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近世の文学
歌川国芳筆「八犬伝芳流閣之図」
近世の文学【概観】
年代表(江戸時代 一六〇〇〜一七三〇)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一六〇〇 | 関ケ原の戦い |
| 一六〇三 | 江戸幕府成立。阿国歌舞伎始まる(出雲の阿国) |
| このころ | 『醒睡笑』(仮名草子)。『竹斎』『可笑記』など |
| 一六六〇頃 | *松永貞徳(俳諧師)。仮名草子盛ん |
| 一六六八 | *西山宗因(談林俳諧) |
| 一六八二 | *『好色一代男』(西鶴)。浮世草子・草双紙 |
| 一六八四 | 『冬の日』(芭蕉七部集)。*蕉風俳諧(松尾芭蕉) |
| 一六八六 | 近松門左衛門『出世景清』。*西鶴・芭蕉活躍 |
| 一六八八〜一七〇四(元禄) | *西鶴『日本永代蔵』『世間胸算用』。芭蕉『奥の細道』旅(一六八九)。『猿蓑』(一六九一) |
| 一六九四 | *芭蕉没。西鶴『武家義理物語』 |
| 一七〇三 | *近松『曾根崎心中』。八文字屋本 |
| 一七一五 | *近松『国性爺合戦』 |
| 一七一六 | *新井白石『折りたく柴の記』 |
| 一七二一 | *近松『心中天網島』 |
| 一七三〇頃 | *近松『女殺油地獄』 |
時代区分・背景
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開いてから、十五代将軍慶喜が慶応三年(一八六七)に大政奉還するまでの二百六十五年間が、近世(江戸時代)という時代である。この時代には、中央の統一政権として江戸幕府と、その地方に独立の藩が置かれて統治するという幕藩体制が確立され、士・農・工・商という厳い身分制度が人々を縛った。対外的には鎖国政策がとられ、世の中は太平と謳歌した。庶民の教育水準は高まり、文化・芸術が形づくられた。
文学の大衆化
特に文学においては、印刷術(木版印刷)の進歩・発展により大量の版本が供給されるようになり、これ以前の写本の時代では一部特権層の専有物にすぎなかった文学が、初めて庶民のものになったからである。
町人の文学と武士の文学
この時代の文学の特徴は、「町人文学」あるいは「庶民文学」という言葉で表現されることが多い。武士・農民よりも一段低い位置に置かれた町人たちが、しだいに強い経済力をもつようになった。その結果、自分たちの生き方・考え方・趣味の反映した文学を要求し、仮名草子・浮世草子・俳諧・浄瑠璃・歌舞伎など、卑近な現実世界をこんだ文学の諸ジャンルが興った。これらの作品に見られる町人性・庶民性こそ、近世文学を隣接する中世文学や近代文学と異なるものとして特徴づけている。
年代表(江戸時代 一七三〇〜一八六八)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一七三〇頃 | *近松門左衛門没。竹田出雲ら活躍 |
| 一七四六 | *『菅原伝授手習鑑』(竹田出雲・並木千柳) |
| 一七六五 | *柄井川柳・『柳多留』初版 |
| 一七七五 | *恋川春町『金々先生栄花夢』(黄表紙) |
| 一七七六 | *上田秋成『雨月物語』(前期読本) |
| 一七八一〜一七八九(天明) | 天明文学の全盛。黄表紙・洒落本・狂歌盛ん |
| 一八〇二 | *十返舎一九『東海道中膝栗毛』(滑稽本) |
| 一八〇四〜一八三〇(文化・文政) | 化政文学の全盛。*曲亭馬琴『南総里見八犬伝』(一八一四〜)。為永春水『春色梅児誉美』(人情本) |
| 一八二三頃 | 本居宣長『玉勝間』 |
| 一八六七 | *大政奉還(江戸幕府滅亡) |
時期区分
二百六十五年という長期にわたる近世文学の流れは、十八世紀の半ばごろを境目として、上方(京都・大阪)を中心とする前期と、江戸を中心とする後期とに大別される。前期はその最盛期の年号をつけて元禄文学と呼ばれ、後期はさらに二つの特色ある時期に分けられ、天明文学・化政文学と呼ばれる。
元禄文学
元禄年間(一六八八〜一七〇四)を中心とする時期の文学。俳諧では井原西鶴が人間の欲望を肯定した浮世草子を創始し、浄瑠璃では近松門左衛門が義理と人情を巧みに描いた。松尾芭蕉が俳諧の文学性を高め、近世文学の黄金時代を築いた。
天明文学
田沼意次が権勢をふるった安永・天明年間(一七七二〜一七八九)は財政の積極策が商業を繁栄させ、余技として遊戯的な雰囲気が江戸の町を包んだ。そうした中で、主に武士階級の余技として洗練された観察と表現を特色とする文学が生まれ、黄表紙・洒落本・戯作文学が花開いた。
化政文学
松平定信の寛政の改革の弾圧で戯作文学はいったん衰退したが、文化・文政年間(一八〇四〜一八三〇)には回復した。この時期は主に町人階級が文学の担い手となり、滑稽本・人情本・合巻などわかりやすいものが主流となった。理知的な面白味はなくなったが、文学の享受人口の拡大を意味しており、近世文学の本当の大衆化はこの時期に来たといえる。
小説
仮名草子
仮名草子とは、近世初期に主に仮名を用いて書かれた読み物で、啓蒙・教訓・娯楽などを目的として作られ、出版された。小説の歴史の上では、中世の御伽草子(→p.87)のあとを受け、本格的な近世小説へと続く橋渡しの役割を果たしており、さまざまな要素のまじった過渡的な性格をもっている。
●主な作品
