NHK高校講座 言語文化の時間です。
木本 景子:ご機嫌いかがですか? 木本 景子です。今回も夏目 漱石の小説『夢十夜』を学習していきましょう。講師は齋藤 祐先生です。よろしくお願いします。
齋藤 祐:よろしくお願いします。さて、今回も夏目の『夢十夜』を読んでいきましょう。今日は第六夜の前半を読みます。
木本 景子:それでは、今回の学習のポイントを確認しましょう。
1.いつの夢?
2.表現に即して前半の内容を読み取る。
3.若い男は彫刻をどのようなものだと見ているか。
この3つです。それでは学習を始めましょう。
■いつの夢?
齋藤 祐:それでは、今回学習する箇所の朗読を聞いてください。朗読は高山 久美子さんです。
高山 久美子(朗読):第六夜。
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩ながら行ってみると、自分より先に、もう大勢集まって仕切りに下馬評をやっていた。
山門の前、五六間のところには大きな赤松があって、その幹が斜に山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗の門が互いに映り合って見事に見える。その上松の位置がいい。門の左の端を目障りにならないように斜に切っていって、上になるほど幅を広く屋根まで突き出しているのがなんとなく古風である。鎌倉時代とも思われる。
ところが、見ている者はみんな自分と同じく明治の人間である。そのうちでも車夫がいちばん多い。辻待をして退屈だから立っているに相違いない。
「大きなもんだなあ」と言っている。
「人間をこしらえるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも言っている。
そうかと思うと、「へえ、仁王だね。いまでも仁王を掘るのかね。へえ。そうかね。わしまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と言った男がある。
「どうも強そうですね。何だってえますぜ。昔からだれが強いって、仁王ほど強い人はないって言いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻をはしょって、帽子を被らずにいた。よほど無教育な男と見える。
高山 久美子(朗読):運慶は見物人の評判には一切頓着なく、鑿と槌を動かしている。一向振り向きもしない。高いところに乗って、仁王の顔のあたりを仕切りと掘り抜いていく。
運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だか分からない大きな袖を背中でくくっている。その様子がいかにも古臭い。ワイワイ言っている見物人とは、まるで釣り合いが取れないようである。
自分は、「どうして今時分まで運慶が生きているのかな」と思った。どうも不思議なことがあるものだと考えながら、やはり立ってみていた。
高山 久美子(朗読):しかし、運慶のほうでは、不思議とも奇態ともとんと感じえない様子で、一生懸命に掘っている。仰向いてこの態度を眺めていたひとりの若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我等なしだ。天下の英雄は、ただ仁王と我とあるのみという態度だ。あっぱれだ」と言って褒めだした。
自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男はすかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と言った。
高山 久美子(朗読):運慶は、いま太い眉を一寸の高さに横へ掘り抜いて、鑿の刃を縦に返すやいなや、斜に上から槌を打ち下ろした。硬い木を一刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻の開いた怒り鼻の側面が立ちまち浮き上がってきた。
その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そして、少しも疑念を差し挟んでおらんように見えた。
齋藤 祐:では、第六夜を見ていきましょう。
木本 景子:はい。第六夜の冒頭には、「こんな夢を見た」という一節はないんですね。
齋藤 祐:そうですね。いきなり「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいる」というところから始まります。
木本 景子:『第一夜』とは、出だしからだいぶ違うねんですね。
齋藤 祐:はい。『第一夜』では現実世界の固有名詞は一切出てきませんでしたが、『第六夜』では、「運慶」や「護国寺」など、具体的な名前や名称が登場します。
この短編の夢らしさは、鎌倉時代の人間である運慶が、明治時代である現在まで生きていて、明治の人間の前で仁王像を掘っている、という設定にあります。
木本 景子:うーん、時空がねじれているんでしょうか。
齋藤 祐:はい。では、丁寧に内容を見ていきましょう。
■表現に即して前半の内容を読み取る
齋藤 祐:まずは、場面の設定を確認します。
運慶は鎌倉時代に活躍した「仏師(仏像を作る職人)」で、本文に登場する「仁王像」は、いまでも奈良の東大寺南大門に置かれています。
木本 景子:わたしも見たことがあるんですけれども、すっごい迫力でした!
