日本文化
第二章 飛鳥・奈良時代
第一節 推古天皇と飛鳥文化
(一)仏教の受容
飛鳥明日香 6世紀の終わりから8世紀初頭までを、飛鳥時代という。これは歴代天皇の都が、主に大和の飛鳥(明日香)にあったからである。古代の日本では、天皇が代わるごとに天皇の宮殿を移動させていた。この習慣は、現在でも伊勢神宮や出雲大社などの式年遷宮という神事に残されている。
仏教公伝 仏教が日本に公伝したのは、538年か552年とされている。この時、百済の聖明王から黄金の仏像が贈られてきた。しかし、群臣は廃仏派と崇仏派とに別れて対立してしまった。そこで欽明天皇(509-571)は仏教崇拝をあきらめて、仏像を蘇我稲目(506?-570)に下賜した。
物部氏と蘇我氏との抗争 ところが直後に疫病が発生した。物部氏は神の怒りであるとして、稲目の寺を焼き払ってしまった。ただし、この争いは、実際は単なる政治権力争いだったとも言われる。蘇我氏と物部氏との戦いは、蘇我氏が勝利することで終わる。
なお、日本では、縄文時代などの太古を除き、人型のものを利用した偶像崇拝はなくなっていた。現在の神道でも、人物像などを神体とすることはほとんどない。
(二)推古天皇と聖徳太子
女帝 こうした政治的混乱の中で即位したのが、日本史上初の女帝とされる推古天皇(593-628)である。そして、皇太子であり摂政にな
学習ポイント
1. 仏教の受容
2. 飛鳥文化と天平文化
3. 仏教の鎮護国家思想
4. 文字による文化活動
った聖徳太子(574-622)は、蘇我氏と協力して仏教による政治をしていった。
『日本書紀』によると推古天皇は、容姿端麗、頭脳明晰で、豪族たちの調整役だったらしい。実際の政治は聖徳太子と蘇我馬子とによって行われた。
なお、日本史上には8人10代の女帝が存在する。その内6人8代は飛鳥・奈良時代に集中している。皆政権が不安定であった時の中継ぎである。また、皇后か皇太子妃であった人が多いが、生涯独身である。
聖徳太子の政治 603年には冠位十二階を制定し、能力によって人材登用を行おうとした。しかし、実際はうまく機能しなかったようである。604年には憲法十七条を制定した。日本初の成文法とされている。ただし今でいう「憲法」ではなく、主に道徳論を説いていた。「17」とは、『周易』における最高の陽数「9」と陰数「8」を合計したものである。
その内容は、儒教と仏教の影響が強い。第一条の「以和為貴(和の精神を大切にする)」は、『論語』学而篇の引用で、今も日本人が愛好する言葉である。第二条は仏教を信奉すること、第三条では承詔必謹を述べている。引用は非常に多いが、これは当時すでに大量の書物が日本に伝来していたということである。
遣隋使 このころ中国では、統一帝国として隋が登場した。そこで聖徳太子は607年に小野妹子を遣隋使として派遣した。日本は冊封体制からの離脱を図っている。日本の国書の冒頭は、「日出処天子致書日没処天子(東の天子が西の天子に書を送る)」というもので、中国皇帝と対等の立場を主張していた。煬帝は不愉快になった
が、翌608年、裴世清を日本に派遣している。裴世清が帰国する時、僧旻(?-653)、南淵請安(?-?)、高向玄理(?-654)などの留学生が同行した。彼らは後の大化の改新で活躍する。
(三)飛鳥文化
法隆寺 仏教が受容される中で生まれたのが、飛鳥文化である。国際色が豊かで、中東やギリシアの影響も受けている。中でも有名なのが、聖徳太子の建立した法隆寺である。法隆寺には仏像(仏様)と呼ばれる中国北魏様式の金堂釈迦三尊像、南梁様式の百済観音像などがある。北魏様式は男性的で力強く、対して南梁様式は丸味があって穏やかな印象をしている。
なお、法隆寺は607年建立の後、670年に全焼している。現在の西院伽藍や五重塔は焼失後すぐに再建されたものであるが、それでも現存世界最古の木造建築群として著名である。
また、推古天皇の所持品だったという玉虫厨子は、当時の仏堂建築を形取っている。
