考題索引

日本にほん文化ぶんか

第四章だいよんしょう 鎌倉時代かまくらじだい文化ぶんか

第一節だいいっせつ 学問がくもん思想しそう発達はったつ

この時代じだい中国ちゅうごくそうげん)と日本にほんはともに、あたらしい文化ぶんか台頭期たいとうきむかえた。また、中世ちゅうせい日本にほん社会しゃかいにとって宋代像そうだいぞう鮮明せんめいになった時代じだいでもある。日本にほん流入りゅうにゅうした宋文化そうぶんかのものは、なにといっても禅宗ぜんしゅうだろう。禅宗ぜんしゅうはじめて日本にほん伝来でんらいしたときには、貴族社会きぞくしゃかい強力きょうりょく権限けんげんっていた比叡山ひえいざん南都六宗なんとろくしゅうといった従来じゅうらい宗派しゅうはが、一斉いっせい禅宗ぜんしゅう弾圧だんあつはかった。しかし、この時代じだいちからった武士階級ぶしかいきゅう禅学ぜんがくこのんだため、禅宗ぜんしゅう隆盛期りゅうせいきむかえるのである。

学問がくもんめんでは、貴族きぞくはもちろん、武士階級ぶしかいきゅうもまた経書けいしょ理解りかいし、詩文しぶん自在じざいあやつって、禅学ぜんがく漢詩文かんしぶん)の教養きょうようけるようになった。そして、知識人ちしきじんとしての自覚じかくふかめた武士ぶしが、文化ぶんかめんでも、継承けいしょうだけを最上さいじょうとしてきた旧来きゅうらい文化ぶんかえ、しょにおいてあたらしい表現ひょうげんもとめるようになった。そうした意味いみ宋学そうがくは、この時代じだい日本文化にほんぶんか多様性たようせいをもたらしたということができる。

いち宋学そうがく発達はったつ

平安朝初期へいあんちょうしょきには、「唐風文化とうふうぶんか」の全盛時代ぜんせいじだいであり、儒学じゅがく漢詩文かんしぶん教養きょうよう貴族きぞくたちの必須ひっす知識ちしきとなり定着ていちゃくした。そして、鎌倉時代かまくらじだいになると、入来にゅうらいした禅僧ぜんそうたちがおおくの儒学じゅがくしょ朱子学しゅしがく宋学そうがく)を日本にほんかえり、多様たような「宋学そうがく」の思想しそう一斉いっせい開花かいかする。とはいえ、日本にほんで「宋学そうがく」をひろめたのは、かならずしも日本にほん禅僧ぜんそうばかりではなく、渡来とらいした大陸たいりく禅僧ぜんそう重要じゅうよう役割やくわりたした。たとえば、そう西蜀せいしょく禅僧ぜんそうである蘭渓道隆らんけいどうりゅう(1213-78)は、1246ねん渡日とにちし、1252ねん北条時頼ほうじょうときより

学習がくしゅうポイント

1. 鎌倉時代かまくらじだい学問がくもん思想しそう

2. 鎌倉時代かまくらじだい新興仏教しんこうぶっきょう

3. 日宋貿易にっそうぼうえき文化交流ぶんかこうりゅう

(1227-63)の要請ようせいおうじて鎌倉かまくら建長寺けんちょうじひらいた。また、建長寺けんちょうじ円覚寺えんがくじ南禅寺なんぜんじなどの住持じゅうじとなり、五山文学ござんぶんがく隆盛りゅうせい基礎きそきずいた一山一寧いっさんいちねい(1247-1317)は、1299ねんげん世祖せいそにより日本にほん派遣はけんされ、「宋学そうがく」の新書風しんしょふう日本にほん移植いしょくした功績者こうせきしゃである。かれのもとでまなんだ夢窓疎石むそうそせき(1275-1351)、虎関師錬こかんしれん(1278-1346)などは、室町時代むろまちじだい禅林儒学ぜんりんじゅがく開祖かいそとなった。

