124代目の天皇、昭和天皇(1901-89)の登場が、昭和時代の幕開けであった。1931(昭和6)年の満州事変から連続して二年間もの深刻な農村恐慌が起こり、また、1935年の天皇機関説事件などによって、思想や学問に対する統制が強化される一方で、翌年の二・二六事件などの不祥事も起こった。このような中、文化面には体制に真正面から対抗するような社会運動もあり、また、刹那的享楽に走るような大衆文化も現れた。
庶民の町一浅草 昭和初期は、西洋の物質文明やモダニズムの影響を受け、エロ・グロ・ナンセンスの風潮が起こった時期である。ラジオ、トーキー映画、モガ(モダンガール)とモボ(モダンボーイ)、ダンスホール、レビュー、麻雀、ベービーゴルフ、コリントゲーム、ヨーヨー遊びなどがブームとなったことなどが庶民文化の大特徴だ。
浅草はこのような文化的風潮で重要な役目を担っていた。1873(明治6)年に、浅草寺の境内が周りの公園も兼ねて浅草公園になって、日本一の盛り場になり、映画館だけでも二十数軒に達した。劇場・寄席も多く、横丁にまであった。また、安くてうまい大衆的な食べ物を提供する屋台がずらっと並んだ。都市の労働者の代表が職人だったこの時代、浅草はまさに彼らに最も相応しい娯楽と食べ物に満たされた庶民の街だったのだ。
レビュー レビューは、フランス語revueに由来していて、もともとは年末にその一年間の出来事を時事風刺劇として演じたものであった。
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学習ポイント
だが、日本では大正時代に出来た宝塚少女歌劇団と松竹少女歌劇団の歌劇公演がその濫觴となり、1927(昭和2)年に宝塚で上演された「モン・パリ」の成功がその隆盛のきっかけとなった。このような少女歌劇団のほかに、東京の日本劇場で育成された日劇ダンシング・チームと帝国劇場で演じた松竹楽劇団などもレビュー文化の発展に貢献した。
カジノ・フォーリーと「笑いの王国」 昭和期に入ると、剣劇のほかにサイレント映画と軽演劇が人気を博した。1929年に浅草水族館を本拠地としたカジノ・フォーリーが「日本最初のレビュー劇場」として登場する。カジノ・フォーリーはフランス語Casino Foliesに由来し、レビュー方式を取り入れた歌と踊りに、風刺ギャグを交えて人気を博した軽演劇である。その中心となった俳優の榎本健一(1904-70)はエノケンというユニークネームで活躍した。また、1933(昭和8)年には古川緑波(ロッパ、1903-61)の発案で、「アチャカラ演劇」(歌舞伎の演目のドタバタ喜劇化)を特徴とする「笑いの王国」が出来て、「エノケン・ロッパの時代」となった。だが、「笑いの王国」の演劇は1941年頃から、戦時体制のため、兵隊ものを入れるようになり、2年後、「国民喜劇座」と改名、同年の6月に解散した。
エロ・グロ・ナンセンス 昭和初期には、モダンな盛り場の銀座あたりから、「エロ・グロ・ナンセンス」という新語もはやり出した。エロはエロティック、グロはグロテスクの略で、1930〜31年を頂点とする退廃的風俗を言う。エロ物・怪奇物の出版が相次ぎ、盛り場ではエロサービスを売り物にしたカフェーやバーが軒を並べた。だが、31年以後の軍国主義台頭でこの享楽的流行は消えることになる。
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築地小劇場 東京にあった築地小劇場も昭和初期文化のシンボルの一つだ。1924(大正13)年に土方与志(1898-1959)と小山内薫(1881-1928)が開設した築地小劇場は日本初の新劇の劇場である。海外演劇の紹介をしながら、国内の創作劇の上演もした。だが、1940(昭和15)年頃から戦時色が濃くなり、政府の統制が強くなったため、国民新劇場と改称し、1945年に東京大空襲によって建物が焼失した。
