NHK高校講座 言語文化の時間です。
木本 景子: ご機嫌いかがですか? 木本 景子です。今回は詩の三回目の学習です。吉野弘の「I was born」を読んでいきます。講師は齋藤 祐先生です。よろしくお願いします。
齋藤 祐: よろしくお願いします。「I was born」は現代の話し言葉に近い言葉で書かれた「口語散文詩」です。少年と父とのやり取りから伺える生命の捉え方について注目してみましょう。
木本 景子: それでは今回の学習のポイントを紹介します。 1、この詩の表現やリズムについて気がついた点を挙げよう。 2、父はどのような気持ちで蜉蝣の話をしたか。 3、「I was born」という題名には作者のどのような思いが込められているか。 この三つです。それでは学習を始めましょう。
齋藤 祐: まずは吉野弘の「I was born」の朗読を聞いてみましょう。少年の目に映る風景に注目して聞いてください。朗読は高山 久美子さんです。
(朗読:高山 久美子)
「I was born」 吉野 弘
確か英語を習い始めて間もない頃だ。
ある夏の宵。
父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと青い夕靄の奥から浮き出るように白い女がこちらへやってくる。物憂げにゆっくりと。
女は身重らしかった。
父に気兼をしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。
頭を下にした胎児の柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し、それがやがて世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。その時僕は〈生まれる〉ということがまさしく〈受身〉であるわけをふと諒解した。
僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり「I was born」なんだね――
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――「I was born」さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
その時どんな驚きで父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。
それを察するには僕はまだあまりに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。
父は無言でしばらく歩いた後思いがけない話をした。
「蜉蝣という虫はね、生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが、それなら一体何の為に世の中へ出てくるのかとそんな事がひどく気になった頃があってね」
僕は父を見た。父は続けた。
「友人にその話をしたら、或る日、これが蜉蝣の雌だと言って拡大鏡で見せてくれた。
説明によると口は全く退化して食物を摂るに適しない。
胃の腑を開いても入っているのは空気ばかり。見るとその通りなんだ。
ところが卵だけは腹の中にぎっしり充満していてほっそりした胸の方にまで及んでいる。
それはまるで目まぐるしく繰り返される生・死の悲しみが喉元までこみあげているように見えるのだ。
淋しい光の粒々だったね。
私が友人の方を振り向いて〈卵〉と言うと彼も肯いて答えた〈せつなげだね〉。
そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは」
父の話のそれからあとはもう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――
この詩の表現やリズムについて気がついた点を挙げよう
木本 景子: 先生、あまり詩のような感じがしない普通の文章ですが、これも詩なんですか?
齋藤 祐: はい、これも詩なんです。現代の話し言葉に近い言葉で書かれているので、「口語散文詩」に分類されます。特徴的なのは、通常の文章のような形で書かれている一方、読点がすべて省略されていることです。これまで扱ってきた詩作品とは、まったく趣が違いますね。
木本 景子: あ、確かに「句点」はありますけれど、「読点」はありませんね。でも、詠まれた風景がとてもくっきりと見える詩だと思いました。
齋藤 祐: はい。「ある夏の宵」ということは、まだ完全には夜ではないし、「夕靄」ということは、霧に比べれば見通しが利くくらい、ぼんやりとかすんでいる雰囲気ですね。また、文の途中に読点は打たれていないのですが、文末の句点はすべて施されています。
木本 景子: あと、前半は一つの文が短くて、リズムがよい感じがします。
齋藤 祐: そうですね。リズミカルな一方で、時間の経過がゆったり流れていて読みやすく、内容がすっと入ってきます。この前半のリズムが、後半、父のセリフとのギャップを生み出しているのでしょう。
木本 景子: 少年と父の言葉の前後に、二文字分の線がありますね。
齋藤 祐: はい。この詩全体で、少年自身の言葉と父の言葉が「直接話法」で引用されています。この表現によって、少年と父のその時のやり取りの「声」が、臨場感をもって響くように工夫されていますね。では、もう少し詳しく中身に入っていきましょう。
木本 景子: 「英語を習い始めて間もない頃」とありますから、少年は中学生くらいでしょうか?
