生成文法という文法理論を作り出したのは、言うまでもなくチョムスキーです。(創造生成文法這一文法理論的,不言而喻就是喬姆斯基。)チョムスキーは、ペンシルバニア大学に提出した博士論文の中で、最初の生成文法理論につながる論考を発表しているのですが、言語学の歴史の中で生成文法が登場したことを高らかに告げるのは、何と言っても一九五七年に出版された『統語構造論』(Syntactic Structures)です。(不過,在語言學的歷史上,明確宣告生成文法的出現的,無異於一九五七年出版的《統語結構論》(Syntactic Structures)。)この著作と、一九六五年出版の『文法理論の諸相』(Aspects of the theory of syntax)によって、「標準理論」と呼ばれる生成文法の第一期の理論的枠組みが作られたのでした。(通過這部著作以及一九六五年出版的《文法理論的諸相》(Aspects of the theory of syntax),生成文法第一時期所謂的「標準理論」的理論框架被建立起來了。)
チョムスキーはまず、直接構成素分析の問題点の一つだった、文の構造を一般的に表す方法がないという問題と、構造を作るための規則、要するに語順の規則を提示していないという問題を解決する方法を考察します。(喬姆斯基首先考察了一個解決方法,該方法可以解決直接構成素分析的一個問題,即缺乏一般性地表示句子結構的方法,以及沒有提出構造形成規則,即詞序規則的問題。)
実は、文の構造を一般的に表すための方法というのは、意外に簡単ななのです。(實際上,一般性地表示句子結構的方法意外地很簡單。)まずはあえて、次の文⑧を直接構成素分析した結果、図⑨を見ておくことにしましょう。(首先,讓我們看一下把下面的句子⑧進行直接構成素分析的結果,即圖⑨。)
⑧ A pretty girl played the piano in the auditorium.(⑧ 一個漂亮的女孩在禮堂裡彈鋼琴。) (可愛い女の子が講堂でピアノを弾いた)((可愛的女孩在講堂彈了鋼琴))
[図⑨挿入箇所]
第1章で何度も説明したように、⑨のような形では文の構造がどんなしくみになっているのかを表しているとはとても言えません。(如第1章多次說明的那樣,像⑨這樣的形式根本無法表示句子結構的具體機制。)英語では、どんな語順の決まりに従って文の構造が作られているのかが、このような図を見てもちっとも分からないからです。(因為從這樣的圖中根本無法了解英語是按照什麼樣的詞序規則來構造句子結構的。)
それではどうすればこの問題を解決できるのかというと、要するに、この図に出てきているすべての構成素に名前を付ければいいのです。(那麼如何解決這個問題呢?要點是,只需要給這個圖中出現的所有構成素命名即可。)⑨の一番上にあるのが「文」だということについては、特に問題はありません。(對於⑨最上面的東西是「句子」這一點,沒有特別的問題。)この文の直接構成素は a pretty girl と played the piano in the auditorium ですが、私たちが高校までで勉強する英文法では、a pretty girl を普通「主語」と呼びます。(這句話的直接構成素是a pretty girl和played the piano in the auditorium,但在我們高中所學的英文法中,通常把a pretty girl稱為「主語」。)ただ、主「語」と言うと、いかにも一つの単語だけで構成されている要素のように思えるのに、この例では三つの単語が全体として主語と同じ働きをしているのですから、主語とは区別して「主部」と呼ぶこともあります。(但是,「主語」這個詞容易讓人以為它只由一個單詞組成,而在這個例子中,三個單詞作為一個整體發揮著與主語相同的作用,所以有時也區別開來稱之為「主部」。)
二番目の直接構成素 played the piano in the auditorium の方は、学校の文法では一つのまとまった単位だとされることはなく、played は「動詞」、the piano は「目的語」、in the auditorium は「前置詞句」などと呼ばれるのが普通です。(而第二個直接構成素played the piano in the auditorium在學校文法中不被視為一個統一的單位,通常played被稱為「動詞」,the piano被稱為「賓語」,in the auditorium被稱為「介詞短語」等。)
ただ、主語とか目的語というのは、名詞が文中でどんな働きをしているのかをさらに詳しく表しているもので、動詞や前置詞句とは性質が異なります。(但是,「主語」和「賓語」表示的是名詞在句子中發揮什麼樣的作用,這與動詞和介詞短語的性質不同。)ですから、主語や目的語と同じレベルの内容をもつ用語を使わなければ、全体として用語の性質に統一がとれないことになってしまいます。(因此,如果不使用與主語和賓語相同層級的術語,整個術語體系的性質就無法統一。)もし同じレベルにしようとすれば、例えば動詞は「述語中核」(述語の中で一番重要な役割をもっている単語という意味で、私が今勝手に作ったものです)、前置詞句は、ここでは女の子がピアノを弾いた場所を表していますから「場所語」とでも呼ばなければならないでしょう。(如果要達到相同的層級,例如動詞應稱為「謂語核心」(意為在謂語中發揮最重要作用的單詞,這是我現在臨時創造的),介詞短語在這裡表示女孩彈鋼琴的場所,所以應稱為「場所語」。)
つまり、文の構造を表すための用語として「主語」とか「目的語」のような、単語の働きまで含めて言い表す用語を使うのは、あまり適切だとは言えないのです。(換句話說,用「主語」或「賓語」這樣既包含了單詞在句中的作用的術語來表示句子結構,並不是很恰當的做法。)文中での単語の働きは、結局のところ文が表す意味(=事柄)と密接に関連していて、事柄が多様であればあるほど、単語の働きもそれに応じていろいろと種類が多くなります。(句子中單詞的作用實際上與句子所表達的意義(即事項)密切相關,事項越多樣化,單詞的作用也就相應地越多樣化。)ですから、単語の働きを表す用語が文の構造図の中に出てくると、結局のところ、文の構造の表し方に一般性がなくなってしまうことになります。(因此,如果在句子結構圖中引入表示單詞作用的術語,最終句子結構的表示方法就會失去通用性。)これでは、直接構成素分析の欠点を克服する構造の表し方だとは言えません。(這樣就不能說是克服直接構成素分析缺點的結構表示方法了。)
もちろん、どんな文にも主語はありますし、目的語をもつ文もたくさんあります。(當然,每個句子都有主語,而且許多句子都有賓語。)ですから、主語や目的語という単語の働きが、文を形づくる要素として重要だということには間違いはありません。(因此,「主語」和「賓語」這樣的單詞作用作為構成句子的要素的重要性是毫無疑問的。)ただ、そういう働きは、まず文の構造を一般的に表した後で、別の方法でうまく説明できるようにしておけばいいのであって、とりあえずは構造を表す図の中に入れておく必要はないと考えられるわけです。(但是,這樣的作用應該在首先一般性地表示了句子結構之後,再用另外的方法好好解釋,暫時沒有必要把它們放在表示結構的圖中。)それに、主語とか目的語などがもっている働きというのは、実はきちんと説明するのが意外に大変な性質のものなの
文の構造を⑩のような図を使ったりして表すことを、「構造表示」と呼ぶことにします。(我們將用像⑩這樣的圖表來表示文章結構的方法稱為「結構表示」。)⑩で示したような構造表示の方法で一番目立つことは、a pretty girl という語句を「名詞句」、played the piano in the auditorium を「動詞句」と呼んでいることです。(⑩所示的結構表示方法最引人注目的是,把a pretty girl這個短語稱為「名詞句」,把played the piano in the auditorium稱為「動詞句」。)
a pretty girl は、全体として名詞の働きをする語句なのですが、これを「名詞」と呼ぶといかにも一つの単語のように思えるので、語句なのだよということで「名詞句」と呼ぶことにしています。(a pretty girl 作為整體發揮名詞的作用,但如果只稱為「名詞」,容易讓人以為是一個詞,所以為了強調它是短語,我們稱之為「名詞句」。)ただし、名詞一つだけの場合と名詞が他の語句を伴っている場合で呼び名を区別するのは統一がとれないということで、生成文法では名詞一つだけの場合でも「名詞句」と呼ぼうということになっています。(不過,只有一個名詞的情況和名詞伴隨其他短語的情況使用不同的稱呼缺乏統一性,所以生成語法認為即使只有一個名詞,也應該稱為「名詞句」。)
「動詞句」という用語についても、名詞句の場合と同じ理由で、動詞一個だけではなくて、他の語句を伴っていることから、こう呼ばれているわけです。(對於「動詞句」這個術語,出於與名詞句相同的原因,它不只指單個動詞,而是指動詞伴隨其他短語的情況。)ただ、よく考えてみると、名詞句と動詞句では少し性質が違うような気がします。(但是,如果仔細思考,名詞句和動詞句似乎有些性質上的區別。)なぜならば、名詞句は名詞に冠詞や形容詞などが付いていて、意味的には、名詞一個が表している内がさらに限定されたものを表します。(因為名詞句由名詞加上冠詞或形容詞等組成,在意義上,它表示的內容比單個名詞表示的內容受到了進一步限制。)伝統的な文法の用語を使うとすれば、名詞句というのは基本的には名詞に形容詞や冠詞のような「修飾語」が伴っている語句を指すのだと言うことができるでしょう。(如果用傳統文法術語來說,名詞句基本上是指名詞伴隨形容詞或冠詞之類「修飾語」的短語。)
