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中世の文学
『平家物語絵巻』壇の浦合戦
中世の文学【概観】
年代表(鎌倉時代 一一九二〜一三三三)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一一九二 | *源頼朝、征夷大将軍となる(鎌倉幕府成立) |
| 一二〇〇ごろ | 建礼門院右京大夫集(このころ) |
| 一二〇一〜 | *道元、曹洞宗を広める |
| 一二一二 | 方丈記(鴨長明) |
| 一二三五ごろ | 百人一首・新勅撰集(藤原定家) |
| 十三世紀前半 | 平治物語・平家物語(十三世紀半ばころまでに成立) |
| 一二五三 | *日蓮、法華宗を開く |
| 一二五四ごろ | 古今著聞集(構成)このころ |
| 一二七四 | *文永の役(元寇)開始 |
| 一二七六ごろ | *一遍、時宗を開く |
| 一二七七ごろ | 十六夜日記(阿仏尼)このころ |
| 一二八一 | *弘安の役(元寇の終了) |
| 一二八三ごろ | 沙石集(無住)このころ |
| 一三三一〜 | 徒然草(兼好法師、このころ) |
| 一三三三 | *鎌倉幕府滅亡 |
時代区分・背景
源頼朝が鎌倉に幕府を開設し、征夷大将軍となった建久三年(一一九二)あたりから、徳川家康が天下を統一し、江戸に幕府を開いた慶長八年(一六〇三)あたりまで、およそ四百年間を中世と呼ぶ。鎌倉・南北朝・室町・安土桃山の各時代が含まれる。
文化史的にいえば、鎌倉時代は貴族階級の没落と、それにかわる武士階級の台頭という大きな流としてとらえられる。社会の成長を指摘することができ、地方的・民衆的なものとの対立・融合がさまざまな形で如実に示されている。
思想・美意識の深化
源平の争いから戦国時代まで、うち続く内乱と下克上の世相は、人々に現実社会への批判と過去の歴史への関心を高めさせた。戦乱を取り上げた「平家物語」や「太平記」など多数の軍記物語が作られた。「愚管抄」など歴史論にふれる文学も登場してきた。
また、王朝文化への憧憬として、和歌の伝統は中世を通じてほぼ守り続けられ、「建礼門院右京大夫集」や「とはずがたり」のように宮廷を舞台とした女房日記も書かれ、「新古今和歌集」は王朝和歌の掉尾を飾った。平安の物語を模倣した擬古物語も多く作られた。世阿弥に代表される幽玄の世界も中世の美意識の一つといえる。
また、不安な日常生活を背景に新しい仏教の誕生をうながし、法語という宗教文学の成立と、求道を主題とした仏教説話集はくり返し著述された。出家遁世という形で現実社会を拒否し、離脱した人々も多く、「方丈記」や「徒然草」のような優れた随筆を生み出した。
年代表(南北朝〜安土桃山時代 一三三三〜一六〇三)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 一三三三 | *鎌倉幕府滅亡 |
| 一三三四 | *建武の新政 |
| 一三三六〜 | *室町幕府時代の開始 |
| 一三三九 | 神皇正統記(北畠親房) |
| 一三四〇ごろ〜 | 太平記(このころ成立) |
| 一三四六〜 | 菟玖波集(二条良基) |
| 一三七五ごろ | 観阿弥・世阿弥が能を大成 |
| 一三九〇ごろ | 風雅集(このころ) |
| 一四〇〇ごろ | 御伽草子(このころ) |
| 一四六七 | *応仁の乱始まる |
| 一四七二ごろ | *金閣寺造営(北山文化) |
| 一四八八 | 水無瀬三吟百韻(宗祇ら) |
| 一四八九ごろ | *銀閣寺造営(東山文化) |
| 一四九五 | 新撰菟玖波集(宗祇) |
| 一五一八 | 閑吟集 |
| 一五三九ごろ | 守武千句(荒木田守武)このころ |
| 一五四九 | *キリスト教伝来(フランシスコ・ザビエル) |
| 一五九二 | 伊曽保物語(天草版)このころ |
| 一六〇〇 | *関ヶ原の戦い |
| 一六〇三 | *徳川家康、江戸に幕府を開く |
文芸の地方化・庶民化
和歌の余技として始まった連歌は、この時期に庶民の間でも流行し、田楽や猿楽・狂言の見物ができる大きな広がりを見せた。連歌師たちが戦乱を避けて地方に下向し、地方の文化水準の向上に大きな役割を果たした。また、各地の戦国大名に招かれるようになった。文学の題材・制作・享受がすべての面で庶民から都(京都)を含む大きな広がりをもった。
宇治拾遺物語・「海道記」・「東関紀行」などの説話文学の世界に、地方社会や民衆社会の様相は、新鮮な印象をもって取り込まれた。庶民社会の成長が大きな影響力をもって発展しつつあった地方社会の様相は、庶民文芸の隆盛へとつながっていく。
〈語り〉の影響
「平家物語」は琵琶に合わせて語られていた。「曽我物語」「義経記」など語られることは、この時期の特色で、詞章の面でもちろんのこと、文字が〈語り〉へとむかっていた。幸若舞や説経節の「語り」は、近世の浄瑠璃の源流となった。庶民の中で愛好されていた小歌も、庶民文芸の成立や受容の場として重要であった。庶民階級にまで広がった読者層が大きな影響力をもって貴族や武将たちの間で愛好されていた幸若舞や説経節の「語り」は、近世の浄瑠璃の源流となった。
隠遁生活の感慨をしるした優れた隠者文学も書かれた。それらは、無常の美—無常の美としての美意識を基調として、移りゆくもの、滅びゆくものの美しさ—中世文学の大きな特色といえる。歌論、能楽論など理論的な色彩の強い著述がなされるようになっていることも、注目すべきことで、これらの風潮と無関係ではない。
和歌・連歌
和歌
平安時代末に藤原俊成(→p.42)によって主導された新しい和歌への動きは、その子の藤原定家、あるいは藤原家隆ら新進歌人に継承され、発展していく。京都朝廷の武家政権である鎌倉幕府に強い対抗意識をもっていた後鳥羽院は、伝統的な和歌を積極的に推進した。「十五百番歌合」などを開催し、みずからも有力な歌人の一人として活躍した。
〈歌風〉
初句切れ・三句切れ・体言止めなどの手法を多用し、言葉の呼び起こす美しいイメージや余情を最大限に発揮させようとした。また「伊勢物語」や「源氏物語」の世界をふまえた歌などが多く、象徴的・物語的な傾向が強い。それは、複雑な現実社会を拒否し、社会への強い思慕に基づくものであった。また、本歌取りとか、象徴的・情趣的な傾向も強い。
〔藤原定家〕中でも藤原定家は、父俊成の唱えた「幽玄」をさらに押し進め、妖艶・有心の詩境を目ざし、夢幻的・唯美的な和歌を数多く残した。今調とも呼ばれるこの歌風は、「古今集」以来の王朝の美の極致ともいえるもので、以後の文学に大きな影響を与えた。
- 【語注】
- *本歌取り=有名な古歌や物語の言葉や表現を取り入れて、重層的な構造をもたせる趣向の手法。
- *妖艶=この世のものとは思えないような妖しい美しさ。
- *有心=艶美な情趣を心に深くこらすこと。また、それによってかもし出される美しさ。
鎌倉の第三代将軍源実朝は、北条氏の執権によって政治からは遠ざけられていたが、藤原定家から歌論書「近代秀歌」を贈られるなどして京文化に強い関心をもっていた。東の土地にあって、新古今調から力強い万葉調の歌を残した。短命な悲劇的生涯の中ですぐれた歌を残した。その家集「金槐和歌集」は、正岡子規・斎藤茂吉などに高く評価された。
▼万葉集・古今集・新古今集の比較
|
万葉集 |
古今集 |
新古今集 |
| 巻数 |
二十巻 |
