考題索引

日本にほん文化ぶんか

第三章だいさんしょう 平安時代へいあんじだい

第一節だいいっせつ 平安京へいあんきょう

いち平安京へいあんきょう

長岡遷都ながおかせんと 奈良時代ならじだい末期まっきには、南都六宗なんとろくしゅうという仏教集団ぶっきょうしゅうだん政治せいじおおきく介入かいにゅうするようになっていた。そこで桓武天皇かんむてんのうは、平城京へいじょうきょうてることを決意けついする。まず784(延暦えんりゃく3)ねん長岡京ながおかきょう建設けんせつされた。しかし、重臣じゅうしん暗殺事件あんさつじけん連座れんざして、おとうと早良親王さわらしんのう(750?-785)を流罪るざいにしなくてはならなくなった。早良親王さわらしんのう流刑地るけいち憤死ふんしし、桓武天皇かんむてんのう衝撃しょうげきけた。早良親王さわらしんのう関連かんれんする事件じけんこり、長岡京ながおかきょうは10ねん廃都はいとされた。

平安遷都へいあんせんと 794ねんあらためて平安京へいあんきょう遷都せんとする。これが現在げんざい京都市きょうとしである。しかし、平安京へいあんきょうは、未完成みかんせいみやこでもあった。桓武天皇かんむてんのう晩年ばんねん民衆みんしゅう負担ふたん理由りゆう工事こうじ中断ちゅうだんされたのである。

なお、こののち、1869(明治めいじ2)ねん東京とうきょううつるまで、平安京へいあんきょう日本にほんみやこであった。このことから京都きょうとのことを「千年せんねんみやこ」ともいう。

最澄さいちょう空海くうかい

密教みっきょう 桓武天皇かんむてんのう鎮護国家思想ちんごこっかしそうてたわけではないため、南都六宗なんとろくしゅうわる仏教ぶっきょうもとめた。そこで登場とうじょうするのが、最澄さいちょう伝教大師でんぎょうだいし)と空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)である。

最澄さいちょう空海くうかいは804(延暦えんりゃく23)ねん遣唐使船けんとうしせんとう留学りゅうがくした。当時とうじとうへの留学期間りゅうがくきかんは20ねんさだめられていた。しかし、天才てんさいであった二人ふたりに、そのようななが時間じかん必要無ひつようなかった。最澄さいちょうは1ねん空海くうかいは2ねん日本にほん帰国きこくする。そして、最澄さいちょう比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ天台宗てんだいしゅうひらき、くう

学習がくしゅうポイント

1. 平安時代へいあんじだい仏教ぶっきょう

2. 貴族社会きぞくしゃかい国風文化こくふうぶんか

3. 古典文学こてんぶんがく

4. 武士ぶし誕生たんじょう地方文化ちほうぶんか

かい高野山こうやさん金剛峯寺こんごうぶじ真言宗しんごんしゅうひらいた。2しゅうとも密教系みっきょうけいであったため、平安時代へいあんじだい仏教ぶっきょう密教みっきょうさかんになっていき、現世利益げんせりやくのための加持祈祷かじきとうさかんにおこなわれていった。また、呪術的じゅじゅつてき側面そくめん民間みんかん土着信仰どちゃくしんこうとも融合ゆうごうし、修験道しゅげんどう発展はってんさせていった。

天台宗てんだいしゅう 比叡山ひえいざんはこののち日本仏教にほんぶっきょう中心地ちゅうしんちになっていく。こののち時代じだい新宗派しんしゅうはひらいたもののほとんどは、比叡山ひえいざん出身しゅっしんである。これは最澄さいちょうとうからかえった仏教ぶっきょうが、様々さまざま要素ようそ内包ないほうしていた雑密ぞうみつであったことも関係かんけいしている。

最澄さいちょうは、当初とうしょ空海くうかい親交しんこうむすび、次々つぎつぎ空海くうかいから経典きょうてんりて密教みっきょう勉強べんきょうしていった。しかし、やがて空海くうかいから、文章ぶんしょうではなく実践修業じっせんしゅぎょうによって勉強べんきょうするようわれ、絶縁状態ぜつえんじょうたいになった。