一方で、動詞句というのは、動詞一個の場合もあることはありますが、それよりは、⑩の場合のように、動詞が目的語としての名詞句を伴っていたり、場所などを表す前置詞句を伴っていたりすることの方が普通です。(另一方面,動詞句雖然有時只是單個動詞,但通常更多的是像⑩的情況那樣,動詞伴隨作為賓語的名詞句,或伴隨表示場所的前置詞短語。)こういう目的語としての名詞句や場所などを表す前置詞句については、私たちが中学校で勉強する「国文法」つまり日本語の文法では、伝統的に「修飾語」と呼んできてはいます。(對於這類作為賓語的名詞句或表示場所的前置詞短語,在我們中學所學的「國文法」,即日語文法中,傳統上被稱為「修飾語」。)
確かに、play のような動詞が表すのは、「誰かが何かをどこかで弾く」というような、主語も目的語もまだ決まっていない、限定性の低い事柄に過ぎません(この動詞には「遊ぶ」という別の意味もありますが、ここではその意味は考えないことにしておきます)。(誠然,像play這樣的動詞表示的只是「某人在某處彈什麼」這樣的事項,其中主語和賓語還未確定,具體性低(這個動詞還有「遊玩」的意思,但在這裡我們不考慮該意思)。)これに the piano のような目的語を表す名詞句や in the auditorium のような場所を表す前置詞句が加わることで、動詞一個が表していた内がさらに限定されるわけです。(加上the piano這樣表示賓語的名詞句或in the auditorium這樣表示場所的前置詞短語,動詞所表示的內容就會進一步得到限制。)ですから、伝統的国文法のように、目的語の名詞句や場所を表す前置詞句を「修飾語」の仲間だとして、動詞句を構成する要素だと見なすことに問題はないのかもしれません。(因此,按照傳統國文法的方式,把表示賓語的名詞句和表示場所的前置詞短語視為「修飾語」的一類,看作是動詞句的組成要素,也許是沒有問題的。)
ただそうすると、主語の名詞句も、目的語と同じように一個の動詞が表す内を限定していることに変わりはありませんから、やはり修飾語としての資格があることになるはずです。(但這樣的話,主語的名詞句也同樣地限制著單個動詞表示的內容,因此也應該有修飾語的資格。)実際、国文法では、主語の名詞句も修飾語だと言われています。(實際上,在國文法中,主語的名詞句也被說成是修飾語。)
もちろん、直接構成素分析を克服するつもりだとは言え、実際に使われる文の構造表示については、直接構成素分析の精神を受け継いでいるチョムスキーは、主語を動詞句の一部だとは考えません(実は、最近の生成文法では、主語を動詞句の構成要素だとしているように見える考え方がとられています。けれどもその立場にしても、主語と目的語が同じ資格で構造の中に含まれているわけでは決してありません)。(當然,雖然說是為了克服直接構成素分析,但實際上,遵承直接構成素分析精神的喬姆斯基認為主語不是動詞句的一部分(實際上,最近的生成文法似乎主張主語是動詞句的組成要素,但即使是這種立場,主語和賓語在結構中包含的資格也絕不相同)。)その理由として、played the piano in the auditorium のような語句だと、did so のような代用形(初めて出てきた用語ですが、代名詞のようなものだと考えておいてください。「代名詞」だと名詞の代わりをする単語ですが、did so は名詞ではなくて動詞を含む語句の代わりをするので、代名詞も含めて、ある語句の代わりに使われる、もっと一般的な内を表す語句のことを「代用形」と呼びます)で置き換えることができるのに、a pretty girl played のように主
代用形に置き換えられるというのは、直接構成素分析の説明の時に述た、ある語句を一語で置き換えられるというのと本質的には同じです。(代用形可以被置換,這本質上和直接成分分析說明中提到的「某個短語可以被一個詞替代」是相同的。)英語には he / she や it のような、名詞句の代わりに使うことができる単語としての代名詞はありますが、他の品詞に属する単語に置き換えることができる代名詞のような一個の単語はありません。(英語中雖然有代詞如 he / she 或 it,可以用來代替名詞短語,但沒有像代詞那樣的單個詞可以用來替代其他詞性的詞。)ですから、「動詞+目的語」のような語句を、一語ではなくても do so のような何らかの代用形に、曲がりなりにも置き換えられるのだとすると、今見ている⑩のような例で、played the piano in the auditorium という「動詞+名詞句+前置詞句」が、一つのまとまった働きをする単位なのだと考えることに、大きな問題はなさそうです。(因此,如果「動詞+目的語」這樣的短語即使不是一個詞也能被 do so 這樣的代用形所取代,那麼在如上面⑩所示的例子中,played the piano in the auditorium 這個「動詞+名詞短語+前置詞短語」作為一個統一發揮作用的單位,應該不存在什麼大問題。)そして、この語句では、何と言っても動詞 played が一番中心的な働きをする単語なのですから、この語句を「動詞句」と呼ぶことにも、特に問題はないだろうと考えられます。(而且,在這個短語中,無論如何動詞 played 是最起核心作用的詞,所以把這個短語稱為「動詞短語」也應該沒有特別的問題。) とは言え、ある文があったとして、その文を構成している語句のどの部分を一つの単語とか代用形に置き換えられるのかという判断をするためには、その部分が全体としてまとまった働きをすることが分かっていなければなりません。(儘管如此,如果有某個句子,為了判斷構成該句子的短語的哪個部分可以被替換為一個詞或代用形,必須事先知道該部分作為整體發揮著統一的作用。)そして、その部分が全体としてまとまった働きをするのであるなら、文はまず名詞句と動詞句という二つの大きな部分に分かれるのですから、残りの部分もやはり全体としてまとまった働きをしていなければなりません。(而且,如果該部分作為整體發揮著統一的作用,那麼句子首先被分為名詞短語和動詞短語這兩個大的部分,所以剩餘的部分也必然作為整體發揮著統一的作用。) 結局のところ、ある語句を別の一つの単語とか代用形に置き換えることができるかどうかは、その語句が全体としてまとまった働きをしていることが、あらかじめ分かっていなければ正しく判断することはできないのです。(歸根結底,某個短語是否能被替換為另一個詞或代用形,必須事先知道該短語作為整體發揮著統一的作用,否則無法做出正確的判斷。)だとすると、ある語句が名詞句だとか動詞句だとかのように、全体として一つのまとまった働きをしていることの証拠として、一つの単語や代用形に置き換えられることを持ち出すのは、実は適当ではないのではないかと思えます。(因此,如果作為短語是名詞短語還是動詞短語、作為整體發揮著統一作用的證據而提出能被替換為一個詞或代用形,實際上可能並不恰當。)一つの単語や代用形に置き換えられるのは、語句がまとまった働きをしていることが分かった結果なのであって、それが分かるための前提ではないということです。(能被替換為一個詞或代用形,是由於已經發現短語發揮著統一作用的結果,而不是瞭解這一點的前提。) ここらあたりの理屈が少し分かりにくいかもしれないので、今考えている文をもっと単純にした、次の文を使って説明してみましょう。(這部分的邏輯可能有點難懂,所以讓我用一個把現在考慮的句子簡化後的下面這個句子來說明吧。) ⑪ A pretty girl played the piano. (可愛い女の子がピアノを弾いた) これが本当に一つの文だということが、どうやって分かるのかという根本的な問題もあるのですが、それはまた後で考えるとして、とりあえずはこれが一つの文だということはもう分かっているのだとしておきます。(關於這究竟是怎樣確認為真正是一個句子的根本問題,我們先放到後面再考慮,暫時假設我們已經知道這是一個句子。) この文⑪は六つの単語からできていますから、もしこの文が二つの直接構成素に分かれるのだとすれば、五通りの分け方があります。(這個句子⑪由六個詞組成,所以如果這個句子分為兩個直接成分的話,就有五種分法。)それぞれの単語がどんな意味を表していて、どの品詞に属しているのかは、当然すでに知られているとしても、どういう品詞がどういう順番で並んでいれば、全体として一つのまとまった働きをするようになるのかは、まだ分かっていないとします。(儘管我們已經知道每個詞表示什麼意思、屬於哪個詞性,但假設我們還不知道什麼樣的詞以什麼樣的順序排列才能作為整體發揮統一的作用。)もちろん、これは構造の分析に際しては当然の仮定なのでして、例えば「冠詞+形容詞+名詞」は全体として一つのまとまった働きをしていて、それを名詞句と名付けます、などということがもう誰にでも分かっているのだとしたら、そもそも言語学で構造の分析なんかする必要は最初からないわけです。