日本文化
第一章 日本の起源
第一節 日本人の形成と言語
(一)日本列島と日本人
太古の日本列島 ユーラシア大陸の東の海上に、弧状の日本列島がある。今から約1万年前、更新世の氷河期まで、日本列島は北がシベリアと、南が中国大陸とつながっていて、南北から人間やナウマン象などの動物が大陸から渡ってきている。氷河期が終わって海面が上昇すると、日本列島は大陸と切り離されて、現在の形になっていった。
日本人の祖先 考古学上では、日本列島の最古の住人は更新世の時代までさかのぼる。このころの住人が縄文人の祖先ではないかと考えられているが、詳しいことは分かっていない。大体は、ユーラシア大陸南方や太平洋諸島などの南方系が祖型になっているだろう。日本人の風習は、農耕儀礼や太陽神崇拝、婚姻形態などで南方系の要素が強いからである。ただし、遺伝子の研究では北方系が起源ではないかとされている。このように日本人の出自はよく分からない。しかし、北方系と南方系との混血であることは、間違いないだろう。
(二)日本語の起源
日本語の来歴 言語学上では、日本語は孤立言語とされている。文法面では、西アジアから北アジアに分布するアルタイ語族に属しているらしい。しかし一方で、音韻面では台湾から東南アジア、太平洋諸島に広がるオーストロネシア語族との関係も指摘されていて、統一された学説は存在していない。結局の所、日本語も由来がよく分からないのである。
学習ポイント
1. 縄文・弥生時代の土器と生活
2. 邪馬台国について
3. 中国から日本へ伝わった文化
4. 大和朝廷と古墳・氏族文化
第二節 縄文時代の文化
(一)縄文土器
旧石器 日本の最古の文化とされるのが、旧石器時代である。1949(昭和24)年に群馬県岩宿遺跡で、更新世末期の地層から打製石器が発掘された。これによって、日本にも旧石器時代が存在したことが明らかになった。
縄文土器の特徴 日本で発見された最古の土器は、紀元前1万5000年ごろのものである。中国湖南省からは紀元前1万8000年という世界最古の土器が発見されている。日本が大陸と地続きだった頃に、人類は土器と一緒にやってきたのかもしれない。このころの土器には、何も模様がない。しかし、紀元前1万年ごろから、模様がつけられている。このころから紀元前3世紀ごろまでの土器は、縄目で装飾が施されているので、縄文土器と呼んでいる。この縄文土器を使っていた時代が縄文時代である。
縄文土器は粘土の紐を積み上げて作られていて、600〜800度の熱で焼かれている。だから、黒ずんだ色をしていて、もろい土器である。後期になると、甕形、壺形などの様々な形のものが作られるようになった。こうした土器は、主に食物の保存や料理に使われていたらしい。
(二)縄文時代の生活
縄文時代の生計 また、縄文時代のものとして、石槍や石斧、石鏃などの磨製石器が発見されている。そして、食べた貝などを捨てた貝塚も縄文時代の特徴で、このころの日本人は、採集経済を営んでいたのである。
ただし、縄文時代晩期の田も発見されていて、稲作がもう始まっていることが分かっている。米は中国の南部から九州地方に伝わったと考えられている。ただし、このころは低湿地に作った湿田で、灌漑施設を持つような大規模な水田は、次の弥生時代にならなければ出現しない。
縄文人 発掘された人骨によると、成人の平均死亡年齢は30歳ほどであった。また、頻繁に飢饉にあったようで、生きるだけで大変な時代だったようである。縄文人は地面を掘り下げて、その上に屋根をかけた竪穴住居に住んでいた。極めて貧しい生活であったため、貧富の差や身分の別はなかったようである。装飾品である玉飾りや黒曜石などの分布から、すでに日本列島の各地で、かなり広い範囲で交易があったことが分かっている。
