だい4よんしょう へんぶんぽうついきゅうする

せいせいぶんぽうしゅもくてき

こうぞうそくしんそうこうぞうひょうそうこうぞうへんけいそくと、えいぶんについてかんさつされる、ぶんこうぞうあたえるじょうほうぶんあらわすはずのとをかんれんづけるための一れんどうてを、チョムスキーはととのえることができました。(短語結構規則、深層結構、表層結構、變形規則,以及在英語文句中觀察到的句子結構提供的信息與句子應表達的意義之間的關聯,一系列的工具組織方式,喬姆斯基能夠建立起來。)えいというげんは、しゅもくてきべつにはどうとのかんけいようしますし、もん使つかもんぶんでは、もんしゅだろうともくてきだろうと、必ずぶんとうきます。(英語這種語言在區別主語和賓語時利用與動詞的位置關係,並且在使用疑問詞的疑問句中,無論疑問詞是主語還是賓語,都必然放在句首。)また、もんぶんとそうではないぶん(へいじょぶん)のべつは、もんぶんしゅじょどうとうされるという、じゅんそうさくによっておこなわれます。(而且,疑問句與非疑問句(陳述句)的區別是通過疑問句中主語與助動詞倒裝的語序操作來進行的。)このように、えいじゅん、つまりぶんこうぞう、によってたんぶんかんわるじゅうようぶんぽうはたらきをあらわすようになっているげんなのです。(就這樣,英語是一種通過語序,即句子結構,來表達與單詞和句子相關的重要語法功能的語言。) じゅん使つかってぶんぽう的なはたらきをあらわすためには、まず何らかのほんじゅんめておいて、そのほんじゅんちがじゅんが、あるぶんぽうはたらきにたいおうするようなそくつくっておかなければなりません。(為了用語序來表達語法功能,首先必須確定某種基本語序,然後制定規則使得與基本語序不同的語序對應於某些語法功能。) えいだと、「しゅどうもくてき」(こうぞうそくなら、「ぶんめいどう」「どうじょどうどうめい」)のようなそくほんじゅんそくだと言えます。(在英語中,「主語+動詞+賓語」(如果用短語結構規則表示,就是「句子→名詞短語+動詞短語」「動詞短語→助動詞+動詞+名詞短語」)這樣的規則可以說是基本語序的規則。)このそくをもとにして、めいぶんぽうはたらきがあらわされたり、じつあらわぶんとしてのへいじょぶんであることがあらわされたりするわけです。(基於這一規則,名詞短語的語法功能被表達出來,或者被表明為表示事實的陳述句。) そして、このようなそくしたがっていないぶん使つかわれた時には、それがもんぶんであるとか、じゅどうたいぶんであるなどということが分かるわけですが、今度はそのために、もんめいぶんぽう的なはたらきが、じつさいこうぞうを見ただけでは分からなくなってしまうことになります。(當不遵循這樣的規則的句子被使用時,我們就能判斷它是疑問句或被動句等等,但相應地,疑問詞或名詞的語法功能就只看實際結構無法確定了。)しかし、どんなぶんであってもしゅはありますし、もくてきがあることも多いのですから、しゅもくてきただしくにんていすることは、ぶんかいするためにはきわめてじゅうようなことです。(但是,任何句子都有主語,而且很多時候也有賓語,所以正確地認定主語和賓語對於理解句子的意義是極其重要的。) この、しゅもくてきを、えいほんらいもっているじゅんまりを当てはめるだけで、ただしくにんていすることができるようにするためのしくみが、ひょうそうこうぞうしんそうこうぞうべつなのだと言うことができます。(這種能夠通過只是應用英語本來就有的語序規則而正確認定主語和賓語的機制,就是表層結構和深層結構區別所說的事情。)もちろん、しんそうこうぞうをわざわざせっていしたのには、しゅもくてきにんていだけではなくて、かくどうへんけいで見たような、かんせつもくてきぶんぽう的なはたらきのかいや、さいだいめいへんけいどういつめいさくじょへんけいで見たような、だいめいするたいしょうとくていなどのもくてきもあります。(當然,設定深層結構不僅僅是為了認定主語和賓語,還有其他目的,比如如在與格移動變形中看到的間接賓語的語法功能的理解,以及如在再帰代名詞化變形或同一名詞短語刪除變形中看到的代詞所指對象的特定化等。)しかし何と言っても、しゅもくてきにんていこそが、しんそうこうぞうたす最もじゅうようやくわりだとかんがえて違いはないと思います。(但是,無論如何,主語和賓語的認定才是深層結構所起的最重要的作用,我認為這樣認為是沒有錯的。) ここでまた少しせいせいぶんぽういやを言っておくと、しんそうこうぞうを見ることでしゅもくてきがどのめいによってあらわされるのかが分かるのはいいとして、それではこのしんそうこうぞうてきようされて、ぶんぜんたいかいするための「かいしゃくそく」というのは一体どんなもので、そのけっつくり出されるぶんの「あらわ」というのはどんなものなのかについて、せいせいぶんぽうはほとんど何もていしてくれていないのです。(在這裡,我也要對生成文法稍微有些微詞,通過查看深層結構,我們可以知道主語和賓語由哪個名詞表達是很好,但是那麼應用於這個深層結構、用於理解整個句子意義的「語義解釋規則」到底是什麼,其結果產生的句子的「語義表示」又是什麼,生成文法幾乎沒有為我們提出任何內容。) せいせいぶんぽうにとって、えいぶんの「こうぞう」がていされるメカニズムのかいめいじゅうようだいだったということは分かります。(對生成文法來說,闡明英語句子「結構」被確定的機制是一項重要課題,這點我能理解。)しかし、しんそうこうぞうが、ひょうそうこうぞうをもとにしてかいするためにひつようなレベルとしてかりていされたことはたしかなのですし、ちょくかん的にかいされるとうまくむすびつくようにしんそうこうぞうせっていされるようになっていることは、今までせつめいしてきた通りです。(文字)

めい / どう

たろう郎 / (めい / どう) (はな / た) このようなしんそうこうぞうによって、「たろう郎」がしゅで、「はな」がもくてきであることが分かり、かくじょ「が」と「を」は、「かくじょ」あるいは「かくじょそうにゅう」というへんけいそくによって、それぞれ「たろう郎」と「はな」のちょくくわえられるのだとせつめいされます。(根據這樣的深層結構,可以知道「太郎」是主語,「花子」是賓語,根據稱為「格助詞添加」或「格助詞插入」的變形規則,格助詞「が」和「を」分別被添加到「太郎」和「花子」的後面,據此進行說明。) しかし、ほんというえいとはちがげんについて、このようにしてかくじょが「あとから」されるというていほん当にあるのかどうかを、きゃくかん的にかくにんするほうほうはありません。あくまでも、ほんえいと同じように、こうぞうによってしゅもくてきけっていされるのだというかりていを、ただしいものとしてれた上でのみせつめいなのです。(然而,對於與英語不同的日語這樣的語言,是否真的存在格助詞這樣「後來」被添加的過程,並沒有可以客觀確認的方法。只有在承認日語也如同英語一樣,主語和賓語是由句子結構決定的這一假設為正確的前提下,才能成立這種說明。) そもそもほんというげんは、少なくともじつさいかんさつされるデータをもとにする限り、しゅもくてきを「が」と「を」というかくじょによってあらわすというしくみをせんたくしているタイプたいぷげんなのです。(首先,日語這種語言,至少根據實際觀察到的數據來看,是選擇了用「が」和「を」這樣的格助詞來表示主語和賓語的機制的一種語言類型。)ほんのようなげんは、ちょうせんかんこくモンゴル語もんごるごトルコ語とるこごなど、かいにはたくさんあります。少ししくみはちがいますが、ロシア語ろしあごポーランド語ぽーらんどごギリシア語ぎりしあごラテン語らてんごサンスクリット語さんすくりっとごなどのげんも、めいしゅなのかもくてきなのかを、めいかつようけい(けいへん)を使つかってあらわけるようにしています。(像日語這樣的語言在世界上有很多,如朝鮮語、韓國語、蒙古語、土耳其語等。儘管機制略有不同,但俄語、波蘭語、希臘語、拉丁語、梵語等語言也使用名詞的屈折形式(語法形態的變化)來區分名詞是主語還是賓語。) こういう、とくべつたんけいしゅもくてきあらわけることができるげんならば、じつさい使つかわれるぶんをもとにするだけで、すぐにどのめいしゅでどのめいもくてきなのかが分かります。(這樣的語言可以用特定的詞語或語形來區分主語和賓語,因此只需根據實際使用的句子,就可以立即知道哪個名詞是主語,哪個名詞是賓語。)ですから、しゅもくてきべつするためだけなら、しんそうひょうそうという二つのこうぞうレベルれべるは全くひつようではないのです。(因此,如果只是為了區分主語和賓語,就完全不需要深層和表層這兩個結構層級。) したがって、えいとはちがうタイプのほんのようなげんについても、二つのこうぞうがどうしてもひつようだということを、きちんとろんしょうしてからでなければ、「かくじょ」のようなへんけいそくそんざいを、こんきょあるものとしてしゅちょうすることは、ほんらいならばできないのです。(因此,對於與英語不同類型的日語這樣的語言,除非恰當地論證了兩個結構結構確實是必要的,否則就不應該聲稱「格助詞添加」這樣的變形規則的存在是有根據的。)せいせいぶんぽうほうほうへんてきなのだというしょうめいされないこんきょをもとに、かくじょへんけいていされることをぜんていとしてほんぶんぽうせつめいしようとすることは、やはりがくてきたいとはいにくいところがあります。(基於生成語法的方法是普遍的這一未經證明的根據,將格助詞在變形過程中被添加作為前提來解釋日語的語法,這確實在某種程度上難以說是科學的態度。)

へんぶんほうかりていする(假設普遍文法) ひょうじゅんろんどうては、しゅとしてえいぶんこうぞうまつわるもんだいかいめいするためのものだったのですが、チョムスキーは、せいせいぶんほうろんたんなるえいぶんほうにしておくつもりはぜんくありませんでした。(標準理論的工具主要是為了解明英語句子結構的相關問題,但喬姆斯基完全不打算把生成文法理論限制在單純的英語文法範圍內。)さきほどのほんてきようされたれいにもあられているように、せいせいぶんほうを、にんかんげんほんしつかいめいするための、へんてきろんていきょうするげんろんにすることが、チョムスキーそうだいなるであったのです。(如同之前應用於日語的例子所展現的,喬姆斯基的宏大構想是要使生成文法成為一種語言理論,能夠提供普遍性的理論來解明人類語言的本質。) そのためにチョムスキーがかりていしたのは、すべてのげんきょうつうにもっている、にんかんのコトバにほんしつてきぶんとしての「へんぶんほう」でした。(喬姆斯基為此而假設的,是所有語言共同具有的、作為人類語言本質部分的「普遍文法」。)せいせいぶんほうかぎらず、げんがくしゃであれば誰でも、にんかんのコトバのほんしつかいめいしたいとおもうものですから、へんぶんほうついきゅうするという姿せいは、じつけんぜんけんきゅうもくひょうだとえます。(不僅限於生成文法,任何語言學家都希望解明人類語言的本質,因此追究普遍文法的態度確實是個健全的研究目標。) ただ、せいせいぶんほうとくちょうは、にんかんまれながらにへんぶんほうあたまなかそなえているはずだとしゅちょうしていることです。(但生成文法的特徵在於,它主張人類生來就應該在頭腦中具備普遍文法。)にんかんせいぶつですから、まれつきなにらかののうりょくそなえていることは違いありません。(因為人類也是生物,肯定生來就具備某種能力。)誰かにおしえられなくても、にんかんがいかいのモノをて、いろかたちにんしきすることができますし、おんせいにおいかくすることもできます。(即使沒有人教,人類也能看外界的事物、認識顏色和形狀,還能感知聲音和氣味。) したがって、コトバにかんけいするのうりょくにも、せいとくてきぶんがあるとかんがえることはできるとおもいます。(因此,我認為與語言相關的能力中也應該存在先天的成分。)ひょうじゅんろんせいせいぶんほうは、にんかんのコトバはきょうつうへんてきげんしたがっているというかんがえをきょうりょくすいすすめていきました。(標準理論之後的生成文法強力地推進了人類語言遵循共同普遍原理的觀點。)こういうへんてきげんは、とうぜんへんぶんほうこうせいするじゅうようようだとかんがえることができます。(這樣的普遍原理當然可以被認為是構成普遍文法的重要要素。) へんてきげんのうみ込んでまれてきたようは、しゅうにんかんはなべつげんげきけて、べつげんぶんほうかんせいさせるというかたちで、げんかくとくじつげんされるというのが、せいせいぶんほうそうていしているげんかくとくほうほうです。(生成文法所假設的語言獲得方法是:具有普遍原理的嬰幼兒接受周圍人類所說的特定語言刺激,以完成特定語言文法的方式來實現語言獲得。)そして、もっとげんかくとくこうりつてきおこわれるように、コトバのげんというのは、「エックスエックスではないか」というかたちで、べつげんによってつのせんたくのうちのどちらかがせんたくされるというしくみになっているのだとされています。(而且為了使語言獲得更加有效進行,語言的原理據說是按「X或非X」的方式,由特定語言選擇兩個選項中的某一個的機制。)べつげんがもたらすげきは、どちらかのせんたくえらぶようにけっていするというはたらきをするだけなのですから、べつげんかくとくはさらにようになるというわけです。(特定語言帶來的刺激只是起決定選擇哪個選項的作用,因此特定語言的獲得就進一步變得容易了。) コトバをはいするげんについてのせんたくを、せいせいぶんほうでは「パラメータ」とんでいます。(生成文法中把支配語言的原理的選項稱為「參數」。)すうがく使つかうパラメータ(ばいかいへんすう)は、れいえば、xとyをへんすうとするかんすうで、x = at, y = bt のようにえたときのtをこうぶわけですから、あるげんせんたくといういとはずいぶんちがっていて、になるところではあるのですが、こうぶことにしているのだからかたありません。(數學中使用的參數(媒介變數)是指在函數如x = at, y = bt這樣的置換中的t,所以與原理的選項這一含義很不相同,儘管有些奇怪,但既然就是這樣稱呼的,也就沒辦法了。) へんてきげんとそれにかんするパラメータをせっていして、にんかんのコトバのほんしつだけでなく、べつげんがどのようにしてかくとくされるのかまでをもせつめいしようというのが、ひょうじゅんろんつぎだんかいせいせいぶんほうとうたつしたろんてきわくぐみでした。(設定普遍原理及其相關的參數,不僅要說明人類語言的本質,還要說明特定語言如何被獲得,這是標準理論之後生成文法所達到的理論框架。)これを「げんとパラメータのろん」とびます。(這被稱為「原理與參數的理論」。)

