NHK高校こうこう講座こうざ 言語げんご文化ぶんか

だい13かい 「奥山おくやまに、ねこまたといふものありて(1)」

音楽おんがく

木本きもと景子けいこ(MC):
NHK高校こうこう講座こうざ言語げんご文化ぶんか」の時間じかんです。みなさんご機嫌きげんいかがですか?木本きもと景子けいこです。
今回こんかい次回じかいで「奥山おくやまに、ねこまたといふものありて」というおはなしんでいきます。このおはなし前回ぜんかいんだ「亀山殿かめやまどの御池みいけに」とおなじ『徒然草つれづれぐさ』におさめられているおはなしなんだそうです。どんなおはなしなんでしょうか。
講師こうし山本やまもと章博あきひろ先生せんせいです。よろしくおねがいします。

山本やまもと章博あきひろ講師こうし):
山本やまもとです。よろしくおねがいします。
今回こんかい次回じかいむ「奥山おくやまに、ねこまたといふものありて」というおはなしは、『徒然草つれづれぐさ第八十九段だいはちじゅうきゅうだんおさめられています。兼好けんこう法師ほうしいたちょっとこわいおはなしです。

木本きもと
そうなんですね。ちょっとドキドキします。
それでは今回こんかい学習がくしゅうのポイントです。
ひとつ、ねこまたのうわさ内容ないよう理解りかいする。
ふたつ、前半ぜんはん法師ほうし行動こうどう理解りかいする。
みっつ、法師ほうし心情しんじょう理解りかいする。
以上いじょうみっつです。
それでは学習がくしゅうはじめましょう。

木本きもと
それでは今回こんかい学習がくしゅうする「奥山おくやまに、ねこまたといふものありて」の前半ぜんはん朗読ろうどくいてください。朗読ろうどく高山たかやま久美子くみこさんです。


朗読ろうどく高山たかやま久美子くみこ
奥山おくやまに、ねこまたといふものありて、ひとらふなる。」とひとひけるに、「やまならねども、これらにも、ねこがりて、ねこまたになりて、ひととることはあなるものを。」とものありけるを、なに阿弥陀仏あみだぶつとかや、連歌れんがしける法師ほうしの、行願寺ぎょうがんじへんにありけるがきて、ひとりあるかんこころすべきことにこそとおもひけるころしも、あるところにてくるまで連歌れんがして、ただひとりかえりけるに、小川おがわはたにて、おときしねこまた、あやまたずあしもとへふとて、やがてかきつくままに、くびのほどをはんとす。


木本きもと
ねこまたのうわさ内容ないよう理解りかいする。

山本やまもと
それでは前半ぜんはんをゆっくりんでみましょう。
奥山おくやまに、ねこまたといふものありて、ひとらふなる」とひとひけるに。
やまおくねこまたというものがいて、ひとべてしまうそうだ」と、ひとったところ、という意味いみになります。

木本きもと
ねこまたですか?どんなものなんでしょうか?

山本やまもと
さあ、みなさんはどのようなものを想像そうぞうするでしょうか。このねこまたについて、またべつひとつぎのようなことをかたりました。
やまならねども、これらにも、ねこがりて、ねこまたになりて、ひととることはあなるものを」。
「これら」は「このあたり」ということです。「山奥やまおくでなくても、このあたりのひとむところでも」ということになります。「がり」は「がる」という動詞どうしですが、としって姿すがた変化へんかすることをいます。「ひととる」はひとらえるという意味いみです。
つまり、「ねこまたはやまでなくても、ひとむこのあたりにも出現しゅつげんする。そのねこまたはねことしって姿すがたえたもので、ひとらえることがあるそうだ」という噂話うわさばなしかたひとがいたということなんですね。

木本きもと
なんと、ねこまたはひとあたりにもあらわれるんですね。こわいですね。

山本やまもと
こわいですね。ねこまたはかならずしもひとのいない山奥やまおくだけではなくて、まちなかにもいる可能性かのうせいがあり、べられてしまうかもしれないということで、この噂話うわさばなしいた人々ひとびとは、いよいよ身近みぢか恐怖きょうふとしてかんじたことでしょう。

木本きもと
そうですよね。でもねこまたってどんな姿すがたをしているんでしょうか?

