NHKえぬえいちけー高校講座こうこうこうざ 言語文化げんごぶんか始まりはじまります。皆さんみなさん機嫌きげんいかがですか? かわ 実里夏みりかです。今回こんかいは「古文こぶんまど 『平家物語へいけものがたり』のあらまし」です。講師こうし山本章博やまもとあきひろ先生せんせいです。よろしくお願いねがいします。

山本章博やまもとあきひろ:こちらこそよろしくお願いします。前回ぜんかいまで三回さんかいにわたって『平家物語へいけものがたり』の「木曾きそ最期さいご」の場面ばめん読んでよんできました。今回こんかいは『平家物語へいけものがたり』の全体像ぜんたいぞう捉えてtoraeteみたいと思いおもいます。

それでは、今回こんかい学習がくしゅうのポイントです。
1.『平家物語へいけものがたり』の成立せいりつ琵琶法師びわほうしについて知るしる
2.平家へいけ都落ちみやこおち場面ばめんについて知るしる
3.平家へいけ滅亡めつぼう場面ばめんについて知るしる
以上いじょう三つみっつです。それでは学習がくしゅう始めはじめましょう。

――『平家物語へいけものがたり』の成立せいりつ琵琶法師びわほうしについて知るしる――

山本章博やまもとあきひろ:「祇園精舎ぎおんしょうじゃかねこえ諸行無常しょぎょうむじょう響きひびきあり」で始まるはじまる平家物語へいけものがたり』ですが、源平げんぺい合戦かっせん平安時代へいあんじだい終わりおわりですから、そのあと成立せいりつということになります。しかし『平家物語へいけものがたり』は、だれによって、いつ成立せいりつしたものなのか、詳しいくわしいことはよくわかっていません。

河実里夏かわみりか:えっ、そうなんですか?

山本章博やまもとあきひろ:はい。平家へいけ滅亡めつぼうしたあと鎌倉時代かまくらじだい、1200年代前半ねんだいぜんはんには『平家物語へいけものがたり』が存在そんざいしていた形跡けいせきがあります。それはおそらく、現在見げんざいみることのできる『平家物語へいけものがたり』よりも小さい規模ちいさいきぼのもので、その後多くごおおくひと書き加えkakiくわえたり、改変かいへんしていったと考えられてかんがえられています。ですから一言ひとことで『平家物語へいけものがたり』と言っいっても、さまざまな種類しゅるいの『平家物語へいけものがたり』が存在そんざいしています。

河実里夏かわみりか前回ぜんかいまで学習がくしゅうした『平家物語へいけものがたり』は、いつのものなんですか?

山本章博やまもとあきひろ現在一般げんざいいっぱん読まれてよまれている『平家物語へいけものがたり』、また教科書きょうかしょ載ってのっている『平家物語へいけものがたり』は、そのなかで室町時代むろまちじだい、1370年頃ねんごろ明石覚一あかしかくいちという琵琶法師びわほうしによってまとめられたものです。これを「覚一本かくいちぼん平家物語へいけものがたり」と呼んでよんでいます。源平げんぺい合戦かっせんからおよそ200年後ねんご成立せいりつということになりますね。さて、この「琵琶法師びわほうし」については聞いたきいたことがありますか? かわさんいかがでしょう?

河実里夏かわみりか聞いたきいたことはありますが、詳しくくわしくはわかりません。

山本章博やまもとあきひろ:はい。「琵琶びわ」という楽器がっき弾きひきながら、『平家物語へいけものがたり』を語り聞かせるお坊さんかたりきかせるおぼうさんのことですね。覚一かくいち琵琶法師びわほうしですから、前回ぜんかいまで読んでよんできた「木曾の最期きそのさいご」の場面ばめんも「語りの台本かたりのだいほん」であって、実際じっさい琵琶びわ伴奏ばんそうとともに語られたかたられたものなのです。それでは、琵琶びわ伴奏ばんそうとともに語られるかたられる平家物語へいけものがたり』を聞いてきいてみましょう。

琵琶びわ
祇園精舎ぎおんしょうじゃかねこえ諸行無常しょぎょうむじょう響きひびきあり……」

山本章博やまもとあきひろかわさん、いかがですか?

河実里夏かわみりか:はい。琵琶びわ伴奏ばんそうがあることで、物語ものがたりがすっと入ってはいってきて、聞き入ってききいってしまいました。

山本章博やまもとあきひろ:なるほど。かわさんはこの『平家物語へいけものがたり』を読んでよんでみて、その「語り物かたりもの」としての特徴とくちょうについて、なにかがついたことはありますか?

