる〉―
大正末期たいしょうまっき現代げんだい現代詩げんだいし

近代短歌きんだいたんか

明治時代めいじじだい浪漫派短歌ろうまんはたんか明星派みょうじょうは)―
自然主義短歌しぜんしゅぎたんか根岸短歌会ねぎしたんかかい
アラギ
はんアラギ
昭和しょうわ戦後せんご短歌たんか
現代げんだい短歌たんか

近代俳句きんだいはいく

明治めいじ大正期たいしょうき俳句はいく
□ ホトトギス客観写生きゃっかんしゃせい花鳥諷詠かちょうふうえい
昭和しょうわ戦後せんご現代げんだい俳句はいく

劇文学げきぶんがく

明治めいじ大正期たいしょうき演劇えんげき改良かいりょう創始そうし
プロレタリア演劇えんげき
昭和しょうわ戦後せんご現代げんだい劇文学げきぶんがく