日本文化
第四章 鎌倉時代の文化
第一節 学問と思想の発達
この時代、中国(宋、元)と日本はともに、新しい文化の台頭期を迎えた。また、中世の日本社会にとって宋代像が鮮明になった時代でもある。日本に流入した宋文化のものは、何といっても禅宗だろう。禅宗が初めて日本に伝来した時には、貴族社会で強力な権限を持っていた比叡山や南都六宗といった従来の宗派が、一斉に禅宗の弾圧を図った。しかし、この時代に力を持った武士階級が禅学を好んだため、禅宗が隆盛期を迎えるのである。
学問の面では、貴族はもちろん、武士階級もまた経書を理解し、詩文を自在に操って、禅学(漢詩文)の教養を身に付けるようになった。そして、知識人としての自覚を深めた武士が、文化の面でも、継承だけを最上としてきた旧来の文化を乗り越え、詩や書や画において新しい表現を求めるようになった。そうした意味で宋学は、この時代の日本文化に多様性をもたらしたということができる。
(一)宋学の発達
平安朝初期には、「唐風文化」の全盛時代であり、儒学や漢詩文の教養は貴族たちの必須の知識となり定着した。そして、鎌倉時代になると、入来した禅僧たちが多くの儒学の書(朱子学、宋学)を日本に持ち帰り、多様な「宋学」の思想が一斉に開花する。とはいえ、日本で「宋学」を広めたのは、必ずしも日本の禅僧ばかりではなく、渡来した大陸の禅僧も重要な役割を果たした。例えば、宋の西蜀の禅僧である蘭渓道隆(1213-78)は、1246年に渡日し、1252年に北条時頼
学習ポイント
1. 鎌倉時代の学問と思想
2. 鎌倉時代の新興仏教
3. 日宋貿易と文化交流
(1227-63)の要請に応じて鎌倉に建長寺を開いた。また、建長寺・円覚寺・南禅寺などの住持となり、五山文学隆盛の基礎を築いた一山一寧(1247-1317)は、1299年に元の世祖により日本に派遣され、「宋学」の新書風を日本に移植した功績者である。彼のもとで学んだ夢窓疎石(1275-1351)、虎関師錬(1278-1346)などは、室町時代の禅林儒学の開祖となった。
鎌倉・室町時代を通じて、「宋学」はほとんど五山禅林の僧によって伝承された。その特徴は、儒学と仏教、ことに宋学と禅学の一致・融合を説いたことにある。また、武士たちを禅林に帰依させていった意味も大きい。この時代の「宋学」は主として京都の公家・博士や五山の禅僧の間に伝わり、室町時代後期からは地方の武士階級にまで広がり、江戸時代になって朱子学(宋学)が官学として採用される基盤を作り出した。
この時代に影響力を持った僧としては夢窓疎石を挙げることができる。臨済宗の禅僧疎石は、もともとは真言宗や天台宗などを学び、奈良の東大寺で受戒したが、後に建仁寺の無関円能(1230-1307)、円覚寺の桃渓徳悟(1240-1306)、建長寺の一山一寧について禅宗を学ぶ。そして、1325年には後醍醐天皇(1288-1339)の要望により南禅寺の住持となり、臨川寺、西芳寺、天龍寺などを開創し、天皇から国師号を授けられた。
さらに、疎石の門人で、臨済宗の禅僧義堂周信(1325-88)をここで取り上げておくと、1359(延文4)年に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏(1340-67)に招かれて鎌倉へ赴き、基氏や関東管領の上杉一族などに禅学を教えている。1379(康暦元)
年に、三代将軍足利義満(1358-1408)の家庭教師となり、義満を禅宗に帰依させた。後に相国寺の建立を進言し、建仁寺の住職となり、1386年には南禅寺の住職も務めた。
(二)鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』
『吾妻鏡』は鎌倉時代に成立した日本の歴史書である。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍・宗尊親王までの六代の将軍記という構成で、1180(治承4)年から1266(文永3)年までの事績が書写体で記されている。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃で、幕府中枢にいた複数の者による編纂とされる。全52巻で、幕府の公用記録のほかに、『明月記』などの公家日記や古文書類などが参照された。和風漢文(変体漢文の一種で漢文体が著しく崩れた当時の日用文体)で書かれており、日本最初の武家記録と言われている。幕府記録の嚆矢であり、鎌倉時代の武家制度、法令、政治、経済などの研究には必須の文献である。
