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上代の文学
高松塚古墳壁画
上代の文学【概観】
年代表(紀・大和時代)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 紀元前 | *縄文文化時代 |
| 三〜一世紀ころ | *弥生文化時代 |
| 紀元 | *小国の分立 |
| 三世紀ころ | *邪馬台国の統治/*古墳文化の発生 |
| 五〜六世紀ころ | *大和朝廷の全国統一/*漢字の伝来 〔口承文学〕*歌謡・神話 |
| 五三八 | *仏教の伝来 |
| 五九二 | 〔記載文学〕*推古天皇即位/*聖徳太子が摂政になる |
| 六〇七 | *遣隋使(小野妹子ら)派遣 |
| 六四五 | *大化改新の断行 |
| 六六七 | *近江大津宮に遷都 |
| 六六八 | *天智天皇即位(万葉歌人)/*額田王らこのころ活躍 |
| 六七二 | *壬申の乱/*天武天皇即位(万葉歌人) |
| 六九四 | *藤原京に遷都/*白鳳文化の発達 |
| 七〇一 | *大宝律令の制定 |
| 七一〇 | *平城京に遷都/*柿本人麻呂らこのころ活躍 |
時代区分
平安遷都(延暦十三年、七九四)のころまでを上代とする。藤原京や平城京など、主として大和地方(今の奈良県)に政治・文化の中心が置かれていた時代の文学を意味する。
文学の誕生
日本列島にも、一万年以上前には先土器文化の時代があった。それから数千年を経て縄文時代に入ると、石器や土器などの生産用具を用いた採集生活の時代となった。紀元前三世紀から二世紀ころになると、弥生時代が始まり、水稲耕作の技術が伝来して、採集生活の時代に比べて生産力は一段と高められた。定住化した集団生活がそこに営まれるようになった。
こうした氏族共同体は、独自の文化を生み出していったが、一方、生産力の上昇に伴ってしだいに統合され、やがていくつかの小国へと進展していった。その時代から、人々は、外界の自然に対する畏怖の念をもち続けていた。生産の豊饒を祈念するため、そこにあらわれる超人間的な力を神とした。これが、〈祭り〉の起源であり、共同体の安定は、こうした祭りによって維持されることとなった。
祭りの場で語られる神聖な詞章(呪言や呪詞と呼ばれる)が、文学の原型である。これらの詞章は、日常の言語とは異なる、韻律やくり返しをもつ律文表現であった。それはまた、祭りの場の音楽や舞踊とも一体化した、きわめて混沌とした表現であったと思われる。
しかし、共同体が統合され、小国からやがて統一国家が形成される過程の中で、祭りの神聖な詞章もしだいに言語表現として自立・洗練されていった。そこに生み出されたのがさまざまな歌謡や神話であった。
年代表(奈良時代)
| 年代 | 主要作品・できごと(*印) |
| 七一二 | *古事記 |
| 七一三 | *『風土記』編纂の命下る |
| 七一五 | *播磨国風土記(このころ成立か) |
| 七一八 | *養老律令の制定 |
| 七二〇 | *日本書紀 |
| 七二三 | *常陸国風土記(このころ成立か)/山部赤人・山上憶良・大伴旅人らこのころ活躍 |
| 七四〇 | *出雲国風土記(このころ成立か) |
| 七四四 | *山背恭仁京に遷都 |
| 七四五 | *難波京に遷都/*平城京を復する/*天平文化の発達 |
| 七五一 | *懐風藻 |
| 七五二 | *東大寺大仏開眼供養 |
| 七五四 | *仏足石歌碑/*唐僧鑑真が来朝/大伴家持らこのころ活躍 |
| 七五九 | *万葉集中、最後の歌 |
| 七六四 | *恵美押勝の乱 |
| 七六九 | *道鏡皇位事件 |
| 七七〇 | *阿倍仲麻呂、唐で客死/万葉集(このころ成立か) |
| 七七二 | *歌経標式(藤原浜成) |
| 七八四 | *長岡京に遷都 |
| 七八五 | *大伴家持、没す |
| 七八九頃 | *高橋氏文 |
