太郎 / (名詞句 / 動詞) (花子 / 見た) このような深層構造によって、「太郎」が主語で、「花子」が目的語であることが分かり、格助詞「が」と「を」は、「格助詞付加」あるいは「格助詞挿入」という変形規則によって、それぞれ「太郎」と「花子」の直後に付け加えられるのだと説明されます。(根據這樣的深層結構,可以知道「太郎」是主語,「花子」是賓語,根據稱為「格助詞添加」或「格助詞插入」的變形規則,格助詞「が」和「を」分別被添加到「太郎」和「花子」的後面,據此進行說明。) しかし、日本語という英語とは違う言語について、このようにして格助詞が「後から」付加されるという過程が本当にあるのかどうかを、客観的に確認する方法はありません。あくまでも、日本語も英語と同じように、構造によって主語と目的語が決定されるのだという仮定を、正しいものとして受け入れた上でのみ成り立つ説明なのです。(然而,對於與英語不同的日語這樣的語言,是否真的存在格助詞這樣「後來」被添加的過程,並沒有可以客觀確認的方法。只有在承認日語也如同英語一樣,主語和賓語是由句子結構決定的這一假設為正確的前提下,才能成立這種說明。) そもそも日本語という言語は、少なくとも実際に観察されるデータをもとにする限り、主語と目的語を「が」と「を」という格助詞によって表すというしくみを選択しているタイプの言語なのです。(首先,日語這種語言,至少根據實際觀察到的數據來看,是選擇了用「が」和「を」這樣的格助詞來表示主語和賓語的機制的一種語言類型。)日本語のような言語は、朝鮮・韓国語、モンゴル語、トルコ語など、世界にはたくさんあります。少ししくみは違いますが、ロシア語、ポーランド語、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語などの言語も、名詞が主語なのか目的語なのかを、名詞の活用形(語形の変化)を使って表し分けるようにしています。(像日語這樣的語言在世界上有很多,如朝鮮語、韓國語、蒙古語、土耳其語等。儘管機制略有不同,但俄語、波蘭語、希臘語、拉丁語、梵語等語言也使用名詞的屈折形式(語法形態的變化)來區分名詞是主語還是賓語。) こういう、特別の単語や語形で主語と目的語を表し分けることができる言語ならば、実際に使われる文をもとにするだけで、すぐにどの名詞が主語でどの名詞が目的語なのかが分かります。(這樣的語言可以用特定的詞語或語形來區分主語和賓語,因此只需根據實際使用的句子,就可以立即知道哪個名詞是主語,哪個名詞是賓語。)ですから、主語と目的語を区別するためだけなら、深層と表層という二つの構造レベルは全く必要ではないのです。(因此,如果只是為了區分主語和賓語,就完全不需要深層和表層這兩個結構層級。) したがって、英語とは違うタイプの日本語のような言語についても、二つの構造がどうしても必要だということを、きちんと論証してからでなければ、「格助詞付加」のような変形規則の存在を、根拠あるものとして主張することは、本来ならばできないのです。(因此,對於與英語不同類型的日語這樣的語言,除非恰當地論證了兩個結構結構確實是必要的,否則就不應該聲稱「格助詞添加」這樣的變形規則的存在是有根據的。)生成文法の方法は普遍的なのだという証明されない根拠をもとに、格助詞が変形の過程で付加されることを前提として日本語の文法を説明しようとすることは、やはり科学的な態度とは言いにくいところがあります。(基於生成語法的方法是普遍的這一未經證明的根據,將格助詞在變形過程中被添加作為前提來解釋日語的語法,這確實在某種程度上難以說是科學的態度。)
普遍文法を仮定する(假設普遍文法) 標準理論の道具立ては、主として英語の文の構造に纏わる問題を解明するためのものだったのですが、チョムスキーは、生成文法理論を単なる英語の文法にしておくつもりは全くありませんでした。(標準理論的工具主要是為了解明英語句子結構的相關問題,但喬姆斯基完全不打算把生成文法理論限制在單純的英語文法範圍內。)先ほどの日本語に適用された例にも現れているように、生成文法を、人間の言語の本質を解明するための、普遍的な理論を提する言語理論にすることが、チョムスキーの壮大なる企図であったのです。(如同之前應用於日語的例子所展現的,喬姆斯基的宏大構想是要使生成文法成為一種語言理論,能夠提供普遍性的理論來解明人類語言的本質。) そのためにチョムスキーが仮定したのは、すべての言語が共通にもっている、人間のコトバに本質的な部分としての「普遍文法」でした。(喬姆斯基為此而假設的,是所有語言共同具有的、作為人類語言本質部分的「普遍文法」。)生成文法に限らず、言語学者であれば誰でも、人間のコトバの本質を解明したいと思うものですから、普遍文法を追究するという姿勢は、実に健全な研究目標だと言えます。(不僅限於生成文法,任何語言學家都希望解明人類語言的本質,因此追究普遍文法的態度確實是個健全的研究目標。) ただ、生成文法の特徴は、人間は生まれながらに普遍文法を頭の中に備えているはずだと主張していることです。(但生成文法的特徵在於,它主張人類生來就應該在頭腦中具備普遍文法。)人間も生物ですから、生まれつき何らかの能力を備えていることは間違いありません。(因為人類也是生物,肯定生來就具備某種能力。)誰かに教えられなくても、人間は外界のモノを見て、色や形を認識することができますし、音声や匂を知覚することもできます。(即使沒有人教,人類也能看外界的事物、認識顏色和形狀,還能感知聲音和氣味。) したがって、コトバに関係する能力にも、生得的な部分があると考えることはできると思います。(因此,我認為與語言相關的能力中也應該存在先天的成分。)標準理論以後の生成文法は、人間のコトバは共通の普遍的な原理に従っているという考えを強力に推し進めていきました。(標準理論之後的生成文法強力地推進了人類語言遵循共同普遍原理的觀點。)こういう普遍的な原理は、当然普遍文法を構成する重要な要素だと考えることができます。(這樣的普遍原理當然可以被認為是構成普遍文法的重要要素。) 普遍的な原理を脳に組み込んで生まれてきた幼児は、周囲の人間が話す個別言語の刺激を受けて、個別言語の文法を完成させるという形で、言語の獲得が実現されるというのが、生成文法が想定している言語獲得の方法です。(生成文法所假設的語言獲得方法是:具有普遍原理的嬰幼兒接受周圍人類所說的特定語言刺激,以完成特定語言文法的方式來實現語言獲得。)そして、もっと言語獲得が効率的に行われるように、コトバの原理というのは、「XかXではないか」という形で、個別言語によって二つの選択肢のうちのどちらかが選択されるというしくみになっているのだとされています。(而且為了使語言獲得更加有效進行,語言的原理據說是按「X或非X」的方式,由特定語言選擇兩個選項中的某一個的機制。)個別言語がもたらす刺激は、どちらかの選択肢を選ぶように決定するという働きをするだけなのですから、個別言語の獲得はさらに容易になるというわけです。(特定語言帶來的刺激只是起決定選擇哪個選項的作用,因此特定語言的獲得就進一步變得容易了。) コトバを支配する原理についての選択肢を、生成文法では「パラメータ」と呼んでいます。(生成文法中把支配語言的原理的選項稱為「參數」。)数学で使うパラメータ(媒介変数)は、例えば、xとyを変数とする関数で、x = at, y = bt のように置き換えたときのtをこう呼ぶわけですから、ある原理の選択肢という意味合いとはずいぶん違っていて、気になるところではあるのですが、こう呼ぶことにしているのだから仕方ありません。(數學中使用的參數(媒介變數)是指在函數如x = at, y = bt這樣的置換中的t,所以與原理的選項這一含義很不相同,儘管有些奇怪,但既然就是這樣稱呼的,也就沒辦法了。) 普遍的原理とそれに関するパラメータを設定して、人間のコトバの本質だけでなく、個別言語がどのようにして獲得されるのかまでをも説明しようというのが、標準理論の次の段階で生成文法が到達した理論的枠組でした。(設定普遍原理及其相關的參數,不僅要說明人類語言的本質,還要說明特定語言如何被獲得,這是標準理論之後生成文法所達到的理論框架。)これを「原理とパラメータの理論」と呼びます。(這被稱為「原理與參數的理論」。)
どのような原理が仮定されたのか
普遍文法を構成する原理がどんなものだったのかは、後でもう少し詳しく説明しますが、どんなものだったのか、簡単にふれておくことにしましょう。(普遍文法所構成的原理是什麼樣的,我們稍後會進行更詳細的說明,但在這裡先簡單提及一下它是什麼樣的。)
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単語を移動する変形規則に対する、一般的な制約のことです。(這是對移動單詞的變形規則的一般性限制。)先に説明した、構造保持仮説によって、ある単語は、すでに作られている構造のうちで、それが占めることができる場所に移動することができるようにはなっています。(根據之前說明的結構保持假說,某個單詞能夠移動到已經構成的結構中它能夠佔據的位置。)けれども、移動できる位置のどこにでも移動できるのだとすると、理屈の上では可能でも、実際の文としてはとても受け入れられない文ができあがってしまいます。(但是,如果能夠移動到所有可以移動的位置,那麼雖然在理論上是可能的,但實際上會產生無法接受的句子。)
そこで、移動を妨げるような「境界」を設定して、この境界を越えて単語は移動することができない、という内容を定めたのが「境界理論」です。(因此,通過設定阻止移動的「邊界」,規定了單詞不能越過這個邊界進行移動的內容,這就是「邊界理論」。)例えば、名詞句の内部にある疑問詞は移動できないなどが、境界理論が定める移動の制約です。(例如,名詞短語內部的疑問詞無法移動等,就是邊界理論所規定的移動限制。)
この境界を設定するのが、どのような種類の句なのかについて定めているのが、境界理論についてのパラメータです。(規定設定邊界的是哪種類型的短語的,就是邊界理論的參數。)
ある単語と別の単語との間に関連性があるのかを、構造の観点からきちんと定めておくために考えられた理論です。(這是為了從結構的角度明確界定某一詞語與另一詞語之間是否存在關聯性而提出的理論。)二つの単語の間の関連性と言っても分かりにくいのですが、例えば、名詞と、それと同じモノを指す代名詞との間には関連性があります。(雖然說兩個詞語之間的關聯性有些難以理解,但舉例來說,名詞與指代同一事物的代詞之間是存在關聯性的。)また、単語が移動した後には痕跡が残るとされているわけですが、この痕跡にもきちんとした働きがあるのだから、痕跡が含まれる範疇の中で、他の単語との関係でその働きがはっきり分かるようになっていなければならないとされます。(另外,據說詞語移動後會留下痕跡,由於這個痕跡也有明確的功能,所以應該在包含痕跡的範疇內,通過與其他詞語的關係使其功能變得清晰可見。)こういう、痕跡と他の単語との関連性というのも考えるべきだということになっています。(這樣的話,應該考慮痕跡與其他詞語之間的關聯性。)生成文法では、こうした種類の関連性というのも、構造によって性質を示すことができると考えられていて、ある単語が別の単語と構造的に関連があるということを「統率する」と言います。(在生成語法中,認為這類關聯性也可以通過結構來表現其性質,把某詞語與另一詞語在結構上的關聯稱為「統率」。)要するに、主語や目的語が、文の構造についての情報に基づいて決まるというのが生成文法の一貫した立場なのと同じように、単語と単語の間にある別の種類の関連性というのも、やはり同じように何らかの構造的特徴で定義してしまおうというのが、統率理論が考案された理由だと考えることができます。(總而言之,就像主語和賓語是基於句子結構信息而確定的,這是生成語法一貫的立場一樣,詞語之間的另一類關聯性也應該同樣用某種結構特徵來定義,這就是統率理論被提出的原因。)ただ、統率理論については、どんなパラメータがあるのか分かっていません。(不過,關於統率理論,我們還不清楚有哪些參數。)
