NHK 高校講座 言語文化の時間です。ご機嫌いかがですか? 木本 景子です。今回も夏目 漱石の小説『夢十夜』を学習していきましょう。講師は齋藤 祐先生です。よろしくお願いします。
齋藤 祐:よろしくお願いします。さて、今回も夏目の『夢十夜』を読んでいきましょう。今日は第六夜の後半部分を読みます。
木本 景子:それでは、今回の学習のポイントを確認しましょう。
1.「自分」はどのように仁王を掘ろうとしたか。
2.「明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟った」とは?
3.夏目 漱石について
この3つです。それでは学習を始めましょう。
■「自分」はどのように仁王を掘ろうとしたか
齋藤 祐:それでは、今回学習する箇所の朗読を聞いてください。朗読は高山 久美子さんです。
高山 久美子(朗読):「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉重や鼻ができるものだな」と、自分はあんまり感心したから、独り言のように言った。
するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉重や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉重や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから、決して間違うはずはない」と言った。
自分はこの時初めて彫刻とはそんなものかと思い出した。果してそうなら、だれにでもできることだと思い出した。それで急に自分も仁王が掘ってみたくなったから、見物をよしにして、早速家へ帰った。
道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出てみると、先日ての嵐で倒れた樫を薪にするつもりで、小引きに挽かせた手頃なやつが、たくさん積んであった。
自分はいちばん大きいのを選んで、勢いよく掘り始めてみたが、不幸にして仁王は見当たらなかった。その次のにも運悪く掘り当てることができなかった。3番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から掘ってみたが、どれもこれも仁王を隠しているのはなかった。終に明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。
齋藤 祐:前回は、明治時代の東京・護国寺に突如現れた鎌倉時代の運慶が、一心不乱に仁王像を掘っているという、『第六夜』の時代と場面の設定を確認しました。では、今日はその後のストーリーについて見ていきましょう。
木本 景子:はい。
齋藤 祐:夢の中の主人公は、運慶を見物している「若い男」と言葉のやりとりをしますが、自分が「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉重や鼻ができるものだな」と独り言のように言うと、若い男が言葉を返しますね。木本さん、ここ、読んでもらえますか。
木本 景子:はい。「なに、あれは眉重や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉重や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから、決して間違うはずはない」
齋藤 祐:はい、ありがとうございます。「無造作」というのは、「意図も簡単そうに」という意味なので、この手前にある「無遠慮」や「疑念を差し挟んでおらんよう」という表現と相まって、運慶の手付きの迷いのなさ、信念の揺らぎのなさに、「自分(主人公)」が感心しているのがわかります。そして、この「自分」の言葉は、特に「若い男」に向けられたものではないんです。
木本 景子:そうですね。「独り言のように言った」とありますね。
齋藤 祐:そうなんです。『第六夜』は運慶も周囲の雑音には耳を貸さない様子ですし、主要な人物同士の対話は一切成り立っていないのが窺えます。前回、明治と江戸と鎌倉、3つの時代が「同心円」のような構造で物語の世界を成り立たせているというお話をしました。「若い男」と「自分」の間も、すんなりと関係が成り立っているわけではないような距離感で書かれています。それでも、相手がその言葉尻を拾って、言葉が重なっていくんです。
木本 景子:なるほど。
齋藤 祐:対話でないものが対話になっていく。そしてそうであるからこそ、相手の発言が相手に影響を予えていってしまうというのも、夢らしい設定であると言うことができます。そして主人公は、自分でも「彫刻をしてみる気」になります。「若い男」が言うように、彫刻というものが「その通りの形が木の中に埋まっているもの」であるとすれば、だれにでもできるはずではないか、自分にもできるのではないかと思い出したからです。
木本 景子:軽いですね。
齋藤 祐:軽いですよね。本当に軽いんです。
■「明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟った」とは
齋藤 祐:さて、こうして主人公は、自宅に戻って仁王を掘り出そうとします。道具箱から「鑿と金槌」を持ち出して、薪にするつもりで取っておいた樫の木を勢いよく掘り始めるんですね。ところがいくら掘っても仁王は見当たりません。
木本 景子:なんだか当たり前のように聞こえますが、それを「主人公」はどう捉えたんでしょうか?
齋藤 祐:はい。「片っ端から」積んである薪を掘ってみて、ついに「明治の木に仁王は埋まっていない」という結論に達します。その後、「運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった」とあります。
木本 景子:この結末は、1度読んだだけではどうしても理解が難しいんですが……。
齋藤 祐:難しいですよね。ちょっと整理してみましょう。「明治の木には」というのがポイントです。ここでの主人公の考え方を、表現に即して読み返してみると、つぎのようになります。木本さん、読んでもらえますか?
木本 景子:はい。「不幸にして仁王は見当たらなかった。次のにも運悪く掘り当てることができなかった。3番目のにも仁王はいなかった。片っ端から掘ってみたが、どれもこれも仁王を隠しているのはなかった。終に明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟った」。以上ですね。
齋藤 祐:はい。「不幸にして」や「運悪く」という言い方からは、「たまたまその木から仁王は見つからなかった」ということがわかり、「隠している」や「埋まっている」という言い方からは、「大切なものはベールに隠されているのだ」という価値観が見えてきます。1つ1つ確認した結果、主人公は、「自分の家にある木だけでなく、明治の木に仁王は埋まっていない」という結論に至るのです。
木本 景子:なるほど。この流れは筋が通っていますよね。
齋藤 祐:はい。そして「明治の木に仁王が埋まっていない」ことがわかると同時に、「運慶が今日まで生きている理由」。すなわち、明治の人間が見物するただ中に運慶が現れた理由もわかった、ということになります。
木本 景子:どういうことでしょうか?