| 七九四 | *平安京に遷都 |
口承から記載へ
日本人は独自の文字表記をもたなかったので、歌謡や神話は、当初は口頭による伝承(口承)をそのたてまえとしていた。しかし、統一国家が形成され、大陸から漢字が伝来し、人々がその使用に習熟すると、そうした歌謡や神話を、異質な文字言語である漢字(漢文体)で表記することには大きな困難があった。そうした中で、伝承された国語を忠実に表記するため、表音文字である漢字を表音的に使用する方法が考案されたのである。こうした試みが、万葉がなを経て、のちに片かな・平がなのかな文字を生み出すことになるのである。
古代国家の文学
古代国家は、その制度的な範型を中国大陸のそれに仰いでいた。天皇を中心とする絶対的国家の確立は、律令体制という外来の制度によって支えられることになったのである。さらに、仏教を初めとする中国文化の受容も積極的に進められ、その制度・文物にわたるこのような中国文化の影響の下で、自国の独自性に対する認識も深められていく。格調高い飛鳥・白鳳文化、絢爛たる天平文化が生み出された。
八世紀の初めに相ついでまとめられた『古事記』『日本書紀』『風土記』は、こうした国家意識の目ざめに照応する試みが、史書や地誌の編纂であった。八世紀の初めに相ついでまとめられた、口承の古代国家による集大成であった。また、中国文化の影響を直接に反映して漢詩文も盛んに作られていく。八世紀の半ばに作られた『懐風藻』の中にまとめられていった。
『万葉集』の中には、歌謡から派生した和歌も独自な達成を遂げ、集団性を離れた個的な叙情も詠みこまれている。それらは、口承から記載への過程の中で、神話・伝説や歌謡の、また、口承から記載の、神話は散文化への道をたどるのである。
● 第一章 神話の世界
古代の人々は、外界に広がる自然の中に、超人間的な力(神の力)のあらわれを見いだし、それを神として恐れ、敬った。神を祭ることで、その生活の場であった自然の中に、神の事績が語られた。共同体の祖先もまた神とされ、祭りの場では、祖先神の活躍は、共同体の起源の物語として語り伝えられた。祭りの場では、また地名の由来や事物の起源を伝える話も語り伝えられた。それが神話である。
● 神話
神話は、祭りの場における、神にかかわるさまざまな語り伝えである。これらの神話は史実ではなく、古代人の奔放な想像力によって生み出されたものといえる。しかし、それは単なる空想ではなく、古代人の実生活に裏づけられた一つの真実を語り伝えるものであった。
神話は、本来、祭りの場における神聖な〈語りごと〉として口頭伝承(口承)として語り伝えられた。しかし、大陸から漢字が伝来し、人々がその使用に習熟すると、神話もまた漢字を使って〈語りごと〉として記載されるようになる。こうした口承から記載への過程の中で、神話は記載文学として散文化の道をたどっていく。
● 神話の体系化
神話は、共同体が統合され、統一国家が形成される中で再構成されていく。
武人の埴輪 古墳時代の武人の様子がうかがわれる。
(神話は、)編され、新たに国家の神話として体系化されていく。それらを集大成し、まとめあげたものが、『古事記』『日本書紀』および『風土記』である。
『古事記』
太安万侶撰録。和銅五年(七一二)成立。
〈成立〉
太安万侶の序文には、次のような内容が記されている。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、当時諸氏族が持ち伝えていた帝紀や本辞を比較・検討して、その誤りを正し、国家の伝承を正しく後世に伝えるため稗田阿礼に誦み習わせた。その後、和銅四年(七一一)、太安万侶が元明天皇の命を受けて、阿礼の誦み習ったものを撰録し、翌五年に完成奏上したのが『古事記』である。
〈内容〉
三巻から成る。上巻は神代の物語で、天地創造の初めから神武天皇の誕生まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収める。