文が表す事柄の中に含まれるモノは、主語だったり目的語だったりするほか、「道具」だったり、「場所」だったり、移動の「起点」や「着点」だったり、いろいろな働きをします。(句子所表達的事物中包含的東西可以是主語、也可以是賓語,還可以是「工具」、「地點」、移動的「起點」或「終點」,以及發揮各種各樣的作用。)事柄の中でモノがもっている働きのことを、一般的には「意味役割」と呼ぶのですが、生成文法では「θ役割」とか「主題役割」と呼んでいます(θというのは、「主題」に当たる英語 theme の th をギリシア文字で表したものです)。(事物在事項中所具有的作用一般被稱為「語義角色」,但在生成語法中被稱為「θ角色」或「主題角色」(θ是用希臘字母表示與「主題」相當的英文單詞 theme 的 th)。) 文で使われているどんな名詞にもθ役割が一つずつ与えられなければならない、ということを主張するのがθ理論です。(θ理論主張的是,句子中使用的每一個名詞都必須被賦予一個θ角色。)文の中で名詞が使われていれば、それには必ず何らかの意味的な働きがあるのは当然ですから、θ理論は、文が事柄を表し、文中で使われる名詞が表すモノは、事柄の中で何らかの働きをしているという、コトバの本質を言い換えたものだと言うことができます。(因此,θ理論可以說是對語言本質的另一種表述,即句子表達事項,句子中使用的名詞所表達的事物在事項中發揮某種作用。)これは、人間のコトバであれば絶対に必要な性質ですから、パラメータはありえません。(這是人類語言中絕對必要的性質,因此不存在參數。)
文中で使われている代名詞が、同じ文中にある名詞と同一の指示対象をもつ(同じモノを指し示す)かどうかということを、構造の観点から定義するための理論です。(文中使用的代名詞與同一文中的名詞具有相同的指代對象(指向同一物體)的理論,是從結構的角度加以定義的。)一つの文の中で、代名詞が先行する名詞と同じ指示対象をもつことを、名詞が代名詞を「束縛する」という言い方をするので、「束縛理論」という、いささか感覚的な名称が用いられます。(在一個句子中,代名詞與前面出現的名詞具有相同的指代對象時,我們說這個名詞「束縛」了代名詞,因此使用「束縛理論」這個名稱,儘管這個名稱在某種程度上是感覺性的。)束縛という性質を定義するために、先にあげた「統率」という性質が使われます。(為了定義束縛這一性質,使用了前面提到的「統率」這一性質。)代名詞の指示対象の性質までもが、構造によって決定されるというのを、人間のコトバがもつ普遍的特徴の中に含めて、束縛という概念が生まれたばかりの赤ん坊の頭の中にもすでに組み込まれているのだと、生成文法は主張しているのです。(生成語法主張,代名詞的指代對象特性也由結構決定,這一點被納入人類語言具有的普遍特徵中,因此束縛這一概念即使在初生嬰兒的頭腦中也已經被內置了。)
「格」というのは、「与格移動変形」のところで説明したように、名詞の文中での働きを表す名詞の語形や特別の単語のことです。(「格」就是如同在「與格移動變形」一節中所說的那樣,用來表示名詞在句子中的作用的名詞的詞形或特殊的詞。)名詞の働きなら、先ほどのθ役割と同じになってしまいそうなのですが、θ役割は、あくまでも「事柄」の中でモノが果たす役割のことです。(如果說名詞的作用,似乎會與剛才的θ角色相同,但是θ角色歸根結底是指在「事項」中事物所發揮的角色。)これに対して「格」は、基本的には名詞の明確な形のことを指しています。(相對而言,「格」基本上是指名詞明確的形態。)
簡単に言えば、名詞がどんな格をとっているかを知って、名詞が表すモノの役割が分かるというしくみなのだと考えてください。(簡單地說,通過了解名詞採用什麼格,就能理解名詞所表示的事物的作用,請這樣思考這個機制。)別の言い方をすれば、格は名詞という単語そのものの性質であり、θ役割は、名詞が表す「モノ」(事物)の性質だということです。(換句話說,格是名詞這個詞本身的性質,而θ角色是名詞所表示的「事物」的性質。)
ただ、英語の名詞はほとんど語形変化をしませんし、日本語の「が」や「を」のような格助詞もありませんから、代名詞以外の普通の名詞については、今説明したような格をもっているとは言えないことになります。(但是,英語名詞幾乎沒有詞形變化,而且也沒有日語中「が」或「を」這樣的格助詞,因此除了代詞以外的普通名詞就不能說具有剛才所說的那樣的格了。)しかし、英語は語順、つまり文の構造を使って、格と同じ働きをさせることができると考えることもできます。(但是,英語可以通過詞序,即句子結構的使用,來實現與格相同的作用,也可以這樣認為。)チョムスキーは、こういう構造によって表された名詞の働きを「抽象格」と呼んで、これも語形による格と同じものなのだとしました。(喬姆斯基把這種通過結構表達的名詞的作用稱為「抽象格」,並認為這也與詞形標記的格是相同的東西。)
抽象格という呼び名はともかく、語形変化と似たような働きを構造が果たしていることは確かですから、構造を使って表された主語や目的語などの働きを「格」と呼ぶことには、大きな問題はないだろうと思います。(雖然「抽象格」這個名稱姑且不論,但結構確實在發揮與詞形變化相似的作用,因此把通過結構表達的主語和賓語等的作用稱為「格」應該沒有大問題。)
そういうわけで格理論というのは、どんな名詞にも何らかの方法で格が与えられなければならないという、普遍的な原理の存在を主張するものです。(因此格理論主張存在一個普遍的原理,即每個名詞都必須以某種方式被賦予格。)
これは、基本的には具体的な単語としては現れない、不定詞の主語に関わる性質です。(這是基本上不以具體詞彙出現的、與不定詞主語相關的特性。)次の例を見てください。(請看下面的例子。)
(72) Jill decided to leave her country. (ジルは自分の国を離れることに決めた)(吉爾決定離開自己的國家。)
この文で、to leave her country という不定詞の主語は表されていませんが、英語の不定詞は文と同じ働きをするものとされていますから、主語は必ず必要です。(在這個句子中,不定詞「to leave her country」的主語沒有被表達出來,但由於英語的不定詞被認為具有與句子相同的功能,所以主語必定是必要的。)標準理論の説明の時には、不定詞の主語を for Jill で表して、深層構造では for Jill to leave her country のような形になっていると説明しました。(在標準理論的說明時,不定詞的主語用「for Jill」來表示,深層結構中被說明為「for Jill to leave her country」的形式。)
その後、単語を削除する変形規則はないということになり、このような深層構造では、「同一名詞句削除」と「for 削除」という二つの削除変形が必要なので、この構造ではいけないということになりました。(其後,既然沒有刪除詞語的轉換規則,在這樣的深層結構中,需要「相同名詞短語刪除」和「for刪除」這兩個刪除轉換,所以這樣的結構就不行了。)そこで、実際には発音されないけれども、代名詞と似たような働きをする PRO (代名詞照応形)という単語が導入され、(72)は、表層構造の段階でも、次のような形をしているものとされるようになりました。(因此,引入了實際上不發音但具有類似代詞功能的PRO(代詞照應形)這個詞,(72)即使在表層結構階段也被認為具有下面這樣的形式。)
(73) Jill decided [PRO to leave her country].(吉爾決定[PRO離開她的國家]。)
この PRO が現れることができる構造的な位置とか、この形が指示する対象がどの名詞と同じになるのかなどを定める理論が、「制御理論」です。(規定PRO能出現的結構位置、這種形式所指代的對象與哪個名詞相同等的理論,就是「控制理論」。)ただ、この理論の中身はまだよく分かっていないところも多く、ですからパラメータについても知られていません。(只是,這個理論的內容仍然有很多不甚清楚的地方,因此關於參數也還不為人所知。)
以上のように、生成文法で仮定されている普遍文法の中身は、コトバのしくみに相当に踏み込んだものです。(如上所述,生成文法所假設的普遍文法的內容,相當深入地涉及語言的機制。)実は、生成文法の歴史を通じて、万有引力の法則とか運動量保存の法則のように、これこそが普遍文法の中身であって、どんな反論にも耐えうる絶対に間違いのないものだ、という形での普遍文法が提唱されたことはありません。(事實上,在生成文法的歷史上,從來沒有提出過像萬有引力定律或動量守恆定律那樣、被認為就是普遍文法的內容、並且能經受住任何反駁、絕對不會出錯的普遍文法。)
というわけで、普遍文法が生得的かどうかということを、確実に論じるための信頼できる材料は実際にはないのではないかと考えられます。(因此,可以確實論證普遍文法是否是先天的值得信賴的材料實際上可能並不存在。)普遍文法が提唱され始めた頃には、標準理論の枠組みで用いられていた、深層構造と表層構造の区別、一般的な句構造規則、移動を中心とする一部の変形規則などは、普遍文法を構成する要素だと考えられていました。(普遍文法剛開始被提出的時期,標準理論框架中使用的深層結構與表層結構的區別、一般的短語結構規則、以移動為中心的部分轉換規則等,被認為是構成普遍文法的要素。)
ところが、原理とパラメータの理論になると、先ほど説明したような、標準理論の頃とはまた大きく異なった原理群が普遍文法を構成する要素だと主張されるようになったわけです。(然而,到了原理與參數的理論,如先前所說明的,與標準理論時期大相徑庭的原理群被主張為構成普遍文法的要素。)となるとやはり、生成文法にとっての普遍文法は、自らが仮定している基本的な道具立てをかなりの部分取り入れたものだと考えてよさそうです。(如此看來,生成文法的普遍文法可以說是相當大程度上吸收了自身所假設的基本工具框架。)