代表的な作品としては、教訓性のあらわな鈴木正三の著作、随筆のスタイルで世相を批判した『如儡子』『清水物語』(朝山意林庵)、著名な古典『伊勢物語』をパロディ化した『仁勢物語』、御伽草子風の恋物語『うらみのすけ』、笑話集『醒睡笑』(安楽庵策伝)、イソップ物語の翻訳である『伊曾保物語』、藪医者・竹斎という滑稽な人物を主人公とする『可笑記』(如儡子)、浮世房という人物を通して世相を描く『浮世物語』(浅井了意)などがある。
近世小説の流れ
| 時代 |
室町末〜17世紀 |
18世紀 |
19世紀 |
| 草子・読本系 |
仮名草子(浅井了意) |
浮世草子(井原西鶴・江島其磧)→前期読本(上田秋成) |
後期読本(曲亭馬琴) |
| 草双紙系 |
赤本(草双紙) |
黒本・青本→黄表紙(恋川春町・山東京伝) |
合巻(柳亭種彦) |
| 洒落本・人情本系 |
— |
洒落本(山東京伝) |
人情本(為永春水) |
| 滑稽本系 |
— |
滑稽本(十返舎一九・式亭三馬) |
●『浮世物語』(浅井了意)
世にすみては、なにはにつけても善し悪しなり。面白く、一寸さきは闇なり。なにはにつけても、当座当座に遣らして、月・雪・花・紅葉にうちむかひ、歌詠みてなぐさみ、手前のすり切れも苦にならず、沈み入らず(=深く思ひ込まず)、これを浮き世と名づくるなり。
世に生きていれば、なにごとにつけても良いことも悪いこともある。しかし面白おかしく過ごし、先のことはあまり考えず、そのつど気楽に月・雪・花・紅葉を楽しみ、歌を詠んで気晴らしをし、家計が苦しくなっても気にせず、深く思い込まないでいること—これを「浮き世」と名づける。
●作者
これらの作品の作者には、古典的教養が豊かであった公家を初めとして、武士・医師・僧侶など幅広い層の人々が含まれる。
仮名草子を民衆教化の手段として利用した僧侶や儒者、大名に仕えて話題提供を役目とした御伽衆、関ヶ原の戦いなどで禄を失った浪人、作品を職業とした俳諧師などがいた。中でも、作品の質・量両面において第一人者と目されるのは浅井了意で、怪異小説集『伽婢子』や東海道の名所案内『東海道名所記』などを残した。
浮世草子
中世には仏教的な無常観(→p.81)や厭世思想の影響を受け、現世を辛い世とみる「憂世」(→p.81)という言葉があった。しかし近世になって人々が太平の世を謳歌しはじめると、現世は「浮世」と表現されるような当代の享楽生活や好色風俗などを積極的に取り上げる写実的な風俗小説として登場した。
中世のものを完全には払拭しきれなかった過渡的な仮名草子のあとをうけて、真に近世的な小説がここに初めて成立したことになる。浮世草子は天和二年(一六八二)ごろから天明年間ごろまでの百年近くの間、京都を中心に刊行された。
西鶴の作品
大阪の富裕な町人であったといわれる井原西鶴は、大阪談林派の俳諧師として活躍し、放奇抜な俳風をもって鳴らした。師の宗因(西山宗因)没後、初めて小説に手をそめ、転合書として発表したのが『好色一代男』(→p.118)である。
『好色一代男』は、世之介という主人公の一代の好色生活を、五十あまりの年齢にわたって描いた作品で、出版されると続けて大阪と京都で版を重ねた。以後、西鶴は好色物を中心に多数の作品を発表した。
『好色一代男』は『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典をパロディ化しながら、当時の好色風俗を鋭い観察に基づいて大胆かつ清新に描いた長編小説で、好評を博した。好色物としては他に、実在の恋愛事件に取材した五つの短編集『好色五人女』や、一人の女の好色生活と転落の跡を描く『好色一代女』などがある。
町人物
西鶴は町人の経済生活にも強い関心を寄せた。どうすれば分限者(金持ち)になれるかを扱ったモデル小説『日本永代蔵』や、一年の最終日である大晦日に悪戦苦闘する中・下層の町の人々をリアルな目で見つめた『世間胸算用』などがある。
武家義理物語・雑話物
『武家義理物語』という武家物、諸国の珍談・奇談を集めた『西鶴諸国ばなし』などの雑話物が続々と出版された。また、没後の遺稿として出版された作品の中にも、放蕩の果てに零落していく町人の姿を淡々と描いた『西鶴置土産』、用済みの手紙を通じて人間の心の真実を見るという趣向をもつ『万の文反古』などの傑作がある。
表現・文体
口語文脈を基本にしながら、その中に『源氏物語』『伊勢物語』などの古典や謡曲の表現を積極的に取り込み、俗語と雅語のいりまじった一種独特の詩的散文体となっているのが西鶴の文章の特徴である。
これらは俳諧の連句的な自由な連想に基づくものといわれ、難解な面もあるが、次々と飛躍し展開していく自由闊達な文体は、人間性の解放をうたい上げる内容と照応して、みごとな効果を収めている。
【『好色一代男』巻一・冒頭】
桜も散るに人は嘆き、月は限りありて入佐山、夢介にも佐馬の国かねほる里の辺に、浮世の事を外になして、色道ふかく名古屋三左・加賀の八・夢介と七つ紋の菱を印として身も酒にひたり、などいひて、一条通り、夜更けに橋、ある時は若衆出立、姿をかかへて戻りぬ。また立髪か。
桜もすぐに散ってしまうのに人は嘆き、月は山の端に入ってしまう、はかないこの世。遊び仲間たちは七つ紋の菱を目印として群れ、色道にふけり酒に溺れ、夜ごとに一条(京の遊廓)へと繰り出し、ある時は若衆の姿に、またある時は成人男性の立髪に変えて出かけていく姿を描く。
西鶴以後—八文字屋本
西鶴の没後は、しばらくの間、西鶴の影響を受けつつも新味を見せた作者に江島其磧がいた。その一つが人間の時代物であり、一つが浮世草子に新しいジャンルを加えた「気質物」であった。気質物とは、各種の人々の気質(性格・タイプ)を描いたもので、正徳五年(一七一五)刊の『浮世親仁形気』をはじめとする「八文字屋形気」物がその代表である。
