考題索引

上代じょうだい文学ぶんがく

高松塚たかまつづか古墳こふん壁画へきが

上代じょうだい文学ぶんがく概観がいかん

年代ねんだいひょう大和やまと時代じだい

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
紀元前きげんぜん縄文じょうもん文化ぶんか時代じだい
さんいち世紀せいきころ弥生やよい文化ぶんか時代じだい
紀元きげん小国しょうこく分立ぶんりつ
三世紀さんせいきころ邪馬台国やまたいこく統治とうち/*古墳こふん文化ぶんか発生はっせい
六世紀ろくせいきころ大和やまと朝廷ちょうてい全国ぜんこく統一とういつ/*漢字かんじ伝来でんらい 〔口承こうしょう文学ぶんがく〕*歌謡かよう神話しんわ
五三八ごひゃくさんじゅうはち仏教ぶっきょう伝来でんらい
五九二ごひゃくきゅうじゅうに記載きさい文学ぶんがく〕*推古すいこ天皇てんのう即位そくい/*聖徳太子しょうとくたいし摂政せっしょうになる
六〇七ろっぴゃくしち遣隋使けんずいし小野妹子おののいもこら)派遣はけん
六四五ろっぴゃくしじゅうご大化たいか改新かいしん断行だんこう
六六七ろっぴゃくろくじゅうしち近江おうみ大津宮おおつのみや遷都せんと
六六八ろっぴゃくろくじゅうはち天智てんじ天皇てんのう即位そくい万葉歌人まんようかじん)/*額田王ぬかたのおおきみらこのころ活躍かつやく
六七二ろっぴゃくななじゅうに壬申じんしんらん/*天武てんむ天皇てんのう即位そくい万葉歌人まんようかじん
六九四ろっぴゃくきゅうじゅうし藤原京ふじわらきょう遷都せんと/*白鳳はくほう文化ぶんか発達はったつ
七〇一ななひゃくいち大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい
七一〇ななひゃくじゅう平城京へいじょうきょう遷都せんと/*柿本人麻呂かきのもとのひとまろらこのころ活躍かつやく

時代じだい区分くぶん

平安へいあん遷都せんと延暦えんりゃく十三年じゅうさんねん七九四しちきゅうよん)のころまでを上代じょうだいとする。藤原京ふじわらきょう平城京へいじょうきょうなど、しゅとして大和やまと地方ちほういま奈良県ならけん)に政治せいじ文化ぶんか中心ちゅうしんかれていた時代じだい文学ぶんがく意味いみする。

文学ぶんがく誕生たんじょう

日本にほん列島れっとうにも、一万年いちまんねん以上いじょうまえには先土器せんどき文化ぶんか時代じだいがあった。それから数千年すうせんねん縄文じょうもん時代じだいはいると、石器せっき土器どきなどの生産せいさん用具ようぐもちいた採集さいしゅう生活せいかつ時代じだいとなった。紀元前きげんぜん三世紀さんせいきから二世紀にせいきころになると、弥生やよい時代じだいはじまり、水稲すいとう耕作こうさく技術ぎじゅつ伝来でんらいして、採集さいしゅう生活せいかつ時代じだいくらべて生産力せいさんりょく一段いちだんたかめられた。定住化ていじゅうかした集団しゅうだん生活せいかつがそこにいとなまれるようになった。

こうした氏族しぞく共同体きょうどうたいは、独自どくじ文化ぶんかしていったが、一方いっぽう生産力せいさんりょく上昇じょうしょうともなってしだいに統合とうごうされ、やがていくつかの小国しょうこくへと進展しんてんしていった。その時代じだいから、人々ひとびとは、外界がいかい自然しぜんたいする畏怖いふねんをもちつづけていた。生産せいさん豊饒ほうじょう祈念きねんするため、そこにあらわれる超人間的ちょうにんげんてきちからかみとした。これが、〈まつり〉の起源きげんであり、共同体きょうどうたい安定あんていは、こうしたまつりによって維持いじされることとなった。

まつりのかたられる神聖しんせい詞章ししょう呪言じゅげん呪詞じゅしばれる)が、文学ぶんがく原型げんけいである。これらの詞章ししょうは、日常にちじょう言語げんごとはことなる、韻律いんりつやくりかえしをもつ律文りつぶん表現ひょうげんであった。それはまた、まつりの音楽おんがく舞踊ぶようとも一体化いったいかした、きわめて混沌こんとんとした表現ひょうげんであったとおもわれる。

しかし、共同体きょうどうたい統合とうごうされ、小国しょうこくからやがて統一とういつ国家こっか形成けいせいされる過程かていなかで、まつりの神聖しんせい詞章ししょうもしだいに言語げんご表現ひょうげんとして自立じりつ洗練せんれんされていった。そこにされたのがさまざまな歌謡かよう神話しんわであった。


年代ねんだいひょう奈良なら時代じだい

年代ねんだい主要しゅよう作品さくひん・できごと(*しるし
七一二ななひゃくじゅうに古事記こじき
七一三ななひゃくじゅうさん*『風土記ふどき編纂へんさんめいくだ
七一五ななひゃくじゅうご播磨はりま国風土記こくふどき(このころ成立せいりつか)
七一八ななひゃくじゅうはち養老ようろう律令りつりょう制定せいてい
七二〇ななひゃくにじゅう日本書紀にほんしょき
七二三ななひゃくにじゅうさん常陸ひたち国風土記こくふどき(このころ成立せいりつか)/山部赤人やまべのあかひと山上憶良やまのうえのおくら大伴旅人おおとものたびとらこのころ活躍かつやく
七四〇ななひゃくよんじゅう出雲いずも国風土記こくふどき(このころ成立せいりつか)
七四四ななひゃくよんじゅうし山背やましろ恭仁京くにきょう遷都せんと
七四五ななひゃくよんじゅうご難波京なにわきょう遷都せんと/*平城京へいじょうきょうふくする/*天平てんぴょう文化ぶんか発達はったつ
七五一ななひゃくごじゅういち懐風藻かいふうそう
七五二ななひゃくごじゅうに東大寺とうだいじ大仏だいぶつ開眼かいげん供養くよう
七五四ななひゃくごじゅうし仏足石歌碑ぶっそくせきかひ/*唐僧とうそう鑑真がんじん来朝らいちょう大伴家持おおとものやかもちらこのころ活躍かつやく
七五九ななひゃくごじゅうきゅう万葉集中まんようしゅうちゅう最後さいごうた
七六四ななひゃくろくじゅうし恵美押勝えみのおしかつらん
七六九ななひゃくろくじゅうきゅう道鏡どうきょう皇位こうい事件じけん
七七〇ななひゃくななじゅう阿倍仲麻呂あべのなかまろとう客死かくし万葉集まんようしゅう(このころ成立せいりつか)
七七二ななひゃくななじゅうに歌経標式かきょうひょうしき藤原浜成ふじわらのはまなり
七八四ななひゃくはちじゅうし長岡京ながおかきょう遷都せんと
七八五ななひゃくはちじゅうご大伴家持おおとものやかもちぼっ
七八九ななひゃくはちじゅうきゅうころ高橋氏文たかはしうじぶみ
七九四しちきゅうよん平安京へいあんきょう遷都せんと