(當然,這在進行結構分析時是理所當然的假設。如果「冠詞+形容詞+名詞」作為整體發揮統一作用並被稱為名詞短語這樣的事大家都已經知道了的話,那麼根本就不必要進行語言學中的結構分析了。) さてそれで、この文⑪で、最初の a の後に切れ目があって、残りの部分が全体として一つの構成素になるのだとします。(現在,在這個句子⑪中,假設在最初的 a 之後有個分界,剩餘的部分作為整體成為一個成分。)最初の単語 a は、一語だけですから、例えば some とか every とかの他の一語に置き換えることができるのはすぐ分かります。(最初的詞 a 只有一個詞,所以很容易就能看出可以被 some 或 every 這樣的其他單詞所替代。)問題なのは、残りの pretty girl played the piano の部分です。(問題在於剩餘的 pretty girl played the piano 這部分。)この部分を、他の一語とか何らかの代用形に置き換えることはできないのですが、それは一体どうやって分かるのでしょうか。(這部分無法被替換為其他詞或任何代用形,但這究竟怎樣才能知道呢?) チョムスキーに言わせれば、それは「母語話者の直観」ということになるのでしょうか。(根據喬姆斯基的說法,那就成為「母語使用者的直觀」了吧。)つまり、この語句代用形への置き換え
直観を使って構成素を認定する
これとは反対に、a pretty girl のところまでで切れ目を入れるのだとすると、この語句は全体として一つの働きをしているということが直観的に判断できて、実際この語句を she という代用形(代名詞)に置き換えることができます。(相反地,如果在 a pretty girl 的地方打斷,就能直觀地判斷這個短語作為整體發揮著一個功能,並且實際上可以將這個短語替換為代用形式(代名詞)she。)同じように、残りの部分 played the piano についても、全体として一つの働きをしていることは直観的に正しく判断できて、この語句は did so という代用形に置き換えられることも分かります。(同樣地,對於剩下的部分 played the piano,也能直觀地正確判斷它作為整體發揮著一個功能,而且這個短語也可以被替換為代用形式 did so。)
こうして、文を二つの直接構成素に分割できることは、母語話者であれば直観によって正しく判断できるのだというのが生成文法の立場です。(這樣一來,將句子分割成兩個直接構成成分的能力,根據生成文法的立場,母語使用者能夠通過直觀正確地判斷。)したがって、言語学による分析でなすべきことは、これらの直接構成素にその働きに応じた名前を付けて、さらにその構造を、同じ方法で細かく調べていき、最終的に文がどんな構造をもつのかを明らかにしていくことだということになります。(因此,語言學分析應該做的是,給這些直接構成成分按照其功能賦予相應的名稱,進一步用相同的方法對其結構進行細緻的調查,最終明確句子具有什麼樣的結構。)
ですから結局のところ、先ほども述たように、文を作っている構成素としてどんなものがあるのかは、ある言語を母語として使っている人間であれば、最初から頭の中に入っているのであるって、構成素の性質や構成素がどのように並ぶのかなどのしくみを、客観的な形で明らかにするのが、文法という学問の目標なのだと生成文法では考えられているわけです。(因此歸根結底,正如前面所述,組成句子的構成成分是什麼,對於使用某種語言作為母語的人來說,從一開始就存在於大腦中,而生成文法認為,文法學問的目標就是要以客觀的形式明確構成成分的性質、構成成分如何排列等這些機制。)コトバのしくみは人間の頭の中にしか存在しないのですから、生成文法であれ他の立場の言語理論であれ、コトバのしくみを解明しようとする以上、人間の頭の中にしかないものを、どうやって誰にでも分かる形で明らかにしたらいいのかを考えるのが、目標になるというのは当然のことです。(由於語言的機制只存在於人腦之中,所以無論是生成文法還是其他立場的語言理論,只要試圖解明語言的機制,那麼考慮如何以所有人都能理解的形式來明確只存在於人腦中的東西,就自然成為目標了。)
(直覺的判斷的問題) しかしここで問題なのは、直接構成素の認定のような、かなり複雑な要素を含む過程を背景とするものを、いきなり母語話者の直観に委ねてもいいのだろうかということです。(但在這裡問題在於,像直接成分的認定這樣涉及相當複雜要素的過程,我們能否突然就交由母語使用者的直覺來判斷呢?)直接構成素の認定は、次のような過程で行われるものと考えることができます。(直接成分的認定是可以認為在下列這樣的過程中進行的。)まず、いくつかの単語からできている語句があったとします。(首先,假設有由幾個單詞組成的詞組。)これらの語句について、最初にそれぞれの単語がどんな品詞に属しているのかを判断します。(對這些詞組,首先要判斷各個單詞分別屬於什麼詞性。)具体的な文の中で、単語がどの品詞に属しているかの判断は、英語のように同じ語形がいくつかの品詞に属することができるような言語(例えば、book は「本」という名詞と「予約する」という動詞のどちらかとして使われます)では、そう簡単にいかないこともあるのですが、ここでは話が複雑になるので、品詞についての判断はすぐできるものとしておきます。(在具體的句子中,判斷單詞屬於哪個詞性,在像英語這樣同一個詞形可以屬於多個詞性的語言中(例如,book既可作為表示「書」的名詞使用,也可作為表示「預約」的動詞使用),有時並不容易;但由於在這裡討論會變得複雜,我們先假設對詞性的判斷可以立即做出。) 単語が属する品詞が分かったとすると、今度はどの品詞がどの順番で並んでいれば、その言語で一つのまとまった構成素として働くことができるのかということについて、頭の中にある決まりを参照します。(如果知道了單詞屬於什麼詞性,那麼接下來就要參照腦海中的規則,看什麼詞性按什麼順序排列才能在該語言中作為一個整體成分發揮作用。)実際に与えられている単語の並び方が、その決まりに合っていれば、一応はまとまった構成素でしょう。(如果實際給出的單詞排列方式符合這個規則,那麼大致上就可以作為一個整體的成分。)そうでなければ、その語句から単語を削ったり、あるいは前後の単語を加えたりして、また同じ過程を繰り返し、決まりに合うような単語の並びを探さなければなりません。(否則,就要從詞組中刪除單詞,或者在前後加上單詞,然後再次重複相同的過程,尋找符合規則的單詞排列。) 詳しく言えばもっと細かい作業があるのですが、ともかく、直接構成素の認定というのは、説明しようとすると、相当に複雑な過程を考慮に入れなければうまくいきません。(雖然詳細說來還有更細緻的操作,但無論如何,直接成分的認定如果要加以說明,就必須納入相當複雜的過程才能妥當進行。)もちろん、人間の脳は非常に優れた能力をもっていますから、こういう複雑な過程でもほんの一瞬で処理してしまいます。(當然,人腦具有非常卓越的能力,所以即使是這樣複雜的過程也能在瞬間內完成處理。)それについては間違いないのですが、しかしそれにしても、これだけの過程が含まれている判断について、誰もが直観によって正しく遂行できると考えるのは、少し楽観的過ぎるように思えます。(這一點是毫無疑問的,但即便如此,認為包含這麼多過程的判斷每個人都能憑直覺正確進行,似乎還是有點過於樂觀了。) もちろん、直接構成素の認定について、母語話者であれば誰もが同一の正しい判断をするのかもしれません。(當然,直接成分的認定,母語使用者也許都會做出相同的正確判斷。)しかし、もしそうだとするならば、直観についてのその前提が絶対に正しいことを検証する必要があります。(但是,如果是這樣的話,就有必要驗證關於直覺的這一前提是絕對正確的。)そうでなければ、たとえ正しいように思われる前提でも、学問を進めていく上での確実な道具として安心して採用するわけにはいきません。(否則,即使是看起來正確的前提,在進行學問研究時也不能安心地當作確實的工具來採用。)「直接構成素」という名前は付いていなくても、これとほぼ同じ性質をもった単位を、文の構造を作るための基本的な要素だと考えているのが生成文法なのですから、直接構成素を含む構成素一般がどのようにして認定され、それがどのような性質をもつのかは、この理論を基礎づける上で最も重要な位置を占める部分です。(既然生成文法認為,即使沒有「直接成分」這個名稱,但具有幾乎相同性質的單位是構成句子結構的基本要素,那麼包括直接成分在內的成分一般是如何被認定的,以及它具有什麼樣的性質,就成為這一理論在基礎上佔據最重要位置的部分。)建物で言えば、それこそ基礎となる土台に当たると考えていいでしょう。(用建築物做比喻,那就是相當於作為基礎的地基。)その土台の部分が、学問(特に、物理学や数学など「自然科学」と呼ばれる分野)一般に要請される基本的な条件を満たしていないのだとすると、それこそ生成文法理論全体に対して、疑いの目を向けたくなる人も出てくるかもしれません。(如果地基部分沒有滿足一般學問(特別是被稱為「自然科學」的物理學和數學等領域)所要求的基本條件,那麼就可能有人會對生成文法理論整體產生懷疑。) ただ、言語学が人間の頭の中にあるコトバのしくみを解明することを目的とする学問である以上、物理学や化学、生物学などといった、基本的には人間の外にある自然を対象とする自然科学分野の学問とは、自ずと性質が違ってくることは仕方のないことです。