鎌倉かまくら室町時代むろまちじだいつうじて、「宋学そうがく」はほとんど五山禅林ござんぜんりんそうによって伝承でんしょうされた。その特徴とくちょうは、儒学じゅがく仏教ぶっきょう、ことに宋学そうがく禅学ぜんがく一致いっち融合ゆうごういたことにある。また、武士ぶしたちを禅林ぜんりん帰依きえさせていった意味いみおおきい。この時代じだいの「宋学そうがく」はしゅとして京都きょうと公家くげ博士はかせ五山ござん禅僧ぜんそうあいだつたわり、室町時代むろまちじだい後期こうきからは地方ちほう武士階級ぶしかいきゅうにまでひろがり、江戸時代えどじだいになって朱子学しゅしがく宋学そうがく)が官学かんがくとして採用さいようされる基盤きばんつくした。

この時代じだい影響力えいきょうりょくったそうとしては夢窓疎石むそうそせきげることができる。臨済宗りんざいしゅう禅僧ぜんそう疎石そせきは、もともとは真言宗しんごんしゅう天台宗てんだいしゅうなどをまなび、奈良なら東大寺とうだいじ受戒じゅかいしたが、のち建仁寺けんにんじ無関円能むかんえんのう(1230-1307)、円覚寺えんがくじ桃渓徳悟とうけいとくご(1240-1306)、建長寺けんちょうじ一山一寧いっさんいちねいについて禅宗ぜんしゅうまなぶ。そして、1325ねんには後醍醐天皇ごだいごてんのう(1288-1339)の要望ようぼうにより南禅寺なんぜんじ住持じゅうじとなり、臨川寺りんせんじ西芳寺さいほうじ天龍寺てんりゅうじなどを開創かいそうし、天皇てんのうから国師号こくしごうさずけられた。

さらに、疎石そせき門人もんじんで、臨済宗りんざいしゅう禅僧ぜんそう義堂周信ぎどうしゅうしん(1325-88)をここでげておくと、1359(延文えんぶん4)ねん幕府ばくふ関東地方かんとうちほう統治とうちのために設置せっちした鎌倉公方かまくらくぼう足利基氏あしかがもとうじ(1340-67)にまねかれて鎌倉かまくらおもむき、基氏もとうじ関東管領かんとうかんれい上杉一族うえすぎいちぞくなどに禅学ぜんがくおしえている。1379(康暦元こうりゃくがん

ねんに、三代将軍さんだいしょうぐん足利義満あしかがよしみつ(1358-1408)の家庭教師かていきょうしとなり、義満よしみつ禅宗ぜんしゅう帰依きえさせた。のち相国寺しょうこくじ建立こんりゅう進言しんげんし、建仁寺けんにんじ住職じゅうしょくとなり、1386ねんには南禅寺なんぜんじ住職じゅうしょくつとめた。

鎌倉幕府かまくらばくふ歴史書れきししょ吾妻鏡あづまかがみ

吾妻鏡あづまかがみ』は鎌倉時代かまくらじだい成立せいりつした日本にほん歴史書れきししょである。鎌倉幕府かまくらばくふ初代将軍しょだいしょうぐん源頼朝みなもとのよりともから第六代将軍だいろくだいしょうぐん宗尊親王むねたかしんのうまでの六代ろくだい将軍記しょうぐんきという構成こうせいで、1180(治承じしょう4)ねんから1266(文永ぶんえい3)ねんまでの事績じせき書写体しょしゃたいしるされている。成立時期せいりつじき鎌倉時代末期かまくらじだいまっきの1300年頃ねんごろで、幕府ばくふ中枢ちゅうすうにいた複数ふくすうものによる編纂へんさんとされる。ぜん52かんで、幕府ばくふ公用記録こうようきろくのほかに、『明月記めいげつき』などの公家日記くげにっき古文書類こもんじょるいなどが参照さんしょうされた。和風漢文わふうかんぶん変体漢文へんたいかんぶん一種いっしゅ漢文体かんぶんたいいちじるしくくずれた当時とうじ日用文体にちようぶんたい)でかれており、日本最初にほんさいしょ武家記録ぶけきろくわれている。幕府記録ばくふきろく嚆矢こうしであり、鎌倉時代かまくらじだい武家制度ぶけせいど法令ほうれい政治せいじ経済けいざいなどの研究けんきゅうには必須ひっす文献ぶんけんである。

