NHK高校講座 言語文化の時間です。
木本 景子: 皆さん、ご機嫌いかがですか? 木本 景子です。今回のテーマは「『論語』の注釈を読む」です。講師は渡辺 恭子先生です。よろしくお願いします。
渡辺 恭子: 渡辺 恭子です。よろしくお願いします。一緒に楽しく漢文を学びましょう。今回は『論語』の最終回です。『論語』の解釈や注釈について一緒に考えていきましょう。
木本 景子: それでは学習に入る前に今回のポイントを三点確認しておきましょう。 1、『論語』の解釈・注釈について 2、『論語』の章句における二通りの解釈例 3、江戸期の学者の『論語』について 以上の三つです。それでは学習を始めましょう。
『論語』の解釈・注釈について
木本 景子: 前回までに学問、人間、政治といくつかの章句を読んできましたが、『論語』は短い言葉が多いだけにいろいろな解釈も可能なんですね。
渡辺 恭子: そうなんですよ。たとえば私だったら「渡辺恭子論語」のように、自分なりの解釈を楽しむこともできます。ということで、今回は『論語』の解釈、注釈について具体的に考えていきましょう。
木本 景子: はい。
渡辺 恭子: 『論語』は昔から中国でも日本でも多くの人に読まれ、研究されてきた書物です。ですから注釈もいろいろなものが生み出されてきました。それらの『論語』の注釈書はたくさんあるのですが、十二世紀頃、南宋の時代に朱熹、または朱子ともいいますが、その人によって書かれた『論語集注』の登場によって、一つの大きな区切りを迎えます。この朱子の注釈書を「新注」と呼びますので、それ以前のものはひっくるめて「古注」と呼ばれます。
木本 景子: 新しいものと古いものに分けられるんですね。
渡辺 恭子: そうなんです。その「古注」のなかでも、まとまった形で現存する最古の注釈書といえば、『論語集解』という書物です。『三国志』で有名な魏、その時代の何晏という人が編纂しました。日本では『論語』は、古くは「古注」、古い注によって読まれていましたが、その後、江戸時代になると朱子学が中心になりましたので、『論語』の解釈も朱子の「集注」が標準的となったのです。これは「新注」と呼ばれるものでしたね。
『論語』の章句における二通りの解釈例
木本 景子: では、『論語』の章句の解釈には、どのような違いがあるのでしょうか。実際に見ていきましょう。
渡辺 恭子: 解釈というのは、一文字一文字、漢字の意味の取り方の違いや、章句全体の捉え方によっても大きく変わってくるんです。
木本 景子: なるほど。そういうことなんですね。
渡辺 恭子: それでは木本さん、『論語』「為政篇」の章句を、二通りの読み方で読んでもらいましょう。まず一つ目の読み方。この読み方を「A」としましょう。木本さん読んでください。
木本 景子: 孟武伯、孝を問ふ。子曰はく、「父母は唯だ其の疾をこれ憂ふ」と。
渡辺 恭子: はい。それでは、もう一つの読み方、「B」の読み方で読んでみてください。
木本 景子: 孟武伯、孝を問ふ。子曰はく、「父母には唯だ其の疾をこれ憂へよ」と。
渡辺 恭子: では、解釈をしていきます。孟武伯さんが孔子に「孝」について質問していますね。この「孝」は親孝行の「孝」のことですよ。
まず、孟武伯という人について説明します。孔子の生きていた時代に、魯の国では力のあった貴族の家が三軒ありまして、そのなかの一人です。孔子よりはずっと若い青年で、孔子のかつての同僚の息子にあたります。つまりこの言葉は、将来魯の重臣となることが約束されている若者に対して孔子が語ったものなのです。
木本 景子: では、答えを見ましょう。この孔子の答えの読み方が、二通りあるんですよね。
渡辺 恭子: そうなんです。つまり、二つの解釈があるということです。Aの読み方は「父母は唯だ其の疾をこれ憂ふ」でした。ここの意味は、「父母はひたすらに子どもが病気にかかることを心配するものだ。だから子どもは親に心配をかけないように、自分の健康に留意しなければならない」となります。簡単に言うと、「子どもは健康に気をつけ、親に心配をかけないようにすることこそ孝行である」となります。つまりこの解釈ですと、心配するのは「父母」で、父母が子どもの病を心配するという、これ、親の愛情について述べていることになりますね。
木本 景子: Bの読み方は「父母には唯だ其の疾をこれ憂へよ」でした。
渡辺 恭子: はい。こちらの意味は、「子は父母に対しては、ひたすらに父母の病気のことを心配しなさい」となります。簡単に言うと、「子どもが親の健康を気遣うことこそ孝行である」となります。こちらは心配するのは「子ども」で、父母の病を心配することになりますね。
木本 景子: 「A」と「B」でまったく違う意味になりますね。
渡辺 恭子: そうなんです。この違いは、「其の疾を」の「其」という代名詞が、父母を指すのか、子どもを指すのかにあります。
ここで、さきほど紹介した中国の書物、何晏の「古注」と、朱子の「新注」との解釈を見ましょう。「新注」は「A」と同じで、「子どもは健康に気をつけ、親に心配をかけないようにすることこそ孝行である」というものです。「A」は「新注」の解釈そのものですね。
ところが、「古注」の解釈になると、「A」とも「B」とも違います。「古注」では「父母には唯だ其の疾をこれ憂へしめよ」と訓読し、「両親には、せいぜい病気のことだけを心配させなさい」と解釈しているのです。つまり、「子どもが親に、病気になって心配をかけるのはいたし方がないけれど、病気以外のことで心配をかけてはいけない」としているのです。
木本 景子: 一体どの解釈が正しいんでしょうか?