(但是,既然語言學是以解明人類頭腦中語言機制為目的的學問,那麼與物理學、化學、生物學等以人類外部存在的自然為對象的自然科學領域學問相比,性質自然會有所不同,這是無法避免的。)自然科学では、万有引力の法則であれ質量保存の法則であれ、それなりの設備を開発すれば、こういった一番大切な法則を実験によって確かめることができます。(在自然科學中,無論是萬有引力定律還是質量守恆定律,只要開發出相應的設備,就可以通過實驗來驗證這些最重要的定律。)それも、実験機器はきちんと測定した結果の数値を出すのですから、法則の正しさを客観的に検証することが可能なわけです。(而且,實驗儀器能夠準確測量並輸出結果的數值,所以能夠客觀地驗證定律的正確性。) コトバに関係する分野でも実験ということはあるのですが、人間が発声した音声の物理的な特徴を測定するなどの、自然科学と変わらない現象以外であれば、結局のところは、人間がある表現を正しいと判定するかどうかというような、どうしても主観性を逃れることのできない種類の実験になってしまいます。(與語言相關領域中實驗固然存在,但除了像測量人發出的語音的物理特徵這樣與自然科學無異的現象外,最終無論如何都會變成像判定人類認為某個表達是否正確這樣的,不可避免地帶有主觀性的實驗。)もちろん、これはこれで仮説を補強するための材料として使える可能性もあるのですが、結果を数値として定量的に表すことができない以上は、誰もが安心して理論の検証のために使える結果を保証してくれるものとは、残念ながらなることはできないのです。(當然,這些也可以作為加強假說的材料被使用,但既然結果無法以數值形式定量化表達,就無法保證任何人都能安心用來驗證理論,這實在是令人遺憾。)
構成素をどうやったら正しく認定できるのかという問題についての考察はこれくらいにして、とりあえずは文が正しく名詞句と動詞句の二つに分けられたものとしておきましょう。(關於如何正確識別構成素的問題就到此為止,暫且將句子假設為被正確地分成名詞短語和動詞短語兩部分。)間が空いてしまって見にくくなったので、⑩で示しておいた構造を、もう一度あげることにします。(由於中間留白使得難以閱讀,所以我決定將之前在⑩中所示的結構再次列出。)
[図⑩ 再掲]
こういう問題はあるにしても、文を作っている構成素にきちんと名前を付けて、文の構造を一般的に表すことができるようにしたのは、チョムスキーの大きな功績です。(儘管存在這樣的問題,但為構成句子的各個構成素恰當地命名,並使得文的結構能夠被一般性地表示,這是喬姆斯基的偉大成就。)彼は、⑩のような形で表された文の構造を「句構造標識」と呼びました。(他將以⑩這樣形式表示的文的結構稱為「短語結構標記」。)また、句構造標識は、木が枝分かれしているような形にも見えるので、単純に「木」とか「樹」あるいは「ツリー」などとも呼びます。(另外,由於短語結構標記看起來像樹枝分叉的形狀,所以也被簡單地稱為「樹」或「樹結構」,甚至「樹狀圖」等。)
句構造標識を用いて、文の構造が一般的に表示できることは、例えば次のように、⑩と同じ句構造標識で構造を示すことができるけれども、全然違った単語を使った文がありうることからもう分かります。(使用短語結構標記來表示文的結構具有一般性,例如,雖然可以用與⑩相同的短語結構標記來表示結構,但也可能存在使用完全不同單詞的句子,從這一點也可以看出這一點。)次の文⑫の句構造標識は、文⑧の句構造標識と全く同です。(下面句子⑫的短語結構標記與句子⑧的短語結構標記完全相同。)つまり、二つの文が同じ構造をもっているということを、句構造標識を用いることではっきりと示すことができるわけです(図⑬)。(也就是說,通過使用短語結構標記,可以清楚地表明兩個句子具有相同的結構(圖⑬)。)
⑫ The small cat chased a rat in the room. (那隻小貓在房間裡追趕了一隻老鼠。)
[図⑬挿入箇所]
句構造標識を使って文の構造を表す方法により、直接構成素分析ではどうしてもできなかった、明示的で一般的な構造表示ができるようになりました。(通過使用短語結構標記來表示文的結構的方法,使得那些直接構成素分析無法實現的明確的、一般性的結構表示成為了可能。)文の構造を表す方法が、曲がりなりにも開発されただけでも、言語学としては大きな進歩です。(即使表示文的結構的方法只是以某種方式被開發出來,作為語言學而言,這也是一個巨大的進步。)
私たちが、英語のような外国語の文が表している意味を理解しようとする場合には、単語の意味をすべて知っていることは当然として、もう一つ、その文がどんな「構文」を作っているのかを正しく理解していなければなりません。(當我們試圖理解英語等外語句子所表達的意思時,當然必須知道所有單詞的意義,另外還必須正確理解該句子構成了什麼樣的「句法結構」。)構文は構造と同ことですから、文の意味がどのような過程で理解されるのかを明らかにする上でも、文の構造が目に見える形できちんと表されていることは非常に重要なことです。(由於句法結構與結構是同一回事,所以在闡明句子意義如何被理解的過程中,以可視的形式恰當地表示句子的結構是非常重要的。)生成文法では、文が表す意味そのものが厳密な形で客観的に提示されたことはついぞないのですが、人間のコトバが意味を伝達する手段である以上、文の意味が理解される過程を解明することは、言語学が追究すべき最重要の課題の一つに違いありません。(在生成語法中,句子所表達的意義本身從未以嚴格的形式客觀地呈現過,但既然人類語言是傳達意義的手段,明確句子意義被理解的過程無疑是語言學應該追求的最重要課題之一。)その意味でも、文の構造そのものを表す方法を、チョムスキーが提示したことの価値は大きいと言えます。(從這個意義上說,喬姆斯基提出的表示句子結構本身的方法的價值是巨大的。)
句構造標識によって文の構造を表す方法は、実はもっと大きな利点をもたらしてくれます。(用句構造標記表示文章結構的方法,實際上會帶給我們更大的優勢。)それは何かと言うと、ある言語の文を作るために従わなければならない規則を、句構造標識をもとにして書き表すことができるということです。(那就是說,可以根據句構造標記來寫出某種語言造句時必須遵守的規則。)⑩と⑬は同じ構造を表す句構造標識でしたが、この図を見ると、まず文は名詞句と動詞句に分かれることが分かります。(⑩和⑬是表示相同結構的句構造標記,但看這個圖時,首先可以看出文首先分為名詞短語和動詞短語。)別の言い方をすれば、英語の文はどんなものでも、名詞句の次に動詞句が並ぶという規則に従っているということです。(換句話說,任何英文句子都遵循名詞短語後面緊跟著動詞短語的規則。)チョムスキーは、この規則を次のような形で表しました。(喬姆斯基用以下形式表示了這個規則。)⑭ 文 → 名詞句 + 動詞句(⑭ 句子 → 名詞短語 + 動詞短語)正確に言うと、「文 → 名詞句 動詞句」のように、「+」を使わない形で規則が書かれるのですが、「+」があった方が見やすいので、本書では「+」を使うことにしておきます。(準確地說,規則是以「句 → 名詞短語 動詞短語」的形式寫出來的,不使用「+」,但因為有「+」會更容易看,所以本書中決定使用「+」。)生成文法では、「名詞句」とか「動詞句」のような、伝統的な文法にはなかった単位と、「名詞」や「動詞」のような従来から「品詞」と呼ばれている単位を一括して呼ぶための名前として「統語的範疇」という用語を使っています。(在生成文法中,使用「統語範疇」這個術語來統一稱呼傳統語法中沒有的單位(如「名詞短語」「動詞短語」)和傳統上被稱為「詞性」的單位(如「名詞」「動詞」)。)この用語を使えば、⑭のような規則は、ある統語的範疇が、別の統語的範疇に「書き換えられる」規則(これを「書き換え規則」と呼んでいます)だと言うことができます。(使用這個術語的話,可以說像⑭這樣的規則是某個統語範疇可以「改寫」為另一個統語範疇的規則(這被稱為「改寫規則」)。)同じ句構造標識をもとにすれば、他にも次のような書き換え規則があることが分かります。(根據相同的句構造標記,可以發現還有以下這樣的改寫規則。)⑮ 名詞句 → 冠詞 + 形容詞 + 名詞(⑮ 名詞短語 → 冠詞 + 形容詞 + 名詞)
動詞句 → 動詞 + 名詞句 + 前置詞句
