ノーム・チョムスキーは、アメリカの言語学者で、「生成文法」という文法理論をほとんど一人で作り上げて推進してきたことで、非常に有名です。(諾姆·喬姆斯基是美國的語言學家,因為幾乎以一己之力創立並推進了「生成文法」這一文法理論而非常著名。)積極的な政治批判やメディア批判の活動を行っていることでも知られていて、一般的にはこちらの活動の方で有名ですが、本書はチョムスキーの言語学についての解説なので、政治活動の方にはふれません。(他因進行積極的政治批評和媒體批評活動而也為人所知,在一般大眾中往往因為這些活動而更加著名,但本書是關於喬姆斯基的語言學的解説,所以不涉及政治活動方面。)それでは、生成文法とは一体どんな文法なのでしょうか。(那麼,生成文法究竟是什麼樣的文法呢?)その問いに答えるためにはまず、「文法」とは何なのか、ということを少し復習しておかなければなりません。(為了回答這個問題,首先必須對「文法」是什麼進行一些複習。)私たちが学校で勉強する文法というのは、基本的には品詞の分類とか、日本語であれば助詞や助動詞の使い方だったり、英語であれば動詞の時制や仮定法の働きだったりします。(我們在學校學習的文法基本上是詞性的分類,如日語的助詞和助動詞的用法,或英語的動詞時態和虛擬式的用法。)要するに学校で勉強する文法は、おおざっぱに言って、文の中で使われている一つ一つの単語がどんな働きをしているのかということを説明したものです。(總的來說,在學校學習的文法大致上是解釋文章中使用的每一個單詞具有什麼樣的作用。)日本語の文法では、五段活用や上(下)一段活用などの、動詞の活用も文法の重要な部分として取り上げられます。(在日語文法中,五段活用和上(下)一段活用等動詞活用也作為文法的重要部分被討論。)この活用にしても、文の中で使われている一つの単語としての動詞について、語形の点でそれがどんな性質を示すのかを説明したものです。(即使是這個活用,也是在解釋文中作為一個單詞的動詞在語形方面表現出什麼樣的性質。)というわけで、私たちに馴染みのある文法というのは、文全体について何らかの分析をした結果を示しているものとは必ずしも言えません。(因此,我們所熟悉的文法不一定能說是呈現了對整個句子進行某種分析的結果。)けれども、私たちがコトバを使う時には、何らかの事柄を他の人に伝えることを目的とするのが基本です。(但是,我們使用語言的基本目的是向他人傳達某種事實。)そして、事柄を表すコトバの単位は文なのですから、「文」の「法」、つまり文のしくみを決定する規則を研究する学問分野が文法なのだとしたら、文全体を対象にするのがまさに本筋なのではないかと思えます。(而且,表達事實的語言單位是句子,所以如果文法是研究「句子」的「法則」,即決定句子結構的規則的學問領域,那麼以整個句子為對象不正是真正的要點嗎?)
文は単語を一列に並べて作られますが、どんな言語でも単語の並び方、つまり語順には規則性があることが知られています。(句子由一列單詞組成,但已知任何語言中單詞的排列順序(即語序)都具有規律性。)日本語であれば、例えば「ネコが魚を食べた」という文を見ても分かるように、「名詞+助詞」「動詞+助動詞」という語順の決まりがあります。(以日語為例,從「貓吃了魚」這句話就能看出,存在著「名詞+助詞」「動詞+助動詞」這樣的語序規則。)この決まりは必ず守らなければならないのであって、名詞と助詞、動詞と助動詞の順番を逆にして「がネコを魚た食べ」などとすることは決してできません。(這個規則必須遵守,名詞與助詞、動詞與助動詞的順序不能顛倒,絕對不能說出「がネコを魚た食べ」這樣的句子。)英語で、今の日本語の文と同じ意味を表すとすると、A cat ate fish. になります。(用英語表達與現在日語句子相同的意思,就是「A cat ate fish.」)この文を見ると、英語では「冠詞+名詞」、「名詞+動詞+名詞」という語順の決まりがあることが分かります。(看這句話,就能看出英語中存在著「冠詞+名詞」、「名詞+動詞+名詞」這樣的語序規則。)英語でも、日本語の場合と同じように、あらかじめ決められている語順の規則に従わないで、例えば Cat a fish ate. のような文を作ったとしても、正しい文として認められることは決してありません。(英語也和日語一樣,即使不遵守預先設定的語序規則,比如說出「Cat a fish ate.」這樣的句子,也絕對不會被認為是正確的句子。)今見たような「語順の決まり」は、文全体に関わるコトバの大切なしくみです。(剛才看到的這種「語序規則」是與整個句子相關的語言的重要機制。)ですから、語順の問題が文法にとって重要な問題であるのは間違いありません。(因此,語序問題對於文法來說無疑是一個重要問題。)それで、語順についてまず解決しなければならない問題は、そもそも日本語とか英語のような個々の言語で、どんな語順の決まりがあるのかということです。