山本やまもと
さあどうでしょうか。ねことしって姿すがたえたものということですから、こわかおをしたねこ想像そうぞうすればいかもしれませんね。
この『徒然草つれづれぐさ』のほかねこまたについてのはなし記録きろくはあるか調しらべてみますと、『徒然草つれづれぐさ』よりもすこまえ時代じだい鎌倉かまくら時代じだいはじめに藤原定家ふじわらのていかという有名ゆうめい歌人かじん日記にっきなかにも記録きろくられます。

木本きもと
藤原定家ふじわらのていか百人一首ひゃくにんいっしゅえらんだひととしてもられていますね。

山本やまもと
はい。

木本きもと
日記にっきにはどんなふういてあるんですか?

山本やまもと
はい。それによれば、奈良ならねこまたというけもの出没しゅつぼつし、一夜いちやにしてしちはちにんべて、にん死人しにんてしまった。そのねこまたをらえてころして姿すがたると、ねこのようでからだいぬのようなながさであったとかいてあります。
とすると、かおねこのようだけれど、からだいぬのようで、すこねこよりもおおきいけものであるということになるでしょう。

木本きもと
しちはちにんですか?おもったよりもとてもこわそうですね。

山本やまもと
はい。ただこれも藤原定家ふじわらのていか実際じっさいたわけではなくて、あくまでひとからいたはなしとしてかれたものです。鎌倉かまくら時代じだいにはこうしたねこまたのうわさ実際じっさいにかなりひろまっていて、人々ひとびとおそれさせていたようなんですね。

木本きもと
前半ぜんはん法師ほうし行動こうどう理解りかいする。

山本やまもと
さて、ここで一人ひとり法師ほうし、おぼうさんが登場とうじょうします。
なに阿弥陀仏あみだぶつとかや、連歌れんがしける法師ほうし」。
実際じっさい名前なまえせられていて、「なんとか阿弥陀仏あみだぶつ」といます。当時とうじ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」という念仏ねんぶつとなえて修行しゅぎょうするおぼうさんの名前なまえに「〇〇阿弥陀仏あみだぶつ」とつけることがありました。
この「なに阿弥陀仏あみだぶつ」という法師ほうしは、おぼうさんであると同時どうじに、連歌れんがをするひとでした。連歌れんが短歌たんかかみしもけて、二人ふたりつくあそび、ゲームのようなものです。この当時とうじはおさけみながらおこなうこともあったようです。

木本きもと
連歌れんがひとつのうた二人ふたりつくるんですよね。

山本やまもと
そうですね。短歌たんか五七五七七ごしちごしちしち一人ひとりつくりますが、連歌れんがはこれを五七五ごしちご七七しちしちけて二人ふたりつくりました。さらには三人さんにん以上いじょうあつまり、五七五ごしちご七七しちしち五七五ごしちご七七しちしち、というように順番じゅんばんながつづけていく連歌れんがおこなわれました。
まあいまうしりとりをイメージしてもらうといとおもいます。まえつづくようにそのかんがえて、順番じゅんばんつづけていきます。
どれぐらいまでいくものであったか想像そうぞうできますか?

木本きもと
へえ。どのくらいでしょう?二十にじゅっぐらいですか?

山本やまもと
はい。鎌倉かまくら時代じだいにはひゃっまでつづける形式けいしき確立かくりつしました。これを百韻ひゃくいん連歌れんがいますが、この法師ほうしことあるごとに仲間なかま一緒いっしょにこの百韻ひゃくいん連歌れんがをしていたのではないかとかんがえられます。
それでこの法師ほうしなのですが、「行願寺ぎょうがんじへんにありけるがきて、ひとりあるかんこころすべきことにこそとおもひけるころしも」。
法師ほうし京都きょうと行願寺ぎょうがんじというてらあたりにんでいましたが、このねこまたのうわさいて、自分じぶんのように「ひとりあるかん」、一人ひとりあるまわひとは、をつけなければならないとおもっていました。
この「ありか」は「ありく(あるく)」という動詞どうし変化へんか活用かつようしたものですが、この「ありく」という動詞どうし意味いみ注意ちゅういする必要ひつようがあります。