前置詞句 → 前置詞 + 名詞句(前置詞短語 → 前置詞 + 名詞短語) このような、範疇から範疇への書換規則のことを「句構造規則」と呼びます。(像這樣從範疇到範疇的改寫規則,我們稱之為「短語結構規則」。)句構造規則は⑮にあげたものだけではありませんが、句構造規則としてどんなものがあるのかが分かれば、ある言語で使われる文がどんな構造をもつことができるのかを、はっきりとした形で示すことができるようになります。(短語結構規則不僅限於⑮所列舉的那些,但只要我們瞭解有什麼樣的短語結構規則,就能以明確的形式說明在某種語言中使用的句子可能具有什麼樣的結構。) 別の言い方をすれば、ある言語がもつはずの句構造規則に正しく従っている表現こそが「文」なのであって、そうでない単語の並びは、単なる単語の羅列であって文ではないのだと言うことができます。(換句話說,正確遵循某種語言應有的短語結構規則的表達才是「句子」,而不符合規則的單詞排列只是單純的單詞羅列,不是句子。)そもそも、英語とか日本語のような言語を正しく使うためには、単語の意味と音の結びつきとか、助詞や助動詞の使い方などの決まりなど、その言語がもっている「規則」を誰もが共有しておく必要があります。(總之,要正確使用英語或日語這樣的語言,每個人都需要共享該語言所具有的「規則」,比如單詞的意義與聲音的聯繫,助詞和助動詞的用法等決定性的規則。)そうでなければ、ある言語で言われた表現が表す意味を、その言語を知っている誰もが同じように理解することは決してできません。(否則,任何人即使知道某種語言,也無法以相同的方式理解用該語言表達的意思。)そういう規則の中でも、最も重要なものの一つが文の構造を決めるための規則、つまり句構造規則だと考えることができます。(在這些規則中,最重要的之一是決定句子結構的規則,即短語結構規則。) そして、チョムスキーが句構造規則を提示してくれるまでは、直接構成素分析に代表される、文の構造についての研究はずっと前から行われてきてはいたものの、「文の構造はこういう規則に従って作られるのだ」ということを、これほど厳密な形で主張してくれた学説はなかったのです。(而且,在喬姆斯基提出短語結構規則之前,雖然以直接成分分析為代表的句子結構研究早就開始進行了,但還沒有任何學說能以如此嚴謹的方式主張「句子結構是按照這樣的規則構建的」。)その意味で、句構造規則の登場は、文の構造についての研究を大いに進める契機となったことは間違いないところだと思います。(就這個意義而言,短語結構規則的出現無疑成為了大力推進句子結構研究的契機。)
文がもつことができる構造、もっと簡単に言えば語順の決まり、を明らかにするものとして、句構造規則は確かに言語学的に価値あるものです。(文所具有的結構,更簡單地說就是詞序的規則,作為闡明這一點的手段,短語結構規則確實在語言學上是有價值的。)しかし、チョムスキーは、これだけで文の構造について、ある言語が示す全体像を解明することにはならないと考えました。(但是,喬姆斯基認為,僅靠這個還不足以闡明某種語言在文的結構方面所表現出的全貌。)そのことについては、すぐ後で説明します。(關於這一點,我們稍後會進行說明。)その前に、こうした形で示される句構造規則の根本的な問題点について考えておくことにします。(在此之前,我們先考慮一下以這種方式表示的短語結構規則的根本性問題。)
その問題というのは、そもそも「文」という単位がどうやって分かるのかということです。(所謂的問題就是,首先,「文」這樣一個單位究竟是如何被識別出來的呢?)生成文法に限らず、言語学で文法(文の構造)を研究する場合には、当たり前のことですが「文」を認定することが分析の出発点になります。(不限於生成文法,在語言學中研究文法(文的結構)時,當然,識別「文」是分析的出發點。)これが文であって、文はこういう具合に下位の単位に分割されていくので、全体としてはこういう構造になるのだというのが、おおざっぱに言えば文の構造を示す過程であるわけです。(這是文,文以這樣的方式被分割成下位的單位,因此整體上就形成了這樣的結構——粗略地說,這就是表示文的結構的過程。)
英語でも日本語でも、書かれた文章であれば、文の最後にはピリオドとか句点が置かれますし、英語ならば文の最初の文字を大文字にします。(在英語和日語中,如果是書面文字,文的末尾會放置句號或句號,英語的話會將文的第一個字母大寫。)ですから、書かれた文章を資料にする限りは、ずらずらと並べられた文字の列の中から、一つの文を認定するのは、一応は難しくない作業だと言えます。(因此,如果以書面文字為資料,從一連串排列的文字中識別出一個文,在某種程度上是不太困難的工作。)
しかし、話されたコトバの場合は、音が次々と一列に並ぶだけで、どこに文の切れ目があるのかは明確ではありません。(但是,在說話的語言的情況下,音只是依次一列排列,文的分界點在哪裡並不明確。)文と文の切れ目にちょっと間を置く(「ポーズ」を置くと言います)こともありますが、いつもそうだとは限りませんし、話し言葉の決まりとして、文と文の切れ目には間を置かなければならないというものがあるわけでもありません。(文與文的分界處有時會停頓一下(稱為「停頓」),但不是總是這樣,口語規則中也不存在文與文的分界處必須停頓的要求。)
それに、書きコトバの場合でも、文末にピリオドや句点を打つ習慣ができたのは、文字の歴史を考えてみると、かなり最近のことに過ぎません。(而且,即使在書面語言的情況下,在文末打句號或句號的習慣,從文字歷史來看,也不過是相當晚近的事情而已。)日本でも、中古文学の写本などを見てみると、文字がずらずらと切れ目なく書き並べられているだけで、句点などどこにも記されていないのが普通です。(在日本,看中古文學的手稿等,通常就是文字一連串地不間斷地寫在一起,根本沒有地方標記句號之類的東西。)
したがって結局のところ、コトバ一般について言えば、文がどこから始まってどこで終わるのかを明示的に表す手段はないのだと考えなければなりません。(因此,歸根結底,對於語言一般而言,文從哪裡開始到哪裡結束沒有明確的表示手段,必須這樣認識。)つまり、与えられたコトバのデータ(文字資料や音声資料)を見たり聞いたりして、どれが文なのかをアプリオリに、つまり文についての定義を前もって教えられていない状態で認定することはできないということです。(換句話說,看著或聽著給定的語言數據(文字資料或音聲資料),不能在先驗地、即沒有預先被教導文的定義的狀態下識別出哪些是文。)
文とはこんな構造をもっているのだということを示すためには、あらかじめ文とは何かということ、言い換えれば文の定義ができあがっていなければなりません。(為了說明文具有這樣的結構,必須預先完成對文的定義,換句話說,必須明確文是什麼。)文の定義が分かっているのであれば、データから文を正しく切り出すことができて、こうして切り出された文を分析することで、文の構造を作るための規則を安心して明らかにすることができます。(如果理解了文的定義,就能從數據中正確地切分出文,通過分析這些被切分出來的文,就能放心地闡明用來構建文的結構的規則。)
生成文法では実際に使われたコトバの資料だけではなくて、分析する人が頭の中で作った例文(「作例」と呼んだりします)も、分析の対象とします。(在生成文法中,不僅使用實際使用過的語言資料,還使用分析者在腦中創造的例句(有時稱為「作例」)作為分析的對象。)生成文法以外の分野でも、こうした作例を資料として分析の対象に加えることは普通に行われているのですが、やはりあらかじめ文の定義ができていないことには、作例であろうが実例であろうが、その例を出発点として文の構造を決定する規則を明らかにしたと言っても、その結果を疑いえないものとして受け入れることには、どうしてもためらいを感じずにはいられないはずです。(即使在生成文法之外的領域,也普遍地使用這樣的作例作為資料加入分析對象,但如果沒有預先完成文的定義,無論是作例還是實例,即使以這些例子作為出發點闡明了決定文的結構的規則,在把這個結果作為無可疑議的東西接受下來時,想必也是難免會有猶豫的。)
こう考えた後で、先に説明した句構造規則の出し方を改めて見直してみると、文はこういうものなのだよという定義があらかじめ与えられているわけではありません。(以這樣的思考為出發點,重新審視之前所說的短語結構規則的提出方式,會發現預先並沒有給出「文就是這樣的東西」這樣的定義。)何の説明もなしに、いろんな表現が文だとして提示されて、その構造を示した結果をもとにして句構造規則が導かれています。(沒有任何說明,各種表達就被提示為文,短語結構規則就是基於這些表達的結構得出的。)
もちろん、直観的には A pretty girl played the piano in the auditorium. とか The small cat chased a rat in the room. のような表現を、直ちに文だと認めてしまっても特に問題はないだろうとは思います。(當然,直覺上,認為像「A pretty girl played the piano in the auditorium」或「The small cat chased a rat in the room」這樣的表達是文,應該沒有特別的問題。)ですから、これらの表現を出発点としてどんな句構造規則があるのかを明らかにしたとしても、多分その結果はそれなりに信頼できるものだろうと期待することはできます。(因此,即使以這些表達為出發點闡明了什麼是短語結構規則,也可以期待其結果可能是相當可信的。)
けれども、本当に厳密に考えるならば、分析のための例として取り上げている表現が、本当に文なのかどうかは分からないわけです。(但是,如果真的從嚴謹的角度思考,用作分析例子的表達到底是不是文,是無法確定的。)だとすると、その結果として導き出された句構造規則なるものが、果たして文の構造を作るために従うべき正
とりあえずは、文だとアプリオリに(「無前提に」「厳密な定義なしに」という意味だと理解しておいてください)認定された表現が、正しく本当句構造規則だけでは十分ではない?