口承こうしょうから記載きさい

日本人にほんじん独自どくじ文字もじ表記ひょうきをもたなかったので、歌謡かよう神話しんわは、当初とうしょ口頭こうとうによる伝承でんしょう口承こうしょう)をそのたてまえとしていた。しかし、統一とういつ国家こっか形成けいせいされ、大陸たいりくから漢字かんじ伝来でんらいし、人々ひとびとがその使用しよう習熟しゅうじゅくすると、そうした歌謡かよう神話しんわを、異質いしつ文字もじ言語げんごである漢字かんじ漢文体かんぶんたい)で表記ひょうきすることにはおおきな困難こんなんがあった。そうしたなかで、伝承でんしょうされた国語こくご忠実ちゅうじつ表記ひょうきするため、表音ひょうおん文字もじである漢字かんじ表音的ひょうおんてき使用しようする方法ほうほう考案こうあんされたのである。こうしたこころみが、万葉まんようがなて、のちにかたかな・ひらがなのかな文字もじすことになるのである。

古代こだい国家こっか文学ぶんがく

古代こだい国家こっかは、その制度的せいどてき範型はんけい中国ちゅうごく大陸たいりくのそれにあおいでいた。天皇てんのう中心ちゅうしんとする絶対的ぜったいてき国家こっか確立かくりつは、律令りつりょう体制たいせいという外来がいらい制度せいどによってささえられることになったのである。さらに、仏教ぶっきょうはじめとする中国ちゅうごく文化ぶんか受容じゅよう積極的せっきょくてきすすめられ、その制度せいど文物ぶんぶつにわたるこのような中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょうもとで、自国じこく独自性どくじせいたいする認識にんしきふかめられていく。格調かくちょうたか飛鳥あすか白鳳はくほう文化ぶんか絢爛けんらんたる天平てんぴょう文化ぶんかされた。

八世紀はっせいきはじめにあいついでまとめられた『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』『風土記ふどき』は、こうした国家こっか意識いしきざめに照応しょうおうするこころみが、史書ししょ地誌ちし編纂へんさんであった。八世紀はっせいきはじめにあいついでまとめられた、口承こうしょう古代こだい国家こっかによる集大成しゅうたいせいであった。また、中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょう直接ちょくせつ反映はんえいして漢詩文かんしぶんさかんにつくられていく。八世紀はっせいきなかばにつくられた『懐風藻かいふうそう』のなかにまとめられていった。

万葉集まんようしゅう』のなかには、歌謡かようから派生はせいした和歌わか独自どくじ達成たっせいげ、集団性しゅうだんせいはなれた個的こてき叙情じょじょうみこまれている。それらは、口承こうしょうから記載きさいへの過程かていなかで、神話しんわ伝説でんせつ歌謡かようの、また、口承こうしょうから記載きさいの、神話しんわ散文化さんぶんかへのみちをたどるのである。


第一章だいいっしょう 神話しんわ世界せかい

古代こだい人々ひとびとは、外界がいかいひろがる自然しぜんなかに、超人間的ちょうにんげんてきちからかみちからのあらわれ いだし、それをかみとしておそれ、うやまった。かみまつることで、その生活せいかつであった自然しぜんなかに、かみ事績じせきかたられた。共同体きょうどうたい祖先そせんもまたかみとされ、まつりのでは、祖先神そせんしん活躍かつやくは、共同体きょうどうたい起源きげん物語ものがたりとしてかたつたえられた。まつりのでは、また地名ちめい由来ゆらい事物じぶつ起源きげんつたえるはなしかたつたえられた。それが神話しんわである。

神話しんわ

神話しんわは、まつりのにおける、かみにかかわるさまざまなかたつたえである。これらの神話しんわ史実しじつではなく、古代人こだいじん奔放ほんぽう想像力そうぞうりょくによってされたものといえる。しかし、それはたんなる空想くうそうではなく、古代人こだいじん実生活じっせいかつうらづけられたひとつの真実しんじつかたつたえるものであった。

神話しんわは、本来ほんらいまつりのにおける神聖しんせいな〈かたりごと〉として口頭こうとう伝承でんしょう口承こうしょう)としてかたつたえられた。しかし、大陸たいりくから漢字かんじ伝来でんらいし、人々ひとびとがその使用しよう習熟しゅうじゅくすると、神話しんわもまた漢字かんじ使つかって〈かたりごと〉として記載きさいされるようになる。こうした口承こうしょうから記載きさいへの過程かていなかで、神話しんわ記載きさい文学ぶんがくとして散文化さんぶんかみちをたどっていく。

神話しんわ体系化たいけいか

神話しんわは、共同体きょうどうたい統合とうごうされ、統一とういつ国家こっか形成けいせいされるなか再構成さいこうせいされていく。

武人ぶじん埴輪はにわ 古墳こふん時代じだい武人ぶじん様子ようすがうかがわれる。

神話しんわは、)へんされ、あらたに国家こっか神話しんわとして体系化たいけいかされていく。それらを集大成しゅうたいせいし、まとめあげたものが、『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』および『風土記ふどき』である。

古事記こじき

太安万侶おおのやすまろ撰録せんろく和銅わどう五年ごねん七一二ななひゃくじゅうに成立せいりつ

成立せいりつ

太安万侶おおのやすまろ序文じょぶんには、つぎのような内容ないようしるされている。

壬申じんしんらん勝利しょうりした天武てんむ天皇てんのうは、当時とうじ諸氏族しょしぞくつたえていた帝紀ていき本辞ほんじ比較ひかく検討けんとうして、そのあやまりをただし、国家こっか伝承でんしょうただしく後世こうせいつたえるため稗田阿礼ひえだのあれならわせた。そののち和銅わどう四年よねん七一一ななひゃくじゅういち)、太安万侶おおのやすまろ元明げんめい天皇てんのうめいけて、阿礼あれならったものを撰録せんろくし、翌五年よくごねん完成かんせい奏上そうじょうしたのが『古事記こじき』である。