縄文時代の信仰 集落からは環状列石などの祭祀を行った跡も発見されている。当時の信仰は、森羅万象に霊魂が存在すると考える原始的なアニミズム(精霊信仰)であったらしい。祭祀に利用したと思われる土偶という土製の人形も発見されている。また、死者の埋葬では、抱石葬が行われていた。これは死霊が復活しないようにしたのではないかと思われる。こうしたアニミズムや死体への嫌悪感は、後に日本土着の信仰である神道へと発展していったと考えられる。
第三節 弥生時代
(一)弥生土器
縄文から弥生へ 紀元前3世紀ごろから2世紀前後までを弥生時代という。ただし、縄文文化から弥生文化への移行は、九州地方から始まり、次第に東へ広がっていく。だから、東北地方や北海道では5世紀から7世紀ごろまで縄文文化が続いている(続縄文文化)。また、沖縄では貝類などを採集する独特の文化が行われていた。
弥生土器の特徴 弥生土器は縄文土器と違って、1000度くらいの高温で焼かれた薄くて固いもので、薄茶色である。装飾はあまりなく、簡単な幾何学的な模様が施されているだけである。形も整ったものになっていって、おそらくは回転台を使って作成している。縄文土器に比べて、簡素ではあるが、技術水準は向上しているのである。
弥生人 こうした新しい文化は、中国や朝鮮半島からやってきた北方系の人間が持ってきたものだと考えられている。縄文人は人種的に南方系であったが、弥生は、その縄文人と新たにやってきた北方系との混血だと考えられるからである。ただし、民族が交替するほどの変化は確認されていないし、中国の史書にも記録されていない。
(二)弥生時代の生活
弥生時代の生計 この弥生時代には水稲耕作が普及し、採集経済から農耕経済へと変わっていった。静岡県の登呂遺跡では大規模な水田遺跡が発見されており、後期になると鉄器なども利用されている。青銅器は祭祀の道具であったようだが、具体的な意味は分かっていない。なお、日本には、青銅器と鉄器は同じころに伝来したようである。だから、青銅器は実用の工具としては、ほとんど使われていない。
弥生時代の集落 初期は平地に作られたが、後になると、丘陵に高地性集落や環濠集落が作られていった。これは軍事的性格が強く、弥生時代の後期には戦乱があったと考えられている。有名な遺跡として、佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。丘陵に作られていて、祭祀に使われたらしい建造物を中心に作られた環濠集落である。米などの食物を高床倉庫に貯蔵していたようで、現在に伝わる伊勢神宮の神明造りや出雲大社の大社造りは、この高床倉庫が発展したものとされている。
弥生時代の信仰 日本の祭りには農耕儀礼に関係するものが多く、稲作の普及とともに形成されていったとも考えられる。日本の異称「瑞穂の国」は、「稲が豊かに実る国」という意味である。埋葬方法も全国的には伸展葬であるが、九州北部では甕や壺に遺体を入れる甕棺墓が作られている。甕棺の中には副葬品として銅鏡やガラス玉などが入れられている場合もあり、貧富・身分の差があったことが分かる。
第四節 邪馬台国と建国伝説
(一)邪馬台国
古代の記録 日本についての記録は、中国の『論衡』や『山海経』に見えるのが最古である。このころの日本は「倭」と呼ばれていたらしい。『論衡』などによると、古代の倭人は周王朝に薬草などを献じていたらしい。中国の越の人と並んで書かれていることから、古代中国では、日本は中国の近くにある南国だと思われていたようである。
また、『後漢書』東夷伝によると、57年に「倭奴国」の使者がやってきて、光武帝が印綬を授けている。この印綬は、1784(天明4)年に福岡県志賀島から発見された「漢委奴国王」印だとされている。
このころから、中国も倭は東にあるということが分かっていたようで、朝鮮半島の楽浪郡の海中にあると書かれている。また、倭は統一国家ではなく、100以上の小さな国があったらしい。
邪馬台国と女王卑弥呼 『三国志』魏志東夷伝倭人の記述を、日本では「魏志倭人伝」と呼んでいる。そこに描かれている日本の姿を紹介しよう。