(因此,關於語序首先必須解決的問題是,在日語或英語這樣的各個具體語言中,究竟存在著什麼樣的語序規則。)先ほどあげた、「名詞+助詞」とか「動詞+助動詞」のような単純な決まりだけではすまないだろうということは、誰にでも想像がつくでしょう。(任何人都能想像到,之前提到的「名詞+助詞」或「動詞+助動詞」這樣的簡單規則恐怕不夠用。)日本語でも英語でも、名詞を形容詞が修飾することもあれば、「私が買った本」や同じ意味を表す英語の the book which I bought のように、もっと長い語句で名詞を修飾することも、普通にあります。(在日語和英語中,有時候形容詞修飾名詞,但也經常用更長的短語修飾名詞,比如「我買的書」或相應的英文「the book which I bought」。)動詞についても、日本語なら「食べさせられようとしていたのかもしれない」のように、動詞の後にいくつもの単語が連続して使われている表現も、それほど珍しくありません。(關於動詞,在日語中,像「可能被強迫吃」這樣,動詞後面連續使用多個單詞的表達也不是很罕見。)英語だとこれほど長くはなりませんが、それでも、may have been being made to eat it(それを食べさせられていたのかもしれない)のように、動詞を中心としてそこに助動詞や不定詞などを付け加えることで、ある程度長い表現を作ることもできます。(在英語中,雖然不會這麼長,但也可以像「may have been being made to eat it」(可能被強迫吃)這樣,以動詞為中心,在它上面添加助動詞或不定式等,來構成相當長的表達。)もちろんそれ以上に、「花子は太郎が翌日来ることを知らなかった」や Hanako didn't know that Taro would come the next day. のような、文の中にまた別の文が含まれている「複文」と呼ばれる、もっと複雑な文にしても、誰もが普通に使う表現です。(當然,更不用說像「花子不知道太郎第二天會來」或「Hanako didn't know that Taro would come the next day.」這樣,句子中包含另一個句子的「複句」這種更複雜的句子,也是任何人都普遍使用的表達方式。)こういう例がいくらでも考えられることから、ある言語にどんな語順の決まりがあるのかを正確に知ることも、学問的には決して易しいとは言えないわけです。(由於可以舉出無數這樣的例子,準確掌握某種語言中存在著什麼樣的語序規則,在學術上也絕不是容易的事。)それに、語順の決まりと言っても、どんな形でも構わないということでもありません。(而且,所謂的語序規則,也不是說什麼形式都可以。)ある言語で作られることができるはずの文をすべて予測できるくらい網羅的でなければならないのはもちろんですが、そしてまた、普通の人間が誰でも使えるのがコトバなのですから、あまりに複雑な形をした決まりだと、誰でもが自由に使いこなせるようにも思えません。(當然必須詳盡得足以預測某種語言中能夠生成的所有句子,而且由於語言是普通人都能夠使用的東西,過於複雜的規則規則似乎也無法讓每個人都能夠自由地運用。)となると、語順の決まりは、正確でありながらもできるだけ簡単な形で表された方がいいに決っています。(因此,語序規則應該在保持正確性的同時,盡可能以簡單的形式表達才對。)
文を作っている単語は、語順の決まりに従って並んでいます。(組成句子的單詞是按照詞序規則排列的。)言語学では、単語のような小さい単位が並んで文のような大きい単位を作っていて、小さい単位の並び方が一定の規則に従っていることが明らかな時、その大きい単位には「構造」があると言います。(在語言學中,當像單詞這樣的小單位排列成像句子這樣的大單位,且小單位的排列方式遵循一定的規則時,人們就說那個大單位具有「結構」。)つまり、構造というのは、「大きな単位を作っている小さな単位の並び方を決めている規則」が分かるように表したものだと言い換えることができます。(換句話說,結構就是以能夠理解「決定組成大單位的小單位排列方式的規則」的方式來表現的。)文の構造がどのようになっていて、そういう構造はどんな原理に基づいて決まってくるのかを明らかにすることを目的とする言語学の分野を「統語論」とか「統辞論」あるいは「構文論」などと呼びます。(目的是闡明句子的結構是什麼樣的,這樣的結構是基於什麼原理決定的語言學分野被稱為「句法論」、「統辭論」或「句構論」等。)文の構造を明らかにすることと、語順の決まりを明らかにすることは同じことですから、語順の決まりを解明することは統語論の最も重要な課題になってきます。(因為闡明句子結構和闡明詞序規則是同一回事,所以闡明詞序規則成為了句法論最重要的課題。)