渡辺 恭子: ええ、このように「古注」と「新注」とでは多少違いはありますが、「だれが」という部分においては、どちらも同じ「A説」で、心配するのは「父母」で、心配されるのは「子ども」です。
江戸期の学者の『論語』について
木本 景子: 先生、「B」の解釈にはどんな人がいるんでしょうか?
渡辺 恭子: はい。もちろん、中国の学者のなかにも、「B」の解釈、「子どもが父母の病を心配する」と解釈している人もいますが、多くは「古注」「新注」の解釈である「父母が子どもを心配する」というのが主流です。
ところが、実は日本の学者のなかに、「B」の解釈をしている人がいるのです。江戸時代の日本の学者も、『論語』の解釈に力を入れていました。その代表的な書物が、伊藤仁斎が著した『論語古義』という書物です。
木本 景子: 『論語古義』ですか。どんな書物なんですか?
渡辺 恭子: 聞いたことありませんよね。『論語古義』は、朱子学が江戸の学問の中心であった時代に、朱子の考え方に反発した書物です。伊藤仁斎は「孔子の元来の考え方はもっと寛容であるはずだ」との思いから、朱子の「新注」を否定し、『論語』に人間性を滲ませた解釈をすることが多かったそうです。
では、伊藤仁斎の注釈を、木本さんに読んでもらいましょう。
木本 景子: 「父母、既に老ゆれば、則ち侍養の日既に少し。況んや一旦病に染まれば、則ち孝をなさんと欲すと雖も、得べからざるなり」
渡辺 恭子: はい。現代語に訳すと、「父母がもはや老いてしまえば、そのときにはそばで世話をすることのできる時間はすでに少い。ましてやある日、父母が病気にかかってしまったら、孝行をしようとしてもできなくなるのだ。そこで、子どもは父母の健康を気遣う必要がある」となります。つまり、「残り少い時間のなかで精一杯のお世話をすべく、子どもは父母の健康に気をつける。これこそが親孝行である」ということです。この注釈は、さきほどの「B」の解釈と似ていますね。
木本 景子: そうですね。「B」の解釈は、実は伊藤仁斎の解釈なんですね。
渡辺 恭子: そうです。伊藤仁斎は、当時流行していた朱子学に流されることなく、解釈の歴史を踏まえたうえで、自分自身の見解を述べているのです。
木本 景子: いろいろな解釈ができるんですね。
渡辺 恭子: そうなんです。皆さんはどの解釈に共感するでしょうか。内容を理解するために、まずは「孝」とはなんなのかを考えてみましょう。孔子は「仁」を求めて生涯を過ごしました。その「仁」、思いやり・真心は、家族内において、自分を産んでこの世に活躍の機会をあたえてくれた父母に対する「孝」を、もっとも大切な道徳目標にしています。ですから、孟武伯も孔子先生に「孝」について質問しているわけです。もっとも古い中国では、子どもが親に孝行することが、一番大切な奉仕の精神でした。
木本 景子: なるほど。でも、親に孝行するのはどうしたらいいんでしょうか?
渡辺 恭子: そうですね。『孝経』という書物では次のように述べられています。「身体髪膚、これを父母に受く。あへて毀傷せざるは孝の始なり」
木本 景子: どういう意味ですか?
渡辺 恭子: はい。「人の身体はすべて父母から恵まれたものである。傷つけないようにするのが、孝行のはじめである」と。つまり、幼いときには、親は子どもが怪我や病気にならないように大切に育てます。ですから、子どもは自分の健康に気をつけることが大切なわけです。そして成長後は、親孝行をすることが求められます。それは親の死後にまで続き、感謝の気持ちをこめて「三年の喪」に服するという規定が作られ、守られました。つまり、子どもが幼いよちよち歩きで、まだ成長しきっていないときには、親は子どものことを心配する。しかしある程度成長したら、今度は親に対して「孝行せよ」ということです。
木本 景子: なるほど。そういうことなんですね。
渡辺 恭子: はい。このように考えると、今回の章句の解釈は、親子の関係や、子どもを何歳に捉えるかで、解釈が分かれると考えることもできそうです。 つまり、一つ目に、子どもがまだ幼い場合は、「A」の解釈。自らの体を損なわないようにと親は心配するから、子どもが親に心配をかけないことが「孝」なのです。 二つ目に、しかし、父母が病気がちであった場合は、どんなに幼くても、子どもは親のことを心配するのが、やはり「孝」でしょうね。 三つ目に、親が年を取っている場合は、「B」の解釈。伊藤仁斎のいうように、親のことを心配するのが当然の流れであり、「孝」なわけです。
木本 景子: それでは、今回の講座のポイントをまとめましょう。 学習のポイントは、 1、『論語』の解釈・注釈について 2、『論語』の章句における二通りの解釈例 3、江戸期の学者の『論語』について この三つでした。
渡辺 恭子: 『論語』に記された孔子の言葉は簡潔ですが、それだけに多くの解釈を生む余地を残しています。この解釈の多さこそが『論語』の魅力であり、多くの人々が長きにわたって『論語』の解読に熱心に取り組んできた証拠であるといえます。『論語』の講座は今日で最後です。皆さんもぜひ、自分の人生に照らし合わせながら、これからも楽しく読み味わってくださいね。『論語』はきっと皆さんの心の栄養になるはずです。
木本 景子: さて、今回は渡辺 恭子先生と「『論語』の注釈を読む」というテーマで学習してきました。渡辺先生ありがとうございました。
渡辺 恭子: ありがとうございました。
木本 景子: NHK高校講座 言語文化、木本 景子と渡辺 恭子先生でお送りしました。