2世紀後半、倭国大乱という大きな戦乱が続いた。そこで諸国は女王を共立して内乱を収めた。これが邪馬台国の女王卑弥呼である。卑弥呼は巫女であり、鬼道によって政治を行い、弟が補佐していた。卑弥呼は239年に魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号を賜った。卑弥呼の死
後に男が王になると、再び内戦になったので、卑弥呼の親族の壹与を女王にした。
邪馬台国論争 邪馬台国の場所が、大和にあったのか、それとも九州地方にあったのかが、日本古代史上最大の謎である。議論は活発であるが、近年では大和説が有力になっている。また、卑弥呼の正体も、7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛が有力視されている。事績が類似していることや、倭迹迹日百襲媛の墓とされている箸墓古墳が、年代や規模の点で卑弥呼の墓と一致しているからである。
邪馬台国の風習 魏志倭人伝によると、男は皆刺青をしていて、人々は皆朱などを体に塗っていた。服は布を結んでいただけで、髪も男は結っていたが、女はざんばら髪だった。また、大事なことは占いによって決めていた。非常に土俗的な生活であるが、しかし一方で、治安は良く、人々の性質も素直で、80歳以上の長命のものもいた。また、葬礼では、10日ほど哭泣し、そして肉は食べず、周囲の人は酒を飲んだり歌舞をしていた。
倭人の風習の中で目を引くのは、礼儀作法として、倭人が柏手を打っていたことである。この風習は現在でも神社に参拝する時の作法として残っている。
(二)古代の伝承
神武天皇 日本の初代天皇は、神武天皇という。『日本書紀』や『古事記』に描かれる日本の建国神話は、次の通りである。
伊弉諾尊と伊弉冉尊という夫婦神が8つの島を生んだ。日本の別称「大八島」は、この8つの島のことである。この二人が生んだ太陽神の天照大神は、高天ヶ原という神々の世界に住んでいた。地上を治めるため、孫の瓊瓊杵尊を高千穂(現在の宮崎県)に降らした。これを天孫降臨という。神武天皇は瓊瓊杵尊の曾孫として生まれた。日本の西端である九州ではうまく全土を統治できないので、東へ遷ることにした。苦戦を重ねるが、神々の助力もあって、遂に大和に入ることに
成功した。そして、紀元前660年正月に、大和の橿原で即位した。これを神武東征という。
これは伝承であり、現在の歴史学では、9代開化天皇までは非実在説が強い。日本の建国について、具体的なことは分からないという、今後も明らかにすることは難しいだろう。
倭建命 日本人の美意識として、「滅びの美学」が挙げられる。日本史上で英雄と呼ばれる人物は、皆悲劇的な死が多い。こうした悲劇的英雄像は、倭建命の伝説に始まる。ここではより説話的である『古事記』の倭建命伝説を見てみよう。
倭建命は、12代景行天皇の皇子として誕生した。もともとの名前は小碓命である。武勇に秀でていたが、あることから兄を殺してしまったために、父の景行天皇に嫌われてしまった。そして、小碓命は、九州の熊襲建を征伐するよう命じられて、困ってしまった。そこで叔母(天照大神を祀る女性皇族)の倭姫命に相談した。すると倭姫命は小碓命に女性の服を与えた。そこで小碓命は女装して熊襲建の宴会に忍び込み、熊襲建を切り殺した。熊襲建は死ぬ前に小碓命の武勇を賞賛して、自分の名前「建」を小碓命に献上した。こうして小碓命は倭建命と呼ばれるようになった。
その後、倭建命は西国を平定して大和に戻り、弟橘比売と結婚した。しかし、すぐに東国の平定を命じられた。倭建命は「父は自分を殺そうとしている」と言って悲しみ、再び倭姫命に相談した。そこで倭姫命は、天叢雲剣という神剣と袋を渡した。相模(現在の横浜県)で敵に騙されて炎に囲まれた時、袋を開けると火打ち石があった。そこで天叢雲剣で草を刈って、火を点けて敵を焼き殺すことに成功した。これ以後、天叢雲剣を「草薙剣」という。