どのような原理げんり仮定かていされたのか

普遍ふへん文法ぶんぽう構成こうせいする原理げんりがどんなものだったのかは、あとでもうすこくわしく説明せつめいしますが、どんなものだったのか、簡単かんたんにふれておくことにしましょう。(普遍文法所構成的原理是什麼樣的,我們稍後會進行更詳細的說明,但在這裡先簡單提及一下它是什麼樣的。)

[1]

エックスバーろん

こうぞうそくは、しんそうこうぞうつくるためのそくでしたが、べつげんごとにちがっています。(句構造規則是用來製作深層結構的規則,但根據各個別語言而有所不同。)これではへんぶんぽうげんとしてはふさわしくないので、しんそうこうぞうつくるためのへんてきげんとしてていあんされたものです。(因此,作為普遍文法的原理並不恰當,所以被提議作為製作深層結構的普遍原理。)どうどうめい」「めいかんめい」のように、ことなったごとにてんかい(え)のそくつくるのではなく、どんなでもいっぱんてきちゅうしんとなるたんと、それをそくするたんてんかいする、というようないっぱんてきかたちをとります。(與其像「動詞句→動詞+名詞」「名詞句→冠詞+名詞」那樣為每個不同的句子制定展開(改寫)規則,不如採用一般性的形式,即任何句子都一般性地展開為一個中心詞和補充詞。) そして、ちゅうしんとなるたんそくてきたんとのじゅんばんについて、どちらがまえになるのかというのがとしてせっていされます。(然後,關於中心詞和補充詞的順序,哪個在前面這一點被設定為參數。)

きょうかいろん

たんどうするへんけいそくたいする、いっぱんてきせいやくのことです。(這是對移動單詞的變形規則的一般性限制。)さきせつめいした、こうぞうせつによって、あるたんは、すでにつくられているこうぞうのうちで、それがめることができるしょどうすることができるようにはなっています。(根據之前說明的結構保持假說,某個單詞能夠移動到已經構成的結構中它能夠佔據的位置。)けれども、どうできるのどこにでもどうできるのだとすると、くつの上ではのうでも、じつさいぶんとしてはとてもれられないぶんができあがってしまいます。(但是,如果能夠移動到所有可以移動的位置,那麼雖然在理論上是可能的,但實際上會產生無法接受的句子。)

そこで、どうさまたげげるような「きょうかい」をせっていして、このきょうかいえてたんどうすることができない、というないようさだめたのが「きょうかいろん」です。(因此,通過設定阻止移動的「邊界」,規定了單詞不能越過這個邊界進行移動的內容,這就是「邊界理論」。)れいえば、めいないにあるもんどうできないなどが、きょうかいろんさだめるどうせいやくです。(例如,名詞短語內部的疑問詞無法移動等,就是邊界理論所規定的移動限制。)

このきょうかいせっていするのが、どのようなしゅるいなのかについてさだめているのが、きょうかいろんについてのです。(規定設定邊界的是哪種類型的短語的,就是邊界理論的參數。)

とうそつろん

あるたんべつたんとのかんかんれんせいがあるのかを、こうぞうかんてんからきちんとさだめておくためにかんがえられたろんです。(這是為了從結構的角度明確界定某一詞語與另一詞語之間是否存在關聯性而提出的理論。)つのたんかんかんれんせいってもかりにくいのですが、れいえば、めいと、それとおなじモノをだいめいとのかんにはかんれんせいがあります。(雖然說兩個詞語之間的關聯性有些難以理解,但舉例來說,名詞與指代同一事物的代詞之間是存在關聯性的。)また、たんどうしたあとにはこんせきのこるとされているわけですが、このこんせきにもきちんとしたはたらきがあるのだから、こんせきふくまれるはんちゅうなかで、たんとのかんけいでそのはたらきがはっきりかるようになっていなければならないとされます。(另外,據說詞語移動後會留下痕跡,由於這個痕跡也有明確的功能,所以應該在包含痕跡的範疇內,通過與其他詞語的關係使其功能變得清晰可見。)こういう、こんせきたんとのかんれんせいというのもかんがえるべきだということになっています。(這樣的話,應該考慮痕跡與其他詞語之間的關聯性。)せいせいぶんぽうでは、こうしたしゅるいかんれんせいというのも、こうぞうによってせいしつしめすことができるとかんがえられていて、あるたんべつたんこうぞうてきかんれんがあるということを「とうそつする」といます。(在生成語法中,認為這類關聯性也可以通過結構來表現其性質,把某詞語與另一詞語在結構上的關聯稱為「統率」。)ようするに、しゅもくてきが、ぶんこうぞうについてのじょうほうもとづいてまるというのがせいせいぶんぽうの一かんしたたちなのとおなじように、たんたんかんにあるべつしゅるいかんれんせいというのも、やはりおなじように何らかのこうぞうてきとくちょうさだ義してしまおうというのが、とうそつろんかんがあんされたゆうだとかんがえることができます。(總而言之,就像主語和賓語是基於句子結構信息而確定的,這是生成語法一貫的立場一樣,詞語之間的另一類關聯性也應該同樣用某種結構特徵來定義,這就是統率理論被提出的原因。)ただ、とうそつろんについては、どんなパラメータがあるのかかっていません。(不過,關於統率理論,我們還不清楚有哪些參數。)

θシータろん

ぶんあらわことがらなかふくまれるモノは、しゅだったりもくてきだったりするほか、「どう」だったり、「しょ」だったり、どうの「てん」や「ちゃくてん」だったり、いろいろなはたらきをします。(句子所表達的事物中包含的東西可以是主語、也可以是賓語,還可以是「工具」、「地點」、移動的「起點」或「終點」,以及發揮各種各樣的作用。)ことがらなかでモノがもっているはたらきのことを、いっぱんてきには「やくわり」とぶのですが、せいせいぶんほうでは「θシータやくわり」とか「しゅだいやくわり」とんでいます(θシータというのは、「しゅだい」にたるえい theme の th をあらわしたものです)。(事物在事項中所具有的作用一般被稱為「語義角色」,但在生成語法中被稱為「θ角色」或「主題角色」(θ是用希臘字母表示與「主題」相當的英文單詞 theme 的 th)。) ぶん使つかわれているどんなめいにもθシータやくわりが一ずつあたえられなければならない、ということをしゅちょうするのがθシータろんです。(θ理論主張的是,句子中使用的每一個名詞都必須被賦予一個θ角色。)ぶんなかめい使つかわれていれば、それにはかならなにらかのてきはたらきがあるのはとうぜんですから、θシータろんは、ぶんことがらあらわし、ぶんちゅう使つかわれるめいあらわすモノは、ことがらなかなにらかのはたらきをしているという、コトバのほんしつえたものだと言うことができます。(因此,θ理論可以說是對語言本質的另一種表述,即句子表達事項,句子中使用的名詞所表達的事物在事項中發揮某種作用。)これは、にんかんのコトバであればぜったいひつようしょうしつですから、パラメータはありえません。(這是人類語言中絕對必要的性質,因此不存在參數。)

そくばくろん

ぶん中で使われているだいめいが、同じぶん中にあるめいと同一のたいしょうをもつ(同じモノを指し示す)かどうかということを、こうぞうかんてんからていするためのろんです。(文中使用的代名詞與同一文中的名詞具有相同的指代對象(指向同一物體)的理論,是從結構的角度加以定義的。)一つのぶんの中で、だいめいせんこうするめいと同じたいしょうをもつことを、めいだいめいを「そくばくする」という言い方をするので、「そくばくろん」という、いささかかんかくてきめいしょうが用いられます。(在一個句子中,代名詞與前面出現的名詞具有相同的指代對象時,我們說這個名詞「束縛」了代名詞,因此使用「束縛理論」這個名稱,儘管這個名稱在某種程度上是感覺性的。)そくばくというせいしつていするために、先にあげた「とうそつ」というせいしつが使われます。(為了定義束縛這一性質,使用了前面提到的「統率」這一性質。)だいめいたいしょうせいしつまでもが、こうぞうによってけっていされるというのを、にんかんがもつへんてきとくちょうの中に含めて、そくばくというがいねんが生まれたばかりのあかぼうあたまの中にもすでにまれているのだと、せいせいぶんぽうしゅちょうしているのです。(生成語法主張,代名詞的指代對象特性也由結構決定,這一點被納入人類語言具有的普遍特徵中,因此束縛這一概念即使在初生嬰兒的頭腦中也已經被內置了。)

かくろん

かく」というのは、「かくどうへんけい」のところでせつめいしたように、めいぶんちゅうでのはたらきをあらわめいけいとくべつたんのことです。(「格」就是如同在「與格移動變形」一節中所說的那樣,用來表示名詞在句子中的作用的名詞的詞形或特殊的詞。)めいはたらきなら、さきほどのθやくわりおなじになってしまいそうなのですが、θやくわりは、あくまでも「がら」のなかでモノがたすやくわりのことです。(如果說名詞的作用,似乎會與剛才的θ角色相同,但是θ角色歸根結底是指在「事項」中事物所發揮的角色。)これにたいして「かく」は、ほんてきにはめいめいかくかたちのことをしています。(相對而言,「格」基本上是指名詞明確的形態。)

かんたんえば、めいがどんなかくをとっているかをって、めいあらわすモノのやくわりかるというしくみなのだとかんがえてください。(簡單地說,通過了解名詞採用什麼格,就能理解名詞所表示的事物的作用,請這樣思考這個機制。)べつかたをすれば、かくめいというたんそのもののせいしつであり、θやくわりは、めいあらわす「モノ」(ぶつ)のせいしつだということです。(換句話說,格是名詞這個詞本身的性質,而θ角色是名詞所表示的「事物」的性質。)

ただ、えいめいはほとんどけいへんをしませんし、ほんの「が」や「を」のようなかくじょもありませんから、だいめい外のつうめいについては、いませつめいしたようなかくをもっているとはえないことになります。(但是,英語名詞幾乎沒有詞形變化,而且也沒有日語中「が」或「を」這樣的格助詞,因此除了代詞以外的普通名詞就不能說具有剛才所說的那樣的格了。)しかしえいじゅん、つまりぶんこうぞう使つかって、かくおなはたらきをさせることができるとかんがえることもできます。(但是,英語可以通過詞序,即句子結構的使用,來實現與格相同的作用,也可以這樣認為。)チョムスキーは、こういうこうぞうによってあらわされためいはたらきを「ちゅうしょうかく」とんで、これもけいによるかくおなじものなのだとしました。(喬姆斯基把這種通過結構表達的名詞的作用稱為「抽象格」,並認為這也與詞形標記的格是相同的東西。)

ちゅうしょうかくというはともかく、けいへんたようなはたらきをこうぞうたしていることはたしかですから、こうぞう使つかってあらわされたしゅもくてきなどのはたらきを「かく」とぶことには、おおきなもんだいはないだろうとおもいます。(雖然「抽象格」這個名稱姑且不論,但結構確實在發揮與詞形變化相似的作用,因此把通過結構表達的主語和賓語等的作用稱為「格」應該沒有大問題。)

そういうわけでかくろんというのは、どんなめいにもなにらかのほうほうかくあたえられなければならないという、へんてきげんそんざいしゅちょうするものです。(因此格理論主張存在一個普遍的原理,即每個名詞都必須以某種方式被賦予格。)

せいぎょ(コントロール) ろん

これは、ほんてきにはたいてきたんとしてはあられない、ていしゅかんわるせいしつです。(這是基本上不以具體詞彙出現的、與不定詞主語相關的特性。)つぎれいてください。(請看下面的例子。)

(72) Jill decided to leave her country. (ジルぶんくにはなれることにけっめた)(吉爾決定離開自己的國家。)

このぶんで、to leave her country というていしゅあらされていませんが、えいていぶんおなはたらきをするものとされていますから、しゅかならひつようです。(在這個句子中,不定詞「to leave her country」的主語沒有被表達出來,但由於英語的不定詞被認為具有與句子相同的功能,所以主語必定是必要的。)ひょうじゅんろんせつめいときには、ていしゅを for Jill であらして、しんそうこうぞうでは for Jill to leave her country のようなかたちになっているとせつめいしました。(在標準理論的說明時,不定詞的主語用「for Jill」來表示,深層結構中被說明為「for Jill to leave her country」的形式。)

そのたんさくじょするへんけいそくはないということになり、このようなしんそうこうぞうでは、「どういつめいさくじょ」と「for さくじょ」というつのさくじょへんけいひつようなので、このこうぞうではいけないということになりました。(其後,既然沒有刪除詞語的轉換規則,在這樣的深層結構中,需要「相同名詞短語刪除」和「for刪除」這兩個刪除轉換,所以這樣的結構就不行了。)そこで、じつさいにははつおんされないけれども、だいめいたようなはたらきをする PRO (だいめいしょうおうけい)というたんどうにゅうされ、(72)は、ひょうそうこうぞうだんかいでも、つぎのようなかたちをしているものとされるようになりました。(因此,引入了實際上不發音但具有類似代詞功能的PRO(代詞照應形)這個詞,(72)即使在表層結構階段也被認為具有下面這樣的形式。)