これらの作品は「八文字屋本」と呼ばれ、通俗的な娯楽小説として長く栄えたが、西鶴のような人間観察の鋭さやリアルな表現力はなく、しだいにマンネリ化していった。
ていった。ただし、その末期に、のちの読本作者となる上田秋成が才気を見せていたことも注目される。
読本
絵を主とした草双紙や浄瑠璃などの語りものに対して、文を読むことを主とした本が読本である。上方に登場し、のちに中心を江戸に移して出版された一群の本を読本という。上方を中心とした前期読本と、江戸を中心とした後期読本(江戸読本)とに分けられる。
前期読本
読本を始めたとされるのは都賀庭鐘で、知識人の間で流行していた中国の白話小説に影響された。当時の儒者や医者などの知識人が、漢語を多用した力強い文体をもつ短編の奇談小説集を発表した。都賀庭鐘の『英草紙』『繁野話』がその代表である。
国学者の手になる読本もあらわれ、建部綾足は和文体の『西山物語』を著した。そして、賀茂真淵の門人でもある上田秋成の登場によって、前期読本は完成されたのである。
上田秋成
大阪の商家の養子として育ち、のちに町医者に転業した秋成は、明和五年(一七六八)ごろに前期読本の代表作となる九編の怪異小説からなる短編集『雨月物語』を書き、安永五年(一七七六)に出版した。人間性の真実を、怪異の出現を通じてみごとに描き出している。晩年の作品には秋成の特異な歴史観の托された十編の短編からなる『春雨物語』があるが、秋成の生前には出版されなかった。
【表記・文体】和漢の古典を利用し、緊密に練り上げられた文章である。和漢混交文を基本として力強くも物さびた趣をもつその文体は、『雨月物語』のテーマである怪異の出現を効果的に準備する役割を果たしている。
【『雨月物語』「浅茅が宿」より】
壁には蔦かつら這ひかかり、庭は篠のうづ茂れば、秋にはならぬ野らとなりにけり。……(中略)……妻はすでに死にたるものを、かく野らなる宿となりたれば、怪しき鬼の化してありし形を見せつるにてあるべき。
壁には蔦や葛が這い上り、庭は篠竹が生い茂って、秋でもないのに野原のようになってしまった。……(中略)……妻はすでに死んでいたものを、こんなに荒れ果てた宿となったゆえに、怪しい鬼が化けて、その姿を見せたのであろう。
後期読本
十九世紀にかかるころから、読本出版の中心は上方から江戸へ移った。その後期読本の基礎を築いたのが山東京伝である。京伝は洒落本や黄表紙などでもすでに売れっ子作者であったが、寛政の改革の出版取締り以後、読本に進出し、後期読本の先駆けとなった。
曲亭馬琴
京伝のあとを追い、ついには京伝を追い越して後期読本の代表作者となったのが曲亭馬琴である。その馬琴が二十八年にわたって執筆し、精力を傾けて完成したのが、九十六巻百六冊から成る一大長編小説『南総里見八犬伝』(文化十一年〜天保十三年)である。馬琴の他の作品には、三大奇書のひとつといわれる『椿説弓張月』などがある。
《作風》
馬琴の読本の特徴は、その雄大緻密な構想を支えるために、勧善懲悪や因果応報という思想を駆使したところにある。また、作品を合理的に組み立てようとした馬琴は、中国の小説の「種史七法則」と呼ばれる独自の小説理論を『八犬伝』の創作過程の中から確立していった。
【『南総里見八犬伝』二輯・巻二より】
主従は今更に、姫の自殺を禁めあへず、我にもあらで蒼天を、うち仰ぎつつ目も黒白に、あれよあれよ、と見る程に、颯と音し来る山おろしの、風のまに霊光は、八方に散り昇る。当に是数年の後、東の山の端に、夕月が現れて、遂に里見の家に集まふ、萌芽はここに開示されたというべき。
主従は今となっては姫の自殺を止めることもできず、我を忘れて空を仰ぎ、驚きながらあれよあれよと見ているうちに、颯と山から吹き下ろす風に乗ってきた霊光が八方に散り昇った。それが数年の後、八犬士が夕月と共に現れて里見の家に集まる物語の萌芽がここに開示されている。
洒落本
洒落本は、遊里を素材に、客と遊女との遊びのさまや、遊里風俗を穿つのを主眼とした文学である。宝暦年間(一七五一〜一七六四)ごろ、漢学知識人の手になる漢文体の狂文として発生したが、のちに会話体の洗練された精緻な描写力をもつ洒落本の定型が確立された。田舎老人多田爺の『遊子方言』によって洒落本の形式が整い、山東京伝の『通言総籬』『傾城買四十八手』などの傑作が生まれた。しかし、寛政の改革で作品が処罰されたこともあり、以後、洒落本は衰えていった。
滑稽本
滑稽本とは笑いを目的とした小説であるが、宝暦年間に発生した談義本系統のものを前期滑稽本といい、刊された『東海道中膝栗毛』以後を後期滑稽本という。
前期滑稽本
『下手談義』(宝暦三年刊)が先駆けとなった。風来山人の『風流志道軒伝』は、奇抜な構想と奔放な文体をもつ出色の作品で、教訓性や風刺を伴った前期作品の典型である。また、静観房好阿の『当世』なども前期の代表作とされ、痛烈な世相風刺を展開した。
後期滑稽本
後期滑稽本は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(享和二年・一八〇二刊)の出版をもって始まりとする。
▼『東海道中膝栗毛』
享和二年(一八〇二)〜文政五年(一八二二)刊。東海道の旅が十二編あり(宮嶋参詣・木曽街道などの旅も舞台となっている)。
て示すために、わざわざ工夫して考え出した表記法である。こうした三馬の姿勢には、落語や浮世物真似などという当時の話芸の影響が大きいといわれる。
『浮世風呂』二編・巻之上
〔トよぶ〕(風呂の内よりきたり)(八歳ばかりの女の子、門口の障子を明けて)おとつさん、
馬 なんだお馬? 何しに来た
辰 あのう、早うお帰りとおいうせへ