この『吾妻鏡あづまかがみ』は、江戸時代えどじだいになって儒家じゅか国学者こくがくしゃなどによって、しゅ有職故実ゆうそくこじつ武家故実ぶけこじつ研究けんきゅうされた。研究けんきゅうたずさわった伊勢貞丈いせさだたけ(1718-84)、榊原長俊さかきばらながとし大塚嘉樹おおつかよしき江戸時代えどじだい有職故実ゆうそくこじつ大家たいかである。かれらの研究けんきゅうは『吾妻鏡集解あづまかがみしっかい』(和本わほん)に収録しゅうろくされている。また、水戸藩主みとはんしゅ徳川光圀とくがわみつくに(1628-1700)のめい編纂へんさんされた『大日本史だいにほんし』でも『吾妻鏡あづまかがみ』が採用さいようされている。『吾妻鏡あづまかがみ』にかんする研究けんきゅう近代きんだいはいってもつづけられ、現在げんざいいたる。

さん金沢文庫かなざわぶんこ

金沢文庫かなざわぶんこは、鎌倉中期かまくらちゅうき執権しっけん北条実時ほうじょうさねとき(1224-76)が設立せつりつした武家ぶけ文庫ぶんこである。蔵書ぞうしょ内容ないよう政治せいじ文学ぶんがく歴史れきしなど多岐たきにわたる。金沢文庫かなざわぶんこ成立時期せいりつじきさだかではないが、晩年ばんねん実時さねとき金沢館かなざわやかたごした1275(建治元けんじがんねんごろとわれている。北条実時ほうじょうさねとき文化人ぶんかじんとしてもられ、明経道みょうぎょうどう清原教隆きよはらののりたか(1199-1265)に師事しじして法制ほうせい漢籍かんせきなどのがく

もんまなんだひとである。そののち金沢文庫かなざわぶんこ何度なんど再建さいけんされ、1930ねん文化施設ぶんかしせつ神奈川県立かながわけんりつ金沢文庫かなざわぶんこ」としてまれわった。現在げんざい鎌倉時代かまくらじだい中心ちゅうしんとした所蔵品しょぞうひん展示公開てんじこうかいする歴史博物館れきしはくぶつかんと、金沢文庫かなざわぶんこ蔵書ぞうしょ国宝こくほう重要文化財じゅうようぶんかざいふくむ)を分析ぶんせき研究けんきゅうする施設しせつ設置せっちされている。金沢文庫かなざわぶんこがあった称名寺しょうみょうじは、鎌倉時代かまくらじだいなかごろに北条実時ほうじょうさねときてた真言律宗しんごんりっしゅうてらであった。当時とうじ和漢わかん貴重きちょう書物しょもつ多数たすう蒐集しゅうしゅう保存ほぞんされ、足利学校あしかががっこうならんで、中世日本ちゅうせいにほん教育きょういくにおいて重要じゅうよう役割やくわりたした。

よん時代じだい象徴しょうちょうする軍記物語ぐんきものがたり

軍記物語ぐんきものがたりとは、戦乱せんらん中心ちゅうしん武家ぶけ興亡こうぼうえが物語文学ものがたりぶんがくである。おもに、平安末期へいあんまっきから鎌倉かまくら室町時代むろまちじだいにかけてかれた。おも作品さくひんに『保元物語ほうげんものがたり』、『平治物語へいじものがたり』、『平家物語へいけものがたり』、『太平記たいへいき』、『応仁記おうにんき』などがあり、和文わぶん漢語かんご仏教語ぶっきょうご武士言葉ぶしことばなどをまじえた和漢混交文わかんこんこうぶんかれている。物語ものがたりなので、事実じじつ忠実ちゅうじつしるした書物しょもつではなく、武勇伝ぶゆうでん恋愛れんあいなどを誇張こちょうして後世こうせいつたえるための物語ものがたり(フィクション)であるが、合戦かっせん時代背景じだいはいけいさぐ文献ぶんけんとしても有用ゆうようである。代表作だいひょうさくとしては『平家物語へいけものがたり』がげられる。『平家物語へいけものがたり』の作者さくしゃについてはおおくのせつがあるが、定説ていせつはない。ふるいものとしては、『徒然草つれづれぐさ』に信濃前司行長しなのぜんじゆきながという人物じんぶつが『平家物語へいけものがたり』の作者さくしゃであり、生仏しょうぶつという盲目もうもく人物じんぶつおしえてかたらせたとあり、琵琶法師びわほうしたちによって流布るふした口承文学こうしょうぶんがく一種いっしゅである。内容ないようは、平安末期へいあんまっき治承じしょう(1177)から寿永じゅえい(1185)年間ねんかんにかけての平氏へいし隆盛りゅうせい没落ぼつらくかたられ、登場人物とうじょうじんぶつ千人せんにんえる。たたかいにきる人々ひとびと宿命しゅくめいつめた作品さくひんである。