(73) Jill decided [PRO to leave her country].(吉爾決定[PRO離開她的國家]。)

この PRO があられることができるこうぞうてきとか、このかたちするたいしょうがどのめいおなじになるのかなどをさだめるろんが、「せいぎょろん」です。(規定PRO能出現的結構位置、這種形式所指代的對象與哪個名詞相同等的理論,就是「控制理論」。)ただ、このろんなかはまだよくかっていないところもおおく、ですからパラメータについてもられていません。(只是,這個理論的內容仍然有很多不甚清楚的地方,因此關於參數也還不為人所知。)

じょうのように、せいせいぶんほうかりていされているへんぶんほうなかは、コトバのしくみにあいとうみ込んだものです。(如上所述,生成文法所假設的普遍文法的內容,相當深入地涉及語言的機制。)じつは、せいせいぶんほうれきつうじて、ばんゆういんりょくほうそくとかうんどうりょうぞんほうそくのように、これこそがへんぶんほうなかであって、どんなはんろんにもたええうるぜったいちがいのないものだ、というかたちでのへんぶんほうていしょうされたことはありません。(事實上,在生成文法的歷史上,從來沒有提出過像萬有引力定律或動量守恆定律那樣、被認為就是普遍文法的內容、並且能經受住任何反駁、絕對不會出錯的普遍文法。)

というわけで、へんぶんほうせいとくてきかどうかということを、かくじつろんじるためのしんらいできるざいりょうじつさいにはないのではないかとかんがえられます。(因此,可以確實論證普遍文法是否是先天的值得信賴的材料實際上可能並不存在。)へんぶんほうていしょうされはじめたころには、ひょうじゅんろんわくみでもちいられていた、しんそうこうぞうひょうそうこうぞうべついっぱんてきこうぞうそくどうちゅうしんとするいちへんけいそくなどは、へんぶんほうこうせいするようだとかんがえられていました。(普遍文法剛開始被提出的時期,標準理論框架中使用的深層結構與表層結構的區別、一般的短語結構規則、以移動為中心的部分轉換規則等,被認為是構成普遍文法的要素。)

ところが、げんとパラメータのろんになると、さきほどせつめいしたような、ひょうじゅんろんころとはまたおおきくことなったげんぐんへんぶんほうこうせいするようだとしゅちょうされるようになったわけです。(然而,到了原理與參數的理論,如先前所說明的,與標準理論時期大相徑庭的原理群被主張為構成普遍文法的要素。)となるとやはり、せいせいぶんほうにとってのへんぶんほうは、らがかりていしているほんてきどうてをかなりのぶんれたものだとかんがえてよさそうです。(如此看來,生成文法的普遍文法可以說是相當大程度上吸收了自身所假設的基本工具框架。)

そうすると、にんげんまれつきあたまなかにもっているコトバのほんてきしくみとしてのへんぶんほうなかは、ずいぶんとたいてきなものだということになります。(這樣一來,作為人類與生俱來存在於頭腦中的語言基本機制的普遍文法的內容,就變成了相當具體的東西。)このたいてきへんぶんほうに、ほんとかえいとかの、べつげんかんするじょうほうげきとしてあたえられることで、へんぶんほうべつし、さいしゅうてきどもかくとくするのだとされています。(通過向這個具體的普遍文法提供日語或英語等個別語言的信息作為刺激,普遍文法得以個別化,最終兒童獲得母語。)

普遍文法ふへんぶんぽう仮定かていされる理由りゆう言語獲得げんごかくとく必要ひつよう期間きかん

標準ひょうじゅん理論りろん原理げんりパラメータぱらめーた理論りろん仮定かていされている道具立てどうぐたて構成こうせい要素ようそが、果たしてはたしてすべての言語げんご共通きょうつうのものなのだろうかという根本的こんぽんてき問題もんだいはともかくとして、これほど内容ないよう豊富ほうふ普遍文法ふへんぶんぽう仮定かていされるには、それなりの理由りゆうがあるのだとされています。(儘管關於標準理論和原理與參數理論中所假定的工具組成要素是否真的是所有語言的共同特徵這一根本問題先不論,據說內容如此豐富的普遍文法之所以被假定,是有其相應理由的。) まず一番重要じゅうようだと思われるおもわれるのが、「幼児ようじ非常ひじょう短いみじかい期間きかん母語ぼご獲得かくとくする」という事実じじつです。(首先,最重要的是「幼兒在非常短的時期內獲得母語」這一事實。)非常ひじょう短いみじかい期間きかん」という、大ざっぱおおざっぱ判断はんだん非常ひじょうにかかるのですが、生成文法せいせいぶんぽうでは、子供こども母語ぼご獲得かくとくするのに必要ひつよう期間きかん五年ごねんだとされています。(儘管「非常短的時期」這個說法相當粗略,讓人感到困擾,但在生成文法中,據說兒童獲得母語所需的時間是五年。) この五年ごねんあいだに、ぶん構造こうぞう作るつくるための規則群きそくぐん覚えておぼえて実際じっさい自分じぶんでも文法的ぶんぽうてきぶん作りつくり出せるだせるようになり、また他人たにん作るつくるぶん表すあらわす意味いみ正しくただしく理解りかいすることができるようになるのだとすると、それは非常ひじょう短いみじかいではないかということなのです。(在這五年期間內,學會用來構建句子結構的規則,實際上能夠自己造出語法正確的句子,並能正確理解他人造的句子所表達的意思,如果是這樣的話,那五年豈不是非常短了嗎。)だから、生成文法せいせいぶんぽう仮定かていする、内容ないよう豊富ほうふ普遍文法ふへんぶんぽうを、人間にんげん子供こども生得的せいとくてきにもっていると考えなければかんがえなければならないとされます。(因此,據說人類的孩子必須生而具有生成文法所假定的、內容豐富的普遍文法。) 確かにたしかに私たちわたしたち学校がっこう勉強べんきょうする国文法こくぶんぽう英文法えいぶんぽうは、相当そうとう内容ないよう複雑ふくざつで、かなり努力どりょくをしないと全部ぜんぶ覚えきるおぼえきることはなかなかできません。(確實,我們在學校學習的國文法和英文法內容相當複雜,不付出相當努力就很難全部記住。)しかし、だからと言って、それを五年ごねん覚えてしまうおぼえてしまうことが「非常ひじょう早いはやい」と断定だんていすることもできないのではないかと思いますおもいます(但是,正因為如此就斷定五年內掌握它是「非常快」,我覺得這也不一定成立。)人間にんげんは、ホモほもサピエンスさぴえんすという生物せいぶつしゅとして誕生たんせいした時点じてんで、すでに現代げんだい人類じんるい同じおなじしくみのコトバことば自在じざい操るあやつることができました。(人類作為一個生物種——智人在誕生的時刻,就已經能夠自由自在地使用與現代人類相同機制的語言了。)ところが、恐らくおそらくその当時とうじ平均へいきん寿命じゅみょう三十さんじゅうさいかそれ以下いかだったのではないかと推測すいそくされています。(然而,據推測,那時的平均壽命可能是三十歲或更短。)人類じんるい初期しょきにも同じおなじように五年ごねんかかって母語ぼご獲得かくとくされていたのだとすると、それは人生じんせい六分ろくぶんいちにも当たるあたる期間きかんで、決してけっして早いはやいとは言えませんいえません(如果人類初期同樣花費五年時間獲得母語,那就佔了人生的六分之一,絕不能說是快。) それに、五歳ごさい幼児ようじは、確かにたしかに構造こうぞうてんでは正しいただしいぶん作るつくる能力のうりょく獲得かくとくしていますし、日本にほんならば助詞じょし助動詞じょどうしのような、文法ぶんぽう働きはたらきをする限られたかぎられたかず単語たんご働きはたらきについても、完璧かんぺきではないにしても、重要じゅうよう部分ぶぶんはきちんと覚えていますおぼえています(而且,五歲的幼兒確實已經獲得了在結構上造出正確句子的能力,如果是日語的話,對於像助詞和助動詞這樣具有語法作用的有限數量的詞彙的用法,雖然不完美,但重要部分已經掌握得相當好。)けれども、名詞めいし動詞どうし形容詞けいようし副詞ふくしのような、ぶん表すあらわす意味いみ中核ちゅうかく部分ぶぶん決定けっていするために必要ひつような「単語たんご」については、子供こどもによっても違うちがうでしょうが、恐らくおそらく数百語すうひゃくご程度しかしか覚えていないおぼえていないのではないかと思われますおもわれます(但是,對於像名詞、動詞、形容詞、副詞這樣決定句子所表意思核心部分所必需的「詞彙」,雖然因人而異,但恐怕只掌握了數百個詞而已。)これに対してたいして大人おとなであれば数万語すうまんご単語たんご記憶きおくしているのが普通ふつうです。(相比之下,成人通常記憶數萬個詞彙。) 実はじつは単語たんごというのは、たった一個でも、じつ多くおおく情報じょうほう含んでいるふくんでいるものです。(實際上,單個詞彙即使只有一個,也包含了大量信息。)ネコねこ」という単語たんご意味いみ正しくただしく知っていることしっていることと、この単語たんご指しさし示すしめすモノもの(専門せんもんてきには「指示対象ししたいしょう」と呼びますよびます)を正しくただしく指摘してきできることは同じおなじです。(正確理解「貓」這個詞的意思,與能夠正確指出這個詞所指的物體(專業上稱為「指示對象」)是同一回事。)そうすると、私たちわたしたち取りとり巻くまくほとんど無数むすうモノものなかから、ネコねこであるモノもの選んでえらんで正しくただしく指示しじするためには、ネコねこがどんなかたち大きさおおきさいろをしていて、どんなこえ鳴きなき、どんな動作どうさをするのかなど、ネコねこ関わるかかわる非常ひじょうにたくさんの情報じょうほう記憶きおくしておかなければなりません。(那樣的話,要從圍繞我們的幾乎無數的物體中選出貓這樣的物體並正確指示,就必須記住關於貓的非常多的信息,比如它是什麼形狀、大小、顏色,用什麼聲音叫,做什麼動作等等。) 特にとくにネコねこ指示しじするためには、ネコねこについての視覚しかく情報じょうほう記憶きおくすることが大切たいせつなのですが、電子でんし記憶きおく媒体ばいたい画像がぞう保存ほぞんするために、文字もじなどと比べるくらべるとはるかに大きなおおきな容量ようりょう必要ひつようとすることからもお分かりわかりのように、視覚しかく情報じょうほう記憶きおくするためには、のうなかでも相当そうとう部分ぶぶん占めしめさせる必要ひつようがあります。(特別是,為了指示貓,記憶關於貓的視覺信息是重要的,但就像從電子存儲媒體中保存圖像所需的容量遠大於文字等事實也能看出的那樣,為了記憶視覺信息,需要在腦中佔據相當大的部分。)そもそも人間にんげんは、モノものを「見るみる」ためだけに、のう三分さんぶんいち使っているつかっているのだそうです。(據說人類單單為了「看」東西就使用了腦容量的三分之一。)実際じっさい視覚しかくじつ高度こうど能力のうりょく人間にんげん同じおなじようにモノが見えるみえるロボットろぼっとは、依然いぜんとして作られていませんつくられていません(實際上,視覺是一項非常高深的能力,能像人類一樣看到東西的機器人至今仍未被開發出來。)ネコねこ」という単語たんご一つをとっても、かなりの情報じょうほうりょう記憶きおくしなければならないのですから、何万個なんまんこもの単語たんご意味いみ記憶きおくするために、人間にんげんのうなか大きなおおきな容量ようりょう使用しようしていることになります。(既然單單「貓」這一個詞就必須記憶相當多的信息,為了記憶成千上萬個詞的意思,人類就得在腦中使用龐大的容量。)だとすると、十分じゅうぶんかず単語たんご記憶きおくする手間てま比べればくらべればぶん構造こうぞう作るつくるために使われるつかわれる規則群きそくぐん必要ひつようとする情報じょうほうりょうなど、実はじつはそれほど大きいおおきいとは言えないいえないのではないかとも考えられますかんがえられます(那樣的話,相比記憶足夠數量詞彙的麻煩,用來構建句子結構的規則所需要的信息量,其實不一定有那麼大,也是有可能的。) そうするとなおさら、文法ぶんぽう規則きそく完全かんぜん獲得かくとくするのに必要ひつよう五年ごねんという期間きかん非常ひじょう短いみじかいどころか長いながいのだとすると、人間にんげん生得的せいとくてきにもっている普遍文法ふへんぶんぽう中身なかみは、極めてきわめて乏しくとぼしくても構わないかまわないことになります。(那樣更加的話,如果完全獲得語法規則所需的五年時期其實不是非常短反而是長的話,那麼人類生而具有的普遍文法的內容即使極其貧乏也沒有關係。)視覚しかく聴覚ちょうかく関わるかかわる情報じょうほう処理しょりするための基本的きほんてき能力のうりょくだけで十分じゅうぶんだという可能性かのうせいもないではありません。(僅有用於處理與視覺和聽覺相關信息的基本能力就足夠了,這樣的可能性也並非不存在。)