漫画 昭和時代の漫画は前の時代の隆盛を引き継ぎ、大いに発展した。特に30年代には講談社の『幼年倶楽部』、『少年倶楽部』に掲載された子供向けの漫画『のらくろ』、『タンクタンクロー』、『冒険ダン吉』などが大人気でベストセラーとなった。1931年から十年間連載された「のらくろ」の内容は、野良犬の黒吉が猛犬の軍隊に入隊し活躍するというものだ。当時は雑誌だけではなく、子供向けの「のらくろ」商品も続々と登場し、現在でもキャラクター関連商品が販売されているほど人気が高い。「タンクタンクロー」は1934年から二年間掲載された作品である。主人公タンクローは、海の向こうから攻めてきた怪人を倒すヒーローであった。『冒険ダン吉』は1933年から1939年にかけて連載された。南の島の王となった少年ダン吉が様々な敵に打ち勝つという内容である。海外領土の開拓に邁進した時代背景があり、たいへんな人気を博した。
円本と文庫 関東大震災後の不況と昭和初期の金融パニックを機に、出版社が「円本」という経営政策を打ち出した。円本という名称は1925年大阪、1927年東京に登場した市内一円均一の「円タク」から派生したと思われる。最初は改造社が1926年、全巻予約制で月に一冊配本の『現代日本文学全集』を一冊一円で販売し始めたものだ。それ以降、新潮社をはじめ各社も続々と円本を出版し、円本ブームがおこった。
この円本のブームに触発された岩波書店が1927年に刊行し始めたのが、岩波文庫である。国内外の文学作品、学術書を幅広く
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出版史上で大きな意義を持つ。円本と文庫によって、庶民が書籍を廉価で手に入れることを可能になった結果、多くの日本人が国内外の文学・芸術・思想・文物に親しめるようになった。
プロレタリア文学 1923(大正12)年に関東大震災が起き、その直後に、「革命の文学」を標榜するプロレタリア文学がにわかに脚光を浴びることになった。1921年に最初の雑誌『種まく人』が出された後、1924年に『文芸戦線』が発刊、1928年には、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、機関誌『戦旗』を出した。代表的な作家には葉山嘉樹(1894-1945)、小林多喜二(1903-33)、徳永直(1899-1958)などがいる。しかし、1933年2月に『蟹工船』で有名である小林多喜二の逮捕など、厳しい弾圧のために、プロレタリア文学運動は退潮していった。
新感覚派の文学 大震災の翌年に、横光利一(1898-1947)、川端康成(1899-1972)、片岡鉄平(1894-1944)、中河与一(1897-1994)らによって、同人雑誌『文芸時代』が創刊され、新感覚派と呼ばれた。新感覚派は、「社会革命の文学」としてのプロレタリア文学に対して、「文学の革命」を目指した。伝統的な私小説のリアリズムを否定し、言語表現の独自性を強調する作風が特徴である。
モダニズムの文学 「芸術派十字軍」を名乗った「十三人倶楽部」(1929年結成)を母胎とする新興芸術派は、「エロ・グロ・ナンセンス」に彩られた都会風俗をスケッチすることを特色とした。また、その傍流に位置し、独自の文学的個性を確立した作家に、井伏鱒二(1898-1993)、堀辰雄(1904-53)、梶井基次郎(1901-32)などがいる。
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1937〜1945年までの時代は日本の歴史上、最大の激動の時代である。特に1941年から太平洋戦争が始まり、日本全体が戦争一色となった。
軍国教育 1937年7月に日中戦争が勃発し、「天皇陛下ノオンタメニ」、「大東亜共栄のため」という帝国の理念が唱えられた。また、1941年1月8日に東條英機(1884-1948)陸相は全体の将兵に「戦陣訓」を示達し、「皇軍道義」を求めた。「小学校」も「国民学校」(初等科6年、高等科2年で計8年)とされ、義務教育とされた。これは、厳しい軍国主義的な教育内容を実行するためのもので、教材の半分以上が、日本を神国とし天皇を現人神とする軍国主義の教えで占められ、「皇国民」の育成が学校教育の目的となった。
学校では天皇・皇后の写真や勅語、詔書の写しを納めておく奉安殿を設けて、生徒に最敬礼をさせ、卒業式の歌も「蛍の光」から「愛国行進曲」、「海行かば」に替えられた。中等学校や大学などにも「報国団」を組織させ、戦争協力体制を固めた。
忠犬ハチ公 大正末に、日本で最も有名な犬となったハチ公は東京帝国大学(現東京大学)農学部教授上野英三郎博士の飼い犬だった。ハチ公は毎日、朝と夕方に渋谷駅まで教授を送迎するという「日課」を続け、上野博士の急死後も、ハチ公は相変わらず改札口の傍らに立って、主人を待ち続けた。その姿が人々の同情をそそり、ハチ公はまだ生きていた1934年に、渋谷駅前にハチ公の銅像が建てられた。1948年に再建されたハチ公の銅像は、今は待ち合わせの場所になって