そうすると、人間が生まれつき頭の中にもっているコトバの基本的しくみとしての普遍文法の中身は、ずいぶんと具体的なものだということになります。(這樣一來,作為人類與生俱來存在於頭腦中的語言基本機制的普遍文法的內容,就變成了相當具體的東西。)この具体的な普遍文法に、日本語とか英語とかの、個別言語に関する情報が刺激として与えられることで、普遍文法が個別化し、最終的に子供が母語を獲得するのだとされています。(通過向這個具體的普遍文法提供日語或英語等個別語言的信息作為刺激,普遍文法得以個別化,最終兒童獲得母語。)
標準理論や原理とパラメータの理論で仮定されている道具立ての構成要素が、果たしてすべての言語に共通のものなのだろうかという根本的な問題はともかくとして、これほど内容豊富な普遍文法が仮定されるには、それなりの理由があるのだとされています。(儘管關於標準理論和原理與參數理論中所假定的工具組成要素是否真的是所有語言的共同特徵這一根本問題先不論,據說內容如此豐富的普遍文法之所以被假定,是有其相應理由的。) まず一番重要だと思われるのが、「幼児は非常に短い期間で母語を獲得する」という事実です。(首先,最重要的是「幼兒在非常短的時期內獲得母語」這一事實。)「非常に短い期間」という、大ざっぱな判断が非常に気にかかるのですが、生成文法では、子供が母語を獲得するのに必要な期間は五年だとされています。(儘管「非常短的時期」這個說法相當粗略,讓人感到困擾,但在生成文法中,據說兒童獲得母語所需的時間是五年。) この五年の間に、文の構造を作るための規則群を覚えて、実際に自分でも文法的な文を作り出せるようになり、また他人が作る文が表す意味を正しく理解することができるようになるのだとすると、それは非常に短いではないかということなのです。(在這五年期間內,學會用來構建句子結構的規則,實際上能夠自己造出語法正確的句子,並能正確理解他人造的句子所表達的意思,如果是這樣的話,那五年豈不是非常短了嗎。)だから、生成文法が仮定する、内容豊富な普遍文法を、人間の子供は生得的にもっていると考えなければならないとされます。(因此,據說人類的孩子必須生而具有生成文法所假定的、內容豐富的普遍文法。) 確かに、私たちが学校で勉強する国文法や英文法は、相当に内容が複雑で、かなり努力をしないと全部覚えきることはなかなかできません。(確實,我們在學校學習的國文法和英文法內容相當複雜,不付出相當努力就很難全部記住。)しかし、だからと言って、それを五年で覚えてしまうことが「非常に早い」と断定することもできないのではないかと思います。(但是,正因為如此就斷定五年內掌握它是「非常快」,我覺得這也不一定成立。)人間は、ホモ・サピエンスという生物種として誕生した時点で、すでに現代の人類と同じしくみのコトバを自在に操ることができました。(人類作為一個生物種——智人在誕生的時刻,就已經能夠自由自在地使用與現代人類相同機制的語言了。)ところが、恐らくその当時の平均寿命は三十歳かそれ以下だったのではないかと推測されています。(然而,據推測,那時的平均壽命可能是三十歲或更短。)人類の初期にも同じように五年かかって母語が獲得されていたのだとすると、それは人生の六分の一にも当たる期間で、決して早いとは言えません。(如果人類初期同樣花費五年時間獲得母語,那就佔了人生的六分之一,絕不能說是快。) それに、五歳の幼児は、確かに構造の点では正しい文を作る能力を獲得していますし、日本語ならば助詞や助動詞のような、文法的働きをする限られた数の単語の働きについても、完璧ではないにしても、重要な部分はきちんと覚えています。(而且,五歲的幼兒確實已經獲得了在結構上造出正確句子的能力,如果是日語的話,對於像助詞和助動詞這樣具有語法作用的有限數量的詞彙的用法,雖然不完美,但重要部分已經掌握得相當好。)けれども、名詞、動詞、形容詞、副詞のような、文が表す意味の中核部分を決定するために必要な「単語」については、子供によっても違うでしょうが、恐らく数百語程度しか覚えていないのではないかと思われます。(但是,對於像名詞、動詞、形容詞、副詞這樣決定句子所表意思核心部分所必需的「詞彙」,雖然因人而異,但恐怕只掌握了數百個詞而已。)これに対して、大人であれば数万語の単語を記憶しているのが普通です。(相比之下,成人通常記憶數萬個詞彙。) 実は、単語というのは、たった一個でも、実に多くの情報を含んでいるものです。(實際上,單個詞彙即使只有一個,也包含了大量信息。)「ネコ」という単語の意味を正しく知っていることと、この単語が指し示すモノ(専門的には「指示対象」と呼びます)を正しく指摘できることは同じです。(正確理解「貓」這個詞的意思,與能夠正確指出這個詞所指的物體(專業上稱為「指示對象」)是同一回事。)そうすると、私たちを取り巻くほとんど無数のモノの中から、ネコであるモノを選んで正しく指示するためには、ネコがどんな形、大きさ、色をしていて、どんな声で鳴き、どんな動作をするのかなど、ネコに関わる非常にたくさんの情報を記憶しておかなければなりません。(那樣的話,要從圍繞我們的幾乎無數的物體中選出貓這樣的物體並正確指示,就必須記住關於貓的非常多的信息,比如它是什麼形狀、大小、顏色,用什麼聲音叫,做什麼動作等等。) 特に、ネコを指示するためには、ネコについての視覚的情報を記憶することが大切なのですが、電子記憶媒体に画像を保存するために、文字などと比べるとはるかに大きな容量を必要とすることからもお分かりのように、視覚情報を記憶するためには、脳の中でも相当の部分を占めさせる必要があります。(特別是,為了指示貓,記憶關於貓的視覺信息是重要的,但就像從電子存儲媒體中保存圖像所需的容量遠大於文字等事實也能看出的那樣,為了記憶視覺信息,需要在腦中佔據相當大的部分。)そもそも人間は、モノを「見る」ためだけに、脳の三分の一を使っているのだそうです。(據說人類單單為了「看」東西就使用了腦容量的三分之一。)実際、視覚は実に高度な能力で人間と同じようにモノが見えるロボットは、依然として作られていません。(實際上,視覺是一項非常高深的能力,能像人類一樣看到東西的機器人至今仍未被開發出來。) 「ネコ」という単語一つをとっても、かなりの情報量を記憶しなければならないのですから、何万個もの単語の意味を記憶するために、人間は脳の中で大きな容量を使用していることになります。(既然單單「貓」這一個詞就必須記憶相當多的信息,為了記憶成千上萬個詞的意思,人類就得在腦中使用龐大的容量。)だとすると、十分な数の単語を記憶する手間に比べれば、文の構造を作るために使われる規則群が必要とする情報量など、実はそれほど大きいとは言えないのではないかとも考えられます。(那樣的話,相比記憶足夠數量詞彙的麻煩,用來構建句子結構的規則所需要的信息量,其實不一定有那麼大,也是有可能的。) そうするとなおさら、文法の規則を完全に獲得するのに必要な五年という期間が非常に短いどころか長いのだとすると、人間が生得的にもっている普遍文法の中身は、極めて乏しくても構わないことになります。(那樣更加的話,如果完全獲得語法規則所需的五年時期其實不是非常短反而是長的話,那麼人類生而具有的普遍文法的內容即使極其貧乏也沒有關係。)視覚や聴覚に関わる情報を処理するための基本的な能力だけで十分だという可能性もないではありません。(僅有用於處理與視覺和聽覺相關信息的基本能力就足夠了,這樣的可能性也並非不存在。)
普遍文法が人間に生得的に備わっていると仮定される二番目の理由として、子供が生まれてから経験する個別言語のデータに不備があるという性質があります。(作為普遍文法與生俱來地賦予人類的第二個原因,存在著兒童從出生後體驗的特定語言的數據不完整的特性。)赤ん坊は、周囲の人間が話す言語を聞くことによって言語を獲得していくのですが、その周囲の人間は、いつも完全な文を使うわけではありません。(嬰兒通過聽周圍的人說話來習得語言,但周圍的人並不總是使用完整的句子。)文を途中で止めることもあれば、文法的に間違った文を使うこともそれほどまれではありません。(有時會中途停止句子,有時也會使用語法錯誤的句子,這種情況並不罕見。)
こういった不完全なデータをもとにしているにもかかわらず、人間は誰でも、最終的には完全な文法を獲得することができるとされます。(儘管基於這些不完整的數據,但人人最終都能夠掌握完整的文法。)実際に使う時には間違った文を使うことがあっても、頭の中に作り上げられた言語に関する能力は、間違いのない完全なものだということです。(即使實際使用時可能會用錯句子,但在腦中構建的語言能力卻是完美無缺的。)
データが不完全なのに、言い換えれば経験する言語の刺激は貧困なのに、獲得される言語は完全であるという事実は、「プラトンの問題」と呼ばれます。(儘管數據不完整,換句話說語言刺激貧乏,但習得的語言卻是完整的,這一事實被稱為「柏拉圖問題」。)プラトンが、人間の知識について同じような問題を指摘していたことから、こういう名前になっています。(這個名稱來自柏拉圖曾指出的人類知識的類似問題。)
不完全なデータをもとに、わずか五年で完全な文法を作り上げることができるのであれば、やはり生まれつき頭の中に、ほとんどできあがった形の完全に近いコトバの性質、つまり内容豊富な普遍文法が組み込まれていると考えなければならないということなのです。(如果能夠基於不完整的數據在短短五年內構建完整的文法,那麼必然是先天就在腦子裡配備了幾乎已完成的、接近完美的語言特性,即豐富充實的普遍文法。)
確かに私たちが日本語を使う時でも、いつも正しい文を使っているとは限りませんし、「あの、今度の会議なんですが」のような形で、最後まできちんと言わないで文を終わるなどということもよくあります。(確實,即使我們使用日語,也不總是使用正確的句子,有時也會以「那個,關於這次會議」這樣的形式,不把話說完就結束句子。)だとすると、最初からある程度中身のある「文法の素」のようなものが生得的に備わっていて、それはパラメータの選択が決まっていないだけなのだから、生まれた後での具体的な言語の刺激は、単にそのパラメータの値を決定するだけなのだという考えも、実際ありうるのかなと思わないでもありません。(那麼,從一開始就先天配備了某種有一定內涵的「文法素質」,而參數的選擇還未確定,生後受到的具體語言刺激只是確定參數值的想法,實際上似乎也是有可能的。)
しかし、よく考えてみると、私たちが使う日本語がそれほどデータとして不完全、貧困なのかどうか、はっきりしないところもあります。(但是,仔細思考的話,我們使用的日語是否真的如此不完整、貧乏作為數據,也不太清楚。)そもそも、「不完全だ」「貧困だ」というのは、先ほどの「期間が短い」というのと同じように、客観的な基準を適用して判断されているとは思えません。(首先,「不完整」「貧乏」就像前面說的「時間短」一樣,似乎並沒有根據客觀標準來判斷。)獲得される文法が「完全だ」と主張されるのですが、本当に完全なのか、検証するすべはないのです。(習得的文法被主張是「完整的」,但也沒有辦法驗證是否真的完整。)だとすると、データが何と比べて不完全なのかは、決して分からないことになります。(那麼,數據相比什麼而言是不完整的,就永遠無法知道了。)