プラトンpuratoru問題もんだい

普遍文法ふへんぶんぽう人間にんげん生得的せいとくてきそなわっていると仮定かていされる二番目にばんめ理由りゆうとして、子供こどもまれてから経験けいけんする個別言語こべつげんごデータでーた不備ふびがあるという性質せいしつがあります。(作為普遍文法與生俱來地賦予人類的第二個原因,存在著兒童從出生後體驗的特定語言的數據不完整的特性。)赤ん坊あかんぼうは、周囲しゅういい人間にんげんはな言語げんごくことによって言語げんご獲得かくとくしていくのですが、その周囲しゅういい人間にんげんは、いつも完全かんぜんぶん使つかうわけではありません。(嬰兒通過聽周圍的人說話來習得語言,但周圍的人並不總是使用完整的句子。)ぶん途中とちゅうめることもあれば、文法的ぶんぽうてき間違まちがったぶん使つかうこともそれほどまれではありません。(有時會中途停止句子,有時也會使用語法錯誤的句子,這種情況並不罕見。)

こういった不完全ふかんぜんデータでーたをもとにしているにもかかわらず、人間にんげんだれでも、最終的さいしゅうてきには完全かんぜん文法ぶんぽう獲得かくとくすることができるとされます。(儘管基於這些不完整的數據,但人人最終都能夠掌握完整的文法。)実際じっさい使つかときには間違まちがったぶん使つかうことがあっても、あたまなかつくげられた言語げんごかんする能力のうりょくは、間違まちがいのない完全かんぜんなものだということです。(即使實際使用時可能會用錯句子,但在腦中構建的語言能力卻是完美無缺的。)

データでーた不完全ふかんぜんなのに、えれば経験けいけんする言語げんご刺激しげき貧困ひんこんなのに、獲得かくとくされる言語げんご完全かんぜんであるという事実じじつは、「プラトンpuratoru問題もんだい」とばれます。(儘管數據不完整,換句話說語言刺激貧乏,但習得的語言卻是完整的,這一事實被稱為「柏拉圖問題」。)プラトンpuratoruが、人間にんげん知識ちしきについておなじような問題もんだい指摘してきしていたことから、こういう名前なまえになっています。(這個名稱來自柏拉圖曾指出的人類知識的類似問題。)

不完全ふかんぜんデータでーたをもとに、わずか五年ごねん完全かんぜん文法ぶんぽうつくげることができるのであれば、やはりまれつきあたまなかに、ほとんどできあがったかたち完全かんぜんちかコトバことば性質せいしつ、つまり内容豊富ないようほうふ普遍文法ふへんぶんぽうまれているとかんがえなければならないということなのです。(如果能夠基於不完整的數據在短短五年內構建完整的文法,那麼必然是先天就在腦子裡配備了幾乎已完成的、接近完美的語言特性,即豐富充實的普遍文法。)

たしかにわたしたちが日本語にほんご使つかときでも、いつもただしいぶん使つかっているとはかぎりませんし、「あの、今度こんど会議かいぎなんですが」のようなかたちで、最後さいごまできちんとわないでぶんわるなどということもよくあります。(確實,即使我們使用日語,也不總是使用正確的句子,有時也會以「那個,關於這次會議」這樣的形式,不把話說完就結束句子。)だとすると、最初さいしょからある程度ていど中身なかみのある「文法ぶんぽうもと」のようなものが生得的せいとくてきそなわっていて、それはパラメータぱらめーた選択せんたくまっていないだけなのだから、まれたあとでの具体的ぐたいてき言語げんご刺激しげきは、たんにそのパラメータのあたい決定けっていするだけなのだというかんがえも、実際じっさいありうるのかなとおもわないでもありません。(那麼,從一開始就先天配備了某種有一定內涵的「文法素質」,而參數的選擇還未確定,生後受到的具體語言刺激只是確定參數值的想法,實際上似乎也是有可能的。)

しかし、よくかんがえてみると、わたしたちが使つか日本語にほんごがそれほどデータでーたとして不完全ふかんぜん貧困ひんこんなのかどうか、はっきりしないところもあります。(但是,仔細思考的話,我們使用的日語是否真的如此不完整、貧乏作為數據,也不太清楚。)そもそも、「不完全ふかんぜんだ」「貧困ひんこんだ」というのは、さきほどの「期間きかんみじかい」というのとおなじように、客観的きゃっかんてき基準きじゅん適用てきようして判断はんだんされているとはおもえません。(首先,「不完整」「貧乏」就像前面說的「時間短」一樣,似乎並沒有根據客觀標準來判斷。)獲得かくとくされる文法ぶんぽうが「完全かんぜんだ」と主張しゅちょうされるのですが、本当ほんとう完全かんぜんなのか、検証けんしょうするすべはないのです。(習得的文法被主張是「完整的」,但也沒有辦法驗證是否真的完整。)だとすると、データでーたなにくらべて不完全ふかんぜんなのかは、けっしてからないことになります。(那麼,數據相比什麼而言是不完整的,就永遠無法知道了。)

それに、たとえば語順ごじゅんのことをかんがえてみると、日本語にほんご話者わしゃならだれでも「ネコが」とか「やまに」というふうに「名詞めいし格助詞かくじょし」という規則きそくかならしたがうのでして、「がネコ」とか「にやま」などとひとはいません。(舉例來說,日語使用者都會遵循「名詞+格助詞」的規則,比如「貓が」或「山に」,沒有人會說「がネコ」或「に山」。)おなじように、「ゆっくりあるく」「あかはな」という語順ごじゅんではなく、そのぎゃくの「あるくゆっくり」「はなあかい」という語順ごじゅんまりがあるとおもって、その順番じゅんばん単語たんごならべるひともいません。(同樣地,沒有人會認為有「慢慢走」「紅花」的相反語序「走慢慢」「花紅」,並按這種順序排列單詞。)

もうすこ構造こうぞう複雑ふくざつぶんでもおなじです。(即使是結構更複雜的句子也是一樣。)花子はなこったふく」のように関係節かんけいせつ(形容詞節けいようししせつ)が名詞めいし修飾しゅうしょくする表現ひょうげん、「太郎たろう明日あしたること」のように、ぶんを「こと」という単語たんごによって名詞節めいしせつにした表現ひょうげんなどの場合ばあいでも、「服花子ふくはなこった」や「こと太郎たろうる」のように語順ごじゅん逆転ぎゃくてんしたかたをすることもありません。(在「花子買的衣服」這樣的關係節(形容詞子句)修飾名詞的表達,或「太郎明天來的事情」這樣用「事情」這個詞把句子變成名詞子句的表達中,也沒有人會使用「衣服花子買的」或「事情太郎來」這樣的倒序說法。)

このように、ぶん構造こうぞうかんするかぎり、日本語にほんご話者わしゃはっするぶんつくデータでーたが「貧困ひんこん」だとなすことは適当てきとうではありません。(因此,就句子結構而言,將日語使用者發出的句子構成的數據視為「貧乏」是不恰當的。)助詞じょし助動詞じょどうしのような文法的ぶんぽうてきはたらきをする単語たんご場合ばあいなら、ときには「は」や「が」の使つかかた間違まちがえることもありますし、過去かこ事柄ことがらあらわすのに「た」をけるのをわすれることもあるかもしれません。(在像助詞和助動詞這樣具有語法功能的詞的情況下,有時可能會錯誤使用「は」或「が」,有時也可能忘記在表示過去事物時加上「た」。)しかし、その間違まちがいも、この条件じょうけんではかなら間違まちがえるなどということなのではありません。(但是,這些錯誤並不是在這些條件下必然出現的。)間違まちがいのあらわかたは、まさに千差万別せんさばんべつ不規則ふきそくなのです。(錯誤的出現方式實際上是千差萬別、不規則的。)

チョムスキーちょむすきーかんがえとはちがうのですが、もともとコトバことばというのは、はなつたえたい事柄ことがらと、理解りかいする事柄ことがらおなじであることを目的もくてきとする伝達でんたつ手段しゅだんです。(與喬姆斯基的想法不同,語言本質上是一種傳達手段,其目的是使說話者要傳達的事情與聽話者理解的事情一致。)この目的もくてきのためには、おな言語げんご使つか人間にんげんがすべて、単語たんご意味いみはたらき、ぶん構造こうぞうつくかたぶん意味いみ解釈かいしゃく方法ほうほうなど、あらゆる側面そくめんかんしておな規則きそく共有きょうゆうする必要ひつようがあります。(為了這一目的,使用同一語言的所有人類都必須在單詞的意義和功能、句子結構的構成方式、句子意義的解釋方法等所有方面共享相同的規則。)

幼児ようじにしても、言語げんご習得しゅうとくしていく過程かていで、自分じぶん使つか表現ひょうげんだれかにただしく理解りかいされなければならないということは、当然とうぜんかるようになります。(幼兒在習得語言的過程中,當然會理解自己使用的表達方式必須被他人正確理解。)そしてそのために、周囲しゅういい人間にんげん使つか言語げんご表現ひょうげんをもとにして、自分じぶん使つかおうとする言語げんごなかに、周囲しゅういい人間にんげん言語げんごおな規則きそくれようとしていくようになるのではないかとかんがえられます。(因此,幼兒會根據周圍人使用的語言表達,試圖將周圍人的語言規則引入自己正在學習的語言中。)

周囲しゅういい人間にんげんあたえるデータでーたは、いまのべたように、とき人間にんげんならばだれでもコトバことばおぼえられる(只要是人類,任何人都能學會語言。)
生成せいせい文法ぶんぽう普遍ふへん文法ぶんぽう生得性せいとくせい主張しゅちょうする理由りゆうにもあります。(生成文法主張普遍文法與生俱來的原因還有其他的。)それは、(1)人間にんげんであればだれでも母語ぼご獲得かくとくできること、(2)人間にんげんおなじしくみの言語げんご獲得かくとくできる人間にんげん以外の動物どうぶつ存在そんざいしないこと、です。(那就是:(1)如果是人類,任何人都能獲得母語;(2)除了人類以外,沒有其他動物能獲得與人類同樣結構的語言。)さらに、人種じんしゅちがっていても、おな言語げんご使つか環境かんきょうそだてば、だれもがおな母語ぼご習得しゅうとくするという事実じじつもあります。(而且,即使人種不同,只要在使用同一語言的環境中成長,任何人都能習得相同的母語,這也是事實。)
つまり、こういう事実じじつは、コトバことば人間にんげんというしゅ特有とくゆうのものなのだから、コトバことばがもつ中核的ちゅうかくてき部分ぶぶんは、人間にんげん遺伝的いでんてき、つまり生得的せいとくてきそなわわっているものだとかんがえなければならないということです。(也就是說,這樣的事實表明,既然語言是人類這個種族特有的東西,那麼語言所具有的核心部分必須是在遺傳上、也就是與生俱來就具備在人類身上的。)たしかに、人間にんげんだけがコトバを使つかえるのですから、コトバを使つかうための能力のうりょく人間にんげん遺伝的いでんてきあたえられているということは、間違まちがいないことだとおもいます。(的確,既然只有人類能使用語言,那麼使用語言的能力是在遺傳上被賦予人類的,這是毫無疑問的。)
どんな動物どうぶつでも、そのしゅ特有とくゆう能力のうりょくがあるのだとしたら、普通ふつうまれつきそういう能力のうりょくがあるものとかんがえるのは、ごく自然しぜんなことです。(如果任何動物都有其種族特有的能力,那麼普通來說認為這些能力是與生俱來就擁有的,這是非常自然的事情。)ですから人間にんげんについても、何らかのてんまれつきコトバを使つか能力のうりょくがあるのだとかんがえることに、不自然ふしぜんなところはありません。(因此,認為人類在某些方面與生俱來就具有使用語言的能力,也沒有什麼不自然的地方。)
ただ問題もんだいなのは、そのまれつきの能力のうりょく中身なかみなのです。(但問題在於,那個與生俱來的能力的具體內容是什麼。)さきほどからのべべているように、生成せいせい文法ぶんぽう仮定かていんする普遍ふへん文法ぶんぽうのようなしくみが、生得的せいとくてきのうなかれられていなければ、五年ごねん程度ていど母語ぼご文法ぶんぽう規則きそく獲得かくとくできないのだ、ということがただしく論証ろんしょうされているわけではけっしてありません。(正如之前所述,生成文法假設的普遍文法那樣的機制,若不是與生俱來就組織在大腦中,就無法在五年左右習得母語的文法規則,這一點絕對沒有被恰當地論證。)
まれつきの言語げんご獲得かくとく能力のうりょく人間にんげんにあるとすれば、Xバーばー理論りろんとかθ理論りろんとかの、生成せいせい文法ぶんぽう普遍ふへん文法ぶんぽう中身なかみとして主張しゅちょうする諸原理しょげんりが、その能力のうりょく構成こうせいする要素ようそとしてふくまれていなければならない、ということを何らかの方法ほうほう論理的ろんりてき証明しょうめいしないかぎり、そのような普遍ふへん文法ぶんぽう人類じんるいにとって生得的せいとくてきなものだという主張しゅちょうを、そのままれることはむずかしいでしょう。(若人類確實具有與生俱來的語言獲得能力,那麼生成文法作為普遍文法內容所主張的各項原理,比如X棒理論或θ理論等,必須被包含在構成這一能力的要素中,除非用某種方法在邏輯上證明了這一點,否則很難直接接受那種普遍文法對人類來說是與生俱來的這樣的主張。)

げんけんしょう ―Xろん

せいせいぶんぽうていする「へんぶんぽう」がしょうとくてきだというしゅちょうごうせいは、やはりどうもうたがわしいとしかいようがないのですが、だからと言って、にんげんへんてきなものだとしゅちょうされているいっれんげんぐんごうせいまでもがていされるわけではありません。(生成文法所假設的「普遍文法」具有生得性這一主張的合理性確實令人懷疑,但這並不意味著人類語言中被主張為普遍的一系列原理群的合理性也被否定了。)すべてのげんけんとうするわけにはいきませんので、では、「Xろん」と「θろん」について、それがたしてげんとしてとうなものなのかどうか、かんがえてみることにしましょう。(因為無法檢討所有原理,以下我們將考察「X棒理論」和「θ理論」,看它們是否真的作為語言原理是恰當的。)ろんは、こうぞうそくをよりいっぱんしたものです。(X棒理論是對短語結構規則的進一步概括。)えいこうぞうそくは、つぎのようなかたちをしていました。(英語的短語結構規則具有以下形式。)