また、延暦寺えんりゃくじみやこ隣接りんせつしていたため、政治せいじつよ影響えいきょうっていった。

真言宗しんごんしゅう 高野山こうやさんみやこからはなれた山奥やまおくにあったので、政治せいじとは一定いってい距離きょりいている。もちろん、無関係むかんけいというわけではなく、京都きょうと東寺とうじ空海くうかいあたえられた寺院じいんである。空海くうかい灌漑施設かんがいしせつ建設けんせつ湯泉とうせん発見伝承はっけんでんしょうなど、民間みんかんでの活躍かつやくおもにしている。また、日本初にほんはつ私立学校しりつがっこうとされる種智院しゅちいん開設かいせつしている。当時とうじ中央ちゅうおう大学だいがく地方ちほう国学こくがくがあったが、これは貴族きぞく地方豪族ちほうごうぞくまな場所ばしょで、目的もくてき官僚かんりょう育成いくせいであった。しかし、空海くうかい民衆みんしゅう教育機関きょういくきかん設立せつりつしたのである。こうしたことから、「いろはうた」の作者さくしゃとする伝説でんせつができている。

また、空海くうかいは、嵯峨天皇さがてんのう(786-842)・橘逸勢たちばなのはやなり(782?-842)とわせて日本三筆にほんさんぴつしょうされる能書家のうしょかでもあった。王羲之おうぎし顔真卿がんしんけい影響えいきょうけている。

さん弘仁こうにん貞観文化じょうがんぶんか

漢学かんがく 最澄さいちょう空海くうかい活躍かつやくした時代じだいさかえた文化ぶんかを、弘仁こうにん貞観文化じょうがんぶんかという。平安初期へいあんしょき唐文化色とうぶんかしょく一層いっそうつよまった時代じだいで、漢学かんがくさかんであった。平安貴族へいあんきぞくとく愛好あいこうしたのが白氏文集はくしもんじゅうで、いま日本にほんには『白氏文集はくしもんじゅう』の古写本こしゃほん数多かずおおつたえられている。また、このころに勅撰漢詩集ちょくせんかんししゅう凌雲集りょううんしゅう』1かん空海くうかい漢文集かんぶんしゅう性霊集しょうりょうしゅう』10かん編纂へんさんされている。891(寛平かんぴょう3)ねんには『日本国見在書目録にほんこくけんざいしょもくろく』10かん編纂へんさんされている。これは遣唐使けんとうしによって日本にほんにもたらされていた漢籍かんせきを、けいしゅう四部分類しぶぶんるい整理せいりしたものである。

本地垂迹説ほんじすいじゃくせつ 神仏習合しんぶつしゅうごうもさらに加速かそくしていった。奈良時代ならじだい中期頃ちゅうきごろから神社じんじゃ境内けいだいには神宮寺じんぐうじてられ、神前しんぜん読経どきょうされることが普通ふつうになった。こうした状態じょうたい明治政府めいじせいふによる神仏分離しんぶつぶんりまでつづいていく。なお、伊勢神宮いせじんぐうにも神宮寺じんぐうじつくられたが、すぐに消滅しょうめつしている。本地垂迹説ほんじすいじゃくせつによって天照大神あまてらすおおみかみ大日如来だいにちにょらい化身けしんとされていたのだが、伊勢神宮いせじんぐう仏教ぶっきょうによる侵食しんしょくたいして頑強がんきょう抵抗ていこうしたらしい。

よん菅原道真すがわらのみちざねたた

摂関政治せっかんせいじ 平安時代へいあんじだい相変あいかわらず陰湿いんしつ政争せいそうおこなわれていた。摂政せっしょう関白かんぱくとして政治せいじをほしいままにした藤原氏ふじわらしも、兄弟間きょうだいかん権力争けんりょくあらそいが常習化じょうしゅうかしていた。藤原氏ふじわらしむすめ天皇てんのうきさきにし、そのむすめんだつぎ天皇てんのうにすることで、外戚がいせきとしてつよ権勢けんせいるった。これを摂関政治せっかんせいじぶ。そして、有力ゆうりょく対抗者たいこうしゃ謀殺ぼうさつによっていやっていった。

