考題索引

中古ちゅうこ文学ぶんがく

源氏物語絵巻げんじものがたりえまき東屋一あずまやいち

中古ちゅうこ文学ぶんがく概観がいかん

年代ねんだいひょう平安へいあん時代 七九四〜一〇〇〇)

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
七九四平安京へいあんきょう遷都せんと
八一四ごろ凌雲集りょううんしゅう小野岑守おののみねもりら)
八一八ごろ文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐら)
八二七ごろ経国集けいこくしゅう
八六六藤原良房ふじわらのよしふさ摂政せっしょうとなる
八六三ごろ在原業平ありわらのなりひら(以後歌合うたあわせ盛んとなる)/こころから六歌仙ろっかせん活躍かつやく
八八七ごろ藤原基経ふじわらのもとつね関白かんぱく
八九四遣唐使けんとうし廃止はいし菅家文草かんけぶんそう菅原道真すがわらのみちざね
国風暗黒時代こくふうあんこくじだい
九〇〇ごろ竹取物語たけとりものがたり(このころ)
九〇五古今集こきんしゅう(このころ)
九三五ごろ土佐日記とさにっき紀貫之きのつらゆき、このころ)
九五〇ごろ後撰集ごせんしゅう大和物語やまとものがたり平中物語へいちゅうものがたり(このころ)
九七四ごろ蜻蛉日記かげろうにっき道綱の母みちつなのはは、このころ)
九九五ごろ枕草子まくらのそうし(このころ)/三宝絵さんぼうえ源為憲みなもとのためのり
一〇〇一ごろ和泉式部日記いずみしきぶにっき(このころ)/落窪物語おちくぼものがたり(このころ)

時代じだい区分くぶん

平安へいあん遷都せんと延暦えんりゃく十三年〔七九四〕)から鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ建久けんきゅう三年〔一一九二〕)のころまでやく四百年間を中古ちゅうことする。おもとして、権勢けんせい確立かくりつした藤原氏ふじわらし中心ちゅうしんとした平安京へいあんきょう貴族きぞくたちをになとする文学ぶんがくである。

平安京へいあんきょう漢文学かんぶんがく隆盛りゅうせい

平安へいあん遷都せんとは、奈良朝ならちょう末期まっき政治的せいじてき混迷こんめい克服こくふくし、律令りつりょう体制たいせいなおそうとする意欲いよくをもっていた。中国ちゅうごく文化ぶんか摂取せっしゅ模倣もほうへの意欲いよく一段いちだんつよめられた。宮廷きゅうてい風儀ふうぎ中国ちゅうごく唐風からふうしょくりつぶされた。こうしたなかで、漢詩文かんしぶん公的こうてき文学ぶんがくとして宮廷きゅうてい社会しゃかい正統的せいとうてき位置いちめるようになり、和歌わかはもっぱら私的してき衰微すいびすることとなった。漢詩文かんしぶん隆盛りゅうせいのため「国風暗黒時代こくふうあんこくじだい」とんでいる。

かなかな文字もじ発明はつめい和歌わか

世紀せいき後半こうはんになると、貴族きぞく社会しゃかいにも唐風からふう規範きはんだっしようとする気運きうんこりはじめた。一方いっぽう、かな文字もじ発明はつめいされ普及ふきゅうするようになった。和歌わか発達はったつし、かな文字もじ表記ひょうきされるようになった。貴族きぞくあいだ独自どくじ展開てんかいげ、言葉ことば連想れんそうはたらかせた縁語えんご掛詞かけことばなどの技法ぎほう発達はったつした。十世紀せいきはじめに勅撰集ちょくせんしゅう古今和歌集こきんわかしゅう)が成立せいりつした。

かな散文さんぶん展開てんかい

かな文字もじ普及ふきゅうは、日常語にちじょうごによる多様たよう自由じゆう表現ひょうげん可能かのうにした。かな文字もじによる散文さんぶん表現ひょうげんも、多様たよう文学ぶんがくとしてあらわれるようになった。民間みんかんふる伝承でんしょう歌語うたがたりを母胎ぼたいとして独自どくじ叙事じょじ世界せかい実現じつげんした虚構きょこう物語ものがたりは、そうしたあたらしい散文さんぶん表現ひょうげん所産しょさんであった。つく物語ものがたり系列けいれつには『竹取物語たけとりものがたり』『宇津保物語うつほものがたり』『落窪物語おちくぼものがたり』などが、歌物語うたものがたり系列けいれつには『伊勢物語いせものがたり』『大和物語やまとものがたり』などがある。

年代ねんだいひょう平安へいあん時代 一〇〇〇〜一二〇〇)

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
一〇〇八ごろ源氏物語げんじものがたり紫式部むらさきしきぶ、このころ)
一〇一〇ごろ紫式部日記むらさきしきぶにっき(このころ)
一〇一六藤原道長ふじわらのみちなが摂政せっしょうとなる
一〇三七ごろ和漢朗詠集わかんろうえいしゅう藤原公任ふじわらのきんとう
一〇五〇ごろ更級日記さらしなにっき菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ、このころ)
一〇六〇ごろ今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう(このころ以前いぜん)/大鏡おおかがみ(このころ)
一〇七五ごろ今鏡いまかがみ(このころ以後いご
一〇八六白河法皇しらかわほうおう院政いんせい開始かいし
一一五六保元ほうげんらん
一一五九平治へいじらん
一一六九ごろ梁塵秘抄りょうじんひしょう後白河院ごしらかわいん
一一八八ごろ千載集せんざいしゅう藤原俊成ふじわらのしゅんぜい
一一九〇ごろ山家集さんかしゅう西行さいぎょう、このころ)
一一九二鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ

女流文学じょりゅうぶんがく開花かいか

本来ほんらい漢文体かんぶんたいによる公的こうてき記録きろくであった日記にっきも、『土佐日記とさにっき』がはじめてかな文字もじもちいたことで、内省的ないせいてき表現ひょうげんがもたらされるようになった。かな文字もじ散文さんぶん方法ほうほうは、のちの女流じょりゅう日記におおきな影響えいきょうあたえることとなった。十世紀せいきまつから十一世紀せいきにかけて摂関政治せっかんせいじ全盛期ぜんせいきむかえるころ、藤原道綱ふじわらのみちつなははの『蜻蛉日記かげろうにっき』のなかに、自己じこ感慨かんがい自由じゆうにつづろうとする女流文学じょりゅうぶんがく独自どくじ方法ほうほう模索もさくされていた。こうして日記にっき和歌文学わかぶんがく統合とうごうし、壮大そうだい虚構きょこう世界せかい実現じつげんしたのが『源氏物語げんじものがたり』である。『和泉式部日記いずみしきぶにっき』『紫式部日記むらさきしきぶにっき』『更級日記さらしなにっき』などのなか女性じょせいたちのによって女流文学じょりゅうぶんがくおおきく進展しんてんし、女流文学じょりゅうぶんがく最大さいだい達成たっせい実現じつげんした。

平安末期へいあんまっき文学ぶんがく

源氏物語げんじものがたり』の出現しゅつげんは、虚構きょこう人間にんげん実相じっそうせまりうる可能性かのうせい極致きょくちしめすものであった。一方でははなやかな宮廷きゅうてい世界せかい背景はいけい独自どくじ文学ぶんがく世界せかい形象化けいしょうかしたのが『枕草子まくらのそうし』である。

源氏物語げんじものがたり』の出現後しゅつげんご物語ものがたりはしだいに衰退すいたいみちをたどるようになった。『よる寝覚ねざめ』『浜松中納言物語はままつちゅうなごんものがたり』『狭衣物語さごろもものがたり』などの長編ちょうへんや、『堤中納言物語つつみちゅうなごんものがたり』などの短編たんぺんかれたが、これをえるものはされなかった。

院政いんせいはいると、さまざまな歴史物語れきしものがたりされた。歴史物語れきしものがたり発生はっせいは、物語文学ものがたりぶんがくまりを反映はんえいしている。貴族きぞく社会しゃかいだけでなく新興しんこう武士ぶし階級かいきゅう庶民しょみん説話せつわおさめた『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』などの説話集せつわしゅうがまとめられ、『梁塵秘抄りょうじんひしょう』などの歌謡集かようしゅう編纂へんさんも、次代じだいへの文学ぶんがく胎動たいどうしめしている。

第一しょう 詩歌しいか

漢詩文かんしぶん

近江朝おうみのちょう以来の漢詩文かんしぶんたいする積極的せっきょくてき関心かんしんは、すでに奈良朝ならちょうにおいて『懐風藻かいふうそう』をしたが、平安朝へいあんちょうはいって中国文化ちゅうごくぶんか摂取せっしゅへの意欲いよく一段いちだんたかまり、九世紀せいき唐風謳歌とうふうおうか時代じだい出現しゅつげんした。律令国家体制りつりょうこっかたいせいとうのそれを範型はんけいとして整備せいびされたものである以上いじょう、こうしたなか漢詩文かんしぶん宮廷社会きゅうていしゃかいなか公的こうてき文学ぶんがくとしての地位ちいめるようになっていった。その要因よういんは、官僚貴族かんりょうきぞく立身りっしんにとって必須ひっす条件じょうけんとされたところにあるが、儒教じゅきょう王道おうどう善政ぜんせいぶんとの調和ちょうわなか理想世界りそうせかい現出げんしゅつしようとする、いわゆる文章経国思想ぶんしょうけいこくしそうもとづくものでもあった。

初期しょき公的こうてき地位ちい確立かくりつ

唐風謳歌とうふうおうか時代じだいは、一般に「国風暗黒時代こくふうあんこくじだい」としょうされている。その頂点ちょうてんともいえるのは弘仁こうにん天長てんちょう年間(八一〇〜八三〇ごろ)で、凌雲集りょううんしゅう文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう経国集けいこくしゅうみっつの勅撰漢詩集ちょくせんかんししゅうあいついで編集へんしゅうされた。これらの漢詩集かんししゅうは、中唐ちゅうとう華麗かれい詩風しふう影響えいきょういちじるしく、同時どうじにそれははなやかな宮廷きゅうてい世界せかい背景はいけい詩文しぶん宮廷きゅうてい貴族きぞく調和ちょうわなか儒教的じゅきょうてき王道おうどう立身りっしんしめしている。

凌雲集りょううんしゅう
弘仁こうにん五年(八一四)成立せいりつ。一かん嵯峨天皇さがてんのう勅命ちょくめい小野岑守おののみねもりらが撰進せんしんした、わがくに最初さいしょ勅撰詩集ちょくせんししゅう作者さくしゃべつ収録しゅうろく七言詩しちごんしおおい。ただしくは「凌雲新集りょううんしんしゅう」という。
文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう
弘仁こうにん九年(八一八)成立せいりつ。三かん嵯峨天皇さがてんのう勅命ちょくめい藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ仲雄王なかおのおう菅原清公すがわらのきよきみ滋野貞主しげののさだぬしらがせん。二十八人の百四十八しゅおさめる。
経国集けいこくしゅう
天長てんちょう四年(八二七)成立せいりつ。二十かん嵯峨天皇さがてんのう勅命ちょくめい良岑安世よしみねのやすよらがせん三勅撰漢詩集さんちょくせんかんししゅう最後さいご
平安京豊楽院跡へいあんきょうぶらくいんあと緑釉瓦りょくゆうかわら

