(♪ オープニング音楽)
NHK 高校講座、言語文化の時間です。
木: 皆さん、ご機嫌いかがですか。木本景子です。今回から俵万智の随筆、「さくらさくらさくら」を読んでいきます。講師は齋藤祐先生です。よろしくお願いします。
齋: 齋藤祐です。よろしくお願いします。
(♪ 音楽)
齋: さて、今回と次回で読んでいく「さくらさくらさくら」という作品、どんな作品なんでしょうか。
齋: はい。筆者の俵万智さんは歌人で、現代短歌を代表する方です。柔らかい話言葉を存分に使って、日常の細やかな場面をすくい上げる歌風に特徴があります。今回取り上げる「さくらさくらさくら」は、歌人である筆者が自分の思いに従ってつづった随筆です。筆に従うと書いて随筆、エッセイとも言います。
木: とても楽しみです。
木: それでは、今回の学習のポイントを紹介します。
木: 一、三つの話題を整理しよう。
木: 二、海外の桜の受け止め方を確認しよう。
木: 三、桜が女王様? 歌いにくい花?
木: この三つです。それでは、学習を始めましょう。
(♪ ジングル)
齋: それでは、今回学習するところの朗読を聞いてください。筆者が綴ろうとしている思いに注目してみましょう。朗読は高山久美子さんです。
高山 (朗読): さくらさくらさくら 俵万智
高山 (朗読): 和歌の世界では、「花」といえばすなわち桜のことを指す。
高山 (朗読): 歌人たちに多くの名歌を詠ませてきたという点において、桜はまさにナンバーワンの花、堂々たる名花だ。
高山 (朗読): 最近では、さまざまな輸入花を見ることができるし、かつてないほど洗練されたバラの花や蘭の花を手に入れることもできる。
高山 (朗読): シクラメンやポインセチアなど、季節の風物詩として定着したものもある。
高山 (朗読): が、そんな中にあっても、桜だけは別格という気がする。
高山 (朗読): 何というか、「花」という言葉ではくくりきれない、存在そのものが果てしない広がりを持った、誠に不可思議なもの――、それが桜だ。
高山 (朗読): けれど桜に対する思い入れは、日本人独特のもののようだ。
高山 (朗読): 以前、デンマークの高校で、日本の古典について話をする機会があった。
高山 (朗読): 言葉は古くなっても、その心情においては現代の私たちが大いに共感できるものがある、というようなことを述べ、その例として、『源氏物語』に描かれた「人を恋する気持ち」や『伊勢物語』に出てくる「桜への思い入れ」などを挙げた。
高山 (朗読): 『源氏物語』のほうは、デンマークの若い人たちにも分かりやすかったようだ。
高山 (朗読): が、桜のほうは、どうもぴんとこないという顔をしている。
高山 (朗読): 例えば、と私は、在原の業平の次の歌を挙げた。
高山 (朗読): 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
高山 (朗読): 『伊勢物語』に登場する和歌で、『古今和歌集』にも収められている有名な作品である。
高山 (朗読): 「春になると私たちは、もうすぐ桜が咲くなあとわくわくし、早く咲かないかなあとイライラもし、咲けば咲いたでうきうきする一方、風や雨で散ることを心配し、散り始めるとがっかりしてしまう……。
高山 (朗読): 本当に桜というのは私たちの心を振り回すもの。
高山 (朗読): この世に桜というものがなければ、春の心はどんなにかのんびりと穏やかなものであろうか、という逆説的な言い方で、桜のすばらしさと存在感をたたえているんですね。」
高山 (朗読): 我ながらうまく説明できたと思ったのだけれど、学生たちはぽかんとしている。
高山 (朗読): なぜ、大の大人がそこまで一生懸命になるのか、ずいぶん大げさなんじゃないの、という反応である。
高山 (朗読): 「大げさなんかじゃありません。今だって、桜前線というのがあって毎日テレビのニュースや新聞で報道されているんですよ。」と桜前線のことを紹介すると、今度はぽかんを通り越して、みんなゲラゲラ笑い始める始末。
高山 (朗読): 「花が咲いたとか咲かないとかいった話題を、毎日わざわざニュースでやるなんて、ずいぶんのんきなんですね。」というわけだ。
高山 (朗読): そう言われてみると、例えば、チューリップ前線とか、ひまわり前線とか、そういうことを年がら年中やっているとしたら、これは実にのんきな感じがする。
高山 (朗読): そういうおかしさを、彼らは感じたのだろう。
高山 (朗読): でもでも、桜前線は、おかしくないのだ。
高山 (朗読): なんてったって桜である。
高山 (朗読): 桜は、我々日本人にとっては別格の女王様なのだ。
高山 (朗読): そこのところが、どうも理解されにくいようだった。
高山 (朗読): しかも、これはデンマークでの体験ではないのだが、別のヨーロッパの国で、「何で、あんな薄汚い色の
高山 (朗読): 確かに、ピンクといっても、バラやスイートピーのようにはっきりしてはいない。
高山 (朗読): どちらかというと、ねぼけたような色である。
高山 (朗読): しかしそれが、日本の春の優しい青空とぼんやりした空気とに、実によく合うのだ。
高山 (朗読): 例えば真紅の桜なんて、考えただけでも目まいがしそうだ。
高山 (朗読): 桜というのは、花だけを取り出して観賞するものではないのかもしれない。
高山 (朗독): 桜の咲いている空間ごと、そして時間ごと、日本の春という舞台の全てを含めて桜なのだという気がする。
(♪ ジングル)
表題: 三つの話題を整理しよう
齋: 作品の前半の朗読を聞いてもらいましたが、この後の後半と合わせて、この随筆は大きく三つの話題で展開しています。そこで、全体を三つの話題で整理してみましょう。分けて整理することがこの随筆を理解するために大切なポイントです。
木: どのようにしたらいいんでしょうか?