齋藤 祐: そうですね。中学生、十二、三歳くらいの少年が、父と一緒にお寺の境内を歩いていたら、向こう側から「白い女」、おそらくワンピ―スでしょうか、それを着た女性がちょっと苦しそうに、けだるそうな様子で歩いてくるんです。「浮き出るように」とありますから、夏の宵、青い靄のなかから、この女性そのものが白の輪郭をあたえられて、背景から抜け出てくるような、そんな印象をあたえています。
木本 景子: 近くまでくると、洋服がきっとお腹のあたりで大きくふくらんでいるのがわかったんでしょうか?
齋藤 祐: そうでしょうね。見知らぬ女性の姿をじろじろ見るのはちょっと気が引けると思いますが、それでも女性のお腹から目が離せなくなります。「頭を下にした胎児の柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し」とあります。胎児が逆さまだというのは、少年が最近「知識」として学んだことなのでしょう。そこから「世に生まれ出ることの不思議に打たれていた」とつながっていきます。
木本 景子: 女性がいってしまったあとに、少年の連想は飛躍していくんですね。
齋藤 祐: はい。母親の体内で胎児が逆さまになっていることや、英語の「I was born」が「受身」の形を取ることは、どちらも少年にとって頭で学んだばかりの知識にすぎません。ただ、そうであるからこそ、胎児が自分の意志で誕生するわけではないという「事態」と、文法の「規則」とが、一足飛びに連想されていきます。「興奮して」とか「無邪気」とありますから、少年にしてみれば、この発見はたわいない思いつきだったのだと思います。しかし、その言い方が、当の父にはまったく異なったものとして響いたことが、このあとに明らかになります。
父はどのような気持ちで蜉蝣の話をしたか
齋藤 祐: 少年の「I was born」が、文法的にも実際的にも「受身形」だという発見に対して、父親はすぐには反応を示しません。「無言でしばらく歩いた後」、友人との「蜉蝣」をめぐるエピソードを話し始めます。
木本 景子: それが、少年にとっては「思いがけない話」だったんですね。
齋藤 祐: はい。「蜉蝣」は水中で一年以上過ごしたあとに成虫となりますが、成虫となったあとは早いもので数時間、長くても一週間くらいで死んでしまいます。そのため、「朝に生まれて夕方に死ぬ」、短命ではかないもののたとえに使われます。
木本 景子: 詩のなかでも、「口はまったく退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても入っているのは空気ばかり」とありますね。
齋藤 祐: はい。蜉蝣はまるで、成虫としてこの世を謳歌するつもりがないような体の構成になっています。それでも「卵だけはお腹のなかにぎっしりと充満」していて、「ほっそりした胸のほうにまで」及んでいるという様子を、少年の父は「目まぐるしく繰り返される生・死の悲しみが、喉元までこみあげている」と形容しています。
木本 景子: なんだか切ない感じがしますね。
齋藤 祐: はい。このあとの父と友人とのやり取りは、言葉の数は少ないですけれど、その内容にはいろいろなものが含まれている感です。父親にしてみれば、少年の誕生と入れ替わるように亡くなってしまった母親は、「息子であるお前を産む」という、とんでもない「奇跡」ををなしてくれたんだということを、伝えたかったのでしょう。
木本 景子: お母さんは、少年を産んですぐに亡くなってしまったんですね。
齋藤 祐: そうですね。でも、この父親の「自分の考えを息子に押しつけようとしない姿勢」が、少年にはむしろ響いたのではないしましょうか。「お腹のなかにぎっしり充満していて」や、「ほっそりした胸」、「喉元までこみあげている」という形容の仕方は、蜉蝣に対して施されている言葉ではありますが、このあとの母の姿を彷彿とさせていますよね。
「I was born」という題名には作者のどのような思いが込められているか
齋藤 祐: では、最後の四行を読み深めながら、あらためて全体を見てみましょう。
木本 景子: はい。父の話を聞いた少年は、「父の話のそれからあとはもう覚えていない」と語っています。