齋藤 祐:はい。ひと言で言えば、「明治の時代に新しい運慶は登場しない」ということだと思われます。この点については、このあと夏目 漱石の他の著作の力も借めて、詳しく読み解いてみましょう。
■夏目 漱石について
齋藤 祐:さて、ここでいったん、『夢十夜』の作者、夏目 漱石について見ていきましょう。
木本 景子:はい。
齋藤 祐:漱石、夏目 金之助は、時代が明治に移り変わる直前の慶応3年、1867年に東京で生まれています。この「漱石」というペンネームは、「漱石枕流」という故事成語から取られています。ここからペンネームを作った漱石が亡くなったのは、明治が終わって間もない大正5年、1916年ですので、ちょうど明治の始まりから終わりまでを生ききったと言ってもいいでしょう。
木本 景子:その「漱石」が、「明治の木には到底仁王は埋まっていない」と書いているんですよね。
齋藤 祐:そうなんです。ここで漱石が書いた晩年の代表作『こころ』の1節を用意しました。この小説には、明治天皇が亡くなられたという知らせを受け、みずからその妻と共に「殉死」を遂げた乃木 希典陸軍大将の訃報に接して、登場人物である「先生」が、みずからの死の瞬間について述べているところがあります。木本さん、読んでいただけますか?
木本 景子:はい。「私は『殉死』という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない文字だから、記憶の底に沈んだまま腐れかけていたものと見えます。妻の冗談を聞いて初めてそれを思い出した時、は妻に向かって、『もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ』と答えました」。
齋藤 祐:はい、ありがとうございます。もう1つ漱石の発言を講演録から拾っておきましょう。こんどは明治1911年に学習院大学で行われた『現代日本の開化』からの1節です。木本さん、こちらも読んでいただけますか?
木本 景子:はい。「現代の日本の開化は、一般の開化とどこが違うのかというのが問題です。もしひと言にしてこの問題を決しようとするならば、私はこう断じたい。『西洋の開化、すなわち一般の開化は、内発的であって、日本の現代の開化は外発的である』」。
齋藤 祐:はい、ありがとうございます。まずは『こころ』のほうから見ていきましょうか。「殉死」というのは、主君が死亡した時に臣下が後を追って自殺することですから、当然、明治時代と「殉死」というのは相容れません。「平生使う必要のない文字だから、記憶の底に沈んだまま」とありましたね。
木本 景子:はい。
齋藤 祐:ただ、西郷 隆盛が西南戦争で敗れたのが明治10年、1877年ですから、武士の気風は明治の末から見ると、「ついこのあいだまで残っていた」というのが時代状況なんです。
木本 景子:明治は45年までですから、その間はたった35年ですもんね。
齋藤 祐:そうなんです。乃木大将の殉死は歴史的事実ですが、この時まだ「新進作家」の芥川 龍之介らが「違和感」を表明する一方、すでに「文豪」であった夏目 漱石や森 鴎外は、「殉死は時代にそぐわない」と思いつつも、どこか同情というか、共感できるところがあったようです。
木本 景子:うーん、世代によって反応が違うんですね。
齋藤 祐:そうですね。つづいて『講演』のほうを見ていきましょう。「西洋の開化は内発的、日本の現代の開化は外発的である」でしたね。
木本 景子:はい。「内発的」ということは、内側から自然に湧き起こって開化――あらゆるものが進歩・変容を遂げ、進化していくこと。「外発的」とは、なにか「外側」の力によって無理矢理に変えられていくことを「強制される」、そのさまを指しています。
齋藤 祐:明治時代をみずから生き抜いた漱石が、そのような認識を持っていたというのは意外に聞こえるかもしれませんが、漱石が見通していたのは、暮らしぶりも考え方も「まるっきり変わっていく明治」という時代を、その底のところで支えている「唯一絶対なもの」などはないのではないか、ということです。これは、着物が洋装になり、帽子をかぶって、ステッキをついているものの、その「内実は空っぽ」なのではないかと指摘していることになります。この点が、『第六夜』の「明治の木には到底仁王は埋まっていない」に通じると言えます。
木本 景子:うーん、なるほど。
齋藤 祐:もちろん、『夢十夜』はそもそもの設定が「夢」なわけですから、話の筋自体が「荒唐無稽」であることが前提なのですけれども、漱石にしてみれば、「明治の木には到底仁王は埋まっていない」という言い方で、「明治という時代は、新しくいろんなものが出てきて持て囃され、人々は浮き足だっているように見えるけれど、その『内実』というのはかなり怪しいのではないか」と、見抜いていたのだと思われます。
あらためて、『夢十夜』の『第六夜』に戻ると、「明治の木には到底仁王は埋まっていない」、「運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった」というのは、明治という時代が「空虚」であるがゆえに、夢の中という形で、いまだなお「運慶」という人物が呼び出されてしまうのだ、と解釈することができます。
さて、今回の講座のポイントをまとめておきましょう。学習のポイントは、
1.「自分」はどのように仁王を掘ろうとしたか。
2.「明治の木には到底仁王は埋まっていないものだ」と悟った。
3.夏目 漱石について
以上の3つでした。『夢』が書かれた明治というのは、激動の時代でした。今まさにわたしたちも世界史レベルで「つぎの時代」へ移ろうとしていますから、残された作品の解釈を通じて、わたしたちの言語文化がどのように生成されてきたのかを問い直すきっかけになればと思います。
さて、今回は齋藤 祐先生と、夏目 漱石の『夢十夜』の4回目の学習でした。齋藤先生ありがとうございました。
齋藤 祐:ありがとうございました。
NHK 高校講座 言語文化、木本 景子と齋藤 祐先生でお送りしました。