河実里夏かわみりか全体的ぜんたいてきにわかりやすい文章ぶんしょうで、場面ばめんが「イメージ」しやすかったです。

山本章博やまもとあきひろ:そうですね。「語り物かたりもの」はみみ聞くきくだけで理解りかいできなくてはなりません。ですから『平家物語へいけものがたり』を音読おんどくするには、琵琶法師びわほうし気分きぶんになって、聞いている人きいているひとにその場面ばめんがより「リアル」に、迫力はくりょくあるものとして伝わるつたわるように工夫くふうしてみるとよいでしょう。

――平家へいけ都落ちみやこおち場面ばめんについて知るしる――

山本章博やまもとあきひろ:では『平家物語へいけものがたり全体ぜんたいながれを押さえておさえてみたいと思いおもいます。かわさんは平清盛たいらのきよもり名前なまえ聞いたきいたことがありますね。

河実里夏かわみりか:はい。有名ゆうめいですね。

山本章博やまもとあきひろ平家へいけ勢力せいりょく拡大かくだいしていったのは、まずこの清盛きよもりちからがありました。武家ぶけ出身しゅっしんである清盛きよもりですが、貴族勢力きぞくせいりょくをしのいで太政大臣だいじょうだいじんとなり、政治的権力せいじてきけんりょく握りにぎります。むすめ徳子とくこ高倉天皇たかくらてんのう結婚けっこんさせ、徳子とくこ安徳天皇あんとくてんのう産みうみます。清盛きよもりは「天皇てんのう祖父そふ」という立場たちばることになります。当時大とうじおおきなちから持っていたもっていた後白河法皇ごしらかわほうおうをも押さえておさえて清盛きよもり権力けんりょく掌握しょうあくすることになりました。

河実里夏かわみりか:「天下てんか取ったとった」って感じかんじですね。

山本章博やまもとあきひろ:はい。こうした平家へいけ勢力せいりょく対したいして、源氏げんじが「打倒だとう」の動きうごき見せみせ源頼政みなもとのよりまさ挙兵きょへいしますが、京都きょうとの「宇治川うじがわ戦いたたかい」で平家へいけ敗れてやぶれてしまいます。1180ねんがつのことです。そのあと源頼朝みなもとのよりとも伊豆いずで、木曾義仲きそよしなか信濃しなの挙兵きょへいします。この頼朝よりとも挙兵きょへいとき、そのぐん参加さんかするため、東北とうほく平泉ひらいずみからやってきた人物じんぶつがいました。源義経みなもとのよしつねです。

河実里夏かわみりか:あ、聞いたきいたことがあります。有名ゆうめいですよね。

山本章博やまもとあきひろ:そうですね。義経よしつね頼朝よりともおとうとですがはは異なりことなり、この時初ときはじめて「対面たいめん」を果たしはたします。平家へいけ頼朝よりとも抑えるおさえるためにぐん出しだしますが、静岡県しずおかけんの「富士川ふじがわ戦いたたかい」で敗れてやぶれてしまいます。そして清盛きよもり死去しきょします。いっぽう、木曾義仲きそよしなか北陸ほくりくの「倶利伽羅峠くりからとうげ戦いたたかい」で平家へいけ勝利しょうりします。そして義仲軍よしなかぐんみやこ向かいむかいますが、義仲よしなか攻められる前せめられるまえに、平家へいけみやこ捨てすてて、幼い安徳天皇おさないあんとくてんのう連れて西つれてにし向かって逃げるむかってにげることになります。これを「平家へいけ都落ちみやこおち」と言いいいます。宇治川うじがわ戦いたたかいから3ねん、1183ねんがつのことです。そのときつま子供こども、また恋人こいびとみやこ残してのこしていく平家へいけ武将ぶしょうもあり、そこでは二度にど会ううことはない「悲しい別れかなしいわかれ」がありました。また、「忠度都落ちただのりみやこおち」という有名な一節ゆうめいないっせつもあります。

河実里夏かわみりか:どんな一節いっせつなんですか?

山本章博やまもとあきひろ:はい。平忠度たいらのただのり平家へいけ武将ぶしょうですが、和歌わか好んだ人このんだひとでした。都落ちみやこおちしますが、途中とちゅう引き返してひきかえして藤原俊成ふじわらのしゅんぜいのところに、自分じぶん和歌わか書いた巻物かいたまきもの渡しわたし行きいきます。俊成しゅんぜい藤原定家ふじわらのていかちちで、勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうをちょうど「編集へんしゅう」していたところでした。忠度ただのりはその勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうに「ぜひ自分じぶんうた一種いっしでも入れていれてほしい」ということで、俊成しゅんぜいのところにその「候補こうほ」となるうたをたくさん書いた巻物かいたまきもの渡しわたしにいったのです。忠度ただのりは「討死うちじに」し、平家へいけ滅亡めつぼうした3年後ねんごに『千載和歌集せんざいわかしゅう』という勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう完成かんせいしますが、忠度ただのりうた一種入っていっしはいっています。ところが、名前なまえ伏せられてふせられています。

河実里夏かわみりか:どうしてでしょうか?