この『吾妻鏡』は、江戸時代になって儒家、国学者などによって、主に有職故実、武家故実が研究された。研究に携わった伊勢貞丈(1718-84)、榊原長俊、大塚嘉樹は江戸時代の有職故実の大家である。彼らの研究は『吾妻鏡集解』(和本)に収録されている。また、水戸藩主の徳川光圀(1628-1700)の命で編纂された『大日本史』でも『吾妻鏡』が採用されている。『吾妻鏡』に関する研究は近代に入っても続けられ、現在に至る。
(三)金沢文庫
金沢文庫は、鎌倉中期の執権北条実時(1224-76)が設立した武家の文庫である。蔵書の内容は政治・文学・歴史など多岐にわたる。金沢文庫の成立時期は定かではないが、晩年の実時が金沢館で過ごした1275(建治元)年ごろと言われている。北条実時は文化人としても知られ、明経道の清原教隆(1199-1265)に師事して法制や漢籍などの学
問を学んだ人である。その後、金沢文庫は何度か再建され、1930年に文化施設「神奈川県立金沢文庫」として生まれ変わった。現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する歴史博物館と、金沢文庫の蔵書(国宝・重要文化財を含む)を分析・研究する施設が設置されている。金沢文庫があった称名寺は、鎌倉時代の中ごろに北条実時が建てた真言律宗の寺であった。当時は和漢の貴重な書物が多数蒐集・保存され、足利学校と並んで、中世日本の教育において重要な役割を果たした。
(四)時代を象徴する軍記物語
軍記物語とは、戦乱を中心に武家の興亡を描く物語文学である。主に、平安末期から鎌倉・室町時代にかけて書かれた。主な作品に『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『太平記』、『応仁記』などがあり、和文に漢語、仏教語、武士言葉などを交えた和漢混交文で書かれている。物語なので、事実を忠実に記した書物ではなく、武勇伝や恋愛などを誇張して後世に伝えるための物語(フィクション)であるが、合戦の時代背景を探る文献としても有用である。代表作としては『平家物語』が挙げられる。『平家物語』の作者については多くの説があるが、定説はない。古いものとしては、『徒然草』に信濃前司行長という人物が『平家物語』の作者であり、生仏という盲目の人物に教えて語らせたとあり、琵琶法師たちによって流布した口承文学の一種である。内容は、平安末期の治承(1177)から寿永(1185)年間にかけての平氏の隆盛と没落が語られ、登場人物は千人を超える。戦いに生きる人々の宿命を見つめた作品である。
第二節 新興仏教と文化交流
(一)鎌倉時代の宗教界
中世の新興仏教は古代日本の貴族を中心とした仏教とは違い、庶民に直接語りかけて、自分の教えを広い層の人々へ広めた。禅宗、浄土宗、日蓮宗など今日も多くの信者を持つ宗派は、この時代の宗教を起源としている。比叡山の禅僧栄西(1141-1215)は二度入宋し、禅学を学んだ後、日本に帰国し、九州の博多の聖福寺や京都の建仁寺及び鎌倉の寿福寺など臨済宗の寺を創設した。また、道元(1200-53)は入宋した後、永平寺(今福井県永平寺町)で日本の曹洞宗を開いた。中世の修業の厳しさと自力を導く気風は武士に受け入れられて広まった。日蓮は『法華経』こそが仏教の根本経典として、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば個人も救われ、国難も避けられると説いた。彼はモンゴルの襲来という国難は自分の予言の的中だと考えて、その教えを激しく説いて回った。これらの新しい仏教の隆盛に対し、奈良時代から発展した「南都六宗」(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)の旧仏教側は、新仏教を批判するだけでなく、戒律の復興に努力し、社会福祉事業の力を尽くして威信の回復を図った。
◇鎌倉の六宗新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗)