齋藤 祐: それくらい、このエピソードが「印象的」だったのでしょう。「痛みのように切なく僕の脳裡に灼きついたもの」。それは、「ほっそりした母の胸のほうまで、息苦しくふさいでいた白い僕の肉体」でした。
木本 景子: 冒頭の「白い女」の服のイメージが、そのまま「僕の肉体」に重ねられています。
齋藤 祐: 「産む」という大人の視点からみたときの「I was born」を、単純に「子ども側」の視点に反転させたとき、それは「生まれさせられる」という「受身」なんだと少年は発見したわけですが、父の話を聞いたあとは一転、それが自分の「肉体」であり、母の「生命」を脅かす存在であったかもしれない、ということになり、もはや「無邪気」ではいられないという、少年自身の考え方の「変化」が見て取れます。
木本 景子: これは父親から「面と向かって」告げられるよりも、少年にとっては辛い話だったのかもしれないですね。
齋藤 祐: そうですね。少年が指摘したように、確かにこの「命」は「生まれさせられた」のかもしれませんが、その影に、その「命」を生まれさせるために、自らの「命」を差し出した「他の命」があるのなら、自分のこの「命」を、あえて「責任」をもって引き受けるべきは「自分以外」にない、ということにもなります。父が語る「蜉蝣」と「母」のエピソードは、少年が自らの「生」、「生きる形のあり方」を選び直すきっかけになっている、ともいえるのです。
木本 景子: 先生、「生きる形のあり方を選び直す」とはどういうことでしょうか?
齋藤 祐: はい。わたしたちは、「自分ではないだれか」によって生まれさせられ、その結果として「自分の命」を手に入れた、というのは「まぎれもない事実」です。しかし、「なにもの」とも関わりあいあいのない「独立した自分」というのは、本来的にありえません。「あたりまえ」にきこえるかもしれませんが、人は一人では生まれることさえできない。その「単純にして普遍的な事実」のなかに、この「生」をどうやって引き受けるのか、という「課題」がはらまれているのだ、と考えることができます。
木本 景子: 先生、作者は「I was born」という題名に、どのような思いを込めたんでしょうか?
齋藤 祐: そうですね。「I was born」は「受身形」である。このことは、どの辞書にものっている「事実の一つ」にすぎません。それでも、ある日の少年の「気づき」が、意図と裏腹に父親の「記憶」をたぐり寄せ、「生命の誕生」が持つ「奥深さ」を語ってくれています。
木本 景子: 確かに「生まれる」といういい方がそのまま「受身」だというのは、普段は気にしないですよね。
齋藤 祐: そうですよね。日本語は「主語」があいまいだとよくいわれますが、それはむしろ、「生命が誕生する」という事態が、動作主体の意図を超えて、それまでに「なかったもの」が「新しくあらわれる」ことを意味しているのだ、と考えることができます。
齋藤 祐: この詩が「名作」といわれるゆえんは、少年と父がそれぞれ相手に言葉をなげかけているというより、どちらかというと「自分自身にいいきかせるような独り言」、モノローグとして発せられているにもかかわらず、結果としては「響きあう対話」として成り立っている、そんなところにるのではないでしょうか。「生まれる」「誕生する」という出来事は、「母の体」という「場」でおきている「人称を超えた奇跡的な出来事」なのだ、ということが、この詩を貫いている「メッセージ」なのだといえるかもしれません。
まとめ
木本 景子: さて、今回の講座のポイントをまとめておきましょう。 学習のポイントは、 1、この詩の表現やリズムについて気がついた点を挙げよう。 2、父はどのような気持ちで蜉蝣の話をしたか。 3、「I was born」という題名には作者のどのような思いが込められているか。 以上の三つでした。
齋藤 祐: 今回は「父」と「子」の言葉に注目して、「I was born」という言葉が持つ「奥行き」について考えてみました。この詩を通じて、みなさんが「自分が今ここにる」ということを、ちょっとだけ「見つめ直す」きっかけになってくれれば幸いです。
木本 景子: さて、今回は齋藤 祐先生と吉野弘の詩「I was born」を読んできました。齋藤先生、ありがとうございました。
齋藤 祐: ありがとうございました。
木本 景子: NHK高校講座 言語文化、木本 景子と齋藤 祐先生でお送りしました。