齋: はい。まず接続詞に注目してみます。話題が変わる時、逆説や転換を表す接続詞を置くことがよくあります。逆説の接続詞は例えば、「しかし」「けれど」「が」「でも」などですね。そして、この随筆の主題である桜に対する視点が変わったところを探してみます。
木: 逆説の接続詞で始まるのは…
木: あ、「けれど」で始まる段落がありますね。「けれど桜に対する思い入れは、日本人独特のもののようだ。」というところですか?
齋: いいですね。他にはありますか?
木: えっとですね。逆説の接続詞で始まる段落はなさそうなんですが、桜に関する視点が変わるところはありますね。「ところで、歌人にとっては、桜というものは最も歌いたくて、最も歌いにくい花である。」というところです。
齋: はい、そうですね。冒頭の文と、今出てきた二つの文を繋いでみると、こうなります。
齋: 和歌の世界では「花」といえばすなわち「桜」のことを指す。
齋: けれど桜に対する思い入れは、日本人独特のもののようだ。
齋: ところで、歌人にとっては、桜というのは最も歌いたくて、最も歌いにくい花である。
齋: いかがでしょうか。大きくまとめると、これがこの随筆で述べられている三つの話題なんです。
木: なるほど。接続詞に注意して、主題に対する視点が変わったところを探すと、おおよその内容がわかるんですね。
齋: そうなんです。この随筆はまず桜について説明をしています。日本の歌人たちに多くの名歌を詠ませてきた花でナンバーワンの花だと言っています。輸入されるさまざまな花と比べても別格だと筆者は言っています。
木: さらに、「花」という言葉ではくくりきれない不思議なものだとも言っていますね。
齋: はい。その次で「けれど桜に対する思い入れは」と逆説の接続詞で話が転換し、筆者がデンマークの高校で日本の古典の話をする機会があったことを述べています。そこで「その心情においては現代の私たちが大いに共感できるものがある」と言っています。
木: 齋藤先生、ここで言う「その心情」ってどんな心情なんでしょうか。
齋: はい。日本の古典における言葉に託された、書き手や読み手のさまざまな心情です。
木: 言葉に託された書き手や読み手のさまざまな心情のことならば、現代においても大いに共感できるところがありますね。
齋: はい。この後、筆者は『源氏物語』や『伊勢物語』を例に説明するのですが、デンマークの若い人には桜の話はピンとこなかったようです。そこで、在原の業平の、「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」という和歌を紹介しました。
木: 木本さんはこの和歌はご存知ですか?