内容ないよう

三巻さんかんからる。上巻じょうかん神代かみよ物語ものがたりで、天地てんち創造そうぞうはじめから神武じんむ天皇てんのう誕生たんじょうまで、中巻ちゅうかん神武じんむ天皇てんのうから応神おうじん天皇てんのうまで、下巻げかん仁徳にんとく天皇てんのうから推古すいこ天皇てんのうまでの記事きじおさめる。

上巻じょうかんは、伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみ二神にしんによる国土こくど創成そうせい天照大神あまてらすおおみかみ皇室こうしつ祖神そしん)を主宰神しゅさいしんとする高天原たかまがはら成立せいりつ天孫てんそん降臨こうりんなどを内容ないようとする。出雲系いずもけい神話しんわなど諸氏族しょしぞく神話しんわじくに、天孫系てんそんけい後裔こうえいである皇室こうしつ支配しはい正統性せいとうせい強調きょうちょうするものとなっている。

古事記こじき序文じょぶん真福寺本しんぷくじぼん
太安万侶おおのやすまろはか 丘陵地きゅうりょうち茶畑ちゃばたけ発見はっけんされた。奈良市ならし此瀬町このせちょう

ちゅう下巻げかんには、神武じんむ天皇てんのうをはじめ倭建命やまとたけるのみこと神功皇后じんぐうこうごう仁徳にんとく天皇てんのう雄略ゆうりゃく天皇てんのうなど英雄的えいゆうてき人物じんぶつ中心ちゅうしんとする伝説でんせつ軽太子かるのみこ衣通王そとおりのみこ悲恋ひれん物語ものがたりなどがしるされる。中巻ちゅうかん神話しんわ伝説的でんせつてきであるのにたいし、下巻げかんひと物語ものがたりとしての性格せいかく顕著けんちょになっている。史書ししょとしての価値かちはさほどたかくはないが、皇室こうしつ中心ちゅうしん諸氏族しょしぞく伝承でんしょう統合とうごうし、さらに歌謡かよう百十余首ひゃくじゅうよしゅりこんで、きとした叙事的じょじてき世界せかい文学性ぶんがくせいゆたかにえがされている。

表現ひょうげん文体ぶんたい

純粋じゅんすい漢文体かんぶんたいしるされた序文じょぶん以外いがいは、漢字かんじ音訓おんくんをまじえた変則へんそく漢文体かんぶんたいしるされており、かたりつがれた本来ほんらい国語こくご忠実ちゅうじつつたえようとする努力どりょくがなされている。とくに歌謡かよう重要じゅうよう語句ごくは、万葉まんようがなによる一字一音式いちじいちおんしき表記ひょうきによって古意こいつたえる工夫くふうがなされている。


日本書紀にほんしょき

舎人親王とねりしんのうへん養老ようろう四年よねん七二〇ななひゃくにじゅう成立せいりつ

古事記こじき』におくれること八年はちねん元正げんしょう天皇てんのうめいによって編集へんしゅうされた。編年体へんねんたい歴史書れきししょで、いわゆる六国史りっこくしはじめである。ぜん三十巻さんじっかん神話しんわ伝説でんせつなど『古事記こじき』と重複ちょうふくする内容ないようおおふくむが、史書ししょとしての性格せいかくつよくうかがわれる。神代かみよかん中心ちゅうしんに、「一書曰いっしょいわく」としておおくの異伝いでんかかげており、時代じだいくだるにしたがって記述きじゅつ態度たいど相違そういがあり、信頼しんらいできる史実しじつおおられる。国家こっか意識いしきのたかまりのなかで、対外的たいがいてき威信いしんをかけて編集へんしゅうされたもので、中国ちゅうごく史書ししょ影響えいきょういちじるしい。文章ぶんしょうは、歌謡かよう以外いがい純粋じゅんすい漢文体かんぶんたいしるされている。

風土記ふどき

和銅わどう六年ろくねん七一三ななひゃくじゅうさん編纂へんさんめいくだる。

古事記こじき成立せいりつ翌年よくねん元明げんめい天皇てんのう諸国しょこくめいじて、そのくに地名ちめい由来ゆらい産物さんぶつ地勢ちせい古老ころう伝承でんしょうなどを記録きろくさせた。こうしてそのくに地誌ちし編纂へんさんさせたもので、諸国しょこくの『風土記ふどき』ができた。現存げんそんするのは、唯一ゆいいつ完本かんぽんである『出雲いずも国風土記のくにふどき』をふくめた風土記ふどきと、後代こうだい諸書しょしょ断片だんぺんとして引用いんようされた逸文いつぶんである。これらは、地誌ちしとしての性質上せいしつじょう平板へいばん記述きじゅつになっているが、諸国しょこく神話しんわ伝説でんせつ中央ちゅうおう政府せいふによる直接ちょくせつ編集へんしゅうていないだけに、地方ちほう人々ひとびと心情しんじょう生活せいかつがうかがえて興味深きょうみぶかい。文章ぶんしょうはだいたい純漢文体じゅんかんぶんたいだが、変則へんそく漢文体かんぶんたい宣命書せんみょうがき使つかわれている。


氏族しぞく伝承でんしょう仏教ぶっきょう説話せつわ

律令りつりょう体制たいせいあらたな制度せいどとして固定こていされるなかで、氏族しぞくふるくからつたえてきた伝承でんしょうも、独自どくじかたちでまとめげられていく。奈良なら時代じだい末期まっきの『高橋氏文たかはしうじぶみ』、平安へいあん初期しょきの『古語拾遺こごしゅうい』は、こうした氏族しぞく伝承でんしょうつたえる貴重きちょう記録きろくである。氏族しぞくかん抗争こうそうさいして、自氏じし威信いしんしめすために編集へんしゅうされたもので、自氏じし系譜けいふ祖先そせん以来いらい功業こうぎょうなどがしるされている。『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつ参照さんしょうするうえで注目ちゅうもくされる。