二十巻 |
二十巻 |
| 歌数 |
約四千五百首 |
約千百余首 |
約二千首 |
| 成立 |
奈良時代末 |
延喜五年(九〇五) |
元久二年(一二〇五) |
| 撰者 |
大伴家持が中心 |
紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑 |
源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮 |
| 主な歌人 |
額田王・柿本人麻呂・山上憶良・山部赤人ら |
六歌仙(在原業平・小野小町・僧正遍昭ら) |
後鳥羽院・西行・藤原定家・式子内親王・宮内卿ら |
| 語調 |
五七調 |
七五調 |
三句切れ・初句切れ |
| 修辞 |
枕詞・序詞・縁語 |
掛詞・縁語・本歌取り |
体言止め・本歌取り・縁語 |
●十三代集
「新古今集」の成立後、歌壇活動は低下していく。藤原定家によって「新勅撰和歌集」が撰ばれるが、「新古今集」の唯美的で妖艶な歌風とは違って、平淡・典雅な歌風を示し、これが以後の勅撰集の基本的方向となった。
定家の後は、その子為家の子、為氏(二条家)・為教(京極家)・為相(冷泉家)が対立し三家に分かれた。折しも皇室の持明院統と大覚寺統との対立から引き合うことになった。「新勅撰集」の歌風を主流とする二条派が歌壇の主流となったが、革新的な歌風を追求した京極為兼の派(京極派)は「玉葉和歌集」と「風雅和歌集」を撰ぶ。自然観照に徹した京極派の歌風は、南北朝時代を経て室町時代前期に至るまで影響を与え続けた。こうして、八代集(→p.41)のあとに続く十三代集が成立した。
- 【語注】
- *持明院統と大覚寺統=後深草天皇の皇統と亀山天皇の皇統。十三世紀後半から両統が交互に天皇の地位につくようになり、この対立は以後、南北朝の内乱にまで持ちこされた。
▼十三代集一覧(巻数はすべて二十巻)
| 集名 | 成立 | 撰者 |
| 新勅撰集 | 文暦二(一二三五) | 藤原定家 |
| 続後撰集 | 建長三(一二五一) | 藤原為家ほか |
| 続古今集 | 文永二(一二六五) | 藤原基家ほか |
| 続拾遺集 | 弘安六(一二八三) | 藤原為氏ほか |
| 新後撰集 | 嘉元元(一三〇三) | 二条為世ほか |
| 玉葉集 | 嘉暦元(一三二六) | 京極為兼 |
| 続千載集 | 正和五(一三一六) | 二条為世ほか |
| 続後拾遺集 | 嘉暦元(一三二六)→延文三(一三五八) | 二条為定ほか |
| 風雅集 | 貞和五(一三四九) | 光厳院 |
| 新千載集 | 貞治三(一三六四) | 二条為定ほか |
| 新拾遺集 | 応安四(一三七一) | 二条為明ほか |
| 新後拾遺集 | 明徳三(一三九二) | 二条良基・堯孝ほか |
| 新続古今集 | 永享三(一四三一) | 飛鳥井雅世 |
●南北朝・室町時代の和歌
室町時代になると、南朝の人々の悲哀が実感をこめて歌われるようになった。また、宗良親王の撰による「新葉和歌集」が編まれる。貴族よりも武家・僧侣のものとなり、冷泉派の武将歌人今川了俊とその門下の正徹が活躍した。
正徹は藤原定家を強く意識し、余情・妖艶の新古今調へと復帰を主張した。しかし、古今伝授のように和歌はしだいに形式を偏重するようになり、政治的な陰謀によって持明院統の伏見院・花園院に配流・左遷されるなど、歌壇は最後の勅撰集「新続古今和歌集」の編纂で幕を閉じた。
●歌論
和歌の隆盛は、歌人や和歌への批評意識を高めるようになり、詩作上の心得や技法などについて歌論書という形でまとめられるようになった。後鳥羽院の「後鳥羽院御口伝」、鴨長明の「無名抄」、藤原定家の「近代秀歌」「毎月抄」などが注目される。
連歌
連歌は、和歌の上の句五七五と下の句七七を唱和のしかた(付け合い)を楽しむ文芸である。「万葉集」にその例があり、「金葉集」(→p.41)において初めて勅撰集の部が設けられるようになった。これは五七五・七七の二句から成る短連歌であったが、平安時代末期になって五七五・七七・五七五・七七と数句以上、鎖のように続ける長連歌(鎖連歌)が作られるようになった。
●無心連歌と有心連歌
鎌倉時代になると、和歌の余技・余興として藤原定家などが連歌を愛好し、連歌会が後鳥羽院の御所などで開かれるようになった。滑稽を主とする*無心連歌と和歌的情趣を詠む*有心連歌に分かれていたが、有心連歌が中心になった。
鎌倉後期には*地下の武士・僧侶・一般庶民の間にも広まり、桜の花の下で寄り合い連歌を行うのが庶民の遊楽・娯楽の一つとして大いに発展した。田楽・猿楽(→p.97)を楽しみ、桜の花の下に寄り合い、連歌を行うというのが庶民の娯楽の一つとして大きく発展した。
- 【語注】
- *無心連歌=滑稽を主とする軽妙な連歌。*有心連歌=和歌的情趣・優美を詠む格調ある連歌。
- *地下=堂上に対して、昇殿を許されない身分の者。一般庶民のこと。
- *菟玖波=「古事記」の中で、倭建命が御火焼翁に問いかけて唱和した場所の地名。ここから連歌を「つくばの道」と呼ぶようになった。
●連歌の完成
室町時代に入ると、梵灯庵主、その弟子の宗砌、さらには心敬などすぐれた連歌作家があらわれた。「艶」「ひょえ」「さび」「ひとりごと」「老のくりごと」などの理念を追求し、その著書「さざめごと」の中ですぐれた芸術論を述べている。
●五山文学
漢詩文の影響を受けた和漢聯句なども行われるようになり、連歌から離れる傾向が出てきた。鎌倉時代末から室町時代にかけて、五山の禅寺を中心に漢詩・漢文が栄えた。京都・鎌倉の五山の禅僧が主要な担い手となり、義堂周信・絶海中津が大成した。義堂の「空華集」、絶海の「蕉堅稿」が代表的な詩文集である。
心敬のあとをうけて、連歌を完成させたのが宗祇である。高弟の肖柏・宗長と行った『水無瀬三吟百韻』が連歌百韻(百句から成る連歌)の最高の傑作とされる。有心を理想とし、東常縁から古今伝授をうける。明応四年(一四九三)連歌撰集『新撰菟玖波集』を編じる。諸国を漂泊し、西行を鑑とした。「古今集」「源氏物語」などの古典を越後の上杉氏・山口の大内氏などに講義し、連歌文化を地方に広めた。箱根に没した。
「水無瀬三吟百韻」から(表八句)
- 雪ながら山もとかすむ夕べかな 宗祇(発句)
- 行く水とほく梅においにほふ 肖柏(脇句)
- 川風に一むら柳春みえて 宗長(第三句)
- 舟さす音もしるきあけ方 宗祇(第四句)
- 月やなほ霧わたる夜に残るらん 肖柏(第五句)
- 霜おく野辺の秋は暮れけり 宗長(第六句)
- なく虫の心ともなく草かれて 宗祇(第七句)
- 垣根をとへばあらはなる道 肖柏(第八句)
●俳諧連歌
俳諧とは「おどけ」「たわむれ」を意味する言葉で、鎌倉時代に庶民の余興として俳諧の連歌が楽しまれていた。宗祇以後の連歌が純正連歌の規則にしばられて形式化するにつれて、庶民の笑いや機知を反映した俳諧連歌が流行してきた。
『竹馬狂吟集』(一四九九年成立)・山崎宗鑑の『犬筑波集』(一五三二〜)などが有名で、それらはやがて近世の俳諧へとつながっていくことになる。
- 語注
- ※和漢聯句:連歌の前句に漢詩の一句を付け句として連ねていくもの。
- ※純正連歌:俳諧の連歌に対する言葉で、卑俗をきらい、芸術的な方向をめざした連歌。
物語・説話
●物語
【擬古物語】