⑯ *Emma met.(艾瑪見了。【譯按:met 是及物動詞,缺少賓語】) ⑰ *The boy resembles.(那個男孩相似。【譯按:resembles 是及物動詞,缺少賓語】) ⑱ *The glass is stupid.(玻璃杯很愚蠢。)
これらの例文の左肩についている「*」(「アステリスク」と呼ばれます)の印は、文法的に間違った文を表すために使われる記号です。(這些例句左上角的「*」(稱為「星號」)是用來表示文法上錯誤的句子的符號。)⑯と⑰の例は、meet と resemble が他動詞なのに目的語の名詞句がないので間違いだとされますし、⑱の例は、主語が the glass (グラス、ガラス) という無生物なのに、動詞句(述語)の部分は is stupid (愚かだ) という生き物についてしか用いられないはずの語句なので、やはり文としては間違ったものだとされるわけです。(⑯和⑰的例子是因為 meet 和 resemble 是及物動詞,卻缺少賓語名詞句;⑱的例子是因為主語是 the glass(玻璃杯)這樣的無生物,但動詞短語(謂語)部分 is stupid(很愚蠢)這樣的詞只能用於生物,所以作為文句也是錯誤的。)
もっとも、この三つの文は、「文 → 名詞句 + 動詞句」という英語がもっている一番基本的な句構造規則に正しく従っています。(不過,這三個句子確實都正確地遵循了英語最基本的短語結構規則「句子 → 名詞短語 + 動詞短語」。)ところが確かに、これらの文は実際にはまず使われることはないようです。(但是,這些句子實際上幾乎不會被使用。)だとすると、句構造規則を定めておくだけでは、ある言語で使われることができる、つまり正しい文として誰にでも受け入れられる、文法的な文とはどんなものなのかを、完全に説明することはできないのではないかといううことになりそうです。(那樣的話,只規定短語結構規則恐怕無法完全解釋什麼是在某種語言中能被使用,即作為正確的文句被誰都接受的語法文句。)
それにチョムスキーにとっては、「言語」というのは、その言語で作られることのできるすべての「文」の集合のことでした。(而且對喬姆斯基來說,「語言」就是能用該語言製造的所有「句子」的集合。)言語についてのこの定義が果たして妥当なものかどうかについては、疑問がないことはないのですが(もちろん、先に述たような「文」そのものの定義がないということとが最も大きな問題ですが、それ以外にも、例えば文の集合体としての「文章」はどうなるんだ、というような素朴な疑問もあります)、いずれにしても、句構造規則に従って作られる文の集合の中に、間違った文が入り込んでいたのでは、言語そのものの性質を正しく見極めたことにはならないのはもちろんです。(關於這個對於語言的定義是否恰當,有不少疑問(當然,如前所述「句子」本身沒有定義是最大的問題,但除此之外,例如作為句子集合體的「文章」該怎麼辦呢,這樣素樸的疑問也存在),但無論如何,如果按照短語結構規則生成的句子集合中包含了錯誤的句子,那當然就不能說正確地把握了語言本身的性質。)
句構造規則が、文法的に間違った文を作り出してしまうことを「過剰生成」と呼びます。(短語結構規則生成在文法上錯誤的句子的情況被稱為「過度生成」。)ですから、生成文法としては、こうした過剰生成を回避するための方法を考えなければなりません。(因此,作為生成文法,必須考慮迴避這種過度生成的方法。)しかしここで、句構造規則を修正するという方法はとることはできません。(但是這裡不能採取修正短語結構規則的方法。)なぜならば、句構造規則というのは結局のところ、名詞とか動詞のような品詞がどういうふうに並ぶのかを書き表した規則なのであって、この方法をとる限り、ある個別の単語についてこういう構造をとることはできないという情報を、この規則と同じ形で表すことはできないからです。(因為短語結構規則歸根結底是描述名詞、動詞這樣的詞類如何排列的規則,採用這種方法的話,就無法用與規則相同的形式表達某個特定單詞不能採取這樣的結構的信息。)
それでは、どういう方法で過剰生成がなくなるようにしているのかというと、実は簡単で、例えば個々の動詞について、こういう構造をとるのだという情報を与えておくだけです。(那麼,實際上消除過度生成的方法其實很簡單,就是只需給出關於個別動詞應該採取什麼樣結構的資訊。)meet とか resemble であれば、これは他動詞で目的語をとるのだから、次のような規則に従って構造を作らなければならないとされます。(若是meet或resemble的話,因為這是及物動詞且要帶受詞,所以必須按照以下規則來構建結構。) ⑲ meet: [+ _ 名詞句]
resemble: [+ _ 名詞句] ⑲のような個別の単語ごとにどんな構造をとるのかを示すことを、生成文法では「厳密下位範疇化」という、ずいぶんと難しげな用語で呼んでいます。(⑲這樣的為了說明每個單詞採取什麼樣的結構,在生成文法中被用一個相當難懂的術語「嚴格次範疇化」來稱呼。)とは言え、単語ごとにどんな構造を要求するのかは違うとしても、この動詞ならば後に名詞句を伴う必要はないけれども、別の動詞ならば後に名詞句が必ず必要だ、というように、単語が要求する構造を基準として単語を分類することを、「下位範疇化」と呼んでいるだけのことです。(儘管每個單詞所要求的結構不同,但根據單詞所要求的結構進行分類,比如這個動詞之後不需要帶名詞短語,而另一個動詞之後必然需要名詞短語這樣的方式,就叫做「次範疇化」。) 単語ごとにどんな構造を要求するのかは、ある言語を母語として使う人の頭の中に入っていなければならないのだから、こういう形の規則を設けておいても構わないのだろうとは思います。(因為每個單詞要求什麼樣的結構必須存在於以某種語言為母語的人的大腦中,所以即便設定這樣形式的規則似乎也沒有問題。)ただ、ちょっと英語を勉強してみればすぐ分かるように、英語の動詞は、同じ一つの動詞でも、目的語をとらない「自動詞」としての用法もあれば、目的語をとる「他動詞」としての用法もあるのが普通です。(但是,只要稍微學一點英語就馬上能明白,英語的動詞即便是同一個,既有不帶賓語作為「自動詞」的用法,也有帶賓語作為「他動詞」的用法,這是很普遍的。) 例えば、kill(殺す)のように、これは必ず目的語が必要だろうと思えるような動詞でも、「人殺しをする」とか「(植物が)枯れる」という自動詞としての意味があります。(例如,像 kill(殺死)這樣的動詞,看起來肯定需要賓語,但也有「殺人」或「(植物)枯死」這樣作為自動詞的意思。)実際、タバコのパッケージには Smoking kills. (喫煙は命を縮める) という文が書かれていることもあります。(實際上,香煙包裝上有時會寫著「吸煙致命」(Smoking kills) 這樣的句子。)同じように、eat(食べる)という動詞にも、「食事をとる」という、目的語を必要としない用法があります。(同樣,動詞 eat(吃)也有「進食」這樣不需要賓語的用法。) meet についても同じなのでして、「(集団が)集まる、合流する」のような自動詞としての用法があります。(meet 也是這樣,有「(團體)聚集、匯合」這樣作為自動詞的用法。)ですから、Emma met. という文が言われたとして、これが「エマという名前の一人の女性が会った」というような意味を表しているのだとしたら、誰に会ったかが表されていないのですから、当然この文は間違いになります。(因此,如果說 Emma met. 這句話表示「名叫艾瑪的一位女性見面了」這樣的意思,那麼沒有表達和誰見面,所以這句話自然就是錯的。) もちろんこれが普通の理解の仕方なのでして、だからこそ⑲のような規則があるのだとされているわけです。(當然這是普通的理解方式,正因為如此才說有⑲這樣的規則。)けれども、meet に自動詞としての用法があることも、間違いのないことなのです。(但是,meet 有作為自動詞的用法這也是毫無疑問的。)だとすると、meet について後に名詞句が続かなければならないのだということを指定する規則は、やはり適切とは言えないことになるでしょう。(那麼,指定 meet 後面必然要跟名詞短語的規則就似乎不太恰當了。) 一方、resemble については、「誰かに似ている」という意味を表すのですから、これは必ず「似られている相手」(ちょっと変な表現ですが)を表す必要がどうしてもあります。(另一方面,resemble 表達「像某人」的意思,所以必然要表達「被相似的對方」(這個表達方式有點奇怪)。)したがって、⑲にあるような構造を要求するのだと考えることに問題はなさそうです。(因此,認為 resemble 要求⑲中那樣的結構似乎沒有問題。) しかしいずれにしても、英語の動詞の大多数が自動詞と他動詞の両方で用いられることができるのは事実なのですから、後ろに名詞句を要求するかどうかという形の規則は、実際のところあまり役に立たないのではないかと思えます。(但無論如何,英語動詞的大多數既可以作為自動詞也可以作為他動詞使用是事實,所以是否要求後面跟名詞短語這樣形式的規則,實際上似乎沒有多大的用處。)
(理解意義解釋過程的大前提) それに、これはコトバについての大前提になると私は考えているのですが、ある言語を使って作られた何らかの表現があったとして、その表現が、その言語がもっている基本的な構造規則から全く逸脱していない限り(例えば、英語の文なのに Met Emma. のような「動詞+名詞」という構造になっていたり、the room in のように、in が名詞句の後に来たりしているような場合は、英語の句構造規則から全くはずれた文だと言えるでしょう。もちろん、もっと長い文の中でこういう連続がたまたま使われて、それがきちんとした英語の表現になることはありえます。ただここでは、説明が長くなってしまうので、これだけの短い表現が単独で使われたものとしておきます)、この表現を聞いたり見たりする人(以下ではコトバの「受け手」あるいは「受信者」と呼ぶことにしましょう)は、その表現が文法的に正しい文であって、何らかの適切な意味を表しているはずだという前提で、理解をしようと努めるはずです。(而且,我認為這是關於語言的一個大前提,即如果某種語言所創作的表現,只要不完全偏離該語言的基本結構規則(例如,英語句子卻形成了「動詞+名詞」的結構,如 Met Emma.,或者像 the room in 那樣介詞 in 出現在名詞短語之後的情況,就可以說這是完全違反英語短語結構規則的句子。當然,這樣的組合可能會在更長的句子中偶然出現,並且也可能是正確的英語表達方式。但是,為了避免說明過長,我們將此視為單獨使用這樣簡短的表達方式),聽到或看到這種表達方式的人(以下我們稱之為語言的「接收者」或「受信者」)應該會以這種表達方式在語法上是正確的句子並表達某種適當意義的前提下,努力理解它。) もともとコトバを使う人間は、頭の中にある言語を使うために必要な規則(これをスイスの言語学者ソシュールは「ラング」と呼んでいました)をきちんともっていて、その規則に従って、誰にでも理解してもらえるように正しい文法的な文を作ろうとするものです。コトバは、作り手(「発信者」とも言います。コトバを話したり書いたりする人間のことです)が頭の中で考えた意味と同じ意味を、受け手がやはり頭の中で理解することで、初めてその働きを全うすることができるのですから、意図的に意味の分からない表現を作って相手を混乱させるなどの非常にまれで特別な場合を除いては、わざわざ文法的に間違った文を作ったりはしないものだと考える方が合理的です。(本來說話的人,頭腦中具有使用語言所必需的規則(瑞士語言學家索緒爾稱之為「語言系統」),並按照這些規則努力創作讓任何人都能理解的正確語法句子。語言只有在創作者(也稱「發信者」,即說話或寫作的人)在頭腦中思考的意義與接收者在頭腦中理解的意義相同時,才能真正發揮其作用。因此,除了故意製造令人困惑的無意義表達這種極其罕見且特殊的情況外,認為人們不會故意創作語法錯誤的句子是更合理的。) だとすると、Emma met. のような、一見文法的とは言えないような表現が使われた場合でも、これが何らかの適切な意味を表しているのではないかという解釈もできるはずです。実際、Emma が普通の女の子の名前ではなくて、バンドの名前とか、この名前の先生が担任をしているクラスとか、そういう状況も想定できないわけではありません。(那麼,即使像 Emma met. 這樣一開始看起來不太符合語法的表達方式被使用時,也應該能被解釋為表達某種適當的意義。實際上,如果 Emma 不是一個普通女孩的名字,而是一個樂隊的名字或由姓氏為 Emma 的老師擔任班主任的班級,這樣的情況也並非不可想像。) この Emma という固有名詞が指すものをこのように想定したとしたら、Emma met. という表現は、「エマが集まった」という、別に問題のない意味を表すものと解釈できるようになるのです。この訳文だと、それでも何となくおかしいのではないかという感じがするかもしれません。けれども、「エマ」を「モーニング娘。」とか「山田学級」に変えて、「『モーニング娘。』が集まった」とか「『山田学級』が集まった」などにすれば、それほど問題のない表現になるはずです。ただし、「集まった」といっても、「どこに」集まったのかが表されていませんから、その点では依然として足りないところがある表現ではあります。けれども、目的語の名詞句が必要なのにそれが表されていない、というような重大な欠陥に比べれば、まだ許容できる程度の問題に過ぎないと考えていいのではないでしょうか。(如果我們這樣假設 Emma 這個專有名詞所指代的對象,那麼表達方式 Emma met. 就可以被理解為表達「艾瑪聚集了」這樣沒有特別問題的意義。這個譯文可能會讓人感覺有些奇怪。但是,如果我們把「艾瑪」改為「早安少女組」或「山田班級」,然後說「『早安少女組』聚集了」或「『山田班級』聚集了」等,那麼應該就不會有太大問題了。不過,即使說「聚集了」,也沒有表明「聚集在哪裡」,所以在這一點上,這種表達方式仍然存在不足之處。但是,與必需目的語名詞短語卻沒有被表達這樣的重大缺陷相比,這只是一個仍然可以接受的問題程度,不是嗎?)