● 『日本霊異記にほんりょういき

古来こらい伝説でんせつではなく、仏教ぶっきょう伝来でんらい六世紀ろくせいき発生はっせいした仏教ぶっきょう説話せつわあつめたものに『日本霊異記にほんりょういき』がある。ただしくは『日本国現報善悪霊異記にほんこくげんぽうぜんあくりょういき』。平安へいあん初期しょき弘仁こうにん年間ねんかん八一〇はっぴゃくじゅう八二四はっぴゃくにじゅうし)に薬師寺やくしじそう景戒けいかい編集へんしゅうした説話せつわしゅうで、おもとして仏教ぶっきょう因果応報いんがおうほう原理げんりかれている説話せつわおおく、布教ふきょう活動かつどうなかかたつたえられた説話せつわ集成しゅうせいで、当時とうじ庶民しょみん生活せいかつきとえがされており、平安へいあん以降いこう説話集せつわしゅうさきがけをなすものである。


第二章だいにしょう まつりの文学ぶんがく

言霊ことだま信仰しんこう

古代こだい人々ひとびとは、自然しぜんなか神秘しんぴちから存在そんざいをみとめ、それをかみとしてまつることで、無秩序むちつじょ自然しぜんなか安定あんていした位置いちめようとした。あらぶる自然しぜん脅威きょういを、かみまつ行為こういつうじて克服こくふくしようとしたのである。こうしたかみまつもちいられた呪的じゅてき言葉ことばが、呪言じゅげん呪詞じゅしである。

霊力れいりょく宿やど言葉ことば

これらはかみにかかわる言葉ことばとして、神秘的しんぴてきはたらきをもつものであった。呪言じゅげん呪詞じゅしなど日常にちじょう言葉ことばとはことなるはたらきをする言葉ことばには、不思議ふしぎ霊力れいりょく宿やどるとかんがえられていた。くちしててた言葉ことばは、そのまま事実じじつとして実現じつげんされ、よい言葉ことばうつくしい言葉ことばはサキハヒ(さち)をもたらし、わる言葉ことばはワザハヒ(わざわい)をもたらすという。「こと」と「こと」との同一性どういつせいしんじられていたのである。こうした言葉ことば宿やど霊力れいりょく言霊ことだま)にたいする信仰しんこう言霊ことだま信仰しんこうんでいる。

原始的げんしてき共同体きょうどうたい社会しゃかいなかから統一とういつ国家こっか形成けいせいされると、まつりも国家的こっかてき規模きぼおこなわれるようになり、その内容ないようも、皇室こうしつ長久ちょうきゅう国家こっか安泰あんたいいのるものになっていった。まつりの言葉ことばである呪言じゅげん呪詞じゅし儀礼化ぎれいかされ、洗練せんれんされた文飾ぶんしょくほどこされて長大ちょうだい詞章ししょうとして完成かんせいされた。これが祝詞のりとである。

祝詞のりと

表現ひょうげん文体ぶんたい

祝詞のりと表現ひょうげん韻律いんりつがことにおもんじられ、また対句ついく反復はんぷく多用たようされ、荘重そうちょう印象いんしょうあたえるが、反面はんめん、その形式性けいしきせい類型性るいけいせいいちじるしい。表記ひょうきはいわゆる宣命書せんみょうがきである。

銅鐸どうたく 祭器さいきとして使つかわれていたらしい。

現存げんそんする祝詞のりとは、『延喜式えんぎしき別記べっきおさめられた二十七編にじゅうななへんと、『台記たいき別記べっきおさめられた一編いっぺんのみである。

宣命せんみょう

宣命せんみょうとは、元来がんらい天皇てんのうみことつたえることを意味いみしたが、平安へいあん時代じだいはいると、漢文体かんぶんたいのものを詔勅しょうちょく和文体わぶんたいのものを宣命せんみょうぶようになった。即位そくい改元かいげん立后りっこう立太子りったいしなど、国家こっか大事だいじさいして宣布せんぷされたもので、政治的せいじてき意図いといだされる。

表現ひょうげん文体ぶんたい

表現ひょうげん荘重そうちょうで、祝詞のりと類似るいじするが、その実用的じつようてき目的もくてきおうじて、散文化さんぶんかへの方向ほうこうしめされている。仏教ぶっきょうなど、外来がいらい思想しそう影響えいきょういだされる。表記ひょうき宣命書せんみょうがきである。

現存げんそんのものでふるいのは、『続日本紀しょくにほんぎ』におさめられている六十二編ろくじゅうにへんで、文武もんむ天皇てんのう以降いこうのものである。

大祓おおはらえ年中ねんちゅう行事ぎょうじ絵巻えまき

第三章だいさんしょう 詩歌しいか

古代こだい歌謡かよう

古代こだい歌謡かよう起源きげんは、共同体きょうどうたいまつりので、人々ひとびとによってうたわれたうたにあった。これらのうたは、かみへのいのりや感謝かんしゃをあらわすものとして、舞踊ぶよう簡素かんそ楽器がっきともなかたちでくりかえしうたわれていた。古代こだい人々ひとびとにとって、うたは、その信仰しんこう生活せいかつざした表現ひょうげんにほかならなかった。

歌垣うたがき宮廷きゅうてい歌謡かよう

うたは、共同体きょうどうたい人々ひとびとによってとなされたうたわれ、また、集団的しゅうだんてき労働ろうどう作業さぎょう能率のうりつたかめる役割やくわりたしていた。共同体きょうどうたい成長せいちょうし、さまざまな集団しゅうだん行事ぎょうじいとなまれるなかで、しだいに形式けいしきととのえられ、洗練せんれんされた内容ないよう獲得かくとくしていく。それらは、統一とういつ国家こっか形成けいせいされる過程かていで、宮廷きゅうてい儀礼ぎれいなかりこまれ、宮廷きゅうてい歌謡かようとしても伝承でんしょうされていく。

これらの民謡みんよう宮廷きゅうてい歌謡かよう総称そうしょうして、古代こだい歌謡かようんでいる。古代こだい歌謡かようおおくは、『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』にせられており、『万葉集まんようしゅう』『琴歌譜きんかふ』などにもおさめられている。

記紀きき歌謡かよう

古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』におさめられた古代こだい歌謡かようを、とくに〈記紀きき歌謡かよう〉とぶ。『古事記こじき』にやく百十首ひゃくじゅっしゅ、『日本書紀にほんしょき』にやく百三十首ひゃくさんじゅっしゅえる。ほかに、『風土記ふどき』『万葉集まんようしゅう』にもえるものがある。