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いる。だが、戦前は「犬でさえ主君の恩を忘れないのだ」と喧伝されて、「忠君愛国」の時代背景を強く反映する昭和初期のシンボルとなった。
耐乏生活と勤労令 戦争中は、倹約第一だった。日中事変から始まった耐乏生活は、「一汁一菜」、「ぜいたくは敵だ」、「月月火水木金金」、「ほしがりません勝つまでは」等のスローガンを通して実行させられた。食事も装いも質素で、ネオンサインの全廃、飲食店の営業時間の短縮、歳末の贈答の廃止、さらに一銭でも二銭でも倹約して、お国のために尽くそうと庶民同士で呼びかけ合った。
1941年に始まった太平洋戦争は国民を圧迫し、その生活に暗い陰を落とした。各町内には隣組が作られ、防空演習などが協力して行われた。食糧・衣料・燃料などの日常生活の必需品が不足したため、配給制が始まった。さらに1944年には学徒勤労動員が出され、中学生以上が工場へ借り出され、女子も14歳から勤労挺身隊員として、工場や農場へ駆り立てられていることになった。
1945年からは都市に住む小学生が、病身その他で疎開不可能な者を除いてほとんど、空襲を避けるために地方の農村へ集団疎開した。地方に縁故のない小学3〜6年の児童は、親許を離れ、地方の公堂や寺院などの所に住み、食糧不足の中で耐乏生活を強いられた。村民との間で悲惨な争いや暴力事件が相次いで起きた。
出征と千人針 1943年からは、徴兵年齢が一年引き下げられ、19歳になった。工場の時間制限も廃止され、学徒が出陣するようになった。赤紙(入隊の時間と場所を記入してある出征通知)を受け取ったら、出征の準備をしなければならなかった。女性たちは千人針を用意した。これは、1メートルほどの白い布に赤い糸で千人の人が一人一針ずつ縫って結び付けを作る習慣だ。千人針の布を当身に付けていたら、敵の弾に当たらないと信じられていて、死線(四銭)や苦線(九銭)
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を超えるように5銭玉や10銭玉を縫いつけた千人針もあった。敗色が濃くなるに従って「一億総動員」の名の下に、国民学校高等科を卒業したばかりの14歳で少年飛行兵や戦車兵に志願することが奨励され、少年兵の採用も多くなった。
1937年に勃発した日中戦争から太平洋戦争にかけて、政府の言論統制はさらに厳しくなり、戦争文学と国策文学が氾濫した。この年、石川達三(1905-85)の「生きてゐる兵隊」は戦争の残酷さを描いたため、処分になった。一方、翌年に軍部報道員として徐州会戦に従軍した火野葦平(1907-60)が、戦争体験を描いた「麦と兵隊」(1938)は、戦争文学の代表として、最も多くの読者を得た。また、1942年から「日本文学報国会」が組織され、大東亜共同宣言の五大原則についての作品執筆が作家に依頼されるなど、国策文学が増えていった。
マッカーサーを総司令官とする連合国軍が、日本の無条件降伏とともに日本で占領政策を実施した。連合国軍は、人権確保のための五大改革として、婦人参政権獲得、学校教育の自由主義化、労働組合の結成の促進、民衆生活を恐怖させる諸制度の廃止、経済の民主化の実現などを打ち出した。そして、1946年11月3日には主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重という新しい理念の新憲法が公布された。この新憲法によって、選挙権と生活における男女平等、六三三四制の教育体系の設立、財閥解体、農地改革、政治犯の釈放の実現が保障された。
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教育の改革 1945年に終戦を迎えた後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示によって、それまでの軍国主義的、国家主義的な教育方針を改め、新憲法に則った新しい教育改革が推進された。1947年には、真理と平和を希求する人間の育成を理念とする教育基本法が作られ、男女共学が認められて、教育の機会均等が進んだ。教科書は、神話や軍国主義的な表現の個所に墨を塗った「墨塗り教科書」が使用された。また、学校教育法が制定され、義務教育が6年から9年に延長され、六三三四制の新学制が定められた。児童福祉法も公布され、子供の日(5月5日)という新しい祝日が設けられた。