伽藍配置 豪族は競って氏寺を建てていった。寺院の伽藍配置は、初期の飛鳥寺や四天王寺では、中国や朝鮮半島と同じであった。しかし、法隆寺以後は、日本独特のものになっている。仏教が短期間のうちに受容され、さらに独自の発展をしていたことが分かる。
紙 ほかにも高句麗の僧曇徴(7世紀)が紙や墨、彩色技法を伝えている。そして、仏教の注釈書として、聖徳太子の『三経義疏』が書かれた。これは日本初の著述である。中国の注釈書を参考にしているが、独自の見解もあり、貴重な草稿は残されている。
飛鳥時代の生活 『隋書』倭国伝には、当時の日本人の生活も描かれている。それによると、冠は社会の身分、髪は両耳の上に垂らすだけだった。しかし、これが聖徳太子のころから、冠をかぶるようになり、金銀の装飾をするようになった。また、朝廷で演奏する音楽が日本のものであったという。この説明によると、聖徳太子のころから朝廷とし
ての儀礼が整えられていったらしい。
一方で庶民の多くは裸足で、服も縫製していない。裁判沙汰や盗賊は少なくて治安はよく、人柄も素直で雅であった。男も女も全身至るところに刺青をしていた。正月一日は射撃や飲酒をするが、その他の節句にしか中国と同じで、食事は手で直接食べていた。葬送儀礼では、親しい人は、遺体の側で歌や踊りをしていたとある。
このように庶民の生活は、邪馬台国の原始的な習俗のままだったのである。
第二節 律令国家の形成
(一)天智天皇と天武天皇と
大化の改新 聖徳太子の死後、蘇我氏に対して中大兄皇子(天智天皇、626-672)と中臣鎌足(614-669)とがクーデターを起こし、645(大化元)年、蘇我氏を滅ぼした。
こうして始まったのが大化の改新である。中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内大臣として政治を行い、僧旻と高向玄理とが国博士に就任して顧問となった。そして、日本最初の年号「大化」を制定した。「大化」とは『尚書』や『漢書』を出典にした言葉である。なお、日本の年号は現在の「平成」に至るまで、ほとんどが漢籍を出典にしている。続いて646(大化2)年、改新の詔を出し、中央集権国家を目指していく。
こうした改革は文化面でも行われている。まず薄葬令を出して古墳の造築を禁止した。また、天皇と皇太子とを除いて殯も禁止するなど、習俗を大改造していく。ただし、なかなか改まらなかったようである。
天武天皇 672年に天智天皇が崩御すると、すぐに弟の大海人皇子(40代天武天皇、631?-686)と天智天皇の皇子である大友皇子(39代弘文天皇、648-672)とが内戦を行った。これを壬申の乱という。多数
の豪族の支持を集めた大海人皇子が勝利することになり、飛鳥浄御原宮で即位した。
天武天皇は律令政治の確立を目指して中央集権国家を築いていった。一方で復古的でもあった。長らく途絶えていた斎王を復活させ、宮中祭祀や儀礼も整備したので、このころ天皇の神格性が確立された。
藤原京 天武天皇の後を持統天皇(天智天皇の皇女、645-703)が継いだ。そして、694(朱鳥8)年に日本初の都城である藤原京が建設される。5.3キロ四方あるこの都は、実は古代日本最古であると同時に最大の都城でもあった。中国の都城を参考にしているが、唐の都ではなく『周礼』の記述を参考にして、宮殿を中央に置いていた。また、このころ作られた貨幣(「富本」銭)も、唐の「開元通宝」ではなく、漢の「五銖」銭をまねていたようである。
道教 こうした反発するような政策は、信仰面にも表れている。儒教や仏教などの中国文化を吸収していきながら、道教は拒否している。これは唐の皇帝が老子を祖先と称していることに関係するだろう。だから、道教の思想や信仰は、日本にも影響を与えているが、痕跡が分かりにくい。
遣唐使 701(大宝元)年には天智天皇が崩御して途絶えていた遣唐使が再び派遣された。中国に対して初めて「日本」を名乗ったのはこの時らしい。また、この年に、ついに大宝律令が完成した。この大宝律令によって、律令国家としての日本が完成したのである。