また前代ぜんだい優勢ゆうせいであった五言詩ごごんし減少げんしょうして、七言詩しちごんしおおくなっている。作者さくしゃとしては、嵯峨天皇さがてんのう小野篁おののたかむら空海くうかい、ややおくれて都良香みやこのよしか紀長谷雄きのはせおらがいる。とくに空海くうかい詩文集しぶんしゅう性霊集しょうりょうしゅう〕、詩論書しろんしょ文鏡秘府論ぶんきょうひふろん〕、道真みちざね詩文集しぶんしゅう菅家文草かんけぶんそう〕〔菅家後集かんけごしゅう〕は、後世こうせいにもおおきな影響えいきょうあたえた。

中期以降ちゅうきいこう衰退すいたい

文章もんじょう学問がくもんは、菅原すがわら大江おおえ門閥もんばつ重視じゅうしされ、詩文しぶんさいがそのまま栄達えいたつにつながるとはいいながら、文章経国ぶんしょうけいこく理念りねんそのものが形骸化けいがいかされるようになった。平安中期以降へいあんちゅうきいこう摂関政治体制せっかんせいじたいせい確立かくりつされ、漢詩文かんしぶんそのものが衰退すいたい傾向けいこうつよめた。かな文字かなもじ発達はったつ遣唐使けんとうし廃止はいし(八九三)に象徴しょうちょうされるように、国風文化こくふうぶんかたいする自覚じかくたかめられたことで、衰退すいたいおおきな要因よういんであった。けれども、〔文選もんぜん〕〔白氏文集はくしもんじゅう〕などは、平安時代へいあんじだいつうじて王朝人おうちょうじん必須ひっす教養きょうようとして受容じゅようされたのであり、漢詩文かんしぶんも、たてまえとしては公的こうてき文学ぶんがくとしての立場たちばうしなうことはなかった。中期ちゅうき作者さくしゃとしては、源順みなもとのしたごう慶滋保胤よししげのやすたね大江匡房おおえのまさふさらがいる。藤原明衡ふじわらのあきひらへんの〔本朝文粋ほんちょうもんずい〕は、平安前期へいあんぜんき以来の主要しゅよう作者さくしゃ詩文しぶんあつめている。

和歌わか

平安初期へいあんしょきのいわゆる国風暗黒時代こくふうあんこくじだいには、公的こうてき文学ぶんがくとして衰微すいびしていた。漢詩文かんしぶん公的こうてき世界せかいでのれの確立かくりつしていくなかで、和歌わかはまったく衰微すいびしていたわけではなく、男女だんじょ恋愛生活れんあいせいかつ民謡みんよう世界せかいで、命脈めいみゃくたもっていたのである。その流伝りゅうでんのさまは、〔万葉集まんようしゅう〕の作者未詳さくしゃみしょううた、〔古今集こきんしゅう〕のびとしらずのうたなどにることができる。


古今和歌六帖こきんわかろくじょう〕のなかにたどることができる。

和歌わか復興ふっこう

国風文化こくふうぶんか再認識さいにんしき風潮ふうちょうなかで、中国文化ちゅうごくぶんか表面的ひょうめんてき模倣もほうからそうとする自覚じかくつよまるなかで、和歌わかは、やがて漢詩文かんしぶんかたならべる宮廷文学きゅうていぶんがくとして興隆こうりゅうしてくる。和歌わか復興ふっこうは、かな文字かなもじ普及ふきゅうふかいかかわりをもってくるのである。

かな文字かなもじ普及ふきゅう

国語こくご漢字かんじ表記ひょうきするひとつの方法ほうほうであった万葉がなまんようがな(→p.25)のような複雑ふくざつ漢字かんじそのものをもちいた表記ひょうきたいして、かな文字かなもじ漢字かんじ草書体そうしょたいをさらに簡略化かんりゃくかしたり(平がなひらがな)、点画てんかく省略しょうりゃくしたりして(片かなかたかな)、音節おんせつごとに文字もじくずすことができるようにしたものである。ことに平がなひらがなは、漢詩文かんしぶん教養きょうよう圏外けんがいにあった女性じょせいたちをまったく自由じゆう表現ひょうげんさせようとするねらいねらいをもっていた。漢字表記かんじひょうき拘束こうそくからまったく自由じゆうであっただけにひろ使つかわれた。

公的地位こうてきちい復活ふっかつ

こうした平がなひらがな普及ふきゅうが、社会しゃかいにも私的してき中心ちゅうしんひろがり、六歌仙ろっかせんといわれる人々ひとびと活躍かつやくて、〔在民部卿家歌合ざいみんぶきょうけうたあわせ〕・〔寛平御時后宮歌合かんぴょうのおんときのきさいのみやうたあわせ〕などの宮廷きゅうてい歌合うたあわせもよおされて、和歌わか公的こうてき文学ぶんがくとしての地位ちいふたた確立かくりつしていくのであった。

古今和歌集こきんわかしゅう

成立せいりつ内容ないよう

醍醐天皇だいごてんのう勅命ちょくめいで、延喜えんぎ五年(九〇五)成立せいりつ紀貫之きのつらゆき紀友則きのとものり凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねせん当時とうじ代表的だいひょうてき歌人かじんである紀貫之きのつらゆき四人よにんによってえらばれた、わがくに最初さいしょ勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうである。

古今集こきんしゅう〕 関係年表かんけいねんぴょう
年代ねんだい事項じこう時期じき
延暦えんりゃく十三(七九四)平安京へいあんきょう遷都せんと。〔万葉集まんようしゅう最後さいごうたのころ第一期だいいっき
弘仁こうにん五(八一四)凌雲集りょううんしゅう成立せいりつ
天安てんあん二(八五八)藤原良房ふじわらのよしふさ摂政せっしょうとなる第二期だいにき
六歌仙ろっかせん活躍かつやく
昌泰しょうたい三(九〇〇)六歌仙ろっかせん活躍かつやく
仁和にんな元(八八五)このころから紀貫之きのつらゆき撰者せんしゃ活躍時代かつやくじだい第三期だいさんき
撰者せんしゃ活躍かつやく
寛平かんぴょう元(八八九)在民部卿家歌合ざいみんぶきょうけうたあわせ
寛平かんぴょう(八九〇ごろ)寛平御時后宮歌合かんぴょうのおんときのきさいのみやうたあわせ
延喜えんぎ五(九〇五)古今和歌集こきんわかしゅう成立せいりつ

撰進せんしんされた。最初さいしょ勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうとして、以後いご勅撰集ちょくせんしゅう範型はんけいとなった。二十かんやく千百余首よしゅおさめる。かなぶんかれた〔仮名序かなじょ〕(紀貫之きのつらゆきさく)、漢文かんぶんかれた〔真名序まなじょ〕(紀淑望きのよしもちさく)がされている。とくに〔仮名序かなじょ〕は、こころことば調和ちょうわかれ、和歌わか歴史れきしをふりかえりながら、和歌わか漢詩かんし対等たいとう文学ぶんがくであることを主張しゅちょうしており、撰者せんしゃたちの自覚じかくのあることをいだすことができる。

歌風かふう変遷へんせん

宮廷社会きゅうていしゃかい作歌さっか舞台ぶたいである。表現ひょうげん繊細せんさい洗練せんれんされており、対象たいしょう即物的そくぶつてきじるのではなく、作者さくしゃ観念世界かんねんせかいなか知的ちてき技巧的ぎこうてき再構成さいこうせいしている。時間じかんながれのなかに、こまやかな言葉ことば連想れんそうはたらかせていることがおおきな特色とくしょくである。

第一期だいいっきびとしらずの時代じだい

こうした歌風かふう一時期いちじき形成けいせいされたわけではなく、大別たいべつして三期さんき展開てんかいられる。所収歌しょしゅうか制作年代せいさくねんだいやく百五十年間ねんかんにわたっており、〔古今集こきんしゅう全体ぜんたいやくわりめるびとしらずのうたは、〔万葉集まんようしゅう〕への過渡的かとてき歌風かふうで、平安初頭へいあんしょとう(八五〇ねんごろ)までの素朴そぼく五七調ごしちちょううたおおい。

かす日野がのはけふはなきそ若草わかくさの つまもこもれりわれもこもれり

びとしらず・巻一まきいち

春日野かすがの今日きょう野焼のやきをしないでください。若草わかくさの=枕詞まくらことばつまもこのかくれているし、わたしもいっしょにこもっているのだから。)

六歌仙ろっかせん

仮名序かなじょ〕に「ちかにそのきこえたるひと」としてげられた六人ろくにん歌人かじん。いずれも九世紀きゅうせいきまつひと

僧正遍昭そうじょうへんじょう
俗名ぞくみょう良岑宗貞よしみねのむねさだ弘仁こうにん七年(八一六)〜寛平かんぴょう二年(八九〇)。仁明天皇にんみょうてんのう崩御ほうぎょにあい出家しゅっけした。歌風かふう軽妙洒脱けいみょうしゃだつ。〔仮名序かなじょ〕に「たとえば、にかけるおんなて、いたずらにこころうごかすがごとし」とひょうされている。
在原業平ありわらのなりひら
天長てんちょう二年(八二五)〜元慶がんぎょう四年(八八〇)。阿保親王あぼしんのう在五中将ざいごちゅうじょうともよばれる。〔伊勢物語いせものがたり〕(→p.46)の主人公しゅじんこうともしょうされる。歌風かふう主情的しゅじょうてき。〔仮名序かなじょ〕に「そのこころあまりてことばたらず。しぼめるはないろなくしてにおのこれるがごとし」とひょうされている。
喜撰法師きせんほうし
生没年せいぼつねん伝記でんきともに未詳みしょう
大友黒主おおとものくろぬし
生没年せいぼつねん伝記でんきともに未詳みしょう
文屋康秀ふんやのやすひで
生没年せいぼつねん未詳みしょう六歌仙ろっかせん一人ひとり
小野小町おののこまち
生没年せいぼつねん未詳みしょう六歌仙ろっかせんなか唯一ゆいいつ女流歌人じょりゅうかじん技巧ぎこう駆使くししたこいうたおおい。後世こうせいさまざまなさまざまな伝説でんせつのこる。〔仮名序かなじょ〕に「そのさまさまて、まことすくなし」とひょうされている。

第二期だいにき六歌仙ろっかせん時代じだい

嘉祥かしょう三年(八五〇)から寛平かんぴょう二年(八九〇)ごろまでの六歌仙ろっかせん活躍かつやく時期じき七五調しちごちょう優勢ゆうせいになり、縁語えんご掛詞かけことばなどの表現技巧ひょうげんぎこう駆使くしして、ゆたかな情感じょうかんみこまれるようになった。〔古今集こきんしゅう〕の歌風かふうがほぼ確立かくりつした。

古今集こきんしゅう〕の歌人かじんたち その2

はないろはうつりにけりないたづらに わがにふるながめせしまに

小野小町おののこまち巻二まきに

さくらはないろは、すっかりいろあせてしまった。長雨ながめのしつづなかで、わけもなく物思ものおもいにふけっているうちに。)

つきやあらぬはるむかしはるならぬ わがひとつはもとのにして

在原業平ありわらのなりひら巻十五まきじゅうご

つきむかしのままのつきではないのか。はるむかしのままのはるでないのか。わたしだけはもとのままであるのに、こいしいひとにはえず、むかしわってしまった。)

第三期だいさんき撰者せんしゃ時代じだい

寛平かんぴょう五年(九〇五)ごろまでの撰者せんしゃたちの活躍かつやく時期じき縁語えんご掛詞かけことば比喩ひゆなどの修辞しゅうじ多用たようされ、表現技法ひょうげんぎほう一段いちだん洗練せんれんされた。〔古今集こきんしゅう歌風かふう完成期かんせいき見立みたてや擬人法ぎじんほう駆使くしされ、言葉ことば機知きちたっと観念的かんねんてき理知的りちてき傾向けいこういちじるしくなった。そのため、ときとして言葉ことば遊戯ゆうぎにおちいる場合ばあいもある。リズムはなだらかな七五調しちごちょうで、三句切さんくぎれのうたおおい。