現在研究されている言語学の道筋をつけたのは、スイスの言語学者ソシュールですが、そのソシュールにしても、文の構造が作られるしくみを明らかにするための方法についてはほとんど何も述べていません。(開創當今語言學研究道路的是瑞士語言學家索緒爾,但即使是索緒爾,也幾乎沒有論述過闡明句子結構如何形成的方法。)ソシュールの学説を受け継いで行われた言語研究の流れを総称して「構造主義」と呼ぶならわしであるにもかかわらず、残念ながらその構造主義で統語論が発展することは、ごく一部の例外を除いては、ついぞありませんでした。(儘管繼承索緒爾學說進行的語言研究流派被統稱為「結構主義」,但遺憾的是,除了極少數例外,結構主義在句法論方面從未得到發展。)一方、大西洋の向こう側のアメリカでは、ソシュールの学説を直接継承したわけではないけれども「アメリカ構造主義」と呼ばれている言語学派が、科学的な言語研究を目指して活動しました。(另一方面,在大西洋彼岸的美國,一個被稱為「美國結構主義」的語言學派,儘管沒有直接繼承索緒爾的學說,卻以科學性的語言研究為目標進行活動。)この学派で指導的な役割を果たした学者が、ブルームフィールドという人なのですが、彼は統語論について、言語学史の中では重要な業績を残しています。(在這個學派中發揮指導作用的學者是叫布龍姆菲爾德的人,他在句法論方面在語言學史中留下了重要的成就。)
ブルームフィールドが始めた文の構造についての分析方法は、「直接構成素分析」と呼ばれています。(布魯姆菲爾德開始的關於句子結構的分析方法被稱為「直接成分分析」。)名前は何となく難しげですが、方法はそれほど難しいわけではありません。(名字有些複雜,但方法並不那麼難。)要するに、どんな文でも二つずつの部分に分けられていって、最終的に個々の単語にたどり着くのだという考え方に従って、文の構造を表そうとする方法です。(簡單說,就是按照任何句子都能逐次分為兩個部分、最終到達各個單詞這樣的想法,來表示句子結構的方法。)この説明だけだと分かりにくいので、例を使って説明しましょう。(因為只用這個說明不太容易理解,讓我用例子來解釋。)直接構成素分析は、まずは英語の文の構造を表すために考え出されたので、とりあえず英語の例をあげてみます(図①)。(因為直接成分分析最初是為了表示英語句子的結構而想出來的,所以暫且舉英語的例子(圖①)。)
[図①挿入箇所]
Johndrove a car to Chicago。(約翰開車到芝加哥。)という文が与えられたとして、この文はまず、John と drove a car to Chicagoという二つの部分に分けられます。(鑑於給定的「John 開車到芝加哥」這樣的句子,這個句子首先被分成 John 和 drove a car to Chicago 兩個部分。)この二つの部分が、最初の文に対しての「直接構成素」と呼ばれます。(這兩個部分被稱為相對於原始句子的「直接成分」。)「構成素」というのは、文を作っている成分としての語句のことで、単語一つのこともあれば、単語がまとまった語句のこともあります。(「成分」是指構成句子的詞語,既可以是單個單詞,也可以是組合在一起的詞組。)ですから、今考えている文であれば、John, drove, car, Chicagoなど、個々の単語も構成素ですし、a car とか to Chicagoのようなひとまとまりの語句もやはり構成素になります。(因此,在我們考慮的句子中,John、drove、car、Chicago 等個別單詞是成分,而「a car」和「to Chicago」這樣的組合詞組也是成分。)そういう構成素のうちで、最初に分かれる二つの部分のことを、ある語句を直接的に作り上げている構成素という意味で、「直接構成素」と呼ぶわけです。(在這些成分中,首先分開的兩個部分被稱為「直接成分」,其意思是直接構成某個詞語的成分。)直接構成素という名前は、文を直接作っている構成素だけでなく、drove a car to Chicagoを作っている、drove a car と to Chicagoのような語句についても当てはまります。(「直接成分」這個名稱不僅適用於直接構成句子的成分,也適用於構成「drove a car to Chicago」的「drove a car」和「to Chicago」這樣的詞組。)ただし、念のためもう一回説明しておきますと、drove a car と to Chicagoは、drove a car to Chicagoという語句の直接構成素ではあっても、文全体の直接構成素ではありません。(不過,為了謹慎起見,我再說明一下,「drove a car」和「to Chicago」雖然是「drove a car to Chicago」這個詞語的直接成分,但不是整個句子的直接成分。)単なる構成素の一つに過ぎないのです。(它們只是成分之一而已。)