馬 おつかさんが、お客があるから、あのう、早うお帰りと
辰 アイく、今お帰りますあのう
馬 何とぞ今お帰りと。うるせへのう
辰 何処へも道よりをせずに、たたかいま直にお迎えびおあがりと。うるせへのう
馬 けふはね、お手習に行ったじゃあんへか。何でお帰りだ
辰 清書双紙を取りに
人情本
人情本は、後期読本から構成の方法を、洒落本から写実的な風俗描写や会話表現を取り入れて成立したとされる恋愛小説である。男と数人の女性との間の恋愛関係を、遊里に限定せず、情緒的な雰囲気の中で描く。代表的な作者として為永春水がいる。『春色梅児誉美』などの作品があるが、天保の改革で春水が風俗を乱したとして処罰され、その翌年に没したため、以後人情本は衰退した。しかし明治時代の恋愛小説に大きな影響を残した。
▼『春色梅児誉美』
天保三年(一八三二)〜天保四年(一八三三)刊。丹次郎の許嫁・深川芸者の米八、丹次郎の愛人・深川芸者の仇吉など三人の女性が、お家騒動の枠組みの中で描かれる。
草双紙
延宝年間(一六七三〜一六八一)ごろから登場した絵本を草双紙と呼ぶ。時期によって装訂や内容が変化した。赤本は子供むきの『舌切雀』『猿蟹合戦』などの民話・童話が多く、黒本・青本は演劇の粗筋を紹介するなど、よりに大人向きに創作味を加えたものへと変化した。
黄表紙
安永四年(一七七五)の恋川春町の『金々先生栄花夢』以後を黄表紙という。当世の風俗を写実的に描いたこの作品によって、草双紙は真に大人のための絵本へと変身したのである。画と文が相補いつつ巧をこらすようになり、山東京伝の『江戸生艶気樺焼』や芝全交の『大悲千禄本』などが生まれた。しかし寛政の改革を素材にした黄表紙本が干渉を受けて後退し、道徳的な心学物や敵討物へと移っていった。
合巻
敵討物の流行によって長編化したため、何冊かを合冊した草双紙の作品とされる。式亭三馬の『雷太郎強悪物語』が、黄表紙から合巻への橋渡しをしたとされる。代表は柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』で、将軍家斉の大奥生活をとり扱ったとされる。天保の改革において処罰されたが、合巻はいよいよ長編化し、明治初期まで大衆むけの読み物として量産された。
俳諧
俳諧とは「俳諧の連歌」の略称であることからもわかるように、中世に連歌の中でさかえた連歌から派生した。即興と機知をもとにした自由で民衆的な俳諧の連歌が、和歌的情趣をもとにした貴族的な連歌から独立したのである。「俳諧」という言葉は、もともと滑稽を意味するものであったように、室町時代末の山崎宗鑑・荒木田守武などによる当初の俳諧は、奔放な荒削りな滑稽をその生命としていた。そうした流れを受けて、近世初期の俳諧の幕あけに位置し、以後の俳諧流行の地ならしをしたのが松永貞徳であった。
▼俳諧の流れ
| 室町 |
江戸初期 |
中期 |
後期 |
明治 |
| 俳諧の連歌(俳諧の祖) |
貞門派 松永貞徳・保守的・微温的『御傘』 北村季吟ら |
蕉風(正風) 松尾芭蕉(俳諧を芸術として完成) 蕉門:向井去来・服部土芳ら 談林派:西山宗因 |
月並調 天明の俳諧:与謝蕪村『新花摘』『蕪村七部集』 |
俳句の革新:正岡子規 小林一茶『おらが春』 |
貞門
京都に住んだ貞徳は、はじめ連歌師で古典的教養も豊かであった。貞徳は新興の文学である俳諧に引きいられた一門を「貞門」といい、この様式の整備と確立につとめた。野々口立圃・松江重頼・安原貞室・北村季吟などを擁して全国的な大きな勢力となった。貞門は俳諧をわかりやすく解説して普及につとめ、俳諧式目書に『御傘』、俳諧集に『犬子集』がある。
たが、俳諧を和歌・連歌より一段下のものとする考えから抜け出せなかったため、俳諧の詠みぶりは奔放というよりは保守的・微温的になりがちだった。
花よりも団子やありて帰る雁 貞徳
順礼の棒ばかり行く夏野かな 重頼
これはくとばかり花の吉野山 貞室
談林
貞門が連歌に見倣うことによって俳を文学として認知させようとしたのに対し、談林は「連歌にそむく所をもって連歌の権威から徹底して自由であろうとした」とされるように、題材・用語・付句の付け方の面においても連歌の権威から自由であろうとした。西山宗因を中心とする大坂人たちの旺盛な経済力を背景にした、軽妙闊達な詠みぶりを特徴とし、延宝初年(一六七三)ごろに新たな勢力として登場した。宗因門下の西鶴や上島鬼貫などが活躍した。放埓な遊戯化を快く思わない人々もあり、西来山・池西言水・上島鬼貫などは詩としての純度の高い作品を残した。
しれぬ世や蜆湖にかかる 宗因
白魚やさなかのうごく死骸の色 西鶴
凧の糞はありけり初夜の音 言水
ぎやうず水のすて所なき虫こゑ 鬼貫
芭蕉
伊賀上野に生まれた松尾芭蕉は、藩主の一族である藤堂良忠(俳号:蝉吟)に仕え、北村季吟の門人として貞門に入った。主君の没後、芭蕉は故郷を離れ、江戸では談林の強い影響を受け、日本橋で俳諧宗匠として活動した。やがて華やかな市中での生活を嫌い、江戸の郊外深川に芭蕉庵をかまえ、風雅に沈潜するようになった。初期には談林調の遊戯的な句や漢詩文調の格調ある句を喜んだ時期もあり、晩年には『炭俵』に見られるような軽みの句を指向した。
蕉風
芭蕉の俳風は蕉風(正風)と呼ばれ、門人の去来と凡兆の編集した『猿蓑』に最も円熟した形であらわれている。蕉風を代表する美意識として〈さび〉〈しをり〉〈ほそみ〉がある。さびは句の色として、主観的・過剰な技巧を避けた境地を指す。しをりは句の繊細な余情を、ほそみはかそけき繊細さを意味し、軽みは主観的な技巧を捨て、明確に俳諧美を定義しようとした概念である。
あら何ともなやきのふは過てふくと汁 (江戸三吟)