古今集こきんしゅう〕の歌人かじんたち その3

そでひちてむすびしみずこおれるを はる今日きょうかぜやとかむ

紀貫之きのつらゆき巻一まきいち

なつのころそでぬれてぬれてですくってあそんだみずが、ふゆさむさでこおっていたのを、立春りっしゅん今日きょうかぜがとかすことだろうか。)

ひさかたひさかたひかりのどけきはるに しづごころなくはなるらむ

紀友則きのとものり巻一まきいち

ひさかたのひさかたの枕詞まくらことばひかりがのどかなはるに、どうしていたこころもなくはなるのだろうか。)

勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう展開てんかい(1)―三代集さんだいしゅう

村上天皇むらかみてんのう天暦てんりゃく五年(九五一)、宮中きゅうちゅう梨壺なしつぼ和歌所わかどころかれ、寄人よりうどとして源順みなもとのしたごう大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ清原元輔きよはらのもとすけ紀時文きのときぶみ坂上望城さかのうえのもちき五人ごにんてられ、〔万葉集まんようしゅう〕の訓読くんどくにあたった。この五人ごにんを「梨壺なしつぼ五人ごにん」という。また〔後撰和歌集ごせんわかしゅう〕を撰進せんしんした。古今集こきんしゅう後撰集ごせんしゅう拾遺集しゅういしゅう三集さんしゅうを「三代集さんだいしゅう」といい、後撰集ごせんしゅううたは「つぼ五人ごにん」の時代じだいのものが中心ちゅうしんである。

勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう展開てんかい(2)―八代集はちだいしゅう

三代集さんだいしゅう古今こきん後撰ごせん拾遺しゅうい)から〔新古今和歌集しんこきんわかしゅう〕までの八種はっしゅ勅撰集ちょくせんしゅうを「八代集はちだいしゅう」という。平安中期へいあんちゅうきはいると〔拾遺和歌集しゅういわかしゅう〕が撰進せんしんされ、〔古今集こきんしゅう〕の歌風かふう重視じゅうしされて後代こうだいおおきな影響えいきょうあたえた。〔後拾遺和歌集ごしゅういわかしゅう〕は藤原通俊ふじわらのみちとしによってえらばれ、和泉式部いずみしきぶ相模さがみ赤染衛門あかぞめえもんなどの女流歌人じょりゅうかじんうたおおおさめている。〔金葉和歌集きんようわかしゅう〕は源俊頼みなもとのとしよりえらび、当代とうだいうたおおく、〔古今集こきんしゅうふうことなる清新せいしんさがられる。連歌れんが(→p.75)もおさめられている。〔詞花和歌集しかわかしゅう〕は藤原顕輔ふじわらのあきすけえらび、全体ぜんたいとしてはおだやかな傾向けいこうたもっている。

八代集はちだいしゅう一覧いちらん
集名しゅうめい 巻数かんすう 成立せいりつ 撰進下命者せんしんかめいしゃ 撰者せんしゃ
古今こきん20 延喜えんぎ五年(九〇五) 醍醐天皇だいごてんのう 紀貫之きのつらゆき紀友則きのとものり凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみね
後撰ごせん20 天暦てんりゃく五年(九五一) 村上天皇むらかみてんのう 源順みなもとのしたごう大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ清原元輔きよはらのもとすけ紀時文きのときぶみ坂上望城さかのうえのもちき
拾遺しゅうい20 寛弘かんこう年間ねんかん(一〇〇五ごろ) 花山院かざんいん 花山院かざんいんせつ藤原公任ふじわらのきんとう
後拾遺ごしゅうい20 応徳おうとく三年(一〇八六) 白河天皇しらかわてんのう 藤原通俊ふじわらのみちとし
金葉きんよう10 大治だいじ年間ねんかん(一一二七ごろ) 白河院しらかわいん 源俊頼みなもとのとしより
詞花しか10 仁平にんぺい年間ねんかん(一一五一ごろ) 崇徳院すとくいん 藤原顕輔ふじわらのあきすけ
千載せんざい20 文治ぶんじ四年(一一八八) 後白河院ごしらかわいん 藤原俊成ふじわらのとしなり
新古今しんこきん20 元久げんきゅう二年(一二〇五) 後鳥羽院ごとばいん 藤原定家ふじわらのさだいえ藤原有家ふじわらのありいえ藤原雅経ふじわらのまさつね源通具みなもとのみちとも寂蓮じゃくれんつぎ

源平げんぺい争乱そうらんをはさんで、文治ぶんじ四年(一一八八)、藤原俊成ふじわらのとしなりによってえらばれた〔千載せんざい〕は、〔新古今集しんこきんしゅう〕(→p.70)を方向ほうこうとして反映はんえいして、余情よじょう幽玄ゆうげん世界せかい理想りそうとする撰者せんしゃ傾向けいこう反映はんえいして、優美ゆうびじょうあふれるうたおおおさめられている。

●〔古今集こきんしゅう歌人かじん私家集しかしゅう

みぎべた〔古今集こきんしゅう以下いか七つの勅撰集ちょくせんしゅうに、次代じだいの〔新古今集しんこきんしゅう〕(→p.70)をくわえて〈八代集はちだいしゅう〉という。藤原公任ふじわらのきんとう曾禰好忠そねのよしただ和泉式部いずみしきぶらがいる。公任きんとう歌壇かだん指導者しどうしゃとして、こころことば調和ちょうわある姿すがた重視じゅうしした。好忠よしただ和泉式部いずみしきぶ個性こせいあるみぶりで異彩いさいはなっている。好忠よしただ家集かしゅう曾丹集そうたんしゅう〕・和泉式部いずみしきぶ家集かしゅう和泉式部集いずみしきぶしゅう〕がある。〔後拾遺集ごしゅういしゅう時代じだい源経信みなもとのつねのぶ、〔金葉集きんようしゅう撰者せんしゃ源俊頼みなもとのとしよりもすぐれた歌人かじんである。俊頼としより経信つねのぶで、題材だいざい表現ひょうげん自由じゆう新風しんぷう樹立じゅりつした。家集かしゅう散木奇歌集さんぼくきかしゅう〕がある。平安末期へいあんまっき歌人かじんには、藤原俊成ふじわらのとしなり西行さいぎょうらがいる。俊成としなり家集かしゅう長秋詠藻ちょうしゅうえいそう〕、歌論かろん古来風体抄こらいふうたいしょう〕がある。西行さいぎょう出家しゅっけして諸国しょこく遍歴へんれきし、自然しぜんしたしむなか独自どくじふか境地きょうちひらいた。家集かしゅう山家集さんかしゅう〕がある。

古今集こきんしゅう歌人かじんたち

けやけ よもぎむらしげききりぎりすきりぎりす あきはげにぞかなしき

曾禰好忠そねのよしただ

けよ、け。よもぎのくさむらのなかくこおろぎよ。あきはほんとうにかなしいものだ。)


つれづれつれづれそららるるおもひと てんくだりむものならなくに

和泉式部いずみしきぶ後拾遺集ごしゅういしゅう

(ぼんやりとそらながめられることだ。こいしいひとてんからくだってきてくれるわけでもないのに。)

③うずら真野まの浜風はまかぜに よるあきゆうぐれ

源俊頼みなもとのとしより・〔金葉集きんようしゅう〕)

(うずらが真野まの浜風はまかぜに、せてくるようなあき夕暮ゆうぐれよ。)

ゆうされば野辺のべ秋風あきかぜにしみて うずら深草ふかくささと

藤原俊成ふじわらのとしなり・〔千載集せんざいしゅう〕)

夕暮ゆうぐれになると、野辺のべ秋風あきかぜにしみて、うずらのくこの深草ふかくささとかなしさよ。)

こころなきにもあはれはられけり しぎさわあき夕暮ゆうぐ

西行さいぎょう・〔山家集さんかしゅう〕)

なかのことにわずらわされない出家しゅっけ自分じぶんにも、しぎさわあき夕暮ゆうぐれの景色けしきは、しみじみとあわれにかんじられることだ。)

歌合うたあわせ歌論かろん

歌合うたあわせは、九世紀きゅうせいきなかごろからはじまったが、当初とうしょ社交遊戯的しゃこうゆうぎてき性格せいかくしゅとするものであった。しかし、〔天徳内裏歌合てんとくだいりうたあわせ〕(九六〇)のころから文学的色彩ぶんがくてきしきさいつよめ、その判詞はんし歌論かろんむすびつくようになっていった。歌論かろん先駆せんくは、すでに〔古今集こきんしゅう仮名序かなじょなかいだすことができるが、以後いご歌合うたあわせ隆盛りゅうせいともなって、藤原公任ふじわらのきんとうの〔新撰髄脳しんせんずいのう〕、壬生忠岑みぶのただみねの〔和歌体十種わかたいじっしゅ〕、源俊頼みなもとのとしよりの〔俊頼髄脳としよりずいのう〕、藤原俊成ふじわらのとしなりの〔古来風体抄こらいふうたいしょう〕などの歌論かろんかれた。いずれも実作じっさくそくしながら、和歌わか本質ほんしつ理念りねんおよんでいる。

平安時代へいあんじだいおも歌合うたあわせ

歌合うたあわせ年代ねんだい備考びこう
在民部卿家歌合ざいみんぶきょうけうたあわせ仁和にんな元年(八八五)ごろ現存げんそんする最古さいこのもの
寛平御時后宮歌合かんぴょうのおんときのきさいのみやうたあわせ寛平かんぴょう五年(八八九)以前いぜん
亭子院歌合ていじいんうたあわせ延喜えんぎ十三年(九一三)宇多法皇うだほうおう亭子院ていじいんおこなわれた。現存げんそん最古さいこ判詞はんし
天徳内裏歌合てんとくだいりうたあわせ天徳てんとく四年(九六〇)宮中きゅうちゅう清涼院せいりょういんおこなわれた。判詞はんし完成かんせい

物語ものがたり

物語ものがたり誕生たんじょう

古代こだいのさまざまな神話しんわ伝説でんせつは、〔古事記こじき〕にりこまれ、おおやけ伝承でんしょうとしての権威けんいあたえられたが、おおくの古伝承こでんしょうは、たんなる神怪しんかい怪異談かいいたんとして、そのまま民間みんかん流布るふされていた。古伝承こでんしょう漢文かんぶん筆録ひつろくされるようになると、中国ちゅうごく史書ししょ小説類しょうせつるい影響えいきょうけるようになった。一方いっぽう、かな文字もじ発達はったつ普及ふきゅう(→p.38)すると、日常語にちじょうごによる自由じゆう表現ひょうげん可能かのうとなり、こうした古伝承こでんしょうかた依拠いきょしたあたらたな文学形式ぶんがくけいしきされた。こうして誕生たんじょうしたのが物語ものがたりである。

つく物語ものがたり歌物語うたものがたり

初期しょき物語ものがたりは、かたちうえで〔つく物語ものがたり〕と〔歌物語うたものがたり〕に大別たいべつすることができる。つく物語ものがたりは、きわめて伝奇性でんきせいつよいもので、空想的くうそうてき筋立すじだてを中心ちゅうしんとした、現実げんじつとは別次元べつじげん世界せかいえがくものであった。現在げんざい最古さいこつく物語ものがたりである〔竹取物語たけとりものがたり〕は、こうした伝奇性でんきせいいちじるしい物語ものがたりである。この物語ものがたり系譜けいふき、しかも現実性げんじつせい写実性しゃじつせいつよめた作品さくひんに、〔宇津保物語うつほものがたり〕がある。