結局のところ、文から始めて、二つずつの直接構成素に次々に分割していって、最終的に個々の単語にたどり着いた段階で、文の分析は終わります。(歸根結底,從句子開始,逐次分割成兩個直接成分,最終達到個別單詞的階段,句子的分析就完成了。)こうして直接構成素に分割していった経過を示したのが、①のような図なわけです。(如此這樣分割成直接成分的過程所示出的就是像①這樣的圖。)ですから①は、文全体を作っているいくつかの単語が、どのようなしくみで並べられているのか、つまり文の構造がどうなっているのかを表したものだと考えることができます。(因此,①可以被認為是表示構成整個句子的若干單詞是如何排列的,即句子的結構是怎樣的。)このようにして、直接構成素に分割していくことで文の構造を表す方法を、「直接構成素分析」と呼ぶのです。(像這樣通過分割成直接成分來表示句子結構的方法被稱為「直接成分分析」。)
チョムスキーの生成文法も、文の構造の表し方については、後できちんと見るように直接構成素分析と本質的には変わりがないので、生成文法を正しく理解するためにも、直接構成素分析のことをもう少し詳しく見ておく必要があります。(喬姆斯基的生成文法在表示句子結構的方式上,如後來所詳細看到的那樣,本質上與直接成分分析沒有區別,所以為了正確理解生成文法,有必要更詳細地了解一下直接成分分析。)文を含めた語句が、二つずつの直接構成素に分割されて、最終的に単語に行き着くというのは、確かに間違いではないように思えます。(包括句子在內的詞組被兩兩分割成直接成分,最終達到單詞,這看起來確實沒有錯誤。)試しに、ベストセラー "The Da Vinci Code" にあった次の一文を直接構成素分析してみましょう。(讓我們來試試用直接成分分析法分析一下暢銷書《達文西密碼》中的下面這句話。)
② Although Silas had placed her back in her bed, the wound on her head was obvious.
この文を直接構成素分析すると、図③のようになります。(將這個句子進行直接成分分析,就會如圖③所示。)
[図③挿入箇所]
このように、結構長い文でも、何とか二つずつの直接構成素に分けていって、ちゃんと個々の単語にまで行き着くことができます。(這樣的話,即使是相當長的句子,也能夠一次分解成兩個直接構成要素,最後順利抵達各個單詞。)さらにくどいようですが、英語だけでなく、日本語の文についても直接構成素分析をしてみることにしましょう。(雖然有點囉嗦,但我們也來試著對日語句子進行直接構成要素分析吧。)次の文(夏目漱石の『こゝろ』の中にあった一文)を見てみましょう。(我們來看一下下面這句話(出自夏目漱石的《心》中的一句)。)
④ 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。(我是在鎌倉認識老師的。)
この文を直接構成素分析すると図⑤のようになります。(將這個句子直接進行成分分析就會變成如圖⑤所示的樣子。)
[図⑤挿入箇所]
英語と日本語は、語順のしくみが非常に違いますから、文の構造がもっている性質も当然お互いに違ってきます。(英語與日本語的語序機制非常不同,因此文句結構所具備的性質自然也會相互有所不同。)それなのに、どちらの言語の文でも同じ方法で直接構成素分析ができるのだとすると、この分析方法はそれなりに妥当性のあるものではないかという気がしてきます。(儘管如此,如果兩種語言的句子都能用相同方法進行直接構成素分析,那麼這種分析方法似乎應該具有一定的妥當性。)ところが、この分析方法には、ちょっと考えてみただけでも、大きな問題点が二つはあります。(然而,這種分析方法稍加思考就至少存在兩個重大問題。)まずは、文を含めた語句が二つの直接構成素に分かれるとして、分割する基準はどんなものなのかということです。(首先,假設包括句子在內的語句分成兩個直接構成素,那麼分割的標準是什麼呢?)基準などなくて、適当に二つに分けられるというのだったら、一体何のための分析なのか分からなくなってしまいます。(如果沒有標準,只是隨意分成兩部分,那就不知道進行這種分析的目的何在了。)何となく二つずつに分けられるような気がして、実際分けられるのだからそれでいいじゃないか、などと言うのでは、文の構造を決める原理とは何なのかという問題は、いつまで経っても絶対に解決することなどできません。(如果只是覺得似乎可以分成兩部分,實際上也確實分開了,那就說什麼好呢?那樣的話,關於是什麼原理決定句子結構的這個問題,無論多久都絕對無法解決。)直接構成素分析の提唱者たちは、この疑問に対しては一応の答えを用意していました。(直接構成素分析的提唱者對這個疑問準備了一個相應的答案。)それは、ある語句が直接構成素だとしたら、それは別の一語で置き換えることができなければならないという基準です。(那就是:如果某個語句是直接構成素,那麼它必須能夠用另一個詞語替換。)