目的語をとるかとらないかという用法が原因で、句構造規則に問題があるとされたことについては、実際のところ、句構造規則に従ってさえいれば、基本的にはどんな表現でも適切な意味を表す可能性があるという性質によって、何とか問題を回避することができるのではないかということです。(關於因為目的語的使用方式而被認為句構造規則有問題的情況,實際上,只要遵循句構造規則,基本上任何表達都有表達適當意思的可能性,因此似乎可以以某種方式迴避這個問題。)句構造規則ではなくて、表現が表す意味を問題にしなければならないということは、⑱の例が間違った文だとされる場合についても、なお一層当てはまります。(不是句構造規則,而是要針對表達所表達的意思提出問題這一點,對於⑱的例子被認為是錯誤句子的情況,更加成立。)少し離れてしまったので、もう一度⑱をあげておきましょう。(因為說得有點偏離主題,所以再舉一次⑱的例子。)
⑱ *The glass is stupid.
(⑱ *玻璃杯是愚蠢的。)
この文は、the glass の部分が名詞句であり、is stupid が動詞句で、名詞句は「冠詞+名詞」という構造になっています。(這句話中,the glass 部分是名詞短語,is stupid 是動詞短語,名詞短語是「冠詞+名詞」這樣的結構。)動詞句の方は、「動詞+形容詞」という構造です。(動詞短語則是「動詞+形容詞」這樣的結構。)「動詞句→動詞+形容詞」という句構造規則があることについては、特に詳しく説明する必要もないと思います。(關於有「動詞短語→動詞+形容詞」這樣的句構造規則,我認為不需要做特別詳細的說明。)学校で勉強する英文法で、「動詞+補語」(五文型で言えばSVC)と呼ばれていた語順を、句構造規則の形に置き換えただけです。(在學校學習的英文法中稱為「動詞+補語」(用五句型說法就是SVC)的詞序,只是換成句構造規則的形式。)
ですから、⑱の文は英語の句構造規則に正しく従っていて、しかも、is (be動詞) の後に stupid のような形容詞が来るのは、英語としてまことに普通のことです。(因此,⑱這句話正確地遵循了英語的句構造規則,而且在is(be動詞)後面跟著stupid這樣的形容詞,在英語中是極其普通的。)先ほどの resemble の後に名詞句がない場合の例のように、動詞の性質によって要求される構造に適合していないという理由で、間違っているとすることはできません。(不能像前面resemble後面沒有名詞短語的例子那樣,以不適合動詞性質所要求的結構為理由來判斷它是錯誤的。)
そうすると、あとはこの文が表す「そのグラスは愚かだ」という意味に問題があるのだと考える以外に、理由を想定することはできません。(那樣的話,除了認為這句話所表達的「那個玻璃杯很愚蠢」這種意思有問題之外,就無法想象別的理由了。)実際のところ、同じ意味の日本語の文でも、普通の状況ならば間違っていると判断されるものです。(實際上,即使是相同意思的日語句子,在普通的情況下也會被判斷為是錯誤的。)
意味的な観点からであれば、⑱が間違った文であることを説明するのは、それほど難しくありません。(從意義的角度來看,解釋⑱是一個錯誤的句子並不是那麼困難。)先にも述たように、この文の主語の the glass は「グラス」という生き物ではないモノ(無生物)を表しているのに、動詞句に現れている形容詞 stupid は、「愚かだ」という性質を表すのだから、主語としては、普通ならば人間、あるいは少なくとも生き物であるモノ(生物)を要求し、動詞句が要求する意味的な性質を主語の名詞句が満していないというのが、間違った文だとされる大きな理由になります。(如前所述,這句話的主語the glass表示「玻璃杯」這樣的非生物(無生物),但動詞短語中出現的形容詞stupid表示「愚蠢」這樣的性質,所以作為主語,通常需要人類或至少是生物(有生物),動詞短語要求的語義性質沒有被主語的名詞短語滿足,這成為這句話被認為是錯誤句子的主要原因。)
同じ文や句の中で一緒に用いられる単語の性質の間に不一致があってはいけないという性質を、言語学では「共起制限」と呼んでいます。(在語言學中,將同一句子或短語中一起使用的單詞的性質之間不能存在不一致這一性質,稱為「共現限制」。)これをもう少しカッコよく言い換えてみると、stupid は主語である名詞に[+生物(ANIMATE)]という意味的な特性を要求するのに、この文の主語名詞は glass であって、これは[-生物(INANIMATE)]なのだから、述語が要求する意味的特性を主語が満していない、というような形になるでしょう。(如果用更優雅的方式重新表述,stupid要求作為主語的名詞具有[+生物(ANIMATE)]這樣的語義特徵,但這句話的主語名詞是glass,它是[−生物(INANIMATE)],所以主語沒有滿足謂語要求的語義特徵,大概就是這樣的形式。)ただ、こういう文の場合でも、これを作った人は何らかの適切な意味を表そうとしていたはずだ、という前提に立てば、何とか無理をして適切な意味をひねり出すことはできます。(不過,即使是這樣的句子,如果我們以創作者必然是在試圖表達某種恰當的意思為前提,也可以想辦法強行推導出恰當的意思。)どうするかというと、日本の昔話の「さるかに合戦」のように、本来は無生物であるモノも生物として活動するような世界(状況)を想像すればいいのです。(怎麼做呢,就像日本古話「猴子和螃蟹的戰爭」一樣,想像一個原本是無生物的東西也像有生物一樣活動的世界(情景)就行了。)この話では、臼や栗、そして牛の糞という無生物が、人間と同じような意思をもつモノとして振る舞っています。(在這個故事中,臼、栗和牛糞這樣的無生物,都像擁有和人類一樣的意識的東西那樣行動。)ですから、この文についても、「グラス」が生物として振る舞うような世界があるのだと想像しさえすれば、このグラスが「愚かだ」という性質をもつことは十分にありうることになります。(因此,對於這句話,只要想像一個「玻璃杯」作為有生物行動的世界,這個玻璃杯擁有「愚蠢」這樣的性質就完全有可能了。)
こういう解釈にはもちろん、相当に無理があります。(當然,這樣的解釋有相當的牽強。)しかし、人間の想像力はほとんど無限と言ってもよい可能性を秘めているのでして、そういう想像力を駆使して作り出された、ありとあらゆる世界で生じる事柄を表すために使われるのがコトバなのです。(但是,人類的想像力可以說幾乎是無限的,而語言就是用來表達通過這樣的想像力創造出來、在各種各樣的世界中出現的事物的。)想像の世界では、人間が空を飛んだり、人間以外の動植物に変身したり、あるいは過去や未来に自由に行き来できるタイムマシンがあったり、人間が一瞬にして遠く離れた場所に移動できたり(ウルトラマンの「テレポーテーション」や、ドラえもんの「どこでもドア」のことですね)、とにかく現実世界とは全く異なった法則に支配される事態が普通に生じています。(在想像的世界裡,人類可以飛向天空,或者變身為除人類之外的動植物,或者有可以自由往來於過去和未來的時間機器,或者人類可以瞬間移動到遠處的地方(烏奧特曼的「傳送」或哆啦A夢的「任意門」),總之,通常會發生由與現實世界完全不同的規則支配的事態。)ですから、現実の世界に限定して考えれば無理のある解釈でも、現実世界以外の想像の世界まで話を広げれば、それほど荒唐無稽な解釈だとも言えないのではないかと思います。(因此,雖然如果限制在現實世界的範圍內思考,這樣的解釋是有牽強的,但如果把話題擴展到現實世界之外的想像世界,我認為就不能說是那麼荒誕的解釋了。)
ですから、「そのグラスは愚かだ」という意味の文が間違いなのは、グラスが無生物であって知能をもたないことが分かっている世界についてのみ成立するということにすぎません。(因此,「那個玻璃杯是愚蠢的」這種意思的句子是錯誤的,這只不過是對玻璃杯是無生物且沒有智力這一點是已知的世界而言成立。)となると、この種の文が間違っていることを説明できないからといって、文の構造だけを対象とする句構造規則に欠陥があるとするのは、やはり妥当な態度だと見なすことは難しいと言えます。(既然這樣的話,如果
句構造規則は、ある言語で作られる可能性のある文の構造を決定するための規則でした。(句構造規則是用來確定某種語言可能產生的句子結構的規則。)どんな句構造規則があるのかがきちんと分かってさえいれば、あとは適切な意味解釈ができるような条件を考えればいいのですから、文の構造を決めるものは何かを明らかにするという目的のためであれば、句構造規則が分かるだけで十分だと言ってもいいのではないかと思います。(只要充分瞭解某種語言存在什麼樣的句構造規則,之後只需考慮如何進行適當的語義解釋就可以,所以如果是為了闡明決定句子結構的是什麼,光是理解句構造規則或許就足夠了。)
