言語文化 #7・8
俵 万智
講師 齋藤 祐
学習のねらい
随筆を読んで、筆者のものの見方や感じ方を読み取り、引用歌や体験談に注意しながら、日本独特の桜に関する感性について理解を深めよう。
閱讀隨筆,讀取作者看事物的方式與感受方式,一邊注意引用的和歌與體驗談,一邊加深關於櫻花的日本獨有的感性的理解吧。
●学習のポイント●
〈一〉三つの話題を整理しよう
〈二〉海外の「桜」の受け止め方を確認しよう
〈三〉「桜」が「女王様」?「歌いにくい花」?
〈一〉整理三個話題吧 〈二〉確認海外對「櫻花」的接受方式吧 〈三〉「櫻花」是「女王」?是「難以歌詠的花」?
■三つの話題を整理しよう
この文章は「随筆」というジャンルに位置づけられます。「エッセイ」とも言います。「随」と「筆」は、それぞれ次のような意味を持っています。
本文被歸入「隨筆」這個類型。也叫做「essay(隨筆)」。「隨」與「筆」各自具有如下意義。
「随」……~にしたがう。~にまかせる。
「筆」……筆を用いて書くこと。また、書いたもの。
「隨」……順從~。任憑~。 「筆」……用筆書寫,又指所寫的東西。
つまり「随筆(随想)」とは、筆者の筆に随って、筆にまかせて書かれた文章、ということです。
随想を読むときには、筆者がどのような体験をし、その体験から何を感じ取り、それをどのように述べているのかを追いかけながら読むと、筆者自身に見えている世界を読者である私たちも追体験することができます。
今回の文章は大きく三つの話題で展開しています。分けて整理することが、この文章を理解するために大切なポイントです。
そこで、本文中に出てくる接続詞に注目してみましょう。すると、「けれど」で始まる段落と「ところで」で始まる段落が見つかります。それぞれで話題が転換していると判断し、文をつないでみると次のようになります。
也就是說,所謂「隨筆(隨想)」,就是順著作者的筆、任憑筆寫下的文章。閱讀隨想時,追蹤作者體驗了什麼、從中感受了什麼、又是如何敘述的,並掌握其要點。 本文有以下三個話題。請從下面三個話題的內容中,找出「轉折」「焦點變換」的地方吧。
〈話題1〉和歌の世界では「花」といえばすなわち「桜」のことを指す。
〈話題2〉けれど桜に対する思い入れは、日本人独特のもののようだ。
〈話題3〉ところで、歌人にとっては、桜というのは最も歌いたくて、最も歌いにくい花である。
〈話題1〉在和歌的世界中,「花」一說即指「櫻花」。 〈話題2〉然而對櫻花的傾心,似乎是日本人獨有的。 〈話題3〉順帶一提,對歌人而言,櫻花是「最想歌詠、最難歌詠」的花。
こうしてみると、接続詞をきっかけに話題が展開している様子がよく分かります。
如此一看,便可清楚知道話題是以接續詞為契機而展開的。
■海外の「桜」の受け止め方を確認しよう
デンマークの高校生にとって、『伊勢物語』に描かれた「桜への思い入れ」は理解することが難しかったようです。桜が咲くのか咲かないのかということに、なぜ、そこまで一生懸命になるのか、ずいぶん大げさなのではないか、と感じています。テレビのニュースや新聞で「桜前線」が報道されることについても、わざわざ知らせるほどのものではないと考えているのです。一方、別のヨーロッパの国の人は、桜のこと色を「あんな薄汚い色の花」と述べ、色調がはっきりしないことをマイナスに捉えている様子がうかがえます。
對丹麥的高中生而言,《伊勢物語》中所描繪的「對櫻花的傾心」似乎很難理解。為什麼要對「櫻花開不開」這件事這麼認真——這未免太誇張了吧,他們是如此反應。對日本人視為理所當然的櫻花,海外的人卻有與之不同的接受方式。從這一點,可以突顯出日本人對櫻花的特殊感受。
■「桜」が「女王様」?「歌いにくい花」?