夜の鷺虫も月下の果を穿つや (『虚栗』)
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり (『猿蓑』)
むめが香にのつとぞ日の出る山路かな (『炭俵』)
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
漂泊と紀行文
芭蕉は俳諧のあり方を模索するため旅に生き、その旅の途中、名古屋でできた『冬の日』は蕉風展開の基礎をつくった。以後、風狂精神にあふれた旅を重ねたが、最も重要な旅は元禄二年(一六八九)の奥羽・北陸地方を巡った旅で、その成果が俳文中の傑作として名高い『奥の細道』である。この後、江戸に帰った芭蕉は、帰省をかねて上方に再び旅し、大坂滞在中に五十一歳で病死した(元禄七年・一六九四)。
表現・文体
西行・宗祇や杜甫など和漢の旅の詩人の系譜につながろうとした芭蕉は、彼らの作を文章の中に組みこみ、独自の詩嘆的な文章を作りあげた。したがって紀行文といっても旅の忠実な記録ではなく、大幅な虚構のあることが指摘されている。
『奥の細道』冒頭
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいつのころか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、……
月日は永遠の旅人であり、旧年が去って新年が来るというのも旅のようなものだ。船の上で一生を送る船頭や、毎日馬の世話をしながら老いていく馬方も、日々旅の中に住んでいる旅人だ。昔の人にも旅の中に死んだ人は多い。私もいつのころから、一片のちぎれ雲が風にさそわれるように、漂泊の思いが止まなくなり……
蕉門の俳人
芭蕉の門下を蕉門といい、芭蕉没後、それぞれの資質に応じた活動をした。向井去来は『去来抄』を、服部土芳は『三冊子』を著して蕉風の俳論を伝えた。蕉門の最古参宝井其角は潤達洒脱な句風を好み、都会的な洗練された江戸座の俳諧の極致とも評された。美濃では美濃派と呼ばれた各地方の俳諧の祖となって俳諧を広めていった。
あき風やしら木の弓に弦はらん 去来
歌書よりも軍書にかなし芳野山 其角
天明の俳諧
芭蕉没後の俳諧は、大衆化と同時に卑俗化の道を歩み、文学としての性を失っていった。天明年間(一七八一〜一七八九)、いわゆる俳諧中興の時代に、京都の与謝蕪村がこの傾向に歯止めをかけようとする離俗論を唱え、浪漫的な古典趣味の作を生み出した。また、俳文表現の極致とも評される尾張の横井也有の『鶴衣』が著された。
また、『春風馬堤曲』や「北寿老仙をいたむ」は抒情にあふれる一種の長編自由詩で、近代の詩人たちの評価が高い。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 蕪村
行く程に都の塔も秋の空 蕪村
五月雨やあの夜ひそかに松の月 太祇
はつしもや飯の湯あつき朝日和 蓼太
幕末の俳諧
中興の諸家が相次いで芭蕉は権威化され、同時に低俗化も進行した。化政期(一八〇〇〜一八三〇)ごろから、懸賞を出す月並俳諧が流行しはじめ、千編一律の月並調に伴った遊戯的な俳諧が量産された。明治になって正岡子規に「天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず」と非難されるような状態となった。
小林一茶
家庭的に恵まれなかった一茶は、若くして江戸に出、奉公の傍ら俳諧を学び、西国を行脚したのち、晩年故郷の信州(長野)に定住した。一茶の作品には、生活の苦労や生涯失うことのなかった農民性に根ざした個性的な句が多く、句集『おらが春』は名高い。
なかくに人と生まれて秋の暮
これがまあつひの栖か雪五尺
痩せ蛙負けるな一茶是にあり
川柳・狂歌
俳諧と並行して、庶民の間には、より遊戯的な雑体の俳諧が流行した。雑俳にはさまざまな形式のものがあったが、最も喜ばれたのが前句付という形式であった。江戸の柄井川柳は、前句付の点者として宝暦年間にデビューし、優秀な前句付の付句を『川柳評万句合』と題して編集・出版した。前句がなくても意味のわかる面白い付句のみを本屋が選んで出版したのが『柳多留』である。これ以後、点者の名前の川柳にちなんで、前句付から独立した付句を「川柳」と呼ぶようになった。
川柳は、俳諧の発句のような季語や切れ字も必要なく、江戸市民の風俗や世相や人情の機微を巧みに観察・皮肉した形式として流行した。しかし寛政の改革以後、しだいに観察や皮肉の鋭さがなくなりマンネリ化していった。
役人の子はにぎにぎをよく覚え
居候いつもせんべいかしは餅
雨宿りちょっくと出ては濡れてみる
狂歌
狂歌とは、狂体の和歌の意であり、和歌の形式に滑稽な内容を詠みこんだものである。『万葉集』に戯笑歌があり、『古今集』にもこの種の歌は存在し続けてきたが、近世になって一つの独立したジャンルとして俳諧とともに流行した。
上方狂歌
真門の俳諧師などによって俳諧とともに上方で古今の俳歌を集めた『古今夷曲集』(寛文年刊)などで狂歌も詠まれていたが、大坂の永田貞柳の登場によって上方狂歌は全盛期を迎え、浪花ぶりを提唱する専門の狂歌師も生まれた。
天明狂歌
江戸での天明狂歌は、唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)・朱楽菅江などを中心に、鋭い機知と軽妙洒脱な作風を特徴とした。天明三年(一七八三)に『万載狂歌集』が出版されて全盛期を迎えた。文化・文政期には都部真顔や宿屋飯盛などが活躍したが、天明の趣は失われていった。
世の中にたえて女のなかりせばをとの心のとけかからまし 四方赤良
歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してたまるものかは 四方赤良
芸能
浄瑠璃
室町後期に、牛若丸(源義経)と浄瑠璃姫との「物語」が盲目の法師などによって、扇拍子や琵琶の伴奏で語られていたが、その語り口が後に一般化して、浄瑠璃と呼ばれるようになった。
●古浄瑠璃 語り物としての浄瑠璃に、琉球渡来の三味線が結合して、近世初期に人形浄瑠璃が成立した。ふつう、義太夫節以前のものを古浄瑠璃とよび、以後のものを新浄瑠璃とよぶ。古浄瑠璃にはさまざまな流派があったが、土地柄により、江戸では勇壮な金平節が流行し、京都では優美な姫との恋を扱う浄瑠璃が流行し、大坂では宇治加賀掾の嘉太夫節がもてはやされた。
●義太夫節 宇治加賀掾の門人であった竹本義太夫は、貞享元年(一六八四)に道頓堀に竹本座を設けて浄瑠璃界を制覇し、作者に近松門左衛門を迎えて人気を博した。
近松門左衛門
竹本座の座付作者となった近松は、貞享三年(一六八六)以後、浄瑠璃の傑作を数多く生んだ。近松の作品は、〈時代物〉と〈世話物〉の二つに分けることができる。時代物は演劇化をおし進める作品で、歴史上の事件・伝説に取材した時代劇であり、初演の代表作は『出世景清』である。
『出世景清』のほか、『国性爺合戦』などがある。
●〈世話物〉
世話物とは、当時実際に起こった事件などを脚色した現代物で、元禄十六年(一七〇三)に『曾根崎心中』を上演して以後、『冥途の飛脚』『心中天の網島』『女殺油地獄』などを書いた。これらは、義理と人情の葛藤を描いて高く評価されている。こうした近松の浄瑠璃観は、穗積以貫の『難波土産』に虚実皮膜論として説かれている。
●〈表現・文体〉
次に挙げるのは、『曾根崎心中』の「道行」である。その主人公お初と徳兵衛が心に向かい合う道行の冒頭部で、流れるような七五調の美文に叙景と抒情が一体となって盛りこまれ、見る者・聞く者を陶然とさせる魅力を備えた名文となっている。
この世の名残、夜も名残。死に行く身をたとへば、あだし野の道の霞。一足づつに消えて行く、夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴り、残る一つが今生の、鐘の響の聞きをさめ、寂滅為楽と響なり。
〔口語訳〕この世に別れを告げることになり、夜もまた名残おしい。死に行く身を例えていえば、あだし野の道の霞のようなもの。一歩ずつ消えて行く夢のようで、ああ、なんとはかないことか。数えてみれば夜が明けようとする暁の七つ時の鐘が六つ鳴り、残る一つが今生の鐘の聞き納め、「死ねば安楽」と響鐘の音。
●全盛と不振
近松の提携した竹本座に遅れて、同じ道頓堀に豊竹座が開かれた。以後、この竹本・豊竹の二座が競い合って、近松が座付作者となって活躍した。
享保中期から宝暦の初めにかけて人形浄瑠璃は全盛期を迎えた。近松没後の竹本座の座元であった二世竹田出雲や豊竹座の並木宗輔らが活躍した。彼らの合作による『菅原伝授手習鑑』(延享三年初演)・『義経千本桜』(延享四年初演)・『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年初演)などの名作が生まれた。しかし、十八世紀後半には不振期に入り、明和年間には豊竹座も廃座となった。
歌舞伎
「歌舞伎」という言葉は、異様な身なりをして常識はずれの行動をするという意味の「かぶく(傾く)」という動詞の連用形が名詞化したもので、自由奔放な時代精神を背景にして発生したのである。
●出雲の阿国 慶長の初め、出雲大社の巫女という阿国が、京都で「かぶき踊り」を踊ったのが歌舞伎の始まりという。阿国は胸に十字架、腰に瓢箪をつけて京都で踊ったとされる。
●阿国歌舞伎 幕府の禁止にあい、次で各地に女歌舞伎が生まれたが、承応元年(一六五二)に幕府が禁止した。その後、少年の役者による若衆歌舞伎が生まれたが、これも同じ理由で禁止された。この後、成人の男の役者による野郎歌舞伎になり、容貌の魅力から芸の力によって観客をひきつけるという点で、しだいに芸能として成立していった。
●元禄歌舞伎 上方では元禄期になると歌舞伎は急速に発展し、劇として内実を備えるようになった。和事の坂田藤十郎が活躍し、近松門左衛門は藤十郎のために脚本を書いた。江戸でもまた、荒事の初代市川団十郎が活躍し、しだいに自由奔放な時代精神を反映した芸能として確立していった。
- 語注
- *和事・荒事 「和事」は、歌舞伎で男女の恋愛場面などを演じる演技・演出。「荒事」は武人や鬼神などの豪快な場面の演技。
団十郎や和事の中村七三郎などの名優があらわれ、人気を博した。しだいに脚本も整備されはじめ、歌舞伎にも演劇的な展開が持ちこまれはじめた。複雑な筋の展開や人間性を描くという点が注目されはじめた。
●浄瑠璃との交流
近松・海音の登場によって、浄瑠璃は歌舞伎よりも一歩先んじていた。そのため、歌舞伎は全盛期を迎えた浄瑠璃に圧倒された。しかし、十八世紀後半、浄瑠璃が不振期に入ると、再び歌舞伎復興の時期が到来した。大坂の歌舞伎作者並木正三は、浄瑠璃作品の影響をうけて歌舞伎に複雑な筋をもちこみ、大道具や舞台装置を改良し、観客の期待にこたえた。
●江戸歌舞伎
並木正三門下の並木五瓶は、正三のあとをうけて上方歌舞伎作者の第一人者になったが、寛政六年(一七九四)に江戸に下り、上方の写実的な作風を持ちこんだ。石川五右衛門を主役とする『金門五山桐』などの傑作がある。江戸生粋の作者桜田治助も活躍した。
●鶴屋南北