齋藤 祐:ですよね。どちらも8メートルを超える巨像です。東大寺の南大門にあるのは、「阿行像」と「吽行像」です。南大門は東大寺の正門にあり、奈良時代に立てられましたが、平安時代に1度大風で倒れています。それを鎌倉時代に入って再建し、仁王像もこの時に安置されたと言われています。運慶と「仁王像」という組み合わせだけで、複数の時代を越えていくイメージがすでにあります。
木本 景子:東大寺は奈良ですけど、「護国寺」って東京にあるお寺ですよね。
齋藤 祐:そうです。『第六夜』の舞台は、いまの東京都文京区にある「護国寺」となっていますが、じつはこちらのお寺、創建は江戸時代なんです。
木本 景子:江戸時代に立てられたお寺で、鎌倉時代の運慶が「仁王像」を掘っているんですか?
齋藤 祐:はい。ややこしいですよね。奈良時代に立てられた門が、平安時代にいったん倒れて、それが鎌倉時代に立て直され、その門に立つ「仁王像」を掘った仏師運慶が、江戸時代に創建された寺の境内で、明治時代に仁王を刻んでいる、ということになります。この設定で、相当ファンタジーですよね。
木本 景子:そうですね。もういろいろな時代が混じっていますね。
齋藤 祐:そうなんです。では、中身に入っていきましょう。壮大な時代設定ではあるのですが、主人公はそこへ「散歩」に行きます。
木本 景子:いきなり軽くなりましたね。
齋藤 祐:はい。軽いんです。そして、夢のなかの「護国寺」にしては、描写が細かいんですよね。境内の大きな赤松は青空まで伸び、幹が「山門の左の端を切って」とあります。ただ、描写が大げさなわりには、突如「鎌倉時代とも思われる」と来ます。このあたり、気真面目に遊んでいる感じです。『吾輩は猫である』でデビューした漱石独特のユーモアでしょう。
木本 景子:うーん、本当にそんな感じですね。そして、「見ている者はみんな自分と同じく明治の人間である」とあります。
齋藤 祐:はい。明治と江戸と鎌倉とが、「夢」という舞台でつながっていると言えます。
木本 景子:うーん。それから、その様子を眺めているのが「車夫」だとありますね。
齋藤 祐:はい。「人力車」を引く人が「車夫」ですが、人力車が走るようになったのは明治に入ってからですので、見ている人たちは『夢十夜』が発表された当時の「現代人」ということなんです。ただ、ここが「明治時代に紛れ込んだ鎌倉時代である」という時空の工作に気づいているのは、どうやら見物人のなかでも語り手である「自分」だけのようなんです。護国寺の様子を「鎌倉時代とも思われる」と言ってみたり、運慶の様子を「いかにも古臭い」と判断してみたりしているあたりから、かれだけが「違う」というのがわかりますね。
木本 景子:あ、たしかにそうですね。それからさきほど木本さんが、「時空がねじれているんじゃないか」という指摘がありましたが、『第一夜』と異なるのが、この「空間のあり方」だといえます。
木本 景子:どういうことでしょうか?
齋藤 祐:はい。『第一夜』の場合、枕元で腕組みをしている「男」と、「もう死にます」という「女」が「同じ空間にいる」というのは疑いようのない設定になっていましたが、『第六夜』の場合は、見えている「過去」と、見ている「現在」との間に、いわば「透明な壁」があるんです。
木本 景子:「透明な壁」ですか?