過ぎ去りつつあった王朝社会をあこがれ、なつかしむ気持ちは強く、鎌倉時代に入ってからも、宮廷社会の模倣を題材とした物語が数多く作られた。が、そのほとんどが「源氏物語」などの影響をうけた擬古物語とよばれるものにとどまっていた。擬古物語として名の知られる作品は数あるが、現存するものはわずかである。現存する作品には「住吉物語」「今とりかへばや」「石清水物語」などがあり、宮廷物語の舞台・題材・趣向に工夫を見せている。宮廷社会の恋愛を題材としたこれらの物語の和歌は「風葉和歌集」に多く収められている。
【軍記物語】
平安時代後半に書かれた「将門記」「陸奥話記」は、漢文体で、記録性の強いものであるが、鎌倉時代に入ると、素材と文体に新しい魅力があり、軍記物語として多くの作品が作られた。
▼軍記物語の流れ
| 平安 | 鎌倉 | 室町 |
将門記(九四〇年ごろ以後) 陸奥話記(一〇五八年ごろ) ←軍記物語の先駆 |
保元物語(一二世紀半ばごろ) 平治物語(一二世紀半ばごろ、原型) 平家物語(一三世紀ごろ) 源平盛衰記(一三世紀末、「平家」の異本) |
太平記(一四世紀半ばごろ) 義経記(一四世紀後半ごろ) 曾我物語 |
●保元物語・平治物語
保元・平治の乱に取材した「保元物語」「平治物語」が作られた。平安末期に起こった二つの乱は、新興の武士階級の武力が時代の勝敗を左右することを意味し、新しい武士の時代の到来を告げるものであった。
「保元物語」では、雄々しく奮戦する敗軍の勇将・源為朝の敗走・逃避行などが、印象深く描かれている。「平治物語」では、敗死した源義朝の愛人常盤とその子たちの苦難に満ちた逃避行などが、印象深く描かれている。
いずれも作者は未詳だが、十三世紀半ばごろには原型が成立している。文章は力強い和漢混交文(→p.82)である。
「保元物語」巻中・白河殿攻め落とす事
為朝、例の先細につき放ちたる矢を射放つに、さしあたる志保見五郎が頸を射んとしけるに、志保見きっと見て矢に逢はんと頸をうちふりたれども、矢垣こそ少しあがりたれど、甲の鉢付に当りたる矢もをむかず。頸と甲を矢にて衝いてうちかづき、矢をもって肩にうちかづきてぞ落ちたる。
(口語訳)為朝は真っ先に進んできた志保見五郎の首を射定め、志保見は矢をよけようとして頸をかしげたが、矢垣こそ少し上がっただけで、甲の鉢付に当たった矢は折れず。頸と甲を矢で射通されたまま(志保見は)矢をかぶって肩をうちかづき、よろよろと落ちていったのだ。
【平家物語】
〈内容〉 作者未詳。十三世紀半ばごろには原型成立か。
平家一門は栄華を極め、清盛が太政大臣にまで栄達するが、専横が激しく、清盛は熱病で病没。義仲をはじめとして諸国の源氏は早くも反平家の動きが起こる。源頼朝・木曾義仲の決起がつづき、義仲の驚異的な進撃の前に、平家は京都を捨てて都落ちする。
横暴な義仲軍は人心を得ることができず、頼朝の代官源義経に敗れ、義仲は討死にする。平家は、一ノ谷や屋島で義経の天才的な軍略によって大敗し、ついに壇ノ浦で滅亡する。
このような平家一門の興亡の歴史が語られる中に、清盛の寵愛を失った祇王、高倉天皇の寵を得ながら清盛の圧迫を恐れて嵯峨野に隠棲した小督、一門の滅亡後、大原に隠棲した建礼門院徳子などの、女性たちの哀しい物語も織りこまれている。仏教的な無常観に基づきながらも、勇壮な合戦の場も美しく描かれている。礼門院徳子など、女性たちの哀しみを前にして、物語も織りこまれている。
〈成立・文体〉 原型は十三世紀半ばごろには成立していたと考えられる。多くの語り手によってくり返し改訂・増補がくり返され、鎌倉末期ごろ成立か。琵琶法師が語り手として語り広め、読者の手を経てさらに洗練された。その異本として「源平盛衰記」がある。文章は、漢語・和語・仏教語・俗語を自由に取りこんだ和漢混交文(→p.82)でつづられており、全体として美しく調和し、壮大な物語世界を作り上げている。軍記物語の白眉。
▼平家物語関係年表
| 年 | 主な出来事 |
| 保元元(一一五六) | 保元の乱。平清盛・源義朝ら |
| 平治元(一一五九) | 平治の乱。崇徳上皇を破る |
| 仁安三(一一六八) | 平清盛、太政大臣になる |
| 安元三(一一七七) | 安元の大火 |
| 治承四(一一八〇) | 以仁王の乱。源頼朝・木曾義仲挙兵。後鳥羽院誕生 |
| 治承五(一一八一) | 清盛、没 |
| 寿永三(一一八三) | 木曾義仲入京。平家都落ち。福原への遷都 |
| 元暦元(一一八四) | 宇治川の戦い。義仲敗死。一ノ谷の戦い |
| 文治元(一一八五) | 壇ノ浦の戦い。平家滅亡 |
| 建久(一一九〇〜) | 後白河院崩御。大原御幸(建礼門院) |
| 建暦(一二一一〜) | 「保元物語」「平治物語」原型成立か |
| 十三世紀半ば | 「平家物語」原型成立か |
中世文学の代表的作品で、後世、謡曲・御伽草子・浄瑠璃などに多くの素材を提供している。
「平家物語」巻一・祇園精舎
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
(口語訳)インドの祇園精舎の鐘の音は、すべてのものは常に変化し、永久不変のものは一つもないという(諸行無常の)響きを持っている。娑羅双樹の花の色は、栄えた者も必ず衰えるという道理を表している。おごりたかぶった人もそれが長くは続かず、ただ春の夜の夢のようにはかない。勇猛だった者も遂にはほろびてしまう、まったく風の前の塵と同じ(はかなさである)。
「平家物語」巻九・木曾の最期
木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月二十一日、入相ばかりの事なるに、薄氷のはりたりけり。深田ありとも知らずして、馬をざっとうちいれたれば、馬の頭も見えざりけり。今井が行方のおぼつかなさに振りあふぎ給へる所に、三浦の石田の次郎為久、追つかけてよってびてひやうふと射る。痛手なれば、真向を馬の頭に当てて、うつぶし給へる所に、石田の郎等二人落ち合ひて、つひに木曾殿の頸をとってんげり。
(口語訳)木曾義仲は只一騎で粟津の松原へかけ入られたが、正月二十一日の夕暮れ時(入相のころ)のことで、薄氷が張っていた。深田とも知らずに馬を勢いよく乗り入れたので、馬の頭も見えなくなってしまった。今井兼平の行方が気になって振り返られたところに、石田の次郎為久が追いかけてきてひょうと射た。(それが)痛い傷だったので真っ向を馬の頭にうなだれられたところに、石田の郎等二人が落ち合って、ついに木曾殿の首をとってしまったのだった。
- 語注
- ※無常観:万物は常に変化し、永久不変のものは一つもないという仏教の考え方。とりわけ、人の死・恋人との離別・建物の荒廃などが人々に無常を強く意識させた。
太平記
作者未詳。十四世紀半ばごろには原型成立か。
〈内容〉
後醍醐天皇の北条氏討伐の陰謀に始まり、建武新政とその破綻、新田義貞と足利尊氏の対立・抗争から足利幕府の成立、南北朝の内乱を中心に公家・大名・武士・野の者など複雑な時代相を描き、足利義満のところで終わる。「平家物語」の「盛者必衰」のような統一的な視点は見られないが、政道・世相への批判がなされていることは見落とせない。公家・武士など複雑な人間像をリアルにとらえている。
〈成立・文体〉
作者として小島法師らの名もあるが、多数の物語僧にも語られ、近世には太平記読みによって多数の人の修補を経て現在の形になったと考えられる。文体は漢文色の濃い和漢混交文で、華麗な道行文が有名である。
▶「太平記」巻十六・正成兄弟討死の事