白鳳文化 こうした律令体制の構築とともに発展したのが、白鳳文化である。やはり仏教文化なのである。飛鳥文化と違って、初唐の文化が基礎になっている。これは中国文化の変化が、速やかに日本に伝えられていることを意味している。
白鳳文化を代表するのは、薬師寺である。薬師寺の東塔や金堂薬師三尊像は調和性に優れ、優美さを強調している。また、最後期の古墳
である高松塚古墳の壁画は、色調豊かなものであり、白鳳文化の清らかな印象を今に伝えている。
(三)国号「日本」と王号「天皇」
国号 国号「日本」を名乗ったのは、天武天皇か持統天皇の時であるらしい。「日本」とした理由について『旧唐書』は、日の出の場所に近いからだと述べている。
ただし、太陽神信仰との関係も指摘されている。恐らくは両者をあわせた理由であろう。
王号 王号「天皇」の成立時期は、推古天皇か天武天皇かで論争がある。『隋書』は倭王(推古天皇)の名前は「姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌(姓はアメ、字はタリシヒコ、号はオオキミ)」としている。これは倭の大王の通称「アメタリシヒコ」を誤解して、姓と字とに分けてしまっているのである。「アメ」とは「天」のことで、大王と天とは密接に関係していたのである。
天武天皇と考える場合、由来は二説ある。一つは道教思想の「天皇大帝」からであり、もう一つは則天武后が660(唐・顕慶5)年に「皇帝」号を「天皇」号に改称したのをまねたというものである。
なお、「神武」天皇などというのは、764(天平宝字8)年に淡海三船(722-785)がまとめて作った漢風諡号である。これ以前は、和風諡号が使われていた。神武天皇ならば「始馭天下之天皇」であった。
第三節 奈良の都
(一)平城京と藤原氏
平城京 710(和銅3)年、元明天皇(661-721)は唐の長安を模倣した平城京に遷都した。「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(青に赤いと美しい奈良の都は、まるで花々のように今栄えている)」と歌われた日本の古都である。平城京に都があった時
代を奈良時代と呼んでいる。なお、現在の日本で「花」といえば桜であるが、奈良時代は「梅」であった。
この奈良時代には、かつての豪族は貴族になっていく。そこで台頭したのが藤原氏で、藤原とは中臣鎌足に与えられた姓である。この奈良時代の政治は、この藤原氏を中心にして権謀術数が飛び交う。
和同開珎 奈良時代は急速に唐をまねていく。唐の開元通宝を模倣した「和同開珎」銭が鋳造されている。ただし、地方は相変わらず物々交換が主流であった。
道鏡事件 女帝称徳天皇(聖武天皇と光明皇后の皇女、718-770)の寵愛していた僧道鏡(700?-772)が、皇位簒奪を目指す事件が起こった。
769(神護景雲3)年正月、太宰府の祭祀官が道鏡を皇位につけるよう宇佐八幡神の神託があったと奏した。称徳天皇は側近の弟である和気清麻呂(733-799)を宇佐八幡宮に使わし、神意を確認させることにした。
ところが清麻呂の報告は、皇位は必ず天皇の子孫を立てろというものであった。称徳天皇は激怒し、和気清麻呂は別部穢麻呂という名前に変えさせられて流罪となった。そして、称徳天皇が崩御すると道鏡も失脚してしまう。こうして易姓革命の思想は、日本には受け入れられなかったのであった。
(二)天平文化
東大寺の大仏 平城京を中心にして栄えた仏教文化を、天平文化と呼んでいる。天平文化は盛唐の文化を基礎にしており、貴族を中心にした壮大なものであった。
この時代を象徴するのが、高さ16.8メートルもある東大寺の大仏である。
聖武天皇(701-756)の治政は、疫病や反乱、飢饉などが起こり、世相が暗く民衆は困窮していた。そこで、聖武天皇は仏教に救いを求
めて、各国には国分寺・国分尼寺を建立し、都には巨大な大仏を造った。だから、このころの仏教の使命は、国家を守ることである。これを鎮護国家思想という。こうした理論を研究していたのが、南都六宗と呼ばれる仏教学派であった。