菅原道真すがわらのみちざね 藤原氏ふじわらしによる有名ゆうめい犠牲者ぎせいしゃ菅原道真すがわらのみちざね(845-903)である。漢学界かんがくかい家系かけいまれた道真みちざねは、その才覚さいかくからはやくも宇多天皇うだてんのう(867-931)にけられ、重用ちょうようされている。そして、894ねんには遣唐使けんとうし中止ちゅうし主張しゅちょうした。唐朝とうちょう衰退すいたいして混乱こんらんしていたことと、もう充分じゅうぶんとう文化ぶんかまなんだということがその理由りゆうである。しかし、じつはこのとき道真みちざね遣唐大使けんとうたいし任命にんめいされている。当時とうじ航海技術こうかいぎじゅつでは、とうくのはいのちがけであった。だから道真みちざねとうきたくなかったから中止ちゅうしさせた

ともわれている。

道真みちざね醍醐天皇だいごてんのう(885-930)にも重用ちょうようされ、さら出世しゅっせしていった。しかし、藤原時平ふじわらのときひら(871-909)の讒言ざんげんによって太宰府だざいふ左遷させんされ、903(延喜えんき3)ねん失意しついのうちにくなった。

それからくして、道真みちざね左遷させん関係かんけいした人物じんぶつ次々つぎつぎんでいった。そして、930(延長えんちょう8)ねん醍醐天皇だいごてんのうがいた清涼殿せいりょうでん太政官だじょうかん会議かいぎをしていたときかみなり清涼殿せいりょうでん直撃ちょくげきして大惨事だいさんじになった。そして、醍醐天皇だいごてんのうも3ヶ月後かげつご崩御ほうぎょする。これは道真みちざねたたりであり、道真みちざね死後しご雷神らいじんになられたのではないかとおそれられた。

こうして道真みちざね怨霊おんりょうしずめるために、北野天満宮きたのてんまんぐう創建そうけんされ、道真みちざねかみとしてまつられたことになった。道真みちざね学者がくしゃであったことから、現在げんざいでも学問がくもんかみとして受験生じゅけんせい人気にんきがある。なお、天満宮てんまんぐうえば梅林ばいりん有名ゆうめいである。これは道真みちざねがこよなくうめあいしていたからである。

極楽浄土ごくらくじょうど

浄土教じょうどきょう たたりをおそれる風潮ふうちょうによって、現世利益げんせりやくよりも来世らいせ幸福こうふくねがうようになった。こうして死後しご極楽ごくらくくことをねが浄土教じょうどきょうさかんになった。平安時代へいあんじだいにももっと権勢けんせいるった人物じんぶつとして、藤原道長ふじわらのみちなが(966-1028)をげることもある。むすめ四人よにん入内じゅだいさせて外戚がいせきとして権勢けんせいるい、摂関政治せっかんせいじ頂点ちょうてんきわめた人物じんぶつである。道長みちながは「このをばとぞおも望月もちづきけることもなしとおもえば(この世界せかいわたしのものだ。満月まんげつけていないようにである)」といううた有名ゆうめいである。しかし、その道長みちながであっても、最期さいご自分じぶん極楽浄土ごくらくじょうどだけをねがいながらぼっする。

平等院びょうどういん 道長みちなが頼通よりみち(992-1074)も権力けんりょくにぎった人物じんぶつである。その頼通よりみち極楽浄土ごくらくじょうどくためにつくったのが、平等院びょうどういんである。現在げんざい鳳凰堂ほうおうどうのこすのみだが、当時とうじ豪華絢爛ごうかけんらん王朝文化おうちょうぶんか彷彿ほうふつとさせる。鳳凰堂ほうおうどう木造阿弥陀如来坐像もくぞうあみだにょらいざぞうはこの時代じだい代表だいひょうする仏像ぶつぞうで、優美ゆうび柔和にゅうわ表情ひょうじょうをしている。権力争けんりょくあらそいにれた貴族きぞくたちは、こうし

慈愛じあいちたほとけ救済きゅうさいねがっていたのである。極楽浄土ごくらくじょうど思想しそうは、次第しだい庶民しょみんにもひろまっていった。民間みんかん布教ふきょうした空也くうや(903-972)は、市聖いちのひじりとたたえられている。