文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)は江戸歌舞伎の爛熟期で、この時期を代表する作者が四世鶴屋南北である。上方の写実的な作風をうけて、生世話物と呼ばれ、封建社会の底辺に生きる人々を描いた奇抜な趣向の作品で知られる。代表作に『東海道四谷怪談』がある。
退廃と悪の色彩の濃厚な作品は、文化・文政期の世相を反映して好評をもって迎えられた。
●河竹黙阿弥
南北没後、あとに続く作者がなく、一時江戸の歌舞伎界は沈滞したが、幕末の安政ごろから明治にかけて、河竹黙阿弥が活躍し、江戸歌舞伎の最後の花を咲かせた。盗賊を題材とした白浪物を得意とし、『青砥稿花紅彩画』などの作品がよく知られている。文体は、七五調の流麗なせりふがリズミカルに長く連なる阿弥調と呼ばれ、この音楽性が観客を魅了した。
『三人吉三廓初買』二幕目
お嬢「月も朧に白魚の篝も霞春の空、つめてえ風もほろ酔に心持好く浮かと浮か〔略〕ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落し、豆沢山に〔略〕こいつあ春から縁起がいいわえ。」
歌謡
近世初頭には、一節切を伴奏にした隆達が流行したが、近世歌謡は三味線と結びつくことで浄瑠璃・歌舞伎と深くかかわりながら展開してきた。近世前期では、『松の葉』に集大成されているように隆達小歌が前代に続いて流行した。遊里の展開とともに上方では豊後節が生まれ、その分派である常盤津節・清元節などが相次いで派生し隆盛を誇った。
- 語注
- *白浪物 盗賊を主人公とする歌舞伎狂言を総称して白浪物という。盗賊を「白浪」と呼ぶことから。
- *生世話物 歌舞伎世話物のうち、写実的傾向の強いもの。
これらの遊里歌謡の系統と劇場歌謡の系統との交流がさかんになり、さまざまな曲節があらわれて庶民に愛唱された。また後期には、民謡が都会に広がり、全国的な流行歌となっていった。
話芸
江戸時代には、話芸によって人々に娯楽を提供する文学を舌耕文芸と呼ぶ。話芸には大きく分けて二つの系統がある。一つは、現在の講談に通じる課釈・談義の系統で、もう一つは、現在の落語に通じる笑話・落し咄の系統である。
笑話
近世初期には貴人の徒然を慰めるための談笑であったが、町人階級が台頭するにつれて出版されるようになった。元禄期になると鹿野武左衛門らが活躍し、江戸では仕形咄や手まねで話術を磨く話家が輩出した。こうした笑話は軽口本と呼ばれ、『鹿の巻筆』や『露がはなし』などが出版された。明和・安永ごろになると、江戸の狂歌師を中心に簡潔で洒脱な軽口本が流行した。その中から職業的な落語家が輩出し、烏亭焉馬を中心に咄の会を開くようになった。幕末には、この口演が盛んになった。
講釈
近世以前から行われていたというが、近世になって街頭での民衆相手の辻講師が登場し、話に工夫をこらして寄席で演ずるようになった。素材は太平記読み(p.82)をはじめとし、当時評判の仇討ちやお家騒動など、いわゆる実録体小説が取り上げられるようになった。
- 語注
- *舌耕 僧侶買経の故事により、舌で田畑を耕して生活するのではなく、舌で生計を得るの意。
和歌・漢詩文
和歌と国学
近世初期の歌壇は、中世以来の伝統的な歌学を継承する、いわゆる堂上歌人(公卿の歌人)が中心であった。中院通勝・三条西実枝に古今伝授をうけて歌壇に重きをなした細川幽斎は、烏丸光広・松永貞徳など多くの歌人を育てた。この期の歌人として異彩を放つのは木下長嘯子で、自由で清新な歌を詠んだ。
里は荒れて燕並びし梁の古巣さやかに照らす月影 木下長嘯子
●元禄の和歌革新と古典研究
元禄期になると、地下(位階や官職のない人)の歌人たちの間から、和歌を伝統的な権威から解放しようとする和歌革新の動きが活発になった。江戸の戸田茂睡は堂上歌学を痛烈に批判し、武士をやめ隠士として大坂に住んでいた下河辺長流は、『梨本集』を著し万葉集研究の糸口をひらいた。長流の親友であった僧契沖は、長流の研究を受けつぎ、文献学的・実証的な古典研究の方法を確立した。『万葉代匠記』を著し、史的かなづかいの確立においても大きな功績を残した。また『和字正濫鈔』もその仕事として知られる。
国学の流れ
| 契沖 | 『万葉代匠記』『和字正濫鈔』 |
| 荷田春満 | 歌集『春満集』、国学の確立 |
| 賀茂真淵 | 『万葉考』、「まつらをぶり」を提唱 |
| 本居宣長 | 『古事記伝』『源氏物語玉の小楠』、「もののあはれ」を提唱 |
| 平田篤胤 | 復古神道を提唱 |
●国学の成立
京都伏見稲荷の神官の荷田春満は、契沖の学問の精神の影響を受け、古典研究を通じて儒教や仏教が渡来する以前の古代日本の精神を明らかにしようと考えた。これが国学である。この国学は、春満の門人賀茂真淵によって確立された。真淵はとくに「まつらをぶり」という万葉調の歌風を提唱した。一門には伊勢松坂の田安宗武・加藤千蔭・村田春海などの歌人がいた。
本居宣長
宣長は真淵の門に入り、真淵の国学研究を徹底深化させた。とくに「古事記」研究に力を尽くし、三十余年をかけて『古事記伝』を完成した。また王朝文学を好んだ宣長は、『源氏物語玉の小楠』を著し、物語の本質を「もの の あはれ」(→ p.50)と捉えた。一門を鈴屋派というが、古代精神・日本精神追求の実証研究の方向は平田篤胤に継承・伴信友らにうけつがれていった。
秋の夜のほがらくと天の原照る月影に雁なきわたる 賀茂真淵
p133
隅田川堤にたちて船までは水上遠く鳴くほとときす(加藤千蔭)
とまり舟苔のしずくの音絶えて夜半のしぐれを山ざくら花(村田春海)
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山ざくら花(本居宣長)
●蘆庵と景樹