一方いっぽう、これと前後ぜんごしてされたのが歌物語うたものがたりである。歌物語うたものがたりは、〈歌語うたがたり〉を母胎ぼたいとするもので、つく物語ものがたりくらべて虚構化きょこうか度合どあいはひくく、うた中心ちゅうしんとして独自どくじ世界せかい表現ひょうげんされている。歌物語うたものがたり代表作だいひょうさくには、〔伊勢物語いせものがたり〕〔大和物語やまとものがたり〕などがある。

物語文学ものがたりぶんがくなが

時代じだいつく物語ものがたり歌物語うたものがたり
9Cまつ竹取物語たけとりものがたり
10Cしょ伊勢物語いせものがたり
10Cちゅう大和物語やまとものがたり〕・〔平中物語へいちゅうものがたり
10Cこう宇津保物語うつほものがたり
10Cまつ落窪物語おちくぼものがたり
11Cしょ源氏物語げんじものがたり
11Cちゅうよる寝覚ねざめ
11Cこう浜松中納言物語はままつちゅうなごんものがたり〕・〔堤中納言物語つつみちゅうなごんものがたり
11Cまつ未詳みしょう狭衣物語さごろもものがたり〕・〔とりかへばや物語ものがたり
檜扇ひおうぎ

竹取物語たけとりものがたり

成立せいりつ作者さくしゃ未詳みしょう九世紀きゅうせいきまつ十世紀じゅっせいきはじ成立せいりつ。〔竹取物語たけとりものがたり〕は現存げんそん最古さいこ物語ものがたりで、〔源氏物語げんじものがたり〕にも「物語ものがたりはじめのおや」とひょうされている。作者さくしゃ未詳みしょうだが、漢詩文かんしぶん教養きょうようふか男子だんし官人かんじんになるものであろう。

【〈内容ないよう〉】竹取たけとりおきなによってたけなかからいだされたかぐやひめが、五人ごにん貴公子きこうしみかど求婚きゅうこん退しりぞけ、ふたたつき世界せかいむかえられるというはなし伝奇的でんきてき性格せいかくいちじるしいが、求婚譚きゅうこんたん場面ばめんでは、貴公子きこうしたちの生態せいたいが、風刺ふうしをまじえてリアルにえがされている。人間にんげんいとなみの無力むりょくさと永遠性えいえんせいとが浪漫的ろうまんてきえがかれている。こうした虚構きょこうまえることで、かえって人間にんげん世界せかい実相じっそうあざやかにとらえられている。そこに古伝説こでんせつから物語ものがたりへの再構成さいこうせい意味いみがあったといえよう。

竹取物語たけとりものがたり冒頭ぼうとう

今はむかし竹取たけとりおきなといふものりけり。野山のやまにまじりてたけりつつ、よろづのこと使つかひけり。をば、さぬきのみやつことなむいひける。そのたけなかに、もとひかたけなむ一筋ひとすじありける。あやしがりて、りてるに、つつなかひかりたり。それをれば、三寸みすんばかりなるひと、いとうつくしうてゐたり。

(今ではむかしのことだが、竹取たけとりおきなというものがいた。野山のやまってはたけり、さまざまなことに使つかっていた。をばさぬきのみやつこといった。そのたけなかもとのひかたけ一本いっぽんあった。不思議ふしぎおもってそばに近寄ちかよってみると、たけつつなかひかっていた。それをると、三寸みすんほどのたいそうかわいらしい様子ようすひとがすわっていた。)

車持皇子くらもちのみこ蓬莱ほうらいえだ持参じさんする(竹取物語絵巻たけとりものがたりえまき

宇津保物語うつほものがたり

十世紀じゅっせいき後半こうはんごろ成立せいりつ作者さくしゃ未詳みしょうだが、源順みなもとのしたごうするせつ有力ゆうりょく奇妙きみょう素材そざいによって、貴族社会きぞくしゃかい多彩たさい人間模様にんげんもようこまかかにうつされている。一方いっぽう現実性げんじつせいにもんでおり、二十巻にじっかんおよ長編ちょうへんだが、物語ものがたり系譜けいふ作品さくひんである。

落窪物語おちくぼものがたり

作者さくしゃ未詳みしょう十世紀じゅっせいきまつごろ成立せいりつ伝奇性でんきせいかげをひそめ、写実性しゃじつせいがいちだんとつよめられている。継子ままこいじめを主題しゅだいとする作品さくひん男女間だんじょかん純愛じゅんあい中心ちゅうしんに、後世こうせい文学ぶんがくにもおおきな影響えいきょうあたえた。なお、おな継子ままこいじめを主題しゅだいとする物語ものがたりに〔住吉物語すみよしものがたり〕がある。はやく散佚さんいつし、現存げんそんするのは中世ちゅうせい初期しょき改作本かいさくほんである。

伊勢物語いせものがたり

成立せいりつ作者さくしゃ未詳みしょう十世紀じゅっせいきはじめ〜なかごろに成立せいりつした歌物語うたものがたりで、在原業平ありわらのなりひら(→p.39)とおぼしき主人公しゅじんこう昔男むかしおとこ」の一代記いちだいきふう構成こうせいをもつ。百二十五段ひゃくにじゅうごだん前後ぜんご章段しょうだんからり、そのそれぞれが、うた中心ちゅうしんとしすぐれた叙情じょじょう世界せかい形作かたちづくっている。

【〈内容ないよう〉】主人公しゅじんこうの「昔男むかしおとこ」は、名門めいもん家柄いえがらながら、とき権勢けんせい圧倒あっとうされ、風雅ふうがきる人物じんぶつとして、そのままにえがかれている。こうした「昔男むかしおとこ」のありかたは、物語ものがたり虚構きょこう方法ほうほうがあらわれている。男女間だんじょかん純愛じゅんあい中心ちゅうしんとするはなしおおく、ほか肉親にくしん友人ゆうじんかん交情こうじょうつたえるはなししるされている。後世こうせい文学ぶんがくにも、おおきな影響えいきょうあたえた。

八橋やつはし尾形光琳おがたこうりんひつ 伊勢物語図いせものがたりず

参考さんこうつづき)詞書ことばがき和歌わか奉仕ほうしするものであるのにたいして、歌物語うたものがたり文章ぶんしょうは、和歌わかときには拮抗きっこうし、とき協調きょうちょうするかたちで、独自どくじ表現世界ひょうげんせかい形成けいせいしている。

伊勢物語いせものがたり第五段だいごだん

むかしおとこありけり。ひがし五条ごじょうわたりに、いとしのびてきけり。みそかなるところなれば、かどよりもえらで、わらわべのみあけたる築地ついじのくづれよりかよひけり。ひとしげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきつけて、そのかよみちひときてまもらせければ、けども、えあはでかえりけり。さて、よめる。

人知ひとしれぬわがかよみち関守せきもり宵々よいよいごとにうちもななむ。

あるじゆるしてけり。

むかし一人ひとりおとこがいた。ひがし五条ごじょうあたりに、ひどく人目ひとめしのんでかよっていた。ひそかなところなので、かどからもはいれず、子供こどもたちがけた土塀どべいくずれからかよっていた。ひとはそうおおくもなかったけれど、何度なんどかさなったので、いえ主人しゅじんきつけて、そのかよみちひといて見張みはらせたので、ってもうことができないでかえった。そしてつぎうたんだ。「ひとにはられていないわたしかよみち関守せきもりは、毎晩まいばんねむってほしいものだ。」いえ主人しゅじんおとこかようのをゆるしてしまった。)

大和物語やまとものがたり

作者さくしゃ未詳みしょう。〔伊勢物語いせものがたり〕につづいて十世紀じゅっせいきなかごろに成立せいりつした歌物語うたものがたり統一的とういつてき主人公しゅじんこうはなく、当代とうだい歌人かじん贈歌おくりうた中心ちゅうしんとしてあつめられている。後半こうはんには、生田川伝説いくたがわでんせつ芦刈伝説あしかりでんせつなど、古伝承こでんしょう取材しゅざいした世間話せけんばなしあつめられている。なお、おなじころ成立せいりつした歌物語うたものがたりに〔平中物語へいちゅうものがたり〕がある。平中へいちゅう平貞文たいらのさだふみ)を主人公しゅじんこうとする恋愛談れんあいだん中心ちゅうしんとする奇放きほうなものである。

源氏物語げんじものがたり〕の世界せかい

日記にっき伝統でんとう歌物語うたものがたり方法ほうほう吸収きゅうしゅうしながら、つく物語ものがたり歌物語うたものがたり方法ほうほうぎ、壮麗そうれい虚構きょこう世界せかいつくげたのが〔源氏物語げんじものがたり〕である。その虚構きょこうも、これまでの物語ものがたりのようにたんなる絵空事えそらごとえがくのではなく、むしろ虚構きょこう意識的いしきてき利用りようすることで、人間にんげんじつえが物語ものがたりである。

そうするどせまるものとなっている。〔源氏物語げんじものがたり〕の出現しゅつげんで、物語ものがたりしつ飛躍的ひやくてきたかめられ、現実げんじつえる人生じんせい真実しんじつがそこに表現ひょうげんされるようになったのである。

源氏物語げんじものがたり

成立せいりつ

作者さくしゃ紫式部むらさきしきぶは、藤原為時ふじわらのためときちちとして、天禄てんろく元年(九七〇)ごろまれた。当代とうだい屈指くっし知識人ちしきじんとしてられていた受領層ずりょうそう出身しゅっしんであったが、おさないころから教養きょうようけ、後年こうねん物語ものがたり創作そうさくへの下地したじをはぐくまれた。おとなじて藤原宣孝ふじわらののぶたか結婚けっこんし、一女いちじょをもうけたが、三年目みねんめおっと死別しべつした。この不幸ふこうが、創造そうぞうへとかわせたひとつの契機けいきとなった。その藤原道長ふじわらのみちなが長女ちょうじょ中宮彰子ちゅうぐうしょうしのもとに出仕しゅっしした。宮仕みやづか以後いご物語ものがたり執筆しっぴつつづけられる。寛弘かんこう五年(一〇〇八)ごろには、宮廷内きゅうていないで、この物語ものがたり評判ひょうばんたかかったことが〔紫式部日記むらさきしきぶにっき〕にしるされており、かなりの部分ぶぶん成立せいりつ流布るふしていたとおもわれる。

紫式部むらさきしきぶ関係かんけい年表ねんぴょう(*は推定すいてい
年代ねんだい出来事できごと
天禄てんろく元(九七〇)ごろ作者さくしゃ誕生たんじょう
長徳ちょうとく(九九五〜)ちち越前守えちぜんのかみとなり、ちち下向げこう同行どうこう
長保ちょうほう元(九九九)藤原宣孝ふじわらののぶたか結婚けっこん。このころ一女いちじょ大弐三位だいにのさんみ)を出産しゅっさん
長保ちょうほう三(一〇〇一)藤原宣孝ふじわらののぶたかぼつ。このころ〔源氏物語げんじものがたり創作そうさく着手ちゃくしゅ
寛弘かんこう(一〇〇四)ごろ中宮彰子ちゅうぐうしょうしのもとに出仕しゅっし。〔源氏物語げんじものがたり一部いちぶ流布るふ
寛弘かんこう五(一〇〇八)紫式部日記むらさきしきぶにっき〕に〔源氏物語げんじものがたり評判ひょうばん記事きじ
長和ちょうわ二(一〇一〇)宮仕みやづかえを
長和ちょうわ三(一〇一一)作者さくしゃぼつ