どうどうめい

めいげんていめい

ぜんぜんめい(前置詞句→前置詞+名詞句) ((「限定詞」という名称は、冠詞や所有形容詞などを総称するものです)げんてい」というのは、かんしょゆうけいようなどをそうしょうしためいしょうです)(「限定詞」是冠詞和所有形容詞等的統稱)げんパラメータろん」では、じゅうらいしんそうこうぞう」「ひょうそうこうぞう」とばれていたこうぞうは、ひょうじゅんろんはってんともなってそのせいしつわってきたことから、それぞれ「Dこうぞう」「Sこうぞう」とばれるようになっていました。(在「原理與參數理論」中,因為標準理論發展所導致結構性質發生變化,原本稱為「深層結構」「表層結構」的結構,現在分別被稱為「D結構」「S結構」。)Dはぶん deep (しんそう)のあたまもじでしょうし、Sも surface (ひょうそう)のあたまもじなのでしょうから、あまりわったというかんはしませんが、とにかくめいしょうわってきています。(D大概是deep(深層)的首字,S也是surface(表層)的首字,所以感覺沒有太大改變,但不管怎樣名稱確實改變了。) さて、Dこうぞうつくるためのそくこうぞうそくなのですが、このようなかたちでも、それほどふくざつだというわけではありません。(那麼,制定D結構的規則就是短語結構規則,但即使這樣的形式,也不是特別複雜。)しかし、それぞれちがうようにえるこうぞうそくにも、きょうつうせいしついだせるのだとしたら、そうではないあいよりものぞましいことはたしかです。(但如果即使那些看起來各不相同的短語結構規則中,也能找到共同特性的話,那無疑比找不到的情況更令人滿意。)そこで「どうどうめい」と「ぜんぜんめい」のふたつをてみると、ちゅうしんはそれぞれどうぜんなのですから、ちゅうしんとなるたんまえかれて、そくてきうしろにかれています。(因此看「動詞句→動詞+名詞句」和「前置詞句→前置詞+名詞句」這兩個,既然短語的中心分別是動詞和前置詞,那麼作為短語中心的詞被放在前面,補充性詞語被放在後面。) ちゅうしんとなるたんを「しゅよう」、そくてきを「」とぶことにすると、これらふたつのこうぞうそくについては、「しゅよう」というじゅんばんになっていることになります。(如果把作為短語中心的詞稱為「主要部」,把補充性詞語稱為「補部」,那麼這兩個短語結構規則就按「主要部+補部」的順序排列了。)ところが、「めいげんていめい」については、このしゅようあきらかにめいですから、しゅようじゅんばんぎゃくです。(但對於「名詞句→限定詞+名詞」,這個短語的主要部明確地是名詞,所以主要部和補部的順序相反。) これではこうぞうそくいっぱんなどできそうにありませんが、ここでされるのが、つぎのようなひょうげんです。(這樣看來似乎無法一般化短語結構規則,但在這裡提出的是以下這樣的表述。) (74) a. destruction of the city (そのまちかい)(那個城鎮的破壞) b. criticism of the theory (そのろんはん)(那個理論的批判) (74)にあげたりっめいですが、このめいは、「めいぜん」というこうぞうになっていますから、めいについては、つぎのようなこうぞうそくもあることになります。((74)所列舉的詞語也是正式的名詞句,但這個名詞句採取「名詞+前置詞句」的結構,所以對於名詞句來說,也就存在著以下這樣的短語結構規則。)

めいめいぜん (名詞短語→名詞+前置詞短語) これを見ると、めいも「しゅよう」というこうぞうになっているように見えます。(這樣看來,名詞短語也似乎呈現出「主要部+補部」這樣的結構。)それに、けいようあとぜんが来るこのようなひょうげんについても、「けいようけいようぜん」というそくあらわすことができます。(而且,對於形容詞後面跟著前置詞短語這樣的表達方式,也可以用「形容詞短語→形容詞+前置詞短語」這樣的規則來表示。) (75) a. afraid of ghosts (ゆうれいこわがっている)(害怕鬼魂) b. interested in art (げいじゅつきょうがある)(對藝術感興趣) だとすると、けいようについても、「しゅよう」というほかきょうつうこうぞうがあるとかんがえることができそうです。(那樣的話,對於形容詞短語,似乎也可以認為它具有「主要部+補部」這樣與其他短語相同的結構。) どうめいけいようぜんのどれもが、「しゅよう」というこうぞうをもっているのだから、にんつぎのようなそくしたがって、しゅようてんかいされることになります。(既然動詞短語、名詞短語、形容詞短語、前置詞短語都具有「主要部+補部」這樣的結構,那麼任意短語就會按照下述這樣的規則展開為主要部和補部。)

しゅよう (句→主要部+補部) しかししかし、これでえいこうぞうそくいっぱんできたかとうと、そうでもありません。(但是,如果這樣就能概括英語的短語結構規則的話,也並非如此。)この「めいげんていめい」というそくのこっています。(這個「名詞短語→限定詞+名詞」的規則仍然存在。)このこうぞうめいでは、めいまえに、めいせいしつげんていするたんかれているのですが、めいがこのしゅようであることにわりはありません。(在這種結構的名詞短語中,在名詞之前放置限定該名詞性質的詞語,但名詞作為該短語主要部分的事實不變。) そこでかんがされたのが、めいしゅようとするは、じゅうてんかいされるのだというものです。(於是人們想到的是,以名詞為主要部分的短語會進行二重展開。)つまり、さいしょおおきなめいが「げんていめい」にかれて、つぎちいさなめいが「めいぜん」にかれるというしくみです。(也就是說,先是較大的名詞短語分解為「限定詞+名詞短語」,然後較小的名詞短語分解為「名詞+前置詞短語」的機制。) このてんかいそくかたちあらわしたいのですが、「おおきなめい」とか「ちいさなめい」ではながすぎるので、「めい"」「めい'」というほうかんがあんされました。(想用規則的形式表示這種展開,但「較大的名詞短語」和「較小的名詞短語」太冗長了,所以設計了「名詞"」「名詞'」的記號法。)このほうさいようすると、めいしゅようとするがもつことのできるこうぞうは、つぎのようになります( 79)。(採用這種記號法時,以名詞為主要部分的短語可以具有的結構如下(圖79)。) [ 79]

めい

限定詞げんていし / 名詞めいし

めい / ぜん
おおきなめい()がかいてんかいされるようなしくみがしゅるいにもないかとてみると、どうけいようぜんまえならば、てきとうふくけることができます。(如果大名詞(片語)有兩次展開的機制,那麼看看其他類型的片語中是否也有這樣的機制,在動詞片語、形容詞片語、前置詞片語的前面,就可以附加適當的副詞。)
つぎのようなれいです。(以下是這樣的例子。)
(76) a. successfully passed the examination (けんにうまくとおった)
b. very afraid of ghosts (ゆうれいをとてもこわがっている)
c. just before Christmas (ちょうどクリスマスまえ)
というわけで、どうけいようぜんちゅうしんとするについても、どうけいようぜんかいてんかいするとかんがえることができそうです。(因此,對於以動詞、形容詞、前置詞為中心的片語,也可以認為動詞、形容詞、前置詞會進行兩次展開。)
そこで、げんていふくのことを、ぜんたいとして「てい」(英では Specifier ですから、ないようとくしゅするたんというようなあじいです)とぶことにすると、このようないっぱんてきつぎのようなこうぞうをもつとかんがえることができます( 81)。(因此,將限定詞和副詞整體稱為「指定部」(英文是 Specifier,意思大約是特殊化內容的單詞),這樣的語句通常可以認為具有如下所示的結構(圖 81)。)めいどうけいようぜんそうしょうして「X」とぶことにします。「はんちゅう」もどうようです。(名詞、動詞、形容詞、前置詞統稱為「X」。「範疇」也是一樣的。)
[ 81]

はんちゅう

てい / はんちゅう

しゅよう(はんちゅう) /

つまり、いっぱん的には、さいしょうはんちゅうがまずしゅようをもつちゅうかんはんちゅう(はんちゅう')にかくだいし(これを「とうしゃされる」といます)、つぎちゅうかんはんちゅうていそなえたさいだいはんちゅう(はんちゅう")にとうしゃされるというしくみを、コトバはいっぱん的にもっているのだということになるわけです。(也就是說,一般來說,最小的範疇首先擴大成具有主要部和補部的中間範疇(範疇')(我們稱之為「被投射」),然後中間範疇再被投射成具有指定部的最大範疇(範疇"),語言一般都具有這樣的機制。)これが、Xろんいちばんじゅうようなポイントです。(這是X條理論最重要的一點。)

バー理論りろん方法ほうほう問題もんだい

こうしてめでたく句構造くこうぞう規則きそく一般いっぱんができたようにえますが、たしてそうなのでしょうか。(這樣就圓滿地,句子結構規則的一般化似乎實現了,但是真的如此嗎?)じつは、問題もんだいがないわけではありません。(實際上,並非沒有問題。)従来じゅうらい名詞めいし動詞どうし形容詞けいようしについては、指定していいがなくても、主要しゅよう名詞めいし動詞どうし形容詞けいようし一個いっこだけでも、(=範疇はんちゅう)を構成こうせいすることができます。(關於傳統的名詞短語、動詞短語、形容詞短語,即使沒有限定詞或補語,僅用核心部分的名詞、動詞、形容詞一個,就能構成短語(=範疇)。)

(77) a. destruction, criticism

ところところが、前置詞ぜんちし(前置詞ぜんちし)については、主要部しゅようぶであるはずの前置詞ぜんちしだけでは、どうやってもこの成り立たせなりたたせることはできません。(但是,對於介詞(介詞短語)而言,僅有作為主要部分的介詞,無論如何都無法構成這個短語。)構造こうぞうとしては、つぎのように、同じおなじように見えますが、実際じっさいには性質しょうしつ違うちがうのです(83)。(在結構上,看起來似乎與其他短語相同,但實際上其性質是不同的(圖83)。)

[83]

ぜん"

/ ぜん'

ぜん / めい

じつのところそれはとうぜんなのでして、ぜんというのは、あくまでもめいやくわりやくわり)をひょうすためのたんなのであって、めいなしでぜん使つかうことはできないのです。(實際上那是理所當然的事,前置詞正是用來表達名詞的意義角色(θ角色)的詞,沒有名詞就無法使用前置詞。)だとすると、「ぜん」とばれてきているしゅようは、じつさいにはめいだとかんがえるべきだということになります。(那樣的話,被稱為「前置詞句」的這些短語的中心應該被認為實際上是名詞。)

しゅもくてき(そしてときかんせつもくてき)はこうぞうによってひょうされますが、それがいやくわりぜんひょうすというのがえいまりです。(主語和賓語(有時還有間接賓語)由結構來表示,而其他角色則由前置詞表示,這是英語的規則。)ですから、ぜんがあろうがなかろうが、めいふくは、めいしゅようとするのだとかんがえて、いっぱんてきしょうしつあきらかにしていくひつようがあります。(因此,無論有沒有前置詞,含有名詞的短語都應該被認為是以名詞為中心的,我們需要這樣來闡明短語的一般特性。)ところが、Xろんはそれをすることによって、こうぞうそくいっぱんもくしたのであり、そのけっこういうもんだいしょうじてしまったのです。(然而,X-bar理論卻通過忽視這一點而試圖實現短語結構規則的一般化,其結果導致了這樣的問題出現。)

さらに、「ぶんめいどう」というこうぞうそくを、Xろんてはめようとしても、もんだいてきます。(而且,即使試圖將「句→名詞句+動詞句」這樣的短語結構規則應用於X-bar理論,問題還是會出現。)さきたように、にんぶんは、それがしゅぶんであっても、さいしょに「ぶんひょうしき」がかれるとされますから、ぶんかんするこうぞうそくは、つぎのようなけいになります。(如前所述,任何句子,即使是主句,據說一開始都會放置「補句標記」,因此關於句子的短語結構規則將採取以下形式。)

ぶんぶんひょうしきぶん

ぶん名詞句めいしく動詞句どうしく補文標識ほぶんひょうしき」を指定部してiteぶ要素ようそだとかんがえれば、ぶん'の展開てんかい(投射とうしゃ)については、一応Xバー理論ばーりろん仮定かていいます。(如果把「補文標識」看作指定部的要素,那麼關於句子的展開(投射),暫且符合X棒理論的假設。)しかしただしぶん展開てんかいほうは、名詞句めいしく主要部しゅようぶとするわけにはいきませんから、こまってしまうわけです。(但是,句子的展開方面,不能以名詞句作為中心詞,所以陷入了困境。) 普通ふつうならば、やはり句構造規則くこうぞうきそく完全かんぜんに一般化するのは無理むりだったのだと、Xバー理論ばーりろんほうをあきらめるか、何らかのかたち大幅おおはば修正しゅうせいくわえようとするものです。(通常的話,應該會放棄X棒理論,或者以某種形式進行大幅修正,因為完全一般化短語結構規則是不可能的。)ところがしかし生成文法せいせいぶんぽうは、Xバー理論ばーりろんはあくまでもただしいのであるという立場たちばつらぬきます。(但是,生成文法堅持X棒理論始終是正確的這一立場。) そのためにどうしたのかと言うと、「動詞句どうしく助動詞じょどうし動詞どうし名詞句めいしく」という句構造規則くこうぞうきそく使つかわれた「助動詞じょどうし」をさらに一般化した「一致要素ようそ」という範疇はんちゅうを、ぶん主要部しゅようぶだとしたのです。(要說是怎麼做的,就是把在「動詞句→助動詞+動詞+名詞句」這個短語結構規則中使用的「助動詞」進一步一般化為「一致要素」這一範疇,並將其作為句子的中心詞。)「一致要素ようそ」というのは、助動詞じょどうしだけでなく、過去形かこけいつく接辞せつじ-edや、さらには単数たんすう複数ふくすう区別くべつ人称にんしょう区別くべつなど、非常にひろ範囲はんい特性とくせいふくむ、あまり正体しょうたいのはっきりしない要素ようそです。(「一致要素」不僅包括助動詞,還包括製造過去式的詞綴-ed,以及單複數的區分、人稱的區分等,涵蓋範圍非常廣,是一個身份不太明確的要素。)動詞どうしあらわすことができるさまざまのはたらきを一括したものだとかんがえてよいだろうとおもいます。(我認為可以把它看作是動詞所能表達的各種功能的總合。) この一致要素ようそ展開てんかいしてつくられるのがぶんなのだとすると、今までぶんだと言われてきた範疇はんちゅう構造こうぞうは、つぎのようなかたちあらわされることになります(図 85)。(如果句子是由這個一致要素展開而形成的,那麼到目前為止被稱為句子的範疇的結構,就會用以下的形式來表示(圖85)。) [図 85]