冒頭で「花」といえばすなわち桜、歌人たちに多くの名歌を詠ませてきた「まさにナンバーワン」とあるので、こと日本においては、桜があらゆる花とは別格、位相の異なる存在だということを、「桜が女王様」という形で、女性に擬人化しています。
また、桜は日本の春を象徴する花であるがゆえに、歌人としては取り上げたいテーマです。ただ、既に数え切れないほど「桜」の歌が詠まれているので、「名歌」と呼ばれるものもたくさんあります。そのそばに自分の歌を並べるとなると気が引けるので、歌いにくいのでしょう。
因為開頭寫著「花」即指櫻花,「讓歌人們詠出眾多名歌」「正是Number One」,所以就日本而言,櫻花是其他花無法與之比較的別格存在——這一點,作者以「櫻花是女王」的形式來表現。同時,櫻花又是「最想歌詠卻最難歌詠的花」,被歌人們敬而遠之,形成微妙的存在感——這就是櫻花對日本人來說的位置。
学習のねらい
筆者の短歌三首を踏まえ、「桜」に対する日本人独特の感覚と筆者の考えについてまとめてみよう。
以作者的三首短歌為前提,就日本人對「櫻花」獨有的感覺與作者的想法,來整理看看吧。
●学習のポイント●
〈1〉筆者の短歌三首を見てみよう
〈二〉「自分の心が散る」?
〈三〉「桜」に対する日本独特の感覚と筆者の考えについてまとめよう
〈一〉來看看作者的三首短歌吧 〈二〉「自己的心散落」? 〈三〉就對「櫻花」的日本人獨有的感覺與作者的想法整理一下吧
■筆者の短歌三首を見てみよう
心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら
若心要散落的話 願在滿開的樹下 悄聲被告知 那一句「再見」
このあとに作者自身が「自分の心が散るときには、桜の花は満開であってほしいと思った」とあるので、場面はすべて作者の空想です。歌の中に「さよなら」とあるので別離、失恋の場面。さらに「心」が「散る」のと「桜」が「散る」ことを掛けていて、別れを告げられた「私」の心が、枝から離れて広がり落ちる無数の花びらに喩えられています。また「そっと言われたかった」とあるので、実際は「満開の木の下」ではないところで、相手に、おそらく唐突に別れを告げられたのではないでしょうか。「桜散る」という光景から「心散る」という造語へと結びつけた連想が見事な歌です。
後面作者自身寫到:「自己的心散落之時,希望櫻花滿開」——所以可知這是作者的空想場景。因為歌中有「再見(さよなら)」,所以是離別、失戀的場景。再加上自己的「心」散落 與 櫻花的「散」被相互對比。藉此,「自己的心散落,櫻花卻反而正盛開」這份心境形成對比。 短歌的句意:「如果自己的心要散落(傷心)的話,希望是在櫻花滿開的樹下、被悄悄地說出『再見』」——這是強烈的願望,但這份願望未能實現——這份悲傷正是當下的心境。
散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる
「散落」這稱為「飛翔」的姿態 花瓣忽然微笑著 離開枝頭
こちらも「花びら」が「微笑む」という擬人法を使っています。「散る」ことを「飛翔」と読み替え、あたかも花びらが自分の意志で飛び立つかのような印象を与えています。作者自身が述べているように「散る」ことが「終わり」ではなく「飛翔」することによって次の「始まり」へとつながっているイメージをもたらし、桜が散る場面を「励まし」の歌へと詠んでみせています。
這首也使用了「花瓣」「微笑」這樣的擬人法。將「散」讀換為「飛翔」,給人彷彿花瓣是出於自己的意志而飛離的印象。如作者自身也提到,把「散」想成「結束」這種令人感傷的場面,反過來以「飛翔」這種跳躍般的動作來描寫——可說是非常積極的把握方式。
さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園
櫻花櫻花櫻花 開始綻放 結束綻放 彷彿什麼也未曾發生過的 公園
「さくらさくらさくら」と言葉を繰り返した仮名書きで表すことで、あたかも桜が散る様子を文字で描いているような印象を与えています。また「咲き初め咲き終わり」と最初と最後を続けてしまうことで、桜が咲いている短い時間を象徴し、最後に「なにもなかったような公園」という日頃見慣れた風景に落とし込んでみせているのです。作者が桜の季節の終わりを「一つの夢から覚めたような気分」「芝居を見終わったときの感覚」と記しているように、自分の見ていた満開の桜が、現実だったのか幻だったのか分からなくなるような不思議な感覚が表現されています。
「さくらさくらさくら」這樣以假名書寫重複詞語來表達,藉此給予彷彿用文字描繪花散落樣子的印象。並且,藉由將「咲き初め(開始綻放)」與「咲き終わり(結束綻放)」連接起來,表現出櫻花綻放期間很短、轉眼結束的空蕩感。從上面這三首歌中,可以看見作者「在飛逝之中看見櫻花魅力」這樣的視角。
■「自分の心が散る」?