正成座シテ二居ッ、各弟ノ正季ニ向テ、「抑最期ノ一念ニ依テ、善悪ノ生ヲ引クトイヘリ。今ハ何ノ遺恨カ有ラン。只汝ハ如何ナル願カ有ル」ト問フ。正季申シケルハ、「九界ノ間ニ何カ御迷イノ願ナル。只七生マデ人間ニ生マレテ、国賊ヲ滅ボサン」ト申シケレバ、判官モ打笑ッテ……
(口語訳)正成は上座に座ったまま、弟の正季に向かって、「そもそも最後の一念によって来世の善悪の生を引き起こすというが、今は何の遺恨もない。ただ汝はいかなる願いがあるか」と問うた。正季が「九界の間にお迷いの願いなどありましょうか。ただ七生まで人間に生まれ変わって国賊を滅ぼしたい」と申したところ、(正成も)打笑って……(兄弟は鎧を重ねて刺し違えて果てた)。
- 太平記読み
- 「太平記」を曲節をつけながら講釈することで、中世の末ごろから近世にかけておこなわれ、講談(p.130)の祖となった。
- 和漢混交文
- かなで書かれた和文体と、漢語や漢文調の読み体あるいは俗語などの混じった文。鎌倉期以後の軍記物語や随筆などに多く用いられた。
- 道行文
- 旅の情景や旅情を漢文調で表現したもの。縁語・序詞・掛詞などの技巧をこらし、通常七五調をとる。
▶「太平記」巻二・俊基朝臣再び関東下向の事 〈道行文〉
落花ノ雪ニ踏迷フ、片野ノ春ノ暮、紅葉ノ錦ニ衣手ヲ補フ、嵐ノ山ノ秋ノ暮、桜ガリ一夜ノ宿ヲ契リテ、今日ヲ最後ト思ヒ置キ、九重ノ都ヲ出デテ旅路茫々、妻ヲ別レ……妻浅カラズ、我ガ生ヲ……
(口語訳)雪のように散り乱れた桜の花に道を踏み迷うような片野の春の夕暮れ、紅葉の錦に衣手を補うような嵐山の秋の夕暮れ、花見に一夜の宿を契ったような(情ある都を)、今日を最後と思い定めて帝都(九重)を出で、妻とも別れて旅路茫々と旅立った。妻への思いは浅からず、まことに名残惜しい旅立ちであった。
●「義経記」・「曾我物語」
室町時代には、源義経の悲劇的な生涯を描いた「義経記」と、曾我兄弟の仇討ちを描いた「曾我物語」が作られた。横死した死者たちへの鎮魂の思いがそこにはこめられており、後世まで長く語りつがれていた。
- ▶「義経記」
- 作者未詳。室町時代初めごろに成立。源義経の幼少期と、平家討滅後の義経の悲劇的な逃亡・流浪の生涯を描く。別名「判官物語」ともいわれる。
- ▶「曾我物語」
- 原形は鎌倉期の僧のかかわりがあるともいわれる。室町初期ごろにほぼ補われ成立。曾我十郎・五郎の兄弟が、父の仇工藤祐経を討ちその運命を中心に描く。
- *判官物語(はんがんもの)
- 源義経が検非違使(判官)の職にあったことから、義経に関する物語のことをいう。
【歴史物語】
保元・平治の乱、源平の動乱、承久の乱、元弘の変、南北朝の争乱と続く戦乱の中、貴族階級の没落と武士政権の樹立という歴史の大きな転換点は、軍記物語とともに、いくつかの歴史物語・史論書を生んだ。
●「増鏡」
平安後期の「大鏡」・「今鏡」のあとをうけて、鎌倉初期に「水鏡」が、南北朝期には「増鏡」が書かれた。「増鏡」は、優美な擬古文でつづられ、作者の王朝宮廷社会へのあこがれがうかがえる作品で、四鏡(→p.53)のうちでは、「大鏡」に次ぐ佳作である。
▶「増鏡」第十六・久米のさら山
夢かとおぼゆ。都の末を隠るるまで御覧じ送るも、御よそひ改め、鳥羽殿におはしましつき、気色ばかりにてまかづ。御子などご参らせければ……
(口語訳)夢のように思われる。都の(屋根が)隠れて見えなくなるまで振り返ってお見送りになり、御衣装を改めて鳥羽殿においでになり、気色ばかり(ちょっとだけ御食事を)召し上がってすぐにご出発された。御子たちなどが参上されれば(嘆かわしく)……御供の者もなく、御輦を泣きながら引いて帰る(車夫の)様子は、まことに哀れであった。
- ▶「水鏡」
- 作者未詳。鎌倉初期成立か。「大鏡」以前の神代からの歴史を扱っている。
- ▶「六代勝事記」
- 作者未詳。貞応二年(一二二三)以後成立か。高倉天皇から後嵯峨天皇まで六代の歴史を取り上げる。
- ▶「増鏡」
- 二条良基か。天授二年(一三七六)以前に成立。後鳥羽天皇から後醍醐天皇の隠岐遷幸までを描く。四鏡の最後。
●「愚管抄」・「神皇正統記」
史論書としては、鎌倉初期の慈円「愚管抄」と南北朝期の北畠親房「神皇正統記」(一三三九)が有名である。慈円の「愚管抄」は、神武天皇から承久の乱(一二二一)まで、「道理」という概念で歴史を解釈した。北畠親房の「神皇正統記」は、神代から後村上天皇までの歴史を書き、天皇・摂関・幕府の協調を説きながら南朝の正統性を強く主張している。その独自の史観は後代に大きな影響を与えた。
- 慈円
- →p.17 参照。
- 北畠親房
- 一二九三〜一三五四年。村上源氏で正二位大納言まで上った貴族。博学の学者・歌人でもあり、「神皇正統記」のほか「職原抄」・「古今集注」などがある。南朝の擁護に尽くした。
【説話】
前代の安定した政治と文化の伝統への関心はなお強く、貴族社会にまつわる話は意欲的に記録された。一方、新時代の到来は、地方や庶民の世界への新鮮な興味を呼びおこした。仏教信仰も高まりを見せて、数々の逸話・霊験談・遁世者・高僧の逸話などが熱心に書きとめられ、数多くの仏教説話集が誕生した。こうして中世は「説話の時代」ともいわれるほど多数の説話集が編まれ、素材として軍記物語・歴史物語・御伽草子など他のジャンルの文芸にも多く流れこんでいった。
説話文学の流れ(数字は世紀)
| 平安 | 鎌倉 |
| 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
| 日本霊異記 |
三宝絵 日本往生極楽記 |
法華験記 江談抄 |
今昔物語集 古本説話集 打聞集 |
〔仏教〕宝物集・発心集・閑居友・沙石集 〔世俗〕古事談・宇治拾遺物語・十訓抄・古今著聞集 |
「宇治拾遺物語」
作者未詳。承久三年(一二二一)ごろ成立か。約二百編の長短の説話が平明な和文調で語られている。大力の女の話など世俗の説話・民話がかかわる話が多く、「こぶとり」・破戒僧の話・盗賊の話・博打うちの話など順不同に語られる。その自由で軽妙、かつ穏やかな語り口は深い味わいと内容をもつ。「宇治大納言物語」・「古事談」などから大きな影響を受けており、平安末期の「今昔物語集」と並んで、説話文学の代表的作品である。
- *破戒僧
- 仏教で禁止されている飲酒・邪淫・殺生などをおこなった僧。
- ▶「宇治大納言物語」
- 源隆国編になるといわれているが、現在は散佚し伝わらない。平安時代に成立。「今昔物語集」への素材集として、「宇治拾遺物語」に大きな影響を与えたと思われる。
- ▶「古事談」
- 源顕兼、建保三年(一二一五)以前に成立。貴族社会の秘話や裏面話に特色がある。
▶「宇治拾遺物語」大二条殿に小式部内侍歌をよみかけ、寝させたまひにける事
これも今は昔、大二条殿、小式部内侍をおぼしけるが、絶えまがちになりにけるほどに、例ならぬことおはしまして、久しく参らせ給はでよろしくなりおはして、上東門院に参らせ給ひたるに、小式部、台盤所にゐたりけるに出できさせ給ひて、「死なんとしける間はさりしぞ」と仰せければ、御直衣の裾を引きとどめて申しければ、死ぬべき身にもあらぬとおぼしけるにや、かき抱きて内へおはして、寝させ給ひにけり。