陰陽道おんみょうどう 安倍晴明あべのせいめい(921?-1005)に代表だいひょうされる陰陽師おんみょうじも、怨霊おんりょう存在そんざいひろまったからこそ発達はったつしたものである。中国ちゅうごくから伝来でんらいした暦法れきほう天文てんもん陰陽五行説おんみょうごぎょうせつ讖緯学しんいがくは、土着どちゃく信仰しんこう融合ゆうごうし、わざわいをふせぐための占術せんじゅつとして体系たいけいがつくられていったのである。

第二節だいにせつ 国風文化こくふうぶんか

いち服装ふくそう建築けんちく

国風文化こくふうぶんか誕生たんじょう 外国文化がいこくぶんか受容じゅようきる場合ばあい、その反動はんどう存在そんざいする。すでに奈良時代ならじだいのころから、日本土着にほんどちゃく風習ふうしゅう精神せいしんを、先進文化せんしんぶんかである中国文化ちゅうごくぶんか融和ゆうわさせようとするうごきがある。そうしたうごきは遣唐使けんとうし停止ていし契機けいきとなり、国風文化こくふうぶんか発達はったつさせていった。

服飾ふくしょく 貴族きぞく服装ふくそう唐風とうふうのものから変化へんかし、おとこ礼服れいふくとして束帯そくたい普段着ふだんぎ狩衣かりぎぬがある。そして、おんな女房装束にょうぼうしょうぞくには女房装束にょうぼうしょうぞく十二単じゅうにひとえ)が有名ゆうめいである。色彩しきさいあざやかな女房装束にょうぼうしょうぞくは、実際じっさいにはきわめて不便ふべん服装ふくそうで、重量じゅうりょうは20キロほどもある。束帯そくたい十二単じゅうにひとえ現在げんざいでも天皇てんのう皇族こうぞく正装せいそうになっている。また、狩衣かりぎぬ神職しんしょく普段ふだん衣装いしょうとして使つかわれているし、礼装れいそうはこのころの貴族きぞく衣装いしょうである。

建築けんちく 建築様式けんちくようしきには貴族きぞく屋敷やしきの、寝殿造しんでんづくりりが誕生たんじょうした。寝殿しんでん中心ちゅうしんきたひがし西にし建物たてものめぐらし、みなみいけつくって庭園ていえんもうけている。建物たてもの外壁がいへきはなく、開放式かいほうしきであった。

こうした寝殿造しんでんづくりりの屋敷やしきふすま屏風びょうぶにかいた大和絵やまとえかざられていた。大和絵やまとえは、とおくのものほどうえく。日本人にほんじん大小だいしょうによる遠近法えんきんほうるのは、江戸時代えどじだいのことである。

文字もじ

平仮名ひらがな 国風文化こくふうぶんか背景はいけいにして、平仮名ひらがな誕生たんじょうした。平仮名ひらがなは、もともとは漢字かんじである。それを草書体そうしょたいにし、さらにくずしていくことで、平仮名ひらがなかたち確定かくていしていった。ただし、平仮名ひらがなかたち確定かくていしたのは、じつ大正時代たいしょうじだいである。平仮名ひらがな漢字かんじくずであるから、どこまでくずすかはひとによってちがうし、またことなった漢字かんじをもとにしたまったちが字形じけいなども存在そんざいしたからである。

ところで、「平仮名ひらがな」の「仮名かな」とは、「真名まな」にたいする名称めいしょうである。「真名まな」とは漢字かんじのことで、当時とうじ漢文かんぶん公式こうしき文章ぶんしょうとされていた。現代げんだい日本語にほんごでもかた文章ぶんしょう漢字かんじおおいのは、これが理由りゆうである。

だから、当時とうじ漢文かんぶん素養そよう必要ひつようとされていたし、漢文かんぶんけることが当時とうじ教養きょうようであった。平安時代へいあんじだい花開はなひらいた王朝文学おうちょうぶんがく女性作者じょせいさくしゃおおいのも、平仮名ひらがな女性じょせい文字もじというイメージがあったからである。

ただし、男性だんせい平仮名ひらがな使つか必要ひつようがあった。当時とうじ恋愛れんあいは、女性じょせい和歌わかおくることにはじまる。そして、女性じょせい漢字かんじ教養きょうようひくかったので、男性だんせい和歌わか平仮名ひらがなかなければならなかったのである。