木: はい。在原の業平も好きですし、この和歌も印象的です。本文ではこの後で筆者がこの和歌を解釈していますが、最後の方に「逆説的な言い方」とありますね。この和歌のどこが逆説的な言い方なんでしょうか。
齋: はい。逆説とは、言わんとすることをあえて反対の言い方で述べることです。例えば「急がば回れ」や「負けるが勝ち」とかも言ますが、それのことですよね。
木: そうです。ここでは、「桜の花などなければいいのに」という言い方で、「桜の花ほど素晴らしいものはない」という意味を表しています。
(♪ ジングル)
表題: 海外の「桜」の受け止め方を確認しよう
齋: さて、続きを読み進めていきましょう。在原の業平の和歌で日本における桜への心情を説明したところ、学生たちはぽかんとしていたと言います。
木: 大の大人が大げさなんじゃないのという反応だったようですね。さらに桜前線を紹介したら、ぽかんを通り越してゲラゲラ笑い始める始末だったそうです。そんなに面白いことなんでしょうか。
齋: 桜が咲くのか咲かないのかということに、なぜそこまで一生懸命になるのか、ずいぶん大げさなのではないかと感じています。テレビのニュースや新聞で桜前線が報道されることについても、わざわざ知らせるほどのものではないと考えているんでしょう。
木: なるほど。私たちは馴染みがあって当たり前のように感じられますが、海外の方からするとそう感じられるんですね。
齋: はい。読み進めると今度は、別のヨーロッパの国の人に質問されたことが述べられています。桜の色を「あんな薄汚い色の花」と述べ、色調がはっきりしないことをマイナスに捉えている様子がうかがえますね。
木: そんなふうに感じられるなんて意外でしたね。
齋: はい。筆者は「桜は花だけ取り出して観賞するのではなく、咲いている空間や時間など、日本の春という舞台の全てを含めて桜なのだ」と述べています。春になってお花見に出かけたい気分を思い出してください。木本さんはどんな気分でしょうか。
木: そうですね。やはりこう、桜の時期は満開の時も散っている姿も好きでして、こう、晴れた日に澄んだ青空の下で、のんびり眺めながら和やかな時間にひたりたいなという気分と、あとはみんなでワイワイとこう景色やその空間自体を楽しむという、めでたいという気分もありますね。
齋: いいですね。どこかの桜を、いつ、誰と訪れたいのか、そこでどのような時間を過ごしたいのか。お花見は自分自身の思い描いている幸せの形に気づかせてくれます。春の訪れは別れもあれば新しい出会いもあって、そのような季節感を覚えさせるのも桜の特徴ですね。
(♪ ジングル)
表題: 「桜」が「女王様」? 「歌いにくい花」?
齋: さて、次の段落の冒頭で筆者は「歌人にとって最も歌いたくて最も歌いにくい花」と言っています。
木: どういうことなんでしょうか。
齋: 少し前で「桜は別格の女王様なのだ」と言っていましたね。桜は歌人たちに多くの名歌を詠ませてきたまさにナンバーワンとあるので、こと日本においては、桜があらゆる花とは別格、位相の異なる存在だということを言っています。そのことを女性に擬人化して表現しているのがこの「女王様」という表現なんです。
木: なるほど。では、なぜ歌いにくいんですか?
齋: はい。桜は日本の春を象徴する花と筆者は言っていましたね。そうであるゆえに、歌人としては取り上げたいテーマであることは間違いありません。ですから、「最も歌いたい花」と言えます。
木: では、なぜ歌いにくいんですか?
齋: はい。すでに数え切れないほど桜の歌が詠まれており、名歌と呼ばれるものもたくさんあるからです。そのそばに自分の歌を並べるとなると気が引けるので、歌いにくい、というわけです。
高山 (朗読): ところで、歌人にとっては、桜というのは最も歌いたくて、最も歌いにくい花である。
高山 (朗読): 歌人とよばれるからには、桜の花の歌を(それもできれば名歌を)ものしたいと思う。
高山 (朗読): が、冒頭でも触れたように、すでに数えきれないほどの歌が詠まれており、大先輩の名歌もたくさんある。
高山 (朗読): 言ってみれば、日本画家にとっての富士山のようなものだろうか。
高山 (朗読): 心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら
高山 (朗読): 散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる
高山 (朗読): 数年前に詠んだ歌である。
高山 (朗読): 自分の心が散るときには、桜の花は満開であってほしいと思った。
高山 (朗読): そしてまた、桜の散る様子を見ていると、それは「終わる」という後ろ向きのものではなく、まさに飛翔しているかのように感じられた。
高山 (朗読): ならば、今散ろうとしている自分の心も、飛翔へと変えることができるかもしれない……。
高山 (朗読): そんな励ましを、もらったような気がする。
高山 (朗読): 最後に、私が初めて詠んだ桜の歌を一首。
高山 (朗読): 毎年、桜の花の季節が終わると、一つの夢から覚めたような気分になる。
高山 (朗読): それは芝居を見終わったときの感覚にも似ている。
高山 (朗読): さくらさくらさくら 咲き初め咲き終わり なにもなかったような公園
(♪ ジングル)
表題: 筆者の短歌三首を見てみよう
齋: 筆者の短歌が三首紹介されていましたね。
木: はい。花を詠んだ歌でしたね。二つははっきり桜と入ってはいないんですが、桜を歌ったものですよね。
齋: そうです。一つずつ見ていきましょう。まず一つ目の歌を木本さん、読んでみてください。