(口語訳)これも今は昔のこと。大二条殿(藤原教通)は小式部内侍をお思いになっていたが、久しく付き合いが絶えがちになっていたころ、(小式部に)病気のご様子があって長くお見舞いにも来なかったが、ようやく回復なさって上東門院(彰子)に参上される際に、小式部が台盤所から出てきたので、「死にそうになっているというのに、(見舞いにも来なかったのは)はかったものだ」とおっしゃったので、(小式部は)御直衣の裾を引きとめて申し上げると、(教通は)死ぬべき身でもないとお思いになったのか、(小式部を)かき抱いて内へおはいりになり、そのまま寝なさったということだ。
「十訓抄」・「古今著聞集」
「十訓抄」は、教訓的な目的をもって作られた説話集で、一の教訓の例話を集大成しようとしたもの。「古今著聞集」は、平安時代から鎌倉初期にかけての大部の説話集で、今昔物語集に次ぐ規模を誇る。
- ▶「十訓抄」
- 六波羅蜜蔵人入道(作者不明)編。建長四年(一二五二)成立。
- ▶「古今著聞集」
- 橘成季作。建長六年(一二五四)成立。
●仏教説話
仏教説話集としては、「今昔物語集」に次いで、平康頼の「宝物集」を初めとして、鴨長明の「発心集」・慶政の「閑居友」・無住の「沙石集」・西行に仮託された「撰集抄」などがあげられる。南北朝から室町時代に作られた「神道集」・「三国伝記」は、御伽草子とかかわりの深い話を収めている。
- ▶「宝物集」
- 平康頼作。建久九年(一一九八)ごろまでに成立か。例話とともに「仏法こそ宝である」ということを述べている。
- ▶「発心集」
- 鴨長明作。建保三年(一二一五)ごろ成立か。戦乱長期の世に世を捨てることの尊さを、愛欲の恐ろしさとともに説く。
- ▶「閑居友」
- 慶政作か。女性の発心などを多く記す。
- ▶「撰集抄」
- 作者未詳(西行に仮託)。鎌倉中期ごろ成立か。女性の発心談などを多く収める。
- ▶「沙石集」
- 無住作。弘安六年(一二八三)成立。通俗的な例話をもとに、教理を巧みに説いている。
●「御伽草子」
中世後期になると擬古物語も衰え、代わって広がった読者層に向けて読みやすい短編の物語が多く作られるようになった。絵巻物や、冊子形式の奈良絵本の形をとるものも多く、「一寸法師」・「文正草子」など庶民の立身出世を描くもの、「浦島太郎」など世俗的な物語、「岩屋の草子」・「福富草子」など笑い話、いじめを描く「鉢かづき」、本地物語・異類物など、前代の物語を簡略に改めたもの、民間説話を物語化したものなどがあり、幅広く多様な物語である。
- ▶「御伽草子」
- 江戸時代に大坂の本屋が二十三の短編物語を選んで「御伽文庫」と名づけて売り出したことから、同種の物語の名称となった。
- ▶「一寸法師」
- 身長一寸の小僧が鬼を退治し、打ち出の小槌によって背が伸び立身出世する話。
- ▶「文正草子」
- 塩焼きの文正が巨万の富を築き立身出世する物語。
- ▶「鉢かづき」
- 継母によっていじめられ鉢をかぶせられた姫が、海士夫婦に助けられ、のち関白家の嫁となる物語。
- *本地物語
- 仏菩薩が神として現れたという本地垂迹思想から生まれた話。奈良絵本に描かれた。
- *異類物
- 動植物が擬人化され、登場してくる物語。
●キリシタン文学
室町時代末期に渡来した宣教師たちが、布教や日本語学習のためにローマ字で翻訳・著述したものを総称する。庶民階級の意識を強く反映しており、「伊曾保物語」・「日葡辞書」・天草版「平家物語」・「どちりなきりしたん」などがあり、当時の口語を知る上での貴重な資料となっている。
- ▶「伊曾保物語」
- 文禄二年(一五九三)成立。イソップ童話のローマ字での和訳本。近世の仮名草子(→p.100)と区別して「天草版伊曾保物語」ともいう。
日記・随筆
【日記・紀行】
王朝時代の再来を思わせるような平家時代の文化や、政治的には無力化しつつあったとはいえ、伝統的な宮廷文化への思慕と回顧の気持ちは強く、いくつかの回想的日記がつづられた。新しい政治都市鎌倉の誕生によって東海道は整備され、京と鎌倉の往反の旅を素材とした日記や紀行文学が成立した。
●「建礼門院右京大夫集」宮廷生活を回想する歌日記
歌日記的な作品で、天福元年(一二三三)ごろに成立と考えられる。作者の建礼門院右京大夫は、建礼門院徳子に仕えた宮廷女房で、藤原隆信と恋愛関係にあったが離別し、また平資盛との間でも恋愛関係にあった。資盛も平家一門とともに都落ちし、やがて壇ノ浦に沈む。戦乱にもてあそばれた女性の悲哀が切々と語られており、情感あふれる作品となっている。
▶「建礼門院右京大夫集」より
恐ろしきもののふどもいくらもあるなる。何となく東よりも西よりも、夢にだに見たることなく恐ろしき武士どもが数もなく集ふと聞こゆるを……
(口語訳)恐ろしい武士どもが西国にたくさんいるとのうわさを聞くので、何となく東からも西からも、夢にも見たことのないような恐ろしい武士どもが数知れず集まってくると聞こえてくるので……
- 建礼門院右京大夫
- 平安末期〜鎌倉初期の人。高倉天皇の中宮建礼門院徳子(平清盛の娘・安徳天皇の母)に仕えた歌人。藤原伊行の娘。「新勅撰集」などの勅撰集に入集している。
- ▶「たまきはる」
- 承久元年(一二一九)ごろまでに成立か。藤原俊成の娘(藤原定家の姉妹)作。建春門院への出仕記録。
- ▶「平家公達草子」
- 作者未詳。鎌倉初期成立か。平重衡など平家周辺の逸話を収める。一部絵巻として残っている。
- ▶「源家長日記」
- 源家長作。鎌倉初期成立。「新勅撰集」の編纂過程や撰者たちの動向などを記す。
- ▶「弁内侍日記」
- 弁内侍(藤原信実の娘か)作。後深草天皇の宮廷への出仕記録。
▶「建礼門院右京大夫集」より(続き)
かと聞けば、いかなることをいつ聞かんと悲しく心憂く、泣く泣く寝たる夢に、常に見しままの直衣にて、風のおびやかたたしく吹く所に、いと物思はしげにうちながめてありと見て、騒いで今の心地、言ふべきかたなし。ただ今もにさめたる心地、言ふべきかたなし。
波風の荒き騒ぎにただよひてさこそはやき空なかるらめ
(口語訳)いつそのような(知らせを)聞くことになるのかと悲しく思いながら泣く泣く寝ていると、夢にいつも見ていたままの直衣姿で(資盛が)現れ、風の激しく吹きすさぶ所でたいそう物思いに沈んだ様子でいる姿を見て、胸騒ぎのあまり(目が覚めてみると)今の気持ちはとても言葉では言えない。(歌—)波風の荒い騒ぎに漂って、さぞ(あなたの魂は)空の彼方に飛んでいることだろう。
●その他の日記・紀行
「源家長日記」は「新古今集」成立期の記録として重要。「中務内侍日記」・「とはずがたり」は宮仕えの回想を主体とし、「十六夜日記」は紀行部分をもつ新しい特徴がある。鎌倉時代初期の和漢混交文(→p.82)で描いた「海道記」・「東関紀行」は、東海道の情景と旅情を伝える代表的な紀行文学で、「平家物語」などに影響を与えた。
●「とはずがたり」
後深草院二条(久我雅忠の娘)作。正和二年(一三一三)までに成立か。十四歳で後深草院の寵愛を受け、西園寺実兼や性助法親王・亀山院などとも交渉が重ねられ、後年出家して鎌倉・厳島などへの修行の旅に赴く。赤裸々な愛欲生活の告白と、修行遍歴の旅の描写に特色が見られる。
- ▶「中務内侍日記」
- 中務内侍(藤原経子)作。正和五年(一三一六)以後成立か。伏見天皇の宮廷への出仕記録。
- ▶「十六夜日記」
- 阿仏尼作。弘安三年(一二八〇)ごろ成立か。藤原為家の後妻で、息子の領地相続争いのため鎌倉に下向した道中を記す。鎌倉中期の女流歌人。
- ▶「海道記」
- 作者未詳。貞応二年(一二二三)以後成立か。年老いて出家した作者が京から鎌倉へ下向した旅を記す。道中の感懐や旅で深めた仏教観などを記している。