齋藤 祐:はい。たとえば、中心を同じくした3つの「円」を考えてみましょう。1番外側の円が「明治」、1つ内側の円が「江戸」、そして真ん中の小さい円が「鎌倉時代」を表すとします。
木本 景子:はい。
齋藤 祐:そうすると、1番外側の「明治時代(当時は現代人ですね)」、かれらは1番外側の縁から、1つ内側の「江戸時代(ここに護国寺が立っています)」、そして中央の「鎌倉時代(ここに運慶がいます)」。人々はそれを眺めている、そんな様子です。
木本 景子:なるほど。まるで「円形の舞台」をみんなで眺めているような感じなんですね。こう、明治から「護国寺」のある江戸まではつながっているけれども、鎌倉までは届かない。
齋藤 祐:そうです。それと、運慶が「仁王の顔のあたりを仕切りと掘り抜いていく」ってありますけど、「仁王像」というのはもともと「寄木造り」なので、たくさんの木で部品を作って、それを組み立めています。だから、高いところに乗って像の顔のあたりを直接掘るようなことは、しないはずなのです。
木本 景子:あ、そうなんですね。
齋藤 祐:はい。これも「現実離れ」した表現ですね。そして、『日本武尊』の本文では、「日本武尊」まで登場していますから、漱石先生だいぶ遊んでいますね。
■若い男は彫刻をどのようなものだと見ているか
齋藤 祐:さて、時空を越えてやってきた運慶の姿を、明治の人と思われる「若い男」が褒めちぎっています。木本さん、読んでみてください。
木本 景子:はい。「さすがは運慶だな。眼中に我等なしだ。天下の英雄は、ただ仁王と我とあるのみという態度だ。あっぱれだ」とあります。
齋藤 祐:はい。ここで「眼中に我等なし」というのは、自分の仕事に没頭して、少しも集中力を切らさない様子を述べたものです。
「天下の英雄は、ただ仁王と我とあるのみ」というのは、自分の追い求めるものと、それを追い求める自分についての信念が「揺ぎのない」ことを表しています。
この手前のところに見物人たちが「仁王の大きさや強さ」について話している場面がありましたが、この「若い男」はそうではなく、運慶の「技量の高さ」そのものに注目しています。
木本 景子:この時、「若い男」は「自分の方を振り向いて」とありますね。
齋藤 祐:そうですね。言い方からすると、「若い男」は「さすがは運慶だ」と褒めているのと同時に、「それがわかる自分の目が確かなんだ」と、周りの見物人たちに「誇っている」ようにも聞こえます。
木本 景子:うーん、大きな「独り言」みたいな感じですね。
齋藤 祐:そうですね。ここで「帽子」もキーワードですね。明治から戦後しばらくまで、成人男性や学生が外を歩く時には「帽子を被る」という風潮がありました。 一方で、こう着物の尻をはしょって、「帽子も被らない」だけで「無教育な男」って判断が出ているように、そうではないこの「主人公」ならば、この「若い男」にしてみると「自分のことを理解できる」と思って、言葉をかけたのだと考えられます。
木本 景子:なるほど。だから「若い男」は、最初の言葉が「主人公」に伝わったと思ると、すかさず「難しい言い方」で運慶の技を褒めるんですね。
齋藤 祐:はい。運慶の「のみとつち」の使い方を、「大自在の妙境に達している」とつけ加えています。
木本 景子:「大自在」ですか?
齋藤 祐:はい。難しいですよね。「大自在」とは「だいじざい」ですから、「完全に自由」であること。おんなへんに少いと書いて「妙」は、非常にすぐれている、なみはずれてすばらしいことを表しますから、「妙境」とは「芸や技が高度な境地に達しているさま」を指します。
つまり「若い男」は、「大自在の妙境」という言い方で、「運慶が掘りたいものを、掘りたいように、自由自在に操ることができている」と褒めたのです。
木本 景子:うーん、もう「大絶賛」ですね。
齋藤 祐:大絶賛です。そういうものとして運慶の動きを見ると、「のみを横へ掘り抜けば、仁王の太い眉・眉重が浮き出て、それを縦に打ち下ろせば、鼻の側面が現れるようだ」と書かれています。そして、「主人公」たる「自分」も、この「若い男」の言葉を間に受けて、新たに行動を起していくのです。
さて、今回の講座のポイントをまとめておきましょう。学習のポイントは、
1.いつの夢?
2.表現に即して前半の内容を読み取る。
3.若い男は彫刻をどのようなものだと見ているか。
以上の3つでした。
木本さん、『第六夜』の前半部分はいかがでしたか?
木本 景子:『第一夜』とはまるっきり違っていたんですけれども、これはこれで、とっても「夢らしい」雰囲気が出ているなと思いました。
齋藤 祐:はい。じつはこの「主人公」がみずから「護国寺の山門」に赴いているという点が、小さいストーリーの結末部分にもつながっていきます。「護国寺の山門」だけが異世界の入り口になっていて、それ以外は「明治」の時代なんだ、という「空間構造」にポイントがあります。
さて、今回は齋藤 祐先生と夏目 漱石の『夢十夜』の『第六夜』の前半を学習しました。齋藤先生、ありがとうございました。
齋藤 祐:ありがとうございました。
NHK高校講座 言語文化、木本 景子と齋藤 祐先生でお送りしました。