筆者が紹介している一つ目の歌に「心散る」という表現が出てきます。地の文にも同じ表現があります。これは筆者独特の言い回しで、自分の思い通りに事が運ばず、気持ちが乱れたりしおれたりしている様子が描かれています。
在作者所介紹的第一首歌中,出現了「心散る(心散落)」這個表達。在正文中也有同樣的表達。這是作者獨特的說法,描寫「事情不如自己意願、心動搖或消沉的樣子」。對作者而言,「散」表面上是花的姿態,但裡側可說是與「自己的心」的轉變相連——可以這麼想。
■「桜」に対する日本人独特の感覚と筆者の考えについてまとめよう
日本人は桜が大好きです。それは「花」といえばすなわち「桜」を表すごとく、「花」の代表が「桜」だと言えます。「堂々たる名花」として「別格」の桜は、筆者に言わせれば「女王様」の称号にふさわしい。この感覚は、筆者が実際に訪れたヨーロッパの人々には共感されませんでしたが、日本という島国においては、『源氏物語』や『伊勢物語』が書かれた昔から現代へと連なる、普遍的な感性として受け継がれています。歌人として、歌いたいテーマではありながら歌いたいテーマである「桜」は、逆説的な意味において、「桜というものがなければ」という思いを抱かせるほどに、私たちをつかんで離さない魅力を備えているのです。
日本人非常喜愛櫻花。正如「花」即指「櫻花」一樣,「花」的代表就是櫻花。被視為「堂堂的名花」、地位別格的櫻花,借作者的話來說,配得上「女王」之名。但這樣的感性,對海外的人來說,或許未必能理解。 而作為作家,作者特別喜愛櫻花,但這「最想歌詠之物」同時又是「最難歌詠之物」——對於以歌詠為畢生事業的對象,作者藉由這三首短歌的應對方式正是寶貴的記錄。請務必讀讀其他歌人所詠的櫻花作品,比較看看吧。
俵 万智
講師 齋藤 祐
和歌の世界では、「花」といえばすなわち桜のことを指す。歌人たちに多くの名歌を詠ませてきたという点において、桜はまさにナンバーワンの花、堂々たる名花だ。
最近では、さまざまな輸入花を見ることができるし、かつてないほど洗練されたバラの花や蘭の花を手に入れることもできる。シクラメンやポインセチアなど、季節の風物詩として定着したものもある。が、そんな中にあっても、桜だけは別格という気がする。何というか、「花」という言葉ではくくりきれない、存在そのものが果てしない広がりを持った、誠に不可思議なもの――それが桜だ。
けれど桜に対する思い入れは、日本人独特のもののようだ。以前、デンマークの高校で日本の古典について話をする機会があった。言葉は古くなっても、その心情においては現代の私たちが大いに共感できるものがある、というようなことを述べ、その例として、『源氏物語』に描かれた「人を恋する気持ち」や『伊勢物語』に出てくる「桜への思い入れ」などを挙げた。『源氏物語』のほうは、デンマークの若い人たちにも分かりやすかったようだ。が、桜のほうは、どうもぴんとこないという顔をしている。
例えば、と私は、在原の業平の次の歌を挙げた。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
『伊勢物語』に登場する和歌で、『古今和歌集』にも収められている有名な作品である。
「春になると私たちは、もうすぐ桜が咲くなあとわくわくし、早く咲かないかなあとイライラもし、咲けば咲いたでうきうきする一方、風や雨で散ることを心配し、散り始めるとがっかりしてしまう……。本当に桜というのは私たちの心を振り回すもの。この世に桜というものがなければ、春の心はどんなにかのんびりと穏やかなものであろうか、という逆説的な言い方で、桜のすばらしさと存在感をたたえているんですね。」