先にあげた John drove a car to Chicago. という文を使って、この置き換えについて見てみましょう。(讓我們用前面提到的 John drove a car to Chicago. 這個句子來看看這種替換的情況吧。)この文で drove a car to Chicago という部分は、例えば jumped(跳んだ)とか died(死んだ)のような一つの語に置き換えて、John jumped. や John died. のような、英語として正しい文を作ることができます。(在這個句子中,drove a car to Chicago 這個部分可以替換成 jumped(跳了)或 died(死了)這樣的一個詞語,可以構成 John jumped. 或 John died. 這樣合乎英文語法的句子。)ところが、John drove とか John drove a のような部分だと、これらの語句の代わりに使うことができる一つの単語は、英語の中ではどうやっても探し出すことはできません。(但是,像 John drove 或 John drove a 這樣的部分,卻無法找到英語中能用來替代這些語句的單一詞語。)いくつかの単語から成る語句を一つの単語で置き換えることができるということは、それらの語句が全体として、あるまとまった一つの働きをしているということの証拠になります。(由多個詞語組成的語句能用一個詞語替換,這證明這些語句整體上具有某種統一的功能。)逆に、ある語句を一つの単語で置き換えることができなければ、その語句が文中でどんな働きをしているのかを知ることは決してできません。(相反,如果某個語句無法用一個詞語替換,就絕對無法知道該語句在句子中發揮什麼功能。)どんな語句でも文の中で何らかの働きをしており、その働きを知ることで文全体が表す意味を理解することができるのですから、ある語句の働きを知ることができないということは、その語句をまとまって一つの構成素とすることはできないということです。(任何語句在句子中都發揮著某種功能,通過了解其功能可以理解整個句子所表達的意思,所以無法了解某個語句的功能就意味著不能把該語句作為一個統一的構成素。)こう考えるとすると、drove a car to Chicago が、この文の直接構成素だということになります。(這樣思考的話,drove a car to Chicago 就應該是這個句子的直接構成素。)残った John は一語ですが、一語ですから当然 He とか Mary とか、他の一語に置き換えることができます。(剩下的 John 是一個詞,作為一個詞當然可以替換成 He 或 Mary 等其他詞語。)ですから、John をこの文のもう一つの直接構成素だと考えて、特に問題はありません。(因此,把 John 作為這個句子的另一個直接構成素來考慮也沒有特別的問題。)次に drove a car to Chicago という語句では、drove a car を drove 一語に置き換えることもできますし、went とか came のような別の動詞に置き換えることもできます。(其次,在 drove a car to Chicago 這個語句中,drove a car 可以替換為 drove 一個詞,也可以替換為 went 或 came 這樣的其他動詞。)それに to Chicago も there のような副詞を使って置き換えることができます。(另外,to Chicago 也可以用 there 這樣的副詞來替換。)というわけで、drove a car to Chicago という構成素は、drove a car と to Chicago という二つの直接構成素に分けるのが適当だということになります。(因此,drove a car to Chicago 這個構成素應該分解為 drove a car 和 to Chicago 這兩個直接構成素。)しかし、さあこれで直接構成素を認定する確かな基準が得られたとするわけにはいきません。(但是,我們還不能說已經獲得了確認直接構成素的可靠標準。)英語だと、いくつかの語句を一つの単語に置き換えられるかどうかという判定基準は、それなりにうまくいくように思えます。(對英語來說,關於多個語句是否能替換為一個詞語這樣的判定標準似乎還算可以。)先にあげた③の後半部分にしても、the wound on her head は it という代名詞一個に置き換えることができますし、was obvious ならば、例えば disappeared(消えた)のような動詞一個に置き換えられます。(就連前面提到的③的後半部分,the wound on her head 也可以替換為一個代詞 it,was obvious 則可以替換為如 disappeared(消失了)這樣的一個動詞。)