内容ないよう

これらの歌謡かようは、独立どくりつした民謡みんようそのままのかたちではなく、神話しんわ伝説でんせつむすわされ、あるいは歌謡かよう中心ちゅうしんとする物語化ものがたりかがなされている場合ばあい大部分だいぶぶんである。しかし、その内容ないようは、祭祀さいし戦闘せんとう労働ろうどう恋愛れんあい酒宴しゅえん哀傷あいしょうなど多方たほうめんにわたる。

高松塚たかまつづか古墳こふん壁画へきが
歌垣うたがき嬥歌かがい)のおこなわれた筑波山つくばさん 「筑波嶺つくばねはむと」と『常陸ひたち国風土記のくにふどき』にえる。

表現ひょうげん歌体かたい

表現ひょうげんは、古代こだい人々ひとびとのさまざまな生活せいかつ感情かんじょうることができる。ゆたかな連想れんそう比喩ひゆつうじて、その素朴そぼく感情かんじょうきと表現ひょうげんされている。歌体かたいは、まだ定型ていけいのものはすくないが、枕詞まくらことば序詞じょことば多用たようされ、反復はんぷく対句ついくによって韻律美いんりつびととのえられている。片歌かたうた旋頭歌せどうか短歌たんか長歌ちょうかなど、のちに発達はったつする歌体かたい原型げんけいることができる。

仏足石歌ぶっそくせきか

記紀きき歌謡かようるいするものに、仏足石歌ぶっそくせきかがある。奈良なら薬師寺やくしじ仏足石歌碑ぶっそくせきかひきざまれたうた二十一首にじゅういっしゅのことで、ほとけとく礼賛らいさんするものがおおい。一字一音いちじいちおん万葉まんようがなでしるされており、短歌たんか形式けいしき七音しちおん一句いっくくわえた歌体かたいである(仏足石歌体ぶっそくせきかたい)。この歌体かたいは、『古事記こじき』や『万葉集まんようしゅう』にも、わずかながらえている。


● 『琴歌譜きんかふ

また、平安へいあん中期ちゅうき天元てんげん四年よねん(九八〇)に書写しょしゃされた、和琴わごん譜本ふほん琴歌譜きんかふ』にも、二十一首にじゅういっしゅ歌謡かよう万葉まんようがなでしるされている。記紀きき歌謡かよう重複ちょうふくするものが五首ごしゅふくまれており、注目ちゅうもくされる。古代こだい歌謡かよう母胎ぼたいであった共同体きょうどうたいが、統一とういつ国家こっか形成けいせいとともに変質へんしつするなかで、古代こだい歌謡かよう表現ひょうげんおおきく変貌へんぼうしていく。

和歌わか発達はったつ

あらたな国家こっかになである貴族きぞくたちを中心ちゅうしんとして、官僚かんりょう組織そしき整備せいびされ、都市とし生活せいかついとなまれるようになると、集団性しゅうだんせいからはなされた個的こてきなものへの自覚じかくされてくる。歌謡かようは、そうしたなかで、表現ひょうげん洗練せんれんくわえながら、集団的しゅうだんてき口誦こうしょう本位ほんいのありかたをはなれて、自覚的じかくてきとしての性格せいかくつよめていく。短句たんく長句ちょうく音数おんすうがそれぞれ五音ごおん七音しちおん固定こていされていく。旋頭歌せどうか歌体かたい定型ていけいとして整備せいびされていくのである。こうして個的こてき心情しんじょうをうたう、えいうたとしての和歌わか発達はったつする。長歌ちょうか短歌たんか性格せいかくいちじるしくつよめられ、集団しゅうだん内部ないぶ個的こてきなものへの自覚じかくされてくる。

歌集かしゅう編集へんしゅう

と、やがて歌集かしゅう編集へんしゅうおこなわれるようになった。『古歌集こかしゅう』『柿本かきのもと人麻呂ひとまろ歌集かしゅう』『かさ金村かなむら歌集かしゅう』『高橋たかはし虫麻呂むしまろ歌集かしゅう』『類聚るいじゅう歌林かりん』などの歌集かしゅう存在そんざいしたことが、『万葉集まんようしゅう』の注記ちゅうきによればられるが、これらは現存げんぞんしていない。こうしたなかで、八世紀はちせいきなかごろまでの和歌わか集大成しゅうたいせいしたのが『万葉集まんようしゅう』である。

▼『万葉集まんようしゅう関係年表かんけいねんぴょう

年号ねんごう西暦せいれき おも出来事できごと
舒明じょめい元(六二九)舒明じょめい天皇てんのう即位そくい第一期だいいっき
大化たいか元(六四五)大化たいか改新かいしん
天智てんじ元(六六二)中大兄なかのおおえ皇子おうじ天智天皇てんじてんのう称制しょうせい
天智てんじ六(六六七)近江おうみ大津おおつみや遷都せんと
天武てんむ元(六七二)壬申じんしんらん天武てんむ天皇てんのう即位そくい第二期だいにき
朱鳥しゅちょう元(六八六)天武てんむ天皇てんのう崩御ほうぎょ持統じとう天皇てんのう即位そくい
持統じとう八(六九四)藤原ふじわらみや遷都せんと
大宝たいほう元(七〇一)大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい
和銅わどう三(七一〇)平城京へいじょうきょう遷都せんと第三期だいさんき
養老ようろう四(七二〇)古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき成立せいりつ
天平てんぴょう五(七三三)山上やまのうえの憶良おくら
天平てんぴょう勝宝しょうほう三(七五一)懐風藻かいふうそう成立せいりつ第四期だいよんき
天平てんぴょう宝字ほうじ三(七五九)仏足石歌碑ぶっそくせきかひできる・『万葉集まんようしゅう最後さいごうた
仏足石歌碑ぶっそくせきかひ 天平勝宝てんぴょうしょうほう五年(七五三)につくられた、奈良なら薬師寺やくしじ境内けいだい現存げんぞんする石碑せきひほとけ足跡あしあと礼讃らいさんするうた二十一首が万葉まんようがなできざまれており、五七・五七・七七の音数おんすうからる。