構成こうせい内容ないよう

源氏物語げんじものがたり〕は、五十四帖ごじゅうしじょうから長編ちょうへんで、光源氏ひかるげんじ生涯しょうがいかた物語ものがたりである。

かおるいだ光源氏ひかるげんじ源氏物語絵巻げんじものがたりえまきかおるじつ柏木かしわぎ女三おんなさんみやあいだにできたであった。

全体ぜんたい三部構成さんぶこうせいけてかんがえるのが通例つうれいである。

第一部だいいちぶ】(桐壺きりつぼ藤裏葉ふじのうらば

主人公しゅじんこう光源氏ひかるげんじ誕生たんじょうから、さまざまなこい遍歴へんれきて、準太上天皇じゅんだいじょうてんのうという栄華えいがきわみにいたるまでの過程かていえがかれる。桐壺帝きりつぼてい皇子おうじとしてまれ、比類ひるいのない資質ししつめぐまれながら、母方ははかた家柄いえがらひくく、臣籍しんせき降下こうかする。そののちはは女性じょせいむらさきうえとの純愛じゅんあい須磨すま流謫るたくなどをて、栄華えいが頂点ちょうてんいたる。

第二部だいにぶ】(若菜上わかなじょうまぼろし

栄華えいが頂点ちょうてんをきわめた光源氏ひかるげんじの、くら宿命的しゅくめいてき交渉こうしょうえがかれる。女三おんなさんみや降嫁こうか契機けいきとして、ゆるされぬこい柏木かしわぎ女三おんなさんみやとの密通みっつう)がき、光源氏ひかるげんじむらさきうえむかえ、その崩壊ほうかいがだいに露呈ろていし、光源氏ひかるげんじ晩年ばんねん悲劇ひげきえんじられる。つみ自覚じかく苦悩くのうする晩年ばんねん光源氏ひかるげんじ姿すがたえがかれる。

第三部だいさんぶ】(匂宮におうのみや夢浮橋ゆめのうきはし

光源氏ひかるげんじ死後しご、そのえんにつながるかおる匂宮におうのみや宇治うじ姫君ひめぎみたちの、宇治うじ舞台ぶたいとした物語ものがたり薫大将かおるたいしょう匂宮におうのみやの、あい不毛ふもう人間不信にんげんふしんとがきびしく追求ついきゅうされ、宿命的しゅくめいてき世界せかい形作かたちづくる。最後さいご十巻じっかんは「宇治十帖うじじゅうじょう」とばれる。

第三部だいさんぶ東屋あずまや源氏物語絵巻げんじものがたりえまき浮舟うきふねと、かみをといてもらう宇治八宮うじはちのみや中君なかのきみ

創作そうさく過程かてい

源氏物語げんじものがたり〕こうした主題しゅだい展開てんかいは、作品さくひんそのものがきつがれていくなかで、必然的ひつぜんてき獲得かくとくされたものともいえる。はじめはふる物語ものがたり伝統でんとう背景はいけいとする仏教ぶっきょうによってすらすくわれない宿命しゅくめい存在そんざいへの不条理ふじょうりあい不毛ふもう人間不信にんげんふしんとがきびしくえがかれていく創作そうさく過程かてい必然的ひつぜんてき獲得かくとくされたものともいえる。

てき制約せいやくにとらわれていた物語ものがたりのありかたも、きびしい現実げんじつざめはじめた宮廷貴族きゅうていきぞく社会しゃかい主体的しゅたいてき姿勢しせいおうじて、しだいに物語ものがたり展開てんかい日常生活にちじょうせいかつなか凝視ぎょうしつづける作者さくしゃ資質ししつふかざしたものであることは、うたがうことのできない事実じじつである。作者さくしゃはその壮大そうだい物語ものがたり創造そうぞうげた。

表現ひょうげん文体ぶんたい

登場人物とうじょうじんぶつ三百名さんびゃくめいえ、ていだい七十四年しちじゅうよねんおよ長大ちょうだい物語ものがたりささえる構想こうそうは、周到しゅうとうかつたくみである。心理分析しんりぶんせき性格描写せいかくびょうしゃはきわめて精細せいさいで、内面ないめん描写びょうしゃにすぐれ、個々ここ登場人物とうじょうじんぶつ心理しんり融合ゆうごうたくみである。古今ここん和歌わか漢詩かんし引用いんようした清新せいしん優美ゆうび文章ぶんしょうは、和文体わぶんたい代表だいひょうともいえる。

源氏物語げんじものがたり冒頭ぼうとう桐壺きりつぼまき

いづれの御時おおんときにか、女御にょうご更衣こういあまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなききわにはあらぬが、すぐれてときめきたまひけり。

何帝なにてい御代みよであったのか、女御にょうご更衣こうい数多あまたくおつかえしているなかに、たいそうたか身分みぶんではないかたで、格別かくべつみかど寵愛ちょうあいけておいたかたがいた。)

源氏物語げんじものがたり」(大島本おおしまぼん
源氏物語げんじものがたり桐壺きりつぼまきつづき)

じめより、「われは」とおもひあがりたまへるおんかたがた、めざましきものににらたまふ。おなほど、それより下臈げろう更衣こういたちはましてやすからず。朝夕あさゆう宮仕みやづかえにつけても、ひとこころをのみうごかし、うらみをもりにや、ありけむ、いとあつしくなりゆきて、もの心細こころぼそさとがちなるを、いよいよあかずあはれなるものにおもほして、ひとそしりをも、えはばからせたまはず、ためしにもなりぬべきおんもてなしなり。

最初さいしょから「わたしこそは」とおもがっておられる御方おかたがたは、ざましいものとしてにらんでいる。おな程度ていどまたそれよりひく身分みぶん更衣こういたちはなおさらおだやかではなく、朝夕あさゆう宮仕みやづかえにつけても、ひとこころだけをうごかし、うらみをもりにやつれて、ひどく気力きりょくがなくなりゆき、もの心細こころぼそさとがちになるのを、みかどはいよいよやるせなくあわれにおもわれ、ひとそしりをも遠慮えんりょされず、世間せけんかたぐさになりそうな御寵愛おちょうあいぶりであった。)

中宮彰子ちゅうぐうしょうしに「白氏文集はくしもんじゅう」をかせる紫式部むらさきしきぶみぎ)(紫式部日記絵詞むらさきしきぶにっきえことば

源氏物語げんじものがたり以後いご物語ものがたり

源氏物語げんじものがたり以後いご平安末期へいあんまっきにかけてさまざまな物語ものがたりつくられたが、質量しつりょうともに〔源氏物語げんじものがたり〕に匹敵ひってきする作品さくひんはあらわれなかった。貴族社会きぞくしゃかい衰退すいたい反映はんえいして、現存げんそんする作品さくひんにはくものがおおい。〔源氏物語げんじものがたり〕の影響えいきょういちじるしく、〔浜松中納言物語はままつちゅうなごんものがたり〕〔狭衣物語さごろもものがたり〕〔よる寝覚ねざめ〕などがある。ふし変化へんかもとめたり、非現実的ひげんじつてき題材だいざいあつかうなど、いずれも〔源氏物語げんじものがたり〕の模倣もほうにとどまっている。〔よる寝覚ねざめ〕は、その克明こくめい心理しんり描写びょうしゃ特色とくしょくがある。

浜松中納言物語はままつちゅうなごんものがたり〕は、舞台ぶたい唐土もろこしにまでおよぼしたてん特色とくしょくがあり、退廃的たいはいてき官能描写かんのうびょうしゃ奇抜きばつ趣向しゅこう末期まっきてき特色とくしょくである。また、この時期じきには〔とりかへばや物語とりかへばやものがたり〕のような短編たんぺんがさかんにつくられた傾向けいこういちじるしい。

●〔堤中納言物語つつみちゅうなごんものがたり

むしめづる姫君ひめぎみ〕〔はいずみはいずみ〕などと十編じゅっぺん短編作品たんぺんさくひんあつめており、趣向しゅこうことにしながら人生じんせい断面だんめんするどえがいており、あたらしい傾向けいこうがうかがわれる。

堤中納言物語つつみちゅうなごんものがたり〕〈ちょうめづる姫君ひめぎみまき

ちょうめづる姫君ひめぎみたまふかたはらに、按察使あぜち大納言だいなごん御女おんなむすめこころにくくたちなまはしくおはするが、もの心細こころぼそくて、この姫君ひめぎみのたまふこと、「人々ひとびとの、はなちょうやとめづるこそ、はかなくあやしけれ。ひとはまことあり、本地ほんちたづねたるこそ、こころばへをかしけれ」とて、よろづのむしおそろしげなるをあつめて、これがらむさまをむとて、さまざまなる籠箱かごばこどもにれさせたまふ。

ちょうがおきな姫君ひめぎみのおまいのお隣おとなりに、按察使あぜち大納言だいなごん御娘おんなむすめがいらっしゃる。格調かくちょうたかおくゆかしくいらっしゃるが、この姫君ひめぎみがおっしゃることには、「人々ひとびとはなちょうむのは、はかなくおかしい。物事ものごと本質ほんしつもとめるのこそおもむきがあるというものだ」といって、あらゆるむしおそろしそうなものをあつめて、これが成長せいちょうするようすをようとして、さまざまなかごはこれさせなさる。)

掃墨はいずみかおったおんな掃墨物語絵巻はいずみものがたりえまき

歴史物語れきしものがたり

平安時代へいあんじだい後期こうきになると、物語ものがたり創作意欲そうさくいよく自覚じかくされるなかで、はなやかな過去かこ栄光えいこう回顧かいこされるようになり、あたらたに歴史物語れきしものがたりされた。一方いっぽう貴族社会きぞくしゃかい退潮たいちょうとともに、創作意欲そうさくいよくおとろえ、はなやかな過去かこへの回顧かいこつよまった。歴史物語れきしものがたりは、歴史的事実れきしてきじじつ素材そざいもとめているが、〔六国史りっこくし〕(→p.17)などの純粋じゅんすい記録きろくとはことなり、かなかな文体ぶんたいかれた物語ものがたりである。

歴史物語れきしものがたり諸作品しょさくひん

史書ししょとはちがって、かなでしるされ、物語仕立ものがたりじたてであるところにおおきな特色とくしょくがある。主要作品しゅようさくひんには、「栄花物語えいがものがたり」「大鏡おおかがみ」「今鏡いまかがみ」「増鏡ますかがみ」などがある。

栄花物語えいがものがたり

正編せいへん三十かん続編ぞくへんかんからる。赤染衛門あかぞめえもん正編せいへん)・出羽弁でわのべん続編ぞくへんさくとするせつがある。長元ちょうげんねん(一〇三〇)ごろ正編せいへん寛治かんじねん(一〇九二)ごろ続編ぞくへん成立せいりつ

六十代ろくじゅうだいこう(六〇)から堀河天皇ほりかわてんのう寛治かんじねん(一〇九二)までやく二百年間ねんかん歴史れきしが、紀伝体きでんたい(→p.17)でしるされている。六国史りっこくしのあとを意図いとへんされており、全盛ぜんせいをたたえることが中心ちゅうしんで、藤原道長ふじわらのみちながはなやかな宮廷生活きゅうていせいかつ感傷的かんしょうてき回顧かいこされているが、歴史的事実れきしてきじじつたいする批判精神ひはんせいしんとぼしい。