第二節だいにせつ 新興仏教しんこうぶっきょう文化交流ぶんかこうりゅう

いち鎌倉時代かまくらじだい宗教界しゅうきょうかい

中世ちゅうせい新興仏教しんこうぶっきょう古代日本こだいにほん貴族きぞく中心ちゅうしんとした仏教ぶっきょうとはちがい、庶民しょみん直接ちょくせつかたりかけて、自分じぶんおしえをひろそう人々ひとびとひろめた。禅宗ぜんしゅう浄土宗じょうどしゅう日蓮宗にちれんしゅうなど今日こんにちおおくの信者しんじゃ宗派しゅうはは、この時代じだい宗教しゅうきょう起源きげんとしている。比叡山ひえいざん禅僧ぜんそう栄西えいさい(1141-1215)は二度入宋にどにっそうし、禅学ぜんがくまなんだのち日本にほん帰国きこくし、九州きゅうしゅう博多はかた聖福寺しょうふくじ京都きょうと建仁寺けんにんじおよ鎌倉かまくら寿福寺じゅふくじなど臨済宗りんざいしゅうてら創設そうせつした。また、道元どうげん(1200-53)は入宋にっそうしたのち永平寺えいへいじいま福井県ふくいけん永平寺町えいへいじちょう)で日本にほん曹洞宗そうとうしゅうひらいた。中世ちゅうせい修業しゅぎょうきびしさと自力じりきみちび気風きふう武士ぶしれられてひろまった。日蓮にちれんは『法華経ほけきょう』こそが仏教ぶっきょう根本経典こんぽんきょうてんとして、「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」という題目だいもくとなえれば個人こじんすくわれ、国難こくなんけられるといた。かれはモンゴルの襲来しゅうらいという国難こくなん自分じぶん予言よげん的中てきちゅうだとかんがえて、そのおしえをはげしくいてまわった。これらのあたらしい仏教ぶっきょう隆盛りゅうせいたいし、奈良時代ならじだいから発展はってんした「南都六宗なんとろくしゅう」(三論宗さんろんしゅう成実宗じょうじつしゅう法相宗ほっそうしゅう倶舎宗くしゃしゅう華厳宗けごんしゅう律宗りっしゅう)の旧仏教側きゅうぶっきょうがわは、新仏教しんぶっきょう批判ひはんするだけでなく、戒律かいりつ復興ふっこう努力どりょくし、社会福祉事業しゃかいふくしじぎょうちからくして威信いしん回復かいふくはかった。

鎌倉かまくら六宗新仏教ろくしゅうしんぶっきょう浄土宗じょうどしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう時宗じしゅう日蓮宗にちれんしゅう臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅう

宗派しゅうは開祖かいそ総本山そうほんざん主要著書しゅようちょしょ教理きょうり特色とくしょく
浄土宗じょうどしゅう
法然宗ほうねんしゅう
法然ほうねん源空げんくう 知恩院ちおんいん京都きょうと東山ひがしやま 選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』⇒九条兼実くじょうかねざねもとめにおうじて述作じゅっさく 専修念仏せんじゅねんぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ他力本願たりきほんがん
浄土真宗じょうどしんしゅう
一向宗いっこうしゅう
親鸞しんらん 本願寺ほんがんじ京都きょうと大谷おおたに 教行信証きょうぎょうしんしょう』『歎異抄たんにしょう』(唯円ゆいえん 悪人正機説あくにんしょうきせつ 絶対他力ぜったいたりき
時宗じしゅう
時衆じしゅう
一遍いっぺん智真ちしん 清浄光寺しょうじょうこうじ神奈川かながわ 一遍上人語録いっぺんしょうにんごろく』⇒一遍いっぺん法語ほうごあつ江戸後期えどこうき刊行かんこう 踊念仏おどりねんぶつ時衆じしゅう随行ずいこう)⇒遊行上人ゆぎょうしょうにん異名いみょう 信者しんじゃ阿弥陀仏あみだぶつ
日蓮宗にちれんしゅう
法華宗ほっけしゅう
日蓮にちれん 久遠寺くおんじ山梨やまなし身延山みのぶさん 立正安国論りっしょうあんこくろん』⇒北条時頼ほうじょうときより提出ていしゅつ 題目だいもく南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう他宗派たしゅうはきびしく非難ひなん
臨済宗りんざいしゅう 栄西えいさい 建仁寺けんにんじ京都きょうと東山ひがしやま 興禅護国論こうぜんごこくろん』『喫茶養生記きっさようじょうき』⇒源実朝みなもとのさねとも献上けんじょう 坐禅ざぜん公案こうあん 鎌倉かまくら室町幕府むろまちばくふ保護ほご
曹洞宗そうとうしゅう 道元どうげん 永平寺えいへいじ福井ふくい 正法眼蔵しょうぼうげんぞう』『正法眼蔵随聞記しょうぼうげんぞうずいもんき』(懐奘えじょう 只管打坐しかんたざ 京都きょうと権力けんりょくからはなれる

寺院建築じいんけんちく

日本にほん寺院建築じいんけんちく仏教ぶっきょう伝来でんらいおおきく関係かんけいしている。まず日本にほん渡来とらいした建築技術者けんちくぎじゅつしゃによって、法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう五重塔ごじゅうのとう薬師寺やくしじ東塔とうとうのような中国式ちゅうごくしき寺院じいん築造ちくぞうされた。いわゆる和様建築わようけんちくというこれら伝来でんらい建築様式けんちくようしき日本風にほんふう改良改善かいりょうかいぜんした様式ようしきである。日本にほん戒律かいりつつたえ、仏教界ぶっきょうかい多大ただい貢献こうけんをした鑑真和上がんじんわじょう(687-763)の唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう和様わよう初期しょき代表作だいひょうさくひとつとされている。

平安時代へいあんじだい後半こうはんまで中国ちゅうごくとの文化交流ぶんかこうりゅう活発化かっぱつかして、「大仏様だいぶつよう」、「禅宗様ぜんしゅうよう」(「唐様からよう」)などの新形式しんけいしき建築様式けんちくようしき日本にほん伝来でんらいすると、それまでの建築様式けんちくようしきが「和様わよう」とばれ、区別くべつされるようになった。のち時代じだいになると、さらにそれらがじった「折衷様せっちゅうよう」など、多元的たげんてき寺院建築じいんけんちくあらわれる。

うえべたように和様わようとはっても、日本独自にほんどくじ様式ようしきではなく、中国ちゅうごくから伝来でんらいした建築技法けんちくぎほう日本にほん気候きこう風土ふうどにより国風化こくふうかしたものである。建築式けんちくしきおも禅宗寺院ぜんしゅうじいん建物たてものもちいられた。鎌倉初期かまくらしょき伝来でんらいした大仏様式だいぶつようしき建物たてものが、東大寺とうだいじ南大門なんだいもん浄土寺じょうどじ浄土堂じょうどどう現存げんぞんしている。大仏様だいぶつようはやおとろえたが、禅宗様ぜんしゅうようは、禅宗寺院ぜんしゅうじいん建物たてもの武家勢力ぶけせいりょく庇護ひごによりおお建立こんりゅうされたことで、和様わようとともに寺院建築じいんけんちく主流しゅりゅうとなり、禅宗寺院ぜんしゅうじいんにとどまらず、他宗派たしゅうは寺院じいんにも次第しだいひろがっていく。そして、さらにとき経過けいかとともに和様わよう新様式しんようしき混合こんごうすすみ、室町時代むろまちじだいにはおおくの折衷様せっちゅうよう建築けんちくあらわれ、江戸時代えどじだいいたると、和様わよう禅宗様ぜんしゅうよう区別くべつがつかないほどになる。