上巻は、伊邪那岐・伊邪那美二神による国土創成、天照大神(皇室の祖神)を主宰神とする高天原の成立、天孫降臨などを内容とする。出雲系神話など諸氏族の神話を軸に、天孫系の後裔である皇室の支配の正統性を強調するものとなっている。
『古事記』序文(真福寺本)
太安万侶の墓 丘陵地の茶畑で発見された。奈良市此瀬町。
中・下巻には、神武天皇をはじめ倭建命・神功皇后・仁徳天皇・雄略天皇など英雄的人物を中心とする伝説、軽太子と衣通王の悲恋物語などが記される。中巻が神話・伝説的であるのに対し、下巻は人の世の物語としての性格が顕著になっている。史書としての価値はさほど高くはないが、皇室を中心に諸氏族の伝承を統合し、さらに歌謡百十余首を織りこんで、生き生きとした叙事的世界が文学性豊かに描き出されている。
〈表現・文体〉
純粋な漢文体で記された序文以外は、漢字の音訓をまじえた変則の漢文体で記されており、語りつがれた本来の国語を忠実に伝えようとする努力がなされている。とくに歌謡や重要な語句は、万葉がなによる一字一音式の表記によって古意を伝える工夫がなされている。
『日本書紀』
舎人親王編。養老四年(七二〇)成立。
『古事記』に遅れること八年、元正天皇の命によって編集された。編年体の歴史書で、いわゆる六国史の初めである。全三十巻。神話・伝説など『古事記』と重複する内容を多く含むが、史書としての性格が強くうかがわれる。神代の巻を中心に、「一書曰」として多くの異伝を掲げており、時代が下るにしたがって記述の態度に相違があり、信頼できる史実が多く見られる。国家意識のたかまりの中で、対外的な威信をかけて編集されたもので、中国史書の影響も著しい。文章は、歌謡以外は純粋な漢文体で記されている。
『風土記』
和銅六年(七一三)編纂の命下る。
『古事記』成立の翌年、元明天皇は諸国に命じて、その国の地名の由来、産物、地勢、古老の伝承などを記録させた。こうしてその国の地誌を編纂させたもので、諸国の『風土記』ができた。現存するのは、唯一の完本である『出雲国風土記』を含めた五風土記と、後代の諸書に断片として引用された逸文である。これらは、地誌としての性質上、平板な記述になっているが、諸国の神話・伝説が中央政府による直接の編集の手を経ていないだけに、地方の人々の心情や生活がうかがえて興味深い。文章はだいたい純漢文体だが、変則の漢文体・宣命書も使われている。
● 氏族の伝承と仏教説話
律令体制が新たな制度として固定される中で、氏族が古くから持ち伝えてきた伝承も、独自な形でまとめ上げられていく。奈良時代末期の『高橋氏文』、平安初期の『古語拾遺』は、こうした氏族の伝承を伝える貴重な記録である。氏族間の抗争に際して、自氏の威信を示すために編集されたもので、自氏の系譜や祖先以来の功業などが記されている。『日本書紀』の記述を参照するうえで注目される。
● 『日本霊異記』
古来の伝説ではなく、仏教伝来(五〜六世紀)後に発生した仏教説話を集めたものに『日本霊異記』がある。正しくは『日本国現報善悪霊異記』。平安初期の弘仁年間(八一〇〜八二四)に薬師寺の僧景戒が編集した説話集で、主として仏教の因果応報の原理が説かれている説話が多く、布教活動の中で語り伝えられた説話の集成で、当時の庶民生活が生き生きと描き出されており、平安以降の説話集の先がけをなすものである。
● 第二章 祭りの文学
● 言霊信仰
古代の人々は、自然の中に神秘な力の存在をみとめ、それを神として祭ることで、無秩序な自然の中に安定した位置を占めようとした。荒ぶる自然の脅威を、神を祭る行為を通じて克服しようとしたのである。こうした神を祭る場に用いられた呪的な言葉が、呪言や呪詞である。
● 霊力が宿る言葉