我ながらうまく説明できたと思ったのだけれど、学生たちはぽかんとしている。なぜ、大の大人がそこまで一生懸命になるのか、ずいぶん大げさなんじゃないの、という反応である。
「大げさなんかじゃありません。今だって、桜前線というのがあって、毎日テレビのニュースや新聞で報道されているんですよ。」と桜前線のことを紹介すると、今度はぽかんを通り越して、みんなゲラゲラ笑い始める始末。
「花が咲いたとか咲かないとかいった話題を、毎日わざわざニュースでやるなんて、ずいぶんのんきなんですね。」というわけだ。
そう言われてみると、例えば、チューリップ前線とか、ひまわり前線とか、そういうことを年がら年中やっているとしたら、これは実にのんきな感じがする。
在和歌的世界中,所謂「花」即指櫻花。在「讓歌人們詠出眾多名歌」這一點上,櫻花正是Number One的花,是堂堂的名花。 最近,可以看到各種進口花,也能買到前所未有地精緻的玫瑰花和蘭花。仙客來、聖誕紅等也已作為季節的風物詩固定下來。然而即使在這之中,唯獨櫻花是別格——我有這種感覺。怎麼說呢,那是用「花」這個詞無法概括的、存在本身具有無盡廣度的、真正不可思議之物——那就是櫻花。 然而對櫻花的傾心,似乎是日本人獨有的。以前,我有過在丹麥的高中講日本古典的機會。我說了「即使語言變古,在心情層面,現代的我們仍能大為共鳴的東西是有的」這樣的話,作為例子,舉了《源氏物語》中所描繪的「戀慕他人的心情」和《伊勢物語》中出現的「對櫻花的傾心」等。《源氏物語》那邊,對丹麥的年輕人們似乎也容易理解。然而櫻花這邊,他們卻一臉「不太能理解」的樣子。 於是我說「比方說」,便舉了在原業平的下面這首歌。 「世間若沒有櫻花的話 春日的心將會何等悠閒(世の中に絶えて桜のなかりせばはるの心はのどけからまし)」 這是在《伊勢物語》中登場的和歌,也收錄於《古今和歌集》,是有名的作品。 「『一到春天,我們便因為櫻花就快開了而興奮,又因為怎麼還不快點開而焦躁;開了之後雖然雀躍,另一方面又擔心被風雨吹散,等到開始散落便沮喪起來……櫻花真的是把我們的心擺弄得團團轉的東西。「這世上若沒有櫻花這東西,春日的心將會多麼悠閒平和啊」——他以這種逆說的說法,讚頌了櫻花的美妙與存在感。』」 自己覺得說明得不錯,但學生們卻一臉茫然。為什麼大人們會如此認真投入?這未免太誇張了吧——這就是他們的反應。 「『一點都不誇張喔。即使是現在,也有所謂的「櫻前線」,每天電視新聞和報紙都在報道。』」我這樣介紹櫻前線,這次他們不只是茫然,而是大家開始捧腹大笑,落到這個地步。 「『花有沒有開這種話題,每天還特地用新聞報道,真是太悠閒了。』」就是這樣的回應。 這樣一被說,比方說鬱金香前線、向日葵前線之類的,如果一年到頭都這樣搞,那感覺確實是非常悠閒。
そういうおかしさを、彼らは感じたのだろう。でもでも、桜前線は、おかしくないのだ。なんてったって桜である。桜は、我々日本人にとっては別格の女王様なのだ。そこのところが、どうも理解されにくいようだった。
しかも、これはデンマークでの体験ではないのだが、別のヨーロッパの国で、「何で、あんな薄汚い色の花がいいのか?」と質問されたことがある。確かに、ピンクといっても、バラやスイートピーのようにはっきりしてはいない。どちらかというと、ねぼけたような色である。しかしそれが、日本の春の優しい青空とぼんやりした空気とに、実によく合うのだ。例えば真紅の桜なんて、考えただけでも目まいがしそうだ。