大鏡おおかがみ

作者さくしゃ未詳。十二世紀せいきはじめごろに成立せいりつ道長みちなが権勢けんせいとその由来ゆらい中心ちゅうしんえがいた歴史物語れきしものがたりで、史物語しものがたりというあたらしい領域りょういきひらいたてんおおきな意義いぎがある。

内容ないよう構成こうせい

文徳天皇もんとくてんのう(八五〇)から後一条天皇ごいちじょうてんのう万寿まんじゅねん(一〇二五)までの歴史れきしを、大宅世継おおやけのよつぎ夏山繁樹なつやましげきという二老人ろうじんわかさむらいくわわってかたるという戯曲的ぎきょくてき構成こうせい採用さいようされており、叙述じょじゅつ真実性しんじつせい客観性きゃっかんせい保証ほしょうしようとしている。次の五からる。

  1. 序—はなし場所ばしょ雲林院うりんいんはなし紹介しょうかい
  2. 列紀れっき文徳天皇もんとくてんのうから後一条天皇ごいちじょうてんのうの十四だい略伝りゃくでん
  3. 伝—花山院かざんいんなどの記事きじがくわしい。藤原道長ふじわらのみちながいたるまでの詳細しょうさい
  4. 雑々ざつざつ藤原公任ふじわらのきんとう三船みふねさい)などのはなし
  5. 大宰府だざいふ左遷させんから頼通よりみちまでの物語ものがたり

栄花物語えいがものがたりとはちがって、たんなる道長みちなが賛美さんびわらず、政争せいそう歴史れきし紀伝体きでんたい(→p.17)でえがかれており、するど批判意識ひはんいしきられる。

歴史物語れきしものがたりを「鏡物かがみもの」といい、いわゆる「四鏡しきょう」は本書ほんしょ由来ゆらいする。「大鏡おおかがみ」の書名しょめいにならって、以後「今鏡いまかがみ」「水鏡みずかがみ」「増鏡ますかがみ」がされた。

藤原道長ふじわらのみちなが紫式部日記絵詞むらさきしきぶにっきえことば
四鏡しきょうえがかれた時代じだい
成立順せいりつじゅん作品名さくひんめい対象時代たいしょうじだい
大鏡おおかがみ文徳天皇もんとくてんのう(八五〇)〜後一条天皇ごいちじょうてんのう(一〇二五)
今鏡いまかがみ後一条天皇ごいちじょうてんのう高倉天皇たかくらてんのう(一一七〇)
水鏡みずかがみ神武天皇じんむてんのう仁明天皇にんみょうてんのう(八五〇)
増鏡ますかがみ後鳥羽天皇ごとばてんのう(一一八〇)〜後醍醐天皇ごだいごてんのう(一三三三)

丸数字まるすうじ成立順せいりつじゅん

表現ひょうげん文体ぶんたい

作者さくしゃ未詳みしょうだが、教養きょうようある男子官人だんしかんじんるものであろう。文章ぶんしょうは、和文わぶんではあるが、その内容ないようにふさわしく簡潔かんけつ力強ちからづよい。作者さくしゃ周到しゅうとう用意よういをうかがうことができる。

〔「大鏡おおかがみ道長伝みちながでん

四条大納言しじょうだいなごんの、かく何事なにごとにもすぐれておはしますを、大入道殿おおにゅうどうどの、「いかでかおはしますを、うらやましくもあるかな。わがどもの、かげだにみますべくもあらぬこそ口惜くちをしけれ」ともうさせたまひければ、中関白殿なかのかんぱくどの粟田殿あわたどのなども御気色おんけしきに、げにさやはとわかうおほしたまへばまはぬか。御身おんみにてかげをばまで、まことにさおはいませられけれ。

口語訳こうごやく四条大納言しじょうだいなごん藤原公任ふじわらのきんとう)が、このように何事なにごとにおいても立派りっぱでいらっしゃるのを、大入道殿おおにゅうどうどの藤原道長ふじわらのみちなが)が「どのようにおなりでいらっしゃることか、うらやましいことよ。わがどもがかげさえめないとは残念ざんねんなことだ」とおっしゃったので、中関白殿なかのかんぱくどの粟田殿あわたどのなども御不満おんふまん様子ようすで、なるほどそのとおりとおおもいになって(かげを)まないことがあろうか。ご自身じしんかげをさえまずに、まことにそのようでいらっしゃることよ。

栄花物語えいがものがたり」と「大鏡おおかがみ」の比較ひかく
栄花物語えいがものがたり大鏡おおかがみ
成立せいりつ十一世紀せいきはじめ(一〇〇〇)からすえ(一〇九二)まで十二世紀せいきはじめごろまでに成立せいりつ
作者さくしゃ正編せいへん赤染衛門あかぞめえもんせつ続編ぞくへん出羽弁でわのべんせつ作者さくしゃ未詳
記載きさい宇多天皇うだてんのう(六十だい)〜堀河天皇ほりかわてんのう寛治かんじねん(一〇九二)の十五だい文徳天皇もんとくてんのう嘉祥かしょうねん(八五〇)〜後一条天皇ごいちじょうてんのう万寿まんじゅねん(一〇二五)の十四だい
年代ねんだいやく二百ねん百七十六ねん
形式けいしき編年体へんねんたい紀伝体きでんたい
性格せいかく道長みちなが全盛ぜんせい賛美さんび感傷的かんしょうてき叙情的じょじょうてき批判精神ひはんせいしんなし政争せいそう真面まおもえがく。するど批判精神ひはんせいしんられる
意義いぎ特色とくしょく歴史物語れきしものがたり端緒たんしょ鏡物かがみもの批判精神ひはんせいしんによる歴史叙述れきしじょじゅつ

今鏡いまかがみ

承安しょうあんねん(一一七四)以後に成立せいりつ作者さくしゃ藤原為経ふじわらのためつね(さださね)せつなどがある。「大鏡おおかがみ」のあとをうけて、万寿まんじゅねん(一〇二五)から高倉天皇たかくらてんのう嘉応かおうねん(一一七〇)まで約百五十年間やくひゃくごじゅうねんかん歴史れきし紀伝体きでんたいしるしている。「大鏡おおかがみ」の文体ぶんたいけつぎながら、「栄花物語えいがものがたりふう優雅ゆうが文体ぶんたいえがかれている。

日記にっき随筆ずいひつ

日記にっき

日記にっきは、本来ほんらい公務こうむ記録きろくとして、貴族社会きぞくしゃかいふるくからしるされていた。男子だんしによって漢字かんじしるされ、また日常にちじょう備忘録びぼうろくとして、実用性じつようせい第一だいいち目的もくてきとするものであった。かなでしるされた日常にちじょう日記にっきも、すでに十世紀せいきはじめに歌合うたあわせ日記にっきなどをふくむものが存在そんざいしているが、これらの執筆しっぴつ公的こうてき立場たちばからなされており、かなでしるされる文学ぶんがくとしての日記にっきは、「土佐日記とさにっき」の出現しゅつげんたなければならなかった。

土佐日記とさにっき

紀貫之きのつらゆきさく承平じょうへいねん(九三五)成立せいりつ

内容ないよう
土佐とさにんえた貫之つらゆきが、国府こくふからきょう帰着きちゃくするまでの五十五日間にちかん体験たいけんしるした旅日記たびにっき土佐とさうしなった愛児あいじへの追憶ついおく中心ちゅうしんに、帰京ききょうへの期待きたいよろこびなどがえがかれている。
表現ひょうげん
作者さくしゃは、みずからを女性じょせい仮託かたくし、当時とうじ女手おんなで」とばれたかなぶんもちい、機知きちユーモアゆーもあ随所ずいしょもちい、また世俗せぞくたいする風刺ふうししめされた。内省ないせい批判意識ひはんいしきがあらわれており、するど批判ひはん自在じざい表現ひょうげん特色とくしょくである。「土佐日記とさにっき」によってひらかれたかな散文さんぶん可能性かのうせいは、これ以後いご女流日記文学じょりゅうにっきぶんがくけつがれていく。

〔「土佐日記とさにっき冒頭ぼうとう

おとこもすなる日記にっきといふものを、おんなもしてみむとてするなり。それのとしの、十二つきの、二十日はつかあまり一日ひとひの、いぬとき門出かどです。そのよし、いさかにきつく。

口語訳こうごやくおとこしるすという日記にっきというものを、おんないてみようとおもってくのである。某年ぼうねんの十二がつ二十一にち午後ごごごろ、出発しゅっぱつする。そのたび様子ようすを、すこしばかりかみきつける。

蜻蛉日記かげろうにっき

藤原道綱ふじわらのみちつなははさく天延てんえんねん(九七四)以後成立せいりつ

内容ないよう
じょうちゅうの三かんからる。天暦てんりゃくねん(九五四)から天延てんえんねん(九七四)にいたる二十一年間ねんかん結婚生活けっこんせいかつ回想かいそうしたもの。受領ずりょう(→p.49語注ごちゅう)のむすめとしてまれた作者さくしゃが、藤原兼家ふじわらのかねいえ求婚きゅうこんからふでこし、当時とうじ権門けんもんつまとして生活せいかついとなみながら、一子いっし道綱みちつな成長せいちょうたのみとしながら、ついにおっととの調和ちょうわある生活せいかつられないままにいたるまでの過程かていえがかれる。
表現ひょうげん
土佐日記とさにっき」によって先鞭せんべんをつけられたかな散文さんぶん方法ほうほうが、こうした内面ないめんへの疑視ぎし可能かのうにしたのであり、陰影いんえいんだ内面描写ないめんびょうしゃによって、のちの「源氏物語げんじものがたり」などの女流文学じょりゅうぶんがくにもおおきな影響えいきょうあたえている。

物語ものがたりのことを和歌わか上手じょうずともひょうされた作者さくしゃは、自己じこ序文じょぶんにおいて物語ものがたり虚偽きょぎ批判ひはんし、自己じこ体験たいけんもとづく真実しんじつしるそうという決意けついべている。はじめは和歌わか私家集しかしゅう性格せいかくつよいものであったが、叙述じょじゅつするにしたがって散文さんぶん傾向けいこうつよめ、日記にっき文学の性格せいかくふかめていく。

「かげろふ日記にっき」(桂宮本けいきゅうほん
中流貴族ちゅうりゅうきぞく邸内ていない石山寺縁起絵巻いしやまでらえんぎえまき) 当時とうじ受領ずりょうそうとして地方ちほうにおもむいたのは、おもにこれら中小貴族層ちゅうしょうきぞくそうであった。

和泉式部日記いずみしきぶにっき

和泉式部いずみしきぶさく他作説たさくせつもある)。寛弘かんこうねん(一〇〇七)ごろ成立せいりつ長保ちょうほねん(一〇〇三)四がつからやく十かげつにわたる、帥宮敦道親王そちのみやあつみちしんのうとの恋愛れんあい事件じけんを、百四十余首よしゅ贈答歌ぞうとうか中心ちゅうしん物語ものがたりふうえがいた日記にっき。「和泉式部物語いずみしきぶものがたり」ともばれる。日記中にっきちゅう式部しきぶ二人称ににんしょう的にえがかれていることから他作説たさくせつもあるが、他作たさくよそおった自作じさくとしてするせつ有力ゆうりょくである。

紫式部日記むらさきしきぶにっき

紫式部むらさきしきぶさく寛弘かんこうねん(一〇一〇)ごろ成立せいりつ作者さくしゃ一条天皇いちじょうてんのう中宮ちゅうぐう彰子しょうしつかえていたおり宮廷生活きゅうていせいかつ詳細しょうさい記録きろく出産場面しゅっさんばめん中心ちゅうしんに、華麗かれい宮廷行事きゅうていぎょうじ様子ようす克明こくめいえがかれる。日記にっき後半こうはん書簡体しょかんたい消息文しょうそくぶん手紙文てがみぶん)がじり、清少納言せいしょうなごん赤染衛門あかぞめえもんなど同輩女房どうはいにょうぼうたいする辛辣しんらつ批評ひひょうや、自己じこ内面ないめんたいする省察しょうさつしるされている。