これらは神にかかわる言葉として、神秘的な働きをもつものであった。呪言や呪詞など日常の言葉とは異なる働きをする言葉には、不思議な霊力が宿ると考えられていた。口に出して言い立てた言葉は、そのまま事実として実現され、よい言葉・美しい言葉はサキハヒ(幸)をもたらし、悪い言葉はワザハヒ(禍)をもたらすという。「言」と「事」との同一性が信じられていたのである。こうした言葉に宿る霊力(言霊)に対する信仰を言霊信仰と呼んでいる。
原始的な共同体社会の中から統一国家が形成されると、祭りも国家的規模で行われるようになり、その内容も、皇室の長久と国家の安泰を祈るものになっていった。祭りの言葉である呪言や呪詞も儀礼化され、洗練された文飾が施されて長大な詞章として完成された。これが祝詞である。
祝詞
〈表現・文体〉
祝詞の表現は韻律がことに重んじられ、また対句や反復が多用され、荘重な印象を与えるが、反面、その形式性・類型性も著しい。表記はいわゆる宣命書である。
銅鐸 祭器として使われていたらしい。
現存する祝詞は、『延喜式』別記に収められた二十七編と、『台記』別記に収められた一編のみである。
宣命
宣命とは、元来、天皇の命を宣べ伝えることを意味したが、平安時代に入ると、漢文体のものを詔勅、和文体のものを宣命と呼ぶようになった。即位・改元・立后・立太子など、国家の大事に際して宣布されたもので、政治的意図も見いだされる。
〈表現・文体〉
表現は荘重で、祝詞に類似するが、その実用的な目的に応じて、散文化への方向も示されている。仏教など、外来思想の影響も見いだされる。表記は宣命書である。
現存のもので古いのは、『続日本紀』に収められている六十二編で、文武天皇以降のものである。
大祓(年中行事絵巻)
● 第三章 詩歌
● 古代歌謡
古代歌謡の起源は、共同体の祭りの場で、人々によってうたわれたうたにあった。これらのうたは、神への祈りや感謝をあらわすものとして、舞踊や簡素な楽器を伴う形でくり返しうたわれていた。古代の人々にとって、うたは、その信仰と生活に根ざした表現にほかならなかった。
● 歌垣・宮廷歌謡
うたは、共同体の人々によって唱されたうたわれ、また、集団的な労働や作業の能率を高める役割も果たしていた。共同体が成長し、さまざまな集団行事が営まれる中で、しだいに形式が整えられ、洗練された内容を獲得していく。それらは、統一国家が形成される過程で、宮廷儀礼の中に取りこまれ、宮廷歌謡としても伝承されていく。
これらの民謡や宮廷歌謡を総称して、古代歌謡と呼んでいる。古代歌謡の多くは、『古事記』『日本書紀』に載せられており、『万葉集』『琴歌譜』などにも収められている。
● 記紀歌謡
『古事記』『日本書紀』に収められた古代歌謡を、とくに〈記紀歌謡〉と呼ぶ。『古事記』に約百十首、『日本書紀』に約百三十首が見える。他に、『風土記』『万葉集』にも見えるものがある。
〈内容〉
これらの歌謡は、独立した民謡そのままの形ではなく、神話や伝説と結び合わされ、あるいは歌謡を中心とする物語化がなされている場合が大部分である。しかし、その内容は、祭祀・戦闘・労働・恋愛・酒宴・哀傷など多方面にわたる。
高松塚古墳壁画
歌垣(嬥歌)の行われた筑波山 「筑波嶺に逢はむと」と『常陸国風土記』に見える。
〈表現・歌体〉
表現は、古代の人々のさまざまな生活感情を知ることができる。豊かな連想や比喩を通じて、その素朴な感情が生き生きと表現されている。歌体は、まだ定型のものは少ないが、枕詞や序詞が多用され、反復や対句によって韻律美が整えられている。片歌・旋頭歌・短歌・長歌など、のちに発達する歌体の原型を見ることができる。
● 仏足石歌
記紀歌謡に類するものに、仏足石歌がある。奈良薬師寺の仏足石歌碑に刻まれた歌二十一首のことで、仏の徳を礼賛するものが多い。一字一音の万葉がなで記されており、短歌形式に七音一句を加えた歌体である(仏足石歌体)。この歌体は、『古事記』や『万葉集』にも、わずかながら見えている。
● 『琴歌譜』
また、平安中期の天元四年(九八〇)に書写された、和琴の譜本『琴歌譜』にも、二十一首の歌謡が万葉がなで記されている。記紀歌謡と重複するものが五首含まれており、注目される。古代歌謡の母胎であった共同体が、統一国家の形成とともに変質する中で、古代歌謡の表現も大きく変貌していく。