- ▶「東関紀行」
- 作者未詳。仁治三年(一二四二)以後成立。京から鎌倉へ下向する道中と、鎌倉滞在中の見聞を記す。
「とはずがたり」巻二
(性助法親王は)暗道に入りても、〈仏の御しるべ、こはいかに〉と思ふほどに、「仏の御しるべ」などと仰せられて、泣く抱きつき給ふも、こは何事ぞなど言ふべけれども、人の御ため忍びつつ、見つる夢の御名の残りなど申し上げれば、伴僧とも参られて後ろの方より急ぎ逃げ帰り給ひて、「後夜のほどに今一度、かならず」と仰せありて……
(性助法親王が突然入っていらっしゃったので)こはいったいどうしたことかと思いながら、「仏の御しるべ」などとおっしゃられて、泣きながら(私に)抱きつき申されるものの、これは何事かと言うべきではあったが、(後深草院の)お立場を思って忍びつつ、「見た夢の御縁」などと申し上げると、(性助は)供の僧たちとともに参られていて、後ろより急いでお逃げ帰りになって、「後夜のころにもう一度、必ず」とおっしゃって……
随筆・法語
争乱や天災などと激動する時代にあって、現実社会に不安を抱き、あるいは不満や批判をもって現実社会から離脱し、隠者(隠遁者・世捨て人)となった人々が、出家という形で山里に庵を結び、仏道修行に励み、この世の無常を観じ(→p.81語注「無常観」)、また諸国を遊行したりして、独自な立場からいくつかの文学作品を残した。これを隠者文学という。
随筆の代表として、鎌倉時代初期の鴨長明(1155–1216)の『方丈記』、鎌倉時代末期の兼好(吉田兼好、1283–1352ごろ)の『徒然草』などが有名である。
また、この時代には、厭離穢土・欣求浄土を心から願った宗教家たちが書いた平明な仮名書きの法語もある。これを「仮名法語」と呼ぶ。感銘深いものも多く、多くは平明な仮名書きである。
三大随筆の比較
|
枕草子 |
方丈記 |
徒然草 |
| 作者 |
清少納言 |
鴨長明 |
兼好 |
| 成立 |
平安中期(10世紀ごろ) |
鎌倉初期(建暦二年・1212) |
鎌倉末期(1330年ごろ) |
| 文体 |
散文 |
和漢混交文 |
和漢混交文および散文 |
| 内容 |
類聚的章段・日記的章段・随想的章段 |
大火・大風・地震などの天変地異と草庵での生活 |
有職故実等多方面にわたる |
| 特色 |
「をかし」の理念・王朝美の賞讃 |
無常への詠嘆 |
人間観察に立脚した省察・人生批評 |
『方丈記』
鴨長明作。建暦二年(1212)成立。
- ▶ 鴨長明
- 歌人・随筆家・説話集編者。久寿二年(1155)?〜建保四年(1216)。下鴨神社の神官、鴨長継の子として生まれたが、父の早世の後、二十歳ごろからは不遇に悩み、和歌・琵琶に励んだ。後鳥羽院に認められ、院の歌所宿人として活躍したが、五十歳のころ院の妨害により氏神の神官着任がかなわず、突然出家し遁世してしまう。日野の外山の方丈の庵に移り住み、仏教説話集『発心集』や歌論書『無名抄』なども著した。
- 【語注】
- *方丈:一丈(約三メートル)四方の広さの部屋。書名はこれによる。
- *大原:京都市左京区の洛北の地。隠者たちの住処として知られる。
- *日野:京都市伏見区。方丈の庵があった場所。
- *『発心集』:長明の著による仏教説話集。他に歌論書『無名抄』・家集がある。
〈表現・文体〉
前半で五つの大きな災厄を描いて世の無常を詠嘆し、後半で閑居の生活を賞賛し、終末で急激な自己否定を行うという、明確で論理的な構成をもっている。文章も明快であり、対句を多用した漢文訓読調をまじえた和漢混交文(→p.82)で、五大災厄の描写はリアルで鮮烈な印象を残すものとなっている。
【「方丈記」安元の大火】
ヒロゲタルガゴトク末広ニナリニケリ。遠キ家ハ煙ニムセビ、近キアタリハヒタスラ焔ヲ地ニ吹ツケタリ。空ニハ灰ヲ吹タテタレバ、火ノ光ニ映ジテ、アマネク紅ナル中ニ、風ニタエズ吹キ切ラレタル焔、飛ブガゴトクシテ、一二町ヲ越エツツ移リユク。
(扇を)広げたように末広がりになってしまった。遠い家は煙にむせび、近い辺りではひたすら炎が地面に吹きつけていた。空には灰が舞い上がり、火の光に映えて空一面が真っ赤に見える中、風に堪えられず吹き切られた炎が飛ぶように一二町先へと次々と移っていく。
〈影響〉
慶滋保胤(平安期の漢文人・学者)の「池亭記」に構想をならって、中世文学全体に大きな影響を与えた。
鴨長明関係年表
| 年号 | 西暦 | 事項 |
| 久寿二年 | 1155 | 鴨長明、生まれる? |
| 保元元年 | 1156 | 保元の乱おこる |
| 平治元年 | 1159 | 平治の乱おこる;父長継、没するか |
| 安元三年 | 1177 | 安元の大火 |
| 治承四年 | 1180 | 治承の旋風・福原遷都;源頼朝、挙兵 |
| 養和元年 | 1181 | 養和の大飢饉 |
| 元暦元年 | 1184 | 元暦の大地震 |
| 元久二年 | 1205 | 長明、歌所宿人となる(五十歳) |
| 建暦二年 | 1212 | 『方丈記』成立 |
| 建暦三年 | 1213 | 『新古今集』選進 |
| 建保四年 | 1216 | 長明、没 |
『徒然草』
兼好作。元弘元年(1331)ごろほぼ成立か。
徒然草には尚古的態度が見られるが、同時に、「折節の移りかはるこそ、ものごとに哀れなれ」(第19段)のように自然や事物がたえず変化する「変化の過程」をも注視するのである。さらには、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(第137段)—移ろいゆく自然の姿にこそ無常の美ともいうべき美しさを感じる—「世は定めなきこそいみじけれ」(第7段)とまで言い切るのである。
無常は人事にも及ぶ。「死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり」(第155段)であるのだから、「人、死を憎まば、生を愛すべし」(第193段)と無常観に立脚した人生への深い省察を力説する。
人間観察についても深く鋭い洞察をもち、自然や美、社会や人間の複雑で微妙な心理を的確にとらえている。柔軟な思考が働き、多方面にわたって深い内容をもっている。
- ▶ 兼好(吉田兼好)
- 弘安六年(1283)ごろ〜観応三年(1352)以後。俗名卜部兼好。吉田神社の神官の家系に生まれたが、祖父のころから関東の地と関係が深く、二十代後半から三十歳前後にかけて六位蔵人として仕えた。後に出家し遁世して禅を修めた。四十代の終わりごろには「和歌四天王」といわれ、二条良基とも交流した。有職故実・古典の学者でもあり、晩年は仁和寺近辺に住んだとも伝えられる。家集に「兼好法師集」がある。
〈表現・文体〉〈比較・影響〉
全般にわたって平易・簡明で、均整のとれた和文でつづられており、深い情趣や思索を感じとらせる。むだのない抑制のきいた文体は、隠者文学・随筆文学の代表的作品である。「枕草子」(→p.59)と比べると、「枕草子」は王朝美の賞讃が主調であり、「方丈記」が無常への詠嘆で終わりがちなのに対して、「徒然草」の場合は思索的な深まりをもち、美意識を確立しているとされる点は高く評価されるべきである。のちの正徹(→p.74)や心敬(→p.76)などに大きな影響を与え、また、近世においても処世訓・人生訓の教訓書として受容されていった。
「徒然草」から
①
世のなかに、なにがしとかやいし世捨て人の、「この世のほどにかよひし身に、ただ空の名残のみ惜しき」と言ひしこそ、まことにさも覚えぬべけれ。(百段)