宗教の自由化 1945年に占領軍の指示の下、国家神道が禁止され、「政教分離」の原則が定められた。また、信仰も自由になった。敗戦前には、国民は天皇を頂点とする国家神道を信仰しなければならなかったが、敗戦後の1951年には宗教信仰の自由をポイントとした「宗教法人令」が実施されたのである。これにより日本の国民は再び宗教における自由を得た。
文化財の保護 1949年に、奈良の法隆寺の金堂が炎上し、国宝の壁画の大部分が黒こげになった。翌年の7月には京都の金閣寺の精神異常者によって放火され、全焼した。これらの出来事がきっかけとなり、文化財保護法が定められた。従来の国宝保存法、重要美術品保存法、史蹟名勝天然記念物保存法を統合し、新たに無形文化財、埋蔵文化財を取り入れた文化財保護法が制定されたのである。
昭和天皇 天皇は長く、日本という国家の象徴としての地位を維持し続けてきた。日本人の国民性について考察する際、天皇に対する意識は最も重要なポイントであろう。近代になってからは、天皇は絶対的な、名目としては立憲君主制の法治国家であるとはいわれたが、実質は強烈な宗教国家的性格を持つ専制君主国家だった。
しかし、敗戦に伴い、天皇制の変革が求められた。1946年元旦に天
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皇は「新日本建設に関する詔書」を発し、自分は神ではなく人間であると宣言し、自らの神性の否定をした。これが有名な「人間宣言」である。これにより天皇は国の象徴として新憲法の定める国事に関する行為のみを行うようになった。
戦後、言論の自由、出版の自由が戻り、再び文学活動が盛んになった。その例として既成大家の復活、新戯作派の登場などが挙げられる。永井荷風(1879-1959)、正宗白鳥(1879-1962)、野上弥生子(1885-1985)、太宰治(1909-48)などの作品が話題になった。
また、戦時における人間の極限状況などを描き、戦争の悲惨さ、残虐さなどを取り出した大岡昇平(1909-88)、武田泰淳(1912-76)、椎名麟三(1911-73)、石川淳(1899-1987)、梅崎春生(1915-65)、中村真一郎(1918-97)らの作家は第一次戦後派と呼ばれている。それに続いて、安部公房(1924-93)や三島由紀夫(1925-70)などの第二次戦後派も登場した。戦後派は私小説的伝統と断絶した観念的な作風を特徴とした。
一方、1950年前後には、純文学と大衆文学の間という意味の中間小説という言葉が使われるようになり、石坂洋次郎(1900-86)、舟橋聖一(1904-76)などが活躍した。また、『太陽の季節』(1955)の石原慎太郎(1932-)の登場以来、作家がメディアで取り上げられるようになり、文学とジャーナリズムの境目がだんだんと曖昧になっていった。
ここでは時代を戦争直後に限ることなく、大正末からのメディアの動きを概観してみたい。
新聞 大正時代には高学歴志向の高まりと連動するようにマスメディアも普及して、人々は社会意識に目覚めた。昭和初期には、朝日新聞社の『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』、毎日新聞社の『東京日日
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新聞』『大阪毎日新聞』の二社四大紙が全国規模の新聞となった。これらの新聞は、大正デモクラシーの洗礼を受けて自由主義的な姿勢を保ち、国際協調や軍縮政策に賛同的であった。1930年ごろからは、政府の協調外交の失敗を非難する報道記事が増え、国民の危機意識をかき立てるようになった。しかし翌年、満州事変が起きてからは、全面的に日本軍の行動を賞美する姿勢に転じ、軍部を支持する「世論」を作り上げる形で政府を支える役割を果たした。