それに、例えば語順のことを考えてみると、日本語の話者なら誰でも「ネコが」とか「山に」というふうに「名詞+格助詞」という規則に必ず従うのでして、「がネコ」とか「に山」などと言う人はいません。(舉例來說,日語使用者都會遵循「名詞+格助詞」的規則,比如「貓が」或「山に」,沒有人會說「がネコ」或「に山」。)同じように、「ゆっくり歩く」「赤い花」という語順ではなく、その逆の「歩くゆっくり」「花赤い」という語順の決まりがあると思って、その順番で単語を並べる人もいません。(同樣地,沒有人會認為有「慢慢走」「紅花」的相反語序「走慢慢」「花紅」,並按這種順序排列單詞。)
もう少し構造の複雑な文でも同じです。(即使是結構更複雜的句子也是一樣。)「花子が買った服」のように関係節(形容詞節)が名詞を修飾する表現、「太郎が明日来ること」のように、文を「こと」という単語によって名詞節にした表現などの場合でも、「服花子が買った」や「こと太郎が来る」のように語順を逆転した言い方をすることもありません。(在「花子買的衣服」這樣的關係節(形容詞子句)修飾名詞的表達,或「太郎明天來的事情」這樣用「事情」這個詞把句子變成名詞子句的表達中,也沒有人會使用「衣服花子買的」或「事情太郎來」這樣的倒序說法。)
このように、文の構造に関する限り、日本語の話者が発する文が作るデータが「貧困」だと見なすことは適当ではありません。(因此,就句子結構而言,將日語使用者發出的句子構成的數據視為「貧乏」是不恰當的。)助詞や助動詞のような文法的な働きをする単語の場合なら、時には「は」や「が」の使い方を間違えることもありますし、過去の事柄を表すのに「た」を付けるのを忘れることもあるかもしれません。(在像助詞和助動詞這樣具有語法功能的詞的情況下,有時可能會錯誤使用「は」或「が」,有時也可能忘記在表示過去事物時加上「た」。)しかし、その間違いも、この条件では必ず間違えるなどということなのではありません。(但是,這些錯誤並不是在這些條件下必然出現的。)間違いの現れ方は、まさに千差万別で不規則なのです。(錯誤的出現方式實際上是千差萬別、不規則的。)
チョムスキーの考えとは違うのですが、もともとコトバというのは、話し手が伝えたい事柄と、聞き手が理解する事柄が同じであることを目的とする伝達の手段です。(與喬姆斯基的想法不同,語言本質上是一種傳達手段,其目的是使說話者要傳達的事情與聽話者理解的事情一致。)この目的のためには、同じ言語を使う人間がすべて、単語の意味や働き、文の構造の作り方、文の意味解釈の方法など、あらゆる側面に関して同じ規則を共有する必要があります。(為了這一目的,使用同一語言的所有人類都必須在單詞的意義和功能、句子結構的構成方式、句子意義的解釋方法等所有方面共享相同的規則。)
幼児にしても、言語を習得していく過程で、自分が使う表現が誰かに正しく理解されなければならないということは、当然分かるようになります。(幼兒在習得語言的過程中,當然會理解自己使用的表達方式必須被他人正確理解。)そしてそのために、周囲の人間が使う言語表現をもとにして、自分が使おうとする言語の中に、周囲の人間の言語と同じ規則を取り入れようとしていくようになるのではないかと考えられます。(因此,幼兒會根據周圍人使用的語言表達,試圖將周圍人的語言規則引入自己正在學習的語言中。)
周囲の人間が与えるデータは、今述たように、時人間ならば誰でもコトバを覚えられる(只要是人類,任何人都能學會語言。)
生成文法が普遍文法の生得性を主張する理由は他にもあります。(生成文法主張普遍文法與生俱來的原因還有其他的。)それは、(1)人間であれば誰でも母語を獲得できること、(2)人間と同じしくみの言語を獲得できる人間以外の動物は存在しないこと、です。(那就是:(1)如果是人類,任何人都能獲得母語;(2)除了人類以外,沒有其他動物能獲得與人類同樣結構的語言。)さらに、人種が違っていても、同じ言語を使う環境で育てば、誰もが同じ母語を習得するという事実もあります。(而且,即使人種不同,只要在使用同一語言的環境中成長,任何人都能習得相同的母語,這也是事實。)
つまり、こういう事実は、コトバは人間という種に特有のものなのだから、コトバがもつ中核的な部分は、人間に遺伝的、つまり生得的に備わっているものだと考えなければならないということです。(也就是說,這樣的事實表明,既然語言是人類這個種族特有的東西,那麼語言所具有的核心部分必須是在遺傳上、也就是與生俱來就具備在人類身上的。)確かに、人間だけがコトバを使えるのですから、コトバを使うための能力が人間に遺伝的に与えられているということは、間違いないことだと思います。(的確,既然只有人類能使用語言,那麼使用語言的能力是在遺傳上被賦予人類的,這是毫無疑問的。)
どんな動物でも、その種に特有の能力があるのだとしたら、普通は生まれつきそういう能力があるものと考えるのは、ごく自然なことです。(如果任何動物都有其種族特有的能力,那麼普通來說認為這些能力是與生俱來就擁有的,這是非常自然的事情。)ですから人間についても、何らかの点で生まれつきコトバを使う能力があるのだと考えることに、不自然なところはありません。(因此,認為人類在某些方面與生俱來就具有使用語言的能力,也沒有什麼不自然的地方。)
ただ問題なのは、その生まれつきの能力の中身なのです。(但問題在於,那個與生俱來的能力的具體內容是什麼。)先ほどから述べているように、生成文法が仮定する普遍文法のようなしくみが、生得的に脳の中に組み入れられていなければ、五年程度で母語の文法規則が獲得できないのだ、ということが正しく論証されているわけでは決してありません。(正如之前所述,生成文法假設的普遍文法那樣的機制,若不是與生俱來就組織在大腦中,就無法在五年左右習得母語的文法規則,這一點絕對沒有被恰當地論證。)
生まれつきの言語獲得能力が人間にあるとすれば、Xバー理論とかθ理論とかの、生成文法が普遍文法の中身として主張する諸原理が、その能力を構成する要素として含まれていなければならない、ということを何らかの方法で論理的に証明しない限り、そのような普遍文法が人類にとって生得的なものだという主張を、そのまま受け入れることは難しいでしょう。(若人類確實具有與生俱來的語言獲得能力,那麼生成文法作為普遍文法內容所主張的各項原理,比如X棒理論或θ理論等,必須被包含在構成這一能力的要素中,除非用某種方法在邏輯上證明了這一點,否則很難直接接受那種普遍文法對人類來說是與生俱來的這樣的主張。)
生成文法の仮定する「普遍文法」が生得的だという主張の合理性は、やはりどうも疑わしいとしか言いようがないのですが、だからと言って、人間のコトバに普遍的なものだと主張されている一連の原理群の合理性までもが否定されるわけではありません。(生成文法所假設的「普遍文法」具有生得性這一主張的合理性確實令人懷疑,但這並不意味著人類語言中被主張為普遍的一系列原理群的合理性也被否定了。)すべての原理を検討するわけにはいきませんので、以下では、「Xバー理論」と「θ理論」について、それが果たしてコトバの原理として妥当なものなのかどうか、考えてみることにしましょう。(因為無法檢討所有原理,以下我們將考察「X棒理論」和「θ理論」,看它們是否真的作為語言原理是恰當的。)Xバー理論は、句構造規則をより一般化したものです。(X棒理論是對短語結構規則的進一步概括。)英語の句構造規則は、次のような形をしていました。(英語的短語結構規則具有以下形式。)
動詞句→動詞+名詞句
前置詞句→前置詞+名詞句(前置詞句→前置詞+名詞句) ((「限定詞」という名称は、冠詞や所有形容詞などを総称するものです)「限定詞」というのは、冠詞や所有形容詞などを総称した名称です)(「限定詞」是冠詞和所有形容詞等的統稱) 「原理とパラメータの理論」では、従来「深層構造」「表層構造」と呼ばれていた構造は、標準理論の発展に伴ってその性質も変わってきたことから、それぞれ「D構造」「S構造」と呼ばれるようになっていました。(在「原理與參數理論」中,因為標準理論發展所導致結構性質發生變化,原本稱為「深層結構」「表層結構」的結構,現在分別被稱為「D結構」「S結構」。)Dは多分 deep (深層)の頭文字でしょうし、Sも surface (表層)の頭文字なのでしょうから、あまり変わったという感じはしませんが、とにかく名称は変わってきています。(D大概是deep(深層)的首字,S也是surface(表層)的首字,所以感覺沒有太大改變,但不管怎樣名稱確實改變了。) さて、D構造を作るための規則が句構造規則なのですが、このような形でも、それほど複雑だというわけではありません。(那麼,制定D結構的規則就是短語結構規則,但即使這樣的形式,也不是特別複雜。)しかし、それぞれ違うように見える句構造規則にも、共通の性質が見いだせるのだとしたら、そうではない場合よりも望ましいことは確かです。(但如果即使那些看起來各不相同的短語結構規則中,也能找到共同特性的話,那無疑比找不到的情況更令人滿意。)そこで「動詞句→動詞+名詞句」と「前置詞句→前置詞+名詞句」の二つを見てみると、句の中心はそれぞれ動詞と前置詞なのですから、句の中心となる単語が前に置かれて、補足的な語句が後ろに置かれています。(因此看「動詞句→動詞+名詞句」和「前置詞句→前置詞+名詞句」這兩個,既然短語的中心分別是動詞和前置詞,那麼作為短語中心的詞被放在前面,補充性詞語被放在後面。) 句の中心となる単語を「主要部」、補足的な語句を「補部」と呼ぶことにすると、これら二つの句構造規則については、「主要部+補部」という順番になっていることになります。(如果把作為短語中心的詞稱為「主要部」,把補充性詞語稱為「補部」,那麼這兩個短語結構規則就按「主要部+補部」的順序排列了。)ところが、「名詞句→限定詞+名詞」については、この句の主要部は明らかに名詞ですから、主要部と補部の順番が逆です。(但對於「名詞句→限定詞+名詞」,這個短語的主要部明確地是名詞,所以主要部和補部的順序相反。) これでは句構造規則の一般化などできそうにありませんが、ここで持ち出されるのが、次のような表現です。(這樣看來似乎無法一般化短語結構規則,但在這裡提出的是以下這樣的表述。) (74) a. destruction of the city (其町の破壊)(那個城鎮的破壞) b. criticism of the theory (其理論の批判)(那個理論的批判) (74)にあげた語句も立派な名詞句ですが、この名詞句は、「名詞+前置詞句」という構造になっていますから、名詞句については、次のような句構造規則もあることになります。((74)所列舉的詞語也是正式的名詞句,但這個名詞句採取「名詞+前置詞句」的結構,所以對於名詞句來說,也就存在著以下這樣的短語結構規則。)