木: はい。心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら。
齋: この歌と、もう一つの歌を続けた後に、作者自身が「自分の心が散るときには、桜の花は満開であってほしいと思った」とあるので、今読んでいただいた場面はすべて作者の空想です。そして歌の中に「さよなら」「心散る」とあるんですね。
木: ということは、別れの歌なんでしょうか。
齋: そうですね。別離、失恋の場面を歌っているんですね。さらに「心が散る」のと「桜が散る」ことを掛けていて、別れを告げられた「私」の心が、枝から離れて広がり落ちる無数の花びらに喩えられています。また「そっと言われたかった」とあるので、実際は「満開の木の下」ではないところで、相手に、おそらく唐突に別れを告げられたのではないでしょうか。「桜散る」という光景から「心散る」という造語へと結びつけた連想が見事です。
木: こう、気持ちと情景が重なりますね。
齋: 場面が見えますよね。では、次の歌を読んでみてください。
木: はい。散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる。
齋: こちらの歌は「花びら」が「微笑む」という擬人法が使われています。散ることを「飛ぶ」と、駆けるを重ねた「飛翔」と読み替え、あたかも花びらが自分の意志で飛び立つかのような印象を与えています。
木: 確かに「飛翔」とすると、なんだか行くぞというような前向きな感じがしますよね。
齋: そうですよね。歌の後に作者自身が述べているように、散ることが「終わり」ではなく、「飛翔」することによって次の「始まり」へとつながっているんです。桜が散る場面を寂しい歌にするのではなく、励ましの歌へと詠んでみせています。
木: なるほど。花が散ることが悲しいことではなくなっているんですね。
齋: そうですね。それでは最後の歌を読んでみてください。
木: はい。さくらさくらさくら 咲き初め咲き終わり なにもなかったような公園。
齋: 歌い出しで「さくらさくらさくら」と言葉を繰り返したかな書きで表すことで、あたかも桜が散る様子を文字で描いているような印象を与えています。
木: 面白いですね。随筆のタイトルはこの歌から来ているんですね。
齋: そうですね。また、「咲き初め咲き終わり」と、最初と最後を続けてしまうことで、桜が咲いている短い時間を象徴し、最後に「なにもなかったような公園」という日頃見慣れた風景に落とし込んでみせているんです。筆者が桜の季節の終わりを「一つの夢から覚めたような気分」「芝居を見終わったときの感覚」と記しているように、自分の見ていた満開の桜が、現実だったのか幻だったのか分からなくなるような不思議な感覚で描いているんです。
木: なるほど。桜が咲いている時間の短さまで込められているというのは驚きでした。この32文字の中にドラマがぎゅっと詰まっていて面白いですね。
齋: そうですね。
(♪ ジングル)
表題: 「自分の心が散る」?
齋: 筆者の短歌が二つ続けて紹介された後、「自分の心が散る時」という表現がありましたね。
木: はい。
齋: この「心が散る」というのは、筆者独特の言い回しだと思います。この随筆は桜がテーマになっていますが、例えば受験の合格や不合格を「桜咲く」や「桜散る」と言ったりしますよね。
木: はい。耳馴じみがありますね。
齋: 心情の象徴的表現として桜の花の様子が用いられることは、今なお目にすることがあります。ですから、「心が散る」は、何か落ち込んだりすることを指していると思われます。
木: 何があって落ち込むんでしょうか。
齋: 本文ではこの後に「今散ろうとしている自分の心」とあるので、親しかった人との別離が詠まれていると考えられます。この「自分の心が散る」とは、自分の思い通りに事が運ばず、気持ちが乱れたりしおれたりしている様子を指していると考えられるんです。
(♪ ジングル)
表題: 「桜」に対する日本独特の感覚と筆者の考えについてまとめよう
齋: ここまで読んできて、桜に対する独特の感覚と筆者の考えについてまとめてみましょう。
木: はい。まず本文の冒頭には、和歌の世界では「花」といえば「桜」のことを指す、とありましたね。
齋: そうですね。桜はまさにナンバーワンの花とありました。古典の世界でも桜は特別だと言っているくらい、日本ではみんな桜が大好きなんですね。
木: 確かにそうですね。本文にもありましたが、春になると桜前線の話がニュースで取り上げられたり、桜が咲くだけでニュースになったりしますからね。でも、どうして私たちはそんなにも桜が大好きなんでしょうか。
齋: それは、「花」といえばすなわち桜を表すごとく、花の代表が桜になっているからだと思われます。堂々たる名花として別格の桜は、筆者に言わせれば「女王様」の称号にふさわしい。この感覚は、筆者が実際に訪れたヨーロッパの人々には共感されませんでしたが、日本という島国においては、昔から現代へと連なる、普遍的な感性として受け継がれているんです。それは『源氏物語』や『伊勢物語』といった古典の名作でも取り上げられ、現代でもさまざまな作品で取り上げられ、日常でも桜前線や桜の開花がニュースになっていることでもわかりますよね。
木: 確かに、3月中旬くらいから、桜はいつ咲くのかな、お花見にはいつ行こうかな、などと関心が高まってきますよね。
齋: そうですよね。筆者の言うように、歌人として歌いたいテーマではありながら歌いたいテーマである「桜」は、逆説的な意味において、「桜というものがなければ」という思いを抱かせるほどに、私たちをつかんで離さない魅力を備えているのです。
木: それでは、ここまで桜についていろいろ見てきましたが、木本さん、いかがでしたか?