もちろん、ある言語がもっている句構造規則が正しく明らかになったとしても、それだけで不満が残ります。(當然,即使某種語言所具有的句構造規則被正確闡明,也仍然會留下不滿。)なぜならば、日本語と英語を比べただけでも分かるように、言語によって句構造規則はそれぞれ違います。(因為,正如日語和英語的比較所顯示的那樣,不同語言的句構造規則各不相同。)だとすると、ある言語がもっている句構造規則について、どうしてそのような規則が選ばれて、別の規則が選ばれなかったのか、その理由が知りたくなるからです。(那麼,就會想要知道為什麼某種語言選擇了那樣的規則,而沒有選擇其他規則的理由。)
例えば先に述べたように、英語には「前置詞句→前置詞+名詞句」という規則があるのですが、日本語には前置詞がありません。(例如,如前所述,英語有「前置詞短語→前置詞+名詞短語」這樣的規則,但日語中沒有前置詞。)日本語で英語の前置詞と同じような働きをする単語は「に」「や」「で」のような「格助詞」と呼ばれる品詞です。(在日語中,發揮英語前置詞類似作用的詞是被稱為「格助詞」的詞類,如「に」「や」「で」。)ところが、格助詞は「駅に」や「庭で」のように、必ず名詞の後ろに来ます。(但是,格助詞像「駅に」或「庭で」一樣,總是出現在名詞之後。)このため、格助詞を、名詞の後に置かれるということで「後置詞」と呼んだりする場合もあるのですが、とにかく、同じ働きをする単語でも、英語と日本語では名詞との位置関係が逆になります。(因此,格助詞有時被稱為「後置詞」,因為它被放在名詞之後,但總之,即使是功能相同的詞,英語和日語中它們與名詞的位置關係是相反的。)
このように、句構造規則が言語によって違うからには、それなりの合理的な理由があるはずなのでして、その理由を、人間のコトバがもつ本質から解明していくことは、学問としての言語学には是非とも達成しなければならない課題の一つだと言えます。(像這樣,既然句構造規則在不同語言間存在差異,必然有其合理的理由,從人類語言的本質出發來闡明這個理由,是語言學作為一門學問必須達成的任務之一。)ただ、コトバの本質とは何かを明らかにするということが、言語学の究極的な課題なのですから、当然まだ十分に分かっているわけではありません。(但是,既然闡明語言的本質是語言學的終極課題,當然目前還沒有充分理解。)となると、句構造規則の選択に関わる理由を解明するという作業は、どうもかなり困難なものになりそうです。(那麼,闡明句構造規則選擇原因的工作似乎會相當困難。)ですから、ここではまだその点にふれることはしません。(因此,這裡暫時不涉及那一點。)もっとも、生成文法では後になって、この問題に果敢に取り組むことになります。(不過,生成語法後來會勇敢地著手解決這個問題。)それがどういう結果になったのかは、後ほど説明することにしましょう。(那個結果如何,我們稍後再說明。)
さて、チョムスキーが句構造規則について問題だと考えた点はいくつかあります。(現在,喬姆斯基認為句構造規則有幾個問題。)まず、英語の次の文を見てみましょう。(首先,讓我們看一下英語中的以下句子。)
⑳ What did John buy at the store?
これは「ジョンはその店で何を買ったのか」という意味の、比較的に簡単な疑問文です。(這是一個意思為「約翰在那家店裡買了什麼」的相對簡單的疑問句。)ところが、この文の構造を句構造標識で表してみると、次のようになってしまいます(図㉑)。(但是,如果用句構造樹狀圖表示這個句子的結構,就會變成下面這樣(圖㉑)。)
[図㉑挿入箇所] 準動詞句→助動詞+名詞句+動詞+前置詞句
(準動詞句→助動詞+名詞句+動詞+前置詞句)
「準動詞句」という範疇の名前は私が勝手につけたもので、助動詞と動詞の間に名詞句が入り込むという、特別の語順になっていて、動詞を含む句ではあるけれども通常の動詞句とは違うことから、こういう名前にしてあります。(「準動詞句」這個範疇的名稱是我隨意起的,因為助動詞和動詞之間插入了名詞句,形成了特殊的語序,雖然是包含動詞的短語,但與通常的動詞片語不同,所以才取了這樣的名稱。)いずれにしても、このような句構造規則を設定しておけば、とりあえずは㉓のように、疑問詞ではなくて普通の名詞句が文頭にある表現が作られることのないようにすることができます。(無論如何,如果設定這樣的短語結構規則,至少可以防止出現像㉓那樣疑問詞不在句首、而是普通名詞句在句首的表達方式。)
この規則に従って作られる、英語として正しい文はいくらでもあります。(根據這個規則構成的、英語正確的句子有很多。)例えば次のような例です。(例如下面這樣的例子。)
㉕ Who did Tom see at the station?(湯姆在車站見到誰了呢?)
㉖ What did Kate cook for her husband?(凱特為丈夫做了什麼飯?)
これで、疑問詞が文頭に来る場合の特別な構造に、句構造規則でうまく対処できるようになったのかというと、実はそうでもありません。(就這樣看來,是否能用短語結構規則很好地處理疑問詞在句首的這種特殊結構呢,其實並不是這樣。)㉔のような句構造規則だと、次のような間違った文も作り出してしまうことになります。(像㉔這樣的短語結構規則,也會產生下面這樣的錯誤句子。)
㉗ *Who did John come to my office?(*約翰在我的辦公室來了誰?)
この文だと、主語になることができる名詞として who と John の二つがあることになってしまいます。(這個句子的話,就會有who和John兩個詞可以作為主語。)ところが文の主語は一つしかありえませんから、日本語の「誰がジョンが私の会社に来たのですか」という表現と同じで、どうやっても適切に解釈することができません。(但是,文的主語只能有一個,所以這與日語中「誰が(誰是)約翰來了我的公司」這樣的表達方式一樣,無論如何都無法恰當地理解。)
もし、「誰が私の会社に来たのか」という意味の疑問文にしたいのなら、もちろん、次のような文にしなければなりません。(如果想要表達「誰來了我的公司」這樣意思的疑問句,當然必須改成下面這樣的句子。)
㉘ Who came to my office?(誰來了我的辦公室?)
このような文も正しく作ることができるような句構造規則にしておくためには、㉔を少し手直して、次のような形にしておく必要があります。(為了能夠正確地構成這樣的句子,有必要對㉔稍做修改,改成下面這樣的形式。)
㉙ 文→疑問詞+動詞句(句子→疑問詞+動詞片語) 文→疑問詞+準動詞句 動詞句→動詞+名詞句 準動詞句→助動詞+名詞句+動詞+前置詞句
英語というのは、疑問詞が動詞の目的語であっても、普通の目的語のように動詞の次に来るのではなくて文の先頭に来たり、疑問文の場合には主語と動詞や助動詞の位置が入れ替わったり(文法用語では「倒置」と呼びます)と、疑問文とそうではない普通の文(平叙文)とでは、あれこれ文の構造に違いがあります。(英語是這樣的,即使疑問詞是動詞的賓語,也不像普通賓語那樣出現在動詞之後,而是出現在句首;在疑問句的情況下,主語和動詞或助動詞的位置會互換(用文法術語稱為「倒置」),因此疑問句和普通的陳述句在文的結構上有種種不同。)
このことから、㉙のような余計な句構造規則が必要になるわけです。(由此可見,就需要像㉙這樣的額外的短語結構規則。)ただもちろん、句構造規則が少しくらい複雑になったとしても、何万もの単語が表す意味を記憶したり、地理や歴史など、さまざまな分野で蓄積されてきた膨大な知識を覚えたりすることに比べれば、人間の優れた頭脳にとってはたいした負担ではありません。(當然,即使短語結構規則變得稍微複雜一些,與記憶數萬單詞所表達的意思,或者記憶在地理、歷史等各個領域積累的龐大知識相比,對人類優秀的頭腦來說也不是什麼大負擔。)
ですから、句構造規則が、その言語で作り出されることのできる文法的な文の構造を正しく予測することができる限り、句構造規則が極端に複雑でなければ、人間が頭の中に入れて使う規則として、それほど問題のあるものだとは言えないだろうと思います。(因此,只要短語結構規則能夠正確預測該語言中可能產生的語法上的句子結構,而且短語結構規則不是極度複雜的話,作為人類在頭腦中運用的規則,它就不能說是特別有問題的。)句構造規則は頭の負担になるか?