名詞句→名詞+前置詞句 (名詞短語→名詞+前置詞短語) これを見ると、名詞句も「主要部+補部」という構造になっているように見えます。(這樣看來,名詞短語也似乎呈現出「主要部+補部」這樣的結構。)それに、形容詞の後に前置詞句が来るこのような表現についても、「形容詞句→形容詞+前置詞句」という規則で表すことができます。(而且,對於形容詞後面跟著前置詞短語這樣的表達方式,也可以用「形容詞短語→形容詞+前置詞短語」這樣的規則來表示。) (75) a. afraid of ghosts (幽霊を怖がっている)(害怕鬼魂) b. interested in art (芸術に興味がある)(對藝術感興趣) だとすると、形容詞句についても、「主要部+補部」という他の句と共通の構造があると考えることができそうです。(那樣的話,對於形容詞短語,似乎也可以認為它具有「主要部+補部」這樣與其他短語相同的結構。) 動詞句、名詞句、形容詞句、前置詞句のどれもが、「主要部+補部」という構造をもっているのだから、任意の句は次のような規則に従って、主要部と補部に展開されることになります。(既然動詞短語、名詞短語、形容詞短語、前置詞短語都具有「主要部+補部」這樣的結構,那麼任意短語就會按照下述這樣的規則展開為主要部和補部。)
句→主要部+補部 (句→主要部+補部) しかし、これで英語の句構造規則が一般化できたかと言うと、そうでもありません。(但是,如果這樣就能概括英語的短語結構規則的話,也並非如此。)この「名詞句→限定詞+名詞」という規則が残っています。(這個「名詞短語→限定詞+名詞」的規則仍然存在。)この構造の名詞句では、名詞の前に、名詞の性質を限定する単語が置かれているのですが、名詞がこの句の主要部であることに変わりはありません。(在這種結構的名詞短語中,在名詞之前放置限定該名詞性質的詞語,但名詞作為該短語主要部分的事實不變。) そこで考え出されたのが、名詞を主要部とする句は、二重に展開されるのだというものです。(於是人們想到的是,以名詞為主要部分的短語會進行二重展開。)つまり、最初に大きな名詞句が「限定詞+名詞句」に分かれて、次に小さな名詞句が「名詞+前置詞句」に分かれるというしくみです。(也就是說,先是較大的名詞短語分解為「限定詞+名詞短語」,然後較小的名詞短語分解為「名詞+前置詞短語」的機制。) この展開を規則の形で表したいのですが、「大きな名詞句」とか「小さな名詞句」では長すぎるので、「名詞"」「名詞'」という記法が考案されました。(想用規則的形式表示這種展開,但「較大的名詞短語」和「較小的名詞短語」太冗長了,所以設計了「名詞"」「名詞'」的記號法。)この記法を採用すると、名詞を主要部とする句がもつことのできる構造は、次のようになります(図 79)。(採用這種記號法時,以名詞為主要部分的短語可以具有的結構如下(圖79)。) [図 79]
名詞 / 前置詞句
大きな名詞(句)が二回展開されるようなしくみが他の種類の句にもないかと見てみると、動詞句、形容詞句、前置詞句の前ならば、適当な副詞を付けることができます。(如果大名詞(片語)有兩次展開的機制,那麼看看其他類型的片語中是否也有這樣的機制,在動詞片語、形容詞片語、前置詞片語的前面,就可以附加適當的副詞。)
次のような例です。(以下是這樣的例子。)
(76) a. successfully passed the examination (試験にうまく通った)
b. very afraid of ghosts (幽霊をとても怖がっている)
c. just before Christmas (ちょうどクリスマスの前)
というわけで、動詞、形容詞、前置詞を中心とする句についても、動詞、形容詞、前置詞が二回展開すると考えることができそうです。(因此,對於以動詞、形容詞、前置詞為中心的片語,也可以認為動詞、形容詞、前置詞會進行兩次展開。)
そこで、限定詞や副詞のことを、全体として「指定部」(英語では Specifier ですから、内容を特殊化する単語というような意味合いです)と呼ぶことにすると、このような語句は一般的に次のような構造をもつと考えることができます(図 81)。(因此,將限定詞和副詞整體稱為「指定部」(英文是 Specifier,意思大約是特殊化內容的單詞),這樣的語句通常可以認為具有如下所示的結構(圖 81)。)名詞、動詞、形容詞、前置詞を総称して「X」と呼ぶことにします。「範疇」も同様です。(名詞、動詞、形容詞、前置詞統稱為「X」。「範疇」也是一樣的。)
[図 81]
範疇
つまり、一般的には、最小の範疇がまず主要部と補部をもつ中間の範疇(範疇')に拡大し(これを「投射される」と言います)、次に中間の範疇が指定部を備えた最大の範疇(範疇")に投射されるというしくみを、コトバは一般的にもっているのだということになるわけです。(也就是說,一般來說,最小的範疇首先擴大成具有主要部和補部的中間範疇(範疇')(我們稱之為「被投射」),然後中間範疇再被投射成具有指定部的最大範疇(範疇"),語言一般都具有這樣的機制。)これが、Xバー理論の一番重要なポイントです。(這是X條理論最重要的一點。)
こうしてめでたく、句構造規則の一般化ができたように見えますが、果たしてそうなのでしょうか。(這樣就圓滿地,句子結構規則的一般化似乎實現了,但是真的如此嗎?)実は、問題がないわけではありません。(實際上,並非沒有問題。)従来の名詞句、動詞句、形容詞句については、指定部や補部がなくても、主要部の名詞、動詞、形容詞一個だけでも、句(=範疇)を構成することができます。(關於傳統的名詞短語、動詞短語、形容詞短語,即使沒有限定詞或補語,僅用核心部分的名詞、動詞、形容詞一個,就能構成短語(=範疇)。)
(77) a. destruction, criticism
ところが、前置詞(前置詞句)については、主要部であるはずの前置詞だけでは、どうやってもこの句を成り立たせることはできません。(但是,對於介詞(介詞短語)而言,僅有作為主要部分的介詞,無論如何都無法構成這個短語。)構造としては、次のように、他の句と同じように見えますが、実際には性質が違うのです(図83)。(在結構上,看起來似乎與其他短語相同,但實際上其性質是不同的(圖83)。)
[図83]
実のところそれは当然なのでして、前置詞というのは、あくまでも名詞の意味役割(θ役割)を表すための単語なのであって、名詞なしで前置詞を使うことはできないのです。(實際上那是理所當然的事,前置詞正是用來表達名詞的意義角色(θ角色)的詞,沒有名詞就無法使用前置詞。)だとすると、「前置詞句」と呼ばれてきている語句の主要部は、実際には名詞だと考えるべきだということになります。(那樣的話,被稱為「前置詞句」的這些短語的中心應該被認為實際上是名詞。)
主語と目的語(そして時に間接目的語)は構造によって表されますが、それ以外の役割は前置詞で表すというのが英語の決まりです。(主語和賓語(有時還有間接賓語)由結構來表示,而其他角色則由前置詞表示,這是英語的規則。)ですから、前置詞があろうがなかろうが、名詞を含む句は、名詞を主要部とするのだと考えて、句の一般的性質を明らかにしていく必要があります。(因此,無論有沒有前置詞,含有名詞的短語都應該被認為是以名詞為中心的,我們需要這樣來闡明短語的一般特性。)ところが、Xバー理論はそれを無視することによって、句構造規則の一般化を目指したのであり、その結果こういう問題が生じてしまったのです。(然而,X-bar理論卻通過忽視這一點而試圖實現短語結構規則的一般化,其結果導致了這樣的問題出現。)
さらに、「文→名詞句+動詞句」という句構造規則を、Xバー理論に当てはめようとしても、問題は出てきます。(而且,即使試圖將「句→名詞句+動詞句」這樣的短語結構規則應用於X-bar理論,問題還是會出現。)先に見たように、任意の文は、それが主文であっても、最初に「補文標識」が置かれるとされますから、文に関する句構造規則は、次のような形になります。(如前所述,任何句子,即使是主句,據說一開始都會放置「補句標記」,因此關於句子的短語結構規則將採取以下形式。)
文→補文標識+文
文→名詞句+動詞句 「補文標識」を指定部の要素だと考えれば、文'の展開(投射)については、一応Xバー理論の仮定に合います。(如果把「補文標識」看作指定部的要素,那麼關於句子的展開(投射),暫且符合X棒理論的假設。)しかし、文の展開の方は、名詞句を主要部とするわけにはいきませんから、困ってしまうわけです。(但是,句子的展開方面,不能以名詞句作為中心詞,所以陷入了困境。) 普通ならば、やはり句構造規則を完全に一般化するのは無理だったのだと、Xバー理論の方をあきらめるか、何らかの形で大幅な修正を加えようとするものです。(通常的話,應該會放棄X棒理論,或者以某種形式進行大幅修正,因為完全一般化短語結構規則是不可能的。)ところが生成文法は、Xバー理論はあくまでも正しいのであるという立場を貫きます。(但是,生成文法堅持X棒理論始終是正確的這一立場。) そのためにどうしたのかと言うと、「動詞句→助動詞+動詞+名詞句」という句構造規則で使われた「助動詞」をさらに一般化した「一致要素」という範疇を、文の主要部だとしたのです。(要說是怎麼做的,就是把在「動詞句→助動詞+動詞+名詞句」這個短語結構規則中使用的「助動詞」進一步一般化為「一致要素」這一範疇,並將其作為句子的中心詞。)「一致要素」というのは、助動詞だけでなく、過去形を作る接辞-edや、さらには単数・複数の区別、人称の区別など、非常に広い範囲の特性を含む、あまり正体のはっきりしない要素です。(「一致要素」不僅包括助動詞,還包括製造過去式的詞綴-ed,以及單複數的區分、人稱的區分等,涵蓋範圍非常廣,是一個身份不太明確的要素。)動詞が表すことができるさまざまの働きを一括したものだと考えてよいだろうと思います。(我認為可以把它看作是動詞所能表達的各種功能的總合。) この一致要素が展開して作られるのが文なのだとすると、今まで文だと言われてきた範疇の構造は、次のような形で表されることになります(図 85)。(如果句子是由這個一致要素展開而形成的,那麼到目前為止被稱為句子的範疇的結構,就會用以下的形式來表示(圖85)。) [図 85]
一致「
ただし、一致「というのは、図では「文」に当たるものです。(不過,「一致」在圖表中對應於「句子」。)補文標識まで含むようにするためには、さらに補文標識を主要部とする投射を行わなければなりません。(為了包括補文標識,必須進一步執行以補文標識為主要部的投射。)次のようになります(図 86)。(結果如下(圖 86)。)
[図 86]
補文「
補文標識 / 一致」
いずれにしても、「文」という範疇をなくしてしまって、一致要素を主要部とする句を作り出すことで、Xバー理論は維持されています。(無論如何,通過去除「句子」這一範疇,創造出以一致要素為主要部分的短語,X棒理論得以維持。)
しかし、前置詞句の場合と同様に、一致要素だけで文が成り立つなどということは、全くありません。(但是,就像前置詞短語的情況一樣,僅靠一致要素就能成立句子這樣的事根本不存在。)一致要素はそもそも一つの単語としてすら現れないこともあるのですから、それだけで文として機能するなど、とても考えられないことです。(因為一致要素本身有時甚至不作為一個單詞出現,所以僅靠它來發揮句子的功能是完全無法想像的。)だとすると、やはり「一致」という句も、名詞句や動詞句などとは全く違う性質をもったものだと考える以外にはないのです。(那麼,「一致」這個短語也應該被認為具有與名詞短語和動詞短語等完全不同的性質。)