片仮名かたかな 片仮名かたかな僧侶そうりょ漢字かんじくずしたである。ただ、こちらは漢字かんじ字形じけい一部分いちぶぶんかたちつくられていった。当初とうしょ漢文かんぶんとき使つかったのだが、現代げんだいでも漢文かんぶんときむように使つかわれている。たとえば、原文げんぶんおく仮名がななどでく。片仮名かたかなは、鎌倉時代かまくらじだいには現在げんざい形式けいしきになっていたらしい。

漢文訓読かんぶんくんどく 漢文訓読かんぶんくんどくとは、日本にほんおこなわれた古典中国語こてんちゅうごくご読解方法どっかいほうほうである。奈良時代以前ならじだいいぜん中国ちゅうごくから漢字かんじつたわったころは、基本的きほんてき中国語ちゅうごくごとしてんでいたらしい。ところが次第しだい漢文かんぶん日本語にほんごとしてむようになっていった。たとえば「有朋自遠方来ともありえんぽうよりきたる不亦楽乎またたのしからずや。」を「とも遠方えんぽうよりたるり、たのしからずや」というように、語順ごじゅんえて、くだしてしまったのである。

こうした漢文訓読かんぶんくんどくは、日本語にほんご発達はったつにもおおきな影響えいきょうあたえている

し、現在げんざいでも学校教育がっこうきょういく漢文訓読かんぶんくんどくおしえている。また、現代げんだい日本人にほんじんがイメージする「中国ちゅうごくっぽい」文章ぶんしょうも、漢文訓読調かんぶんくんどくちょうである。

さん王朝文学おうちょうぶんがく

古今和歌集こきんわかしゅう 仮名かなによる文学ぶんがくとしては、905(延喜えんき5)ねんはじ勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう古今和歌集こきんわかしゅう』が紀貫之きのつらゆき(866?-945?)によって編集へんしゅうされている。貫之つらゆき序文じょぶん歌論かろんろんじているが、そこでは『毛詩もうし』の六義りくぎ参考さんこうになっている。この『古今和歌集こきんわかしゅう以後いご歴代天皇れきだいてんのう勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう編纂へんさんすることが慣例かんれいになっている。

ところで、貫之つらゆきあそごころのある人物じんぶつだったようで、『土佐日記とさにっき』という紀行文きこうぶんではジョークなどがおおい。こうした精神せいしんは、王朝文学おうちょうぶんがくおおきな影響えいきょうあたえたとわれている。

物語ものがたり 王朝文学おうちょうぶんがくなかでも傑作けっさくとされるのは、紫式部むらさきしきぶ(976?-1016?)の『源氏物語げんじものがたり』であろう。紫式部むらさきしきぶ道長みちながむすめ彰子しょうし一条天皇いちじょうてんのう中宮ちゅうぐう)につかえていた。『源氏物語げんじものがたり』は当時とうじから大人気だいにんきだったようで、一条天皇いちじょうてんのう(980-1011)が大絶賛だいぜっさんしたり、道長みちなが紫式部むらさきしきぶ部屋へやしのんで草稿そうこうってってしまったりした。紫式部むらさきしきぶ道長みちなが愛人あいじんだったともわれている。

ほかにもつき王女おうじょかぐやひめ主人公しゅじんこうにした伝奇小説でんきしょうせつ竹取物語たけとりものがたり』や、平安後期へいあんこうきのものだが、男女だんじょぎゃくにして子供こどもそだてた『とりかへばや物語ものがたり』など、想像力そうぞうりょくゆたかな物語ものがたりかれている。

随筆ずいひつ日記にっき 物語ものがたり以外いがいにも、清少納言せいしょうなごん(966-1025?)の随筆ずいひつ枕草子まくらのそうし』、紫式部むらさきしきぶの『紫式部日記むらさきしきぶにっき』などがある。紫式部むらさきしきぶ清少納言せいしょうなごん馬鹿ばかにしたり、清少納言せいしょうなごん紫式部むらさきしきぶぶん批判ひはんしていたりする。日記にっきなかには夫婦生活ふうふせいかつ愚痴ぐちいた『蜻蛉日記かげろうにっき』や、自分じぶん恋愛れんあいについていた『和泉式部日記いずみしきぶにっき』など、当時とうじ貴族きぞく女性じょせい心情しんじょう生々なまなましくつたえるものもおおい。