前半部分の Although から bed までの語句にしても、全体を例えば nevertheless(それにもかかわらず)のような一個の副詞に置き換えても、全体としてまともな英文になります。(就連前半部分從 Although 到 bed 的語句,整體替換為如 nevertheless(儘管如此)這樣一個副詞後,整體上仍然是正確的英文。)ところがここで、英語の文は三つの直接構成素に分割されることもあるのだと仮定してみましょう。(但是,如果我們假設英文句子也可能分解成三個直接構成素呢?)もちろん、Mary jumped.(メアリーは跳んだ)や John died.(ジョンが死んだ)のような二語から成る英文もあって、これだとどうやっても三つの部分に分けることはできません。(當然,也有像 Mary jumped.(瑪麗跳了)或 John died.(約翰死了)這樣由兩個詞組成的英文句子,這樣無論如何都無法分成三個部分。)しかし、Go.(行け)とか Hello.(やあ)のような一語からできている文もあるのですから、所詮は文が複数の直接構成素に分割できるという性質には、どうしても例外が出てきます。(但是,既然也有像 Go.(去吧)或 Hello.(嗨)這樣由一個詞組成的句子,那麼文句可分解成複數直接構成素的性質終歸還是會出現例外。)となると、直接構成素の数が二つでなければならないという理由はどこにもないことになるわけです。(那樣的話,直接構成素的數量必須是二的理由就不存在了。)さて、直接構成素が三つになっても構わないと決めれば、① John drove a car to Chicago. の文は、図⑥のような形で直接構成素分析できることになります。(好吧,如果我們決定直接構成素也可以是三個,那麼①John drove a car to Chicago. 這個句子就可以用圖⑥這樣的形式進行直接構成素分析了。)
[図⑥挿入箇所]
実際、drove a car を 去ったという動詞一語に置き換えることができますし、to Chicago は there という副詞に置き換えられます。(實際上,drove a car 可以替換為一個動詞 went,to Chicago 可以替換為副詞 there。)ですから、たとえ⑥のような形で直接構成素に分けたとしても、複数の語句を一語に置き換えることができるという直接構成素の認定基準は正しく満たしていることになるのです。(因此,即使按照⑥那樣的形式直接分割成直接構成素,將複數的語句替換為一個語的直接構成素認定基準仍然正確地得到滿足。)そもそも、よく考えてみると、文を始めとして、ひとまとまりだと判定される語句が、どうしていつも二つの直接構成素に分割されなければならないのかという理由が、よく分かりません。(說起來,仔細想想,以句子為首的被判定為一個整體的語句,為什麼必須始終分割成兩個直接構成素,這個理由我實在不太明白。)確かに英語だと、二つずつの直接構成素に分かれるとしても、まあ大体のところは分析がうまくいきます。(誠然,就英語而言,即使分割成兩個一組的直接構成素,分析基本上也能順利進行。)しかしだからと言って、どんな語句でも二つずつの直接構成素に分割されるのが、コトバとしての一般的な原理だということが、きちんと論理的に証明されているわけではありません。(但這並不意味著任何語句都以兩個為一組的直接構成素進行分割是作為語言的一般原理,這一點並沒有得到嚴密的邏輯證明。)ただ何となく、実際に使われる文を分析してみたら、二つずつに分かれていくという原則で問題ないように思えるので、もうこれを正しい原理として設定しておけばいいのではないかという、まことに薄弱な根拠に基づいて、分析のための根本原理が決められているようにしか思えません。(只不過,實際上當我們去分析真實使用的句子時,似乎按照兩個一組地分割下去的原則就沒有問題,所以就乾脆把這個作為正確的原理設定下來不就好了嗎?分析的根本原理似乎就是基於這樣一個非常薄弱的根據而被決定的。)もちろん、ある上位の単位が二個の下位の単位に必ず分割されるという原理は、非常にシンプルで分かりやすいので、この原理が本当に正しいのだとしたら、それはそれでコトバの重要な性質を明らかにする素晴しい発見です。(當然,一個上位的單位必然被分割成兩個下位的單位這個原理,是非常簡潔易懂的,如果這個原理真的是正確的,那它就是對語言重要性質的一個極好的發現。)しかし、どんな原理だったとしても、それが正しそうだということが経験的に予測されるだけでは、いろいろな現象を記述したり説明するための、安心できる根拠として使える保証はどこにもありません。(但是,無論什麼原理,僅僅是經驗上預測到它似乎是正確的,就不能作為用來描述或解釋各種現象的可信根據。)