木本きもと
どこに注意ちゅういするんでしょうか。

山本やまもと
はい。現代語げんだいごあるくとはちがって、「ありく」はあちこちうごまわることをいます。一歩いっぽ一歩いっぽすすんでいくことは「あゆむ(あゆむ)」という言葉ことばあらわしました。

木本きもと
あるかたによって言葉ことばちがってくるんですね。

山本やまもと
そうなんです。ではつづきをやくしましょう。
「あるところにてくるまで連歌れんがして、ただひとりかえりけるに」。
京都きょうとのあるところで夜中よなかまで仲間なかま連歌れんがをして、くらなか、たった一人ひとり行願寺ぎょうがんじあたりのいえかえることになりました。このとき法師ほうしすこぱらっていたのかもしれませんね。いまちがって街灯がいとうもありませんので、つきあかるくらしていなければほとんどなにえない。くらなかあるいてかえっていったのです。

木本きもと
なにかがこりそうなかんじがしますね。

山本やまもと
そうですね。なにいや予感よかんがしますね。
小川おがわはたにて、おときしねこまた、あやまたずあしもとへふとて」。
この小川おがわ行願寺ぎょうがんじちかくをながれるかわ名前なまえかんがえられています。「はた」はほとりという意味いみです。「おとく」は、たんなにかのおとくということではなくて、ここでは「うわさく」ことを意味いみします。
小川おがわのほとりで、うわさいていたねこまたが、「あやまたず」、ちがいなく法師ほうしあしもとにふと近寄ちかよってきた。ついにねこまたがたのです。
そしてねこまたはどうしたか?
「やがてかきつくままに、くびのほどをはんとす」。

木本きもと
「やがて」は現代語げんだいごにもありますよね。

山本やまもと
そうですね。ですが古文こぶんではいま意味いみとはすこことなって、「すぐに」という意味いみになります。「かきつく」はびつくことです。

木本きもと
そうすると、ねこまたはすぐにびついたということですか?

山本やまもと
そのとおりです。あしもとに近寄ちかよってきたねこまたは、すぐにびついてきて、しがみついたまま、くびあたりをもうとしました。
ねこまたは、いきなり法師ほうしおそいかかり、べようとしたということですね。

木本きもと
とてもおそろしいですね。法師ほうしはもう絶体絶命ぜったいぜつめいですよね。

山本やまもと
はい。ここまでが前半ぜんはんのおはなしです。つづきは次回じかいんでいきたいとおもいます。

木本きもと
法師ほうし心情しんじょう理解りかいする。

山本やまもと
さて、ここまでのなに阿弥陀仏あみだぶつという法師ほうし心情しんじょうをじっくりかんがえて、想像そうぞうをたくましくしてみましょう。
まずねこまたのうわさいたときはどうでしょうか。みなさんはこんな噂話うわさばなしいたらどうおもいますか?木本きもとさんはいかがでしょう?

木本きもと
もうこわいのでわないようにしたいですね。

山本やまもと
なるほど。そうですよね。ま、いろんなかんがえがあるでしょう。そんなねこまたなんて、いるはずがないからにすることはないとおもひともいるとおもいます。また、てきたらたたかってはらってやるとおもひともいるでしょう。あるいは、そのうわさ本当ほんとうのことなのか、さらにくわしくりたいとおも探求心たんきゅうしんつよひともいるでしょう。
この法師ほうしさきほどんだように、一人ひとりあるきは十分じゅうぶんをつけなければならないとおもっていました。