いっ

ていめい) / いっ

一致いっち / 補部ほぶ(動詞どうし)

ただし、一致いっち「というのは、では「ぶん」にたるものです。(不過,「一致」在圖表中對應於「句子」。)補文ほぶん標識ひょうしきまでふくむようにするためには、さらに補文ほぶん標識ひょうしき主要部しゅようぶとする投射とうしゃおこなわなければなりません。(為了包括補文標識,必須進一步執行以補文標識為主要部的投射。)つぎのようになります( 86)。(結果如下(圖 86)。)

[ 86]

ぶん

指定していぶ補文ほぶん'

ぶんひょうしき / いっ
いずれにしても、「ぶん」というはんちゅうをなくしてしまって、いっようしゅようとするつくすことで、Xバー理ばーりろんされています。(無論如何,通過去除「句子」這一範疇,創造出以一致要素為主要部分的短語,X棒理論得以維持。) しかし、ぜんあいどうように、いっようだけでぶんつなどということは、まったくありません。(但是,就像前置詞短語的情況一樣,僅靠一致要素就能成立句子這樣的事根本不存在。)いっようはそもそもひとつのたんとしてすらあられないこともあるのですから、それだけでぶんとしてのうするなど、とてもかんがえられないことです。(因為一致要素本身有時甚至不作為一個單詞出現,所以僅靠它來發揮句子的功能是完全無法想像的。)だとすると、やはり「いっ」というも、めいどうなどとはまったちがせいしつをもったものだとかんがえるがいにはないのです。(那麼,「一致」這個短語也應該被認為具有與名詞短語和動詞短語等完全不同的性質。) そもそも、「しゅよう」と「」、それに「てい」というはんちゅうが、はんちゅうぜんたいしくみなかでどんなとくせいいっぱんてきにもつものなのかという、これらのようていげんみつにしないままに、じゅうらいこうぞうそくを、バー理ばーりろん使つかっていっぱんしようとするからこそ、このようなかいがたはんちゅうせっていいたってしまうのです。(首先,在沒有嚴格定義「主要部」、「補部」及「指定部」這些範疇在整體範疇體系中通常具有什麼特性的情況下,試圖用X棒理論生硬地將傳統的短語結構規則一般化,正因為這樣,才會導出這樣難以理解的範疇設定。)バー理ばーりろんが、こうぞうせいせいほうほういっぱんてきせつめいするようにえる、へんぶんぽうようとしてはたいへんりょくてきかんがかたであることはたしかです。(確實,X棒理論作為普遍文法的一個要素,看起來能夠一般性地說明結構的生成方式,是一種非常有吸引力的想法。)しかし、いっぱんもとめるあまりに、ろんにとってごうなデータがあるのに、ろんしゅうせいせずにデータのほうを、ごうてきこんきょもなしにへんこうしてしまうという、がくてきろんてきぶんせきほうとはあいいれれないだんうったえるのでは、だれをもなっとくさせるせつめいていきょう供するろんとしてみとめることは、できないのではないかとおもえます。(但是,過度追求一般化,當面對對理論不利的數據時,不是修正理論,而是沒有合理根據地隨意改變數據,訴諸於與科學、邏輯分析方法相悖的手段,這樣的話,作為一種能提供令人信服解釋的理論,我認為是無法被接受的。)

θシータろん

θシータろんは、ぶんちゅうめいにはかならず一つずつ、ことなったθやくわりあたえられていなければならないという、にんかんならおそらくいつでもたさなければならないせいしつ(これを「θじゅん」とびます)をあらわしたものであって、そのかぎりではきわめて一ぱんせいたかいものだとかんがえてよさそうです。(θ理論是用來表示一個性質的,該性質規定文中的名詞必須一個一個地被賦予不同的θ角色,這是人類語言可能在任何時候都必須滿足的性質(我們把這個稱為「θ原則」),在這個意義上,可以說是一個極為普遍適用的理論。) θやくわりというのは、ようするにじゅうらいやくわりのことで、じゅんのようなぶんこうぞうとはべつの、かなりじゅんすいに「」のりょういきぞくするようです。(θ角色就是指傳統的語義角色,它是與語序之類的句子結構不同的、相當純粹地屬於「意義」領域的要素。) せいせいぶんぽうてたときほうしんとしては、ぶんこうぞうつくられるしくみのせつめいを、できるだけてきよういんれずにおこなおうということがありました。(喬姆斯基在建立生成文法時的方針是,要盡可能地不引入語義因素來說明句子結構是如何形成的。) しかし、ぶんであれであれたんであれ、それがこうせいしているたんであるじょうあらわすというせいしつからのがれることはけっしてできないことはあきらかです。(但是,無論是文句還是短語還是單詞,只要它們是構成語言的單位,就不可能逃脫表示意義的特性,這一點是明確的。) へんぶんぽうこうせいするようとしてθろんくみれられたことは、せいせいぶんぽうてやはりこうぞうかんけいすることはできなかったのだということを、ゆうべんものかたっています。(θ理論被納入普遍文法的組成要素中,這雄辯地說明了生成文法終究無法忽視結構與意義之間的關係。) θろんかんけいしているかんがかたとして、「とうしゃげん」というものがあります。(與θ理論相關的一種觀點是「投射原理」。) これは、どうあらわによって、このどう使つかったぶんあらわれるべきめいのθやくわりけっていされ、そのやくわりもとづいてぶんこうぞうきまるというものです。(這是指根據動詞表示的意義,用這個動詞構成的句子中應該出現的名詞的θ角色被決定,並且基於這個角色,句子的結構被決定。) さらに、このこうぞうは、Dこうぞう、Sこうぞうろんけいしき(=ぶんあらわ示)というすべてのこうぞうでもされなければならないとされます。(此外,這個結構還必須在D結構、S結構、邏輯形式(=句子的意義表示)所有結構層級上被保持。) れいえば、see というどうならば、これはどうで「る」というですから、しゅもくてきという二つのθやくわりようきゅうします。(例如,如果是動詞 see,它是及物動詞,意思是「看」,那麼它要求主語和賓語兩個θ角色。) したがって、つぎれいしゅもくてきもある a はせいしいぶんですが、しゅしかない b はてきかくぶんになります。(因此,在下面的例子中,既有主語又有賓語的 a 是正確的句子,但只有主語沒有賓語的 b 是不適格的句子。) (78) a. Nancy saw a tree. (ナンシーは木を見た)

b. *Nancy saw. ここらあたりは、べつにθろんだのとうしゃげんだのと、たいそうどうてをようしなくても、「どうにはもくてきひつようだ」というじゅうらいからのじゅんち出せばいいだけのようながします。(這一帶似乎不需要特意準備什麼θ理論或投射原理這樣的龐大工具,只需拿出傳統的「及物動詞需要賓語」這一基準就夠了。)げんろんでは、これだけではなくて、めいどうについてのせつめいをするのに、θじゅんとうしゃげんえんようされます。(但在原理與參數理論中,不僅如此,為了說明名詞的移動,還利用了θ準則和投射原理。)つまり、もしめいがあるからべつどうするとすれば、そのどうは、θやくわりあたえられる(「θ」とびます)から、θやくわりあたえられない(「θ」とびます)へのものでなければならない、というものです。(也就是說,如果名詞從某一位置移動到另一位置,那麼這種移動必須是從被賦予θ角色的位置(我們稱之為「θ位置」)移動到不被賦予θ角色的位置(我們稱之為「θ非位置」)。)あるこうぞうであるめいが何らかのθやくわりあたえられたとすると、そのめいそのθやくわりするとされます。(如果某一結構中的某個名詞被賦予了某種θ角色,那麼該名詞之後就一直保持這個θ角色。)そうすると、もしそのめいべつしょどうして、そのべつのθやくわりあたえられてしまったら、そのめいつのθやくわりをもつことになり、これはθじゅんはんします。(但如果那個名詞移動到另一個地方,在那個位置又被賦予了另一個θ角色,那麼該名詞就會具有兩個θ角色,這違反了θ準則。)だから、めいどうするのは、θやくわりあたえられないでなければならない、というわけです。(因此,名詞的移動必須是從不被賦予θ角色的位置進行。)これだけだと、めいのθやくわりたしかに一つしかありえないのだから、θからθへしかどうできないというせいやくは、なるほどくつっているなというかんじはします。(就這點而言,既然名詞的θ角色確實只能有一個,那麼只能從θ位置移動到θ非位置的這一限制看起來確實是合理的。)しかし、せつめいのためにあげられるたいれいを見ると、必ずしものうとくできるわけではありません。(但是,看一下為說明這一點而舉出的具體例子,卻並不總是能令人信服。)つぎつのDこうぞうれいを見てください。(請看下面兩個D結構的例子。) (79) e seems [John to be innocent] (80) e was drawn the picture by Tom (79)は、「じつであるようにえる」というあらわし、(80)は「そのによってえがかれた」というあらわすことは、たいたいお分かりになると思います。((79)表示「約翰看起來是無辜的」,(80)表示「那幅畫是由湯姆畫的」,我想大家基本上都能理解。) このDこうぞうから、(79)ではていしゅ John がぶんとうくうしょ (e) のどうし、(80)では was drawn のちょくにある the picture がやはりくうしょどうすることで、つぎのSこうぞうられます。(從這個D結構出發,在(79)中不定式的主語John移動到句首的空位(e),在(80)中was drawn後面的the picture也移動到空位,由此得到以下的S結構。) (81) John seems to be innocent. (82) The picture was drawn by Tom. ひょうじゅんろんこうはんこうへんけいそくとしては「どう」だけしかみとめられないようになっており、げんろんでもそれはがれていました。(標準理論後期以來,作為變形規則,就只允許「移動」這一種,原理與參數理論也繼承了這一做法。)へんけいそくかず闇にやしてはいけないというろんとしてのようせいもありましたし、何より、へんぶんぽうちゅうこうぞうへんけいさせるそくるためには、あまりにへんけいそくとくしゅすることはけなければならなかったのです。(這既是出於理論上的要求,即不應無限制地增加變形規則的數量,更重要的是,為了在普遍文法中引入變形結構的規則,必須避免變形規則過度特殊化。) ひょうじゅんろんだいであれば、「じゅどうへんけい」がしんそうこうぞう(Dこうぞう)にてきようされることで、めいぶんとうどうするのだとせつめいすればよかったのですが、じゅどうへんけいはいされたげんろんでは、どううながす何らかのしくみをかんがえ出さなければなりません。(在標準理論時代,可以通過說「被動變形」應用於深層結構(D結構),從而使名詞短語移動到句首來解釋。但在廢除了被動變形的原理與參數理論中,必須想出某種促進移動的機制。) それではどのようになったのかというと、まず seem やじゅどうたいぶんについては、(79)や(80)のような、つうとはかなりちがうDこうぞうせっていしました。(那麼是怎麼解決的呢?首先,對於seem和被動態句子,設定了像(79)和(80)這樣與常規相當不同的D結構。)何と言っても、ほんらいならばしゅめいがあるべき、「いっよう」(ようするに「ぶん」)のていに何もたんがないのですから、まことにこうぞうとしか言いようがありません。(說起來,在本應有主語名詞短語的「協一要素短語」(也就是「句子」)的指定部位置上什麼詞都沒有,實在是難以理解的結構。) こんなDこうぞうになるのは、seem やじゅどうけいどうの「とくせい」、つまりてきせいしつにあるのだとせつめいされます。(解釋說,出現這種D結構是因為seem和被動形動詞的「詞彙特性」,也就是語義特性。)seem もじゅどうけいどうも、とくせいとして、Dこうぞうしゅくうしょになるのだとされるのです。(seem和被動形動詞據說作為詞彙特性,其D結構中主語的位置是空位。) seem は「~のようにえる」、じゅどうけいは「~される」というなのですが、このようなあらわどうが、どうしてつうめいしゅをもったDこうぞうつくらないのか、ということについてののうとくのいくごうてきせつめいはなされません。(seem是「看起來……」,被動形是「被……」的意思,但對於為什麼表達這樣意思的動詞不能像一般動詞那樣建立具有名詞短語主語的D結構,卻沒有給出令人信服的合理解釋。)