そもそも、「主要部」と「補部」、それに「指定部」という範疇が、範疇全体のしくみの中でどんな特性を一般的にもつものなのかという、これらの要素の定義を厳密にしないままに、従来の句構造規則を、無り矢理にXバー理論を使って一般化しようとするからこそ、このような理解し難い範疇の設定に至ってしまうのです。(首先,在沒有嚴格定義「主要部」、「補部」及「指定部」這些範疇在整體範疇體系中通常具有什麼特性的情況下,試圖用X棒理論生硬地將傳統的短語結構規則一般化,正因為這樣,才會導出這樣難以理解的範疇設定。)
Xバー理論が、構造の生成方法を一般的に説明するように見える、普遍文法の要素としては大変魅力的な考え方であることは確かです。(確實,X棒理論作為普遍文法的一個要素,看起來能夠一般性地說明結構的生成方式,是一種非常有吸引力的想法。)しかし、一般化を求めるあまりに、理論にとって不都合なデータがあるのに、理論を修正せずにデータの方を、合理的な根拠もなしに変更してしまうという、科学的、論理的な分析法とは相容れない手段に訴えるのでは、誰をも納得させる説明を提供する理論として認めることは、できないのではないかと思えます。(但是,過度追求一般化,當面對對理論不利的數據時,不是修正理論,而是沒有合理根據地隨意改變數據,訴諸於與科學、邏輯分析方法相悖的手段,這樣的話,作為一種能提供令人信服解釋的理論,我認為是無法被接受的。)
b. *Nancy saw. ここらあたりは、別にθ理論だの投射原理だのと、大層な道具立てを用意しなくても、「他動詞には目的語が必要だ」という従来からの基準を持ち出せばいいだけのような気がします。(這一帶似乎不需要特意準備什麼θ理論或投射原理這樣的龐大工具,只需拿出傳統的「及物動詞需要賓語」這一基準就夠了。)原理とパラメータの理論では、これだけではなくて、名詞の移動についての説明をするのに、θ基準と投射原理が援用されます。(但在原理與參數理論中,不僅如此,為了說明名詞的移動,還利用了θ準則和投射原理。)つまり、もし名詞がある位置から別の位置に移動するとすれば、その移動は、θ役割を与えられる位置(「θ位置」と呼びます)から、θ役割を与えられない位置(「θバー位置」と呼びます)へのものでなければならない、というものです。(也就是說,如果名詞從某一位置移動到另一位置,那麼這種移動必須是從被賦予θ角色的位置(我們稱之為「θ位置」)移動到不被賦予θ角色的位置(我們稱之為「θ非位置」)。)ある構造である名詞が何らかのθ役割を与えられたとすると、その名詞は以後そのθ役割を保持するとされます。(如果某一結構中的某個名詞被賦予了某種θ角色,那麼該名詞之後就一直保持這個θ角色。)そうすると、もしその名詞が別の場所に移動して、その位置で別のθ役割を与えられてしまったら、その名詞は二つのθ役割をもつことになり、これはθ基準に違反します。(但如果那個名詞移動到另一個地方,在那個位置又被賦予了另一個θ角色,那麼該名詞就會具有兩個θ角色,這違反了θ準則。)だから、名詞が移動するのは、θ役割を与えられない位置でなければならない、というわけです。(因此,名詞的移動必須是從不被賦予θ角色的位置進行。)これだけだと、名詞のθ役割は確かに一つしかありえないのだから、θ位置からθバー位置へしか移動できないという制約は、なるほど理屈に合っているなという感じはします。(就這點而言,既然名詞的θ角色確實只能有一個,那麼只能從θ位置移動到θ非位置的這一限制看起來確實是合理的。)しかし、説明のためにあげられる具体例を見ると、必ずしも納得できるわけではありません。(但是,看一下為說明這一點而舉出的具體例子,卻並不總是能令人信服。)次の二つのD構造の例を見てください。(請看下面兩個D結構的例子。) (79) e seems [John to be innocent] (80) e was drawn the picture by Tom (79)は、「ジョンは無実であるように見える」という意味を表し、(80)は「その絵はトムによって描かれた」という意味を表すことは、大体お分かりになると思います。((79)表示「約翰看起來是無辜的」,(80)表示「那幅畫是由湯姆畫的」,我想大家基本上都能理解。) このD構造から、(79)では不定詞の主語 John が文頭の空所 (e) の位置に移動し、(80)では was drawn の直後にある the picture がやはり空所の位置に移動することで、次のS構造が得られます。(從這個D結構出發,在(79)中不定式的主語John移動到句首的空位(e),在(80)中was drawn後面的the picture也移動到空位,由此得到以下的S結構。) (81) John seems to be innocent. (82) The picture was drawn by Tom. 標準理論の後半以降、変形規則としては「移動」だけしか認められないようになっており、原理とパラメータ理論でもそれは受け継がれていました。(標準理論後期以來,作為變形規則,就只允許「移動」這一種,原理與參數理論也繼承了這一做法。)変形規則の数を無闇に増やしてはいけないという理論としての要請もありましたし、何より、普遍文法の中身に構造を変形させる規則を入るためには、あまりに変形規則が特殊化することは避けなければならなかったのです。(這既是出於理論上的要求,即不應無限制地增加變形規則的數量,更重要的是,為了在普遍文法中引入變形結構的規則,必須避免變形規則過度特殊化。) 標準理論の時代であれば、「受動変形」が深層構造(D構造)に適用されることで、名詞句が文頭に移動するのだと説明すればよかったのですが、受動変形が廃止された原理とパラメータ理論では、移動を促す何らかのしくみを考え出さなければなりません。(在標準理論時代,可以通過說「被動變形」應用於深層結構(D結構),從而使名詞短語移動到句首來解釋。但在廢除了被動變形的原理與參數理論中,必須想出某種促進移動的機制。) それではどのようになったのかというと、まず seem や受動態の文については、(79)や(80)のような、普通とはかなり違うD構造を設定しました。(那麼是怎麼解決的呢?首先,對於seem和被動態句子,設定了像(79)和(80)這樣與常規相當不同的D結構。)何と言っても、本来ならば主語の名詞句があるべき、「一致要素句」(要するに「文」)の指定部の位置に何も単語がないのですから、まことに不思議な構造としか言いようがありません。(說起來,在本應有主語名詞短語的「協一要素短語」(也就是「句子」)的指定部位置上什麼詞都沒有,實在是難以理解的結構。) こんなD構造になるのは、seem や受動形の動詞の「語彙特性」、つまり意味的な性質にあるのだと説明されます。(解釋說,出現這種D結構是因為seem和被動形動詞的「詞彙特性」,也就是語義特性。)seem も受動形の動詞も、語彙特性として、D構造は主語の位置が空所になるのだとされるのです。(seem和被動形動詞據說作為詞彙特性,其D結構中主語的位置是空位。) seem は「~のように見える」、受動形は「~される」という意味なのですが、このような意味を表す動詞が、どうして普通に名詞句の主語をもったD構造を作らないのか、ということについての納得のいく合理的な説明はなされません。(seem是「看起來……」,被動形是「被……」的意思,但對於為什麼表達這樣意思的動詞不能像一般動詞那樣建立具有名詞短語主語的D結構,卻沒有給出令人信服的合理解釋。)
そもそも、ある動詞がどのような意味を表していれば、その動詞を使って作られる文に含まれる名詞がどのようなθ役割をもち、そして、そのようにして指定されたθ役割に応じて、どんな構造が作られなければならないかということについての、厳密な規則が生成文法で規定されたことは全くありません。(說到底,如果一個動詞表達的意思是某種含義,那麼用這個動詞構成的句子中包含的名詞應該具有什麼樣的θ角色,以及根據這樣指定的θ角色應該構建什麼樣的結構,這類嚴格的規則在生成語法中完全沒有被規定過。)結局のところ、動詞が表す意味が分かっていれば、それが要求するθ役割も当然知っているはずだし、動詞が要求する構造も、それに応じて分かるはずだ、ということのようです。こんないい加減な規定の仕方でいいのなら、先ほどのXバー理論の場合と同じように、すでに枠組みを決めた理論の要請に合うように、θ役割だろうがD構造だろうが、適当に決めることができそうです。(結果看起來是,只要知道動詞表達的意思,就應當自然知道它要求的θ角色,以及動詞要求的結構也應該相應地知道。如果這種不嚴謹的規定方式可以接受的話,就像之前X條形理論的情況一樣,可以按照已經決定框架的理論要求,隨意確定θ角色或D結構。)大もとの規定が不明確なのですから、主張されるθ役割や構造が正しいのかそれとも不適切なのかを判断するために拠って立つ、客観的な基準などどこにもないからです。(因為基本的規定本身就不明確,所以沒有客觀的標準來判斷所主張的θ角色或結構是否正確或不適當。)多分(79)のようなD構造が設定されたのは、次のような文が実際に使われるからでしょう。(大概像(79)這樣的D結構之所以被設定,是因為實際上使用著下面這樣的句子。)(83) It seems that John is innocent.((83) 看起來約翰是無辜的。)(81)と(83)が表す意味は、同じだと考えて差支えありません。(可以認為(81)和(83)所表達的意思是相同的。)同じ seem という動詞を使っていて、不定詞と名詞節という、どちらも文としての働きをすることができる語句が使われているのですから、動詞の語彙特性が構造に反映されるはずだという「投射原理」を正しいものとして受け入れる限り、どちらの文についてもD構造は似たような形にしておきたいところです。(因為使用的是同一個seem動詞,而且使用的是不定詞和名詞分句,都可以起句子的作用,如果接受「投射原理」(即動詞的詞彙特性應該反映在結構中)是正確的,那麼對於這兩種句子,我們都希望D結構採取相似的形式。)ところが、seem については、どういうわけか不定詞や that 節を主語にした、次のような文は使われません。(但是,對於seem,不知怎樣,下面這樣以不定詞或that分句為主語的句子就不被使用。)(84) a. *For John to be innocent seems.((84) a. *約翰無辜似乎是。)b. *That John is innocent seems.(b. *約翰無辜的事實似乎是。)となると、seem を使う文のD構造としては、(79)のようなものを想定せざるをえないということなわけです。(這樣的話,對於使用seem的句子的D結構,就不得不假設像(79)那樣的結構。)「~に見える」という意味の動詞は、日本語でも「見ゆ」という古い受身の動詞の痕跡が見られますし、ラテン語では、次の例のように、普通に受動形の動詞が使われます。