● 『万葉集まんようしゅう

成立せいりつ

編者へんじゃ未詳みしょう大伴おおとも家持やかもちら)。八世紀はちせいき後半こうはん成立せいりつか。

万葉集まんようしゅう』は、現存げんぞんするわがくに最古さいこ歌集かしゅうで、二十巻にじっかんからなり、約四千五百首やくよんせんごひゃくしゅ作品さくひんおさめられている。その成立せいりつについては不明ふめいてんおおく、成立せいりつ年時ねんじ明確めいかくではない。さきにあげた『古歌集こかしゅう』『柿本かきのもと人麻呂ひとまろ歌集かしゅう』などを資料しりょうとしながら、数次すうじ編集へんしゅう過程かてい成立せいりつしたものとおもわれ、その最終さいしゅう段階だんかいには、大伴おおとも家持やかもち関係かんけいしていたらしい。

まきによって形態けいたい分類ぶんるいのしかたが一定いっていでないことも、こうした編集へんしゅう過程かてい複雑ふくざつさをしめすものといえよう。こうして『万葉集まんようしゅう』が、ほぼ現存げんぞんするかたち集大成しゅうたいせいされたのは、奈良朝ならちょうすえごろであったとかんがえられている。

構成こうせい内容ないよう

数次すうじ編集へんしゅう段階だんかいたことを反映はんえいして、しゅう組織そしきには不統一ふとういつなところがある。基本的きほんてきには、雑歌ぞうか相聞そうもん挽歌ばんか三大部立さんだいぶだてみとめられる。また、まきによっては、表現上ひょうげんじょう分類ぶんるいとして、「正述心緒歌せいじゅつしんじょか」「寄物陳思歌きぶつちんしか」「譬喩歌ひゆか」・「旋頭歌せどうか」などがいだされる。

歌体かたいは、短歌たんか全体ぜんたい九割きゅうわり以上いじょうめるが、ほか長歌ちょうか旋頭歌せどうかなどによる分類ぶんるいもある。これらを部立ぶだてによってけ、さらに年代ねんだい作歌さっかなどを基準きじゅん配列はいれつしている。

作者さくしゃ詠作年代えいさくねんだい

作者さくしゃ天皇てんのうから庶民しょみんまでかく階層かいそうにわたり、その地域ちいきも、

歌聖うたのひじり 柿本かきのもと人麻呂ひとまろ

大和やまと中心ちゅうしん東国とうごくから九州きゅうしゅうにまでおよんでいる。作品さくひん詠作年代えいさくねんだいは、四世紀よんせいきごろから八世紀はちせいき後半こうはんまで、約四百五十年やくよんひゃくごじゅうねんにわたっている。しかし、以前いぜん作品さくひんには伝誦でんしょう的な性格せいかくいちじるしく、実際じっさい制作年代せいさくねんだいあきらかではない。作品さくひん大部分だいぶぶんは、奈良時代ならじだい以後のほぼ一世紀せいき半のあいだつくられたものである。

表記ひょうき用字ようじ

仮名文字かなもじはまだ発明はつめいされていなかったので、漢字かんじによって国語こくご表記ひょうきする方法ほうほうかんがされた。これを万葉まんようがな(万葉仮名まんようがなんでいる。漢字かんじ音訓おんくんたくみに利用りようされており、『古事記こじき』などにも使つかわれたが、この(「万葉まんようがな」)でばれる。

歌風かふう変遷へんせん

万葉集まんようしゅう』の歌風かふうは、その変遷へんせんによって、四期よんきけることができる。その中心ちゅうしんとなる時期じきは、第二期だいにき第三期だいさんきである。

第一期だいいっき

舒明じょめい天皇てんのう時代じだいから壬申じんしんらんまで(〜六七二)。中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりつされる激動げきどう時期じき。この時期じきうたを「初期万葉しょきまんよう」とぶ。万葉まんよう時代じだい夜明よあけにふさわしく、一方いっぽう古代こだい歌謡かよう面影おもかげのこしながら、個的こてき感情かんじょう力強ちからづよくうたいげられている。素朴そぼくながらも清新せいしんで、あかるくのびのびとした調しらべが特徴とくちょうで、後代こうだいにないうつくしさをたたえている。歌体かたいも、五音ごおん七音しちおん定型ていけいはじめている。

あめ香具山かぐやま
万葉集まんようしゅう』(西本願寺にしほんがんじ本)巻頭かんとう舒明じょめい天皇てんのううた

万葉まんよう歌人かじんたち・その一

作者さくしゃは、舒明じょめい天皇てんのう天智てんじ天皇てんのう天武てんむ天皇てんのう額田王ぬかたのおおきみなど皇室こうしつ歌人かじん中心ちゅうしんで、なかでも額田王ぬかたのおおきみがすぐれている。

① あめ香具山かぐやまのぼりて国見くにみをしたまひしとき御製歌ぎょせいか舒明じょめい天皇てんのう

大和やまとには 群山むらやまあれど とりよろふ
あめ香具山かぐやま のぼち 国見くにみをすれば
国原くにはらは けむりつ 海原うなはら
かもめつ うまし

舒明じょめい天皇てんのうまき一)

大和やまとにはおおくのやまがあるが、あめ香具山かぐやまはそれらをひときわ際立きわだたせるやまだ。そこにのぼって国見くにみをすると、大和やまと国土こくどには炊事すいじけむりがさかんにのぼり、海上かいじょうにはかもめがさかんにんでいる。うつくしい大和やまとくによ。

② 天皇てんのうの、蒲生野がもうの遊猟ゆうりょうしたまひしときに、額田王ぬかたのおおきみつくれるうた

あかねさす 紫野むらさきのき 標野しめの
野守のもりずや きみそで

額田王ぬかたのおおきみまき一)

③ 大海人皇子おおあまのみここたへたまへるうた

むらさきのにほへるいもを にくからば
人妻ひとづまゆゑに われひめやも

大海人皇子おおあまのみこまき一)

② あかねさす(枕詞まくらことば)、紫草むらさきぐさえているあの御料地ごりょうちをおきになりながら、あなたがそでをおりになるのを、番人ばんにんていないでしょうか。
③ (②のうたこたえたもの)あなたのようにうつくしいあなたがにくかったら、人妻ひとづまであるあなたをどうしてわたしいしましょう。