さん日宋貿易にっそうぼうえき文化交流ぶんかこうりゅう

中世ちゅうせい日本にほん中国ちゅうごくそうげん朝鮮ちょうせん高麗こうらいとの交渉こうしょう中心ちゅうしんに、ひがしアジアにおける海域交流かいいきこうりゅうちかられた。日宋貿易にっそうぼうえきは、十世紀じっせいきから十三世紀じゅうさんせいき鎌倉時代中期かまくらじだいちゅうきにかけて日本にほん宋朝そうちょう南宋なんそう)のあいだおこなわれた貿易活動ぼうえきかつどうである。貿易活動ぼうえきかつどう朝鮮半島ちょうせんはんとう高麗こうらいふくめた三国間さんごくかんおこなわれ、日本にほんでは、鎌倉時代かまくらじだいおおくの宋人そうじんみ、国際都市こくさいとしとなった博多はかた越前国えちぜんのくに敦賀つるが拠点きょてんとなった。

平治へいじらん」のころ日本にほん最初さいしょ人工港じんこうこう博多はかたきずいた平清盛たいらのきよもり(1118-81)は、寺社勢力じしゃせいりょく排除はいじょして瀬戸内海せとないかい航路こうろ掌握しょうあくした。また、航路こうろ整備せいびなどをすすめ、宋船そうせんによる厳島参詣いつくしまさんけいおこなった。さら清盛きよもりは1173(承安じょうあん3)ねん大輪田泊おおわだのとまり現在げんざい神戸港こうべこう一部いちぶ)を利用りようして、貿易ぼうえき振興しんこうはかった。この貿易ぼうえき使つかわれた宋銭そうせんは、アジアのほぼ全域ぜんいき流通りゅうつうし、当時とうじ日本にほん貨幣利用かへいりよう進展しんてん経済発展けいざいはってんにも多大ただい影響えいきょうおよぼした。

一方いっぽう陸上交通りくじょうこうつうでは、元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい防備ぼうびのために、博多はかた六波羅ろくはらあいだに600キロにわたって筑紫大道つくしだいどうばれる軍用道路ぐんようどうろかれた。この筑紫大道つくしだいどう中国ちゅうごくからの文化ぶんか伝播でんぱおおきな影響えいきょうあたえた。

日宋貿易にっそうぼうえきでは、絹織物きぬおりもの書籍しょせき薬品やくひん香料こうりょう陶磁器とうじき絵画かいがなどの美術品等々びじゅつひんとうとう様々さまざまなものが日本にほん輸入ゆにゅうされている。また、仏教ぶっきょう経典きょうてん輸入ゆにゅうは、鎌倉仏教かまくらぶっきょう多大ただい影響えいきょうあたえた。日本にほんからの輸出品ゆしゅつひんは、木材もくざいきぬ硫黄いおうなどの鉱物こうぶつ、それに日本刀にほんとうなどの工芸品こうげいひんなどであった。日本にほん中国ちゅうごく貿易ぼうえきは、こののちも、室町むろまち足利幕府あしかがばくふ戦国時代せんごくじだい織田政権おだせいけんなどが、勢力拡大せいりょくかくだい一環いっかんとしてちからつづけた。

文責ぶんせき徐興慶じょこうけい

中日ちゅうにち比較ひかく

宋銭そうせんは、古美術品こびじゅつひんとしてどれほどの価値かちがあるか?

日本にほんでは中世ちゅうせいになってから銭貨せんか本格的ほんかくてき流通りゅうつうするようになった。朝廷ちょうてい幕府ばくふは、外国がいこく銭貨せんか使つかうことに積極的せっきょくてきであったわけではないが、交換手段こうかんしゅだんとして便利べんりだったため、宋銭そうせんはじめとする外国銭がいこくせんがこの時代じだい大量たいりょう使つかわれたのである。宋銭そうせん現在げんざいものによっては数十万円すうじゅうまんえんけられる。古美術品こびじゅつひんとしてしんじられないほどの価値かちみとめられているのである。

確認かくにんしてみよう】

いちつぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

1. (a. 平清盛たいらのきよもり b. 源頼朝みなもとのよりとも c. 栄西えいさい)が、1192ねん鎌倉幕府かまくらばくふつくげて中世ちゅうせい日本にほん武家ぶけ武士ぶし政権せいけん誕生たんじょうした。