(表示「~看起來」意思的動詞,在日語中也能看到古老被動動詞「見ゆ」的痕跡,而在拉丁語中,如下面的例子一樣,通常使用被動形的動詞。)(85) Johannes innocens videtur.((85) 約翰看起來是無辜的。)videtur は、「見る」という意味の動詞 videre の受動態です。(videtur是「看」這個意思的動詞videre的被動態。)ですから、seem という動詞が特殊な構造を要求して、それがこのような受動態の動詞が作る構造と似たようなものになるとしても、非常に不自然だというわけでもありません。(因此,即使seem這個動詞要求特殊的結構,而且這變得與這種被動動詞構成的結構相似,也不能說它非常不自然。)しかし、seem (~に見える)という意味の動詞であれば、必ず(79)のように不定詞(もしくは名詞節)が動詞に後続するようなD構造を作らなければならない、というような形の、動詞の意味と構造の関係についての規則がきちんと提示されているわけではありません。(但是,關於「如果一個動詞的意思是seem(~看起來),那麼它就必須構成像(79)那樣的D結構,其中不定詞(或名詞分句)後續於動詞」這樣形式的動詞意思與結構的關係規則,並沒有被清楚地提出。)実際に使われる他の文のデータなどをもとにして、都合のいいようにD構造が設定されたに過ぎません。(D結構只是基於實際使用的其他句子的數據,按照便利的方式被設定的。)「投射原理」は、まさに単語が表す意味と文の構造の間に密接な関連性があるという、恐らくコトバにとっては普遍的な真理に属する性質を明言したものです。(「投射原理」正是明確表述了單詞所表達的意思與句子結構之間存在著密切關聯性這一性質,這大概屬於言語本身的普遍真理。)この原理は、チョムスキーが生成文法理論を考案した当初の意図には、多分反するものだったと思うのですが、やはり意味と構造に関係があるというコトバの本質は、生成文法理論にも組み入れざるをえなかったということなのです。(這個原理與喬姆斯基最初構思生成語法理論的意圖可能相反,但畢竟意思與結構之間存在著關係這一言語的本質,還是不得不被納入生成語法理論之中。)このように、生成文法がコトバの本質を反映するためには、投射原理の導入はまことに望ましいものであったのです。(這樣看來,為了讓生成語法反映言語的本質,投射原理的引入實是令人滿意的。)にもかかわらず、意味と構造の関係についての明確な規則を解明することをせずに、何となく直観的に動詞が要求する構造を決めてしまったのは、生成文法をコトバの真実に迫る言語理論にするチャンスを逃す結果になったのではないかと、残念な気がします。(儘管如此,沒有去解明意思與結構關係的明確規則,而是有點隨意地憑直覺決定動詞要求的結構,這似乎導致喪失了使生成語法成為逼近言語真實的語言理論的機會,令人遺憾。)
受動文のD構造についても同じです。(關於被動文的D結構也是一樣的。)受動文は「Xが~される」という意味を表すのですが、この意味を反映する構造として、どうして(80)のように、受動文の主語になるはずの名詞句が was drawn という受動態の動詞の直後に位置するような形が作られるのか、どうもよく分かりません。(被動文表示「X被~」的意思,但作為反映這個意思的結構,為什麼像(80)那樣,應該成為被動文主語的名詞片語位於was drawn這個被動態動詞的直後呢,我實在想不太明白。)受動態であっても、もともとは他動詞であって、その目的語が the picture なのだから、この名詞句もD構造ではやはり他動詞の目的語の位置にあるのだということなのかもしれません。(即使是被動態,本來也是他動詞,其賓語是the picture,所以這個名詞片語在D結構中也許確實位於他動詞賓語的位置。)しかし、大きな理由としては、次のような文が、受動形の動詞を用いて作られる構造として可能だというものがあります。(但是,有一個重大的原因,就是像下面這樣的句子,被認為是可以用被動形動詞構成的結構。) (86) a. There were drawn pictures on the wall. (牆上被畫了一些畫。) b. There is expected a meeting next week. (預期下週會舉行會議。) つまり、S構造で文頭に there があって、受動態の動詞形の直後に主語が置かれている構造が可能なので、これをうまく説明できるようにするために、D構造でも同じような構造を仮定しておこうというわけです。(也就是說,在S結構中,句首有there,被動態動詞形直後是主語的結構是可能的,所以為了能夠好好解釋這一點,在D結構中也要假設同樣的結構。) (80)のようなS構造が作られる理由を本当に論理的に説明するためには、この構造とは全く無関係に、受動態の意味だけをもとにして作られるD構造を仮定しておかなければなりません。(為了真正從邏輯上解釋像(80)這樣的S結構之所以被構造的原因,必須假設一個與這種結構完全無關的、只基於被動態意思的D結構。)そしてその構造に、これも(80)のような構造が生成されることとは無関係の規則群を適用した結果、全く同じ構造が出力されたのだとしたら、それで本当に説明が達成されたことになります。(然後對該結構應用也與生成像(80)這樣的結構無關的一組規則,作為結果,完全相同的結構被輸出,那樣的話就真正實現了解釋。)ところが、最初から作られるS構造が決まっていて、この構造がうまくできあがるようにD構造を設定するだけなのだったら、投射原理などあろうがなかろうがあまり関係ありません。(但是,如果一開始產生的S結構已經確定,只是設定D結構使這個結構能夠順利形成的話,那投影原理有沒有都沒有太大關係。) 実際に観察される文に近いS構造がうまく導き出されることは必要ですから、この構造を念頭に置いてD構造からの生成過程を考えるということは、構造の説明としては当然のことだろうと思います。(因為實際觀察到的文句接近的S結構能夠順利推導出來是必要的,所以將這個結構放在心上,從D結構思考生成過程,作為結構的解釋應該是當然的。)しかし、D構造の設定が、単語がもっている「語彙特性」、つまり意味的な特徴に基づいているのだと言われながら、実は語彙特性と構造の関係がほとんど示されないのだとすると、結局はS構造がうまく生成されるようにD構造を決めただけではないかという印象を与えることになりかねません。(但是,雖然說D結構的設定是基於單詞所具有的「詞彙特性」,也就是語義特徵,但實際上幾乎沒有顯示詞彙特性和結構的關係,那樣的話,結果不就等於只是為了使S結構能夠順利生成而決定D結構嗎,這樣難免會給人這樣的印象。) しかも、(83)や(86)のように、it や there という独自の意味をもたない、「虚辞」などと呼ばれる単語が文の先頭、つまりD構造にあった空所 (e) の位置に現れることができるように、この空所の位置はθ役割を与えられない位置(θバー位置)だとされます。(而且,像(83)和(86)那樣,it和there這樣沒有獨立意思、被稱為「虛詞」等的單詞能夠出現在句首,也就是D結構中原有的空位(e)的位置,所以這個空位位置被認為是不能被賦予θ角色的位置(θ-吧位置)。)これについても、納得のできる理由はありません。(對於這一點,也沒有能令人信服的理由。)要するに、it や there が現れることのできる位置だからθバー位置だとされているだけのことで、seem や受動形が表す意味から、文頭の位置はθバー位置でなければならないという説明がされているわけではありません。(說白了,就是因為it和there能夠出現的位置就被認為是θ-吧位置,並沒有從seem和被動形所表示的意思來說明句首位置必須是θ-吧位置的解釋。) ところが、(79)や(80)のように、普通の名詞である John や the picture がD構造からこの空所に移動できるのだとすると、これらはちゃんとしたモノを表す名詞なのですから、文頭の空所の位置がθバー位置だというのとは矛盾するように思えます。(但是,像(79)和(80)那樣,普通名詞John和the picture能夠從D結構移動到這個空位的話,因為這些都是表示確實的東西的名詞,所以好像與句首空位位置是θ-吧位置這一說法相矛盾。)しかし、今度もやはりそれなりの理由が準備されています。(但是,這次也準備了相應的理由。)まず、John については、to be innocent の「主語」だと言われるものの、不定詞は普通の動詞形と違って時制や数で語形の変化がないので、この主語には「格」が与えられないのだとされます。(首先,關於John,雖然說是to be innocent的「主語」,但不定詞與普通動詞形不同,在時態和數上沒有詞形變化,所以據說這個主語不能被賦予「格」。)格が与えられなければ、θ役割も与えられないような気がしますが、そうではなくて不定詞でもθ役割は与えることができるとされます。(如果不被賦予格,好像也不會被賦予θ角色,但實際上即使是不定詞也被認為可以賦予θ角色。) しかし、格が与えられないままだと、どんな名詞でも格が与えられなければならないという原理である「格フィルター」に違反するので、このままでは文として不適格になります。(但是,如果格一直不被賦予,就會違反「格過濾器」這一原理,即任何名詞都必須被賦予格,這樣的話句子就成為不合適的。)だから、主格が与えられる位置である文頭の空所に John が移動するのだと説明されるわけです。(所以據說John移動到被賦予主格的位置,即句首的空位。)空所はθバー位置なので、John は不深層構造の廃止 ―ミニマリスト・プログラム―