第二期だいにき

壬申じんしんらん後、平城京へいじょうきょう遷都せんと(七一〇)にいたるまでの、持統じとう文武もんむりょう天皇てんのう中心ちゅうしんとする藤原京ふじわらきょう全盛ぜんせい時代じだいで、律令りつりょう体制たいせい整備せいびされた時期じきにあたる。一段いちだん宮廷きゅうてい繁栄はんえい安定あんていとをしめした時期じきで、やく四十年間ねんかん力強ちからづよさとともに重厚じゅうこうさがくわわり、枕詞まくらことば序詞じょことば対句ついくなどの表現ひょうげん技巧ぎこう発達はったつし、長歌ちょうか短歌たんかなどの形式けいしき完成かんせいした。専門せんもん的な宮廷きゅうてい歌人かじん出現しゅつげんし、とくに柿本かきのもと人麻呂ひとまろは、その第一人者だいいちにんしゃとして、


雄大ゆうだい構想こうそう荘重そうちょう調しらべで、長歌ちょうか様式ようしき完成かんせいさせた。人麻呂ひとまろは、皇室こうしつへの賛歌さんか皇族こうぞくいた挽歌ばんかをうたいあげ、つまおもうたなど私的してきうたにもすぐれ、『万葉集まんようしゅう最大さいだい歌人かじんとされる。作者さくしゃとしては、ほかに、たびうた佳作かさくのこした高市黒人たけちのくろひと即興そっきょう歌人かじん長意吉麻呂ながのおきまろなどがいる。

万葉まんよう歌人かじんたち・その二

 近江おうみれたるみやこぎしときに、柿本かきのもと朝臣あそん人麻呂ひとまろつくれるうた ならせて短歌たんか

長歌ちょうか
たまだすき 畝傍うねびやまの 橿原かしはら
日知ひしろ御代みよゆ でし かみみこと
あをによし 奈良山ならやまを こえて
つぎつぎに あめした らしめしをば
あめえ 大和やまとを きて
楽浪ささなみの 大津おおつみや
あめした らしめしき 天皇すめろき
かみ御言みことの 大宮おおみやは 此処ここけど
大宮人おおみやひとの みしらしし
春草はるくさは しげひたる
ももしきの 大宮処おおみやどころ ればかなしも

反歌はんか
ささなみの 志賀しがおおわだ よどむとも
むかしひとに またはめやも

柿本人麻呂かきのもとのひとまろまき一)

長歌ちょうか橿原かしはら初代しょだい天皇てんのう御代みよからまれ歴代れきだいかみのような天皇てんのうたちが、天下てんかおさめてこられたが、あをによし(枕詞まくらことば奈良山ならやまえて、楽浪ささなみ大津おおつみや天下てんかおさめになったという天皇てんのう大宮おおみやはここだとくけれど、大宮人おおみやひとみならしたにわには春草はるくさしげしげっている。ももしきの(枕詞まくらことば大宮おおみやあとればかなしい。

反歌はんか〕ささなみの(枕詞まくらことば志賀しがおおわだのみずむかしながらによどんでいるが、むかしひとにはもう二度ふたたびうことができようか(いや、できない)。

ささなみの志賀しが辛崎からさき 近江大津宮おうみおおつのみや湖畔こはん唐崎からさき大宮人おおみやひとたちの舟遊ふなあそびでにぎわうところであった。

第三期だいさんき

平城京へいじょうきょう遷都せんと(七一〇)から天平てんぴょうねん(七三三)までのやく二十年間ねんかんで、奈良なら時代じだい前期ぜんきにあたる。律令りつりょう体制たいせいはいよいよ安定あんていし、大陸たいりく思想しそう文化ぶんか輸入ゆにゅうされ、纖細せんさい複雑ふくざつ表現ひょうげん和歌わか世界せかいにもあらわれるようになった。仏教ぶっきょう儒教じゅきょう老荘思想ろうそうしそうなど大陸たいりく思想しそう輸入ゆにゅうされ、自覚じかくふかめられるなかで、知的ちてき傾向けいこうした。皇室こうしつ歌人かじんったが、作者層さくしゃそう歌風かふう多様たよう分化ぶんかし、万葉まんよう盛時せいじきずきあげた。清澄せいちょう叙景歌じょけいか世界せかいつくりあげた山部赤人やまべのあかひと人生じんせい苦悩くのう社会しゃかい矛盾むじゅんをうたった山上憶良やまのうえのおくら脱俗だっぞく的な風流ふうりゅうなか人生じんせい哀感あいかんをうたった大伴旅人おおとものたびと叙事じょじ的な長歌ちょうかなか伝説でんせつたくみにうたいあげた高橋虫麻呂たかはしのむしまろなどがいる。

万葉まんよう歌人かじんたち・その三

① 山部赤人やまべのあかひとうた

吉野よしのの 象山きさやまきわに こだたもさわく
とりこえかも

山部赤人やまべのあかひとまき六)

② 「らをおもへるうた」(山上憶良やまのうえのおくら

うり食めば どもおもほゆ くり食めば
ましてしのはゆ いづくより
たりしものぞ 眼交まなかい
もとなかかかりて 安眠やすい

反歌はんか
しろがねも くがねたまも なにせむに
まされるたから かめやも

山上憶良やまのうえのおくらまき五)

① み吉野よしの象山きさやまちかくにあるこずえには、どれほどおおくのとりこえがさわいでいることか。

② うりべると、どものことが自然しぜんおもわれてくる。くりべると、なおさらしのばれてくる。どこからたのだろう、まえにひっきりなしにちらついて安眠やすいさせない。
反歌はんかしろがねくがねたまも、なんやくとうか。どもにまさるたからがあるだろうか(いや、ない)。

吉野宮滝よしのみやたき 象山きさやまはこのちかくにある

③ 大宰帥だざいのそち大伴卿おおとものきょうさけむるうた大伴旅人おおとものたびと

しるしなき ものをおもはずは 一坏ひとつき
にごれるさけを むべくあるらし

大伴旅人おおとものたびとまき三)

かんがえても仕方しかたのないことをおもなやまずに、一杯いっぱいにござけむのがよさそうだ。

第四期だいよんき

天平てんぴょうねん(七三六)から、しゅう最後さいごうたつくられた天平宝字てんぴょうほうじねん(七五九)までのやく二十年間ねんかんで、奈良なら時代じだい中期ちゅうきにあたる。政治せいじ的なきづまりにたいする動揺どうよう不安ふあんひろがった時代じだいである。感傷かんしょう優雅ゆうがかたむき、理知りち技巧ぎこうのこらされたものがおおくなった。和歌わか力強ちからづよさをうしなっていった。表現ひょうげん固定こていし、平安朝へいあんちょう歌風かふうへの推移すいいおもわせる。この代表歌人だいひょうかじん大伴家持おおとものやかもちで、繊細せんさい感傷かんしょう的な歌風かふうは、次代じだい和歌わかへの過渡かとしめした。