あじこうぞうかんけい

、あるどうがどのようなあじあらわしていれば、そのどうを使ってつくられるぶんふくまれるめいがどのようなθやくわりをもち、そして、そのようにしてていされたθやくわりおうじて、どんなこうぞうつくられなければならないかということについての、げんみつそくせいせいぶんぽうていされたことはまったくありません。(說到底,如果一個動詞表達的意思是某種含義,那麼用這個動詞構成的句子中包含的名詞應該具有什麼樣的θ角色,以及根據這樣指定的θ角色應該構建什麼樣的結構,這類嚴格的規則在生成語法中完全沒有被規定過。)けっきょくのところ、どうあらわあじが分かっていれば、それがようきゅうするθやくわりとうぜん知っているはずだし、どうようきゅうするこうぞうも、それにおうじて分かるはずだ、ということのようです。こんないいげんていかたでいいのなら、さきほどのえっくすろんあいおなじように、すでにわくみをめたろんようせいうように、θやくわりだろうがDこうぞうだろうが、てきとうめることができそうです。(結果看起來是,只要知道動詞表達的意思,就應當自然知道它要求的θ角色,以及動詞要求的結構也應該相應地知道。如果這種不嚴謹的規定方式可以接受的話,就像之前X條形理論的情況一樣,可以按照已經決定框架的理論要求,隨意確定θ角色或D結構。)おおもとのていめいかくなのですから、しゅちょうされるθやくわりこうぞうせいのかそれともてきせつなのかをはんだんするためにってつ、きゃくかんてきじゅんなどどこにもないからです。(因為基本的規定本身就不明確,所以沒有客觀的標準來判斷所主張的θ角色或結構是否正確或不適當。)ぶん(79)のようなD構造こうぞうせっていされたのは、つぎのようなぶんじっさい使つかわれるからでしょう。(大概像(79)這樣的D結構之所以被設定,是因為實際上使用著下面這樣的句子。)(83) It seems that John is innocent.((83) 看起來約翰是無辜的。)(81)と(83)があらわあじは、おなじだとかんがえてしさありません。(可以認為(81)和(83)所表達的意思是相同的。)おなじ seem というどうを使っていて、ていめいせつという、どちらもぶんとしてのはたらきをすることができるが使われているのですから、どうとくせいこうぞうはんえいされるはずだという「とうしゃげん」をせいしいものとしてれるかぎり、どちらのぶんについてもDこうぞうたようなかたちにしておきたいところです。(因為使用的是同一個seem動詞,而且使用的是不定詞和名詞分句,都可以起句子的作用,如果接受「投射原理」(即動詞的詞彙特性應該反映在結構中)是正確的,那麼對於這兩種句子,我們都希望D結構採取相似的形式。)ところところが、seem については、どういうわけかていや that せつしゅにした、つぎのようなぶんは使われません。(但是,對於seem,不知怎樣,下面這樣以不定詞或that分句為主語的句子就不被使用。)(84) a. *For John to be innocent seems.((84) a. *約翰無辜似乎是。)b. *That John is innocent seems.(b. *約翰無辜的事實似乎是。)となると、seem を使うぶんのDこうぞうとしては、(79)のようなものをそうていせざるをえないということなわけです。(這樣的話,對於使用seem的句子的D結構,就不得不假設像(79)那樣的結構。)「~にえる」というあじどうは、ほんでも「ゆ」というふるどうこんせきられますし、では、つぎれいのように、つうどうけいどうが使われます。(表示「~看起來」意思的動詞,在日語中也能看到古老被動動詞「見ゆ」的痕跡,而在拉丁語中,如下面的例子一樣,通常使用被動形的動詞。)(85) Johannes innocens videtur.((85) 約翰看起來是無辜的。)videtur は、「る」というあじどう videre のどうたいです。(videtur是「看」這個意思的動詞videre的被動態。)ですから、seem というどうとくしゅこうぞうようきゅうして、それがこのようなどうたいどうつくこうぞうたようなものになるとしても、じょうぜんだというわけでもありません。(因此,即使seem這個動詞要求特殊的結構,而且這變得與這種被動動詞構成的結構相似,也不能說它非常不自然。)しかし、seem (~にえる)というあじどうであれば、かならず(79)のようにてい(もしくはめいせつ)がどうこうぞくするようなDこうぞうつくらなければならない、というようなかたちの、どうあじこうぞうかんけいについてのそくがきちんとていされているわけではありません。(但是,關於「如果一個動詞的意思是seem(~看起來),那麼它就必須構成像(79)那樣的D結構,其中不定詞(或名詞分句)後續於動詞」這樣形式的動詞意思與結構的關係規則,並沒有被清楚地提出。)じっさいに使われるぶんのデータなどをもとにして、ごうのいいようにDこうぞうせっていされたにぎません。(D結構只是基於實際使用的其他句子的數據,按照便利的方式被設定的。)とうしゃげん」は、まさにたんあらわあじぶんこうぞうあいだみっせつかんれんせいがあるという、おそにとってはへんてきしんぞくするせいしつめいごんしたものです。(「投射原理」正是明確表述了單詞所表達的意思與句子結構之間存在著密切關聯性這一性質,這大概屬於言語本身的普遍真理。)このげんは、ーがせいせいぶんぽうろんこうあんしたとうしょには、ぶんはんするものだったとおもうのですが、やはりあじこうぞうかんけいがあるというほんしつは、せいせいぶんぽうろんにもれざるをえなかったということなのです。(這個原理與喬姆斯基最初構思生成語法理論的意圖可能相反,但畢竟意思與結構之間存在著關係這一言語的本質,還是不得不被納入生成語法理論之中。)このように、せいせいぶんぽうほんしつはんえいするためには、とうしゃげんどうにゅうはまことにのぞましいものであったのです。(這樣看來,為了讓生成語法反映言語的本質,投射原理的引入實是令人滿意的。)にもかかわらず、あじこうぞうかんけいについてのめいかくそくかいめいすることをせずに、何となくちょっかんてきどうようきゅうするこうぞうめてしまったのは、せいせいぶんぽうしんじつせまげんろんにするチャンスをのがけっになったのではないかと、ざんねんがします。(儘管如此,沒有去解明意思與結構關係的明確規則,而是有點隨意地憑直覺決定動詞要求的結構,這似乎導致喪失了使生成語法成為逼近言語真實的語言理論的機會,令人遺憾。)

ぜんていけつろんみ込まれたろん

じゅどうぶんDディーこうぞうについてもおなじです。(關於被動文的D結構也是一樣的。)じゅどうぶんは「Xが~される」というあじあらわすのですが、このあじはんえいするこうぞうとして、どうして(80)のように、じゅどうぶんしゅになるはずのめいが was drawn というじゅどうたいどうちょくするようなかたちつくられるのか、どうもよくかりません。(被動文表示「X被~」的意思,但作為反映這個意思的結構,為什麼像(80)那樣,應該成為被動文主語的名詞片語位於was drawn這個被動態動詞的直後呢,我實在想不太明白。)じゅどうたいであっても、もともとはどうであって、そのもくてきが the picture なのだから、このめいDディーこうぞうではやはりどうもくてきにあるのだということなのかもしれません。(即使是被動態,本來也是他動詞,其賓語是the picture,所以這個名詞片語在D結構中也許確實位於他動詞賓語的位置。)しかしおおきなゆうとしては、つぎのようなぶんが、じゅどうがたどうもちいてつくられるこうぞうとしてのうだというものがあります。(但是,有一個重大的原因,就是像下面這樣的句子,被認為是可以用被動形動詞構成的結構。) (86) a. There were drawn pictures on the wall. (牆上被畫了一些畫。) b. There is expected a meeting next week. (預期下週會舉行會議。) つまり、Sエスこうぞうぶんとうに there があって、じゅどうたいどうがたちょくしゅかれているこうぞうのうなので、これをうまくせつめいできるようにするために、Dディーこうぞうでもおなじようなこうぞうかりていしておこうというわけです。(也就是說,在S結構中,句首有there,被動態動詞形直後是主語的結構是可能的,所以為了能夠好好解釋這一點,在D結構中也要假設同樣的結構。) (80)のようなSエスこうぞうつくられるゆうほんとうろんてきせつめいするためには、このこうぞうとはぜんかんけいに、じゅどうたいあじだけをもとにしてつくられるDディーこうぞうかりていしておかなければなりません。(為了真正從邏輯上解釋像(80)這樣的S結構之所以被構造的原因,必須假設一個與這種結構完全無關的、只基於被動態意思的D結構。)そしてそのこうぞうに、これも(80)のようなこうぞうせいせいされることとはかんけいそくぐんてきようしたけっまったおなこうぞうしゅつりょくされたのだとしたら、それでほんとうせつめいたっせいされたことになります。(然後對該結構應用也與生成像(80)這樣的結構無關的一組規則,作為結果,完全相同的結構被輸出,那樣的話就真正實現了解釋。)ところが、さいしょからつくられるSエスこうぞうまっていて、このこうぞうがうまくできあがるようにDディーこうぞうせっていするだけなのだったら、とうしゃげんなどあろうがなかろうがあまりかんけいありません。(但是,如果一開始產生的S結構已經確定,只是設定D結構使這個結構能夠順利形成的話,那投影原理有沒有都沒有太大關係。) じつさいかんさつされるぶんちかSエスこうぞうがうまくどうしゅつされることはひつようですから、このこうぞうねんとういてDディーこうぞうからのせいせいていかんがえるということは、こうぞうせつめいとしてはとうぜんのことだろうとおもいます。(因為實際觀察到的文句接近的S結構能夠順利推導出來是必要的,所以將這個結構放在心上,從D結構思考生成過程,作為結構的解釋應該是當然的。)しかしDディーこうぞうせっていが、たんがもっている「とくせい」、つまりあじてきとくちょうもとづいているのだとわれながら、じつとくせいこうぞうかんけいがほとんどしめされないのだとすると、けっきょくSエスこうぞうがうまくせいせいされるようにDディーこうぞうめただけではないかといういんしょうあたえることになりかねません。(但是,雖然說D結構的設定是基於單詞所具有的「詞彙特性」,也就是語義特徵,但實際上幾乎沒有顯示詞彙特性和結構的關係,那樣的話,結果不就等於只是為了使S結構能夠順利生成而決定D結構嗎,這樣難免會給人這樣的印象。) しかも、(83)や(86)のように、it や there というどくあじをもたない、「きょ」などとばれるたんぶんさきとう、つまりDディーこうぞうにあったくうしょ (e) のあらわれることができるように、このくうしょはθやくわりあたえられない(θシータバー)だとされます。(而且,像(83)和(86)那樣,it和there這樣沒有獨立意思、被稱為「虛詞」等的單詞能夠出現在句首,也就是D結構中原有的空位(e)的位置,所以這個空位位置被認為是不能被賦予θ角色的位置(θ-吧位置)。)これについても、なっとくのできるゆうはありません。(對於這一點,也沒有能令人信服的理由。)ようするに、it や there があらわれることのできるだからθバーだとされているだけのことで、seem やじゅどうがたあらわあじから、ぶんとうはθバーでなければならないというせつめいがされているわけではありません。(說白了,就是因為it和there能夠出現的位置就被認為是θ-吧位置,並沒有從seem和被動形所表示的意思來說明句首位置必須是θ-吧位置的解釋。) ところが、(79)や(80)のように、つうめいである John や the picture がDディーこうぞうからこのくうしょうつどうできるのだとすると、これらはちゃんとしたモノをあらわめいなのですから、ぶんとうくうしょがθバーだというのとはじゅんするようにおもえます。(但是,像(79)和(80)那樣,普通名詞John和the picture能夠從D結構移動到這個空位的話,因為這些都是表示確實的東西的名詞,所以好像與句首空位位置是θ-吧位置這一說法相矛盾。)しかしこんもやはりそれなりのゆうじゅんされています。(但是,這次也準備了相應的理由。)まず、John については、to be innocent の「しゅ」だとわれるものの、ていつうどうがたちがってせいすうがたへんがないので、このしゅには「かく」があたえられないのだとされます。(首先,關於John,雖然說是to be innocent的「主語」,但不定詞與普通動詞形不同,在時態和數上沒有詞形變化,所以據說這個主語不能被賦予「格」。)かくあたえられなければ、θやくわりあたえられないようながしますが、そうではなくてていでもθやくわりあたえることができるとされます。(如果不被賦予格,好像也不會被賦予θ角色,但實際上即使是不定詞也被認為可以賦予θ角色。) しかしかくあたえられないままだと、どんなめいでもかくあたえられなければならないというげんである「かくフィルター」にはんするので、このままではぶんとしててきかくになります。(但是,如果格一直不被賦予,就會違反「格過濾器」這一原理,即任何名詞都必須被賦予格,這樣的話句子就成為不合適的。)だから、しゅかくあたえられるであるぶんとうくうしょに John がうつどうするのだとせつめいされるわけです。(所以據說John移動到被賦予主格的位置,即句首的空位。)くうしょはθバーなので、John はしんそうこうぞうはい