2. 鎌倉時代初期かまくらじだいしょき公家くげ歌人かじんである藤原定家ふじわらのていからは技巧ぎこう駆使くしした和歌わかを(a. 『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』 b. 『古事記こじき』 c. 『日本書紀にほんしょき』)にまとめた。

3. 建長けんちょう円覚寺えんがくじ南禅寺なんぜんじなどの住持じゅうじ歴任れきにんし、五山文学隆盛ござんぶんがくりゅうせい基礎きそきずいた(a. 蘭渓道隆らんけいどうりゅう b. 隠元隆琦いんげんりゅうき c. 一山一寧いっさんいちねい)は、1299ねんげん世祖せいそにより日本にほん派遣はけんされた。

4. (a. 尊経閣文庫そんけいかくぶんこ b. 金沢文庫かなざわぶんこ c. 紅葉山文庫もみじやまぶんこ)は、鎌倉中期かまくらちゅうき執権しっけん北条実時ほうじょうさねとき設立せつりつした武家ぶけ文庫ぶんこである。

5. 元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい)にそなえて、博多はかた六波羅ろくはらあいだに(a. 筑紫大道つくしだいどう b. 元寇大道げんこうだいどう c. 筑前大道ちくぜんだいどう)とばれる軍用道路ぐんようどうろ設置せっちされている。

つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

6. 道元どうげんそうから帰国きこくしたのち永平寺えいへいじいま福井県ふくいけん吉田郡よしだぐん)で日本にほんの(   )をひらいた。

7. 鎌倉初期かまくらしょき伝来でんらいした(   )の建物たてものとしては、東大寺とうだいじ南大門なんだいもん浄土寺じょうどじ浄土堂じょうどどう現存げんぞんしている。

8. 日宋貿易にっそうぼうえき朝鮮半島ちょうせんはんとう高麗こうらいふくめた三国間さんごくかんおこなわれ、日本にほんでは越前国えちぜんのくに敦賀つるがや、鎌倉時代かまくらじだいおおくの宋人そうじん国際都市こくさいとしとなった(   )が拠点きょてんとなった。

9. 平清盛たいらのきよもりは1173(承安じょうあん3)ねん摂津国せっつのくに福原ふくはら外港がいこうにあたる(   )(現在げんざい神戸港こうべこう一部いちぶ)を拡張かくちょうし、対外貿易たいがいぼうえき振興策しんこうさくおこなったため、十二世紀後半じゅうにせいきこうはんから宋銭そうせん大量たいりょう日本にほん流入りゅうにゅうした。

10. (   )の日本輸入にほんゆにゅう鎌倉仏教かまくらぶっきょう多大ただい影響えいきょうあたえた。

さんつぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

11. 軍記物語ぐんきものがたりとはなんでしょうか。

12. 中世日本ちゅうせいにほん新興仏教しんこうぶっきょうについてべなさい。

13. 「和様わよう」の建築様式けんちくようしき寺院じいんげてみましょう。

14. 『吾妻鏡あづまかがみ』はどんな歴史書れきししょですか。

15. 鎌倉時代かまくらじだい日本にほん流入りゅうにゅうした中国ちゅうごく文化ぶんかは、どんなものがありますか。

参考文献さんこうぶんけん

佐伯富さえきとみ責任編集せきにんへんしゅうそう新文化しんぶんか』、中央公論新社ちゅうおうこうろんしんしゃ、2000ねん

源豊宗訳みなもととよむねやく日本美術にほんびじゅつながれ』、新思索社しんしさくしゃ、2006ねん新装版しんそうばん

森克己もりかつみ日宋文化交流にっそうぶんかこうりゅう諸問題しょもんだい』(増補ぞうほ)、国書刊行会こくしょかんこうかい、1975ねん

森克己もりかつみ続々日宋貿易ぞくぞくにっそうぼうえき研究けんきゅう』、新編森克己著作集しんぺんもりかつみちょさくしゅう3、勉誠出版べんせいしゅっぱん、2009ねん

李寅生りいんせい論宋元時期的中日文化交流及相互影響ろんそうげんじきてきちゅうにちぶんかこうりゅうきゅうそうごえいきょう』、巴蜀書社ばしょくしょしゃ、2007ねん