人間のコトバについて、万有引力の法則とか質量保存の法則、あるいは光速度不変の原理のように、まず絶対間違いないことが実証されている性質に基づくことで、直接構成素分析で採用されているような二分法を論理的に導き出すことができるのなら話は別です。(關於人類的語言,如果能像萬有引力法則、質量守恆定律或光速不變原理那樣,基於首先已經被實證為絕對不會出錯的性質,邏輯推導出直接構成素分析所採用的二分法,那就另當別論了。)けれども実際には、あれこれ構造を分析してみようとしたら、二分法が一番都合がよさそうだというのに過ぎないのですから、直接構成素分析を、構造分析の手段として安心して受け入れるわけにはいかないのです。(但實際上,當試圖分析各種結構時,二分法只不過是看起來最方便而已,所以不能安心地把直接構成素分析作為結構分析的手段接受下來。)実際、先に直接構成素分析をした日本語の例(図⑤)にしても、二分法にいつでも従わなくていいというのであれば、図⑦のような分析もできます。(實際上,就先前進行的日語直接構成素分析的例子(圖⑤)來說,如果不一定非要遵循二分法的話,也可以進行如圖⑦那樣的分析。)
[図⑦挿入箇所]
大体のところは二つずつの直接構成素に分割される方式に従ってはいるのですが、「私が先生と知り合いになった」という部分は、「私が」「先生と」「知り合いになった」という三つの直接構成素に分かれています。(大體上是按照每次分成兩個直接構成素的方式進行的,但是「我認識了老師」這個部分被分成了「我」「和老師」「認識了」這三個直接構成素。)そもそも日本語の場合は、英語とは違って、直接構成素を認定する基準として、いくつかの単語から成る語句を他の一語で置き換えることができるという性質を使うことはできません。(所以在日語的情況下,與英語不同,無法使用「由幾個單詞組成的短語可以用另一個單詞替換」這一性質作為判定直接構成素的標準。)例えば、「太郎はネコを飼っている」という文について、これを「太郎は」と「ネコを飼っている」という二つの直接構成素に分割できるとしましょう。(例如,對於「太郎養著貓」這句話,假設可以將其分成「太郎」和「養著貓」這兩個直接構成素。)「ネコを飼っている」の方は、「来る」とか「いる」とかの動詞一語に置き換えることはできます。(「養著貓」這部分可以用「來」或「在」這樣的動詞單詞來替換。)しかし、「太郎は」の方は、どうやっても一語に置き換えることはできません。(但是「太郎」這部分,無論如何都無法用一個詞來替換。)「太郎」のような日本語の名詞は、文中では「は」や「が」のような助詞を伴って使われるのが原則だからです。(這是因為「太郎」這樣的日語名詞,在句子中原則上是與「は」或「が」這樣的助詞一起使用的。)だとすると、直接構成素を認定する基準として、語句を一語で置き換えられるという性質を持ち出すのは、どんな言語にも当てはまる、普遍的な基準を提示するものではないのだと考えなければならないことになります。(這樣的話,就必須認為提出「短語可以用一個詞替換」這一性質作為判定直接構成素的標準,並不是提示一個普遍適用於所有語言的標準。)そもそも、語句を一語で置き換えられるという基準にしても、置き換えられるかどうかを判定するための客観的な原則などは示されておらず、英語のネイティブならば同じように判定するだろうという、なんとも心許ない信念に基づいているようにしか思えません。(而且,即使是「短語可以用一個詞替換」這個標準,也沒有提出判定是否可以替換的客觀原則,看起來只是基於「英語使用者應該會做出相同判斷」這一有些靠不住的信念。)複数の単語で構成されている語句が文中にあったとして、この単語の連続がどのような性質をもっていれば全体として一つの働きをもち、だから一つの単語に置き換えることができるのだ、というような納得できる説明がなければ、直接構成素の認定はまことに不安定な土台の上に載ったものでしかなくなります。(如果沒有令人信服的解釋說明多個單詞組成的短語具備什麼樣的性質才能作為一個整體發揮作用,因此可以替換為一個單詞,那麼直接構成素的認定就只能建立在非常不穩定的基礎上。)John drove a car to Chicago. という文の drove a car to Chicago が全体として一つのまとまりで、この語句を一語に置き換えることができるよね、と言われれば英語を知っている人間ならば、まあかなりの数がそうだと言って答えるでしょう。(如果有人說 John drove a car to Chicago 這句話中的 drove a car to Chicago 作為一個整體是一個固定搭配,這個短語可以用一個詞替換,那麼懂英語的人大多數都會同意。)しかし、それだけでは、その判定がどうして正しいのかを説明することは決してできません。(但是,僅憑這一點是絕對無法解釋為什麼這個判定是正確的。)説明できないのであれば、直接構成素とは一体何なのか、どんな働きをする単位なのかを、誰にでも納得できる形で明らかにすることは期待できないわけです。(既然無法解釋,那麼就無法期待能以令所有人信服的方式說明直接構成素究竟是什麼,它是什麼樣的語言單位。)