| 宗派 | 開祖 | 総本山 | 主要著書 | 教理・特色 |
|---|---|---|---|---|
| 浄土宗 (法然宗) |
法然(源空) | 知恩院(京都/東山) | 『選択本願念仏集』⇒九条兼実の求めに応じて述作 | 専修念仏「南無阿弥陀仏」他力本願 |
| 浄土真宗 (一向宗) |
親鸞 | 本願寺(京都/大谷) | 『教行信証』『歎異抄』(唯円) | 悪人正機説 絶対他力 |
| 時宗 (時衆) |
一遍(智真) | 清浄光寺(神奈川) | 『一遍上人語録』⇒一遍の法語を集め江戸後期に刊行 | 踊念仏(時衆が随行)⇒遊行上人の異名 信者を阿弥陀仏と呼ぶ |
| 日蓮宗 (法華宗) |
日蓮 | 久遠寺(山梨/身延山) | 『立正安国論』⇒北条時頼に提出 | 題目「南無妙法蓮華経」他宗派を厳しく非難 |
| 臨済宗 | 栄西 | 建仁寺(京都/東山) | 『興禅護国論』『喫茶養生記』⇒源実朝に献上 | 坐禅・公案 鎌倉・室町幕府が保護 |
| 曹洞宗 | 道元 | 永平寺(福井) | 『正法眼蔵』『正法眼蔵随聞記』(懐奘) | 只管打坐 京都・権力から離れる |
(二)寺院建築
日本の寺院建築は仏教の伝来に大きく関係している。まず日本に渡来した建築技術者によって、法隆寺の金堂、五重塔や薬師寺東塔のような中国式の寺院が築造された。いわゆる和様建築というこれら伝来の建築様式を日本風に改良改善した様式である。日本に戒律を伝え、仏教界に多大な貢献をした鑑真和上(687-763)の唐招提寺の金堂は和様の初期の代表作の一つとされている。
平安時代後半まで中国との文化交流が活発化して、「大仏様」、「禅宗様」(「唐様」)などの新形式の建築様式が日本に伝来すると、それまでの建築様式が「和様」と呼ばれ、区別されるようになった。後の時代になると、さらにそれらが入り混じった「折衷様」など、多元的な寺院建築が現れる。
上に述べたように和様とは言っても、日本独自の様式ではなく、中国から伝来した建築技法を日本の気候、風土により国風化したものである。建築式が主に禅宗寺院の建物に用いられた。鎌倉初期に伝来した大仏様式の建物が、東大寺の南大門、浄土寺の浄土堂が現存している。大仏様は早く衰えたが、禅宗様は、禅宗寺院の建物が武家勢力の庇護により多く建立されたことで、和様とともに寺院建築の主流となり、禅宗寺院にとどまらず、他宗派の寺院にも次第に広がっていく。そして、さらに時の経過とともに和様と新様式の混合が進み、室町時代には多くの折衷様の建築が現れ、江戸時代に至ると、和様と禅宗様の区別がつかないほどになる。
(三)日宋貿易と文化交流
中世の日本は中国の宋・元、朝鮮の高麗との交渉を中心に、東アジアにおける海域交流に力を入れた。日宋貿易は、十世紀から十三世紀の鎌倉時代中期にかけて日本と宋朝(南宋)の間で行われた貿易活動である。貿易活動は朝鮮半島の高麗を含めた三国間で行われ、日本では、鎌倉時代に多くの宋人が住み、国際都市となった博多や越前国敦賀が拠点となった。
「平治の乱」の頃、日本で最初の人工港を博多に築いた平清盛(1118-81)は、寺社勢力を排除して瀬戸内海の航路を掌握した。また、航路の整備などを進め、宋船による厳島参詣を行った。更に清盛は1173(承安3)年に大輪田泊(現在の神戸港の一部)を利用して、貿易の振興を図った。この貿易で使われた宋銭は、アジアのほぼ全域で流通し、当時の日本の貨幣利用の進展や経済発展にも多大な影響を及ぼした。
一方、陸上交通では、元寇(蒙古襲来)防備のために、博多と六波羅の間に600キロにわたって筑紫大道と呼ばれる軍用道路が敷かれた。この筑紫大道は中国からの文化の伝播に大きな影響を与えた。
日宋貿易では、絹織物や書籍、薬品、香料、陶磁器・絵画などの美術品等々、様々なものが日本に輸入されている。また、仏教の経典の輸入は、鎌倉仏教に多大な影響を与えた。日本からの輸出品は、木材や絹・硫黄などの鉱物、それに日本刀などの工芸品などであった。日本と中国の貿易は、この後も、室町の足利幕府、戦国時代の織田政権などが、勢力拡大の一環として力を入れ続けた。
(文責:徐興慶)
❀ 中日の比較 ❀
宋銭は、古美術品としてどれほどの価値があるか?