木本きもと
法師ほうし感覚かんかくもちょっとわたしちかかったんですね。

山本やまもと
そうですね。法師ほうしねこまたの存在そんざいうたがうことはなかったようです。この法師ほうし臆病おくびょうひとだったともえますが、うたがうことをらない素直すなお純粋じゅんすいひとであったのかもしれません。
夜中よなか一人ひとりかえることになったときはどうでしょうか?ねこまたのうわさいて、よる一人ひとりあるくことなど絶対ぜったいけなければならないとおもっていたはずですが、ついつい連歌れんが夢中むちゅうになってしまった。がついたときには夜中よなかになっていて、「ああ、失敗しっぱいしたなあ。まずいことになったな」とおもったことでしょう。それでもかえるよりほかはなく、おそおそあるはじめたんでしょうね。

木本きもと
もう想像そうぞうするだけでとてもおそろしいですよね。もうきっとガクガクとあしふるえていたかもしれないですね。

山本やまもと
そうですね。暗闇くらやみなかあるいていくにつれ、恐怖きょうふしんはいよいよたかまり、ちょっとした物音ものおとにもビクっとするような、そんな姿すがた想像そうぞうされますよね。

木本きもと
そしてあしもとになにかがちかづいてきたんですね。

山本やまもと
そうです。ふとあしもとになにかが近寄ちかよってきたときのことについて、「おときしねこまた、あやまたずあしもとへふとて」とかれていました。
暗闇くらやみですから、近寄ちかよってきたものの姿すがたははっきりとえるはずはありませんよね。でも法師ほうしなんうたがいもなく、それがねこまただとおもった。ここが面白おもしろいところですよね。法師ほうしがいかに恐怖きょうふおびえ、ビクビクしていたかがわかります。

木本きもと
ねこまたがいるかもしれないとわれているところでなにかにびつかれたら、ねこまただとおもっちゃいますよね。

山本やまもと
そうですよね。そしていきなりびつかれ、「くびのほどをはんとす」とありますので、かおのところまでジャンプして、たかびつかれたのでしょう。

木本きもと
あしもとにしがみついてきたぐらいならまだしも、くびおそってきたのなら、もうダメだというふう覚悟かくごしたかもしれないですよね。

山本やまもと
はい。この法師ほうし行動こうどうについては比較的ひかくてき簡潔かんけつかれていますが、法師ほうし立場たちばになってそのとき心理しんりかんがえてみると想像そうぞうひろがります。こうやって想像そうぞうふくらませながらむのはたのしいことですね。
さて、このあと法師ほうしはどうなるのか、次回じかいをおたのしみに。

木本きもと
それでは今回こんかい学習がくしゅうのポイントを確認かくにんしましょう。
ひとつ、ねこまたのうわさ内容ないよう理解りかいする。
ふたつ、前半ぜんはん法師ほうし行動こうどう理解りかいする。
みっつ、法師ほうし心情しんじょう理解りかいする。
以上いじょうみっつでした。

山本やまもと
今回こんかいは『徒然草つれづれぐさ第八十九段だいはちじゅうきゅうだん奥山おくやまに、ねこまたといふものありて」というはなし前半ぜんはんみました。

木本きもと
山奥やまおくひとべるというねこまたというけものが、ひとあたりにも出没しゅつぼつするといううわさがあったんですよね。

山本やまもと
そのとおりです。そしてなに阿弥陀仏あみだぶつという法師ほうしは、ある連歌れんが夢中むちゅうになってしまい、よるおそくにたった一人ひとりいえかえることになります。おそおそあるいていると、あしもとになにかがってきてすぐにびつかれ、くびまれそうになりました。法師ほうしちがいなくねこまたにおそわれたとおもった。これが前半ぜんはんのあらすじです。
法師ほうしがこのあとどうなるのかがになります。

木本きもと
そうですね。そしてこのとき法師ほうし心情しんじょうをじっくりと想像そうぞうしてみました。
さて、今回こんかい山本やまもと章博あきひろ先生せんせいと「奥山おくやまに、ねこまたといふものありて」をみました。山本やまもと先生せんせい、ありがとうございました。

山本やまもと
ありがとうございました。

木本きもと
NHK高校こうこう講座こうざ言語げんご文化ぶんか」。木本きもと景子けいこと、山本やまもと章博あきひろ先生せんせいでおおくりしました。