山本章博やまもとあきひろ滅亡後めつぼうごは、平家へいけは「国家こっか反逆者はんぎゃくしゃ」とされ、平家へいけひと直接出ちょくせつだすわけにはいかない状況じょうきょうだったのです。

河実里夏かわみりか:そうなんですね。でも、勇猛ゆうもう武士ぶしであっても、和歌わか詠むよむなんて「風流ふうりゅう」な側面そくめんもあったんですね。

山本章博やまモとあきひろ:そうなんです。平家へいけ人々ひとびと和歌わかなどの「文化的ぶんかてき方面ほうめん」への意識いしき高かったたかかったのです。さて、平家へいけ西にし逃げるにげるのと「入れ替わりいれかわり」にように義仲よしなかみやこ入りはいりましたが、そこでの義仲よしなかはどのような振る舞いふるまいをしたか覚えていますおぼえていますか?

河実里夏かわみりか横暴おうぼういをかえし、頼朝よりともとのみぞふかまったんですよね。

山本章博やまもとあきひろ:はい、そうです。そしてついに頼朝よりとも義仲よしなか決断けつだんをし、源義経みなもとのよしつね源範頼みなもとののりよりぐんおくることになります。この範頼のりより頼朝よりともおとうとでした。「蒲の冠者かばのかじゃ」とばれた武将ぶしょうです。義経よしつね範頼軍のりよりぐん義仲軍よしなかぐんやぶり、前回ぜんかいまでんできたように義仲よしなかは「粟津あわず」で戦死せんしします。

――平家へいけ滅亡めつぼう場面ばめんについて知るしる――

山本章博やまもとあきひろ:では、「木曾の最期きそのさいご」のあとのながれです。義仲よしなかった頼朝軍よりともぐんは、平家へいけを「討伐とうばつ」するために西にしかいます。

河実里夏かわみりか:どうなるんでしょうか?

山本章博やまもとあきひろ:1184ねんがつ現在げんざい兵庫県ひょうごけんの「一の谷いちのたに」のたたかいでは、義経よしつねの「急坂きゅうざかをかけおりる奇襲きしゅう」などで平家へいけやぶります。それでも平家へいけ瀬戸内海一帯せとないかいいったい勢力せいりょく温存おんぞんし、いくさは「長引ながびく」ことになります。

河実里夏かわみりか:まだいくさつづくんですね。

山本章博やまもとあきひろ:はい。翌年よくねん1185ねんがつ頼朝よりとも義経よしつねに、平家へいけの「本陣ほんじん」があった香川県かがわけんの「屋島やしま」をたせます。これを「屋島の戦いやしまのたたかい」とびますが、義経よしつね勝利しょうりし、平家へいけはさらに西にしへとのがれていきます。かわさんは「那須与一なすのよいち」という名前なまえいたことがありますか?

河実里夏かわみりか:はい、あります。いたことがあります。

山本章博やまもとあきひろ義経軍よしつねぐんの1にんで「ゆみ名手めいしゅ」です。その与一よいちが「てき船の上の扇ふねのうえのおうぎ」をゆみ見事みごと射抜いぬき、両軍りょうぐんが「感動かんどう」するという有名な場面ゆうめいなばめんは、この「屋島の戦いやしまのたたかい」における出来事できごとでした。

そして、義経軍よしつねぐん中心ちゅうしんとする源氏げんじ平家へいけ最後の戦いさいごのたたかいである「壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい」がおこなわれたのは、この翌月よくげつの3がつのことでした。

河実里夏かわみりか:「壇ノ浦だんのうら」は、現在げんざいのどのあたりでしょうか?

山本章博やまもとあきひろ現在げんざいの「関門海峡かんもんかいきょう」です。山口県やまぐちけん福岡県ふくおかけんあいだですね。正午しょうごごろにたたかいがはじまり、はじめは兵家方へいけがた有利ゆうりでしたが、途中とちゅうから「海峡の潮の流れかいきょうのしおのながれ」がぎゃくになるなどして「形勢けいせい」は逆転ぎゃくてんし、午後ごご時頃じごろには「敗北はいぼく」となり、平家へいけはここで「滅亡めつぼう」します。このたたかいでもおおくの「悲しい場面かなしいばめん」があります。

河実里夏かわみりか:どんな場面ばめんですか?