更級日記さらしなにっき

菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめさく康平こうへいねん(一〇六〇)ごろ成立せいりつおさないころ草深くさぶか東国あずまのくにではぐくまれた物語世界ものがたりせかいへの幻想げんそうが、成長せいちょうしてのち体験たいけんつうじてわっていく様子ようすしるす。自身じしん精神せいしんのありかたするど疑視ぎしされ、清少納言せいしょうなごん(→p.53)・赤染衛門あかぞめえもん(→p.53)など同輩女房どうはいにょうぼうへのひょうられる。陰影いんえいんだ省察しょうさつ特色とくしょくである。

語注ごちゅう藤原兼家ふじわらのかねいえ
延長えんちょうねん(九二九)〜正暦しょうりゃくねん(九九〇)。師輔もろすけ道隆みちたか道兼みちかね道長みちながなど(→p.54系図けいず)。藤原氏ふじわらし全盛ぜんせい基礎きそきずいた(→p.54)。

おさないころ草深くさぶか東国あずまのくにではぐくまれた物語世界ものがたりせかいへの幻想げんそうも、成長せいちょうしてのち信仰しんこう世界せかいたましい安住あんじゅうもとめようとするにいたるまでの、やく四十年間ねんかん精神遍歴せいしんへんれきえがいている。したたかなしたたかな現実げんじつなか挫折ざせつしながら、物語世界ものがたりせかいへの幻想げんそうほとけへの信仰しんこうも、ともに仮構かこうされた非現実ひげんじつ世界せかいへのあこがれとして共通きょうつうする境涯きょうがいなかに、人生じんせい晩年ばんねん孤独こどくをかみしめる作者さくしゃ諦観ていかんしめされているてん注目ちゅうもくされる。

更級日記さらしなにっき冒頭ぼうとう

あづまちのみちのはてよりも、なほおくつかたにひいでたるひと、いかばかりかはあやしかりけむを、いかにおもひはじめけることにか、なか物語ものがたりといふもののあんなるを、いかでばやとおもひつつ、つれづれなるひるま、たゆみなどに、その物語ものがたり、あの物語ものがたり光源氏ひかるげんじのあるやうなど、あね、ままははなどやうの人々ひとびとの、ところどころかたるをくに、いとどゆかしさまさりて、わがおもふままに、そらにいかでかをほへかたらむ。

口語訳こうごやく東国あずまのくにへのみちてよりも、さらにおくのほう(上総かずさ)でそだったわたしは、いかにも田舎いなかびたそだかたをしたことか、どのようにしておもはじめたことか、なか物語ものがたりというものがあるということをいて、どうにかみたいとおもいながら、退屈たいくつ昼間ひるまなどに、その物語ものがたり・あの物語ものがたり光源氏ひかるげんじ様子ようすなど、あね継母ままははなどのような人々ひとびとが、部分的ぶぶんてきかたるのをくにつけ、ますますみたい気持きもちがして、わたしがおもうままに、そらでおぼえてかたってほしいとおもうのだが。

更級日記さらしなにっき」の題名だいめい

日記にっき最末尾さいまつびに「更級さらしな」という言葉ことばもちいられており、信濃しなのくに更級郡さらしなごおりにある「をばすてやま」(姨捨山おばすてやま)にもとづくというせつ有力ゆうりょく。また、おっと橘俊通たちばなのとしみち信濃守しなののかみであったからとするせつもある。

菅原孝標すがわらのたかすえのむすめ石山詣いしやまもうで石山寺縁起絵巻いしやまでらえんぎえまき

その他そのた日記にっき

このほか、入宋にゅうそうしたわがとの別離べつりかなしみをうた中心ちゅうしんつづった「成尋阿闍梨母集じょうじんあじゃりのははのしゅう」(延久えんきゅうねん・一〇七三成立せいりつ)、堀河天皇ほりかわてんのう発病はっびょう崩御ほうぎょ場面ばめん中心ちゅうしん即位そくいまでの記事きじおさめた「讃岐典侍日記さぬきのすけのにっき」(天仁てんにんねん・一一〇八以後いご成立せいりつ讃岐典侍さぬきのすけ藤原長子ふじわらのながこさく)がある。とくに後者こうしゃは、天皇てんのう死後しご記事きじふくみ、天皇てんのう発病はっびょうから崩御ほうぎょ後の様子ようす克明こくめいえがいた特色とくしょくがある。

随筆ずいひつ

随筆ずいひつには、本来ほんらい記録きろくとしての性格せいかくがあり、時間じかんながれのなか表現ひょうげんされるのがつねであった。こうした日記にっき本来ほんらい自照性じしょうせい(→語注ごちゅう)をつよたもちながら、作者さくしゃ自在じざい発揮はっきするようにして、「枕草子まくらのそうし」に代表だいひょうされる随筆文学ずいひつぶんがくされた。

枕草子まくらのそうし

清少納言せいしょうなごんさく長保ちょうほねん(一〇〇一)ごろ成立せいりつ

成立せいりつ
枕草子まくらのそうし」の成立せいりつについては、その跋文ばつぶん一節いっせつに、作者さくしゃ中宮定子ちゅうぐうていしから「枕草紙まくらのそうし」を下賜かしされたことが執筆しっぴつきっかけきっかけとなったという事情じじょうしるされている。作者さくしゃ私的してき作品さくひんではなく、定子ていしつかえる女房にょうぼうとして立場たちばからしるされた。
語注ごちゅう自照性じしょうせい
自己じこ内面ないめんふかくかえりみようとする精神傾向せいしんけいこう。この時期じき女性じょせいたちは、自分じぶんふかくかえりみ、内面ないめん記録きろくをつくった。女流じょりゅう日記文学にっきぶんがくを「自照文学じしょうぶんがく」ともいう。

本書ほんしょには定子ていし没後ぼつご記事きじがなく、したがって長保ちょうほねん(一〇〇一)ごろの成立せいりつであろうとかんがえられている。しかし、その多少たしょう補筆ほひつ修正しゅうせいがあったとおもわれ、最終的さいしゅうてき完成かんせい寛弘かんこう末年まつねんごろと推測すいそくされる。

内容ないよう構成こうせい
長短ちょうたん三百章段しょうだんからり、宮廷生活きゅうていせいかつ体験たいけん見聞けんぶん感想かんそうなどがしるされている。作者さくしゃするど審美しんび感覚かんかくをうかがうことができる。各章段かくしょうだんは、その内容ないようによって分類ぶんるいされる。
  1. 日記的章段にっきてきしょうだん日記回想的章段にっきかいそうてきしょうだん):おもとして作者さくしゃ宮仕みやづかちゅう見聞けんぶんしるしたもの。「翁丸おきなまろ」や「香炉峰こうろほうゆき」など。後宮生活こうきゅうせいかつ記録きろくという性格せいかくいちじるしい。

〔「枕草子まくらのそうし」「ゆきのいとたかりたるを」〕

ゆきのいとたかりたるを、れいならず御格子みこうしまゐりて、炭柩すみびつをおこして、あつまりさぶらふに、「少納言しょうなごんよ、香炉峰こうろほうゆきはいかならん」とのたまはば、御格子みこうし上げさせて、御簾みすたかくかかげたれば、わらはせたまひぬ。

口語訳こうごやくゆきがたいへんたかもっているのに、いつもとちがって御格子みこうしをおろしてあって、炭柩すみびつをおこして女房にょうぼうあつまりおつかえしているところに、(定子ていし様が)「少納言しょうなごんよ、香炉峰こうろほうゆきはどのようであろうか」とおおせになったので、(わたしが)御格子みこうしげさせて、御簾みすたかくかかげたところ、(定子ていし様が)わらわれた。

清少納言せいしょうなごん関係年表かんけいねんぴょう(*は推定すいてい
康保こうほ三(九五六)作者さくしゃ誕生たんじょう
天禄てんろく元(九七〇)紫式部むらさきしきぶ誕生たんじょう
天元てんげん五(九八二)橘則光たちばなののりみつ結婚けっこん出産しゅっさん
正暦しょうりゃく元(九九〇)一条天皇いちじょうてんのう中宮ちゅうぐう定子ていしのもとに出仕しゅっし
長徳ちょうとく元(九九五)道隆みちたかぼつ藤原道長ふじわらのみちなが実権じっけんにぎ
長徳ちょうとく二(九九六)伊周これちか隆家たかいえ左遷させん
長保ちょうほ元(九九九)道長みちながむすめ彰子しょうし入内じゅだい
長保ちょうほ三(一〇〇一)定子ていしぼつ。このころころ枕草子まくらのそうし成立せいりつ
寛弘かんこう四(一〇〇七)*「紫式部日記むらさきしきぶにっき成立せいりつ
万寿まんじゅ元(一〇二四)作者さくしゃぼつ
  1. 類聚的章段るいじゅうてきしょうだん:いわゆる「物尽ものづくくし」の章段しょうだんで、本書ほんしょ性格せいかく特徴とくちょうづける特異とくい形式けいしきをもつ。「やまは」「かわは」などの「〜は」しきのものと、「すさまじき」のような事物じぶつ列挙れっきょ形式けいしきがある。前者ぜんしゃはいわゆる「あてなるもの」「はかなるもの」など、後者こうしゃ共通きょうつう心情語しんじょうごによる事物じぶつ列挙れっきょ鋭利えいり微細びさい観察かんさつもとづく言葉ことば連想れんそうが、自在じざい駆使くしされている。

〔「枕草子まくらのそうし」「ありがたきもの」〕

ありがたきもの。しゅうとめおもはるる婿むこ。また、のよくくるしろがねの毛抜けぬき。あるじそしらぬ従者じゅうしゃ容貌ようぼう性質せいしつこころなにもにほへるひと

口語訳こうごやく〕めったにないもの。しゅうとめにかわいがられる婿むこ。また、がよくけるしろがね毛抜けぬき。主人しゅじん悪口わるくちわない従者じゅうしゃ容貌ようぼう性質せいしつこころのいずれもがすぐれたひと

  1. 随想的章段ずいそうてきしょうだん:たとえば冒頭ぼうとうの「はるはあけぼの」のだんのように、ことたいする自由じゆう感想かんそうべた章段しょうだんで、自然しぜんひと性格せいかくについての観察かんさつじる。もっとも随筆ずいひつ性格せいかくつよい。

〔「枕草子まくらのそうし冒頭ぼうとう

はるはあけぼの。やうやうしろくなりやまぎは、すこしあかりて、むらさきだちたるくもの、ほそくたなびきたる。

口語訳こうごやくはる夜明よあけがよい。ゆっくりとしろんでいく山際やまぎわが、すこあかるくなって、むらさきがかったくもが、ほそくたなびいている(のはすばらしい)。

清少納言せいしょうなごん紫式部むらさきしきぶ比較ひかく
枕草子まくらのそうし源氏物語げんじものがたり
内容ないようやく三〇〇だん宮廷きゅうてい自然しぜん人事ひとごとうつくしくえがいた随筆ずいひつ五十四じょう人物じんぶつ心理しんりふかげ、人間にんげん真実しんじつえがいた長編物語ちょうへんものがたり
特色とくしょく「をかし」(機知的きちてき感覚美かんかくび「あはれ」(調和的ちょうわてき情趣美じょうしゅび
語注ごちゅう歌枕うたまくら
うたつくさいもちいる事柄ことがらあつめたほんのこと。歌語かご分類ぶんるい列挙れっきょした「能因歌枕のういんうたまくら」が有名ゆうめい。なお、歌枕うたまくらには、べつ古歌こかみこまれた名所めいしょという意味いみもある。