大伴家持おおとものやかもち上畳本三十六歌仙絵かみじょうぼんさんじゅうろっかせんえ

万葉まんよう歌人かじんたち・その四

 二十三日にじゅうさんにちきょうりてつくうたしゅ

① はるに かすみたなびき うらかな
この夕影ゆうかげに うぐいすくも

② いえの いさざ群竹むらたけ かぜ
おとのかそけき このゆうべかも

大伴家持おおとものやかもちまき十九)

① はるかすみがたなびいて、なんとなくかなしいこの夕暮ゆうぐれのひかりなかで、うぐいすいているよ。

② いえのさやさやとした竹薮たけやぶかぜおとがかすかなことよ、このゆうべは。


東歌あずまうた防人歌さきもりうた

しかし、『万葉集まんようしゅう』のもう一つの側面そくめんとしてのがせないのは、以上いじょうのような変遷へんせんのあとをしめしていることで、とくに東歌あずまうた防人歌さきもりうた感動かんどうこころ数多かずおおつたえている。まき十四におさめられた東歌あずまうたは、東国とうごく民謡みんよう的なうたで、方言ほうげんじえた素朴そぼく調しらべで地方ちほう民衆みんしゅう生活感情せいかつかんじょうをうたっている。防人歌さきもりうたおおくは、まき二十に天平勝宝てんぴょうしょうほうねん(七五五)の防人さきもりたちのうたとしておさめられている。辺境へんきょう防備ぼうびのため東国とうごくから徴発ちょうはつされた兵士へいしたちの別離べつりかなしみがむねつ。

万葉まんよう歌人かじんたち・その五

多摩川たまがわに さらす手作てづくり さらさらに
なにそこのの かなしさにかなしき

東歌あずまうたまき十四)

父母ちちははが かしらかきで さきくあれて
いひし言葉ことばぜ わすれかねつる

防人歌さきもりうたまき二十)

① 多摩川たまがわにさらすぬののように、さらさらに(きよらかに)、いったいどうしてこのがこれほどいとしいのか。

② 父母ちちははかしらをなでて、「無事ぶじであれ」とったあの言葉ことばわすれられない。

防人さきもり万葉集画撰まんようしゅうがせん

漢詩文かんしぶん

近江朝おうみのちょう(六七二)のころから漢詩文かんしぶんへの関心かんしんたかまり、天智てんじ天皇てんのう以下の宮廷人きゅうていじんたちのあいだ創作そうさくさかんになった。律令りつりょう制度せいどしたわがくに律令りつりょう官人かんにんにとって必須ひっす教養きょうようであった。漢詩文かんしぶんは、伝統でんとう和歌わかたいするこう的な位置いち獲得かくとくするようになっていった。

漢詩文かんしぶん作者さくしゃ

大友皇子おおとものみこ大津皇子おおつのみこ藤原宇合ふじわらのうまかい石上乙麻呂いそのかみのおとまろ淡海三船おうみのみふね

近江朝おうみのちょうから藤原朝ふじわらちょう奈良朝末ならちょうまつまで活躍かつやくした。大津皇子おおつのみこのように万葉まんよう歌人かじんねる作者さくしゃすくなくない。漢詩集かんししゅうまれたが、現存げんそんするのは『懐風藻かいふうそう』のみである。

懐風藻かいふうそう

編者へんじゃ不明。天平勝宝てんぴょうしょうほう三年(七五一)成立せいりつ近江朝おうみのちょうから奈良朝ならちょうまでの作者さくしゃ、六十四人の作品さくひん約百二十篇をおさめている。宴席えんせき遊覧ゆうらんおおく、中国詩ちゅうごくしたんなる模倣もほうちかさくもあるが、漢詩かんし性格せいかくをよくしめしている。詩体してい五言詩ごごんし大部分だいぶぶんめている。

懐風藻かいふうそう

歌学かがく誕生たんじょう

和歌わか創作そうさく自覚的じかくてきおこなわれるようになるにつれ、批評意識ひひょういしきされるようになってきた。*詞書ことばがきや*左注さちゅうなかに、そうした批評意識ひひょういしき萌芽ほうがいだすことができる。漢詩文かんしぶん盛行せいこうとともに中国詩学ちゅうごくしがく紹介しょうかいされ、その影響えいきょう批評意識ひひょういしき理論化りろんかしようとするこころみがおこなわれるようになった。こうして成立せいりつしたのが、わがくに最初さいしょ歌学書かがくしょ歌経標式かきょうひょうしき』である。

歌経標式かきょうひょうしき
藤原浜成ふじわらのはまなりさく宝亀ほうき三年(七七二)成立せいりつ歌病かへい欠点けってん歌体かたいを、れいをあげてしめしたもの。和歌わか起源きげん論からきはじめ、中国詩ちゅうごくし理論りろんをそのまま和歌わかにあてはめようとしたてん問題もんだいがあるが、和歌わか本質ほんしつ比喩ひゆ表現ひょうげんにあることを的確てきかく指摘してきしている。和歌わかたいする批評意識ひひょういしき理論化りろんかしようとしたてん意義いぎがある。

上代文学じょうだいぶんがくのポイント・チェック

万葉集まんようしゅう歌風かふう変遷へんせん

時代じだいうた特色とくしょくおも歌人かじん
第一期だいいっき壬申じんしんまで)初期しょき万葉まんようあたらしい歌風かふう発生はっせい。みずしい香気こうき素朴そぼく清新せいしん天智天皇てんじてんのう額田王ぬかたのおおきみ
第二期だいにき藤原京ふじわらきょう時代)万葉調まんようちょう隆盛りゅうせい長歌ちょうか様式ようしき完成かんせい雄大ゆうだい壮重そうちょう叙景歌じょけいか柿本人麻呂かきのもとのひとまろ
第三期だいさんき奈良朝ならちょう前期ぜんき万葉調まんようちょう最盛さいせい多様たよう歌風かふう展開てんかい清澄せいちょう叙景じょけい人生じんせい哀愁あいしゅう山部赤人やまべのあかひと山上憶良やまのうえのおくら
第四期だいよんき奈良朝ならちょう中期ちゅうき古今調こきんちょうへの推移すいい力強ちからづよさはうしなわれ、感傷化かんしょうか繊細化せんさいか大伴家持おおとものやかもち