山本章博やまもとあきひろ平家へいけ清盛きよもりまごでもあるおさな天皇てんのうれて西にしのがれたのですが、その安徳天皇あんとくてんのうも、この「壇ノ浦だんのうら」の海の下うみのしたしずむことになります。「敗戦はいせん」とった清盛きよもりつまである時子ときこ二位殿にいどの)は、まご安徳天皇あんとくてんのういて、天皇てんのう代々受だいだいういできた「三種の神器さんしゅのじんぎ」とともにうみみます。とき安徳天皇あんとくてんのうは8さいでした。その最後さいご場面ばめんを、かわさん、んでみてください。

河実里夏かわみりか:「御涙おんなみだにおぼれ、小さく美しき御手ちいさくうつくしきおんてをあわせ、まずひんがしをふしおがみ、伊勢大神宮いせだいじんぐう御暇おんいとま申させ給いもうさせたまい、そののち西に向かわせ給いてにしにむかわせたまいて御念仏ありしかばおんねんぶつありしかば二位殿にいどののやがていだき奉りたてまつり浪の下にも都のさぶらうぞなみのしたにもみやこのさぶらうぞ』と慰め奉ってなぐさめたてまつって千尋ちいろそこへぞいり給うたもう。」

山本章博やまもとあきひろ:はい、ありがとうございます。今読んだいまよんだところを現代語訳げんだいごやくすると、つぎのようになります。「安徳天皇あんとくてんのうなみだをはげしくながし、小さく可愛らしい手ちいさくかわいらしいてをあわせて、まずひがしかっておがみ、伊勢神宮いせじんぐうにおわかれをもうげられ、そののち西にし極楽浄土ごくらくじょうどほうかって念仏ねんぶつとなえられた。二位殿にいどの、つまり安徳天皇あんとくてんのう祖母そぼ平時子たいらのときこは、すぐに天皇てんのうかかえ、『波の下なみのしたにもみやこはございますよ』とって、ふかうみそこへおはいりになった」。

河実里夏かわみりか悲しい場面かなしいばめんですね。

山本章博やまもとあきひろ:はい。平家へいけに「翻弄ほんろう」されたおさな安徳天皇あんとくてんのう運命うんめいは、本当ほんとうかなしいものがあります。このように『平家物語へいけものがたり』は、平家へいけの「繁栄はんえい」から「滅亡めつぼう」までの歴史れきしかれています。いくさ場面ばめんばかりではなくて、平忠度たいらのただのりの「和歌のエピソードわかのえぴそーど」、「那須与一なすのよいち」の場面ばめんなど、さまざまな「人間模様にんげんもよう」がかれているのも魅力みりょくです。

さて、最後さいごに、こうした「平家へいけ源氏げんじ戦争の歴史せんそうのれきし」をえがかたるというのは、どのような意味いみがあるのでしょうか? どうでしょう? なにか考えかんがえはありますか?

河実里夏かわみりか:うーん……「戦争を語るせんそうをかたる」というのは、二度にどとこうした「悲惨なことひさんなこと」をかえしてはならない、かえしてほしくない、という「願いねがい」があるのではないでしょうか。

山本章博やまもとあきひろ:はい。考えかんがえだとおもいます。いくさによって「運命うんめい」を翻弄ほんろうされ、いのちとしていったひとは「無念むねん」だったでしょう。その「一人一人ひとりひとり」のことをかたることによって「おもして」あげる。そうすればくなったひと無念むねんも、すこしはらされるのではないか。そんなふうにかんがえたのではないでしょうか。「死者の無念ししゃのむねん」や「怒りいかり」、「恨みうらみ」がこのにまた「戦争せんそう」をこさせる。そういう考えかんがえがあった時代じだいですから、「死者の思いを慰めるししゃのおもいをなぐさめる」というのは、「平和への願いへいわへのねがい」だったわけです。

それでは、今回こんかい講座こうざのポイントをまとめましょう。学習のポイントがくしゅうのぽいんとは、1.『平家物語へいけものがたり』の成立せいりつ琵琶法師びわほうしについて知るしる、2.平家へいけ都落ちみやこおち場面ばめんについて知るしる、3.平家へいけ滅亡めつぼう場面ばめんについて知るしる、この3つでした。四回よんかいにわたって『平家物語へいけものがたり』の学習がくしゅうをしました。「木曾の最期きそのさいご」の場面ばめんについてはじっくりみましたが、今回紹介こんかいしょうかいしたほかの場面ばめんについても「現代語訳げんだいごやく」を参考さんこうとしながらでいので、ぜひんでみてほしいとおもいます。

さて、今回こんかいは「古文こぶんまど 『平家物語へいけものがたり』のあらまし」でした。山本章博先生やまもとあきひろせんせい、ありがとうございました。

山本章博やまもとあきひろ:ありがとうございました。

NHKえぬえいちけー高校講座こうこうこうざ 言語文化げんごぶんか河実里夏かわみりか山本章博先生やまもとあきひろせんせいでお送りおくりしました。ではまた。