■ 和歌の発達
新たな国家の担い手である貴族たちを中心として、官僚組織が整備され、都市生活が営まれるようになると、集団性から切り離された個的なものへの自覚が生み出されてくる。歌謡は、そうした中で、表現の洗練を加えながら、集団的な口誦本位のありかたを離れて、自覚的な詩としての性格を強めていく。短句・長句の音数がそれぞれ五音・七音に固定されていく。旋頭歌の歌体が定型として整備されていくのである。こうして個的な心情をうたう、詠む歌としての和歌が発達する。長歌・短歌の性格が著しく強められ、集団内部の個的なものへの自覚が生み出されてくる。
● 歌集の編集
と、やがて歌集の編集が行われるようになった。『古歌集』『柿本人麻呂歌集』『笠金村歌集』『高橋虫麻呂歌集』『類聚歌林』などの歌集が存在したことが、『万葉集』の注記によれば知られるが、これらは現存していない。こうした中で、八世紀中ごろまでの和歌を集大成したのが『万葉集』である。
▼『万葉集』関係年表
| 年号(西暦) |
主な出来事 |
期 |
| 舒明元(六二九) | 舒明天皇即位 | ←第一期 |
| 大化元(六四五) | 大化の改新 | |
| 天智元(六六二) | 中大兄皇子(天智天皇)称制 | |
| 天智六(六六七) | 近江(大津)宮に遷都 | |
| 天武元(六七二) | 壬申の乱・天武天皇即位 | ←第二期 |
| 朱鳥元(六八六) | 天武天皇崩御・持統天皇即位 | |
| 持統八(六九四) | 藤原宮に遷都 | |
| 大宝元(七〇一) | 大宝律令制定 | |
| 和銅三(七一〇) | 平城京に遷都 | ←第三期 |
| 養老四(七二〇) | 『古事記』・『日本書紀』成立 | |
| 天平五(七三三) | 山上憶良没 | |
| 天平勝宝三(七五一) | 『懐風藻』成立 | ←第四期 |
| 天平宝字三(七五九) | 仏足石歌碑できる・『万葉集』最後の歌 | |
仏足石歌碑 天平勝宝五年(七五三)に作られた、奈良薬師寺境内に現存する石碑。仏の足跡を礼讃する歌二十一首が万葉がなで刻まれており、五七・五七・七七の音数から成る。
● 『万葉集』
〈成立〉
編者未詳(大伴家持ら)。八世紀後半に成立か。
『万葉集』は、現存するわが国最古の歌集で、二十巻からなり、約四千五百首の作品が収められている。その成立については不明な点が多く、成立年時も明確ではない。先にあげた『古歌集』『柿本人麻呂歌集』などを資料としながら、数次の編集過程を経て成立したものと思われ、その最終段階には、大伴家持が関係していたらしい。
巻によって形態や分類のしかたが一定でないことも、こうした編集過程の複雑さを示すものといえよう。こうして『万葉集』が、ほぼ現存する形に集大成されたのは、奈良朝の末ごろであったと考えられている。
〈構成・内容〉
数次の編集段階を経たことを反映して、集の組織には不統一なところがある。基本的には、雑歌・相聞・挽歌の三大部立が認められる。また、巻によっては、表現上の分類として、「正述心緒歌」「寄物陳思歌」「譬喩歌」・「旋頭歌」などが見いだされる。
歌体は、短歌が全体の九割以上を占めるが、他に長歌・旋頭歌などによる分類もある。これらを部立によって分け、さらに年代や作歌の場などを基準に配列している。
〈作者・詠作年代〉
作者は天皇から庶民まで各階層にわたり、その地域も、
歌聖 柿本人麻呂
大和を中心に東国から九州にまで及んでいる。作品の詠作年代は、四世紀ごろから八世紀後半まで、約四百五十年にわたっている。しかし、以前の作品には伝誦的な性格が著しく、実際の制作年代は明らかではない。作品の大部分は、奈良時代以後のほぼ一世紀半の間に作られたものである。
〈表記・用字〉