大仏が完成したのは752(天平勝宝4)年で、開眼式はインド僧菩提僊那(704-760)が行った。大仏建立には大量の労働力が必要になるため、当時民間で布教をして民衆からの信頼が厚かった行基(668-749)を招聘した。
神仏習合 この大仏を作る時の最大の問題は、大仏を装飾する黄金であった。しかし、百済の元王族の百済王敬福が、今の宮城県で黄金を発見したことで解決された。喜んだ聖武天皇は全国の神社に奉納を行っている。このように奈良時代にはすでに神仏習合が行われていたのである。
このころは神道も仏教も共存していたが、仏教が政治に関与することになると、次第に神道は没落していく。本地垂迹説という思想が作られ、日本の八百万の神は、仏の権現とされていく。
正倉院 東大寺には正倉院という建物がある。これは校倉造りという倉庫で、中には聖武天皇のコレクションを中心に、天平文化の様々な美術品を保管している。宝物の中にはシルクロードによって伝えられたペルシャのものもあり、国際色豊かであった天平文化を象徴している。
鑑真 仏教を興隆するために唐から招いた高僧で、中国揚州の大明寺住職であった鑑真(688-763)である。六回目の挑戦でやっと日本にたどりついた時には、すでに失明していた。この鑑真の寺が唐招提寺である。威風堂々とした金堂は創建当時のもので、講堂は平城京の宮殿を移築したものである。
薬師寺吉祥天像 仏画として薬師寺吉祥天像が有名である。唐の衣装を身にまとった気品に満ちた姿が描かれている。このころの日本の服装は、唐の服制にのっとっていたのである。
(三)『古事記』と『日本書紀』
古事記 この奈良時代には、様々な書物が編集されている。712(和銅5)年に成立した『古事記』全3巻は、稗田阿礼(?-?)が暗唱していた大和朝廷の神話や伝説を太安麻呂(?-723)が文章にしたものである。神代から推古天皇までを対象にしている。
『日本書紀』 720(養老4)年に完成したのが、日本最初の正史『日本書紀』全30巻である。舎人親王(676-735)が中心となって編纂した。漢文の紀伝体の歴史書である。日本ではこの後、平安中期までに『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の正史が編纂された。これを六国史というが、以後は今に至るまで正史は編纂されていない。
『日本書紀』の収録時代は神代から持統天皇までであり、『古事記』とともに「記紀」と称される。
風土記 713(和銅6)年には、諸国に命じて地方の地理伝承を記した『風土記』を献上させている。ほぼ全てが現存しているのは、出雲(現在の島根県)だけである。
(四)文学と万葉仮名
万葉集 『万葉集』20巻は、約4500首を収録した和歌集である。編者は大伴家持(718-785)とされている。歌の作者は、天皇・皇族・貴族から兵士・庶民に至るまで幅広く、古代から語り継がれた万葉の歌を集めている。また、題材も旅行や四季、恋愛や職務・出征など幅広い。
万葉仮名 このころ日本に存在した文字は、漢字だけであった。そこで和歌は、漢字の「音」を借用して書いている。「い」は「以」、「ろ」は「呂」というようにである。『万葉集』が代表的なので、万葉仮名と呼んでいる。
懐風藻 『懐風藻』1巻は、日本で作られた漢詩集である。五言詩を中心にしており、魏晋南北朝時代の作風に影響を受けている。漢詩を作るには高度な教養が必要であるため、収録されているのは貴人ばかりである。
阿倍仲麻呂 唐に留学し科挙に合格して玄宗に仕えた阿倍仲麻呂(698-770)は、望郷の念を込めて『天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも(大空に月が出ている。昔、奈良の春日で見た月と同じだ)』と歌った。仲麻呂は日本に帰国することができず、唐で死んでいる。今でもこの歌は、故郷を離れた日本人がよく思い浮かべる。
(文責:黒田秀教)
❀ 台日の比較 ❀
唐の律令と日本の律令
日本の律令は、唐の律令を参考にしているが、日本の風習に合うよう改変をしていた。