第三節だいさんせつ 古代国家こだいこっか崩壊ほうかい

いち武士ぶし興隆こうりゅう

院政いんせい 外祖父がいそふ藤原氏ふじわらしたない後三条天皇ごさんじょうてんのう(1034-1073)が即位そくいしたことで、摂関政治せっかんせいじ徐々じょじょおとろえていった。つづ白河天皇しらかわてんのう(1053-1129)は、8さい堀河天皇ほりかわてんのう(1079-1107)に譲位じょういして、上皇じょうこうとして政治せいじおこなった。上皇じょうこうんだ場所ばしょいんというので、これを院政いんせいという。また、上皇じょうこう出家しゅっけしていたので、法皇ほうおうともいう。

こののちくらい退しりぞいた法皇ほうおう政治せいじおこなうのが慣例かんれいになる。天皇てんのう立場たちばには様々さまざま制約せいやくがあるため、より自由じゆう活動かつどうしたのである。院政いんせい独裁的どくさいてきであったために、政治せいじはますます混乱こんらんしていった。

なお、のち武士政権ぶしせいけんでも、武士ぶし早目はやめ地位ちい後継者こうけいしゃゆずって、自分じぶん先代せんだいとして実権じっけんつづけることが慣例かんれいである。このような習慣しゅうかんは、世界史的せかいしてきにもめずらしい。

武士ぶし誕生たんじょう 武士ぶし起源きげんはよくかっていないが、武士ぶしのことを「さむらい」ともいう。「さぶらふ(貴人きじんつかえる)」という言葉ことばからたらしく、もとは下級官吏かきゅうかんりだったらしい。下級官吏かきゅうかんりのうち、軍事ぐんじ従事じゅうじするものたちが集団化しゅうだんかし、やがて貴族きぞく子孫しそん頭領とうりょうにして武士団ぶしだんつくっていった。やがて源氏げんじ平氏へいしという二大勢力にだいせいりょく統合とうごうされていく。「げん」・「たい」とは、臣籍降下しんせきこうかした皇族こうぞくあたえられたかばねである。

平氏政権へいしせいけん やがて平清盛たいらのきよもり(1118-1181)が平氏政権へいしせいけんきずいた。平氏へいしは「平家へいけあらずんばひとにあらず(平氏へいしでなければ人間にんげんではない)」というほどの栄花えいがほこる。この平氏政権へいしせいけん経済基盤けいざいきばんは、中国ちゅうごく新王朝しんおうちょうであるそうとの私貿易しぼうえきであった。日本にほんそうから、陶磁器とうじき絹織物きぬおりもの書籍しょせき絵画かいが、そして宋銭そうせんなどを輸入ゆにゅうしていた。この宋銭そうせん日本にほん流通りゅうつうし、日本にほん貨幣経済かへいけいざい確立かくりつ寄与きよしている。たいして日本にほんからは、硫黄いおう木材もくざいなどの鉱物こうぶつ、そして扇子せんす日本刀にほんとうなどを輸出ゆしゅつしていた。

源平合戦げんぺいかっせん 平氏へいし源頼朝みなもとのよりとも(1147-1199)によってほろぼされる。この源氏げんじ平氏へいしあらそいは源平合戦げんぺいかっせんばれている。現在げんざい日本にほんでは2グループにかれるとき紅白歌合戦こうはくうたがっせんのように紅組あかぐみ白組しろぐみわかれる。この起源きげんは、源氏げんじ白旗しらはた平氏へいし紅旗あかはたもちいたことだとわれている。

武士ぶし風習ふうしゅう 当初とうしょ武士ぶしには、いわゆる「武士道ぶしどう」という精神せいしん存在そんざいしていない。このころはちからこそが正義せいぎであったし、一族いちぞくまもるために寝返ねがえりや裏切うらぎりも日常茶飯事にちじょうさはんじであった。