仮名文字はまだ発明されていなかったので、漢字によって国語を表記する方法が考え出された。これを万葉がな(万葉仮名)と呼んでいる。漢字の音訓が巧みに利用されており、『古事記』などにも使われたが、この名(「万葉がな」)で呼ばれる。
〈歌風の変遷〉
『万葉集』の歌風は、その変遷によって、四期に分けることができる。その中心となる時期は、第二期と第三期である。
〈第一期〉
舒明天皇の時代から壬申の乱まで(〜六七二)。中央集権体制が確立される激動の時期。この時期の歌を「初期万葉」と呼ぶ。万葉時代の夜明けにふさわしく、一方で古代歌謡の面影を残しながら、個的な感情が力強くうたい上げられている。素朴ながらも清新で、明るくのびのびとした調べが特徴で、後代にない美しさをたたえている。歌体も、五音・七音の定型に落ち着き始めている。
天の香具山
『万葉集』(西本願寺本)巻頭の舒明天皇の歌
万葉の歌人たち・その一
作者は、舒明天皇・天智天皇・天武天皇・額田王など皇室歌人が中心で、中でも額田王がすぐれている。
① 天の香具山に登りて国見をしたまひし時の御製歌(舒明天皇)
大和には 群山あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は
鴎立ち立つ うまし
(舒明天皇・巻一)
大和には多くの山があるが、天の香具山はそれらをひときわ際立たせる山だ。そこに登って国見をすると、大和の国土には炊事の煙がさかんに立ち上り、海上にはかもめがさかんに飛んでいる。美しい大和の国よ。
② 天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
(額田王・巻一)
③ 大海人皇子の答へたまへる歌
紫のにほへる妹を にくからば
人妻ゆゑに われ恋ひめやも
(大海人皇子・巻一)
② あかねさす(枕詞)、紫草の生えているあの御料地の野をお行きになりながら、あなたが袖をお振りになるのを、野の番人は見ていないでしょうか。
③ (②の歌に答えたもの)あなたのように美しいあなたが憎かったら、人妻であるあなたをどうして私は恋いしましょう。
〈第二期〉
壬申の乱後、平城京遷都(七一〇)に至るまでの、持統・文武両天皇を中心とする藤原京の全盛時代で、律令体制が整備された時期にあたる。一段と宮廷が繁栄と安定とを示した時期で、約四十年間。力強さとともに重厚さが加わり、枕詞・序詞・対句などの表現技巧が発達し、長歌・短歌などの形式が完成した。専門的な宮廷歌人が出現し、とくに柿本人麻呂は、その第一人者として、
雄大な構想と荘重な調べで、長歌の様式を完成させた。人麻呂は、皇室への賛歌や皇族の死を悼む挽歌をうたいあげ、妻を思う歌など私的な歌にもすぐれ、『万葉集』最大の歌人とされる。作者としては、他に、旅の歌に佳作を残した高市黒人、即興の歌人長意吉麻呂などがいる。
万葉の歌人たち・その二
近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌 并せて短歌
〔長歌〕
玉だすき 畝傍の山の 橿原の
日知の御代ゆ 生り出でし 神の尊の
あをによし 奈良山を こえて
つぎつぎに 天の下 知らしめしをば
天に越え 大和を 置きて
楽浪の 大津の宮に
天の下 知らしめしき 天皇の
神の御言の 大宮は 此処と聞けど
大宮人の 踏みし慣らしし
春草は 繁く生ひたる
ももしきの 大宮処 見れば悲しも
〔反歌〕
ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも
昔の人に また逢はめやも
(柿本人麻呂・巻一)
〔長歌〕橿原の初代の天皇の御代から生まれ出た歴代の神のような天皇たちが、代々天下を治めてこられたが、あをによし(枕詞)奈良山を越えて、楽浪の大津の宮に天下を治めになったという天皇の大宮はここだと聞くけれど、大宮人の踏みならした庭には春草が繁く生い茂っている。ももしきの(枕詞)大宮の跡を見れば悲しい。
〔反歌〕ささなみの(枕詞)志賀の大わだの水は昔ながらに淀んでいるが、昔の人にはもう二度と逢うことができようか(いや、できない)。