『キング』と『新青年』 大正時代から、週刊誌や少年・少女・婦人向けの雑誌が続々と刊行され、大衆向けの娯楽雑誌「キング」も1925(大正14)年に講談社から刊行された。この雑誌は、戦前の講談社の看板雑誌で、日本出版史上初めて発行部数100万部を突破した。小説、講談、知識、説話、笑い話など、ボリュームのある内容を安値で提供する雑誌であったが、戦後は用紙統制もあって、戦前のような売れ行きには達せず、1957年に廃刊した。
日本推理小説界に大いに貢献した雑誌は『新青年』である。1920(大正9)年創刊の『新青年』は、1920〜30年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌で、都会のインテリ青年層の間で人気を博した。1923年に掲載された江戸川乱歩(1894-1965)の「二銭銅貨」(1923)は、既存の作家や新人作家に大きな影響を与えた。また、乱歩は1928年に「陰獣」を出して人気を博した。『新青年』はその他、推理小説のほかにユーモア小説、コント、学生野球の記事、ファッション、音楽時評、映画界噂話なども掲載している。日中事変の時期には戦争実録も掲載した。戦後は、『宝石』、『ロック』等の新しい雑誌に押され、1950年の7月号で終刊となった。
放送文化 ラジオ放送は大正時代の終わりに始まり、1926(大正15)年8月には社団法人日本放送協会が発足した(1950年に改組、現NHK)。今も行われているラジオ体操は1927年に昭和天皇の即位を記念して放送され、国民的体操となった。また、大戦終戦直後の1945年の大晦日には「紅白歌合戦」の前身の「紅白音楽試合」というラジオ
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番組が放送されている。1947年からは3年にわたって、戦災孤児たちが、助け合って明るく生きていけるようになるまでを描いた「鐘の鳴る丘」というラジオドラマが流され、大ヒットした。また、映画「そよかぜ」の挿入歌だった「リンゴの唄」が大流行し、戦争に疲れた国民の心を癒した。歌謡界では、美空ひばり(1937-89)が1949年にデビューし、その後、国民的歌手として大人気を博することになる。1951年にはラジオの民間放送も始まった。
テレビ放送は1953年、NHKが開始し、紅白歌合戦のテレビ放送が始まった。同じ年の夏には民間テレビ局の放送も開始されていた。ただ、放送開始直後は受信機の価格が高いため、一般庶民の手には届かず、駅や街頭に設置された「街頭テレビ」の前は黒山の人だかりとなった。テレビは1950年代後半には、冷蔵庫、洗濯機とともに「三種の神器」と呼ばれ、豊かな生活の象徴となる。
(文責:黄翠娥)
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一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
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二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
武田祐吉ら『日本文学史』、角川書店、1973年
新間進一、井上宗雄、前田愛『日本文学史』、旺文社、1975年
和歌森太郎『日本生活文化史10 軍国から民主化へ』、河出書房新社、1975年
『日本近代文学大事典』講談社、1984年
杉原荘介ら『日本史の基礎知識』、有斐閣ブックス、1993年
芳賀登『日本生活文化史序論—歴史学を人々に』、つくばね舎、1994年
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南博『日本人論 明治から今日まで』、岩波書店、1997年
張瑞雄、林顯宗『日本社会』、致良出版、2000年
中澤伸弘『日本の文化』、ナツメ社、2003年
韓立紅『日本文化概論』、南開大学、2003年
樋谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』、文藝春秋、2003年
村上重良『日本史の中の天皇』、講談社、2004年
樋谷秀昭『昭和精神史』、文藝春秋、2005年
致良日語工作室編譯『日本剖析』、致良出版、2006年
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