ただし、武士道ぶしどうはしらになる名誉めいよという概念がいねんは、すでに存在そんざいしていた。当時とうじ合戦かっせんは、「やあやあわれこそは……」と名乗なのりをげてからおこなうものであった。相手あいて名乗なのりがわらないうちに攻撃こうげきをすることは、卑怯ひきょうとされていたのである。

判官贔屓ほうがんびいき 「判官贔屓ほうがんびいき」という言葉ことばまれている。判官ほうがんとは源義経みなもとのよしつね(1159-1189)をす。義経よしつね平氏討伐へいしとうばつ大活躍だいかつやくをするが、あに頼朝よりともきらわれ、逃亡とうぼう日々ひびおくり、ついにころされてしまう。こうしたよわしいたげられたものに同情どうじょうして援助えんじょするのが判官贔屓ほうがんびいきである。

国風文化こくふうぶんか普及ふきゅう

末法思想まっぽうしそう 院政期いんせいき社会しゃかい混乱こんらんもあって、世界せかい滅亡めつぼうちかいとかんがえる末法思想まっぽうしそう流行りゅうこうした。社会しゃかいみだれは仏教ぶっきょうにも影響えいきょうあたえ、寺院じいん武装ぶそうした僧侶そうりょである僧兵そうへいしたがえ、乱暴らんぼうはたらいていった。

平泉ひらいずみ しかし、その一方いっぽう国風文化こくふうぶんか地方ちほう波及はきゅうし、またさらに発展はってんしていった。地方ちほう花開はなひらいた国風文化こくふうぶんかとく有名ゆうめいなのが、奥州平泉おうしゅうひらいずみ現在げんざい岩手県いわてけん平泉町ひらいずみちょう)である。東北地方とうほくちほう勢力せいりょくきずいたのが、奥州藤原氏おうしゅうふじわらしという集団しゅうだんであった。藤原清衡ふじわらのきよひら(1056-1128)が創建そうけんした中尊寺ちゅうそんじ金色堂こんじきどうは、全体ぜんたい金箔きんぱくほどこしたもので、当時とうじ繁栄はんえい物語ものがたっている。奥州藤原氏おうしゅうふじわらし独自どくじそう沿海州えんかいしゅう貿易ぼうえきをしており、マルコポーロ(Marco Polo, 1254-1324)が『東方見聞録とうほうけんぶんろく』のなか日本にほんのことを「黄金おうごんくにジパング」といったのも、この中尊寺金色堂ちゅうそんじこんじきどうのうわさからだとわれている。

絵巻物えまきもの 絵巻物えまきもの発達はったつしたのもこの時代じだいである。流麗りゅうれい大和絵やまとえ源氏物語げんじものがたり融合ゆうごうさせた『源氏物語絵巻げんじものがたりえまき』、平家へいけ繁栄はんえいいのって厳島神社いつくしまじんじゃ奉納ほうのうした『平家納経へいけのうきょう』などが有名ゆうめいである。海上かいじょううか厳島神社いつくしまじんじゃ社殿しゃでん様式ようしきは、平氏政権へいしせいけんのころにつくられたもので、現在げんざい建物たてもの再建さいけんであるが、様式ようしき当時とうじ姿すがたつたえている。

また、絵画かいがでは『鳥獣戯画ちょうじゅうぎが』が成立せいりつした。動物どうぶつ擬人化ぎじんかして面白おもしろおかしくえがいており、日本にほん漫画文化まんがぶんか元祖がんそともわれている。

文責ぶんせき黒田秀教くろだひでのり

台日たいにち比較ひかく

七夕たなばた婚姻こんいん

中国ちゅうごく七夕たなばた伝説でんせつ日本にほんにやってきたのは、奈良時代ならじだいらしい。そして、日本にほんふる伝承でんしょう融合ゆうごうして、平安時代へいあんじだいから日本にほん七夕たなばたという風習ふうしゅうができていった。台湾たいわん中国ちゅうごく日本にほん七夕たなばたは、基本的きほんてきなストーリーはおなじである。では、あまがわわたるのは織女おりひめだろうか? 牽牛けんぎゅうだろうか。