ささなみの志賀の辛崎 近江大津宮の湖畔の唐崎。大宮人たちの舟遊びでにぎわう所であった。
〈第三期〉
平城京遷都(七一〇)から天平五年(七三三)までの約二十年間で、奈良時代前期にあたる。律令体制はいよいよ安定し、大陸の思想や文化が輸入され、纖細・複雑な表現が和歌の世界にもあらわれるようになった。仏教・儒教・老荘思想など大陸の思想が輸入され、個の自覚が深められる中で、知的な傾向が増した。皇室歌人は減ったが、作者層と歌風は多様に分化し、万葉の盛時を築きあげた。清澄な叙景歌の世界を作りあげた山部赤人、人生の苦悩や社会の矛盾をうたった山上憶良、脱俗的な風流の中に人生の哀感をうたった大伴旅人、叙事的な長歌の中に伝説を巧みにうたいあげた高橋虫麻呂などがいる。
万葉の歌人たち・その三
① 山部赤人の歌
み吉野の 象山の際に こだたもさわく
鳥の声かも
(山部赤人・巻六)
② 「子らを思へる歌」(山上憶良)
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば
まして偲はゆ いづくより
来たりしものぞ 眼交に
もとな懸かりて 安眠し寝ぬ
〔反歌〕
銀も 金も玉も 何せむに
勝れる宝 子に及かめやも
(山上憶良・巻五)
① み吉野の象山の近くにある梢には、どれほど多くの鳥の声がさわいでいることか。
② 瓜を食べると、子どものことが自然に思われてくる。栗を食べると、なおさら偲ばれてくる。どこから来たのだろう、目の前にひっきりなしにちらついて安眠させない。
〔反歌〕銀も金も玉も、何の役に立とうか。子どもにまさる宝があるだろうか(いや、ない)。
吉野宮滝の地 象山はこの近くにある
③ 大宰帥大伴卿の酒を讃むる歌(大伴旅人)
験なき ものを思はずは 一坏の
濁れる酒を 飲むべくあるらし
(大伴旅人・巻三)
考えても仕方のないことを思い悩まずに、一杯の濁り酒を飲むのがよさそうだ。
〈第四期〉
天平六年(七三六)から、集の最後の歌の作られた天平宝字三年(七五九)までの約二十年間で、奈良時代中期にあたる。政治的な行きづまりに対する動揺や不安が広がった時代である。感傷や優雅に傾き、理知や技巧のこらされたものが多くなった。和歌は力強さを失っていった。表現も固定し、平安朝の歌風への推移を思わせる。この期の代表歌人は大伴家持で、繊細で感傷的な歌風は、次代の和歌への過渡を示した。
大伴家持(上畳本三十六歌仙絵)
万葉の歌人たち・その四
二十三日、興に依りて作る歌二首
① 春の野に 霞たなびき うら悲し
この夕影に 鶯鳴くも
② 我が家の いさざ群竹 吹く風の
音のかそけき この夕べかも
(大伴家持・巻十九)
① 春の野に霞がたなびいて、なんとなく悲しいこの夕暮れの光の中で、鶯が鳴いているよ。
② 我が家のさやさやとした竹薮を吹く風の音がかすかなことよ、この夕べは。
東歌と防人歌
しかし、『万葉集』のもう一つの側面として見のがせないのは、以上のような変遷のあとを示していることで、とくに東歌と防人歌は感動の心を数多く伝えている。巻十四に収められた東歌は、東国の民謡的な歌で、方言を交じえた素朴な調べで地方民衆の生活感情をうたっている。防人歌の多くは、巻二十に天平勝宝七年(七五五)の防人たちの歌として収められている。辺境防備のため東国から徴発された兵士たちの別離の悲しみが胸を打つ。
万葉の歌人たち・その五
①
多摩川に さらす手作り さらさらに
なにそこの子の 愛しさに愛しき
(東歌・巻十四)
②
父母が 頭かき撫で 幸くあれて
いひし言葉ぜ 忘れかねつる
(防人歌・巻二十)
① 多摩川にさらす布のように、さらさらに(清らかに)、いったいどうしてこの子がこれほど愛しいのか。
② 父母が頭をなでて、「無事であれ」と言ったあの言葉が忘れられない。
防人(万葉集画撰)
漢詩文