日本では中世になってから銭貨が本格的に流通するようになった。朝廷・幕府は、外国の銭貨を使うことに積極的であったわけではないが、交換手段として便利だったため、宋銭を始めとする外国銭がこの時代、大量に使われたのである。宋銭は現在、物によっては数十万円の値が付けられる。古美術品として信じられないほどの価値を認められているのである。
【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
1. (a. 平清盛 b. 源頼朝 c. 栄西)が、1192年に鎌倉幕府を作り上げて中世の日本に武家(武士)政権が誕生した。
2. 鎌倉時代初期の公家・歌人である藤原定家らは技巧を駆使した和歌を(a. 『新古今和歌集』 b. 『古事記』 c. 『日本書紀』)にまとめた。
3. 建長・円覚寺・南禅寺などの住持を歴任し、五山文学隆盛の基礎を築いた(a. 蘭渓道隆 b. 隠元隆琦 c. 一山一寧)は、1299年に元の世祖により日本に派遣された。
4. (a. 尊経閣文庫 b. 金沢文庫 c. 紅葉山文庫)は、鎌倉中期の執権北条実時が設立した武家の文庫である。
5. 元寇(蒙古襲来)に備えて、博多と六波羅の間に(a. 筑紫大道 b. 元寇大道 c. 筑前大道)と呼ばれる軍用道路が設置されている。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
6. 道元は宋から帰国した後、永平寺(今福井県吉田郡)で日本の( )を開いた。
7. 鎌倉初期に伝来した( )の建物としては、東大寺の南大門、浄土寺の浄土堂が現存している。
8. 日宋貿易は朝鮮半島の高麗を含めた三国間で行われ、日本では越前国敦賀や、鎌倉時代に多くの宋人が住み国際都市となった( )が拠点となった。
9. 平清盛は1173(承安3)年に摂津国福原の外港にあたる( )(現在神戸港の一部)を拡張し、対外貿易振興策を行ったため、十二世紀後半から宋銭が大量に日本へ流入した。
10. ( )の日本輸入は鎌倉仏教に多大な影響を与えた。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
11. 軍記物語とは何でしょうか。
12. 中世日本の新興仏教について述べなさい。
13. 「和様」の建築様式の寺院を挙げてみましょう。
14. 『吾妻鏡』はどんな歴史書ですか。
15. 鎌倉時代に日本に流入した中国の文化は、どんなものがありますか。
参考文献
佐伯富責任編集『宋の新文化』、中央公論新社、2000年
源豊宗訳『日本美術の流れ』、新思索社、2006年新装版
森克己『日宋文化交流の諸問題』(増補)、国書刊行会、1975年
森克己『続々日宋貿易の研究』、新編森克己著作集3、勉誠出版、2009年
李寅生『論宋元時期的中日文化交流及相互影響』、巴蜀書社、2007年