(ある世捨て人が、)「この世に生きてきた身にとって、ただ空の名残だけが惜しい」と言ったのが、まことにそうだと思われる。
②
老い来たりてはじめて道を行ぜんと待つことなかれ。古より、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、たちまちこの世を去らんとする時にこそ、はじめて誤りに気がつくのである。
老いになってから初めて仏道を行おうとして待つことはやめよ。古から、多くの場合若いうちに亡くなるのだから。思いがけず病を受けて、たちまちこの世を去ろうとする時になって初めて誤りに気がつくのである。
兼好関係年表
| 年号 | 西暦 | 事項 |
| 弘安六年 | 1283 | 兼好、このころ生まれる |
| 正安三年 | 1301 | これ以前に兼好、蔵人として出仕 |
| 元弘元年 | 1331 | 元弘の変;「玉葉集」成立;「徒然草」成立か |
| 元弘三年 | 1333 | 鎌倉幕府滅亡 |
| 建武元年 | 1334 | 建武の新政はじまる |
| 暦応二年 | 1339 | 「神皇正統記」成立;南北朝時代はじまる |
| 貞和五年 | 1349 | 「風雅集」成立 |
| 観応三年 | 1352 | 兼好、このころ没か |
③過ぎぬるかたの誤れる事は知らるなれ。誤りといふは他の事にあらず、速やかにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、ともかくにして過ぎにけることも忘るまじきなり。(第四十九段)
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行くへ知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべき梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。(第一三七段)
花は満開のときに、月は雲ひとつない時だけを見るものではない。雨の中で月を恋しく思い、部屋に引きこもって春の行方知らぬのも、しみじみと情趣が深い。咲きそうな梢、散り崩れた庭などこそ見どころが多いのだ。
● 法語
新仏教の開祖たちの教導の言葉が、問答や談話・消息(手紙)などの形で多く残されている。それらの中には、悟りのむずかしさ・苦悩・迷いなどについての率直な疑問が示され、また、これらの苦悩や迷いを厳しく凝視する真剣さにあふれている。その弁説の中に、新しい人間観・社会観・宗教観のあらわれを見ることができる。
- 【語注】
- *新仏教:鎌倉時代に新しくおこった浄土宗・浄土真宗・法華宗(日蓮宗)・時宗・臨済宗・曹洞宗などの仏教宗派。
- ▶ 法然
- 長承二年(1133)〜建暦二年(1212)。浄土宗の開祖。専修念仏による極楽往生を説く。
- ▶ 親鸞
- 承安三年(1173)〜弘長二年(1263)。浄土真宗の開祖。法然の門下として、絶対他力・悪人正機を唱えた。
- ▶ 「歎異抄」
- 鎌倉中期成立。悪人正機など法然・親鸞の思想をさらに押し進め、親鸞の談話を弟子の唯円がまとめたもの。
法然の「選択本願念仏集」・親鸞の「教行信証」・日蓮の「立正安国論」・道元の「正法眼蔵」・「正法眼蔵随聞記」・一遍の「一遍上人語録」などが注目される。また、「一言芳談」は、隠遁した聖たち(浄土宗系の念仏者)の名言を書き集めたもので、「徒然草」などに影響を与えた。
「歎異抄」から(悪人正機説)
善人なほもちて往生をとぐ、いかにいはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」と。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。〔中略〕煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はとぞ仰せ候ひき。
善人でさえ往生できる、まして悪人においてはなおさらである。ところが世の人はいつも「悪人でさえ往生できる、まして善人はなおさら」と言う。これは一応もっともに見えるが、本願他力の趣に背いている。〔中略〕煩悩に満ちた私たちは、どのような修行によっても生死を離れることができないのを憐れんで阿弥陀が立てた本願は、悪人が成仏するためにこそあるのだから、他力を頼みとする悪人こそ最も往生の正因である。だから善人でさえ往生できるのだから、まして悪人はなおさらだ(と親鸞聖人は)おっしゃった。
- ▶ 日蓮
- 貞応元年(1222)〜弘安五年(1282)。法華宗(日蓮宗)の開祖。法華経を仏法の根本とし、「立正安国論」を著した。
- ▶ 道元
- 正治二年(1200)〜建長五年(1253)。曹洞宗の開祖。栄西に禅を学び、越前に永平寺を創建した。
- ▶ 「正法眼蔵随聞記」
- 道元の談話を弟子の懐奘がまとめたもの。延応元年(1239)ごろ成立か。
- ▶ 一遍
- 正元元年(1239)〜正応二年(1289)。時宗の開祖。諸国を遍歴し、踊念仏を広く庶民に勧めた。「踊行上人」ともいわれる。
- 【語注】
- *悪人正機説:親鸞の唱えた思想で、罪深いおろかな人間こそ、阿弥陀仏が救ってくれるという考え方。
芸能・歌謡
芸能
農村で田植えなどのときに農耕儀礼として演じられていた田楽は、平安時代の末になると貴族の間にも広まり、物まねや曲芸などの猿楽(散楽・中楽)も庶民の間で流行した。鎌倉・室町時代に曲芸などは滑稽さを主とした歌舞を伴う短い対話劇を演じるようになり、田楽の能・猿楽の能と呼ばれるようになった。今日の能の源流で、専門の芸能者たちもあらわれ、座という集団を作り、有力な寺社に所属した。
この中で、大和猿楽四座のうち、結崎座に出た観阿弥清次は、田楽や近江猿楽の特色を取り入れ、能の主流となった。その子世阿弥元清は、将軍足利義満に寵愛され、能を新たしく作りかえて、複式夢幻能など優美な歌舞中心の能を作りあげ、能を大成したといわれる。
能
シテ(主役)・ワキ(脇役)・ツレ(従者)といわれる能役者が、地謡や囃子にともなって歌い舞う劇で、『伊勢物語』『源氏物語』『平家物語』などに題材をとった曲が多い。
- 観阿弥清次
- 元弘三年(一三三三)〜至徳元年(一三八四)。嵯峨の大夫で、室町幕府第三代将軍足利義満に認められ、能楽発展の基礎を作った観世流の祖。『通小町』『卒都婆小町』などがある。
- 世阿弥元清
- 貞治二年(一三六三)〜嘉吉三年(一四四三)。少年時代から足利義満に寵愛され、父観阿弥の没後、跡を継いで結崎を率いた。曲の多くは世阿弥の作品による。能楽論『風姿花伝』(花伝書)・『申楽談儀』などがある。現行曲に『高砂』『敦盛』『井筒』『班女』『百万』などがある。
謡曲
謡曲は観阿弥・世阿弥の作になるものが多く、古典文学や民間伝承などを素材にしたものが多い。その詞章は謡曲と呼ばれ、古歌や名文をふまえた縁語・掛詞を駆使した七五調の流麗な文章で、幻想的な王朝美の世界を作りあげる。世阿弥は能の美しさ・面白さを「花」として、深く幽玄な情趣を追求した。
演能は、一番目(神事物)・二番目(修羅物)・三番目(鬘物)・四番目(雑物)・五番目(鬼畜物)と五番仕立てが多かった。
謡曲・井筒
(井筒の女の霊が、在原業平との恋をしのぶ場面〔1〜10は下段参照〕)
ワキ 更けゆくや、在原寺の夜の月、夢待ちそへて、苔の筵に臥して仮枕