その後、船で上総(現在の千葉県)に行く途中、海の神が嵐を起こし、船が進めなくなった。そこで妻の弟橘比売が夫を助けるために入水すると海は静かになり、7日後に弟橘比売の櫛が海岸に流れ着いた。倭建命は妻の死を悲しみながらも東国を平定して、尾張(現在の愛知県)
に着き、そこで美夜受媛と結婚する。倭建命は草薙剣を美夜受媛に預け、伊吹山の神を素手で征伐しようとしたが、神によって大氷雨が降らされて、倭建命は病気になってしまい、故郷の大和に戻ろうとした。しかし、途中で力尽き、大和を慕う歌を詠んでから息を引きとった。そして、倭建命は白い鳥になって、大和の方向へ飛んでいった。
こうした伝説は大和朝廷が東西を平定していく時、そこで活躍した複数の人間の業績を一人にまとめたものではないかと言われている。
三種の神器 説話中に登場する草薙剣は、現在は愛知県の熱田神宮の神体である。これと三重県の伊勢神宮の神体である八咫鏡、皇居にある八尺瓊勾玉が、三種の神器である。これは天孫降臨の時に、天照大神が瓊瓊杵尊に与えたものである。鏡と剣は複製品が皇居に置かれており、三種の神器を保有するものが正当な天皇とされていて、現在も皇居賢所に奉納してある。
第五節 古墳時代
(一)大和朝廷
大王 日本は大和を中心にして、九州から関東地方にかけて統一されていった。この統一政権は大和朝廷で、大和朝廷は大王(後の天皇)を頂点とした、豪族の連合政権であった。
氏姓制度 大和朝廷による統一が進んでいくと、政治体制も整備されていく。その一つが、氏姓制度である。
「氏」とは、男系の血縁関係による名前で、一族の統領である氏上を中心とした同族集団である。「氏」は葛城・蘇我のように地名から取ったものもあれば、物部(軍事・祭祀担当)、中臣(祭祀担当)、忌部(祭祀担当)のように職能から取ったものもある。
「姓」とは家柄を表す称号で、「臣・連」というものもある。「臣」とは葛城・蘇我などの有力豪族で、「連」は物部・大伴などの職能で朝廷に仕えているものを指す。さらに「臣」「連」の
有力者は「大臣」「大連」に任命されて、中央の国政を担当した。
なお、「臣」は始祖が皇族、「連」は始祖が神ということになっている。つまり豪族連合であった大和朝廷は、共通する神話大系によって連結していたのである。
ところで、日本の天皇は今も姓氏を持たず、東アジア社会の中では独特である。これは、そもそも日本では天皇が「氏姓」を与える存在だったからである。
(二)古墳
前方後円墳 3世紀ごろから6世紀にかけて、大和朝廷の勢力圏に巨大な墳墓が作られていった。そこで古墳時代と呼んでいる。古墳の形状は様々だが、代表的なのは前方後円墳である。
前方後円墳は巨大なものが多く、最大のものは5世紀に作られた仁徳天皇陵(大仙古墳)で、面積だけなら世界最大の墓と言われる。遺体は後円部に埋葬されていて、前方部は祭祀を行った場所だと言われるが、詳しいことは分かっていない。
こうした巨大な古墳は、古代の天皇や皇族の墓とされている。だから、発掘や調査が禁止されているので、実際には誰の墓であるかは不明であるものが多い。
埴輪 古墳の副葬品として、埴輪という土器が有名である。埴輪の形状は、人型・武器型・馬型・家型などが様々ある。こうした土器は、初期は弥生土器の延長である土師器であったが、中期以降は朝鮮半島から伝来した須恵器に変わっていった。須恵器は灰色で固いのが特徴である。
(三)大陸文化の伝来
帰化人 大陸から日本にやってきて土着した人々を帰化人(渡来人)という。こうした人々によって様々な大陸文化が日本にもたらされた。
漢字 この古墳時代に漢字が伝来したらしい。『日本書紀』によると応神天皇(4-5世紀?)の時代に、朝鮮半島の百済から王仁という学者が『論語』と『千字文』を伝えたという。