「原理とパラメータの理論」(「原理與參數的理論」)は、人間が生得的にもっている言語を獲得する能力としての「普遍文法」を解明することを研究の最も重要な課題としていました。(它以解明作為人類與生俱來的語言獲得能力的「普遍文法」作為研究最重要的課題。)コトバがもっているいくつかの一般的原理と、その具体的な実現の選択肢としてのパラメータが普遍文法の中身であり、具体的な言語の刺激を受けることにより、「パラメータのスイッチが入って」、つまり選択肢としてのパラメータの値が決定されて、個別言語が獲得されるのだというのが、この段階で生成文法がたどり着いた結論でした。(語言具有的若干一般原理,以及作為其具體實現選擇的參數構成了普遍文法的內容,通過接受具體語言的刺激,「參數開關啟動」,即參數值被決定,個別語言就被習得了,這是生成文法在這一階段所達到的結論。) 原理とパラメータ理論で提唱された一般原理は、簡潔であればあるほど、短期間で言語を獲得することができる人間が生得的にもっている、普遍文法の中身としてふさわしいのだとチョムスキーは考えました。(喬姆斯基認為,在原理與參數理論中提出的一般原理越簡潔,就越適合作為人類與生俱來擁有的、能在短期間內習得語言的普遍文法的內容。)もちろん、文の構造が決定されるメカニズムを説明するための理論という観点からも、それを構成する原理群ができるだけ簡潔であることは、科学的であろうとする生成文法にとって望ましいことです。(當然,從解釋文法結構形成的機制的理論角度來看,構成該理論的原理越簡潔,對力求科學化的生成文法來說就越理想。) こういう方針で、原理とパラメータ理論をさらに推し進めた結果、現在の生成文法が到達しているのが「ミニマリスト(最小主義)・プログラム」という理論です。(按照這樣的方針,通過進一步推進原理與參數理論,現在的生成文法達到的理論就是「最小主義·方案」。)「ミニマリスト」「最小主義」という名称は、文を作り出し、文が理解されるシステムとして、できるだけ効率的なしくみになるようにコトバはできあがっているはずだという、チョムスキーの理念を反映したものだと考えてください。(請把「最小主義」這個名稱理解為反映了喬姆斯基的理念,即語言作為產生和理解句子的系統,應該具有盡可能高效的機制。) 効率性を求める精神の現れとして、標準理論の段階で意味を導かないとされてから、存在の基盤がすでに危くなっていた深層構造(D構造)の廃止があります。(作為追求效率性精神的表現,出現了對深層結構(D結構)的廢除,該結構從標準理論階段起被認為不能推導意義後,其存在基礎就已經動搖了。)D構造は、句構造規則、のちにはXバー理論に従って作られるということなのですが、構造だけが勝手に作られて、その後で単語が組み入れられるという作り方では、人間の脳がいくら優れていても、ある特定の単語を使うD構造の生成をほとんど一瞬にして行うことは不可能です。(D結構是根據短語結構規則,後來根據X-bar理論構建的,但如果只是獨立地構建結構,然後再將單詞組裝進去,那麼即使人類的大腦再優秀,也幾乎不可能在瞬間生成某個特定單詞的D結構。) このことから、文で使われる単語、特に動詞がもっている「語彙特性」を反映するような形でD構造が決定され、この構造はS構造や論理形式でも維持されるという「投射原理」が提案されたわけです。(因此,提出了「投射原理」,即D結構按照反映文中使用的單詞、特別是動詞所具有的「詞彙特性」的方式而被決定,並且該結構在S結構和邏輯形式中也被保持。)動詞がどんな構造を要求するのかを知っていれば、その要求に基づいて、Xバー理論の規定から外れないようにD構造が生成されるのですから、簡単に特定の構造を作り出すことができます。(如果知道動詞要求什麼樣的結構,根據那個要求,D結構就可以在符合X-bar理論規定的前提下生成,就能容易地創建特定的結構。) ただ、こうして作られるD構造が、動詞の語彙特性に基づくと言われても、その語彙特性というのは、結局のところ動詞が表す意味と、その意味に基づいて要求される構造にほかなりません。(不過,即使說這樣構建的D結構是基於動詞的詞彙特性,但那個詞彙特性說到底不過是動詞所表達的意義,以及根據那個意義所要求的結構罷了。)簡単に言えば、例えば「こわす」という動詞は、誰かがモノを破壊するという動作を表すのだから、主語と目的語は必要だし、時には道具もいるだろう、などという意味的な情報に従って、この動詞を使った文の構造が決められるということです。(簡單地說,比如「毀壞」這個動詞表示某人破壞東西這一動作,所以需要主語和賓語,有時還需要工具等,句子的結構就是按照這樣的語義信息來決定的。) ですから、D構造が作られた段階で、本当あ文を作るためには、まず単語を選ばなければならず、選んだ単語を並べることで文が完成するのですから、「数え上げ」と「併合」は、確かに文が作られるしくみを、以前よりは簡潔に表しているように見えます。(為了製作某個句子,首先必須選擇單詞,透過排列選好的單詞來完成句子,因此「計數」和「併合」確實以比以前更簡潔的方式表現了句子的形成機制。)この構造を作っている単語は、それぞれの単語がもっている文法的な特徴(「素性」と呼ばれる)が正しく一致するようにするために、必要な場合には移動します。(構成這個結構的單詞在必要時會移動,以使各單詞所具有的語法特徵(被稱為「素性」)能正確地相互一致。)例えば、INFL(一致要素)は、その指定部に主語の名詞句を要求するという素性をもっており、このこの素性と一致するように、the girl が一致要素句の指定部に移動するとされます。(例如,INFL(一致要素)具有在其指定部要求主語名詞句的素性,據說「the girl」為了與這個素性相一致,會移動到一致要素句的指定部。)この結果、次のような構造になります。(因此,會形成如下所示的結構。)
この段階で「書き出し(Spell Out)」という操作が実行されます。(在這個階段,執行了稱為「書出(Spell Out)」的操作。)「書き出し」というのは、構造をいわば二つの側面に分割することです。(所謂「書出」是將結構分割為兩個側面。)一つの側面には音韻規則が適用されて、実際の発音である「音声表示」が導かれ、もう一つの側面では、さらに「潜在的な」単語の移動が行われて、最終的に論理形式(意味表示)にたどり着きます。(在其中一個側面,應用了音韻規則,導出了實際發音的「音聲表示」;在另一個側面,進一步進行「潛在」的單詞移動,最終到達邏輯形式(意義表示)。) こうして、D(深層)とS(表層)という二つの構造レベルは解消されることになりました。(這樣一來,被稱為D(深層)和S(表層)的兩個結構層級就被消除了。)とは言え、単語の「移動」という操作は、依然として残っています。(儘管如此,單詞「移動」的操作仍然保留著。)この移動は、「書き出し」以前の「顕在的な」移動と、書き出し以後の「潜在的な」移動に区別されるのですが、これは要するに、実際に使われる文に反映されるか、意味の解釈だけに関係するかという区別です。(這種移動區分為「書出」之前的「顯在」移動和書出之後的「潛在」移動,這實質上是區分是否反映在實際使用的句子中,還是只與意義的解釋有關。) ということは、「書き出し」に到達した段階が、以前のS(表層)構造に当たり、数え上げと併合の結果作り出される構造がD(深層)構造に当たるものだと言えます。(這意味著,達到「書出」的階段對應於以前的S(表層)結構,而通過計數和併合的結果產生的結構對應於D(深層)結構。)書き出し以降の「潜在的な」移動とされるものは、従来意味解釈規則と呼ばれていたけれども、明確に内容が示されていなかったものを、部分的に明らかにしたものと考えられそうです。(書出之後的所謂「潛在」移動,是傳統上稱為意義解釋規則的東西,儘管其內容並未明確說明,但現在似乎被部分地澄清了。) 結局のところ、音韻規則が適用され発音される前の段階としての表層構造と、選ばれた単語をある規則に従って並べて作られる構造としての深層構造の区別は、名前がなくなっただけで、その本質的な部分はミニマリスト・プログラムでも維持されているのです。(總之,在音韻規則應用發音之前的階段作為表層結構,以及通過按照某些規則排列選定單詞而構造的深層結構之間的區別,只是名稱消失了,但其本質部分在最簡方案中仍然保持著。) しかも、単語の移動について、どの段階までが「顕在的」で、どの段階からが「潜在的」なのか、要するにどの構造に到達すれば「書き出し」が実行されるのかは、はっきりとした規則の形で提示されてはいません。(而且,關於單詞的移動,哪個階段是「顯在」,哪個階段是「潛在」,即要到達哪個結構才執行「書出」,並未以明確的規則形式呈現。)要するに、実際に使われる文に対応する構造ができあがれば、そこで書き出しが行われるとしているようにしか見えません。(也就是說,只要形成了與實際使用的句子相對應的結構,就在那裡執行書出,似乎就是這樣。) つまり、ある言語について、Aという性質をもつ移動は顕在的であり、Bという性質をもつ移動は潜在的であるという区別が、実際の文とは無関係に規定され、移動に関するその規定が予測する通り、顕在的な移動が終わった段階の構造が、本当に実際の文と同じになっている、というのであれば、書き出しという操作にも、理論の内部で積極的な価値をもつと考えることができます。(也就是說,對於某一語言,具有性質A的移動是顯在的,具有性質B的移動是潛在的,這樣的區別是獨立於實際句子而規定的,如果移動的這種規定所預測的那樣,顯在移動結束後的結構確實與實際句子相同,那麼書出這一操作也可以認為在理論內部具有積極的價值。)ところが、この段階の構造が実際に使われる文と同じだから、ここまでの移動を顕在的な移動とし、それ以降を潜在的な移動にしておこうとしただけでは、書き出しという操作は、事実を単にこの用語で言い換えただけで、移動の区別を説明するための手段とは決てなりません。(但是,僅僅因為這個階段的結構與實際使用的句子相同,而將到此為止的移動定為顯在移動,之後的定為潛在移動,書出這一操作就只是用這個術語重新表述了事實,絕不成為解釋移動區別的手段。) このように、D構造は廃止したと言いながら、実質的にはD構造とS構造の区別を残しているのがミニマリスト・プログラムなのです。(就這樣,最簡方案一方面聲稱廢止了D結構,但實質上仍然保留著D結構和S結構的區別。)そもそも、単語を選び出して併合するという過程にしても、選び出されたどの単語を組み合わせるのかについての基準も与えられていません。(首先,就選出單詞並進行併合的過程而言,也沒有給出關於如何組合選出的哪些單詞的標準。)単語が適当に組み合わされるわけはなく、結局のところは、表したい意味の情報を組み入れることで、目的とする単語の併合が行われるとしか考えられません。(單詞不會任意組合,歸根究底,只能認為是通過組入想要表達的意義信息,而進行目標單詞的併合。) つまり、書き出しの後の潜在的移動の結果論理形式が導かれ、ここで意味が表示されるのだと言いながらも、表される意味は最初から大体のところ分かっていなければならないのです。(也就是說,雖然說在書出後的潛在移動的結果中導出邏輯形式,在這裡表示意義,但所表示的意義必須從最初就大體上被理解。)ここでも、最終的な結果が前提に組み込まれた説明が行われているのです。(這裡也是進行了最終結果被組入前提的解釋。) 人間が母語を獲得する過程を合理的に説明することを、最大の目標とするようになった生成文法研究の行き着たところが、ミニマリスト‧プログラムでした。(以合理解釋人類母語習得過程為最大目標的生成文法研究,最終到達的就是最簡方案。)普遍文法の中身が効率性を最大に実現するようなしくみになっているはずだという仮定は、それを検証するメカニズムが真に合理的なものであれば、科学としてまことに有望な内容をもつものです。(假定普遍文法的內容是一個實現效率最大化的機制,如果驗證它的機制真正是合理的,那麼作為科學,它將具有確實有希望的內容。)ところが、生成文法の提示する仮説の検証法は、論理的な批判に必ずしも耐えうるものではありません。(但是,生成文法所提出的假說的驗證方法,不一定能經得起邏輯批判。)言語学に科学的な論証法をもたらすかのように見えた生成文法は、現在のままでは科学的合理性から遠ざかっていくばかりです。(曾經看似為語言學帶來科學論證方法的生成文法,如果保持現狀,只會與科學合理性漸漸遠離。)チョムスキーが老齢に達した今、生成文法の行く末がどうなるのか、興味深いところです。(現在喬姆斯基已經進入老年,生成文法今後的發展將會如何,這是令人感興趣的地方。)