じつ日本にほんでは、あまがわわたるのは牽牛けんぎゅうである。これは奈良なら平安時代へいあんじだい日本にほん婚姻形態こんいんけいたい理由りゆうである。中国ちゅうごくではふる時代じだいから、女性じょせい男性だんせいいえとついでいった。しかし、日本にほんでは、男性だんせい女性じょせいいえかよったのである。こういう婚姻形態こんいんけいたいを、妻問婚つまどいこんという。

男女だんじょとも基本的きほんてき自由恋愛じゆうれんあいであったが、つま両親りょうしん許可きょか必要ひつようであった。だからこそ、男性だんせい和歌わかによって女性じょせいられなければならなかったし、女性じょせいいやがれば、男性だんせいはあきらめるしかなかった。

また、こういう婚姻形態こんいんけいたいであったから、離婚りこんという概念がいねんもあまりなかった。男性だんせいなくなったら、自然しぜんえんれたとされていたのである。

余談よだんだが、日本史上にほんしじょうでは政治せいじおこなった女性じょせい何人なんにんてくるし、そもそも最高神さいこうしん女神めがみである。豊臣秀吉とよとみひでよし源頼朝みなもとのよりとものように、正妻せいさいには生涯しょうがいあたまがらなかった権力者けんりょくしゃおおい。このように日本にほん女性じょせいも、じつ従順じゅうじゅんというだけではないのである。

確認かくにんしてみよう】

いちつぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

1. 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじは(a. 最澄さいちょう b. 空海くうかい c. 空也くうや)がひらいた寺院じいんである。

2. 平安時代へいあんじだい密教みっきょうによってひろまった(a. 葬式そうしき b. 権現浄土ごんげんじょうど c. 加持祈祷かじきとう)がさかんにおこなわれた。

3. 国風文化こくふうぶんかまれてくると、男性貴族だんせいきぞく装束しょうぞくとして(a. 十二単じゅうにひとえ b. 束帯そくたい c. 着物きもの)が誕生たんじょうした。

4. 藤原頼通ふじわらのよりみち建立こんりゅうした(a. 金剛峰寺こんごうぶじ b. 東寺とうじ c. 平等院びょうどういん)は、鳳凰堂ほうおうどう有名ゆうめいである。

5. 紀貫之きのつらゆき編纂へんさんした(a. 古今和歌集こきんわかしゅう b. 白氏文集はくしもんじゅう c. 懐風藻かいふうそう)は、はつ勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうである。

つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

6. 空海くうかい嵯峨天皇さがてんのう、(   )とともに日本三筆にほんさんぴつばれる能書家のうしょかであった。

7. (   )によって、神道しんとう仏教ぶっきょう隷属れいぞくするようになっていった。

8. 国風文化こくふうぶんかによって貴族きぞく邸宅建築様式ていたくけんちくようしきとして(   )が誕生たんじょうした。

9. (   )がいた『源氏物語げんじものがたり』は日本古典文学にほんこてんぶんがく傑作けっさくとしてたか評価ひょうかけている。

10. 平泉ひらいずみには(   )によって、黄金おうごんかためられた中尊寺ちゅうそんじ金色堂こんじきどうつくられた。

さんつぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

11. 平安時代へいあんじだい仏教ぶっきょう変化へんかについてまとめてみよう。

12. 浄土教じょうどきょう陰陽道おんみょうどうさかんになった背景はいけい説明せつめいしてみよう。

13. 平仮名ひらがな片仮名かたかなちがいは、どういうものだろうか。

14. 菅原道真すがわらのみちざね北野天満宮きたのてんまんぐうまつられたのはどうしてだろうか。

15. 国風文化こくふうぶんか誕生たんじょうした経緯けいいをまとめてみよう。

参考文献さんこうぶんけん

大津透おおつとおる道長みちなが宮廷社会きゅうていしゃかい日本にほん歴史れきし06)』、講談社こうだんしゃ、2001ねん4がつ

保立道久ほたてみちひさ平安時代へいあんじだい日本にほん歴史れきし【3】)』、岩波書店いわなみしょてん、1999ねん11がつ

宮崎博史みやざきひろし神道史概説しんとうしがいせつ』、そうよう、2000ねん2がつ

辻善之助つじぜんのすけ日本文化史にほんぶんかし 第二巻だいにかん平安時代へいあんじだい』、春秋社しゅんじゅうしゃ、1969ねん11がつ