枕草子まくらのそうし」の美意識びいしき

枕草子まくらのそうし」のこうしたありかたは、作者さくしゃの、外界がいかいたいする把握はあくのしかたとかちがたくむすびついている。作者さくしゃは、その鋭敏えいびん感覚かんかく観察力かんさつりょくによって、自然しぜん人事じんじ断面だんめんをあざやかにえがすことができた。もとよりこのような作者さくしゃ感受性かんじゅせいえる美意識びいしき基準きじゅんは、定子ていし中心ちゅうしんとする後宮こうきゅう世界せかいなかにのみ存在そんざいしたのであり、生活せいかつたいするひたすらな賞美しょうび姿勢しせいをもすことになった。そのために、それは、はなやかな宮廷きゅうていてき見方みかたになったのである。けれども、こうした美意識びいしき基準きじゅんは、ともすれば皮相ひそう見方みかたかたむきがちであり、現実げんじつをきびしくつめることによってはぐくまれるふか内面性ないめんせいは、ついにもたらされることはなかった。

みかど中宮定子ちゅうぐうていし枕草子絵詞まくらのそうしえことば

表現ひょうげん文体ぶんたい

簡潔かんけつさが最大さいだい特色とくしょくだが、そのするど観察力かんさつりょくによって、文章ぶんしょうみじか区切くぎられ、あざやかにえがすすぐれた表現力ひょうげんりょくそなえている。「もものあはれ」のなどの省略しょうりゃくいちじるしい。感覚美かんかくび世界せかいを、みごとに現出げんしゅつしている。「源氏物語げんじものがたり」の情趣じょうしゅ文体ぶんたいとはことなる、文化ぶんか自由じゆう文体ぶんたいが、「をかし」ととらえる世界せかい形成けいせいしている。

枕草子まくらのそうし」(前田家本まえだけぼん

説話せつわ歌謡かよう

説話せつわ

奈良時代ならじだい中期ちゅうき仏教ぶっきょうひろ流布るふするようになると、信仰しんこうすすめるための説話せつわこり、説経せっきょうかたられるようになった。こうした仏教説話ぶっきょうせつわあつめたものに、平安初期へいあんしょきの「日本霊異記にほんりょういき」(→p.18)があった。こうした仏教説話集ぶっきょうせつわしゅうは、つづいて中期ちゅうきに「三宝絵さんぼうえ」(→p.18)があらわれた。一ぽう平安後期へいあんこうきになると、貴族社会きぞくしゃかい衰退すいたいともなって、「打聞集うちきかしゅう」があらわれた。伝統的でんとうてき貴族社会きぞくしゃかい周辺しゅうへん文学ぶんがく基盤きばんもとめようとする方向ほうこうが、しだいに顕著けんちょになっていく。その具体的ぐたいてきあらわれが、貴族きぞく武士ぶし庶民しょみん生活せいかつざした世俗説話せぞくせつわ集成しゅうせいであり、それは仏教説話ぶっきょうせつわにとどまらず、天竺てんじく(インド)・中国ちゅうごく日本にほんにわたる広範こうはん説話せつわふくむものとなった。

十一世紀じゅういっせいきのころ、源隆国みなもとのたかくに編纂へんさんしたとされる「宇治大納言物語うじだいなごんものがたり」(現存げんそんしない→p.85)は、こうした方向性ほうこうせいをもつ説話集せつわしゅうであったらしい。院政期いんせいきはいると、この傾向けいこう一段いちだんすすめられ、十二世紀じゅうにせいき前半ぜんはんには仏教説話ぶっきょうせつわ世俗説話せぞくせつわ集大成しゅうたいせいした「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」がされた。

内容ないよう〉「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう

今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」は、千余せんよ説話せつわ集大成しゅうたいせいした説話集せつわしゅうで、天竺てんじく(インド)・本朝ほんちょう日本にほん)・震旦しんたん中国ちゅうごく)の三部さんぶから構成こうせいされる。編者へんじゃしょう十二世紀じゅうにせいき前半ぜんはん成立せいりつ

まずしい一家いっか祝宴しゅくえん絵師草紙えしぞうし
鳥獣戯画ちょうじゅうぎが
三宝絵さんぼうえ
永観えいかん(九八四)成立せいりつぶつほうそう三巻さんかんからる。源為憲みなもとのためのりちょ僧俗そうぞく事績じせき法会ほうえ由来ゆらいなどをしるした仏教入門書ぶっきょうにゅうもんしょともなってつたわるのみが伝来でんらいする。「三宝絵図さんぼうえず」ともばれる。
打聞集うちきかしゅう
長承ちょうしょうねん(一一三四)以まえ成立せいりつ作者さくしゃしょう。インド・中国ちゅうごく日本にほん仏教ぶっきょう関係かんけい説話せつわ二十七編にじゅうしちへん収録しゅうろく説経せっきょうのテキストであったらしく、口語資料こうごしりょうとしても貴重きちょう
仏教ぶっきょう流布るふ
五五二ねん(一せつでは五三八ねん)につたえられ、平安中期へいあんちゅうき恵心僧都えしんそうず源信げんしん)の「往生要集おうじょうようしゅう」は、以鎌倉仏教かまくらぶっきょう影響えいきょうした。
院政いんせい
天皇てんのう譲位じょういしたあと上皇じょうこう法皇ほうおう)として政治せいじ実権じっけんにぎ政治形態せいじけいたい白河上皇しらかわじょうこうはじまり、平氏政権へいしせいけんができるまで国政こくせい中核ちゅうかくとなった。

内容ないようつづき)内容ないようは、仏教説話ぶっきょうせつわ世俗説話せぞくせつわ二分にぶんされる。中心ちゅうしんとなるのは仏教説話ぶっきょうせつわで、仏教ぶっきょう成立せいりつから各国かっこくへの伝来でんらい流布るふ過程かていが、歴史的れきしてきにたどられている。本書ほんしょ目的もくてきは、こうした三国さんごくにわたる仏法ぶっぽう霊験れいげんたっとさへの賛布さんぷをはかろうとするものではなく、そこに行動こうどうする人間にんげんのありかたつめようとする姿勢しせいにあった。この人間にんげん行動こうどう凝視ぎょうししようとする姿勢しせいが、ひいては世俗説話せぞくせつわにおける、多彩たさい人間模様にんげんもようえがすことにつながるのである。

世俗説話せぞくせつわ

貴族きぞくだけでなく、新興しんこう地方武士ちほうぶしから庶民しょみん盗賊とうぞくいたるさまざまな人物じんぶつ登場とうじょうし、混沌こんとんとした時代じだいをたくましくきぬくかれらの姿すがたが、文学的ぶんがくてきにもすぐれた達成たっせいしめしている。

成立せいりつ背景はいけい

こうした膨大ぼうだい説話せつわ集成しゅうせいされた背景はいけいには、院政期いんせいき一般いっぱん時代風潮じだいふうちょうとして、これらを回顧かいこし、整理せいりしたいというつよ興味きょうみがあったということが指摘してきされる。

表現ひょうげん文体ぶんたい

今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう」の文章ぶんしょうは、漢字かんじ片かなかたかな小書こがきした*和漢混交文わかんこんこうぶんによってかれており、「いまむかし」ではじまり「とナムかたつたえたるとや」でわるという表記ひょうき形式けいしき統一性とういつせいをうかがうことができる。そのぼく力強ちからづよさは、説話せつわ内容ないようにふさわしいものをもっている。

【「今昔物語集こんじゃくものがたりしゅうまき十九じゅうく第十八話だいじゅうはちわ

むかし摂津せっつくにほとりヨリぬすセムガ二京にきょうのぼケルニ、いまあかカリケレバ、羅城門らじょうもんのぼケルニ……

口語訳こうごやくいまむかし摂津せっつくにちかくからぬすみをしようとみやこのぼったおとこが、がまだあかるかったので、夕暮ゆうぐれをって羅城門らじょうもんしたかくれていた……

今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう引用続いんようつづき)城門じょうもんしたテリケルニ、朱雀すじゃくほうニ、ひとおもケレバ、ひとしずマルマデトおもテ、もん上層うえツリのぼタリケルニ、レバ、ほのおエシタリ。

口語訳続こうごやくつづき)人通ひとどおりがしずまるまでとおもって、もん二階にかいにそっとのぼっていくと、れば、縹色はなだいろえていた。(芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ羅生門らしょうもん」が取材しゅざいした部分ぶぶん

歌謡かよう

平安前期へいあんぜんきからうたわれた歌謡かように、神楽歌かぐらうた東遊歌あずまあそびうた催馬楽さいばら風俗歌ふぞくうたがある。これらは、朝廷ちょうてい神事じんじ儀式ぎしきのためのうたいもの・まいもちいられ、整備せいびされたもので、本来ほんらいふる民謡みんようであった。神楽歌かぐらうた東遊歌あずまあそびうた神前しんぜんうた儀式ぎしきのためのうたいもので、催馬楽さいばら風俗歌ふぞくうた貴族きぞく遊宴ゆうえんもちいられた。

平安中期へいあんちゅうきには、漢詩かんし和歌わか曲節きょくせつをつけた朗詠ろうえいさかんになった。

●「和漢朗詠集わかんろうえいしゅう

朗詠ろうえいてきする漢詩かんし和歌わかあつめたもの。長和ちょうわねん(一〇一三)ころ、藤原公任ふじわらのきんとう(→p.42)のせん成立せいりつした。漢詩かんし和歌わか曲節きょくせつをつけ、長明永正ながあきらがこれを朗詠ろうえいするもちいものとした。

●「梁塵秘抄りょうじんひしょう

平安後期へいあんこうきには、今様いまようをはじめとする各種かくしゅうたいものが流行りゅうこうした。これらを総称そうしょうして雑芸ぞうげいという。治承じしょうねん(一一七九)〜文治ぶんじねん(一一八五)ころのあいだ後白河法皇ごしらかわほうおうせん成立せいりつした。各種かくしゅうたいもののなかでも今様いまよう中心ちゅうしんで、七五調しちごちょうのものをしゅとする。おんな白拍子しらびょうしなどのあいだ平安末期へいあんまっき歌舞かぶとして流行りゅうこうした。

【「梁塵秘抄りょうじんひしょう法文歌ほうもんか
ほとけつねいませども
うつつならぬぞあはれなる
ひとおとせぬあかつき
ほのかにゆめえたまふ

口語訳こうごやくほとけはいつもおいでになるのだが、えないでいるのがいかにもなつかしい。ひと気配けはいのしないあかつきに、ほのかにゆめなか姿すがたをおせになるのである。

白拍子しらびょうし徒然草画帖つれづれぐさがじょう
歌謡かよう
おおくは短歌たんか形式けいしき宮廷きゅうてい神前しんぜんまいもちいるものと、民間みんかんつたわったものに大別たいべつされる。催馬楽さいばらおも近畿地方きんきちほう民謡みんよう由来ゆらいし、貴族きぞく遊宴歌謡ゆうえんかようとして流行りゅうこうした。
和漢混交文わかんこんこうぶん
優美ゆうび和文体わぶんたい力強ちからづよ漢文体かんぶんたいをまじえた文体ぶんたい。くわしくは→p.82

中古文学ちゅうこぶんがくのポイント・チェック