構造を一般的に表す方法がない。(沒有一般性地表示結構的方法。)
直接構成素分析がもつもう一つの大きな問題点は、ある言語の文がもつ構造を一般的に表すことができないということです。(直接成分分析所具有的另一個大問題是,無法通常地表達某種語言的句子所具有的結構。)人間のコトバ一般がどんな性質をもっていて、そういう性質がどうしてあるのかを説明することを究極の目標としている言語学としては、日本語とか英語のような言語で使われる文が、どんな構造をもつことができるのか、そしてそんな構造をもつのはどうしてなのかを明らかにしたいところです。(對於以說明人類語言一般具有什麼性質及其原因為最終目標的語言學來說,應當想要闡明日語、英語等這樣的語言中使用的句子能夠具有怎樣的結構,以及為什麼具有這樣的結構。)ところが、今まで説明してきた直接構成素分析のような方法だと、実際に使われた文を持ち出してきて、これはこういうふうに二つずつの直接構成素に分かれていくのだよ、という形でしか文の構造を表すことができません。(但是,像到目前為止所説明的直接成分分析這樣的方法,只能提出實際使用過的句子,用「它像這樣分成兩個直接成分」的形式來表達句子的結構。)つまり、ある言語の文が一般的にどんな構造をもつのかを表すことができないということです。(換句話說,就是無法表達某種語言的句子一般具有什麼樣的結構。)直接構成素分析の方法で示すことができるのは、文を含めたある単位が二つずつの直接構成素に分割されることで、文の構造が形成されること、そして直接構成素は全体として一つのまとまった働きをする単語の集まりだということだけです。(直接成分分析方法所能表明的,只是包含句子的某個單位被分割成兩個兩個的直接成分,由此形成句子結構,以及直接成分整體上是發揮某個統一作用的單詞的集合。)具体的な文について、しかもひどく単純な形でしか構造を表すことができないのでは、やはり直接構成素分析が優れた構造分析の手段だと言うことはできません。(只能對具體的句子進行分析,而且只能用極其簡單的形式表達結構,這樣的話,就無法說直接成分分析是優秀的結構分析手段。)語順の決まりというのは、要するに単語を並べる「規則」なのですから、その規則がどのようになっているのかが、すぐに見てとれるような形で文の構造を表すことができて初めて、これはちゃんとした構造分析なんだなと考えることができるのです。(由於詞序規則本質上是排列單詞的「規則」,只有能夠以能清楚看出那個規則是什麼樣的形式來表達句子的結構,才能認為這是適當的結構分析。)直接構成素分析の問題点を一言で表現すれば、結局のところ素朴過ぎるということです。(如果用一句話表達直接成分分析的問題點,那就是說到底過於樸素了。)文や語句が二つずつの直接構成素に分かれるとしながら、本当にそれで正しいのかを反省しようとしないことや、仮に正しいとしてもその根本的理由を考えなかったのは、自分が提示している理論の妥当性を、あまりに素朴に信じていたからなのではないかと思えてなりません。(儘管說文和語句分成兩個兩個的直接成分,卻不反省這是否真的正確;即使假設是正確的,也沒有思考其根本原因——這可能是因為對自己提出的理論的妥當性過於樸素地相信了。)文の構造を表すための方法にしても、具体的に与えられた文の構造を示すだけでは、構造を決めるための一般的規則を与えたことにはならないのに、それでも一応十分だとしていたのは、やはり文の構造を分析する方法の適切さについて、素朴な態度で臨んでいたからだと考えてよさそうです。(對於表達句子結構的方法來說,只是顯示具體給出的句子的結構,並不等於給出決定結構的一般規則,卻仍然認為這就足夠了,這說明對分析句子結構的方法的恰當性也採取了樸素的態度。)こうした直接構成素分析の問題点を克服して、直接構成素分析のこのような問題のうち、特に文の構造を決めるための一般的規則や、その規則を反映するような構造の表し方を明らかにすべきだと、チョムスキーは考えたのでした。(為了克服直接成分分析的這些問題點,特別是要闡明決定句子結構的一般規則及反映該規則的結構表達方式,乔姆斯基產生了這樣的想法。)彼はさらに、文の構造と文が表す意味との関係についても考察を進め、意味を構造に従属させることができるような、独創的な言語理論を打ち立てることになります。(他進一步考察了句子的結構與句子所表達的意義之間的關係,建立了一個獨創的語言理論,能夠使意義從屬於結構。)それでは果たしてチョムスキーが、直接構成素分析に抜きがたく内在していた素朴さを克服することができたのかどうか、第2章以下で見ていくことにしましょう。(那麼,乔姆斯基是否真的能夠克服直接成分分析中根深蒂固的樸素性呢?讓我們在第2章及以後的章節中進行探討。)