近江朝(六七二)のころから漢詩文への関心が高まり、天智天皇以下の宮廷人たちの間で創作が盛んになった。律令制度を模したわが国の律令官人にとって必須の教養であった。漢詩文は、伝統の和歌に対する公的な位置を獲得するようになっていった。
●漢詩文の作者
大友皇子・大津皇子・藤原宇合・石上乙麻呂・淡海三船ら
近江朝から藤原朝を経て奈良朝末まで活躍した。大津皇子のように万葉歌人を兼ねる作者も少なくない。漢詩集も編まれたが、現存するのは『懐風藻』のみである。
懐風藻
編者不明。天平勝宝三年(七五一)成立。近江朝から奈良朝までの作者、六十四人の作品約百二十篇を収めている。宴席や遊覧の詩が多く、中国詩の単なる模倣に近い作もあるが、漢詩の性格をよく示している。詩体は五言詩が大部分を占めている。
『懐風藻』
歌学の誕生
和歌の創作が自覚的に行われるようになるにつれ、批評意識も生み出されるようになってきた。*詞書や*左注の中に、そうした批評意識の萌芽を見いだすことができる。漢詩文の盛行とともに中国詩学が紹介され、その影響で批評意識を理論化しようとする試みが行われるようになった。こうして成立したのが、わが国最初の歌学書『歌経標式』である。
- ●歌経標式
- 藤原浜成作。宝亀三年(七七二)成立。歌病の欠点や歌体を、例をあげて示したもの。和歌の起源論から説きはじめ、中国詩の理論をそのまま和歌にあてはめようとした点に問題があるが、和歌の本質が比喩表現にあることを的確に指摘している。和歌に対する批評意識を理論化しようとした点に意義がある。
上代文学のポイント・チェック
- 大和・奈良時代の文学を上代文学という。平安遷都(七九四)までの文学である。
- 神話・伝説・説話が体系化され、口承(口づたえ)の文学が、記載文学としてまとめ上げられるようになった。
- ☑ 『古事記』 太安万侶が撰集。和銅五年(七一二)成立。天地創造の初めから推古天皇代まで。稗田阿礼が誦習したものを記録した。変則の漢文体。史書であるが内容は文学的。
- ☑ 『日本書紀』 養老四年(七二〇)成立。舎人親王編。三十巻。神代から持統天皇まで。純粋の漢文体。紀年体の歴史書で、『古事記』に比して異伝を記すなど史書としての性格が濃厚である。
- ☑ 『風土記』 和銅六年(七一三)編纂の命下る。諸国の産物・地名・伝説などを集録。出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の五風土記が現存するが、完本は『出雲国風土記』のみ。
- ☑ 『高橋氏文』 氏族の伝承を伝える記録である。
- ☑ 『古語拾遺』 氏族の伝承を伝える記録である。
- ☑ 『日本霊異記』 平安初期の説話集の先がけをなす。景戒編。奈良朝の仏教説話を集めたもの。
- ☑ 祝詞 神前で神に対して祈願や祝福をする言葉が記録されたもの。表記は「宣命書」である。
- ☑ 宣命 天皇が宣り聞かせる言葉を記録したもの。表記は「宣命書」である。
- ☑ 古代歌謡 『古事記』『日本書紀』に収められた歌謡(記紀歌謡)のほか、仏足石歌、『琴歌譜』に収められたものなど。記紀歌謡では片歌・旋頭歌・短歌・長歌の原型がある。
『万葉集』歌風の変遷
| 時代 | 歌の特色 | 主な歌人 |
| 第一期(壬申まで) | 初期万葉・新らしい歌風の発生。みずしい香気、素朴・清新。 | 天智天皇・額田王ら |
| 第二期(藤原京時代) | 万葉調の隆盛。長歌様式の完成。雄大・壮重な叙景歌。 | 柿本人麻呂 |
| 第三期(奈良朝前期) | 万葉調の最盛。多様な歌風の展開。清澄な叙景、人生の哀愁。 | 山部赤人・山上憶良ら |
| 第四期(奈良朝中期) | 古今調への推移。力強さは失われ、感傷化・繊細化。 | 大伴家持 |
- ☑ 『万葉集』の部立 雑歌・相聞・挽歌(三大部立)。他に東歌・防人歌などがある。
- ☑ 『懐風藻』 天平勝宝三年(七五一)成立。漢詩集。公的な文学としての漢詩文の確立を示す。
- ☑ 『歌経標式』 宝亀三年(七七二)成立。藤原浜成作。歌学書。