シテ 苔の筵に臥していにけり
シテ あたりと名にこそ立てれ桜花、年年に待つ女もあいだけり
地謡 みしわれなれば、人待ち女と言はれしな……花、年年に稀なる人も待ちけり
地謡 筒井筒の昔より、今は恥づかしき世の業平に、真弓槻弓年を経て、形見の衣みずからに触れて
シテ 雪を颯らす花の袖
地謡 昔男に身になりて、昔そのままに月ぞやけ、返す在原の、寺井に澄める、月ぞやけ
ワキ=旅の僧(霊を呼び返そうとして衣の袖を裏返す)。夜が更けて出逢いを期待したが、仮の宿で待ったのに散ってしまった桜の花……。真心がないのは桜の花だと思っていたが、一年めったに来なかったのは人のほうでした。(『伊勢物語』第十七段)
「筒井筒」は、筒のように丸く囲った井戸のこと。「筒井の昔」は若いころの恋の意で、(『伊勢物語』恋歌)の素材として用いている。真弓・槻弓は弓の素材となる木。業平の形見の衣を身に纏ったシテは業平その人の姿になりて、月の光の中に消えていく。生前のはるかな昔のことが、今は業平の「業」になってしまった、ということ。
謡曲「井筒」(続き)
シテ 月やあらぬ、春や昔
地謡 と詠めしも、いつの頃ぞや、筒井筒、筒
地謡 生ひにけらしな
シテ 老いにけるぞや
地謡 筒井筒、井筒にかけし昔男の、冠直衣は女と見れ
地謡 さながら見えし昔男の、業平の面影、男見れば懐かしや
地謡 われながら懐かしや
業平の形見の衣を身にまとったシテは、雪を颯と払う業平の姿を再現させようとして舞う。在原寺の井戸に映っているのは去年の月影。「月やあらぬ……」は、「月も春も昔のままで変わらないのに、わが身だけが去年より老いてしまった」(『伊勢物語』第四段)を素材としている。業平の冠直衣をつけた女(シテ)の姿は昔男・業平その人の面影そのままに月の光の中に消えていく。
- 音阿弥元重
- 応永五年(一三九八)〜応仁元年(一四六七)。将軍足利義政に寵愛された観世座の大夫で、能楽の普及に貢献した。
- 金春禅竹
- 応永十二年(一四〇五)〜応仁二年(一四六八)ごろ。世阿弥の娘婿で、金春座の大夫。能楽論『六輪一露』などがある。作曲に『定家』『芭蕉』などがある。
狂言
世阿弥以後には、能役者として活躍した音阿弥元重・金春禅竹などが注目される。
狂言は、シテ(主役)やアド(脇役)、従者役に太郎冠者などを配し、口語による対話と物まねで成り立つ演芸で、初期には即興的に演じられる部分が多く、滑稽で卑俗な笑いを主なねらいとしている。やがて能との間に上演されるようになり、民衆の鋭い批判精神や下剋上の風潮を強く反映していた。脇狂言・大名狂言・鬼山伏狂言などの種類も固定化してきた。社会や権力に対する痛烈な皮肉や風刺がこめられている。
狂言「柿山伏」
(シテ=山伏、アド=柿主)
アド これはいかな事、柿の木へいかめしい
シテ 山伏が登りて柿を食う。何としてやらうぞ、イヤ山伏を荒立てれば却って仇をなすと申す程に、散々になって帰さうと思えば、ヤァく、あの柿の木の影へ隠れたを人だと思えば
アド く、山伏を荒立てれば
シテ ハァ、からすじゃといふ。
アド 鳥といふ物はなくものじゃな。
シテ 鳥は人で有らう。弓矢をおこせ、射殺いてやらう。
アド さればこそ鳴かずは成るまい。こかあくく。
シテ さてかくては能う見れば、あれは鳥では無い、猿じゃ。
アド 猿といふものは、身をせせりをして嗚かずは成るまい。
シテ 又猿じゃといふ。
アド かずは人で有らう、鉄砲を持って来い、打ち殺いてやらう。動きをして嗚く物じゃが、なかぬか。
幸若舞・説経節
室町時代後期には、物語に合わせて舞が行われた。『義経記』『曾我物語』(→p.83)など軍記物語の内容をもとにした幸若舞のものが多く、武将たちの間でも人気が高かった。また、庶民の間では「説経節」と呼ばれる民衆の悲痛な物語が語られていた。残忍な場面もリアルに取り上げられており、異彩を放っていた。『山椒太夫』や『小栗判官』などが有名である。
説経節「山椒太夫」
あらいたはしやな御師さまは、づし王殿に
いかにづし王丸、これは丹後の習ひかや。さらば食事をも賜らず、干し殺すかや、六月晦日に、夏越の祓ひの輪に、弟は姉に抱きつきて、すがりつき、悲しやと、流涙(涙ヲ流スコト)、姉は弟にあれていてお泣きある。
歌謡
小歌
室町時代になると、七五調をもとにしながらも、自由な詩型の小歌が流行した。男女の間の恋情をうたったものが多く、話し言葉や対話が取り入れられており、庶民の情感を生き生きと伝えている。『閑吟集』(一五一八年成立)や『宗安小歌集』など小歌の歌集も編纂された。謡曲や狂言、『田植草子』や中国地方の田植えの時の歌謡を集めたものも多く、相互の深い影響関係が考えられる。
独り寝はするとも 嘘な人は嫌よ 心は尽 くひて 証無やなふ 世の中 嘘が去ねかし 嘘
(『閑吟集』より)
たとえ独り寝をすることになろうとも、嘘をつく人は嫌よ。心を尽くして誠実にしても、かいがないこと。世の中から嘘つきがいなくなればいいのに。
中世文学のポイント・チェック
和歌
- 『新古今和歌集』:元久二年(一二〇五)成立。後鳥羽院の命により撰進。八代集の最後。撰者は源通具・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮ら六人。
- 歌風:西行・後鳥羽院。父俊成の幽玄を進め、妖艶・有心という象徴的な表現を特色とする。藤原定家:新古今の代表的歌人。新古今と万葉の比較。
- 『金槐和歌集』:建暦三年(一二一三)ごろ成立。源実朝の私撰集。
連歌・俳諧
- 連歌:南北朝から室町時代に発達。二条良基が『菟玖波集』を撰進。心敬・宗祇が大成。
- 俳諧連歌:山崎宗鑑『犬筑波集』・荒木田守武『守武千句』。
歴史物語・歴史書
- 『増鏡』:四鏡の最後。
- 『愚管抄』(慈円)・『神皇正統記』(北畠親房)。
軍記物語
- 『保元物語』『平治物語』『平家物語』『義経記』『太平記』など。
『平家物語』と『太平記』の比較
| 平家物語 | 太平記 |
| 語り手 | 平曲(琵琶法師) | 太平記読み |
| 内容 | 源平の争い・無常観 | 南北朝の争乱・政道批判 |
| 文体 | 和漢混交文 | 和漢混交文 |
| 成立 | 十三世紀半ば | 十四世紀半ば |
| 作者 | 未詳 | 未詳 |
日記・紀行・随筆
- 『海道記』『東関紀行』など紀行文学。
- 『方丈記』(鴨長明):前半は五大災厄、後半は方丈の庵での閑居生活。文体は和漢混交文。
- 『徒然草』(吉田兼好):元弘元年(一三三一)ごろ成立か。王朝趣味・有職故実への関心。「無常の美」を確立。王朝趣味。
- 『とはずがたり』(後深草院二条):日記・紀行。
説話・御伽草子
- 説話文学:『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』『発心集』『沙石集』など。
- 御伽草子:『一寸法師』『物くさ太郎』『鉢かづき』など。
芸能
- 能:田楽・猿楽から発達。観阿弥・世阿弥によって大成。世阿弥の能楽論:『風姿花伝』(花伝書)・『申楽談儀』。美の理念:「花」・「幽玄」。
- 狂言:滑稽を主として、社会や権力への批判・風刺をこめる。
- 幸若舞:室町末期に成立。簡単な舞を伴う語り物。
歌謡
- 和讃:親鸞『三帖和讃』・一遍『別願和讃』など。
- 早歌(宴曲):明空『宴曲集』。武士の教養の向上に役立った。
- 小歌:室町時代に流行。七五調・自由な詩型・恋情。『閑吟集』(一五一八年成立)。