なお、日本における最古の漢字使用例は、埼玉県から出土した稲荷山古墳出土鉄剣銘文である。紀年から471年とされている。所有者であった乎獲居という人物が仕えていた獲加多支鹵大王とは、雄略天皇(5世紀)とされている。また、始祖の「意富比垝」は8代孝元天皇の皇子「大彦命」との関係が指摘されている。基本的に漢文で記されているが、人名は音訳している。
機織 『日本書紀』には他にも、やはり応神天皇の時に中国の呉地方から機織がやって来たという記述がある。日本の民族衣装である着物を「呉服」ともいうのは、これが理由である。
(文責:黒田秀教)
❀ 台日の比較 ❀
新石器時代の台湾と日本
台湾も更新世のころまでは大陸と地続きだった。このころに人類が大陸から渡ってきたらしい。旧石器文化に属する台湾最古の長浜文化では、打製石器や骨角器が発見されている。
新石器時代の十三行文化や円山文化(紀元前2800-前500ごろ)と、時代が大体同じ日本の縄文文化とを比べてみよう。
まず、台湾の方が先に金属器を使っていた。また、中国の貨幣も発見されていて、文明化は台湾の方が先だったらしい。また、稲作などの農耕文化も、台湾が先だったようである。これは中国との位置関係が理由だろう。東アジア社会では、日本は最も辺境にある。古代の中国と日本との往来には、厳しい航海が必要であった。そのため中国大陸の文明が日本に伝わるのは、最後になりやすい。
しかし一方で、よく似た点も多い。たとえば風葬や抜歯、土製の人形などの習俗である。もちろん、こうした原始的習俗は世界中に見られるものだが、当時すでに中国大陸では行っていない。
また、貝塚などの古代のゴミ捨て場も興味深い。島国では、海の産物が食料として重要になのである。
【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
1. 縄文時代は(a. 農耕経済 b. 貨幣経済 c. 狩猟経済)が主体で、土器に食料を保存していた。
2. 弥生時代には(a. 青銅器 b. 鉄器 c. 石器)が道具として利用されていた。
3. 邪馬台国の女王である卑弥呼は(a. 鬼道 b. 法律 c. 軍事力)によって政治を行っていた。
4. 漢字は(a. 縄文時代 b. 弥生時代 c. 古墳時代)にはすでに日本に伝わっていた。
5. 古墳時代には(a. 須恵器 b. 弥生土器 c. 縄文土器)が使われていた。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
6. 日本列島は( )のころは大陸と地続きで、このころ人類や様々な動物がやってきた。
7. 邪馬台国について記述している( )は、古代の日本人の風俗を知るための貴重な資料である。
8. 前方後円墳には巨大なものが多いが、最大のものは( )である。
9. 全国を統一していった大和朝廷は( )を頂点にしていた連合政権であった。
10. 古墳の副葬品として、人型・馬型などの様々な形式を持つ( )という土器が有名である。
三、次の文章を読み、自由に答えなさい。
11. 縄文土器と弥生土器との違いについてまとめてみよう。
12. 古代における中国と日本との交流についてまとめてみよう。
13. 古代日本での印綬についてまとめてみよう。
14. 大和とは、もともとは今の奈良県の地域のことであった。しかし、日本の異称にもなっているのはどうしてなのか。
15. 氏と姓との違いについてまとめてみよう。
参考文献
岡村道雄『縄文の生活誌(日本の歴史01)』、講談社、2000年10月
寺沢薫『王権誕生(日本の歴史02)』、講談社、2000年12月
熊谷公男『大王から天皇へ(日本の歴史03)』、講談社、2001年1月
吉村武彦『日本社会の誕生(日本の歴史【1】)』、岩波書店、1999年9月
黒板勝美『更訂 国史の研究 各説上』、岩波書店、1932年
辻善之助『日本文化史 第一巻 上古〜奈良時代』、春秋社、1969年10月
宮崎博史『神道史概説』、そうよう、2000年2月