近世後期になると、堂上派の勢力の強い京都でも、和歌革新の動きが起こった。小沢蘆庵は、『古今集』をもとに「ただごと歌」を唱え、続いて香川景樹は「しらべの説」を主張し、実情を天地自明に詠もうとした。景樹の一門を桂園派といい、熊谷直好らが大勢力となった。
●幕末の歌人
県門や桂園の流れとは別に、幕末には各地に個性的な歌人が輩出した。天真爛漫な歌を詠んだ越後の良寛、奔放な恋の歌に特色ある橘曙覧、その時代の特色をみせる備前の平賀元義、夫との別離ののちは仏門に入り陶器をひさいで清純な歌を詠んだ大田垣蓮月など、各地に個性的にすぐれた歌人が見られる。
子供らと手毬つきつつこの里に遊ぶ春日は暮れずともよし
楽しみは稀に魚煮て児等がうまし言ひて食ふ時
妹と出でて若菜つみにし岡崎の垣根こひしき春雨ぞ降る
漢詩文と儒学
●初期の漢詩文と朱子学
江戸幕府は封建制を支える思想として、儒学の中でも道徳を重んじる朱子学を官学に採用し、家康は朱子学者林羅山を召しかかえた。道徳の実践を重んじる学風では、漢詩文は儒者の余技にすぎなかったが、時代が進むにつれて朱子学者の中から文学をよくする者があらわれ、木下順庵門下の新井白石・室鳩巣などすぐれた文学を残した。とくに白石には「折たく柴の記」という興味深い自伝がある。また初期においては、もと武士ながら隠遁した石川丈山や、僧侶となった元政のような、儒者以外の詩人の作品も注目される。
●古学の流行と文人の登場
元禄期になると、京都では町人出身の儒者伊藤仁斎が、人間への愛を説く古義学を唱えた。江戸では少し遅れて荻生徂徠が、儒学を政治・制度の学としてとらえ直し、「論語」など儒教の書物を思想の根本に置くことを主張した(古文辞学)。これらは古学と総称され、一世を風靡し、国学の成立にも刺激を与えた。古学派は人情を重んじ、文学に道徳とは別の価値を認めた。
p135
徂徠門の服部南郭はその代表者である。このような格調を重んじる詩風を格調派と呼んだ。
(題)夜 黒水(=隅田川)を下る
山暗し江口に月浮かぶ、金龍流れ揺らぐ
扇舟住まらず水の如く、両岸の秋風一洲を下る
●清新の詩の大衆化
十八世紀の後半になると、唐詩の模倣にあきたりない傾向が顕著になった。文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)には、自己の真情を率直・平易に表現しようとする性霊派の動きが完全に定着し、漢詩人口が急激に増加した。都市だけでなく地方にも大きく広がり、多数の漢詩集が出版された。柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山などがおり、市河寛斎のひきいた江湖詩社に属した詩人が地方を遊歴して新しい詩風を広めた。
●個性的な詩人たち
地方では、備後の菅茶山や豊後の広瀬淡窓などが、塾を開きながら田園生活を詠んだすぐれた作を残した。頼山陽は広島藩の朱子学者頼春水の子だが、京都に出て詩人・文人として活躍し、歴史を生き生きと描いた「日本外史」(文政年間成立)を著した。幕末に江戸で玉池吟社を開いた梁川星巌は、幕末・維新の志士を鼓舞した詩人で、星巌の妻紅蘭は優秀な女流漢詩人として活躍した。
●狂詩の流行
和歌には狂歌、俳諧には川柳があるように、漢詩には狂詩がある。滑稽な内容を詠んだり皮肉をこんだりする狂詩が漢詩の形式によって流行した。江戸の寝惚先生こと大田南畝や、京都の銅脈先生こと畠中観斎の「太平楽府」が名高い。
近世文学のポイント・チェック
仮名草子
江戸初期に進歩した木版印刷によって普及した。
- 〔竹斎〕(富山道冶)・〔可笑記〕(如儡子)・伊曾保物語
- 伽婢子(浅井了意)・醒睡笑(安楽庵策伝)
浮世草子
西鶴が描写したのが始まり。
- 井原西鶴:好色物(「好色一代男」「好色一代女」)・町人物(「日本永代蔵」)・武家物(「武家義理物語」)・「西鶴諸国ばなし」
- 八文字屋本:江島其碩らが代表
読本
江戸中・後期に流行した小説。
- 前期:上田秋成「雨月物語」「春雨物語」(怪異小説集)
- 後期(善悪応報):曲亭馬琴「南総里見八犬伝」「椿説弓張月」
滑稽本
遊里の風俗を捨てた滑稽小説。
- 十返舎一九:「東海道中膝栗毛」(代表作)
- 式亭三馬:「浮世床」「浮世風呂」など
草双紙
- 「黄表紙」(大人向けの絵本)→ 山東京伝
- 「合巻」(黄表紙を合冊したもの)→ 柳亭種彦
人情本
恋愛小説。
- 為永春水:「春色梅児誉美」など
俳諧の流れ
貞門(松永貞徳)→ 談林(西山宗因)→ 蕉風(松尾芭蕉)→ 天明俳諧(与謝蕪村)→ 幕末(小林一茶)
- 松尾芭蕉:高雅な「さび」の境地を完成。俳論集「冬の日」「猿蓑」など。紀行文:「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「奥の細道」(芭蕉七部集)
- 川柳:柄井川柳が大成
- 狂歌:天明狂歌(唐衣橘洲・四方赤良・大田南畝)
芸能(浄瑠璃・歌舞伎)
- 近松門左衛門:時代物(「国性爺合戦」)・世話物(「曾根崎心中」)。虚実皮膜論(「難波土産」)
- 歌舞伎:出雲の阿国のかぶき踊りに始まる。坂田藤十郎・初代市川団十郎(元禄歌舞伎)、鶴屋南北(「東海道四谷怪談」)、河竹黙阿弥(「青砥稿花紅彩画」)
和歌・国学
- 契沖(「万葉代匠記」)→ 荷田春満→ 賀茂真淵(「万葉考」)→ 本居宣長(「古事記伝」「もののあはれ」論)→ 平田篤胤
- 幕末の歌人:良寛・橘曙覧・大田垣蓮月
漢詩文・儒学
- 朱子学:林羅山・新井白石(「折たく柴の記」)
- 古学:伊藤仁斎(古義学)・荻生徂徠(古文辞学)
- 詩の大衆化:菅茶山・広瀬淡窓・頼山陽(「日本外史」)ら