大きな違いは、中央政府の形である。中国では皇帝に全権が集められていた。そして、中書省(法案作成)・門下省(立法機関)・尚書省(行政機関)の三省が置かれ、尚書省の下に、実務をする六部が配置される。
これに対して日本では、天皇の下に神祇官(祭祀)と太政官(政治)という二つの組織が置かれた。そして、太政官の下に、実務をする八省が配置される。神祇官は太政官よりも格上ということで、中国では、祭祀は尚書省の下の礼部が司る。この事から当時の日本が、祭祀を極めて重視していたことが分かるだろう。
これは大和朝廷の大王と豪族とが、神祇の概念によって団結しており、奈良時代の貴族が豪族の子孫だったからであろう。また、太政官が議制であったのは、大和朝廷が豪族の連合政権だったことによるだろう。このように日本の律令体制は、古代の原始的社会の性質がかなり強い。
刑罰も基本的に日本の方が軽い。邪馬台国の時代から日本は治安がよかったらしいことと関係があるのかもしれない。ただし、天皇に対する死罪、特に祭祀に関するものは、日本の方が重罰である。これもやはり大和朝廷が神話と血統に基づくものだったからであろう。未開社会であればあるほど、こうした傾向が強くなる。
余談であるが、2001(平成13)年に大蔵省が廃止される時、政治家や官僚は大騒ぎをした。大宝律令の時から使っていた「大蔵省」の名が消えるからである。奈良時代の行政組織名は、今も文部科学省の「文部」として残っている。
【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
1. 聖徳太子は(a. 儒教 b. 道教 c. 仏教)を厚く信仰していた。
2. 日本初の女帝は(a. 持統天皇 b. 推古天皇 c. 称徳天皇)で、摂政として聖徳太子が政治を行った。
3. (a. 法隆寺 b. 東大寺 c. 飛鳥寺)は、現存している中では世界最古の木造建築として有名である。
4. 『万葉集』は(a. 大伴家持 b. 柿本人麻呂 c. 阿倍仲麻呂)が編纂したとされており、古代日本の歌謡を今に伝えている。
5. 694年に造られた(a. 平城京 b. 藤原京 c. 平安京)は日本最古の都城であった。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
6. 聖徳太子は中国に( )を派遣して、冊封体制からの離脱を図った。
7. 高句麗の僧( )が紙と墨を日本に伝えたことで、日本でも著述ができるようになった。
8. 舎人親王が編纂した( )は、漢文で記された日本最初の正史である。
9. ( )は口誦によって伝えられていたものを、太安麻呂が成書したものである。
10. 唐から招聘した( )のために作られたのが唐招提寺で、奈良時代の建築が残されている。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
11. 飛鳥時代までの庶民の生活をまとめてみよう。
12. 飛鳥時代から奈良時代にかけて盛んだった仏教文化の特徴をまとめてみよう。
13. 天平文化を代表する東大寺についてまとめてみよう。
14. 『万葉集』は、どういう方法を使って書いてあるのか、何故そのような方法を使ったのか、考えてみよう。
15. 仏教による鎮護国家思想が誕生した経緯についてまとめてみよう。
参考文献
熊谷公男『大王から天皇へ(日本の歴史03)』、講談社、2001年1月
渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀(日本の歴史04)』、講談社、2001年2月
吉田孝『飛鳥・奈良時代(日本の歴史【2】)』、岩波書店、1999年10月
西嶋定生『倭国の出現-東アジア世界のなかの日本』、東京大学出版会、1999年5月
川勝守『聖徳太子と東アジア世界』、吉川弘文館、2002年12月
宮崎博史『神道史概説』、そうよう、2000年2月
辻善之助『日本文化史 第一巻上古〜奈良時代』、春秋社、1969年10月