げんろん(「原理與參數的理論」)は、にんかんしょうとくてきにもっているげんかくとくするのうりょくとしての「へんぶんぽう」をかいめいすることをけんきゅうもっとじゅうようだいとしていました。(它以解明作為人類與生俱來的語言獲得能力的「普遍文法」作為研究最重要的課題。)トバがもっているいくつかのいっぱんてきげんと、そのたいてきじつげんせんたくとしてのへんぶんぽうなかであり、たいてきげんげきけることにより、「って」、つまりせんたくとしてのあたいけっていされて、べつげんかくとくされるのだというのが、このだんかいしょうせいぶんぽうがたどりいたけつろんでした。(語言具有的若干一般原理,以及作為其具體實現選擇的參數構成了普遍文法的內容,通過接受具體語言的刺激,「參數開關啟動」,即參數值被決定,個別語言就被習得了,這是生成文法在這一階段所達到的結論。) げんろんていしょうされたいっぱんげんは、かんけつであればあるほど、たんかんげんかくとくすることができるにんかんしょうとくてきにもっている、へんぶんぽうなかとしてふさわしいのだとーはかんがえました。(喬姆斯基認為,在原理與參數理論中提出的一般原理越簡潔,就越適合作為人類與生俱來擁有的、能在短期間內習得語言的普遍文法的內容。)もちろん、ぶんこうぞうけっていされるメカニズムをせつめいするためのろんというかんてんからも、それをこうせいするげんぐんができるだけかんけつであることは、がくてきであろうとするしょうせいぶんぽうにとってのぞましいことです。(當然,從解釋文法結構形成的機制的理論角度來看,構成該理論的原理越簡潔,對力求科學化的生成文法來說就越理想。) こういうほうしんで、げんろんをさらにすいすすめたけつげんざいしょうせいぶんぽうとうたつしているのが「(さいしょうしゅ)・」というろんです。(按照這樣的方針,通過進一步推進原理與參數理論,現在的生成文法達到的理論就是「最小主義·方案」。)」「さいしょうしゅ」というめいしょうは、ぶんつくし、ぶんかいされるシステムとして、できるだけこうりつてきなしくみになるようにコトバはできあがっているはずだという、ーのねんはんえいしたものだとかんがえてください。(請把「最小主義」這個名稱理解為反映了喬姆斯基的理念,即語言作為產生和理解句子的系統,應該具有盡可能高效的機制。) こうりつせいもとめるせいしんあらわれとして、ひょうじゅんろんだんかいみちびかないとされてから、そんざいばんがすでにあやうくなっていたしんそうこうぞう(Dでぃーこうぞう)のはいがあります。(作為追求效率性精神的表現,出現了對深層結構(D結構)的廢除,該結構從標準理論階段起被認為不能推導意義後,其存在基礎就已經動搖了。)Dでぃーこうぞうは、こうぞうそく、のちにはえっくすろんしたがってつくられるということなのですが、こうぞうだけがかっつくられて、そのあとたんくみれられるというつくかたでは、にんかんのうがいくらゆうていても、あるとくていたん使つかDでぃーこうぞうせいせいをほとんどいっしゅんにしておこなうことはのうです。(D結構是根據短語結構規則,後來根據X-bar理論構建的,但如果只是獨立地構建結構,然後再將單詞組裝進去,那麼即使人類的大腦再優秀,也幾乎不可能在瞬間生成某個特定單詞的D結構。) このことから、ぶん使つかわれるたんとくどうがもっている「とくせい」をはんえいするようなかたちDでぃーこうぞうけっていされ、このこうぞうSえすこうぞうろんけいしきでもされるという「とうしゃげん」がていあんされたわけです。(因此,提出了「投射原理」,即D結構按照反映文中使用的單詞、特別是動詞所具有的「詞彙特性」的方式而被決定,並且該結構在S結構和邏輯形式中也被保持。)どうがどんなこうぞうようもとするのかをっていれば、そのようもともとづいて、えっくすろんていからはずれないようにDでぃーこうぞうせいせいされるのですから、かんたんとくていこうぞうつくすことができます。(如果知道動詞要求什麼樣的結構,根據那個要求,D結構就可以在符合X-bar理論規定的前提下生成,就能容易地創建特定的結構。) ただ、こうしてつくられるDでぃーこうぞうが、どうとくせいもとづくとわれても、そのとくせいというのは、けっきょくのところどうあらわと、そのもとづいてようもとされるこうぞうにほかなりません。(不過,即使說這樣構建的D結構是基於動詞的詞彙特性,但那個詞彙特性說到底不過是動詞所表達的意義,以及根據那個意義所要求的結構罷了。)かんたんえば、れいえば「こわす」というどうは、だれかがモノをかいするというどうあらわすのだから、しゅもくてきひつようだし、ときにはどうもいるだろう、などというてきじょうほうしたがって、このどう使つかったぶんこうぞうきめめられるということです。(簡單地說,比如「毀壞」這個動詞表示某人破壞東西這一動作,所以需要主語和賓語,有時還需要工具等,句子的結構就是按照這樣的語義信息來決定的。) ですから、Dでぃーこうぞうつくられただんかいで、ほんとうあるぶんつくるためには、まずたんえらばなければならず、えらんだたんならべることでぶんかんせいするのですから、「かずげ」と「へいごう」は、たしかにぶんつくられるしくみを、ぜんよりはかんけつあらわしているようにえます。(為了製作某個句子,首先必須選擇單詞,透過排列選好的單詞來完成句子,因此「計數」和「併合」確實以比以前更簡潔的方式表現了句子的形成機制。)こうぞうつくっているたんは、それぞれのたんがもっているぶんほうとくちょう(「せい」とばれる)がただしくいっするようにするために、ひつようあいにはどうします。(構成這個結構的單詞在必要時會移動,以使各單詞所具有的語法特徵(被稱為「素性」)能正確地相互一致。)れいえば、INFL(いっよう)は、そのていしゅめいようきゅうするというせいをもっており、このこのせいいっするように、the girl がいっようていどうするとされます。(例如,INFL(一致要素)具有在其指定部要求主語名詞句的素性,據說「the girl」為了與這個素性相一致,會移動到一致要素句的指定部。)けっつぎのようなこうぞうになります。(因此,會形成如下所示的結構。)

このkono段階dankaiで「し(Spell Out)」という操作sousa実行jikkōされます。(在這個階段,執行了稱為「書出(Spell Out)」的操作。)し」というのは、構造kōzōをいわばつの側面sokumen分割bunkatsuすることです。(所謂「書出」是將結構分割為兩個側面。)ひとつの側面sokumenには音韻onin規則kisoku適用tekiyōされて、実際jissai発音hatsuonである「音声onsei表示hyōji」がかれ、もうひとつの側面sokumenでは、さらに「潜在senzai的な」単語tango移動idōokonawわれて、最終saishū的に論理ronri形式keishiki(意味imi表示hyōji)にたどりきます。(在其中一個側面,應用了音韻規則,導出了實際發音的「音聲表示」;在另一個側面,進一步進行「潛在」的單詞移動,最終到達邏輯形式(意義表示)。) こうして、D(深層shinsō)とS(表層hyōsō)というつの構造kōzōレベルreberu解消kaisshōされることになりました。(這樣一來,被稱為D(深層)和S(表層)的兩個結構層級就被消除了。)とはえ、単語tangoの「移動idō」という操作sousaは、依然iizenとしてnokoっています。(儘管如此,單詞「移動」的操作仍然保留著。)この移動idōは、「し」以前ijizenの「顕在kenzan的な」移動idōと、以後ijigoの「潜在senzai的な」移動idō区別kubetsuされるのですが、これはyouするに、実際jissai使つkaわれるbun反映haneiされるか、意味imi解釈kaishakuだけに関係kankeiするかという区別kubetsuです。(這種移動區分為「書出」之前的「顯在」移動和書出之後的「潛在」移動,這實質上是區分是否反映在實際使用的句子中,還是只與意義的解釋有關。) ということは、「し」に到達tōtatsuした段階dankaiが、以前ijizenのS(表層hyōsō)構造kōzōたり、かzoげと併合heiiai結果kekkatsudaされる構造kōzōがD(深層shinsō)構造kōzōたるものだとiえます。(這意味著,達到「書出」的階段對應於以前的S(表層)結構,而通過計數和併合的結果產生的結構對應於D(深層)結構。)da以降ijikōの「潜在senzai的な」移動idōとされるものは、従来jūrai意味imi解釈kaishaku規則kisokuyoばれていたけれども、明確meikaku内容naiyōshimesuされていなかったものを、部分bubun的にakaらかにしたものとkangaえられそうです。(書出之後的所謂「潛在」移動,是傳統上稱為意義解釋規則的東西,儘管其內容並未明確說明,但現在似乎被部分地澄清了。) 結局kekkyokuのところ、音韻onin規則kisoku適用tekiyōされ発音hatsuonされるmae段階dankaiとしての表層hyōsō構造kōzōと、eraばれた単語tangoをある規則kisokuしたgaってnarabεべてtsuられる構造kōzōとしての深層shinsō構造kōzō区別kubetsuは、名前namaeがなくなっただけで、その本質honshitsu的な部分bubunはミニマリスト・プログラムでも維持ijiされているのです。(總之,在音韻規則應用發音之前的階段作為表層結構,以及通過按照某些規則排列選定單詞而構造的深層結構之間的區別,只是名稱消失了,但其本質部分在最簡方案中仍然保持著。) しかもmoreover単語tango移動idōについて、どの段階dankaiまでが「顕在kenzan的」で、どの段階dankaiからが「潜在senzai的」なのか、youするにどの構造kōzō到達tōtatsuすれば「kadaし」が実行jikkōされるのかは、はっきりとした規則kisokukatachi提示teijiされてはいません。(而且,關於單詞的移動,哪個階段是「顯在」,哪個階段是「潛在」,即要到達哪個結構才執行「書出」,並未以明確的規則形式呈現。)youするに、実際jissai使tskaわれるbun対応taiōする構造kōzōができあがれば、そこでkadaしがokonaわれるとしているようにしかmiえません。(也就是說,只要形成了與實際使用的句子相對應的結構,就在那裡執行書出,似乎就是這樣。) つまり、ある言語gengoについて、Aという性質seishitsuをもつ移動idō顕在kenzan的であり、Bという性質seishitsuをもつ移動idō潜在senzai的であるという区別kubetsuが、実際jissaibunとは無関係mukankei規定kiteiされ、移動idōsekiするその規定kitei予測yosokuするtōriり、顕在kenzan的な移動idōowaわった段階dankai構造kōzōが、本当hontō実際jissaibunonaじになっている、というのであれば、kadaしという操作sousaにも、理論riron内部naibu積極sekkyoku的な価値kachiをもつとkangaえることができます。(也就是說,對於某一語言,具有性質A的移動是顯在的,具有性質B的移動是潛在的,這樣的區別是獨立於實際句子而規定的,如果移動的這種規定所預測的那樣,顯在移動結束後的結構確實與實際句子相同,那麼書出這一操作也可以認為在理論內部具有積極的價值。)ところが、この段階dankai構造kōzō実際jissai使tskaわれるbunonaじだから、ここまでの移動idō顕在kenzan的な移動idōとし、それ以降ijikō潜在senzai的な移動idōにしておこうとしただけでは、kadaしという操作sousaは、事実jijitsutanにこの用語yōgoikaえただけで、移動idō区別kubetsu説明setsumeиするための手段shudanとはkesshiteてなりません。(但是,僅僅因為這個階段的結構與實際使用的句子相同,而將到此為止的移動定為顯在移動,之後的定為潛在移動,書出這一操作就只是用這個術語重新表述了事實,絕不成為解釋移動區別的手段。) このように、D構造kōzō廃止haishiしたとiいながら、実質jisshitsu的にはD構造kōzōとS構造kōzō区別kubetsunokoしているのがミニマリスト・プログラムなのです。(就這樣,最簡方案一方面聲稱廢止了D結構,但實質上仍然保留著D結構和S結構的區別。)そもそも、単語tangoeradaして併合heiiaiするという過程kateiにしても、eradaされたどの単語tangokumiaわせるのかについての基準kijunataeえられていません。(首先,就選出單詞並進行併合的過程而言,也沒有給出關於如何組合選出的哪些單詞的標準。)単語tango適当tekitōkumiaわされるわけはなく、結局kekkyokuのところは、arawasshitaしたい意味imi情報jōhōkumiiれることで、目的mokutekiとする単語tango併合heiiaiokonaわれるとしかkangaえられません。(單詞不會任意組合,歸根究底,只能認為是通過組入想要表達的意義信息,而進行目標單詞的併合。) つまり、kadaしのato潜在senzai移動idō結果kekka論理ronri形式keishikishōdōかれ、ここで意味imi表示hyōjiされるのだとiいながらも、arawasaされる意味imi最初saishoから大体daitaiのところwaかっていなければならないのです。(也就是說,雖然說在書出後的潛在移動的結果中導出邏輯形式,在這裡表示意義,但所表示的意義必須從最初就大體上被理解。)ここでも、最終saishū的な結果kekka前提zenteikumikoまれた説明setsumeиokonaわれているのです。(這裡也是進行了最終結果被組入前提的解釋。) 人間ningen母語bogo獲得kakutokuする過程katei合理gōri的に説明setsumeиすることを、最大saidai目標mokuhyōとするようになった生成seise文法bunpō研究kenkyūikitsukutsuiたところが、ミニマリスト‧プログラムでした。(以合理解釋人類母語習得過程為最大目標的生成文法研究,最終到達的就是最簡方案。)普遍fuhen文法bunpō中身nakami効率kōritsusei最大saidai実現jitsugenするようなしくみになっているはずだという仮定kateiは、それを検証kenshōするメカニズムmekanizumushin合理gōri的なものであれば、科学kagakuとしてまことに有望yūbō内容naiyōをもつものです。(假定普遍文法的內容是一個實現效率最大化的機制,如果驗證它的機制真正是合理的,那麼作為科學,它將具有確實有希望的內容。)ところが、生成seise文法bunpō提示teijiする仮説kasetsu検証kenshōは、論理ronri的な批判hihankanarazuずしもtaえうるものではありません。(但是,生成文法所提出的假說的驗證方法,不一定能經得起邏輯批判。)言語gengogaku科学kagaku的な論証ronshōをもたらすかのようにmiえた生成seise文法bunpōは、現在genzaiのままでは科学kagaku合理gōriseiからtooざかっていくばかりです。(曾經看似為語言學帶來科學論證方法的生成文法,如果保持現狀,只會與科學合理性漸漸遠離。)チョムスキーChomsky老齢rōreitatasshitaしたima生成seise文法bunpōikusueがどうなるのか、興味kyōmihukaиいところです。(現在喬姆斯基已經進入老年,生成文法今後的發展將會如何,這是令人感興趣的地方。)