桜というのは、花だけを取り出して観賞するものではないのかもしれない。桜の咲いている空間ごと、そして時間ごと、日本の春という舞台の全てを含めて桜なのだという気がする。
ところで、歌人にとっては、桜というのは最も歌いたくて、最も歌いにくい花である。歌人とよばれるからには、桜の花の歌を(それもできれば名歌を)ものしたいと思う。が、冒頭でも触れたように、既に数えきれないほどの歌が詠まれており、大先輩の名歌もたくさんある。言ってみれば、日本画家にとっての富士山のようなものだろうか
散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる
心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら
数年前に詠んだ歌である。自分の心が散るときには、桜の花は満開であってほしいと思った。そしてまた、桜の散る様子を見ていると、それは「終わる」という後ろ向きのものではなく、まさに飛翔しているかのように感じられた。ならば、今散ろうとしている自分の心も、飛翔へと変えることができるかもしれない……。そんな励ましを、もらったような気がする。
最後に、私が初めて詠んだ桜の歌を一首。毎年、桜の花の季節が終わると、一つの夢から覚めたような気分になる。それは芝居を見終わったときの感覚にも似ている。
さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園
他們大概是感覺到那種奇怪吧。但是啊但是,櫻前線並不奇怪。畢竟那可是櫻花啊。對我們日本人來說,櫻花是別格的女王大人。這一點,似乎很難被理解。 而且,這雖不是在丹麥的體驗,但在別的歐洲國家,我曾被問過「為什麼那種髒兮兮顏色的花會好?」。的確,雖說是粉紅,卻不像玫瑰或香豌豆花那樣鮮明。硬要說的話,是有點睡眼惺忪般的顏色。但這顏色,與日本之春溫柔的青空和朦朧的空氣,實在非常合拍。比方說真紅的櫻花,光想想就頭暈了。 所謂櫻花,或許不是把花本身單獨取出來觀賞的東西。櫻花綻放的整個空間,以及整個時間,包含日本之春這個舞台的一切——這才是櫻花,我有這種感覺。 順帶一提,對歌人來說,櫻花是最想歌詠、又最難歌詠的花。既然被稱為歌人,便會想要做出一首櫻花的歌(而且如果可能的話希望是名歌)。然而正如開頭也提到的,已有數不清的歌被詠出,大前輩的名歌也很多。打個比方,大概就像對日本畫家來說的富士山一樣吧。 「散」這「飛翔」之姿態 花瓣忽然微笑著 離開枝頭(散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる) 心若散落的話 願在滿開的樹下 悄聲被告知 那聲再見(心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら) 這是數年前所詠的歌。當自己的心散落之時,希望櫻花滿開——我曾這麼想。同時,看著櫻花散落的樣子,那並不是「結束」這種消極的東西,而像是真的在飛翔一般令人感受到。那麼,現在正要散落的自己的心,或許也能轉化為飛翔……我感覺彷彿得到了這樣的鼓勵。 最後,介紹一首我第一次詠的櫻花歌。每年櫻花季結束時,我都會有一種從一場夢醒來的感覺。那也與看完一齣戲時的感覺相似。 櫻花櫻花櫻花 開始綻放 結束綻放 彷彿什麼也未曾發生過的 公園(さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園)