木: そうですね。この内容を学習したことで、より一層、桜に対する愛情というか、愛おしさみたいなものが増しました。
齋: はいはい。
木: はい。で、さらにですね、あの、「さくらさくらさくら」というこの表現の楽しさ、この文字の連なりだったり、音の重なりだったりっていうのも感じられましたし、俵万智さんの詠まれた短歌の深みに触れることで、こう自分の中の想像力もかき立てられて、心が豊かになったような気がしました。
齋: はい。
木: そしてこの桜にちなんでなんですけれども、この日本の国花、国の花になっているくらいですし、やはりこう昔から変わらずに現代でも愛されていて、私たちの心を動かしている特別な花だなというふうに感じましたね。あの、満開で綺麗に咲き誇っている時はもちろ ん、こう一番盛り上がる時期だと思うんですけれども、この小さなつぼみを見つけて、あ、春の訪れを感じたってこう嬉しくなったりだとか、この花の雫を見て、いつもとは違うような艶のある情景だなって感動したり、こう花びらが舞い散る姿だったり、葉桜になって新しい装いを見ても季節を感じたり、こう移ろっていく楽しさ、感動があるというのも桜の魅力だなと改めて感じました。
齋: いいですね。「花時」って言いますけど、これまさに桜が満開の時のことを押さしてますし、夜でもほのかに明るく見えることを「花明かり」という言い方もします。今木本さんが「花の雫」っていう言葉挙げてくれましたけれども、他にも「花いかだ」ですとか「花の浮き橋」など、たくさん詠まれているんですよね。
木: この身近なところに、日本ならではの美しい言葉、言葉の響きっていうのがありますよね。その魅力が歌や作品としても形に残したいとか、思いを重ねたいという人々の心を引きつけるんだろうなというふうに思いましたね。長く愛されている桜なんですけれども、100年、200年、1000年後もきっと変わらずに愛され続けているんだろうなというふうに思いました。
齋: 古典の世界で詠まれているものっていうのは、もう声は失われているんですけど、我々に残された文字を通じて、歌を通じて、1000年前の人の心を覗き見ることができる、共感できるっていうのが、古典を学んでいくことの非常に大きな意味だと思います。
木: 共感するところから楽しさを見つけて、この古典の世界も楽しむというポイントというかきっかけになったら嬉しいですよね。
齋: ぜひそうなってほしいですね。
(♪ ジングル)
木: それでは、今回の学習のポイントを確認しましょう。
木: 一、筆者の短歌三首を見てみよう。
木: 二、自分の心が散る?
木: 三、桜に対する日本独特の感覚と筆者の考えについてまとめてみよう。
木: 以上の三つでした。
齋: 今回は筆者自身が詠んだ歌を情景として想像してみました。歌の中にはそれぞれ、の場面が切り取られていましたね。表現としては「心が散る」など、筆者ならではの言い方もありました。また、桜に対する私たちの感覚は、長い年月をかけて積み重ねられてきた部分もあるようです。紀の貫之による『古今和歌集』仮名序の序文にこんな表現があります。「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」。和歌は人の心をもとにして、いろいろな言葉になったものだという意味ですが、桜も和歌や短歌の歴史の中で、まだ開かないつぼみの状態から咲き出し、満開、そして散るまで、さらに散った後と、人の心をもとにしてさまざまな情景として描かれてきたんですね。
(♪ ジングル)
木: さて、今回は齋藤祐先生と俵万智の「さくらさくらさくら」という随筆を読んできました。齋藤先生、ありがとうございました。
齋: ありがとうございました。
木: NHK 高校講座、言語文化。木本景子と、齋藤祐先生でお送りしました。
(♪ エンディング音楽)